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五輪書 水之巻 全文(原文・現代語訳・註解)

太刀の握り方さえも解説する超入門篇から高度な技法まで、他流でいえば「表」から「奥」まで、武蔵流太刀道を分りやすく解説する水之巻。戦闘術・殺傷術を学ばんとする者への具体的指南あり。本巻内容は以下のごとし。

 


1 水之巻序 水之巻の前文
2 心の持ち方 (兵法心持の事)
3 目つき・顔つき・姿勢 (兵法の身なりの事)
4 観と見、二つの眼付け (兵法の眼付と云事)
5 太刀の持ち方 (太刀の持樣の事)
6 足のつかい方 (足つかひの事)
7 五方〔ごほう〕の搆え (五方の搆の事)
8 太刀の軌道 (太刀の道と云事)
9 表第一 中段の搆え (五つの表、第一の次第の事)
10 表第二 上段の搆え (表、第二の次第の事)
11 表第三 下段の搆え (表、第三の次第の事)
12 表第四 左脇の搆え (表、第四の次第の事)
13 表第五 右脇の搆え (表、第五の次第の事)
14 搆えあって搆えなし (有搆無搆の教の事)
15 一つ拍子の打ち (一拍子の打の事)
16 二つのこしの拍子 (二のこしの拍子の事)
17 無念無相の打ち (無念無相の打と云事)
18 流水の打ち (流水の打と云事)
19 縁の当り (縁のあたりと云事)
20 石火の当り (石火のあたりと云事)
21 紅葉の打ち (紅葉の打と云事)
22 太刀に替わる身 (太刀にかはる身と云事)
23 打つと当るの違い (打とあたると云事)
24 手を出さぬ猿 (しうこうの身と云事)
25 漆膠の身 (しつかうの身と云事)
26 たけくらべ (たけくらべと云事)
27 粘りをかける (ねばりをかくると云事)
28 体当たり (身のあたりと云事)
29 三つの受け (三つのうけの事)
30 敵の顔を刺す (面をさすと云事)
31 敵の胸を刺す (心をさすと云事)
32 喝咄〔かつとつ〕 (かつとつと云事)
33 張り受け (はりうけと云事)
34 一人で多数と戦う (多敵の位の事)
35 打ち合いの利 (打あひの利の事)
36 一つの打ち (一つの打ちと云事)
37 直通〔じきづう〕の位 (直通の位と云事)
38 水之巻後書

 

1 水之巻序

  

【原文】

 兵法二天一流の心、
水を本として、利方の法をおこなふに依て、
水之巻として、一流の太刀筋、
此書に書顕すもの也。(1)
此道、何れもこまやかに
心のまゝにハ書分がたし。
たとへ言葉ハつゞかざると云とも、
利ハおのづから聞ゆべし。
此書に書付たる所、
一こと/\、一字/\にて思案すべし。
大かたに思ひてハ、
道の違ふ事多かるべし。(2)
兵法の利におゐてハ、
一人と一人との勝負の様に書付たる所なりとも、
万人と万人との合戦の利に心得、
大に見立る所、肝要也。(3)
此道にかぎつて、すこしなりとも道を違、
道の迷ひ有てハ、悪道におつるもの也。
此書付斗を見て、兵法の道に及事にハあらず。
此書に書付たるを、我身にとつて、
書付を見るとおもはず、習とおもはず、
にせものにせずして、
則、我心より見出したる利にして、
常に其身に成て、能々工夫すべし。(4)

 

 

【現代文】

 

 兵法二天一流の心は、水を手本として、利方の法〔勝利法〕を実践するにある。よって、水之巻として、我が流派の太刀筋を、この書に書きあらわすのである。

この道〔兵法の道〕は、何れも思う通りを詳細に書いて表現することはむずかしい。(しかし)たとえ言葉は通じないとしても、(その)利点はおのづから理解されるであろう。

この書に書いていることは、ひと言ひと言、一字一字、じっくりと考えることだ。いい加減な理解では、道を間違えることが多いであろう。

兵法の利〔戦い方〕においては、一人と一人との勝負のように書いているところでも、万人と万人との合戦のことだと心得て、大きく見立てるところが肝要である。

この(兵法の)道に関するかぎり、少しでも道を間違え、道の迷いがあっては、悪道〔誤った道〕へ堕するものである。

この文書を読んだだけでは、兵法の道に達することはできない。この書物に書いてあることを、自分のことだと受け取って、読むと思わず、習うと思わず、模倣物にしないこと、すなわち、(それを)自分の考えで発明した(自分の)利〔戦い方〕にしてしまうことだ。つねにその身〔立場〕になって、よくよく工夫すべし。

 

 

【註解】

 (1)水を本として利方の法ををおこなふに依て

水之巻冒頭の前文である。この巻から、具体的な太刀の技法解説の開始である。

後に見るように、筑前二天流初期のやり方では、地之巻よりもこの水之巻の方を先に伝授したものらしい。それも、入門して間もなく、である。ようするに、水之巻はこの道における入門篇なのである。

さて、「水を本として利方の法をおこなう」というのは、すでに地之巻で、概要が説明してあった。

心を水になすこと、水の心になること。水は、容器の形にしたがって四角になったり円形になったりする。水はわずか一滴であることもあれば、広大な滄海ともなる。方円同一、滴水即大海である。大小自在、形態自由である。このトポロジーが水の心である。

「太刀筋」というのは、現代にも伝わる語で、その語感は生き残っている。太刀の使い方、太刀を使う手筋、素質といったことである。ここでは、武蔵流の太刀の使い方が解説される。五輪書は教本という役割を演じようとするのである。

なお、この《水を本として》について、思い起こされるのは、『孫子』の、
《兵の形は水に象る》(虚実篇)
とあるところであろう。右掲引用部分を読めば――そもそも、戦いの形は水とモデルにすればいい。水の流れは高い所を避けて低い所へと行く。戦いの形も敵の堅固な「実」の部分を避けて隙のある「虚」の部分を攻撃する。水は地形によって流れがきまる。戦いも敵によって勝利がきまる。それゆえ、戦いには定まった勢いなどなく、水には定まった形などない。――という話である。とすれば、武蔵は、それとは言わずに、誰でも知っているこの孫子の有名な章句を喚起しているのであり、まずは、戦闘論の基調を「如水論」として明確にしたのである。

ここは、孫子兵法との無益な比較論をする場所ではない。ただし、一つだけ言えば、その形を変化してきわまりない水という比喩としてなら、武蔵の立論もその同じ軌道上にあるのだが、他方、あまりにも周知の「孫子」の、その通俗理解に対して、以下、随所で異を立てることになろう。武蔵の、あまりにもラディカルな、戦いには固定した定型などないというテーゼは、必ず形式化する通常の兵法論・軍学の傾向にたいする根本的な異物となる。


(2)何れもこまやかに心のまゝにハ書分がたし

太刀の使い方を説明するとなると、いきなり問題にぶつかる。それは、言語表現の問題である。太刀筋のような具体的な話は、それが具体的であればあるほど、言葉で説明するのがむずかしいからである。

言語は一定の抽象性のレベルにあってはじめて他人に伝わる。言い換えれば、言語は、一定の具体性を犠牲にし捨象してはじめて、内容物を他人に手渡せる。しかし、それを受けとった相手は、具体性を割り引かれた内容物を、それぞれにおいて復元しなければならない。その復元が理解ということである。

ところが、その具体性の復元たるや、実は遡及的に構成することであって、人は自分のポジションから思い思いに再構成するしかない。このため、理解できないだけではなく、誤解もまた生じるのである。言うならば、誤解こそが言語伝達の根源的形態なのである。言葉が通じるとは奇蹟のようなものであって、我々は本当はそれに驚かねばならないのである。

しかし、ここで武蔵が語っているのは、そういう言語のシンボリックな次元の限界ということではなく、いわばインストラクションと身体言語の問題なのである。太刀の使い方を指導するような場合、身体を動員することなくして、理解は出来ない。

逆に言えば、この教える/理解するという言語関係は、その中間に「学ぶ・練習する」という非言語的な身体的行為を含んでいる。

たとえば車を運転するという技能は、口で教えられても、理解できない。また他人が運転しているのを見ているだけでは理解できない。実際に自分でハンドルを握って車を運転してみて、はじめて、言われたことが「これか」と理解できる。

実際に自分が実行してみてはじめてわかる、「これか This is it!」と理解できる。そのときの「これ」が、まさしく具体的内容なのである。言語は具体性については、そのような「これ」としか表現できないのである。言い換えれば、上記の遡及的復元的構成とは、まさにこの「これ」の習得なのであり、それは「学ぶ・練習する」という非言語的な身体的行為の所産なのである。

たとえ言葉は通じないとしても、利はおのづから理解されるであろう、と武蔵がいうときの「おのづから」は、言語関係ではなく非言語コミュニケーションとしての身体言語の次元の働きのことを指している。


なお語釈のことでいえば、「言葉はつゞかざると云とも」の部分が問題のようである。

戦前の石田訳は、これを「不充分」としている。これは意訳だが、不充分な語訳である。戦後の神子訳は、これをうけたかたちで、「行きとどかなくとも」と訳しているが、この意訳が原意に近そうだが、やはり行きとどかないものである。

というのも、この場合の古語「つづく」は、つながる・通じる・接する・連絡するの意味であるからだ。
《鳴りとどろきて、おはしますにつゞきたる廊に落ちかかりぬ》(源氏物語 明石)

つまり、ここでの意味は、言葉が続かないということではなく、言葉が相手に通じる・通じないというコミュニケーションの話である。したがって、神子訳の「行きとどかない」では、語意がはずれているのである。

さらに後の大河内訳は、これを「足りなくとも」とするが、これは石田訳と神子訳を下敷きにしたものである。次の鎌田訳は「つづかなくとも」として、原文をなぞっているように見えるが、さにあらず、これは、現代語の「つづかない」という意味に解釈したものである。これを「言葉が続かない」という現代語に訳してしまうと、言葉がつづかない、通じないのである。

またこの部分、細川家本は《兵法の利におゐて》として、他の諸本と同じく「利」という語を用いている。むろん「利」と「理」は当時の用法では互換性がある文字だが、これは「利」と限定した方がよい。「兵法の利」であるし、前に「利方の法」という語句も出たことである。

したがって、ここは「理」ではなく、武蔵的語彙の「利」である。そのことからすると、石田訳が「理」とするのは故なきことであるし、神子訳がこれをさらに「道理」と訳すのにも根拠はない。鎌田訳のように無理に訳さずに、「利」としておいた方がまだマシである。

 

(3)一人と一人との勝負の様に書付たる所なりとも

ここの記述もまた、すでに地之巻で、その趣旨が説明してあった。――剣術一通りの理を定かに見分け、一人の敵に自由に勝つときは、世界中の人の誰にでも勝つのである。人に勝つというのは、千人万人の敵についても同じ意味である。武将たる者の兵法は、小さいものを大きく行うことであり、それは尺のかね〔曲尺〕を使って大仏を建てるのと同じことである。こうしたことは、詳細には説明しがたいが、一をもって万を知ること、それが兵法の利である。(そこで)我が流派のことを、この水の巻に書き記すのである、云々。

武蔵流兵法の心は、水をモデルにする。水は、大小自在、形態自由である。この水のトポロジーが、水の心である。

武蔵によれば、兵法の利においては、一対一の勝負のように書いてあるところでも、万人と万人の合戦の利だと心得て、大きく見立てるところが肝要である。

この一見短絡とみえる論理のことは、既述したように、トポロジカルに読む必要がある。


(4)書付を見るとおもはず習とおもはず、にせものにせずして

この記述は、上記と同様に、教える/学ぶ/理解するのインストラクション・プロセスの問題である。しかし、武蔵はユニークなことを言っている。

すなわち、この教本を読んだだけでは兵法の道に達することはできない。ここに書いてあることを、自分のことだと心得て、読むと思わず、習うと思わず、模倣物にしないこと。言い換えれば、自分の工夫で見出したものにしてしまうのだと。

世間でいうところの「我が物にする」ということであろうが、それがこれほど端的に書かれた例はみたことがない。

まず、「読むと思わず、習うと思わず」というところが面白い。読むと思わず、習うと思わず、であれば、この兵法教本は、教本たることを自己否定してしまう教本である。こんな教本は空前絶後であろう。

《にせものにせず》とあるのは、「贋物にせず本物にして」と現代語訳してしまうのよくある誤訳であるが、この「にせ物」は、真贋のことではなく、似せ物、模倣物のことである。習う=效うと思うな、と言うほどの教本であるから、モデルとなって模倣されることさえ否定するのである。これは、おそろしくラディカルなポジションである。

ようするに、教本としての五輪書は、読むと思うな、習うと思うな、これをモデルとして真似もするな、というとんでもない教本なのである。では、その心はどういうことか。

武蔵によれば、それは《我心より見出したる利にして、常に其身に成て、能々工夫すべし》ということである。教えられようと思うな、ということにとどまらず、さらに進めて、自分が自分自身で発明発見したものにしてしまえ、ということ。

まさしく実はコミュニケーションとは、ディスコミュニケーションのことなのだ。太刀の道の修得は、断絶なくして伝達はありえないのである。

前述の「これか」(This is it!)の話で言えば、前もって与えられた、所与の「それ」はあるもしれないが、自分が達する「これ 」があらかじめ存在するわけではない。自身の修行に先立って存在する「これ」はないのである。

《我心より見出したる利》だというのは、ある意味では、自身が発明者となるようでなければ、いわば自身が流祖となるものでなければ、武蔵流ではないからである。

このあたりのところ、禅家の師承関係に深い伝統があることは言うまでもない。とくに禅家における二祖慧可断臂説話は、ディスコミュニケーションとしての修学がその主題である。
時に神光なる者あり。昿達の士なり。久しく伊洛に居す。群書を博覧して、善く玄理を談ず。毎に嘆じて云く、孔老の教は礼術の風規、荘易の書は未だ妙理を尽さずと。其の年十二月九日夜、天大いに雪を雨らす。神光堅く立ちて動かず、明に到る。積雪膝を過ぐ。磨、憫みて問て云く、汝久しく雪中に立つ、當に何事をか求むべき。光、悲涙して云く、惟願わくは和尚、慈悲甘露の法門を開き、広く群品を度したまえ。磨云く、諸仏無上の妙道は、曠劫に精勤し、行じ難きを能く行じ、忍び難きを能く忍ぶ、豈に小徳小智、軽心慢心を以て、真乗を冀んと欲するは、徒に労し勤苦するのみと。光、磨の誨励を聞き、潜かに利刀を取り、自ら左の臂を断ちて、磨の前に置く。磨、是れ法器なることを知り、名を易て慧可と云ふ。(大川普済『五燈会元』)


――――――――――――


ここで、校異の問題として指摘すべき箇所がいくつかあろう。それは、筑前系諸本と肥後系諸本を截然と区分する指標的差異である。すなわち、一つには、筑前系諸本に、
《此道にかぎつて、すこしなりとも道を違、道のまよひ有てハ、悪道におつるもの也》
とあって、《道を違》《悪道に》とするところ、肥後系諸本には、《道を見ちがへ》《悪道へ》としている。ただし、後者の《悪道へ》は、肥後系円明流系統に《悪道ニ》とする例があるから、助詞表記のゆれとみなすことができる。問題は、筑前系が「道を違」とするのを、肥後系では「見」字を付して「見ちがへ」とするところである。

もう一つは、筑前系諸本に、
《此書付斗を見て、兵法の道に及事にハあらず》
とするところ、肥後系諸本には、《兵法の道には及事にあらず》として、「には」と「に」が前後入れ替わっている。これも筑前系/肥後系を区分する特徴的な相異である。

このように、ここに校異が集中しているので、いわば指標的差異の典型として、これを検討してみよう。

従来の肥後系(とくに細川家本)中心主義的な見方からすれば、筑前系諸本の《道を違》は、たんに「見」字を脱落せしめたもので、正しいのは、「見ちがへ」だということになろう。また、筑前系が《兵法の道「に」及事「にハ」あらず》とするのは、《兵法の道「にハ」及事「に」あらず》とあったのを、誤って前後入れ替えてしまったのだ、ということになろう。

しかるに、すでに各所で述べたように、現存肥後系諸本は門外流出後の写本の末裔なので、それをスタンダードとするわけにはいかない。しかも、筑前系写本において、新たに立花峯均系の越後諸本の発掘があったことにより、そんな肥後系写本中心の見方はできなくなった。

つまり、筑前系諸本の早川系と立花=越後系に共通して同じ表記があるということは、それが筑前系初期からあったということを示す。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝した五輪書に、そのように記されていた可能性が高い。とすれば、筑前系現存写本の当該文言は、寺尾孫之丞前期の相伝写本の表記を伝えているわけで、肥後系諸本の文言よりもプライオリティがある。

かくして、従来の見方は転覆される。すなわち、――筑前系諸本に《道を違》とあるのは、「見」字を脱字したものではなく、逆に、肥後系の《見ちがへ》の方が「見」字を錯入したものである。また、《兵法の道「には」及事「に」あらず》とする肥後系は、もともと《兵法の道「に」及事「には」あらず》とあったものを、「には」と「に」を誤って書き入れたものである、と。

しかも、筑前系のこの《兵法の道「に」及事「にハ」あらず》は、肥後系の富永家本にも同じものが見られる。つまり、肥後系早期にこれがあったのである。富永家本は、肥後系諸本のうち、早期に派生した系統の子孫であって、たまたまこのように肥後系初期の字句表記を残していたとみなしうる。この表記をもたない肥後系諸本は、何れも富永家本の先祖が派生分岐した後の写本である。

また、前者の《見ちがへ》は、内容分析においても、誤記として却下されよう。というのも、「道を見ちがへ」とは、いかにも後人の書記法である。本来は「道を違〔たがへ〕」とあったものである。ようするに、「道をはずれ」ということである。「外道」という語も前に出た通りである。ここは、「悪道におつる」という警告であるので、「道をたがへ」とあったところである。肥後系諸本のケースでは、この文意が見失われて、「見ちがへ」と変異したものである。これは寺尾孫之丞段階での字句ではない。

肥後系におけるこの変異は、その早期に発生したものであろう。というのも、早期に派生した系統の子孫たる富永家本や円明流系統の諸本も、この肥後系の特徴を示すからである。

言い換えれば、門外へ流出した後の早期の写本で、こうした変異が発生したのである。その後、肥後系の写本はこれをそのまま伝写して行ったので、現存写本にそれが殘ったのである。

以上は、筑前系/肥後系を区分する指標的差異をいかに見るかについての、一つのパターンである。他には、同じく両系統を分ける指標的差異について、寺尾孫之丞段階の前期/後期の書記変異というパターンもある。しかし、ここでの校異は前者のパターン、寺尾孫之丞に帰することはできない、門外流出後に発生した誤記なのである。

こうした所見は、我々の五輪書研究以外には見られないことである。したがって、これを読み進めている読者諸君は、まさに研究の最前線に立ち会っているわけである。

 

2. 心の持ち方

  

【原文】

 一 兵法、心持の事。
兵法の道におゐて、心の持様ハ、
常の心に替る事なかれ。
常にも兵法のときにも、少も替らずして、
心を廣く直にして、
きつくひつぱらず、すこしもたるまず、
心のかたよらぬやうに、心をまん中に置て、
心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、
ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。(1)
静なるときも、こゝろハしづかならず、
何と早き時も、心ハ少もはやからず。
心ハ躰につれず、躰ハ心につれず、
心に用心して、身には用心をせず。
心のたらぬ事なくして、心を少もあまらせず、
上の心はよハくとも、底の心を強く、
心を人に見分けられざる様にして、
少身なるものハ、心に大なる事を残らず知り、
大身なるものハ、心にちいさき事を能知りて、
大身も小身も、心を直にして、我身の
ひいきをせざる様に、心をもつ事肝要也。(2)
心の内にごらず、廣くして、
廣き所に智恵をおくべき也。
智恵も心も、ひたとみがく事専也。
智恵をとぎ、天下の利非をわきまへ、
物毎の善悪をしり、
万の藝能、其道々をわたり、
世間の人にすこしもだまされざるやうにして、
後、兵法の智恵となる心也。
兵法の智恵におゐて、
とりわきちがふ事、有もの也。
戦の場、万事せわしき時なりとも、
兵法、道理を極め、うごきなき心、
能々吟味すべし。(3)

 

 

【現代文】


一 兵法、心持ちの事

兵法の道において、心の持ち方は、常の心と変ることがあってはならない。

日常(の時)にも戦闘の時にも、少しも変らないようにして、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず少しもたるまず、心の偏らぬように心をまん中に置いて、心を静かにゆるがせて、そのゆらぎの一瞬も、ゆらぎやまないようにすること。これを、よくよく吟味すべきである。

静かな時でも、心は静かではない。いかに早い時でも、心は少しも早くない。心は体〔たい・身体〕に連動せず、体は心に連動しない。心に用心して、身には用心をしない。

心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、上〔表面〕の心は弱くとも、底の心を強く、心を人に見透かされないようにする。

体の小さい者は、心に大いなることを残らず知り、体の大きい者は、心に小さいことをよく知って、体の大きい者も小さい者も、心をまっ直ぐにして、自分の身体を基準にしないように。そういう心を維持することが肝要である。

心の内が濁らず、心を広くして、広いところへ智恵を置くべきである。智恵も心も、しっかりと磨くこと、それが専〔せん・第一〕である。

智恵を研ぎ、天下の理非をわきまえ、あらゆる物事の善悪を知り、すべての武芸のそのさまざまな道を(広く)経験して、世間の人〔師匠〕に少しもまどわされないようにして、その後、はじめて兵法の智恵となるのである。兵法の智恵においては、とくに違う〔外れる〕ことがあるものだ。

戦場では、万事慌しい時であっても、兵法において、道理を極め、動揺しない心、これをよくよく吟味すべし。

  

【註解】

 

 (1)其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに

心の持ちようである。武蔵の教えでは、太刀の持ち方を教える前に、心の持ち方なのである。

さて、まずは、心の持ち方は常の心と変ることがないように、常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにして…というわけである。

何だ、それでは、「平常心」を説くのに終始する、よくある凡庸な精神論ではないか――という反応もあろう。ところが、五輪書はそんな話はしない。

第一、なぜ常と変らぬ平常心が必要なのか。それは、わかりきったことだ――敵に勝つためである。

凡庸な精神論が説くところでは、平常心そのものが目的みたいな話になるが、平常心そのものが目的ではない。だから、太刀を持つことを教える前に、心の持ち方を教える。それは初歩の初歩であって、目標ではない。このことは、五輪書を読む時、よく頭に入れておかなくてはならないことだ。

太刀をどう持つか、ということと同じレベルで、この心の持ち方が語られるのである。心はもうひとつの道具にすぎない。だから、これを精神論と誤解してはならない。武蔵は、心というものに関してマテリアリスト(唯物論者)なのである。

それゆえに、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず少しもたるまず…というような、物理的表現になるのである。これは比喩ではなく、道具としての心の扱い方、心の用い方を言っているわけだ。

なかでも面白いのは、
《心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに》
とあるところ。「ゆるがせる」というのは、たんに「揺るがす」「動揺させる」という現代語の意味ではなく、ゆたかにゆったりと、という意味合いがある。だから、このゆるがす、ゆるぎというのは、ゆったりとしたゆらぎのことである。

心を静かにゆったりとゆるがせる、そしてそのゆるぎの一瞬もゆるぎやまぬ、そういう状態が心の持ち方である。物を揺るがせていると、どうしても揺るがせる支点というもので出来て、それが動かないことがある。それでは揺らいでいることにはならない。そのゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬように、とは、ゆるぎの不動点そのものまでゆったりとゆるがすのである。

これで、太刀を扱うのと同じレベルの話であることがお分かりだろう。ここでは心は物なのである。こうした「ゆるぎ」は、単なる平常心・不動心を語る言説では、決して出てこない言葉である。

武蔵の五輪書よりも十数年先にできた柳生宗矩の『兵法家伝書』は、常の心について、
《常の心と云は、胸に何事をも残さず置かず、あとははらりはらりと捨てて、胸が空虚になれば、常の心なり》(活人剣)
という。よくある話である。平常心とは無心だというやつである。平常心のこういう通俗解釈には困ったものである。ようするに、何となく解る、という精神の共同体に依存しているだけのことである。

平常心という言葉は手垢が着きすぎて、いまや口にするのが恥かしいほどである。むろん、禅門でいう「平常心」から来ているのだろが、この禅家の平常心〔びょうじょうしん〕は、通俗的教訓としての平常心〔へいじょうしん〕とは根本的に違う、というほどのことは知っておいてよい。

武蔵の場合、「無心」などとは言わない。心は戦闘の道具であり、またそのようなものとして、心は物である。ここが、武蔵が「常の心」というとき、まさに肝腎なのである。

 


(2)心に用心して、身には用心をせず

ここの記述は、ほとんど現代語訳を要しない。そのまま原文を読めるであろう。またその方が、武蔵の語り口に直かに接することができるし、これが諸君に「つづく」(通じる)かどうか、それもまた実験である。

蛇足に等しい若干の語釈を加えるなら、まず、「躰」〔体・たい〕は、ここでは心に対立する概念である。もともと「体」は、本体という意味であり、「用」〔ゆう〕という働き・作用の概念に対立するものである。このように、心を体に対立するのは、心が伝統的な「心」〔しん〕ではなく、心〔こころ〕というごく平凡な口語的概念になっているからである。したがって、「体」はここでは、身体という日常言語の意味へと降下している。

   《心に用心して、身には用心をせず》
というあたりも面白い。剣術の教本なら、まず身体に注意することを教えるだろう。ところが、身体に意を用いるより、まず心に用心しろというわけだ。このあたりも常識的な教説をひっくり返している。

柳生宗矩『兵法家伝書』には、いわゆる無刀取りについて、取る事をはじめから本意とはしないこと、間の積りをよく心得るためだ、敵とわが身の間にどれ程あれば、敵の太刀が当たらないという事を見積もるのだ、という。

この間の積りということは、一般的に言われることである。このような思考環境では、武蔵の《心に用心して、身には用心をせず》というテーゼは、際立って異質であろう。

また、肥後兵法書には、その間の積りを、《間を積心あれバ、兵法居付もの也》として、批判している。しかしその前に、《大形は、我太刀人にあたる程の時は、人の太刀も我にあたらんと思ふべし。人をうたんとすれば、我身をわするゝものなり》とあって、攻撃の最中、わが身に太刀の当たるのを忘れるな、という教えを述べる。すると、これはまた、《身には用心をせず》という五輪書の趣旨とは違う話である。

したがって、五輪書の《心に用心して、身には用心をせず》は、ある意味では後継をもたない孤立した教義である。武蔵の門流でさえ、これを敷衍するものがないのである。

さて、五輪書の教えに戻って、続いては、

   《上の心はよはくとも、底の心を強く》
ともいう。「上の心」「底の心」とは何か。どうやら武蔵によれば、「心」は上(表面)と底に分裂しているという心的モデルの図式のようである。そこから表面の方を弱くして、底の方を強くするという、心の操作を語る。

だから、本心は奥に潜んでいて、その本心を強化しろ、と武蔵が言っているのだというような解釈は間違いである。ここでは、上も底も二つの心を操作するポジションを語っているのである。すると、この二つの心を操作する心は、どこにいるのか。どこにもいないのである。場所をもたないのである。主体とは本来、場所なきものである。

  《心を人に見分けられざる様にして》
つまり、心を人に見透かされないように…というのは、心は内面のことだと思っていると間違う。人の心ほど外面的なものはない。したがって、武蔵において心が道具である以上、この外面に露呈した心を道具として使えるということになる。

 


こうした五輪書の思考からすると、肥後兵法書の対応箇条「心持の事」は、まったく内容が薄い。

つまり、心の持ち方について、まず、「めらず、からず」という。この「める」「かる」は、「めりかり」という語にあるごとく、漢字で書けば「減る」「上る」ということ、つまり気勢が縮退する、高揚することである。――異本に、この「からず」を「かゝらず」に作るのは誤写。「める」「かる」という語を知らぬ者のようである。――「め(減)らず、か(上)らず」は、気持ちが消極的になるのでもなく、積極的になるのでもないということ。そこまでは、まあよかろう。

次の「たくまず、おそれず」となると、これはいかがか。「たくむ」は計略を仕懸ける積極性、「おそれる」は逆に敵を恐怖する気分の縮退である。五輪書は、いわば「たくみ」満載の兵法書であるから、「たくまず、おそれず」というポジションそのものが武蔵的ではない。

このあたり、五輪書本条では、前に、《心の持様ハ、常の心に替る事なかれ。常にも兵法のときにも、少も替らずして、心を廣く直にして、きつくひつぱらず、すこしもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中に置て》とあって、心の物理学を語り、常の心と変わりなくあれ、というわけである。肥後兵法書では話がズレている。

また肥後兵法書には、「意の心をかろく、心の心を重く」とある。これは、五輪書にはない文言で、本条では《上の心はよハくとも、底の心を強く》にやや類似がみられるところだが、それにしてもこれは、《心を人に見分けられざる様にして》という文脈である。

また、右掲のごとく、同書の別の一條に「残心放心の事」とあって、武蔵以後の思考の特徴が示されているところである。

すなわち、常の時は、「意」の心を放ち、「心」の心を残す。これに対し、戦闘時、敵を打つ際には、「心」の心を放ち、「意」の心を残すという。こうした「意/心」の思弁図式は、もちろん五輪書にはないもので、後に肥後武蔵流で発生した新義である。

五輪書の教えには、そんな常時/戦時の心の使い分けはない。むしろ、《心の持様ハ、常の心に替る事なかれ。常にも兵法のときにも、少も替らずして》と明確に述べている。

肥後兵法書の「心持の事」には、「心を水にして、折にふれ、事に應ずる心なり。水に碧潭の色有。一滴も有、滄海も有。能々工夫すべし」とある。地之巻に記す水之巻概説の文言を流用して、話がいわば心法論へ変形されている。もとより、これが「心持の事」だとすれば、五輪書本条の強い内容とは違って、まさに軟弱で稀薄な話のなりゆきである。

これは一例だが、五輪書と肥後兵法書を対照させてみれば、武蔵の書きそうもない内容が肥後兵法書には散見される。「心持」といっても、五輪書のそれは、かなりハードな教えである。


次もかなり意表を衝く話である。
《大身も小身も、心を直にして、我身のひいきをせざる様に》

すなわち、武蔵は、体の大小、大男・小男のそれぞれのケースのあることに言及して、身体サイズという、これまたフィジカルな、物理的な話になるのである。

ちなみに、語釈に関してのことだが、この「大身・小身」について、これは社会的身分のことではないか、という質疑があろう。つまり、同じ武家でも、「大身」とは知行高の大きい上級武士で、「小身」とは下級の武士だろうと。

しかし、ここでの文脈では、武蔵は一貫して心と身体の話をしているのであって、社会的ステイタスがどうのという話はしていない。もしこれが社会的ステイタスの高い低いの話なら、ここでは武蔵の言説はたんなる道学者流でしかない。そうではなく、武蔵はフィジカルな身体サイズの話をしているのだと知るべきである。ここでの話は、モラルではなく、ハードなのである。

なぜ、身体の大小が問題なのか。通常、武道なら自分の身体特性を認識するのが先決事項であろう。相手のことより、まず自分がどういうものか、きちんと認識すること。しかし武蔵の話では、まず相手のことを知れということだ。

体のサイズの似たもの同士ならまだしも、たしかに大男は小男のことが理解できないし、小男は大男のことを理解できない。だから、小男は大男のことを、大男は小男のことを、知悉しなければならないとする。身体サイズという物理的条件は、戦闘術においてある意味で絶対的な条件である。それゆえに、自身のサイズを基準にして戦ってしまう。それではいけない。

人は無意識のうちに、自身の身体図式を作りあげてしまっている。まず自身の身体図式を解体し、《我身のひいきをせざる様に、心をもつ事肝要也》、つまり、自分の身体図式を基準とした偏った動きをしないこと、そのように心を維持することが大事だと云うのである。諸個人それぞれの身体図式こそ、偏見の根源である。この根源的シェーマを、訓練によって解体すべきなのである。

これが武蔵のしばしば言う「相手の身になって考える」ということである、つまりその相手を殺すために。

 


(3)廣き所に智恵をおくべき也

ここの記述も、ほとんど現代語訳を要しないであろう。

語釈ということでは、ここでいう「智恵」は、仏教教学でいう智慧から発するが、ここでは、日常言語で用いる智恵である。つまり、単なる知識ではなく、実践的な智恵、「策略」という意味もふくめた智恵である。

兵法の智恵である。心の内が濁らず、心を広くして、広いところへ智恵を置くべきである。智恵も心も、しっかりと磨くこと、それが専〔せん・第一〕である。とはいえ、武蔵は精神修養を目的とするのではない。兵法の智恵を獲得するのが目的である。このあたり、近代、誤解が多い。

広いところへ智恵を置くというのは、狭い了見からではなく、物事を客観的に判断しろ、というほどの意味である。この客観性が実は難しい。人間の判断はいつも、主観的偏見の色眼鏡に左右されているからだ。しかし武蔵は、これを認識論として言っているのではない。敵を倒すためには、どんな時でも、物事を客観的に判断するだけの、「うごきなき心」をもつ必要があるというわけだ。

これを「不動心」と云えばいえなくもないが、武蔵はここでわざとその語を回避している。「不動心」ではなく、「うごきなき心」なのである。

智恵を研ぎ、天下の理非をわきまえ、あらゆる物事の善悪を知ること。――武蔵は何を言いたいのか。天下の理非というところからすれば、公儀政事のことまで、その理非曲直を自分で判断できるようになれ、ということである。これは当時の権威主義的な秩序からすれば、かなり危ない教訓である。武蔵の思想的スタンスを示すところである。

そうして、云う。――すべての武芸のその道々を広く渉って、さまざま経験をすること、世間の人に少しも欺かれないようにして、その後、はじめて兵法の智恵となるのだ、と。

面白いことに、ここで武蔵は、
《世間の人にすこしもだまされざるやうにして》
という。この、世間の人にだまされるな、とはどういうことか。しかも、人にだまされないことが、兵法の智恵を獲得する条件の一つのようなのだ。

もちろん、これは、詐欺にひっかからないよう用心しろ、ということではない。他人を信じるな、という話でもない。五輪書が肥後で書かれたというその執筆環境からすれば、親心があったのかもしれない。武蔵は、上方文化の中で人となった。そんな人物からすれば、見てはおれない、田舎武士の子弟に、《世間の人にすこしもだまされざるやうに》とつい言ってしまう場面もあろう。前に《花をさかせ色を飾り》という話も出ている。

ただし、これは、万事、善悪理非を自分で判断できるようになれ、ということの別の側面である。世間の通念に惑わされるな、ということでもある。「不動心」ではなく「うごきなき心」である。

言い換えれば、他人の判断に頼ることがなければ、人にだまされることもない。あくまでも武蔵は、思考と判断において、他人に依存しない自立した人間になれ、と教えているのである。

こうした言説を見るに、武蔵は、武士の子弟を相手に、武士としての生き方の根本を教えている格好である。これは太刀筋を教える兵法教本としては異例のことである。それだけではなく、武蔵の教えは、当時においては、ある意味で至極古典的な武士の道である。個として自立した武士、主従関係の中にありながら、それを双務契約とする、古き武士の独立したポジション、それを教えるのである。

これが、後世のいわゆる「武士道」とは違う、「武士の道」だということは申すまでもない。それは我身を助け名を助ける道である。権力の集中ではなく分散、集団よりも個という意味では、戦国武士の気風である。戦うのは死ぬためではなく、勝つためだ。兵法の智恵とは、その勝つための道具なのである。
《智恵も心も、ひたとみがく事専也》

智恵を研ぎ、心を磨く。これは、智恵も心も、太刀や鑓と同じく、兵法の道具だからだ。それを日々に研ぎ磨くのである。

もちろん、禅坊主が教えるように、心の修養ができなければ、剣も強くなれないということではない。武蔵の教えは逆である。心を磨くのは、ほかならぬ、その心が「物」であり、戦闘の道具だからだ。大工が不断自分の道具を磨くように、武士は日々武器を磨かなければならぬ。その武器の一つが心なのである。だから、心の修養はそれじたい手段なのである。心法に偏った教えは本末顛倒である。悟り澄ますことは武士の道ではない。

それゆえ、武蔵は兵法の心持について、兵法の智恵ということをかぶせてくる。それは心法主義への歯止めである。

心の内濁らず、水のように清らかであれとは、曇りなき心で物事を客観的に判断できるようになれ、ということである。武蔵が教えるのは、悟り澄ますことではなく、道理を極め、善悪理非を自分で判断できること。ようするに武蔵の教えは、あくまでも合理主義的であり、その合理性のために、心を濁らせるな、と教えるのである。

このあたり、戦前戦後を通じて世間に誤解があるので、あえて言っておいた。武蔵の言のごとく《智恵も心も、ひたとみがく》ことがなければ、五輪書は読めないのである。

 

 


――――――――――――


ここで諸本校異について、指摘すべきところが一つある。すなわち、それは本条末尾、筑前系諸本に、
《戦の場、万事せわしき時なりとも、兵法、道理を極め、うごきなき心、能々吟味すべし》
とあって、《兵法、道理》とするところである。ところが、同じ筑前系でも、早川系の中山文庫本には、《兵法の道理》として「の」字を入れる。また、越後系の猿子家本や澤渡家本も同前である。

他方、肥後系諸本は共通して、これを《兵法の道理》として「の」字を入れる。そうすると、筑前系/肥後系を横断して共通なのは、「の」字を入れるかたちだから、これが古型である。筑前系では中山文庫本や猿子家本等が正しく、他の諸本は、《兵法の道理》の「の」字を脱字したのである、――そういう結論になろう。

ところが、まさにそんな具合には結論できないところが面白いのである。筑前系諸本のポジションを勘案すれば、それとは逆の結論に到るのである。

つまり、諸本の先後をみればよろしい。同じ早川系でも、比較的早期とみなしうる伊丹家水之巻甲本では、《兵法、道理》として「の」字を入れないが、後期写本の伊丹家水之巻乙本では、《兵法の道理》として「の」字を入れる。また、立花=越後系諸本でいえば、「の」字を入れる猿子家本は後期写本であり、したがって写し崩れが多い。同じく、越後村上系の赤見家丙本は《兵法、道理》として「の」字を入れないが、再写本である澤渡家本には、「の」字を入れる。

こうした事情を勘案すれば、筑前系において、立花系・早川系とも、古型は「の」字を入れないものであり、後の写本になって「の」字が現れるのである。

そうすると、筑前系/肥後系を横断して共通すると言えるものが消えてしまった。言い換えれば、《兵法の道理》の「の」字は、筑前系/肥後系の両方で別箇に発生した後発的誤記である。筑前系の本来の字句は《兵法、道理》であり、肥後系の《兵法の道理》とは異なるのである。

とすれば、いかなる結論に至るか。――筑前系の初期形態は、《兵法、道理》の方である。そして、既出例と同様にして、筑前系の初期形態は寺尾孫之丞段階に遡りうるかたちであり、これが古型である。

かくして、上記の結論は転覆される。すなわち、この箇処の古型は、《兵法の道理》ではなく、むしろ「の」字を缺く《兵法、道理》である。肥後系諸本の《兵法の道理》は、筑前系の一部写本と同じく、後になって発生した誤写による衍字である。

以上のように、従来の所見が変更されたのは、越後系諸本の発掘がその契機である。広く諸本を比較照合しなければ判断を誤る、という例がこれである。

肥後系諸本ばかりを見ていては判断を誤ることはもちろんだが、筑前系も従来のように早川系しか知らぬようでは、このケースのように正誤判断を誤る。それゆえ、五輪書研究には、異系統の諸本を広く漁渉して比較照合することが必要なのである。

 

 

 

 

 

3 目つき・顔つき・姿勢

 

【原文】

一 兵法、身なりの事。
身のかゝり、顔ハうつむかず、あをのかず、
かたむかず、ひずまず、
目をミださず、額にしわをよせず、
眉あひにしわをよせて、
目の玉のうごかざる様にして、
またゝきをせぬやうに思ひて、
目を少しすくめる様にして、うらやかにみゆる顔。
鼻筋直にして、少おとがひに*出す心也。
首ハ、うしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、
肩より惣身はひとしく覚え、
両の肩をさげ、背筋をろくに、尻を出さず、
膝より足先まで力を入て、
腰のかゞまざるやうに、腹をはり、
くさびをしむると云て、脇ざしのさやに
腹をもたせて、帯のくつろがざる様に、
くさびをしむる、と云おしへ有。(1)
惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、
兵法の身を常の身とする事、肝要也。
能々吟味すべし。(2)
 

 

 

【現代文】

 

一 兵法、身なりの事

身のかかり〔搆え〕は、顔は、俯〔うつむ〕かず、仰向かず、傾かず、歪ませない。

目を剥くような目つきはせず、額に皺を寄せず、眉の間に皺を寄せて、目の玉が動かないようにして、瞬きをせず、目を少し細めるようにして、のどかな感じのする顔。鼻すじはまっ直ぐにして、頤〔おとがい〕については、少し(前に)出す感じである。

首は、後ろの筋をまっ直ぐにして、頸〔うなじ〕に力を入れて、肩から全身にかけては均斉を心がけ、両肩を下げ、背すじを真っ直ぐにし、尻を出さず、膝より足の先まで力を入れて、腰の屈まないようにして、腹を張る。楔を締めるといって、脇差の鞘に腹を持たせ、帯の弛まないように、楔を締めるという教えがある。

総じて、兵法の身(なり)において、常の身〔日常身体〕を兵法の身〔戦闘身体〕とし、兵法の身を常の身とすること、これが肝要である。よくよく吟味すべし。

 

 

 

【註解】

 (1)身のかゝり

ここから具体的な身体技法の話である。

ここでいう《身のかゝり》の「かかり」とは、体勢、搆えのことである。「門のかゝり」というと、門構えのことである。かくして、《身のかゝり》とは戦闘の体勢のことである。

ここで、武蔵が「身の搆え」とは云わず、「かかり」という語を用いているのは、そのように、戦闘にとりかかる体勢だからであるが、またもうひとつは、ここが入門篇の入口だからである。「かかり」には、入口という意もある。ようするに、とっかかり、手はじめ、というニュアンスも含んでいる。そんな武蔵のポリフォニックな修辞法にも留意されたい。

――おいおい、まだ太刀を持たせてもらえないのかい、という声が聞こえそうだが、残念ながらその前に習い覚えることがある。顔をどうつくるか、全身をどう整えるか、これをマスターしないとまだ初歩の初歩から出ないのである。

太刀は道具であるが、前述のように、武蔵のばあい、人間の身体も心も道具である。心は根本的(fundamental)な道具で、次のステップとして身体の話になるという次第である。

ここでは、「身のかゝり」をどうするか、つまり太刀を持つ手足より先に、顔や全身をどう搆えるかという話である。

身の「なり」というのは、形姿のこと。関西語では「なりが悪い」といった表現で残っている「なり」である。つまりは外面的な体裁のことだが、この外面に現れる諸要素を武蔵は問題にするわけである。

心が内面の問題ではなかったように、むろん身体も内面的なものではない。戦闘身体の可視的体裁をどう整えるか、これは、武蔵の教え方が、徹底して外面に露呈するものを問題にしているということである。


さて、武蔵のいう「身のかゝり」だが、文中では分かりにくそうだから、以下に、箇条書きにして列挙してみよう。
・顔は俯かない、上を向かない、傾けない
・顔を歪めない
・目を剥かない
・額に皺を寄せず、眉間に皺を寄せる
・目の玉を動かないようにして、瞬きをしない
・目を少し細めるようにして、のどかな感じのする顔つき
・鼻すじはまっ直ぐにして、頤には少し前に出す気持
・首は後ろの筋をまっ直ぐにして、頸に力を入れる
・両肩を下げ、背すじをまっ直ぐ伸ばす
・尻を出さず、膝より足の先まで力を入れる
・腰が屈まないようにし、腹を張る

これはかなり具体的な話である。それぞれについて、読者も試してみるといい。こんな顔や姿勢のことですら、実際に体でやってみないことには、わからない。そういうものなのである。


ところで、ここではやはり語釈の点で問題があろう。一つは、諸本に《目をミださず》とあるところ、これは富永家本や狩野文庫本などに記すごとく、《目を見出さず》ということである。

岩波版は細川家本の《ミださず》を変えて「みださず」とするが、このことから戦前から現代語訳は奇怪なことになった。

つまり、この岩波版の「みださず」を、「見出さず」ではなく、「乱さず」と読んでしまったのである。そうして意訳して、「目を(きょろきょろ)動かさない」という誤った現代語訳が生れることになった。これは却下すべき馬鹿げた誤訳である。

それは、戦前の石田訳が、「目をキョロキョロさせず」と訳したのが皮切り、そして戦後の神子訳がこれをそのまま踏襲した。ところが、次の大河内訳と鎌田訳になると、これが「目を動かさず」と変る。これは神子訳の言い換えにすぎないが、ようするに原文《目をミださず》からかけ離れてしまった。「見出さず」が「動かさず」になってしまったのである。これも現代語訳の珍訳の典型である。

「目を見出さず」とはつまり、戦いになると目を剥いて、アグレッシヴな目つきになるが、そんな目の玉が飛び出すような目つきをするな、ということだ。だから、武蔵の肖像で右のようなものがあるが、これはあまりにも武蔵流ではない顔である。

他に、現代語では少しわかりにくそうなのが、「背すじをろくに」という部分である。この「ろく」は、武蔵流ではよく用いられる語であるから、少し立ち入って見ておく。

まず、「ろく」というのは、「陸」の呉音から来たものらしい。もとの意味は、大地のように水平であるということ。現代語でも、「陸屋根」という建築用語があり、これは水平な屋根、ということである。

また、「ろく」は「直」とも書く。つまり、まっ直ぐな、という意味である。そこから、姿形が正しいこと、正立である。「ロクでもないやつ」というのは、まっ直ぐ立っていない人間のことである。

ただし、真っ直ぐといっても、硬直があっては「ろく」ではない。平らかにゆったりとしているのが「ろく」である。かくして、こうしたコノテーションもあわせて、武蔵流の「ろく」は、真っ直ぐという意味である。

――――――――――――


また、ここでは校異の点で問題があろう。若干それを指摘しておきたい。

まず一つは、《眉あひにしわをよせて》という部分、肥後系楠家本は、これを、「しわをよせず」と否定形で書いている。しかし、筑前系/肥後系諸本に共通してある通り、ここは「よせて」が正しい。なぜなら、額に皺をよせず、皺は眉間の方によせた方がよいという教えだからだ。

これは肥後系他本にはない誤記である。では、この点、楠家本のポジションはいかに。この「よせず」という誤記は、越後系諸本のうち、写し崩れの多い猿子家本にそれがある。ということは、これに関するかぎり、楠家本も同じような後発性を示すということである。内容もよく見ないで、楠家本が古いなどとするのは誤りである。

ところで、興味深いのは、数多い粉本の先師武蔵像である。その顔は目を剥いた醜悪な顔つきだが、むろん「うらやかにみゆる顔」どころではない。それをみると、五輪書の教えとは逆なのだが、ことほど左様に、極端に眉間に皺をよせたかっこうである。奇妙なことではある。

もう一つは、ここのタイトル、《兵法、身なりの事》である。筑前系諸本は「の」字を入れないのであるが、肥後系は《兵法の身なりの事》として「の」字を入れる。

肥後系の例外は、田村家本と多田家本である。これらは何れも後期写本であるから、肥後系に「の」字を入れない早期写本があったとは見なしえない。前後の条々を勘案して、整合性のある《兵法、身なりの事》としたもののようである。肥後系では、早期から「の」字が入ったのである。

ところで、肥後系諸本は、前条の「兵法、心持の事」では「の」字を入れないのに、ここでは入れる。いささか恣意的であるが、こうした「の」字の出没は、書写段階でいつも発生することである。

たとえば、《目の玉のうごかざる様にして》の箇処でも、肥後系諸本のうちの、楠家本・富永家本などは、筑前系諸本と同じく「の」字を入れるが、細川家本・丸岡家本・田村家本では、「の」字を落としている。

こうした肥後家諸本の間の表記のばらつきは、門外流出後の写本の子孫だから、あって当然のことだが、ここは細川家本・丸岡家本・田村家本が誤りで、楠家本・富永家が正しい。そういう判定がつくというのも、筑前系諸本との照合が可能になったからである。肥後系諸本だけを見ていては、甲乙正誤の弁別がつかないのである。

またこのように富永家本が正しいということは、すでに一連の校異で見たように、富永家本が早期に派生した系統の子孫であって、肥後系早期のかたちをしばしば保存している「こともある」という一例である。もちろん富永家本自体は後期写本なので、写し崩れがかなりある。この箇処でも、後の《して》という二字を落としている。

次の校異は、以上の偶発的な誤記よりも、ある意味で重要な相異である。すなわち、筑前系諸本に、
《鼻すぢ直にして、少おとがいに出すこゝろ也》
とあって、《おとがいに》と、「に」字を記すところ、肥後系諸本では、《おとがいを出す》として、これを「を」字に作る。

これは、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的な相異である。つまり、筑前系諸本は共通して「に」字を書くのに対し、肥後系諸本は共通してこれを「を」と記す。

筑前系諸本が、吉田=早川系だけではなく、立花峯均系の越後諸本でも、共通して同じ字句を記すばあい、これは筑前系初期からあったものとみることができる。したがって、これの古型は「に」という文字である。

しかし、「頤に」というよりも、「頤を」とあった方が文意がストレートに通りやすい。それは当時の人々も同じだったと見えて、「に」(尓)字を「を」字にあっさり誤読したらしい。これは訂正の意識があったというよりも、たんなる誤読であろう。門外流出後の肥後系初期に、この文字変異が生じた。そうして、以後の写本はみな、ここに「を」字を書くようになったのである。

ところが、寺尾孫之丞段階では、ここは《少おとがい「に」出すこゝろ也》だった。その文意は、「頤〔おとがい〕については、少し前に出すという感じ」ということである。筑前系諸本は、この《少おとがひ「に」出すこゝろ也》という文を正確に伝えたが、肥後系はその早期に、この「に」字を「を」字にあっさり変えてしまったのである。

これも、肥後系諸本だけを見ていては、分らぬことである。しかも、とりわけ現代語の感覚では、「少し頤を出す感じ」という方が分りやすいので、これが「頤を」ではなく「頤に」だったことに気づかない。そのため、これまで誤記が放置されてきた箇処なのである。

これは、現代の言語感覚では、あっさり滑らかに文意が通らず、抵抗のあるところ、そこに古型があったという例である。史料批判も「我身のひいきをせざること」という武蔵の教訓に学ぶのである。   Go Back

 

 


(2)常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事

身の持し方についての心得である。

前に心の持ち方のところで、兵法の道において、心の持ち方は常の心と変ることがないようにすること。常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにすること――とあったが、こんども同様に、兵法の身、戦う身においては、常の身(日常身体)を兵法の身(戦闘身体)とし、その戦闘身体を日常身体とすること、これが肝要であるというのである。

ただし、若干注意すべきことを言えば、これは心ではなく身体のことである。精神論ではなく、道具・武器の一部としての身体の話である。

前に引いた柳生宗矩の『兵法家伝書』は、「常の心」を言うにとどまる常識的なところである。すなわち、「平常心是道」を解説する右掲の箇処で見れば、――道とは何かとの問いに、常の心がそのまま道であると答えられた。まさに究極のことである。これは心の病をすべて捨て去り、常の心となって、病とまじりあっても病ではないという状態である。これは仏法のことだが世俗のことで言えば、弓を射るとき、弓を射るぞという心があれば、弓先が乱れて定まるまい。太刀をつかうとき、太刀をつかうぞという心があれば、太刀先が定まるまい。物を書くとき、書くぞという心があっては筆先が定まるまい。琴を弾くにしても、琴を弾くぞという心があっては曲が乱れよう。弓を射る人は、弓を射るぞという心を忘れて、何事もしていない常の心で弓を射るならば、弓が定まるであろう。太刀をつかうのも、馬に乗るのも、太刀をつかわぬとき、馬に乗らぬときの心で、また物を書くのも、琴を弾くのも、物を書かぬとき、琴を弾かぬときのように、すべて何事もしないときの、常の心になって行なえば、すべてのことは、難なくするすると行くものである、云々――。

心の病とは本来、世俗的執着心のことで、それを去って聖なる境位へ出るばかりか、仏教はむしろ、俗塵に混じって汚れない聖なる境位を説くものであった。そこから凡聖一如、禅家では「平常心是道」というテーゼが出てくる。ついで、これを世俗側から「転用」して、上記の柳生宗矩のような通俗解説が出てくるのだが、これが「常の心」を語る当時の常套句であった。

ところが武蔵は、むろんそれを知っていて、「常の身」を言うわけである。武蔵は当然、寛永九年(1632)の柳生宗矩『兵法家伝書』は知っていて、「常の身」ということを書いているのである。これは柳生宗矩の「平常心論」のパロディとして機能する。言うならば武蔵は、

――常の心と云うなら、常の身ではどうかな。
という具合なのである。

なるほど、心持ちを常の心と変ることがないようにすること、というのは分かる気がするが、常の身(日常身体)を兵法の身(戦闘身体)とすること、というのは難しい。

戦闘のとき身体はアドレナリン分泌でエキサイトしてしまう。その興奮を抑えるのは難しい。まして、戦闘身体を日常身体とすることは、なおさら難しい。なぜなら、「日常身体を戦闘身体とすること」ができないと、戦闘身体を日常身体とすることはできないからだけではない。戦闘身体は凶器としての身体である。こんなものを日常身体にするというのは、まったく難題なのである。

しかし、こんな難題をケロリと言ってしまうのが、武蔵流である。だから話は、不意に武蔵の本質が露呈するところへ走る。

 

4 観と見、二つの眼付け

  

【原文】

 一 兵法の眼付と云事。
目の付様ハ、大に廣く付る目なり。
觀見二ツの事、
觀の目強く、見の目弱く、
遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、
兵法の専也。(1)
敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ずと云事、
兵法の大事也。工夫有べし。
此目付、ちいさき兵法にも、
大なる兵法にも、おなじ事也。
目の玉うごかずして、
両脇を見る事、肝要也。
かやうの事、いそがしき時、
俄にハわきまへがたし。
此書付を覚、常住此目付になりて、
何事にも目付のかはらざる所、
能々吟味有べきもの也。(2) 

 

 

【現代文】

 

一 兵法の眼付けという事

眼の付け方は、大きく広く付ける目である。

「観」〔かん〕と「見」〔けん〕の二つの事(については)、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専〔せん・第一とすべきこと〕である。

敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないということ、それが兵法の大事〔だいじ・真髄〕である。これを工夫してみなさい。

この目付けのことは、少さい兵法〔少数の戦い〕でも、大きな兵法〔合戦〕でも、同じことである。

目の玉は動かずに両脇を見ること、それが肝要である。

このようなことは、急場になって、にわかに会得できるものではない。この文書に書いてあることを覚えて、つね日頃、この眼付けになって、何ごとにも眼付けの変らないところ、それを、よくよく吟味しておくべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)觀の目強く、見の目弱く

目付け、目の付け方である。これも具体的で、かなり懇切な教えである。

さてこの目付け、現代語でも「目付き」と「目付け」は違うのは、承知されていることであろう。前に「身なり」のところで、目を少し細めるようにして、うらやかな顔にみえるような目つき、という話であった。それは自分の目つき・顔つきのことだが、こんどは、対象をどう見るかという具体的な目の付け方の話である。

まず、目の付け方は、大きく広く、である。そしてさらに、武蔵は目の付け方には、「観」〔かん〕と「見」〔けん〕の二つがあるという。話は明解で、分析的である。

しかし、この観見二つが何であるかということになると、若干の迂回説明を要するであろう。

観と見は、むろん仏教用語で、仏家では伝統的に語られてきたことである。観は、坐禅行のおりの観想の観、「止観」「中観」をはじめとして証悟の意であり、辞書的な意味では、心静かに対象を観察し、真実を悟るという具合である。たとえば、空海の詩や文を弟子の真済が編集した『性霊集』に、
《花蔵を心海に観じ、実相を眉山に念ず》(観花蔵於心海、念実相於眉山)
とあるところである。これに対し、「見」の方は、たとえば、四漏〔しろ〕に「欲・有・見・無明」を算えるように、否定的な意味である。道元の『正法眼蔵』に、
《いまいふところの見、またく仏法にあらず》(弁道話)
とあるように、現代語では言えば「見解」「意見」の意味である。仏教では「見」は、誤った見解、謬見の意に用いる。

なお一方で、時代が下ると、能でいう「見」、演者が観衆に与える視覚的効果の意味が現れる。『花鏡』に、
《能の出で来る当座に、見・聞・心の三あり》(比判之事)
とあって、これは仏教用語の「見・聞・心」であるようでいて、その実、換骨奪胎して「見」はヴィジュアルな効果という意となる。かくして、もうすでに、武蔵のいう「見」の意味に近いわけである。

すなわち、通俗解釈として、目で見るのが「見」、心で見るのが「観」といった図式的要約が流布するようになる。たとえば先に挙げた柳生宗矩の『兵法家伝書』も、この種の俗説を導入している。つまり、同書に、
《目に見るを見と云ひ、心に見るを観と云ふ》
というテーゼのあるところである。これに対し、武蔵の教えの方は、そんな甘い図式的抽象的思考ではなく、もちろん「観」「見」二つを、実践的に具体的に語るのみである。

すなわち、目の付け方は、大きく広く、である。これで「観」の意味としては過不足はない。逆に、細かく狭く見るのが「見」である。それが武蔵の「観見論」である。

武蔵が述べているのは、こうだ。――「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専、戦闘術で重要なことである、と。これ以上に何も付け加える必要はないのである。

このシンプルな合理的説明に対して、柳生宗矩の観見二様相の説明は、禅味というより、禅臭いのである。ところが、近代の五輪書解釈において、この柳生流が横行してきたというのが実状である。武蔵を柳生流で読む弊害が生じているのである。言うも愚かなことだが、五輪書は武蔵流に読まなければ五輪書を読んだことにはならない。

さらにもっと劣悪な通俗解釈本となると、観は本質を見抜く目、見は現象(見かけ)に惑わされる目、といったぐあいに、本質/現象の対立図式に還元してしまう。そしてそこから、どんな時代でも物事の本質を見抜く目が必要であり、それゆえ武蔵は現代にも通じる思想家である、といった大笑いの結論を導き出すのである。これはしかし、我々の時代の五輪書読解環境の、嗤えない惨状なのである。

こうした頓馬な解釈本の諸説と逆に、「観」とは、物事に本質も実体も存在しないと悟ること、本質とは、(ヘーゲル流に言えば)現象の現象にすぎない――のであるが、仏教的伝統のなかではこれは初歩的な要点。しかし、こうしたことを、改めて説かねばならないであろうか?


しかし、既成現代語訳では、戦後になって、あきれ返るほどの事態が生じている。《觀見二ツの事、觀の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也》――ここが五輪書のうちでも最も有名な箇処の一つだから、訳者は気合いが入った様子だが、途方もない脱線を演じている。

それが神子訳である。それを見るに、もはや語訳というものではない。解釈文である。しかも誤解釈の陳列である。いわく、――観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第一とし、見、すなわち表面のあれこれの動きを見ることは二の次とせよ。離れたところの様子を具体的につかみ、また身近な動きの中から、その本質を知ることが兵法の上で最も大切である、云々。

そんなことが、どこに書いてあるか。戦前の石田訳と対比すれば、どれほどの脱線が演じられているか、明かであろう。

後の大河内訳は、さすがにそこまでの脱線はせず、前半部分を記しているが、《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事》という後半部になると、「遠いところを的確にとらえ、身近なところの動きから大局をつかむこと」として、神子訳の脱線を踏襲している。また、鎌田訳もその点同じ脱線のふるまいである。

武蔵が言っているのは、――観の目は強く、見の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専、重要なことである、ということである。これは文字通りに読めばよいのであって、現代語訳では、何も余計なことを付け加える必要はない。

それを文字通りに読めず、蒙昧胡乱な文言をかぶせて、武蔵の言説を台無しにしてしまっているのが、これらの現代語訳である。早々に廃棄すべきであろう。

なお、岩波版注記に、《目の付やうは、大キに廣く付る目也》の箇処の「目」について、「衍か」として、衍字の可能性を示唆しているが、それは誤りである。

細川家本しか見ないから、そういう憶測をしたようだが、他の諸本、とくに筑前系まで渉って通覧すれば、そんな憶測の余地はない。この「目」字は、現存写本すべてに記すところである。

上記の既成現代語訳が、書かれていないことを読んでしまう妄想であるのに対し、これは逆に、書いてある文字を見まいとする例である。ただし、後でみるように岩波版は、別の箇処では底本の細川家本にない文字を入れるのだから、その逆のこともあるということである。


(2)敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ず

このあたり、なかなか面白い思考が目白押しである。

まず、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ない、というのである。この知/不見という対比は、観/見に対応したものであるが、少しも敵の太刀を見ない、というのが、意表をつくような刺激的な教えである。

ふつう、どんな武器でも戦闘に及ぶとき、相手の武器の動きを見るはずであり、見なければこちらが危ないはずである。武蔵伝説にも、武蔵は一寸、五分という間合いを見切ったとする。つまり、相手の太刀先を、そんなほんの僅かな隙でかわせたという伝説である。

これは、相手の太刀の動きを、しっかり見ているからできるのではないか、少しも敵の太刀を見ないなどということの正反対ではないか?――というのが、一見したところの感想である。

ところが実際には、速度の早い運動を見切るには、ある特定対象を注視してはならないのである。これは高速運動と、それにともなう視角度狭窄の問題である。つまり、求心性の視野狭窄が起きるのを避ける。

これは、目の玉を動かさずに両脇を見ろ、という武蔵の教えと関係している。つまり、それは視軸を動かさずに視界にあるものを拾うということだが、これは上記のように視点を遠くに措いたときの方が、視界幅が大きい。視界幅員が大きいということは、複数の敵を相手の戦闘には必須のことである。

したがって、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないというのは、注視による求心性の視野狭窄を起さないということ、――具体的な方法として、基本的な視点を遠くに措いて、視界幅員を広くとることである。

むろん、武蔵は、「近くを見るな、遠くを見ろ」というのではない。《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也》というわけだから、ようするに、近くであれ遠くであれ、求心性の視野狭窄を生じる対象注視をするな、ということである。

そうすると、前述の「身なり」にあったように、目は凝視しない、目を少し細めるようにして、のどかな感じのする顔つきになるのである。むろん、このどかな顔つきは、達人の余裕の顔ではなく、武蔵に随えば、初歩的な目の付け方からくる戦闘者の顔なのである。

こういう目の付け方は、急に身につくものではなく、ふだんから練習しておくこと、というわけだ。これも基本の練習なのである。

それゆえ、ここでも同じだが、武蔵は、「対象に捉われるな、状況を全体的に把握せよ」などという一般論を言っているのではない。求心性視野狭窄は教訓を導く隠喩ではない。逆である。

ここでの話は、戦うときの眼の付け方をどうするか、という具体的で合理的な、むしろ物理的な話なのである。いわば、仏教的観法論は、武蔵において、物理学へ変換されているのである。

なお、後の風之巻(他流に目付と云事)には、もうすこし具体的な話が出てくる。

他流では、その流派により、敵の太刀に目を付けるものもあり、または手に目を付ける流派もある。あるいは顔に目をつけ、あるいは足などに目を付けるものもある。そのように、とりわけて特定の部位に目を付けようとしては、肝心なことを見失う心があって、兵法の病というものになる、というわけである。

武蔵流は、目付けといっても、他流のように特定部位に目を付けるようなことはしない、というわけである。

そのわけは――ということで、武蔵が譬えに出すのは、蹴鞠〔けまり〕と放下〔ほうか〕の曲芸である。どちらも、しっかり目を付けることはないけれども、上手に鞠を蹴り、いろんな物を手玉にとることができる。ふだん手にしなれているので、おのづから見えるようになっているのである。

兵法の目付は、だいたいその相手の心に付けた眼である。「観」「見」、二つのことも出てきて、観の目を強くして敵の心を見、その場の位〔状況〕を見、大きく目を付けることを言う。小さく目を付けるなということである。細部に小さく目を付けると、それによって、大きな事を取り忘れ、あちこち目迷う心が出て、確実な勝ちを取り逃がすぞ、というわけである。基本的な論点は、同じである。

――――――――――――

 

五輪書では、そういうことだが、後の肥後兵法書では話が違ってくる。たとえば、目を付けるというのは、昔は色々あったが、今伝えるところの目付けは、たいてい顔に目を付けるのだ、という。

これを見るに、他流のように、手であれ顔であれ、特定部位に目を付けるようなことはしない、という五輪書の論点が消えている。だいたい、武蔵の教えには、太刀を敵の顔に付けろとはあるが、目を敵の顔に付けろとは教えていない。敵の顔に付けるのは、「目」ではなく、「太刀」なのである。

肥後兵法書は、今伝えるところの目付けというが、これでは、まったく武蔵流ではない。むしろ、武蔵の云う、兵法の病というものになる也、である。いったい誰からそんな教えを伝えられたというのか。明らかに教義の変質である。

そのほか、《其目にて見れば、敵の業ハ不及申、兩脇迄も見ゆる目也》というのも、五輪書の《目の玉うごかずして、両脇を見る事、肝要也》という話とは、趣旨がかなりズレている。あるいは、敵に知らするという目あり、意は目に付け、心は付けぬものだ、というあたりも、五輪書には記述のない話であり、武蔵以後の肥後門流における理論の変質がうかがわれるところである。

このあたりは、寺尾求馬助の門流が、独自の展開をみせる過程で、出てきた考えであろう。話の目の付けどころが、五輪書の武蔵流というよりも、どちらかというと、新陰流など他流派の考えに近くなっている。そんな、兵法の病というべき偏向が生じたものらしい。

これも「昔は色々あったが、今伝えるところの目付けは」という、肥後兵法書における修正主義的新義である。むろん、このような明白な教義の変質という遷移プロセスがあるにもかかわらず、今も支配的な、「三十五箇条兵法書から五輪書へ」という進化論的ストーリーは、はじめから物事を逆立ちさせているのである。ようするに、肥後兵法書をまともに読めていないから、そんな逆行の倒錯に陥るのである。


これと同じことは、「兵道鏡」なる文書の扱いにもいえる。この文書については、五輪書よりも、そして三十五箇条兵法書よりも前に書かれたと、一部で錯覚されている。それは、この文書の写本の奥書の日付が慶長年中であり、その奥書を無批判に頭から信じ込んだわけで、まことに信じがたいナイーヴな愚劣である。

ようするに、兵道鏡が何を書いているか、それを読んでいないのである。たとえば、この目付の事について、兵道鏡はどう書いているか。それは肥後兵法書と同じく、顔に目を付けろと教えている。

つまり、目の付け所というのは顔である。顔以外に別の所に目を付けるな。心は顔にあらわれるものだから、顔にまさりたる目の付けどころなし――という具合である。

敵の顔にあらわれた表情を読めというわけか、心は顔にあらわれるものだから、顔以外に別の所に目を付けるところはないという論法である。こうして見ると、「昔は色々あったが、今伝えるところの目付けは」という肥後兵法書における歴史的変遷の意識もない。顔に目を付けろという偏向は、肥後兵法書より一段と増悪しているようである。

もちろん兵道鏡がいうところの、遠くを見るというその具体例においては、武蔵の流儀からの乖離が大きい。というのも、こういう説明があるからだ――。

敵の顔を見るさまは、一里ほどもある遠い嶋に、薄霞がかかっている、その岩や木を見るがごとし、という。さらにまた、雪雨などのしきりにふる間より、一町ほども先にある屋台(神輿)などの上に、鳥などがとまっている、その鳥の種類を見分けるような目つきであるべし。その屋台の破風や懸魚、蛙などの彫刻を見るにもおなじ、と。

これは遠くの物の細部までよく見分けるように、遠くに焦点を合わせろ、という教えである。しかし、五輪書の目付けというのは、そんな話ではない。

 《遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也》

むろん、遠いところに焦点を合わせろという話はない。遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、というのは、ようするに、近くであれ遠くであれ、対象に焦点を合わせて見ようと思うな、という教えである。

武蔵がもちだした蹴鞠や放下などの喩えはそれである。焦点を合わせようとすると、視野狭窄を生じて、かえってうまくいかない。それを武蔵は却けるのである。

ということであれば、兵道鏡の教説は、武蔵の教えとはまったく反対のことを語っている。肥後兵法書のケースは、顔に目を付けろ、というにとどまるが、兵道鏡では、なぜ顔に目を付けるのかを説明し、さらには遠い島の岩木や屋台の彫り物など遠くにある対象をよく見分けるようにと、目付けの教えがまったく脱線してしまっている。

このように、肥後兵法書の段階で、「顔に目を付けろ」と言い出した修正主義的偏向が、兵道鏡では一層ひどくなって、ついには五輪書の教えとは逆の話になってしまった。あたかも他流の理論のごとくである。

これは、兵道鏡の原型と想定しうる「兵法教之巻」などの龍野円明流伝書でも、目付けについてすでに同じ記述がある。ようするに、五輪書からの逸脱は、肥後兵法書にはじまり、兵道鏡ではそれがさらに脱線して逆立するに至る。

兵道鏡では、この目付けについては「教外別伝」だという。これは禅家のいう教外別伝、不立文字の意味ではなく、口伝があるということである。異本にはこの箇処に「猶口傳在之」ともある。しかし、もともと五輪書では、こうした目付けのことは初歩の初歩である。秘儀化するような話ではない。元来はそうであったが、後のものほど事大主義的になって、秘密や奥儀が生じるのである。

これらが示唆するのは何事であろうか。いうまでもなく、それは、

   兵道鏡 → 肥後兵法書 → 五輪書
という、近年一部で主張されている進化論プロセスそのものが、逆立していることである。言い換えれば、倒立像をもって実態と錯覚しているのである。しかし、実際には、

   五輪書 → 肥後兵法書 → 兵道鏡
という理論変質の遷移過程があったにすぎない。それを証言するのは、肥後兵法書と兵道鏡におけるこの目付けの教えの偏向と逸脱である。このプロセスは不可逆である。云うまでもないことだが、そのことからすれば、一部で妄信されているのとは違って、肥後兵法書や兵道鏡は、武蔵の著作ではない。後人の作物である。

以上は余談じみた話の成行きのようだが、実はそうではない。肥後兵法書や兵道鏡の記事と比較して、五輪書の記事を読めば、武蔵の教えが奈辺にあったか、逆にそれがよくみえる。そのようにして、皮肉にも偽書を通じて、逆に武蔵の理論の際立ったところが知れるというわけである。

  

5 太刀の持ち方

【原文】

 一 太刀の持様の事。
刀のとりやうハ、
大指、ひとさし(指*)をうくるこゝろにもち、
たけ高指しめずゆるまず、
くすしゆび、小指をしむる心にして持也。
手のうちにはくつろぎの有事悪し。(1)
太刀をもつと云て、持たるばかりにてハ悪し。
敵をきるものなりとおもひて、太刀を取べし。
敵を切ときも、手の内にかハりなく、
手のすくまざる様に持べし。
若、敵の太刀を、はる事、うくる事、
あたる事、おさゆる事ありとも、
大指、人さしゆびばかりを、すこしかゆる心にして、
兎にも角にも切とおもひて、太刀を取べし。(2)
ためし物など切ときの手のうちも、
兵法にしてきる時の手のうちも、
人をきるといふ手のうちにかハる事なし。(3)
惣而、太刀にても手にても、いつくと云事を嫌ふ。
いつくハ、しぬる手也。いつかざるハ、いくる手也。
能々心得べきもの也。(4)

 

 

【現代文】

 


一 太刀の持ち方の事

太刀の握り方は、親指と人指し指は浮かせた感じで持ち、中指は締めず緩めず、薬指と小指を締める気持で持つのである。持った手の内に遊びがあるのはよくない。

太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない。敵を切るのだと思って、太刀を取るべきである。

敵を切る時も、(太刀を持った)手の内に変化はなく、手の竦〔すく〕まないように持つべきである。もし敵の太刀を、張る、受ける、当る、おさえるということがあっても、親指と人指し指だけを少し変える感じで、何が何でも切るのだと思って、太刀を取るべきである。

試し斬りで切る時の手の内も、実戦で切る時の手の内も、人を切るという手の内に変ることはない。

(我が流派では)総じて、太刀でも手でも、居つく〔固着する〕ということを嫌う。居つくのは死んだ手である。居つかないのは生きた手である。よくよく心得ておくべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)太刀のとりやうハ…

ようやく太刀の持ち方である。まったく武蔵の教えは周到で懇切である。

武蔵の言う太刀の握り方のポイントは、次のようなものである。

  ・親指と人差し指は、浮かせた感じで持つ

  ・中指は、締めず、緩めず

  ・薬指と小指を締める気持で持つ

  ・握った手のうちに遊びがあるのはよくない

お気づきの人があると思うが、この持ち方は決して太刀に限ったことではない。ゴルフ・クラブのような棒状の道具、テニスのようなラケット形の道具でも、握り方は基本的には同じである。

太刀は人差し指の方向に刃がある。逆手〔さかて〕といって、反対に小指側に刃がくる持ち方は、短刀などの場合だが、これは握り方が太刀とは違うのである。ようするに、太刀は、ゴルフ・クラブやテニス・ラケットと持ち方は基本的に同じで、束を握るにも五指それぞれの締め方が違うのである。

こうしたことは、剣道をやっている者には分かりきったことであろうが、どのように太刀を持つか、などというこんな初歩の初歩が書いてあることからすると、五輪書は、超入門篇を含んでいるのである。

前にも述べたことだが、五輪書は、決して上級練達者向けに書かれた秘伝奥義書なのではない。まったく初心者を含めた普遍的な読者を想定しているのである。

かくして、現代の、剣道などやったことがない諸君でも、五輪書を読めば、太刀の握り方がわかるということになる。まさに、この事実に驚くべきであろう。

しかし、どうして、薬指と小指で締めるということになるのか。これは初歩の初歩だが、剣道研究家に聞いても明確な答えをくれた者がこれまでいなかった。それの方が振るのに自由である、という経験則以外を彼らは知らないのである。これは奇妙なことである。

しかし、これを解剖学的見地から再検討すれば、その答えを得られるのである。ご存知のように、腕の構造は、肘の関節で上腕・前腕に分かれる。そして上腕骨は一本だが、前腕骨は二本立てである。尺骨(Ulna)と橈骨(Radius)である。小指側が尺骨で親指側が撓骨である。右腕の肘を左手で固定して前腕を回転させてみる。前腕が回転するのは、尺骨を軸として橈骨が捩れるからである。「橈」とは櫂に同じ、舟を推進させるに漕ぐものである。

以上の構造からすれば、薬指と小指で締めるというのは解剖学的に十分な理由があったわけである。尺骨が回転軸になるから、尺骨の小指側を締めて、橈骨の親指側は自由にさせるのである。したがって、これはすぐれて合理的な教えなのである。

このあたり、他流では「辰ノ口を開く」ともいう。この辰ノ口は、親指と人差し指のかたちを龍の口に見立てたもののようで、それを開くと教える。そうすれば、おのづから薬指・小指が締まるのである。だから、「辰ノ口を開く」と教える他流と、薬指と小指を締めると教える五輪書の教えとは基本的に同じである。

ただし、相違に注目すれば、五輪書は、親指と人差し指をゆるめるというだけではなく、薬指と小指は締めると教える点で、その教えはより具体的で懇切なのである。そのように、初心者にもわかるように、というのが五輪書の教えのスタンスである。

――――――――――――


語釈のことでは、蛇足ながら言えば、この「大指」は親指、「ひとさし」は人さし指、「たけ高指」(丈高指)は中指、「くすしゆび」は薬指、ということである。

なお、文中「ひとさし」とあって、ここには「指」字はない。本条の後で、「人さしゆび」が出てくる。

諸本校異を見るに、前者の「ひとさし」は、筑前系・肥後系を通じて「ひとさし」として「指」字を入れない例があり、また他方、「指」字を入れるケースもある。

筑前=越後系でも石井家巻子本は「指」字を入れる。ところが同じ石井家の冊子本は、「指」字に朱点を打って、衍字たることを示している。同じく越後系の近藤家本・伊藤家本は「指」字を入れない。他方、猿子家本では「指」字を入れるが、これは後発的な衍字である。したがって、越後系でも、基本的に「指」を入れず、「ひとさし」だったと知れる。

この点、肥後系も同じで、基本的には「指」字を入れない。ただし、円明流系統は「指」字を入れる。これは、後で「人さしゆび」が出てくるので、それとの整合性で「修正」したものである。これは円明流系統が派生した後の変異であり、越後系猿子家本と同様に、後発的な衍字である。

したがって、寺尾孫之丞段階では、ここは「ひとさし」と書かれていたと思われる。また、人さし指を「ひとさし」(人差、食指)と記す例は一般に多いから、武蔵のオリジナルもそうだった可能性もある。とすれば、前後の「ひとさし」「ひとさし指」には語句のゆらぎがあったと、まずはみなしうるだろう。

しかしながら、何れにしても、他の箇処には「ひとさし指」として「指」字を入れるのだから、ここにだけ「ひとさし」とあるのは、奇妙なのことである。したがって、これが単なる脱字でないとすれば、ここでのもう一つの可能性は、寺尾孫之丞段階での誤読である。

つまり、武蔵の草稿では、「人差指」とあった。その三文字を、寺尾は「食指」〔ひとさし〕の二字に読んだ。そして「食指」では読み難しと考えて、仮名で「ひとさし」と書いた写本を、柴任他、門人に伝授した。――この可能性もあろう。ようするに、

   「人差指」 → 「食指」 → 「ひとさし」
という変異プロセスである。これについて言えば、五輪書は漢文ではなく和文の著書であるのみならず、仮名が多用してあるところが特徴であるが、そのすべてが武蔵の草稿にあったものかというと、そうではない。我々の所見では、寺尾孫之丞段階で、武蔵草稿の漢字を仮名書きに変えた、と思われる点が多々ある。

この「ひとさし」の例は、寺尾孫之丞段階での誤読、そして仮名表記への書き換え、この二段階の変異を推測せしめる箇処である。


(2)敵をきるものなりとおもひて、太刀を取べし

太刀を持つといっても、漫然とただ持っているだけの気持ではいけない。敵を切るんだ、そう思って、太刀を取るべきだ、と武蔵は言う。人を切る、殺す、そういうつもりで太刀を持てと云うのだから、話はとたんにハードボイルドである。現代の道場試合で竹刀を振っているのとは、わけが違う。なるほど、実戦で人を切るという教えが五輪書だった。

実戦で人を切るとなると、経験がないと興奮して手が固くなってしまう。あまりきつく握り締めたりして、指がそのまま解けなくなる。束を放そうとしても指が解けない。それで、一本ずつ引き剥がすようにして手を解く。実際にはそういうものである。

だから武蔵は、敵を切る時も、太刀を持った手の内に変化がないように注意しろ、手が竦〔すく〕まないようにしろと、教える。斬り合いの交戦中でも、親指と人指し指だけを少し変える感じ、ようするに持ち方は、前項の基本から外れるな、ということである。

敵の太刀を張るという「はる」は、これからも五輪書の中でしばしば出てくる表現だが、ぴしゃりと叩くことである。これは「打つ」とは違う。また「打つ」は「当る」とは違う。これらの語感は、次第にわかって来ると思うが。

ただし国語学上、注意が必要なのは、「切る」という語は、この「打つ」「張る」「当る」とは同じレベルには属していないことだ。人を切るは殺すと同義である。これは「打つ」「張る」「当る」というテクニカルな概念とは異なるのである。

さて、武蔵の教えは、――太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない、敵を切るのだと思って、太刀を取るべきである。何が何でも切るのだと思って、太刀を取るべきである。――ということである。

これは、後出の「五方の搆の事」でも同じである。構えはいろいろあろうと、すべてどれも人を切るためのものである。搆えは、この五つより外はない。どの搆えであっても、搆えると思わず、切るのだと思うべきである、云々。

こういう武蔵のストレートな教えに対して、『兵法家伝書』の柳生宗矩では、――兵法は、人をきるとばかり思うのは、ひがごとである。人を切るにはあらず。悪を殺すのである。一人の悪を殺して、万人を生かすはかりごとだ、ということを述べている。

この「人を切るにはあらず。悪を殺すのだ」というところが、柳生宗矩一流の詭弁であり虚偽である。「一人の悪を殺して、万人を生かすはかりごと」というのが、その政治性である。

この政治的言説では、戦いはすでに純粋な戦闘行為ではない。善と悪との闘争である。何が悪かといえば、支配秩序を破ることが悪である。

これは今日でも通有の政治的ロジックである。これは戦争ではない、テロリズムとの戦いだ、という論理が一時横行した。戦争がどちらにも理がある戦いだとすれば、定義上、戦争はすでに存在しない。なぜなら、敵に理がないからであり、すなわち敵は悪だからである。

これを政治警察(politico-police)の論理と呼ぶ。人を殺すのではない、悪を殺すのだ、という柳生宗矩のロジックは、政治警察の論理である。これはすでに兵法論ではない。

これに対し、兵法を論じるに、武蔵は、そんな詭弁を弄するようなことはしない。武蔵は、兵法を、その戦闘を、その殺人行為を、どちらが善かということで正当化するようなことはしない。それが、武蔵と柳生宗矩との根本的な相違である。

武蔵は、兵法をテクニカルな次元で語る。柳生宗矩は、兵法を政治警察の論理で語る。いづれが兵法の真理で、いづれがイデオロギーあるか、それは論を俟つまでもない。

――――――――――――

 

この部分の諸本校異のことに立ち入れば、まず目に付くのは、肥後系の細川家本系統に脱文のあることであろう。また、それを落さない肥後系諸本にも、校異の問題がある。そこで、以下にまとめて示すことにする。


*【吉田家本】
《手の内にハ、くつろぎの有事悪し。太刀をもつといひて、持たる斗にてハ悪し。敵を切ものなりとおもひて、太刀を取べし》

*【楠家本】
《手のうちにハ、くつろぎのある事あしゝ。太刀を持といひて、もちたる心ばかりにてハあしゝ。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし》

*【丸岡家本】
《手の内【★】は、くつろぎの有事あしゝ。太刀を持と云て持たる心ばかりにてはあしゝ。敵を切ものなりと思て、太刀を執べし》

*【石井家本】
《手のうちには、くつろぎの有事悪し。太刀をもつといひて、持たるバかりにては悪し。敵をきるものなりとおもひて、太刀を取べし》

*【細川家本】
《手の内には、くつろぎのある事悪シ。【★★★★★★★脱文★★★★★★★】。敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし》

*【富永家本】
《手の内【★】ハ、くツろぎの有る事あしゝ。太刀を持と云て、持たる心斗ニ而ハ悪し。敵を切る者なりと思ひて、太刀を取べし》

 

ここに示すごとく、細川家本は、《太刀をもつといひて、持たるばかりにてハ悪し》という一文が丸ごと脱落している。同系統の常武堂本でも同箇所の脱文がある。これは、肥後系諸本の中でも、細川家本・常武堂本の系統にのみ見られる脱文であるから、この両本の祖本の段階で発生した欠落である。

こういう特異性のある脱文脱字は、偶発的な誤写であるが、史料批判の視点からすると、無意味なものではないし、たんにネガティヴなものではない。それというのも、そういう誤写が当該資料の位置づけを可能にしてくれるからである。

別の箇処で見るように、楠家本と細川家本にのみ共通する脱文脱字があることから、この両本は近縁関係にあると知れる。そして、このケースのように、他の諸本にある字句が、細川家本の系統には脱落している。したがって、これは、楠家本の系統と分岐派生した後の、脱文発生である。

右掲図のようにしてみれば明らかであるが、この細川家本の脱文は、かなり後発的なものである。したがって、ここから細川家本のステイタスも知れる。細川家本は決して早期の写本ではなく、後発的な写本である。それをこの誤写が示している。

この水之巻の「多敵の位の事」でも同じく、細川家本系統のみが大幅な脱文を示している。他の諸本にはない特異性のある誤写である。その脱文の意味は、このケースと同じく、後発的な誤写である。このあたり、細川家本の写本としての史料評価に関わることである。むやみに細川家本を古いと信奉してはならないという証拠である。

しかし、この細川家本を底本にしたはずの岩波版には、この脱文について、何の断りもない。これは校訂者の怠慢である。諸本を校合比較するという手続きをしていないのである。

ところが、現代語訳は岩波版に依拠するものらしく、ここに脱文のあることも知らず、いきなり、《敵をきるものなりとおもひて、太刀をとるべし》の訳文を出す。《太刀をもつといひて、持たるばかりにては悪し》という前段がないから、これではいかにも唐突である。しかし、そんな現代語訳が流布されてきたのである。

この点は、読者にとくに注意を喚起すべきところである。

さて、校異の本道に話を戻せば、このように細川家本に脱文のあるところ、肥後系諸本はそれを保存しているのだが、やはりそこに校異の問題がある。すなわち、それは、筑前系諸本に、
《太刀をもつといひて、持たるばかりにてハ悪し》
とあって、《持たるばかり》とするところ、肥後系諸本には、《持たる心ばかり》と、「心」字を入れる。

これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。つまり、筑前系は共通して、「心」字を入れないのに対し、肥後系諸本は共通して「心」字を入れるからである。

これは、肥後系で早期に派生した系統の子孫たる富永家本にも「心」字を入れるから、おそらく肥後系早期にあった文字とみえる。したがって、次の問題は、これが寺尾孫之丞段階にまで遡れるか否かである。

筑前系諸本は、早川系も立花=越後系諸本も共通して「心」字は記さないから、筑前系では初期から「心」字はなかったとみなしうる。言い換えれば、柴任美矩が寺尾孫之丞から相伝された段階では「心」字はなかったということである。

もとより文意からすると、「ただ持っているというだけではいけない」ということで、とくに「心」字がある必要はない。逆に、肥後系諸本のように、《持たる「心」ばかりにては》とすると、「心」字の座りが悪い。もし「心」字を入れるのなら、《持たるばかりの「心」にては》とすべきところであろう。「ただ持っている心だけではいけない」というよりも、「ただ持っているだけの心ではいけない」という文の方が妥当であるからだ。

したがって、こういうことからすると、肥後系諸本の《持たる「心」ばかりにては》とする文は、寺尾孫之丞段階ですでに存在したとは想定しがたい。おそらく、門外流出後に、ここに「心」字を入れた写本が発生したのであろう。その後、肥後系写本はこれを受継いで、伝播して行ったものと思われる。その結果が、現存肥後系写本の文言である。

こうしたことも、肥後系写本ばかりを見ていては分らなかったところである。たとえ、細川家本の脱落字句を回復するとしても、楠家本や丸岡家本あたりしか参照せず、その結果、「心」字を残してしまうようでは、原状回復は不充分なのである。ここは、我々のテクストのように、「心」字はなかったとすべきところである。


(3)ためし物など切とき

ところで武蔵は、太刀の持ち方に関連して、何が何でも切るのだという気で太刀を持て、という。そして、試し斬りで切る時の手の握り方も、実戦で切る時の手の握り方も、同じく人を切るということだから、握り方に変りはないという。

このあたりになると、ハードでかなりキツイ話になってくる。リアルな殺し合いである。人を切り殺す、そのとき何が何でも切り殺すという闘志が必要だ。しかし実戦ではない、「ためし物など切る時」も、人を切るという手の内に変りはないというあたり、現代人には極めておぞましい話ではある。

ここで「ためし物」というのは、試し斬りのことである。ただしこの試し斬りは、物を斬るのではなく、人を斬るのである。死罪で斬首になった屍体を斬るばあいが多いが、罪人など無抵抗の人間を切り殺すこともある。これは主として実際に人間を切り殺す練習であり、人を殺害する度胸をつけるためだったらしい。こうした残酷な慣習がこの五輪書の時代まで、少なくともまだ存続していたということがわかる。

柳沢淇園の話が伴蒿蹊『近世畸人伝』に出てくるが、淇園は度過ぎた客好き、池大雅が辟易する逸話の一方、淇園は屋敷に人を呼び込んで「試し物」の材料にするのではないかと懼れられたという記事がある。*

このように試し斬りは、「殺人の練習」としての殺人である。いかに練習だからといって、人を殺すことには変りがない。その意味をきちんと受け止めて、この殺人練習をするように、というのが話の楽屋裏である。

ところが、武蔵が言及したこの殺人練習について語る五輪書解釈本は見たことがない。むしろ逆に、この試し斬りを、切るのは人ではなく物だと曲解する始末である。これが明らかなミスリード、誤解釈であることは、ここで指摘しておくべきであろう。   Go Back

 


(4)いつくハ、しぬる手也

この条文末尾は、補足である。本文からの流れではない。ある種、唐突だが、居つかないように、と教えを追加したかたちである。

ここで、「いつく」というのは、居着く、居付く、つまり固着するということである。固定(fixation)ではない、固着(adherence)である。

ここで、この巻が「水」の巻であったことを思い起こすべきである。形態自由、大小自在、その水の流動的様相は、まさしく固着を嫌うのである。

かくして武蔵は、これを、
《いつくハ、しぬる手也。いつかざるハ、いくる手なり》
と定式化するのである。固着は死であり、固着しない流動は生である。これを哲学的に一般化したくなる者もあろうが、ここの話は、手も太刀も固着は死だと心得ろという、これまた実践的な教訓なのである。

このように武蔵は固着を嫌うが、その生涯をみれば、これは、この人の根本的傾向であったのではないか、とも思えるのである。


――――――――――――


ここで、本条に対応する肥後兵法書の記事を見ておくことにする。

太刀の持ち方で、若干変化があるのは、五輪書では、たけたか指(中指)は締めず、ゆるめず、という教えだが、それに対し、肥後兵法書では、《たけたか指を中にしめ》と、要点が変化しているということである。これは、他流の影響を蒙ったために生じた、教えの変質である。

その他、全体は、一見するに、五輪書の教えを敷衍しているようだが、肥後兵法書のスタンスは、五輪書の「居つくのは死んだ手である。居つかないのは生きた手である」という末尾の武蔵テーゼへ話を片寄せている。その結果、何が何でも敵を切るんだと思って太刀を取れ、という五輪書の強調が稀薄になっている。

つまり、五輪書では、「太刀を持つといっても、ただ持っているだけということではいけない。敵を切るのだと思って、太刀を取るべきである。敵を切る時も、(太刀を持った)手の内に変化はなく、手の竦まないように持て。もし敵の太刀を、張る、受ける、当る、おさえるということがあっても、親指と人指し指だけを少し変える感じで、何が何でも切るのだと思って、太刀を取れ」とあるところである。

しかるに、肥後兵法書では、それを「切る事、肝心也」と意味を弱めて、「切る事をわすれて居つく手を、死ぬるという」と、「切る」と「居つく」を妙な具合に結び合せて、話をあらぬ方向へ導いていく。

つまり、生きるというのは、いつとなく、太刀も手も、出合いやすく、かたまらずして、切りよいようなのを、生きる手というと。つまり、居つかないのが生きる手だという武蔵テーゼを逆にして、述語の位置にあった生きる手を、主語=主体の側に回してしまう。

武蔵の教えにある、何が何でも敵を切るんだと思って太刀を取れ、というのは、戦場の実戦における文字通り殺伐とした話である。肥後兵法書はそうした殺伐を回避して、太刀も手も居つかぬように、固まらぬように、という無難な方へ話をシフトするのである。

これも、武蔵の実戦的教義の変質であり、戦場から離れた時代の修正主義的新義であるが、しかしそれだけではない。おそらく、何やら、「人を切るとばかり思うのは、ひがごとである」という柳生流の言説に同調する気分でもあって、五輪書の反時代的な言挙げにはもはや追従できないという有様のようである。いわば、武蔵流の教義が柳生流イデオロギーへ回収されてしまうのである。

なお、ここでも兵道鏡の記述如何と見れば、その「太刀取様之事」は、肝腎な点が大きく変っている。つまり、五輪書や肥後兵法書では、「大指、人さし指をうかせて」とあるところ、兵道鏡では、浮かせるのは人差し指だけで、大指(親指)は他の指と同じく、締める方にまわっている。これは明らかに教義の変質である。

この変質過程を見れば、まず、肥後兵法書で、たけたか指(中指)が締める方へ変位し、次いで、兵道鏡では、大指(親指)までが締める側に参加するのである。かくして、五輪書の、薬指と小指の指二つで太刀を振るという教えは、どこかへ霧散してしまったのである。

したがって、親指も締めるとするこの兵道鏡の記述は、教義の変質というには、偏差が大きすぎる。言い換えれば、ふつうとは違う特異な持ち方へ逸脱してしまったのである。

むろん、太刀の持ち方について武蔵は何か特別なことを教えているのではない。他流の教えでも、親指と人差し指は浮かせる。太刀の持ち方を教える五輪書の記述は、初歩の初歩だが、それだけに諸流普遍的なものである。

しかるに、兵道鏡は、その五輪書の教えからは大きく逸れている。云うならば、武蔵の教えとはまったく違うことを書いているのが、兵道鏡のこの条文である。したがって、この点においても、武蔵が兵道鏡を書いたという説は、ありえざる妄説なのである。 

6 足のつかい方

【原文】

 一 足つかひの事。
足のはこび様の事、つまさきをすこしうけて、
くびすをつよく踏べし。
足つかひハ、ことによりて、
大小遅速は有とも、常にあゆむがごとし。
足に、飛足、浮足、ふみすゆる足とて、
是三つ、嫌ふ足也。(1)
此道の大事にいはく、
陰陽の足と云、是肝心也。
陰陽の足ハ、片足ばかりうごかさぬもの也。
切とき、引とき、うくる時迄も、
陰陽とて、右左/\と踏足也。
かへす/\、片足踏事有べからず。
能々吟味すべきもの也。(2) 

 

 

【現代文】

 

一 足づかいの事

足の運び方のことだが、爪先を少し浮かせて、踵〔かかと〕を強く踏むべし。

足の使い方は、状況によって、大きい小さい、遅い速い(の違い)はあっても、ふだん歩くのと同じようにする。足に、飛足〔とびあし〕、浮足〔うきあし〕、踏み据える足というのがあるが、この三つは、(我が流派では)嫌う足である。

この道の大事〔枢要〕に曰く、「陰陽の足」ということがある。これが肝心である。

陰陽の足とは、片足だけ動かすようなことはしないものである。切る時、引く時、受ける時でさえも、陰陽といって、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない。よくよく吟味すべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)常にあゆむがごとし

手の次は足である。ここは足の運び方、フットワークである。これもまったく基本的な教えである。

ところがこの基本、決して読み飛ばせるものではない。

まず、爪先を少し浮かせて、踵を強く踏むということ。――さて、これはどうであろうか。「爪先を少し浮かして踵を強く踏む」というのは、足の親指を中心に爪先を浮かせて、踵を浮かさない歩き方である。

これは下肢に力の入った歩き方で、足をしっかり地面をつけて、足を運ぶのである。そうすると、足は地面を蹴らない。真下に踏みつけるので、足首の関節は使わない。腰で歩くという格好で、自然といわゆる「がに股」になる。

これは、日常の足遣いとは違ったのではないか。というのも、足半〔あしなか〕といって、かかとにあたる部分のない半分だけの草鞋を日常的に用いていた日本人からすると、踵を浮かせて歩いたり作業したりするのが普通である。踵を強く踏むなどということはない。

現代スポーツでも、球技であれ格闘技であれ、実際に運動するばあい、同じように踵を浮かせる。というのも、どんな方向でも素早く動くためには、爪先に体重をかけ踵はわずかに浮かせて、身体の重心をやや前に措く姿勢でなければならないからである。これはボクシングのケースを想定すれば解ろう。モハメド・アリは、蝶のように舞い蜂のように刺すといわれたものだ。

ところが一方、相撲の場合では、「すり足」といって、踵を浮かせたりせずに、素早く動くのである。必ずしも踵を浮かせた方が素早いとは限らないのである。このばあい足は右左交互であるし、腰の割り方は別にして、足のことだけ言えば、武蔵のいうようなフットワークに近いようにみえる。

したがって、踵を強く踏むというのは、踵を浮かせた足遣いとは違う、もう一つの別の伝統的な運歩法である。ただし、これは相撲の「すり足」ではないし、能狂言役者の足運びとは異なる。足首の関節を使わず、真下に踏みつける「がに股」の足遣いである。しかもこれで、実は素早く動けるのである。

ここで武蔵が指摘する忌避すべき三つの足のうち、「飛足」〔とびあし〕はジャンプのことで、「踏みすゆる足」は踏み据える足、ドスドスとした足使いというよりも、むしろじわりと踏みしめる感じであり、「沈み足」ともいうのがそれであろう。「浮足」〔うきあし〕は、下肢に力を入れない、足のつま先で体重を支え踵の上っている状態のことだとすれば、ボクシングのばあいなどはまさにこの「浮き足」なのである。

しかしながら、武蔵は「常にあゆむがごとし」というのである。これはどういうことであろうか。

ようするに、フットワークといっても、必ずしも軽快敏捷に動くのがよいのではない。ことに戦場では重い甲冑を装着するし、また障碍物の多い具体的な状況では、現代スポーツのような軽快なフットワークをしていては、文字通りコケてしまう。倒れ込んだら敵は攻撃しにかかるから、命はそれっきりである。

というわけで、戦場、その実戦現場でこそ、特殊な足遣いは無用である。常にあゆむがごとし、ふだんと同じ、でよい。ただし、その日常の運歩法が、現代一般の歩行法とは異なっていた。それについては、次に述べることにする。

 

(2)陰陽の足

武蔵は、ふだん歩くのと同じように足を運べという。歩くのは、右、左、右、左と交互に足を運ぶのだから「陰陽の足」という。『素問』五運行大論に「天地者萬物之上下、左右者陰陽之道路」などとある。左右を「陰陽」というわけだ。ただし左右どちらが陰陽と決まったわけではない。

ところが、この、ふだん歩くのと同じように足を運ぶとあるのは、かなり問題のある指摘なのである。武蔵は剣聖だからというので、五輪書をすらすら読んでしまっては、いけない。

分かりやすい話をしよう。現代剣道で足さばきをどう教えているか。一般にそれは、基本的には以下の四種である。
【歩み足】

日常生活で行う歩行と同じ要領で交互に足を前に出す足運びで、相手との距離があり、送り足では間を詰めにくいとき使う。前後に遠く速く移動する足さばきで、最も遠い間合いから打突の技を出す時に用いる。
【送り足】

最も基本的な足運び。基本の搆えをしたときの右足が前で左足が後ろの形をとる。進行方向の足から移動を開始し、ついでもう一方の足を移動した足に引き寄せる。諸方向に近く速く移動する場合や、打突の時の足さばき。一足一刀の間合いから打突の技を出す場合に用いられる一般的な足さばき。
【開き足】

相手の打突を、身体を左右にさばいてかわすのに用いる足さばき。左に捌いたばあい左足が前になる。近い間合いからの打突をする場合にも用いられる。
【継ぎ足】

後ろ足を前足に引きつけ、前足から前進する足運び。送り足と違うのは、相手との距離が遠くて打突が届かないとき、大きく踏み出すために用いる。遠い間合いからの打突だが、相手との「間合いを盗む」としばしば言われるのは、相手に悟られないように左足を右足まで継ぎ、大きく踏み込んで打突するからである。
歩み足
(歩み足) 左右の足を交互に踏み出す

送り足
(送り足) 右の足を踏み出し左足を引き寄せる

継ぎ足
(継ぎ足) 右の足を大きく踏み出し左足を引き寄せる

空手でも歩み足・送り足・継ぎ足をいう。したがって現代武道では、これはとくに剣道に限ったフットワークではない。

武蔵は、ふだん歩くのと同じように、右、左、右、左と交互に足を運ぶ歩み足にしろというのである。これは無理な非現実的な教えなのか。

しかし、昔は基本的に、こんなことはせず、左右の足を交互に出す歩み足だった。空手でも古型は継ぎ足などせずに、歩み足だったという。とすれば、現代武道の方が、特殊化し変則化しているのかもしれぬ。

それというのも、近代以前の日本人の歩行法は、あまり腕や手は振らず、云うならば肩で歩いていた。もし手を振るとすれば、右図のように、出る脚と同じ側の手が前に出ていたのであり、馬の並足と同じこの順手歩行(常歩)は、現代の歩行法とは違うのである。

これを「ナンバ」と言ったという者があるが、それは一般的名称ではあるまい。少なくとも関西語圏ではその語は確認できない。日常あたりまえの歩行法だったので、特に名があったとも思われぬのだが。

現代日本人のように、出る脚と逆の手を前に出して、背骨を捻って歩くようになったのは、さして古いことではなく、明治以降である。これは近代の軍隊・学校という制度が、日本人の身体に刻印した歩行術である。現代人である我々の身体は、前近代の日本人のような順手歩行には困難を感じる。それほど制度の刻印は深い。しかしながら、これは先天的なものではなく、後天的な習性、言い換えれば、歴史的な人為としての身体習性にすぎない。

そのことはさて措いても、武蔵が云うのは、右、左、右、左と交互に足を運ぶ「常歩」にしろ、ということである。これを現代人の歩き方で想像すると、肝心なことを間違うことになる。

それというのも、この運歩は背骨や骨盤を捻って歩くものではない。右から前へ、左から前へと、交互に脚の外旋を繰り返しながら進む。そのばあい、身体軸は中心軸一本ではなく、左右二つにある。その左右の二軸の運動を一つにせず、二つながらにしておく。それが「常歩」である。武蔵は、手において二刀流だが、足においても左右「二足流」である。

こうした運歩において武蔵は二元論者(dualist)あるのに対し、他流派の足遣いは、身体軸を一元化するようである。現代剣道に見られる足さばきにも、少なくとも歴史的起源がある。おそらく、両手で一刀をもつことから、こういう送り足・継ぎ足系の足さばきが主流になったのであろう。両手に刀を持つ、あるいは片手で太刀を持つ、という武蔵流ならば、これは歩み足の「陰陽の足」でなければならない。

武蔵はいう、――陰陽の足とは、片足だけ動かすようなことはしないものである。切る時、引く時、受る時でさえも、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない。
《かへす/\、片足踏事有べからず》

おそらくは、このようなことを書いているのは、当時すでに歩み足ではなく、上記のような送り足系の片足を踏む足捌きが出てきたからであろう。本書風之巻では、他流の足遣いを批判している。

それによれば、他流でいろいろな特殊な足遣い(さつそく)をするが、これを却下して、我が兵法において、足の踏み方に変ることはない、常に道を歩むがごとし、と云う。それを、ここでは、《足つかひは、ことによりて、大小遅速は有とも、常にあゆむがごとし》として、左右二足の「陰陽の足」を言う。武蔵は、ある意味で、古型を維持する保守主義だったであろう。

戦場の実戦では、両手で一刀を握ることはないのと同様に、足も送り足・継ぎ足ではいけない。歩み足、常歩で運歩前進するのが、基本なのである。それは重い甲冑を装着して戦うのが常態であるだけではなく、前述のように原理的に、身体軸は中心の一軸ではなく、左右一対になっていたからである。その軸の二元性(dualism of axes)を、左右の二足で運用する。それを武蔵は「陰陽の足」というのである。
《此道の大事にいはく、陰陽の足と云、是肝心也》

この道の大事に曰く、というのに注意したい。この「大事」は、定式化された重要事項、武蔵流テーゼと言うべきものである。武術にかぎらず芸能諸流派で、「大事」はしばしば秘伝・奥儀のことだが、ここで武蔵のいう「此道の大事」はそれとは違う。つまり、そうした秘事(secret)ではなく、オープンなものである。

これを見るかぎり、武蔵は以前から、この陰陽の足を兵法論のテーゼの一つとしていたようである。そして、それも、昔からの「常歩法」の武蔵流の定式化なのである。武蔵は、手のみならず、足でも陰陽の二天流なのである。

 

――――――――――――


ここでは校異の点で大した相異はない。ただし、筑前系/肥後系を区分する指標的差異が一つある。それは、筑前系諸本が、
《陰陽の足ハ、片足ばかりうごかさぬもの也》
として、《陰陽の足ハ》とするところ、肥後系諸本は《陰陽の足とハ》として、「と」字を入れるのである。文意に関わるほどの差異ではないものの、やはり、筑前系/肥後系を区分する指標性を有する校異なので、無視はできない。

この件に対する我々の答えは、これも筑前系諸本共通の字句のことゆえ、前の諸例と同じく、筑前系初期にあったものとし、肥後系諸本が記すこの「と」字を採らず、これを衍字とみなすのである。

文脈からする内容分析の点においても、「とハ」という語句は、ここではやや納まりが悪い。それというのも、直前に、《此道の大事にいはく、陰陽の足と云、是肝心也》と書いているから、この「陰陽の足」については、武蔵は周知のテーゼとして語っているのであって、それを「陰陽の足とは――」と、改めて定義しに懸る必要はないからである。「陰陽の足は――」と云えば、それで済むことである。

それに対し、後世の者には、リアルタイムの武蔵の言説から遠く、陰陽の足について、それは何かと問う意識が先に立って、ついつい、ここに「とハ」と書き入れたのである。しかし、それは門外流出後のことであろう。

肥後系のうち、早期に派生した系統に属する富永家本や狩野文庫本も、「とハ」と記すから、これは肥後系の早期、門外流出後に発生した字句であろう。いわば、この「とハ」には、外部の人間の意識が投影されている。これに対し、筑前系諸本は、「陰陽の足は――」という門流内の意識をそのまま伝えている。その相違がここにある。

また、肥後系のうち、富永家本や狩野文庫本は、《動か【★】ぬもの也》として、「さ」字を脱落する変異を見せている。これは二次的な偶発的変異発生であろう。円明流系統の多田家本なども後期写本だが、ここを《動かさぬもの也》として、脱字はない。

同じ脱字は、越後系猿子家本にも見られる。何れも偶発的な脱字だが、これが筑前系/肥後系の双方に発生しているのは、脱字しやすい箇処だったということらしい。


――――――――――――


ところで、足遣いについてのこうした武蔵の教えが、後世変質する過程を示すのが、肥後兵法書の記事である。

同書には、対応する足遣いの条々が、ひとつではなく二つある。それも妙なことだが、もともと求馬助の覚書から出た文書なのだから、そのあたりは、ひとつではなく二つだとしても、そういう解説法もありうるのである。

一つめは、どこであっても、常に歩むがごとく、たしかに足を踏むということ。ここで、嫌う足として、「飛足、浮足、蹈すゆる足、ぬく足、後れ先だつ足」という列記がある。五輪書では、嫌う足は、「飛足、浮足、蹈すゆる足」の三つだったが、肥後兵法書になると、「ぬく足、後れ先だつ足」というのが増えている。これは武蔵の教義にはなかったものである。

他方、風之巻に、武蔵が不足に思う「さつそく」(左足/早足)というのが出てくる。それは、「浮足、飛足、はぬる足、踏つむる足、からす足」などである。こちらは、「はぬる足」「からす足」というのが出てくるが、それらは肥後兵法書には記載がない。ようするに、こうした様々な足について、肥後兵法書には余分な増加もあれば、消えて不足するものもある。

もう一つは、五輪書の記事にある「陰陽の足」についての、いわば修正主義的解釈である。

五輪書の教えでは、「陰陽の足とは、片足だけ動かすようなことはしないものである。切る時、引く時、受ける時でさえも、陰陽といって、右、左、右、左と踏む足である。決して片足を踏むことはあってはならない」ということであった。

つまりは、戦場では重い甲冑を装着して戦う。そのときの実戦現場での教えである。飛んだり跳ねたりはむろん、軽く足を踏むわけにはいかない。右、左、右、左と、左右両足を確実に踏んで、決して片足を踏むな、ということである。

しかるに、肥後兵法書では、これが左右両足ではなく、「二つの足」ということに化けている。「二つの足」というのは、太刀を一回打つ間に足を二つ踏め、という足はこびの拍子の話なのである。居つかないように、そういう足つかいをしろ、ということである。そこで、継ぎ足を是とする。むろん、これは五輪書の教えではありえない話である。

繰り返せば、武蔵の教えは、戦う時も、ふだん歩くのと同じように、右、左、右、左と交互に足を運歩しろということである。ふだん歩くのに、継ぎ足で歩く者がどこに居るか。肥後兵法書は、《二ツと思へば、常に歩む足なり》と記すが、その矛盾に気づいていないようである。

ようするに、五輪書の「陰陽の足」、左右両足をたしかに踏めという教えが、継ぎ足のような「二つの足」に変ってしまったわけである。これは、肥後兵法書の段階における新義である。実戦からほど遠い、いわゆる道場剣法の時代を反映しているし、肥後の武蔵流が新陰流など他流の影響を蒙ったということである。

興味深いことに、三十九箇条肥後兵法書では、「陰陽二つの足」とあるが、三十五箇条版では、この「陰陽」という二文字を消している。たしかに、「陰陽の足」では、左右両足のことだから、これは具合が悪いのである。

こうして、武蔵があれほど強調した「陰陽の足」が、肥後兵法書の段階で「二つの足」にすり替った。こうした教義の変質という事実も、従来の武蔵研究では看過されてしまっていた。それというのも、肥後兵法書は五輪書より前に書かれたという思い込みが眼を曇らせているわけである。足遣いについての教義において、肥後兵法書は明らかに修正主義的な新義を示している。それが読めないようでは、五輪書も肥後兵法書も読んだことにはならないのである。

これに関連して、兵道鏡の対応条文「足遣之事」をみれば、足をつぎ合わせて打つというあたりは肥後兵法書に同じであるが、他の記述は、足つかいの教えからは逸れて、場の取り方へ話が流れている。

いわば、五輪書の、片足を踏むな、右、左、右、左と交互に足を運歩しろという陰陽の足の事はすっかり消えてしまっているのである。「足遣之事」と見出しを付けながら、足つかいのことは記述がない。それが兵道鏡の条文である。これは教義の変質、新義というよりも、テーマそれじたいの伝承崩れである。

 

 

 

 

 

7 五方〔ごほう〕の搆え

【原文】

 一 五方の搆の事。
五方の搆ハ、上段、中段、下段、
右の脇に搆る事、左の脇に搆る事、
是五方也。
搆五ツにわかつといへども、
皆人を切らむため也。
搆、五ツより外ハなし。
何れの搆なりとも、搆ると思はず、
切事なりと思ふべし。(1)
搆の大小は、ことにより、利にしたがふべし。
上中下ハ、躰の搆也。両脇ハ、ゆふの搆也。
右左のかまへ、上のつまりて、
脇一方つまりたる所などにての搆也。
右左ハ、所によりて分別有。
此道の大事にいはく、
搆の極は中段と心得べし。
中段、かまへの本意也。
兵法大にして見よ、中段は大将の座也。
大将につぎ、跡四段の搆也。
能々吟味すべし。(2) 

 

 

【現代文】

 

一 五方〔ごほう〕の搆えの事

五方の搆えは、上段・中段・下段、右の脇に搆えること、左の脇に搆えること、以上の五方である。

搆えを五つに分けるとはいえ、どれも人を切るためのものである。搆えは、この五つより外はない。どの搆えであっても、搆えると思わず、切るのだと思うべきである。

搆えの大きい小さいは、状況によって、有利なほうに従えばいい。

上段・中段・下段は「体」〔たい、本体・基本〕の搆えである。左右両脇の方は「用」〔ゆう、働き・応用〕の搆えである。

右左(の搆え)は、上の方がつかえていたり、脇の一方がつかえている所などでの搆えである。右左は場所によって違いがある。

この道の大事に曰く、搆えの究極は中段と心得るべし、と。中段は搆えの本意〔本来あるべきもの〕である。

兵法を大きくして(合戦に当てはめて)見よ。中段は大将の座である。その大将についで、残りの四つの搆えがある。よくよく吟味すべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)五方の搆

五方〔ごほう〕の搆えである。書いてある通り、上段・中段・下段、右脇に搆える、左脇に搆える、以上の五通りの搆えである。

とはいえ、この五方の搆え、有名なわりには、具体的に知っている人は少ない。たしかに、書いてある文字を見ただけでは具体的なイメージがわかない、という人がほとんどであろう。とくに、右脇に搆える、左脇に搆える、などはどうするのか、普通はイメージしにくいのが当然である。

そこで、この五つの搆えをイラストレイト(図解)してみれば、以下のようなものである。

 

  

中段は、二刀を相手に向けて、八の字にして突き出すかたちである。たんに刀を相手の体に向けるのではなく、相手の「顔」に向けて突き出す。これが最も基本的な搆えである。

上段は、後出の「有搆無搆の教の事」に、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とあるから、中段の搆えをそのまま上へ上げたものであろう。

しかし、別の搆え方もあるようで、右図のように、太刀を上げるといよりも、太刀を握った右手の拳が顔の脇、耳の傍にくるようにして、太刀を右肩にかついだ形である。太刀先が後を向くのである。左手の刀の方は前へ向ける。――かなり特異な形であるが、これが、現今、しばしば紹介もされている上段の搆えである。

しかし、この搆え方の問題は、第一に、これが現行諸派の伝承だとしても、それは十八世紀を遡らないものであること、第二に、またそれに何より、五輪書にはそういう格好にしろとは書いていないこと、第三に、上記の「有搆無搆の教の事」の記事、つまり、上段も、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる、とある記事とも一致しないのである。

したがって、五輪書の上段の構えが、太刀を右肩にかついだ格好だとするには、確証がないだけではなく、いろいろ難点もある。我々の所見では、ここは五輪書の沿った搆え方を、その上段の搆えとして提示しておく。

次に、下段は、刀を下げたかたちである。太刀先は下を向いている。したがってこの搆えは、下方から上へ攻撃する搆えである。武蔵の肖像にはこのかたちに近いものがよくあるようだ。

左脇の搆えは、かなり特殊である。太刀が左脇にくるようにする。このとき太刀先は、左後を向いているかたちである。左手の刀は前に向けている。

右脇の搆えは、太刀が右脇にくるようにするが、右腕を横に伸ばして搆えるのではなく、太刀先は下を向いているのである。左手の刀は前に向けている。この引っ提げた右手の太刀を振り上げて打ち下ろす。

のちほど、それぞれの搆えについて説明があるので、この五通りの搆え、五方の搆えを頭に入れておいていただきたい。

さて、武蔵が言うのは、太刀の搆えはこの五通りしかないということである。つまり、《搆、五ツより外はなし》である。

ところが他の流派では、それこそ何十、何百という搆えのあるものがある。しかし、武蔵は搆えにこだわらないから、要するにこの五通りの搆えにすべては還元されると言うのである。

それよりも、武蔵が強調するのは、搆えを五つに分けるとはいえ、どれも人を切るためのものだということある。搆えはこの五つより外はない。しかもどの搆えであっても、「搆える」とは決して思わず、人を切るのだと思うべきである、と。

したがって、五輪書を読むとき、まさしく、これが人を殺傷する戦闘技術の教本であることを忘れはいけない。精神鍛錬や、まして処世術のための書ではないのである。   Go Back

 

 

(2)搆の極は中段

ここも分りやすい話である。搆えは五つ、しかも、その搆えの大きい小さいは、状況次第である。となると、搆えを細分して何十と型を教える剣法は、無意味な遊戯である。
《上中下は、躰の搆也。両脇は、ゆふの搆也》

五方の搆えのうち、上中下段の三つは「体」〔たい〕の搆えで、左脇右脇の搆えは「用」〔ゆう〕の搆えだという。この「体用」〔たいゆう〕は、本体/作用、実体/属性という意の対をなす概念で、一般的な語彙である。連歌誹諧にも体用を云う。

この武蔵の教えでは、体用は厳密な意味ではなく、世間で流通している「ゆるい」意味で用いられている。つまり、ここでの体と用の意味は、基本的なものと付属的なもの、というほどのことである。
(体の搆) 中段・上段・下段
(用の搆) 右脇の搆、左脇の搆

武蔵のシステムは、きわめてシンプルである。このシンプルな合理性が、武蔵の教えの特徴である。

しかし左脇右脇の搆えは、ちょっと変っているが、どんな時に使うのか。それは、上の方がつかえていて、基本形では無理な時、あるいは脇の一方がつかえている所などでの搆えである。左脇がつかえていたら、左脇の搆え、右脇がつかえていたら、右脇の搆えをとればいい。
《此道の大事にいはく、搆の極は中段と心得べし。中段、かまへの本意也》

何れにしても、もっとも基本的な搆えは中段である。それ以外の四つの搆えは、従たる位にある。したがって、武蔵はあらゆる搆えを、この中段の搆えに還元しうるものとみなす。

搆えの究極は中段と心得るべし。中段は搆えの本意である。この「本意」は、真意・本心というソリッドな意よりも、ここでは、本来あるべきかたち、というほどの意味である。

ここでも「この道の大事に曰く」が出てくる。直前には、足つかいのところで、「この道の大事に曰く、陰陽の足という…」という言葉があった。

これを見るに、やはり、武蔵の教えには、以前から、「搆の極は中段と心得べし」というテーゼがあったようで、その定式化された「大事」を武蔵はここで引用するかたちを取っている。

前にも申した通り、「大事」というのは、他流派ではたいてい秘儀秘事のことだが、武蔵流では逆にオープンに定式化されたテーゼである。言い換えれば、このテーゼが周知のものになっているという状況から、この自己引用=参照(self-reference)の身振りがある。

そのようなオープンな大事、《搆の極は中段と心得べし》を引用してみせて、武蔵は、中段は構えの本意だというのである。「本意」というちょっと難しい言葉を出してしまったので、武蔵は、合戦になぞらえて云えば、中段は大将みたいなものだな、という。

中段は大将みたいなものだな、というのは子供にもわかる譬えである。そこで、究極至極の奥義書である五輪書に、どうしてこんな子供相手のような表現が入っているのか、どうも解せない、という者があった。

しかしそれは物の見方が転倒しているのである。そもそも、五輪書が至極の奥義書だとするのが錯覚なのである。むしろ逆に、五輪書は、子供にも分るように書かれた兵法教本なのである。それを示すのが、中段は大将みたいなものだな、というこの表現なのである。

さても、そうであるなら、右のような搆えを武蔵に取らせた像は、きわめて不適切である。これは五方の搆えの何れでもないし、まして搆えの究極たる中段でもない。それゆえ、こんどどこかに新規に武蔵像を制作する向きがあれば、発注をうけた彫刻家は五輪書をきちんと再読して、必ず中段の搆えを取らせてもらいたいものである。

8 太刀の軌道

【原文】

一 太刀の道と云事。
太刀の道を知ると云ハ、
常に我さす刀を、指二つにて振る時も、
道筋よくしりてハ、自由に振もの也。
太刀をはやくふらんとするによつて、
太刀の道さかひて振がたし。
太刀ハ、振よきほどに、静に振心也。
或は扇、或は小刀などつかふ様に、
はやくふらんとおもふに依て、
太刀の道違ひて振がたし。
夫ハ、小刀きざみといひて、
太刀にてハ人のきれざるもの也。(1)
太刀を打さげてハ、あげよき道へ上、
横にふりてハ、横にもどりよき道へもどし、
いかにも大にひぢをのべて、
強く振る事、是太刀の道也。(2)
我が兵法の五つの表をつかひ覚ゆれバ、
太刀の道定て振よき所也。
能々鍛錬すべし。(3)
  

【現代文】

 

一 太刀の道〔軌道〕という事

太刀の道を知るというのは(以下のようなことである。――)

常に自分が差す刀を、(薬指と小指の)指二つで振るときも、(太刀の)道筋をよく知れば、自由自在に振れるものである。

太刀を早く振ろうとすると、太刀の軌道に逆らって、振るのが難しくなるのである。(だから)太刀は振りよい程に、静かに振るという感じにする。

扇あるいは小刀などを遣うように、太刀を早く振ろうと思うから、太刀の軌道がはずれて、振れない。それは「小刀きざみ」といって、太刀では(そんな振り方をすると)人を切れないものである。

太刀を打ち下げては、上げやすい軌道へ(振り)上げ、横へ振っては、横に戻りやすい軌道へ戻し、できるだけ大きく肱〔ひじ〕を延ばして、強く振ること、これが太刀の道筋である。

我が兵法の五つの表〔おもて〕のやり方を習得できれば、太刀の軌道が定まって振りやすくなるのである。よくよく鍛練すべし。

 

 

【註解】

 

 (1)太刀ハ、振よきほどに静に振心也

太刀を振るには、軌道というものがあるということ。これは、野球のバットでもゴルフのクラブでも同様であろう。棒状のものを振り回すには、その軌道をよく心得る必要がある

太刀は、野球のバットより重くそれなりの重量のあるものだが、武蔵流ではこれを、片手で、しかも指二つで振るのである。前にも見たように、この指二つは、薬指と小指である。後の三指は添え物である。

となると、力まかせに振るのではない。片手で太刀を持つのだから、両手で一刀を握って振るのとも訳が違う。

武蔵は云う、――太刀を早く振ろうとすると、かえって太刀の軌道に逆らって、振れないものである。刀の軌道を十分会得できれば、自由自在に振れる。

それはどういうことかというと、武蔵は、太刀は振りよい程に靜かに振るという感じにしろという。この「振りよいほどに靜かに振る」というところがポイントである。

扇や小刀など、小さいもの軽いものを遣うように、太刀を早く振ろうと思ってはいけない。このばあいの「扇」を、ふつうのよくある扇だと錯覚している者があるが、それは間違いである。この「扇」は鉄扇のことである。八寸から一尺二寸(24cm~36cm)ほどのものだが、これも小刀(短刀)と同じく武器の一つである。だから、ここでは《或は扇、或は小刀などつかふ様に》といって、扇も武器として「遣う」ものなのである。

早く振ろうとして、鉄扇や短刀を振るみたいにして太刀を振る。そんなやり方で太刀を振っては、人は切れないと、武蔵は言う。太刀で人を切るには、それなりの方法があり、技術と訓練が必要なのである。つまり、振る太刀の軌道を知らねばならない。

なお、ここにいう「小刀きざみ」は、「小刀細工」に同じ、いわゆる小細工のことである。目先の小さなことにかまけること、いたずらにセコい策略を弄することである。ところが、ここで武蔵はこの比喩を、字義通りの「小刀きざみ」へ返す、というワードプレイ(言語遊戯)を演じている。

ここでは掲示しないが、この点に関し、既成現代語訳は、それぞれに不適切である。岩波版注記に、これを《実戦には役に立たないことの比喩》とするが、これはそんな比喩ではなく、まさしく、文字通りの「小刀きざみ」なのである。

――――――――――――

 

五輪書は、太刀を早く振ろうと思うなと、ここで扇と小刀を引き合いを出しているが、肥後兵法書では、小太刀と「そくひへら」を持ち出している。

この「そくひへら」というのは、糊箆のこと、つまり染色などで糊付けをするときの箆棒である。箆であるから、ごく軽い。しかし、五輪書に、扇や小刀とあるのに、肥後兵法書が「そくひへら」をどうして持ち出すのか、そのあたりを穿鑿してみるのも面白かろう。

穿った見方をすれば、これは吉岡流への当て擦りのように見える。吉岡憲房が染色業者であり、常日ごろ糊箆を使っているうちに、小太刀の極意を得たという咄が巷間にあったが、そういう俗説がここへ反映されたという可能性がなきにしもあらず。もちろんそれは後世の伝説だから、実際の事蹟とは無縁なことである。これも肥後兵法書が後人の作物たる徴候である。

肥後兵法書では、その「そくひへら」が小太刀とともに出る。ということは、これは富田流小太刀も言外にあるということである。そうして小太刀といえば、「そくひへら」の吉岡もそうだな、という具合である。しかし、そうなると、太刀の道という話は若干ズレてくる。

五輪書風之巻に小太刀への偏向批判がある。風之巻の小太刀批判は、どちらかというと、隙を狙って飛んだり跳ねたり転んだりする奇手への偏向批判である。太刀を早く振ろうとするな、という趣旨ではない。

太刀の軌道という五輪書の本条へもどれば、扇や小刀を振るように早く太刀を振ろうと思うな、それは「小刀きざみ」といって、そんな振り方をすると人を切れないぞ、太刀は静かに振れ、という教えである。しかるに、肥後兵法書の作者は、そのあたりの趣旨を理解していないようで、「小刀きざみ」の小刀を、小太刀と錯覚したらしい。肥後兵法書の記述には、そういう理解のズレによる不正確さもある。この点も注意すべきところである。

 

 

(2)太刀を打さげてハ、あげよき道へ上

太刀の軌道が定まれば、太刀は振りやすくなる。容易で自由なところへ行けるのは、練習の賜物だが、いずれにしても、無理なことをやっていてはいけない。物事には合理性、合法則性というものがある。

太刀は打ち下げたら、上げやすい軌道へ振り上げ、横に振ったら、横に戻しやすい軌道へ戻し、できるだけ大きく肱を延ばして一気に強く振る、これが太刀の道筋である。

――と、教えは明確でシンプルである。太刀の振り方も物理法則に従わねばならない。その法則を体得するのが重要である。容易で自由(easy and free)という武蔵の教えの境位は、法則と合致したところに生じる。このあたり、職人としての合理性が発露しているところである。武蔵のラショナリズム(rationalism)である。

実はこの、武蔵の合理性、合法則性ということに注意しなければならない。それは武蔵が巨漢で、言い伝えでは大力の男だったからだ。常人の何倍も膂力の強い人間だが、その人物が、やみくもな力まかせではなく、このように静かにスムースに太刀を振れと教えるのである。

だからこそ、武蔵の「理論」に説得力があったのだと思われる。つまり武蔵の戦闘術の天才は、その持って生まれた肉体によるのではなく、物理法則を把握する能力にあったということである。  

 


(3)我が兵法の五つの表

兵法の五つの「表」〔おもて〕という言葉が出てきた。この「表」は、当時の兵法用語では、表/奥、表/裏の「表」である。目録には、たいてい、表につづいて奥や裏などの術名リストがある。

しかるに、武蔵の教えの特徴は、表はあっても、奥や裏がないことである。奥や裏というものを設けて、いかにも裏や奥があるように修行システムを構成する流派がほとんどだった。だが、そんな裏や奥というものは、見せかけにすぎない、というのが武蔵のスタンスである。裏なき表、奥なき表、――これが武蔵的なシステムである。

また、「表」を「基本形」と訳してしまう現代語諸訳の傾向は、いわゆる「超訳」に等しいもので、適切ではない。「表」は「表」である。それでよいのである。

しかし、現代人の概念に相応させるために、本来の語義である表/奥、表/裏の「表」であることを無視して、むりやり「基本形」とせざるをえないのが実状である。それでも、武蔵の「表」をいうばあい、あくまでも、裏なき表、奥なき表、という根本は念頭に置いてもらいたいものである。

 

9 表第一 中段の搆え 

【原文】

 

一 五つの表の次第の事。第一の構、中段。
敵に行相時、太刀先を敵のかほへ付て、
敵太刀うちかくる時、右へ太刀をはづしてのり、
又敵うち懸る時、切先かへしにて打、
うち落したる太刀、其まゝ置、
又敵の打かくる時、下より敵の手をはる、
是第一也。(1)

惣別、此五つの表、
書付る斗にてハ合点なりがたし。
五ツの表の分ハ、
手にとつて、太刀の道稽古する所也。
此五つの太刀筋にて、
我太刀の道をもしり、
いかやうにも敵のうつ太刀しるゝ所也。
是、二刀の太刀の搆、五つより外にあらず、と
しらする所也。鍛錬すべき也。(2)

 

 

【現代文】

 


一 五つの表の次第の事。第一の搆え、中段。

敵に相遇した時、太刀先を敵の顔に向けて付け、敵が太刀を打ちかかってくると、右へ敵の太刀を外してのる*。さらにまた、敵が打ちかかってくる時、切先返しで打ち、打ち下した(自分の)太刀はそのままにしておいて、また敵が打ちかかる時、下から敵の手を張る、これが第一である。


総じて、この五つの表は、書いたものを読んだだけでは、合点がいかないはずだ。(だから)五つの表のそれぞれは、実際に刀を手に取って、太刀の道筋を稽古するのである。

この五つの太刀筋によって、我が流派の太刀の軌道をも知り、敵の打つどんな太刀でも知ることができるのである。

これは、二刀の太刀の搆えは、この五つ以外にはない、と知らしめるところである。鍛練すべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)第一の搆、中段

ここから以下、五段にわたって、五方の搆えを順次述べて行く。まずは、五方の搆えの第一、中段の搆えである。

内容に入る前に、まずは、冒頭、語順の問題がある。というのも、《太刀先を敵のかほへ付て、敵に行合ふ時、敵太刀うちかくる時…》とあって、いかにも奇妙な語順である。これは、諸写本、筑前系・肥後系共通のかたちであるから、寺尾孫之丞の段階にすでにあった語順であろう。

ここは、《敵に行合ふ時》を先へ出した方がよさそうである。つまり、《敵に行合ふ時、太刀先を敵のかほへ付て、敵太刀うちかくる時…》と直して、我々のテクストでは、想定すべきオリジナルを遡及的に修復しておく。

さて、敵と遭遇したら、まず、太刀先を敵の顔を向けて付ける。敵の体ではなく、顔である。これは、相手にとっては、太刀の尖端が自分の顔に向いているから、イヤな感じである。

そして次に、具体的な打ち方が述べられる。相手が打ってくると、右に外して「のる」とある。右に外すのはわかるが、この「のる」というのが、実は語釈上問題である。

この「敵が太刀を打ち懸ける時、右へ太刀をはずして、のり」という部分につき、訳例をみるに、戦前の石田訳は「付け入る」としている。この語訳では「のる」の語義から外れる。しかし、それもまだマシな方で、戦後になると、神子訳は、「おさえる」と訳した。しかし、「のる」には、押さえるという意味はない。これはまったく的外れで、明らかに誤訳である。

神子訳以後の語訳は、大河内訳、鎌田訳とも、神子訳の「おさえる」を頂戴している。何の工夫もなく、まさに安易な流用である。

現に剣道をやっている人々が、本になって出ているどの現代語訳を読んでも、さっぱりわからない、言われている意味がつかめないところがある、という。さもありなん、である。

しかるに、そんな誤訳しか見当たらない。訳者の中には自分は剣道をやっていると称する者すらあるが、こんな誤訳を公刊していては、本当に剣道をやっているのか、と疑わざるをえない。かようにも、まったく困った状況なのである。

もともと「のる」という語には、色々な意味がある。たとえば「城乗り」というケースだと、攻城戦で敵の城を制圧することである。「のるか反るか」だと、この「のる」は「伸る」ということ、真っ直ぐになるということである。ところがまた、「のる」という語には「反る」、のけぞるという意味もある。しかしむろん、五輪書のこの場合の「のる」は、その何れとも違う。

ところが、これに類似の「のる」という語は、実は今日の口語にも殘っている。つまり、「のっている」とか「のりがよい」とかいう場合の「のり」である。たんに調子がよいというだけではなく、アグレッシヴに前向きに調子がよいことである。

五輪書でいう「のる」というのは、それだけではなく、前に出るという感じである。アグレッシヴに「のって、出る」ということである。敵が打ってきたところを、ズイと打ち込むのだが、敵が太刀を打出す、その調子にのって、攻撃に出るのである。

したがって、現代剣道でいうところの「のる」もそれに似て、相手が打つと退くのではなく、相手が打つと、こちらも同時に打出すのを「のる」という。だから、上記既成現代語訳が、どうして「おさえる」などという珍語釈に至ったのか、奇怪に思われるところである。

ともあれ、この「のる」という語は、スペシフィックな兵法用語なので、無理やり別の現代語に置き換えない方がよい。誤解のもとである。五輪書を読もうというほどの者なら、この「のる」という語を心得ておいてもらいたい。

さて、五輪書にもどれば、次にくる連続わざの記述は、そのまま問題なく読めるであろう。敵が打ちかかってくる時、切先返しで打ち、打ち下した太刀はそのままにしておいて、また敵が打かかる時、下から敵の手を張る、ということである。

なお、蛇足になるが、ここで「顔を突く」「手を打つ」「手を張る」というように、攻撃箇処が敵の胴体ではなく、顔や手であるのは、甲冑で防護されていない部分を狙うということである。

時代劇の剣戟シーンでは、胴をバサバサ斬っているが、もちろんそれは、いわゆる「素肌」剣法で、実戦での甲冑装着を前提としたものではない。実戦では、甲冑で防護されていない部分を狙う。顔はもちろん、手を損傷させれば、敵は戦闘能力を失うのである。そして殺した敵のその首を取るかとらぬかは、状況次第である。

これを要するに、五輪書は、道場剣術を教えているのではなく、あくまでも、戦場での実戦の戦闘術を教えるということなのである。

――――――――――――

 


ここで、校異の問題に立ち入る。それは、この段の見出し部分、筑前系諸本には、
《五つの表の次第の事。第一の搆、中段》
とあって、《五つの表の次第の事》とするところ、肥後系諸本には、これを《五つの表の次第第一の事》として、「第一」という字句を重複して記す。

これは、筑前系は諸本共通し、また肥後系も諸本共通するところであるから、筑前系/肥後系を区分する指標的相異である。

しかし、これは、さして深入りするまでもないことで、筑前系の方は、越後系異本まで共通して、この重複を示さないから、筑前系初期からそうであった。柴任美矩が寺尾孫之丞から承けた五輪書には、この重複はなかったと思われる。また、寺尾が後に、この重複を記した五輪書を伝授したとも考えられない。

肥後系の字句のばあい、《五つの表の次第「第一」の事。「第一」の搆、中段》とあって、「第一」という語が重複するもので、いかにも最初の「第一」が余計な文字である。

この誤記は、富永家本も円明流系統諸本も共通するものであるから、肥後系早期にすでに発生していたとみえる。おそらく門外流出後早々に、この重複衍字を記す写本が発生して、以後伝播したものとみえる。

したがって、問題は、この誤記が肥後系諸本に共通して存在することである。つまり、頻発しそうにないこの箇処で、この偶発的な衍字が生じているのである。

そのことからすれば、肥後系諸写本の元祖一本というものの存在を想定しなければならない。言い換えれば、肥後系諸写本は複数の先祖をもつのではなく、早期に発生した特定の元祖を共有するのである。このことは、また別の諸箇処でも見出しうる注目すべき特異点である。

なおまた別の校異では、筑前系のうち早川系に、特徴的な脱字が見られることである。すなわち、それは、吉田家本及び立花=越後系諸本が、

  《切先かへしにて打、うち落したる太刀》
とするところ、中山文庫・伊丹家甲乙本では、この「打」字を脱落せしめて、《切先かへしにて、うち落したる太刀》とするのである。

これは、肥後系諸本を参照するまでもなく、明らかに脱字である。同じ早川系でも、吉田家本が「打」字を保全しているところをみると、早川系において吉田家本が分岐した後に発生した脱字である。

同じ筑前系である越後系諸本は基本的にこの語を落さないのに、後期写本である猿子家本にはこの脱落を示す。あるいは、肥後系でも稼堂文庫や大瀧家本などもこれを落す。これが書写段階で落ちやすい文字であることは、見やすい道理である。「打、うち」と同じ語が連続するからである。これは、文字の重複を誤記と見て、書写者が衍字として処理するパターンである。

この校異を採り上げたのは、同じ筑前早川系でも、吉田家本と他の諸本に相異のあること、つまり、吉田家本が早川系早期に分岐したことである。このケースでは吉田家本の方が正しいが、もとより、その逆のケースもある。早期に分岐したということと、書写の正しさは必ずしも一致しない。この点、注意を喚起しておく。


――――――――――――


ところで、中段、上段、下段、左脇、右脇とある五方の搆えについて、肥後系後期写本の田村家本五輪書には、見出しに添え書きして、中段には「喝咄切先搆」、上段には「義段搆」、下段には「右直搆」、左脇には「重気搆」、右脇には「衰形搆」と記す。むろん、これらは他の諸写本にはない後世の増補字句である。

他方、三十九箇条肥後兵法書には、五輪書の五方の搆えに対応するようにみえる條々がある。これはむろん、現在流布している「兵法三十五箇条」版にはない條々である。

五輪書の配列とは順序は違うが、それを、中段には「喝咄切先返」、上段には「儀談」、下段には「すいけい」、左脇には「重氣」、右脇には「うちょく」という名称を用いている。五方の搆えにこういう異名を付したのは、肥後武蔵門流のうち、村上派およびその支流の伝書である。とすれば、対応名称は異なるものの、田村家本五輪書の作成者は、村上派門人として、こうした肥後兵法書の搆えの名称を五輪書へ持ち込んだのである。

肥後兵法書においては、第一の中段については、「喝咄切先返、中段」とあって、右に掲げるような記述がある。すなわち、

――敵と間合いが遠い時、刀を提げ、敵の刀が届かない距離で、身体を真正面に向け真っ直ぐに立ち、太刀の左右の手を前に出す。太刀は大小ともに刃をあまり立てず、また横に寝かせず、少し(内へ)斜にして、懐を広くとって、大小二つの刀をやや組んだようにして中段に持つ。刀はあまり突き出さず、肱をからめたり太刀を重ねたりせず、右の太刀先を少し上げる感じで、剣の尖端が中心線にあるように搆える。

そのとき、「意の心」をかるく、「心の心」を残して、敵が太刀を打ち出す心を受けて、まるで敵の打つ太刀など当らないかのように、相手の顔めがけて太刀を突きかけて、敵に仕掛けるきっかけを失なわせ、そして敵がしかたなく打ってくるところを、切先を返して上から手を打つ。打ったその太刀は、前方に捨てたようにひっ提さげて、我身を動かさず、敵がまた打ちかかってくるところを、三分一で下から手を張る。

要するに、敵が打ちかかろうと思う心が起きたその頭に我が心をつけ、先へ先へと心が先回りするのである。この「切先返、中段」の太刀は、何れの場合にも使える。よくよく分別すべし。

――というわけで、肥後兵法書の方は五輪書の記述より詳しい説明である。しかし、その内容は五輪書とは違ってしまっている。

たとえば、五輪書に、《敵太刀うちかくる時、右へ太刀をはづしてのり》、つまり、敵が太刀を打ちかかってくると、右へ敵の太刀を外して「のる」、という特徴的な記述が、肥後兵法書にはない。その代りに、《意の心をかろく、心の心を殘して、敵打出す心を請、敵の打太刀にあたらざるごとく、向の顔に突かけ、敵にたくみをうしなはせ》と、心持を語り、相手の顔に突きかけるという記事が入っている。

最初の、敵と間合いが遠い時、刀を提げ、敵の刀が届かない距離で、というあたりも、五輪書には見られない記事である。後は基本的に五輪書の記事と同じであるが、以上のように、前半部にかなり相異がある。

これは、肥後の寺尾求馬助系統で生じた変異である。肥後兵法書が示す内容をみれば、武蔵死後、教義の内容もかなり変化したことがわかる。ただし、それだけではなく、五方の搆えに関して、肥後兵法書の記述には全体に問題が多い。それは以下の条々それぞれにおいて検分するであろう。

 


(2)二刀の太刀の搆、五つより外にあらず

この部分は、五方の太刀全般にわたる総括的な話なので、この場所では納まり悪い。しかし、諸写本同じくここにあるところをみると、寺尾孫之丞の編集段階で、ここに取り込まれたものである。

ただし、記述の内容は重要である。

いわく、この五つの表は、書いたものを読んだだけでは、合点がいかないはずだ。だから、五つの表のそれぞれは、実際に刀を手に取って、太刀の道筋を稽古するのである。この五つの太刀筋によって、自分の太刀の軌道も知り、敵の打つどんな太刀でも知ることができる。これは、二刀の太刀の搆えはこの五つ以外にはない、と教えるところである――と。

後出の第五、右脇の搆えに続く、五方の搆えの総括文と重複する内容だが、若干の違いがある。そこで想定しうるのは、――武蔵の草稿には、似たような記述のある断簡があった。しかし、寺尾孫之丞はそのどれも捨てず、取り込んで編集した――ということである。断簡状態の草稿、その痕跡が、こういう部分に遺蹟のように残ったのである。


さてここで、まさに《二刀の太刀の搆、五つより外にあらず》とあるように、五方の搆えは「二刀」の太刀の搆えなのである。

これによって問題は、一刀流しか知らない現代剣道では、この武蔵の五方の搆えから行う打ちを、どう評価してよいのか分らぬ、という意見の出ることである。

近年では、二刀流を邪道と公言する粗忽者はさすがに見えないが、それでも、実際にこれがどのような動きを意味していたのか、知りようがないとする剣道家もあることからすれば、武蔵の戦闘術は想像の埒外にあるもののごとくである。

右掲の直木三十五の武蔵論は有名で、いまだに直木の武蔵評を、鸚鵡のように繰り返す亜流説は絶えない。そこで、これについて少し関説しておくのも、無駄ではあるまい。

直木は、武蔵は決して二刀を使っていないなどと、見てきたようなことを書いている。同時代の林羅山が、新免玄信像賛で、武蔵の「二刀一流」のことを書いているのを、忘れているようである。

どうやら彼は五輪書をろくに読まずにこの文を書いたらしい。《二刀の太刀の搆、五つより外にあらず》と書いているように、武蔵の五方の搆えは、二刀遣いを教えている。しかし、直木は五輪書を読んでも、二刀遣いとは読めなかった。太刀は一刀だという思い込みが強すぎるのである。

そうして、二刀流は、武蔵ではなく、青木鉄人以後、道場剣術全盛になって以後のことだという。直木の論は、歴史の順序からすると逆である。青木鉄人については、さも確かなようなことを書いているが、実際には不明なことが多い人物である。信憑性のないわずかな文献史料しかないのである。もとより、青木鉄人が武蔵の直弟子だったとするたしかな証拠もない。そんな青木鉄人をもって、武蔵門流を代表させるわけにはいかないのである。

そのほか、たかが二尺二三寸の真剣が一貫七八百目(6.5kg前後)もあるなどとは、七八尺の野太刀でもあるまいし、直木は太刀の重さすら知らないのである。刃渡り二尺二三寸ていどの並の長さの真剣ではせいぜい重量は1kgである。このていどの知識の持主が、剣豪作家とされていたのである。ましてや、二刀流なら中国や朝鮮にもあったことなど、直木は知らない。

維新前後、剣術の再び盛んになった頃には、二刀流などという馬鹿馬鹿しいものは一人も使っていないなどと、これまた見てきたようなことを云うが、幕末はおろか明治に至るまでも、全国各地で、武蔵の二刀流は伝承されていたのである。

右掲画像は、三河岡崎の本多家中で剣術師範だったという人物が、明治二十四年(1891)七十九歳の時、家康生誕三百五十年祭に演武した折の像である。腰曲がり体も縮んでしまった高齢の老人が、二刀の木刀を提げている。味のある肖像である。

本多家先祖は、播州姫路時代、忠政はじめ武蔵に縁があった。その後、本多家は有為転変あって諸国に移封されたが、岡崎にもどった末裔があり、幕末まで同地に五万石で存続したのである。播磨時代、武蔵の門人に石川主税があり、この石川の道統が、以後本多家中に、武蔵流として、命脈連綿として続いたようすである。

この五輪書読解に再三その名が出る柴任美矩は、当流三代目だが、大和郡山と播州姫路で二度本多家に仕官している。本多家はこの柴任美矩の時代にも武蔵流と縁があった。また柴任が、筑前黒田家中に残した道統は、後に越後へも伝播し、そこで明治中期まで存続していたことを、当流伝書で確認しうる。武蔵の二刀流とその門流については、いわば、直木などの知らないことが、それこそ山とあるのである。

ともあれ、直木のように、二刀は実戦的ではないとするのは、実戦を知らない現代剣道のイデオロギー的症候の一種。道場剣道をやったり居合をやったりしているのもいいが、実戦での殺人技術としての武蔵の二刀の流儀に対しては、ほとんど素人談義なのである。

しかし直木にかぎらず、現代剣道に染まった者ほど、武蔵の二刀論は理解しにくいのが実際である。それほどまでに、つまり五輪書を読んでも、具体的なイメージをもてないというほどまでに、現代剣道と武蔵の実戦的な教えは遠く離れ、くい違ってしまったのである。 

 

10 表第二 上段の搆え

【原文】

 

一 表、第二の次第の事。
第二の太刀、上段に構、
敵打懸る所、一度に敵を打也。
敵を打はづしたる太刀、其まゝ置て、
又敵のうつところを、下よりすくひ上てうつ。
今一つうつも、同じ事也。(1)

此表の内におゐてハ、
様々の心持、色々の拍子、
此表の内を以て、一流の鍛錬をすれバ、
五つの太刀の道、こまやかにしつて、
いかやうにも勝所有。稽古すべき也。(2)

【現代文】

 

一 表、第二の次第の事

第二の太刀は、上段に搆え、敵が打かかるところを、(左右)同時に敵を打つのである。

敵を打ち外したときは、太刀はそのままにしておいて、さらに敵の打ってくるところを、下からすくい上げて打つ。もう一度打つのも、同じようにする。


この(五つの)表の内には、さまざまの心持、いろいろの拍子があるが、この表の内をもって我が流派の鍛練をすれば、五つの太刀の道筋を詳しく知って、いかようにも勝てるようになる。稽古すべきである。

 

 

【註解】

 (1)上段に構、敵打懸る所、一度に敵を打也

上段は、上に太刀をあげたその搆えから、敵が打かかるところを、左右同時に敵を打つ。ここで、「一度に」とあるのは、同時に、ということだから、左右の太刀二刀を同時に振り下ろして敵を打つということである。武蔵二刀流に特徴的な打ちとみてよかろう。

そうして打っても、敵を打ち外すことがある。その時は、振り下ろした太刀はそのままにしておいて、さらに敵の打ってくるところを、下からすくい上げて打つ。もう一度打つのも、同じようにする。

ようするに、敵を打ち外しても、慌ててすぐさま振り上げるのではなく、敵が次に打ってくるところを、下からすくい上げて打つのである。そうして無駄なく滑らかに太刀の軌道を運用するのだが、下からすくい上げて打つ、ということなら、それはすでに下段からの攻撃である。この打ちは上下を繰り返す。

ふつう、上段といえば、上に振りかぶった派手な攻撃であるが、武蔵流の上段の太刀筋は、けっして派手なものではない。ようするに上段の構えは、敵の手を攻撃する。手は必然的に防護されていないからだ。手を切れば敵は戦闘能力を失う。上段から一刀両断、というのは、剣豪小説の世界のフィクションであって、現実の戦場ではありえないことである。

ちなみにもう一つ言えば、実際、戦場では、両手で一刀を握った上段は使えない。冑や鎧など防具を装着しているから、それが邪魔して、両手で一刀をもって上段に振りかぶるというのは、実際的ではない。武蔵の上段がかような形をとるのは、甲冑を着けた状況での戦闘術だからである。通常の派手な上段の搆えは、実戦では役に立たないのである。

武蔵の上段の搆えは、図のように、太刀の位置はそう高くはない。少し下がれば、中段の搆えになってしまうほどである。だから、通例の上段のように、振り下ろしたらそれで終りの「必殺剣」ではない。振り下ろして敵を打ち外しても、下からすくいあげて打つという次の攻撃にかかるのである。

したがって、上段といってもさして高くはなく、振り下ろしても、次に下からすくい上げるという打ちが可能である。敵を打つこと、敵の太刀をあしらうこと、本質的に中段の搆えと違いがあるわけではない。要は、搆え直したりせず、太刀を戻すことはいらないということだ。攻撃は連続的でなければならないということである。

――――――――――――


ここで、校異の問題として指摘すべき箇所が一つある。それは、筑前系/肥後系を共通して、語句を同じくするところ、肥後系細川家本の系統だけが誤記するという例である。

すなわち、本条見出し部分のことだが、細川家本に、
《一 おもての第二の次第の事》
とあって、「の」字を付するところ、同系統の常武堂本を除いて、他の諸本には、この字はない。近縁関係にある楠家本にもそれはない。明らかに、これは誤記である。

このように、近縁諸本にはない、細川家本に特異な誤記があるということは、それが派生後期の誤記だということである。言い換えれば、そうした後発性の誤記を細川家本が有するということは、この写本が後発の写本であり、決して古い段階のものではないことを意味する。

細川家本を、何か特別な写本であるがごとく錯覚して、しかもそのように妄説する五輪書解説本がいまだに出ているが、こうした衍字のわずか一字でさえ、それを誤りとするに充分である。細川家本は後発の写本であり、決して古い段階のものではない。このことは、筑前系諸本にまで横断して照合するまでもなく、肥後系諸本間の語句を付き合わせてみれば、容易に判明することなのである。この点は、本書の諸処で確認されるであろう。

――――――――――――


ここで、肥後兵法書を参照すれば、上段は「儀談〔ぎだん〕の搆え」というわけであるが、上段の搆の記事内容は、五輪書とはまったく違っている。どう違うのか、一通り読んでおくことにする。

肥後兵法書によれば、上段の搆えは、太刀を握った右の手を上げて、耳に並べるという感じで、太刀の束柄の先は開かないようにして、手の内は固く握らず弛めず、前せまに(つまり、太刀の束先が開かないように、と同義)搆える。前に向けた左手の刀は差し出すということではなく、その高さは上中下少し変るが、そのいずれかは敵の搆え次第である。

ここまでで、五輪書の上段の搆えとまったく違っていることが分る。まず、太刀を握った右手は耳のあたりにある。しかも、太刀の束先が開かないように、前せまに、ということからすると、太刀の切先は後にある。つまりは太刀を右肩上にかついだ格好である。

そして、左の小太刀の方は、敵の出方しだいで、高さは上中下何れでもありうるが、これは前に向いている。したがって、左の太刀は前に、右の太刀は右肩の上にあって、後ろを向いているのである。

しかし、前にも見たように、五輪書では、「上段も、時にしたがい少し下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる。下段も、折にふれ少し上れば、中段となる」(有搆無搆の教の事)ということであった。

とすれば、五輪書の上段は、太刀を右肩にかついだ格好ではありえないのである。だいいち、肥後兵法書の上段の搆えでは、太刀の切先が後ろに向いているのである。これでは、「上段も、時にしたがい、少し下る感じであれば、中段となる」という具合にはいかない。

このように、肥後兵法書のいう上段(儀談の搆え)は、五輪書の上段とは似ても似つかない形になっている。そこで、以下どういう記述が続くか――。

まず、太刀を打ち出すに、その遅い速い、浅い深い、軽い重いの違いがあるが、何れも敵の打ち方に応じてのこと。表としては、敵の手を打つ。太刀筋を下へ打つことはない。向うへ打つのである、と。

したがって、こういうことだから、五輪書のように、上から打って、また下からすくい上げて打つ、というわけではない。その代りに、喝咄〔かっとつ〕の話が出てくる。

されば、太刀筋を喝咄する(突き上げ、打ち下ろす)とき、太刀の刃を立て、敵の打ち出してくるその手を突く。――これも五輪書にはない話であり、五輪書では先の通り、下からすくい上げて打つ、ということである。

さらに下から打ち上げるに、敵の太刀に当っても当らなくても同じことである。こちらの手先が狂わぬように、早く打つことが第一である。もし打ち合って喝咄が連続する太刀筋であれば、「付ける」こともある。敵合いが近いと、うまくいかないから、受けて取るということ、これを吟味すべし。

――というわけで、最後には、「受けて取る」という話になって、上段の搆えから打つという話の筋は、脱線して、別の方向へ行ってしまっている。

こうしてみると、とくに問題なのは、《右の手を耳にくらぶると云心、太刀の柄先開く心なく》、つまり、太刀を握る右手は耳の脇において、太刀の柄先は開かないようにして、とあるところである。ようするに、上段の搆えは右肩上に太刀をかついだ格好であり、すでに肥後兵法書の段階で形が違ってしまっているのである。

これも、武蔵死後、寺尾求馬助系統で発生した変異であろう。その時期はいつの段階か不明だが、寺尾求馬助よりも後の世代のことであろう。とすれば、肥後兵法書の記事が書かれた時点も寺尾求馬助以後のこととみえる。

このあたり他流にも、武蔵流の上段を、肩にかつぐ形とみた記録がある。時中流は二刀流で、青木休心を祖とする広義の武蔵道統の一派だが、武蔵晩年の肥後系流派を他派と見ている。その「諸流極意秘傳之巻」なる伝書に、「神明武蔵」の五箇位として、五方の搆えを記している。

そのうち、現存する最も古い伝書(享保十六年)によれば、「神明武蔵」の五箇位のうち、上段に相当するのは、第五番目にあって、《小太刀目通リニサシ出、大太刀右ノ肩ノ上ニモチ、如前仕カケ、小太刀サゲナガラ、大太刀上ヨリ延切ニ打ナリ。早切ト云テ、向ノ頭胸下リ兩手マデ切込勝也》としている。

ということは、すくなくとも享保年間までに、「神明武蔵」の流派の上段は、大太刀を右の肩の上にもつという形だと知られていたのである。したがって、この上段の形は、寺尾求馬助系統で発生したとしても、それは享保年間以前、ということである。寺尾求馬助もしくはその子の世代までには、この形の形成があったらしい。ただし、上段を「儀談」の搆えとするような記事は、時中流の伝書にはないから、こうした形の名称は、享保年間以後の発生かもしれない。

ともあれ、右肩上に太刀をかついだ格好の上段の搆えは、後世の変形である。現在、武蔵の二刀流を伝承すると称する諸流があるが、その中には、太刀を肩にかついだ恰好の形をもって上段の搆えとするものがある。それはしかし、武蔵ではなく、寺尾求馬助の系統で生じた変形であって、五輪書の記述内容とは無縁のものである。したがって、そのような搆えは、厳密に謂えば、五輪書の流儀ではないのである。

むろん、上段の搆えについては、こうした肥後系の伝承とはちがう他の形もあったようである。

たとえば、『丹治峯均筆記』には、武蔵が塩田浜之丞宅で熊本細川家士と立合ったという場面で、《武州、上段ヲ弘ク大キニカマヘ》とある。つまり、武蔵のこの上段は、広く大きく構えるかたちである。これは、太刀を右肩に担ぐ格好とは、まるきり違う。

あるいは、その筑前二天流の末流、後世の越後の口伝書(二刀流口訣条々覺書)では、
《表五條     各面授口訣

 其一  中段合

 其二  上段開

 其三  下段合

 其四  大出左挟之、小横翳之

 其五  小横翳之、大披後曳之

右何れも、調子拍子ゆる/\と遣ひ習ふべし》
とあって、中段は合、上段は開、下段は合、と記す。中段と下段が「合」〔ごう〕であるのに対し、上段のみ「開」〔かい〕としている。この「合」「開」は、大小二刀の「合」であり「開」なのだが、その「開」の様態については、とくに記載がない。

前掲の我々のイラストでは、「開」ではなく、「合」のかたちである。もし「開」であるとすれば、これは右図の如く、左右に「開」のかたちである。

これは筑前二天流の伝承である。つまり、寺尾孫之丞信正→柴任美矩→吉田実連と伝えた系統である。このように、寺尾孫之丞の系統では、肥後兵法書が記すような、太刀を右肩上にかつぐ上段の搆えは存在しない。これを確認しておくべきである。

ともあれ、この上段の構えについては、武蔵道統を称する現存諸派の伝承もあるが、武蔵の時代のかたちとなると、確証がない。そういう留保条件を付して、我々の上段の解釈にしても、五輪書の記述に忠実に沿えばこうなるということであり、さしあたり想定しうる形としておくのであって、必ずしも「上段、開」の形を排除するものではない。

以上のように、この上段の搆えには問題が残る。ただし、肥後兵法書の右肩上にかつぐ上段の搆えは、寺尾孫之丞の系統にはない形である。むろんそのことから知れるのは、この形が肥後の求馬助系統で発生した変形だということである。したがって、右肩上にかつぐ上段の形を示す流儀は、五輪書の武蔵ではなく、寺尾求馬助以後の段階から派生した新儀である。これを武蔵の上段の搆えとするのは、冗談というべきであろう。

 


(2)此表の内におゐてハ

これも、前記中段の搆えの記述の後半にあったと同じく、五方総括的な話である。

つまり、この五つ表の内には、さまざまの心持、いろいろの拍子があるが、この表の内をもって我が流派の鍛練をすれば、五つの太刀の道筋を詳しく知って、いかようにも勝てるようになる。稽古すべきである、と。

これも前後重複する記述である。最後にまとめて一箇所に書けばよいことが、分散して重複配置されている。これはいかなることかと云えば、前に述べたように、武蔵の草稿には、似たような記述のある断簡があったが、寺尾孫之丞はそのどれも捨てず、取り込んで編集したのである。断簡状態の草稿が、こういう部分に織り込まれているのである。 

11 表第三 下段の搆え

【原文】

 一 表、第三の次第の事。
第三の搆、下段にもち、ひつさげたる心にして、
敵のうちかくる所を、下より手をはるなり。
手をはる所を、又敵はる太刀を
打落さんとする所を、こす拍子にて、
敵うちたる跡、二のうでを横に切こゝろ也。
下段にて、敵のうつ所を、
一度に打とむる事也。(1)
下段の搆、道をはこぶに、
はやき時もおそき時も、出合もの也。
太刀をとつて、鍛錬すべきもの也。(2) 

 

 

【現代文】

 

一 表、第三の次第の事

第三の搆は、(両刀を)下段に持ち、引っさげた感じで、敵が打ちかかるところを、下から敵の手を張るのである。

(こちらが)手を張るところを、また敵がその張る太刀を打落そうとするのを、(こちらは)越す*拍子で、敵が打った後、二の腕〔上腕〕を横に切るのである。敵の打ってくるところを、下段で一度に打ち留めることである。

下段の搆えは、(太刀の)道筋を運用するに、早い時も遅い時も、どちらにも使えるものである。太刀を手に取って、鍛練すべきである。 

【註解】

 

 (1)第三の搆、下段にもち

下段の搆えである。二刀をひっ下げた感じでもち、敵が打ちかかるところを、下から攻撃するのである。とりあえず、分りやすい話で、読むのに問題はない。

ただ、語釈に関して言えば、問題は、まず《又敵はる太刀を打落さんとする所を、こす拍子にて、敵うちたる跡、二のうでを横に切る》というところの「こす」という語であろう。この語の解釈で内容は大きくちがってくる。

すなわち、既成の現代語訳を見てみると、ここは話がずいぶん違うのである。まさに、いったいどうなっているのかい、という有様である。彼らの誤訳ぶりをとくと見てみよう。

まず、戦前の石田訳は、「越す即ちはづす」として、これを「外す」と語釈している。しかし、「越す」という語には外すという語意はない。

戦後の神子訳は、「下から起す」である。これは、《太刀を打落さんとする所を、こす拍子にて》とあるところを、「太刀を打落さんとする所、をこす拍子にて」と、誤って句読点を入れて読んでしまったのである。これは仮名文字の「こす」が、「越す」というキーワードであることを認識していない点、明らかな誤訳なのである。大河内訳も同じだが、これは、神子訳をそのまま頂戴しているにすぎない。

もう一方の鎌田訳は、この二者とはまったく違う。この訳は、岩波版注記に「こす拍子」とは「打ったところをひとまず置き、これを越して、より効果的な次の箇処を打つこと」とある語釈をそのまま頂戴している。ところが、この注記は、「こす」という言葉を説明にそのまま入れているから、この語そのものについて何も説明していない。それで、ようするに「こす」という意味がわかったようで、わからない。そのため、鎌田訳は「こす」を訳しきれず、なんの断りもなく無視したかたちで、的外れな誤訳を呈している。

「こす」というのは、岩波版注記のような胡乱な解釈をしなくてもよい。「こす」というのは、上回る、凌駕するという意味である。また具体的なシーンでは、前に問題にした「のる」の系統のアグレッシヴなカウンター攻撃で、つまりは、敵の拍子を凌駕するということである。

したがって、既存現代語訳について言えば、「下から起す」というのは論外だが、鎌田訳にしても、肝心の「こす」というキーワードを回避して、打たれたところはそのままにし、敵のより効果的な箇所を打つとしている点、原文にはない勝手な内容に改竄しており、たちの悪い誤訳である。

また、この部分に関連して言えば、石田訳以外の戦後訳三者は何れも、《こす拍子にて》の次の《敵打ちたる後》、この「打ちたる」という動詞の主語を、敵ではなく、自分にしてしまっている。つまり、《敵打ちたる》を、「敵が」打ったではなく「敵を」打ったという逆の読みをしてしまうのである。これは神子訳の誤訳にはじまり、後二者はそれをそのまま流用したのである。

しかし、これでは文字通り立場が逆で、こちらが敵を打った後で、さらにまた次に敵の二の腕を切る、という次第になって、はなはだ不適切である。テクストにはないナンセンスな文意である。

要するに、正しい語訳は、敵が打ってきた後、すかさず、こちらが「こす」拍子で敵の二の腕を切る、である。この場合、敵の伸びた腕の上腕を切るのである。

――――――――――――


肥後兵法書には、「すいけいの搆」と記して、これを下段の搆えとする。これは順番として、五方の第三番ではなく、最後の第五番目である。まずは順番が違うのである。

説明の大略はこうだ。――下段の「すいけい」の搆えは、太刀先を開かず、左手の刀を前に突き出さず、左右の手のふところを広く搆え、肱を伸さぬようにして搆えて、振出すこと。太刀は斜交いにひたいの上に振り上げて(上段から)敵の手を打つ。敵の中筋〔中心線〕を打つのである。

このとき、前ひろに(前に大きく)打つ心持である。左方へ筋交いに打つのはよくない。太刀の軌道は、切先返しにして元へ戻すこと。

また、場合によっては、「うちょくの搆え」、すなわち後出の右脇(?)の搆えにすることもある、云々。

――というわけで、肥後兵法書の技法解説があるのだが、五輪書の内容とは、明らかに話が変っている。

まず第一に、この本文中のどこにも、下段の搆えの語も、それらしき記述もない。《左の手を突出さず、左右の手、ふところ廣く搆へ、ひぢをのばさぬやうにして振出す事》とあることからすると、中段の搆えのようにもみえる。

また、五輪書では、下段の構えは、敵が打ちかかるところを、下から敵の手を張るとある。また、こちらが手を張るところを、また敵がその張る太刀を打落そうとする。そこを、こちらは越す拍子で、敵が打った後、二の腕〔上腕〕を横に切る。敵の打ってくるところを、下段で一度に打ち留めることである。

このように、「下から敵の手を張る」、「越す拍子で、敵が打った後、二の腕を横に切る」という五輪書にある特徴的な記事が、肥後兵法書では見られない。その代りに「太刀は筋交いに額の上に振り上げて(上段から)敵の手を打つ」、「左方へ筋交えて打つのはよくない」などと書いているが、指示のポイントは別のものである。さらにいえば、このように《左へすじかへて打事悪し》とあるのを見るに、右脇からの打ちのように見える。

したがって、これを下段の搆えとするには話が違うのである。むしろ、肥後兵法書の他条から探せば、右掲の第四の「重氣」の搆えの記述内容の方が、まだしも下段の構えに相応しているようにみえる。ところが、この「重氣」には、「左脇」とあって、ますます話がわからなくなる。要するに、肥後兵法書の記事には混乱があるのである。

このように、とうてい下段の搆えではなさそうな「すいけい」の搆えの記述には、問題がのこる。この件は後にまとめて述べるであろう。


(2)はやき時もおそき時も、出合もの也

下段の搆えは、(太刀の)道筋を運用するに、早い時も遅い時も、どちらにも使えるものだ、という。そうしてみると、割合、適用範囲の広い融通のきく業であったらしい。

なお、語釈の問題では、《道をはこぶに》とあるところだが、ここは、五方の搆えそれぞれの太刀の道を述べているところだから、「太刀の」道を運ぶに、と補足が必要であろう。

この《道をはこぶに》につき、岩波版注記は「太刀筋を修練するのに」と、奇妙な語釈を披露している。「太刀筋」とするのはよいが、「修練する」と解するのは誤りである。「はこぶ」は、「運ぶ」であって、運用することである。むろん、修練するという意味はない。

ところが、他方で、戦後の現代語訳で奇怪な現象が生じた。すなわち、《道をはこぶに、はやき時もおそき時も、出合もの也》の部分を、「修行の初心最初のときでも、熟練の時でも、よく出合うものである」と訳のわからぬ訳をしてしまうのである。これは右掲のように、神子訳に始まる既成現代語訳共通の誤りであるが、錯誤は三つである。

ひとつは、《道をはこぶに》の「道」を、神子訳は修道のことと見て、「兵法の修行にあっては」とする。これに対し、岩波版注記は「道」を、太刀の軌道と解して「太刀筋」とした。ところが、これを頂戴した大河内訳は、神子訳と岩波版注記のどちらも捨てられず、つまりは二重取得に及ぶ。これを見た鎌田訳は、例によって何の工夫もなく、先例をパクってご覧通りの仕儀である。

次はこうである。――《はやき時もおそき時も》という早い遅いは、太刀を打ち出すに、大小遅速があるというときの、打ちの早い遅いの謂である。そのことを知らないことからくる誤りである。修行の初心最初のときでも、熟練の時でも、という訳は、苦し紛れにこじつけた珍訳の類なのである。

もうひとつは、やはりここでも、「出合」〔いであふ〕というのを、現代語の「出合う」と受け取ってしまう誤りである。この語は前にも述べたように、「十分使える」という意である。それを「よく出合う」なんて誤訳を出して知らぬ顔ではいけないが、訳者がほんとうに知らないのだから、始末に悪い。

この点、戦前の石田訳は、不充分ながら、的は外していない。他にもしばしばみられることだが、戦前訳の方が戦後訳よりも正しい。これは、五輪書訳が進歩するどころか、逆に退歩していることを意味する。おおむねその誤りは戦後の神子訳がまず生み出したものだが、以後の現代語訳はそれを改めるどころか、何の工夫もなく、神子訳をパクっているだけ、という例が多い。それが五輪書現代語訳の現状なのである。

要するにここは、我々の語訳のようにテクストを復元した上で、《太刀の道を運用するに、打ちが早い時も遅い時も、どちらにも使えるものである》としなければならないのだが、現在の既成現代語訳との差は、かくも大きい。つまり、そんな現代語訳を読んでいる読者はとんでもない訳文を読まされているというわけである。

――――――――――――

 

さて、諸本校異について言えば、一つ指摘すべき箇処がある。それは末尾の結語のところで、それを、筑前系諸本には、
《太刀をとつて、鍛錬すべきもの也》
とあって、《すべきもの也》とするところ、肥後系諸本には、これを《可有者也》とし、あるいは《あるべき也》とし、また《すべし》とするものがある。すなわち、肥後系諸本では、ここが共通しないのである。

このケースでは、筑前系/肥後系の間に一致するものがなく、しかも、肥後系諸本の間にも、相異がある。

これは、肥後系諸本の語句には最初から誤記があったということである。そのプロセスは、「す」(寿)字を「有」字に読み違えたものが発生し、まず、「有べきもの也」となったのであろう。楠家本は、《可有者也》と書いてそのかたちを残している。次に、その「者」字が脱落して「有べき也」となったもののようである。

円明流系諸本では、狩野文庫本が《すべし》と記して、「有」字ではなく「す」を記している。しかるに、同じ円明流系でも、多田家本は、《有べき也》とするから、狩野文庫本の《すべし》は後の写し崩れであろう。

ここは、筑前系諸本共通の《すべきもの也》を取るべきである。これが古型である。肥後系諸本の字句は、すべて誤記の二次的プロセスの所産である。これも、従来のように、肥後系諸本ばかりを見ていては、分らぬところである。

なお、筑前系の吉田家本や伊丹家甲本に、《たんれん》《たんれむ》と仮名書きしているのが注目されるが、同じ筑前系諸本は越後系も含めて一般に《鍛錬》と漢字で表記する。このケースの平仮名は申すまでもなく、後世写本の恣意的な書き換えである。言い換えれば、吉田家本四巻の写本は、早川系の中から派生した以後のものであることがこれで分るのである。 

12 表第四 左脇の搆え 

【原文】

 
一 表、第四の次第の事。
第四の搆、左の脇に横にかまへて、
敵のうち懸る手を、下よりはるべし。
下よりはるを、敵うち落さんとするを、
手をはる心にて、其まゝ太刀の道をうけ、
わが肩の上へ、すぢかひにきるべし。
是太刀の道也。
又敵の打かくるときも、太刀の道をうけて勝道也。
能々吟味有べし。(1) 

【現代文】

 

一 表、第四の次第の事

第四の搆え。左の脇に(太刀を)横に搆えて、敵の打ちかかる手を、下から張ること。

(こちらが)下から張るのを、敵が打ち落そうとするときは、(敵の)手を張る感じで、すぐさま太刀の軌道をうけとって、自分の肩の上へ、斜めに切り上げる。これが太刀の道(筋)である。

さらにまた、敵が打ちかかる時も、太刀の道をうけて勝つという道〔やり方〕である。よくよく吟味あるべし。

【註解】

 

 (1)左の脇に横にかまへて

左脇の搆えは、左の脇に横に搆えて、とある。これも、そのままではイメージしにくいところであろう。ようするに、右掲図のような、見慣れないかっこうである。

この左脇の搆えは、前に、「五方の搆の事」のところで、《右左のかまへ、上のつまりて、脇一方つまりたる所などにての構也。右左は、所によりて分別有り》とあったところである。左脇の搆えのケースでは、上方がつまって、左側にスペースがない場所での戦闘法である。

この左脇の搆えは、左の脇に太刀を横に搆えて、敵の打ちかかる手を、下から張る、というのが基本的な動作である。このとき、その下から張る手を、敵が打ち落とそうとすることがある。そのとき、左下から右上へ、自分の肩の上へ、はすかいに切り上げるのである。

このように、武蔵の教えは明確である。何も付け足すことはない。

――――――――――――


ここで、語釈の問題が、ひとつある。つまり、ここで二度出てくる、《太刀の道をうけ》という語句が問題である。太刀の道を「うける」とは、いかなることか。これは、わかったようで、実はわからない語句である。

「うける」は多義的な語である。とくに、このケースでは、「うける」とは、単に「受ける」という受動的な意味ではない。むしろ、「請ける」という語義、つまり、引き出す、引き取るという能動的な意味あいがある。
《質に置けるか、そののち請る事成がたく》(世間胸算用)

このように質物を請け出すばあい、あるいは遊女を身請けするケースも、この「うける」である。つまり、たんに「受ける」という受動的なポジションではなく、引き出す、引き取るという能動的なポジションが、この「うける」である。

したがって、太刀の道を「うける」とは、太刀の道筋をうまく引き出す、引き取るというニュアンスがある。ポテンシャル(潜勢的)にあった太刀の軌道を、現実的なものにするということである。

しかし、こういう踏み込んだ語釈は、これまで見られなかった。その結果、この箇処に誤訳が集中することになった。

たとえば、既成現代語訳を見るに、これを右掲のように、戦前の石田訳は、「そのまゝ敵の太刀を受け留めて」と誤訳した。戦後の諸訳も、「敵の太刀の道をそのままに受け」とか、あるいは「そのまま太刀の流れにしたがい」とか訳している。言うまでもなく、これには、三つの錯誤がある。

一つは、「そのまま」という語をそのまま現代語訳にしていること、つまり、「直ちに」「すぐさま」という語義なのに、「そのまま」と放置しては誤訳になる。二つめは、「太刀の道」を、自分の太刀の道ではなくて、敵の振る太刀の道だと勘違いしていること。もう一つは、上記の語意の「うける」を、単に受動的な「受ける」と勘違いしてしまっているのである。

これらの訳文にあるように、そのまま敵の太刀の道(すじ)を受けていたら、どうなるか? こちらは切られて死んでしまうのである。あるいは、大河内訳の「そのまま太刀の流れにしたがい」の方は意味不明である。これではどうしようもない。

既成現代語訳は、どうも、古語に対する素養が不足しているようすである。だから、「そのまま」も「うける」も、現代語の語義で無理やり押し通してしまおうとする。その結果、武蔵の云うところを取り違えるのである。

――――――――――――


校異の問題で、ここで指摘しておくべきところがある。それは、本条見出し部分、筑前系諸本における相異である。すなわち、越後系諸本に、
《表第四の次第の事。第四のかまへ》
とするところ、筑前系の吉田家本・中山文庫本には、この「の事」二字がない。つまり、ここに脱字がある。これは同じ早川系の伊丹家甲本でも同様だが、後期写本の伊丹家乙本には「の事」二字を具備する。

肥後系諸本を参照すれば、《おもて第四の次第の事》とあって、やはり「の事」は記している。したがって、筑前系も最初は「の事」があったが、早川系の吉田家本・中山文庫本・伊丹家甲本は、これを落としたのである。伊丹家乙本にこれがあるのは、誤謬に気づいて修復したものである。

この「の事」の件についていえば、これは吉田家本一本の偶発的な誤写ではなく、早川系の中山文庫本・伊丹家本も同様である。とすれば、両本共通の先祖たる写本において誤写があったのである。

それに対し、同じ筑前系でも立花=越後系の諸本はこれを正しく記す。ということは、これは、吉田=早川系と立花峯均系が分岐した後で発生した脱字である。

おそらく、早川実寛→月成実久の相伝段階で生じた脱字であろう。それゆえ、吉田家本水之巻を含む四巻は、月成実久以後の早川系写本だという目星を付けることができる。

吉田家本は空之巻のみ、柴任美矩→吉田実連の段階のものだが、他の四巻は後世のものである。この四巻は、吉田実連から吉田本家の治年に託されたものではない。問題は、吉田家本・中山文庫本共通の先祖をどこにおくか、である。おそらくそれは、月成実久→大塚重寧の段階あたりであろう。

この段階では、すでに立花峯均系統と分岐している。この頃、吉田家本・中山文庫本共通の先祖となる写本が作成されたとみれば、上記誤写の発生点も知れる。

中山文庫本には、この見出しの箇処で、もう一つ誤写がある。つまり、《表第四の次第》のところ、「第四」を「四段」と誤記している。これは吉田家本にはない誤記であり、両者分岐後発生した異変である。

ともあれ、筑前の吉田家本などが誤記するところを、越後諸本が正しく書いているのである。こうした誤記の有無によって、筑前系の中でも早川系と立花=越後系の分別が可能となる。

したがって誤記は、その区別を教えてくれるのだから、誤記だからといって、疎かには扱えないわけである。むしろ、間テクスト的史料批判において、誤記はそれじたい重要な弁別素材なのである。


――――――――――――


ところで、左脇の搆えに対応する肥後兵法書の記述をみれば、かなり問題がある。というのも、肥後兵法書では、見出しに「重氣の搆、左脇」とあって、「重氣」の搆えを左脇の搆えとしている。ところが、その「左脇」の搆えであるはずの内容は、これもまったく話が違っている。

それを見るに、――まず、重氣の搆、二ツの搆あり、とあって、二つの搆えがあるようである。一つは、「表としては」と記すから、こちらが「表」らしい。

そこで、その表の方はと云うと、「太刀を前に捨てて搆え、太刀先を左へよせずして」とある。太刀を前に捨てて搆える、太刀先を左へよせない、となると、これは明らかに「左脇」の搆えではない。

続いて読めば、――敵が打出すのを、三分一〔さんぶいち〕という軽い感じで当てる。その当て方は、手を上て、敵の太刀先に、まるで手のないように突き出して当てる。それを敵が打ち落そうとする。こちらは我が心を打って、敵の打つ手をおくれて当てる。何れにしても、太刀筋は切先返しで元へ直る。――表という一つめがこれである。

もうひとつの搆えは、「切先向にして、我が右の足に手を付け、ひっさげるという心持で」とある。これも、左脇の搆えだとすれば、ますますイメージはしにくい。べつの形である。

肥後兵法書の「重氣」という「左脇」の搆えの記述は、まったく五輪書の内容とは異なる。しかもこれが、左脇に搆えた太刀の運動だとすれば、記述は奇怪なものとなる。

ようするに、この「重氣」の搆えは、そもそも太刀を「前に」捨てて、太刀先を左へよせないとあるのだから、これは左脇ではなく、むしろ下段の搆えであろう。それが「左脇」の搆えというのだから、見出しと説明文とが食い違っているのである。

加えて、この「重氣」を従来、武蔵研究では「じゅうき」と読んできたのだが、これが「気を重ねる」の意だとしても、古来の兵法論の範囲では見当りのない概念あるいは語句である。「重氣」は本当に「じゅうき」と読んでよいのか、そういう根本の問題もある。

ともあれ、こういうことも、従来指摘されたことがないポイントである。問題化されずに、曖昧にやり過ごし、看過されてきた問題である。

13 表第五 右脇の搆え 

【原文】

 

一 表、第五の次第の事。
第五の(次第、太刀の*)搆、
わが右のわきに横に搆て、
敵うち懸る所の位をうけ、
我太刀の*下の横より筋違て、上段に振あげ、
上より直にきるべし。
これも太刀の道よくしらんため也。
此表にてふりつけぬれバ、
おもき太刀自由にふらるゝ所也。(1)

此五つの表におゐて、こまかに書付る事に非ず。
我家の一通、太刀の道をしり、
又、大かた拍子をもおぼへ、敵の太刀を見分事、
先、此五つにて、不断手をからす所也。
敵と戦のうちにも、此太刀筋をからして、
敵の心をうけ、いろ/\の拍子にて、
如何やうにも勝所也。能々分別すべし。(2) 

 

【現代文】

 

一 表、第五の次第の事

第五の搆えは、自分の右脇に横に搆えて、敵が打ちかかるところの位〔態勢〕に対応して、我が太刀〔左小太刀〕の下の横から、斜交いに上段に振り上げて、上から真っ直ぐに切るべし。

これ(を練習するの)も、太刀の道をよく知るためである。この表によって太刀を振り慣れると、重い太刀でも自由に振れるようになるのである。


(以上)この五つの表では、事こまかに書きつけるのではない。我が流派の一通り、太刀の道を知って、また、だいたいの拍子も覚え、敵の太刀を見分けるようになること、(そのためには)まず、この五つ(の表)によって、たえず自分の手で練習しつくすのである。

敵と戦う最中にも、この太刀筋を総動員して、敵の心に応じて、いろいろの拍子で、いかようにも勝てるのである。よくよく分別すべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)わが右のわきに横に搆て

ここは、五方の搆え最後の、右脇の搆えである。前に「五方の搆」の条で、右・左の搆えは、上の方がつかえていたり、脇の一方がつかえている所などでの搆えだ、右・左は場所によって違いがある、と説明のあったところである。右脇の構えは、上もつまり右脇もつまって、スペースがない時に用いる。

まず、右の脇に横に搆えて、とある。この記事から、それを右脇に「水平にして」持つと、勘違いしている解説本がある。これは間違いである。右脇に余裕がないから、この構をするのである。右横に水平に構えるスペースはないという条件である。

太刀は最初「横に」にいるのである。これは、右脇に太刀を引っ提げたかたち、つまり、右図のごとくして持つのである。

敵が打ちかかってくると、この体勢から、右横下から斜交いに上段に振り上げて、上から真っ直ぐに切り下ろす。つまり、最初から上段においた太刀を振り下ろすのではなく、下から上へ振り上げて、それから切り下ろす。この振り上げ、切り下げの連続運動が、右脇の構の特徴である。

したがって、五方の太刀筋では、いわゆる他流でいう上段というものはない。振り下ろすのは、この右脇の搆だが、それもはじめから上段にはおかない。下から振り上げて切り下ろす。それゆえ、他流の上段のようなパワフルな打ちではない。

つまり、この太刀筋は、太刀のスムースな運動そのものを活用した打ちである。スムースに振るが、早く強く振る必要はない。戦場の実戦では、まず相手を負傷させるのが勝ち所である。

そこで、武蔵は、これを練習するのも、太刀の軌道をよく理解するためである、このやり方で太刀を振り慣れると、重い太刀も自由に振れるようになる、という。

要するに、実戦では、太刀は重いというのが前提である。太刀はむやみに振り回すものではない。太刀の軌道を会得すれば、重い刀も無理なく自在に振れるようになる。武蔵の教えは合理的なのである。

上段の構えのところでに、《敵打懸る所、一度に敵を打也》とあった。この右脇の搆えから、上段に振りかぶるときも、これは右手の太刀だけではなく、左手の刀も振り上げ、そして両刀同時に振り下ろす、ということであったかもしれない。これは推測である。

――――――――――――


ここで、諸本校異以前のテクストの問題があるので、まず、それから指摘しておきたい。本条冒頭の語列のことであるが、そこでは、
《表第五の次第の事。第五の次第太刀の搆》
とあって、明らかに「第五の次第」という語句が重複している。これは誤記とみなすべきところである。というのも、直前例を見るに、表第三、第四の頭にあるのは、
《表第三の次第の事。第三の搆》
《表第四の次第の事。第四の搆》
ということなので、それらに沿って記せば、この第五の次第でも、
《表第五の次第の事。第五の搆》
とあるべきところである。したがって、この《表第五の次第の事。第五の次第、太刀の搆》のうち、「次第、太刀の」が余計な文字とみなすべき部分である。

しかるに、これは特定諸本に偶発したものではない。筑前系・肥後系を問わず諸本に共通する文字列である。しかも筑前系諸本に共通してみられるものだから、したがって、これは寺尾孫之丞前期段階ですでにあったものと思われる。

すると寺尾孫之丞は、最初から誤写したのであり、寺尾が本書を編集したときにすでにあった文言である。言い換えれば、これは寺尾孫之丞の段階に還元しうる誤記なのである。

これも、寺尾孫之丞段階における誤記として判定できる特徴的な箇処である。我々のテクストでは、この箇処を( )に入れて記している。

寺尾孫之丞の段階に帰しうる誤記などということは、五輪書研究において従来問題化されなかったことである。そんなレベルまで考えも及ばぬというのが、これまでの五輪書研究の姿であった。

さて、いま一つの問題箇処は、筑前系・肥後系の諸本間に相異のある部分である。筑前系諸本では、
《我太刀の下の横より》
とあって、太刀「の」とするが、他方、肥後系諸本では、《我太刀、下の横より》として、「の」字を入れない。

しかるに、同じ肥後系でも富永家本には、《我太刀の下の横より》と書いているが、それに左傍点を打って、この「の」字を衍字として処理している。

したがって、肥後系写本は、基本的にこの「の」字を欠落したかたちで推移してきたのである。言い換えれば、肥後系では早期にすでにこの「の」字を落としていたのである。

では、これがなぜ脱字なのか。それは文の内容を分析してみれば知れることである。

一見したところ、「我太刀の下の横より」は誤りであって、「我太刀、下の横より」の方が正しいように見える。ところが、それは、この「我太刀」を右の太刀と錯覚しているからそう思うのであって、実際はこの「我が太刀」は左手の小太刀なのである。

つまり、《我太刀の下の横より、筋違て上段に振あげ》とあるように、「筋違て」、斜交いに振り上げると書いている。だから、ここは左手の小太刀との関係で「筋違て」とわざわざ書いている。つまり、この「筋違て」は、左右両手の太刀の交差のことを言っているのであって、「我太刀」と、わざわざ「我」字を付しているのは、それが交差する左手の小太刀だからである。

したがって、当流門流の内部にあった段階では、そのことを承知していて、これを《我太刀の下の横より》と正しく記したのであるが、肥後において写本が門外に流出した後、伝写過程でこの「の」字を落としてしまった。その後、この誤写が伝写されて、我々の見る現存諸本の姿になったものである。

ともあれ、この「の」字をめぐる以上のような問題は、これまでまったく看過されてきたことである。それどころか、肥後系諸本しか知らぬ研究環境では、ここに「の」字があったことさえ知られなかったのである。しかも、肥後系のうち細川家本を金科玉条とする偏向のなかでは、中山文庫本などの筑前系写本の「の」字でさえ、それを衍字として無視するという傾向にあった。云うならば、この「の」字は長く抑圧されてきた。しかも、今日もなお同様である。

この種の偏向は却下されなければならない。そのためには、肥後系だけではなく筑前系の諸本も通覧し、客観的に史料批判を行う必要がある。これまで五輪書研究に欠けていたのは、このような研究姿勢である。

以上のことから、我々のテクストでは、《我太刀の下の横より》として、武蔵オリジナルは「の」字を入れたものだとしたのである。

――――――――――――

 


(2)此五つの表におゐて

以下、五方の搆えの総括文である。この五つの表については、これ以上具体的なことは書けないという。それは当然である。どんな技術でもそうだが、書いたものを読むだけではなく、実際に太刀を持って、体で会得しなけば、書かれたもの、語られた言葉の意味はほんとうは理解できない。

ここで特異な語彙は「からす」という言葉である。これは、からっぽになるまで使い尽くすこと、総動員することである。そのように練習した結果、技術に習熟し熟練するようになる。まあ、そういう意味合いであろう。

したがって、敵と戦う最中でも、この太刀筋を総動員して勝つのである。敵の心に応じて、いろいろの拍子で、いかようにも勝てる。そういう励ましである。

他方、肥後兵法書の総括文のほうは、第五番目の「すいけいの構」、つまり下段の搆えの記事の後にあって、

《惣じて太刀の構、五方にすぎず。敵を打と云事は、太刀の道二ツなし》
と、至って簡潔なテーゼである。ここに、五輪書と肥後兵法書のポジションの違いがある。

しかし、すべて太刀の搆えは、五方にすぎない、この五つの方法以外にはない。これはよし。さらに云うのは、敵を打つ、殺すということには、太刀の道は二つなし、つまり太刀の道は一つしかない、という言挙げである。

これを武蔵が語ったとは思えないが、この「敵を打と云事は太刀の道二ツなし」というのは、武蔵の根本的ポジションをよく把握した者の記述である。肥後兵法書には、こういう侮れない記述もある。それに注意すべきである。

ただし、以上の五方の搆えに関しては、肥後兵法書の記述には、種々問題があることは、既述の通りである。そこで、以下にそのあたりのことを再考しておく。

――――――――――――

 

五輪書を読解するという本旨からすれば、後世の肥後兵法書の記述内容など、どうでもよかろうと思われるかもしれないが、ここは、従来の武蔵研究に看過すべからざる過誤があるのだから、それを糺すという趣旨である。

したがって、そんな方面の錯誤などには付き合っておれないという御仁は、以下を飛ばして、次条へ移行することを勧める。他方、五輪書研究周辺のそういう諸問題もフォローしたいという者は、以下の検証に立合えばよい。というのも、ここで、これまで問題化されなかった諸点がはじめて明示され、それらが解決される現場に立合うことになるからである。

まず、五方の搆えについて、五輪書と肥後兵法書との相違を挙げれば、次のようなことであろう。

第一の中段の搆えに関しては、五輪書は、「太刀先を敵の顔に向けて付け、敵が太刀を打ちかかってくると、右へ敵の太刀を外してのる。さらにまた、敵が打ちかかってくる時、切先返しで打ち、打ち下した(自分の)太刀はそのままにしておいて、また敵が打ちかかる時、下から敵の手を張る」ということだが、肥後兵法書はその切先返しに特化した記述である。しかし、さらに打下ろした太刀で、下から敵の手を張るという連続わざの話はどこかに消えている。いわば、切先返しに偏って、搆えの王道たる中段という搆えの位置づけが曖昧になっている。

第二の上段については、五輪書は、「敵が打かかるところを、同時に敵を打つ。敵を打ち外したときは、太刀はそのままにしておいて、さらに敵の打ってくるところを、下からすくい上げて打つ」ということであるが、肥後兵法書は、これを「儀談」の構えとし、右手を耳の脇にそえるというように、右手の太刀を肩にかつぐような形を述べる。むろん五輪書の教えにはそんな形のことはない。五輪書は、「上段も、時にしたがい、少し太刀が下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる」(有搆無搆の教の事)というのだから、その上段が、右手の太刀を肩にかつぐ恰好は、冗談のような変形である。

第三の下段について五輪書には、「(両刀を)引っさげた感じで持ち、敵が打ちかかるところを、下から敵の手を張る。こちらが手を張るところを、また敵がその張る太刀を打落そうとするのを、こちらは越す拍子で、敵が打った後、二の腕〔上腕〕を横に切る」とある。これに対し、肥後兵法書は、この下段の搆えを「すいけい」と呼ぶが、下段という語も、それらしき記述もない。《左の手を突出さず、左右の手、ふところ廣く搆へ、ひぢをのばさぬやうにして振出す事》とあることからすると、中段の搆えのようにもみえるが、また、《左へすじかへて打事悪し》とあるのを見るに、右脇からの打ちのようである。いい換えれば、肥後兵法書の「すいけい」の搆えは、どうみても下段の記述ではない。五輪書の下段の搆えを、肥後兵法書の「すいけい」の構えに対応させることはできない。

第四の左脇の搆えについては、五輪書は、「太刀を左の脇に横に搆えて、敵の打ちかかる手を、下から張る。こちらが下から張るのを、敵が打ち落そうとするときは、敵の手を張る感じで、すぐさま太刀の軌道をうけとって、自分の肩の上へ、斜めに切り上げる。さらにまた、敵が打ちかかる時も、太刀の軌道をうけて勝つ」という説明である。これに対し肥後兵法書は、これを「重氣」と呼んで、左脇の搆えとするが、その内容は、まったく五輪書の教えとは異なる。ようするに、この「重氣」の搆えは、そもそも太刀を「前に」捨てて、太刀先を左へよせないとあるのだから、これは左脇ではなく、むしろ下段の搆えとすべきところである。あるいは、「切先向にして、我が右の足に手を付け、ひっさげるという心で」という。これも、左脇の構えではありえない。要するに、五輪書の左脇の搆えを、肥後兵法書の「重氣」の構えに対応させることはできない。明らかにべつの形である。

第五の右脇の搆えについて五輪書には、「太刀を右脇に横に搆えて、敵が打ちかかるところの位〔態勢〕に対応して、我が太刀〔左小太刀〕の下の横から、斜交いに上段に振り上げて、上から真っ直ぐに切るべし」とある。これに対し肥後兵法書は、これを「うちよく」と呼んで、右脇の搆えとするが、これもその内容は五輪書の記述とは異なる。とくにこの搆えが、「左手は高くなきように、手を深く組ちがえぬように持つ」とすれば、これは右脇の搆えではない。右脇の搆えは、左手が右の腕と交差しはしない。右の太刀は脇に捨てて構えるというのだから、両手は離れている。となると、これは「右脇」ではなく、前述のように左脇の搆えのようである。この「うちよく」の搆えもまた、五輪書の右脇の搆えとは相応しない。

以上、要するに、五輪書の五方の搆えと肥後兵法書のそれとは、説明内容が異なっているばかりか、第三の下段、第四の左脇の搆え、第五の右脇の搆えに関しては、搆えそのものが対応性をもたない。したがって、肥後兵法書の「すいけい」=下段、「重氣」=左脇、「うちよく」=右脇という対応は、それ自体が誤りである。それを疑いもせず、安易に肥後兵法書の記事を鵜呑みにしてきたのが、従来の武蔵研究の誤りなのである。

 

 

 

これに加えて、肥後兵法書に記された名称の問題がある。

すなわち、すでに見たように、同書には、中段を「喝咄切先返」、上段を「儀談」、そして順序は違うが、下段を「すいけい」、左脇を「重氣」、右脇を「うちよく」とする名称を用いている。ところが、田村家本五輪書に添え書きしているのを見れば、中段は「喝咄切先搆」、上段は「義段搆」、下段は「右直搆」、左脇は「重気搆」、そして右脇には「衰形搆」と記す。

そうしてみると、中段、上段、左脇は、肥後兵法書と同様とみてよいが、下段と右脇の名称が入れ替わっている。これはいかがしたことであろうか。

すでに見たように、肥後兵法書が右脇の搆えとするところの「うちよく」は、その記述内容からすると、とうてい右脇の搆えではない。むしろ、左脇の搆えである。他方、肥後兵法書が下段の搆えとするところの「すいけい」は、その記述内容からすると、とうてい下段の搆えではない。むしろ、右脇の搆えである。

そうすると、肥後兵法書のいう「すいけい」(下段)は、田村家本の「衰形」(右脇)のことであり、肥後兵法書は、「すいけい」を右脇の構えとすべきところを、下段と間違えたのである。

これはどういうことかというと、肥後兵法書に、中段、上段、下段、左脇、右脇、等々とあるのは、元本にはなかった文字であり、それを後入れしたときに間違えたのである。肥後兵法書の記述順序は、「喝咄切先返」、「儀談」、「うちよく」、「重氣」、「すいけい」とあるもので、その名称の順番は田村家本五輪書と同じである。ところが、後智恵で、中段、上段…、と付記するようになったとき、「うちよく」に右脇、「すいけい」に下段と、書き間違えてしまったのである。三十九箇条肥後兵法書の現存写本はどれもその子孫である。

では、肥後兵法書の「うちよく」(右脇)はどう扱うべきか。これは、同音「うちょく」の語を記す田村家本五輪書の「右直」(下段)のことかというと、そうではない。肥後兵法書のいう「うちょく」は、その記述内容からすれば、左脇の搆えとすべきだから、これは、田村家本も記すところの「重気」(左脇)のことであるか。しかし、そうなると、両者は下段と右脇の名称が入れ替わっているだけではなく、別の「重気」まで巻き込んだ混乱である。

つまり、肥後兵法書も田村家本五輪書も共通して、左脇の搆えを「重気」とするのだが、それは正しいのか、ということである。肥後兵法書の「重氣」(左脇)については、上述のごとく、下段とすべきところである。それゆえ、もし田村家本のいう「重気」も、これを左脇とするなら、田村家本の添書きも誤りである。

したがって、以上の検分の結果によれば、肥後兵法書は、下段、左脇、右脇の名称を誤っているが、田村家本にも下段と左脇の名称に誤りがある。「右直」と「重気」をとり違えたのである。両者併記して、その訂正を示せば以下のごとくである。

 

五方 肥後兵法書 田村家本 (訂 正)
中 段 喝咄切先返 喝咄切先 同 左
上 段 儀 談 義 段 同 左
下 段 すいけい(×) 右 直 (×) 重 氣
左 脇 重 氣 (×) 重 気 (×) うちよく
右 脇 うちよく(×) 衰 形 すいけい

 

 このように、肥後兵法書にも田村家本にも誤りがある。しかしながら、こうした誤謬については、従来の武蔵研究において看過されて、指摘されたことすらなかったのである。
 とりわけ、肥後兵法書において、「うちよくの搆 右脇」として、《うちよくの搆ハ、太刀を右の脇に捨る心に搆》とある箇処、この「右の脇」が、「左の脇」の改竄であったことには気づかれもしなかった。
 おそらく、この改竄は、「うちょく」を、「右直」と解釈した結果、これは「左」ではなく「右」が正しいと錯覚して、訂正に及んだものであろう。しかし、その他の本文内容はそのままだったので、全体が矛盾するものになってしまったのである。
 しかし、こうした改竄も含めて、三十九箇条肥後兵法書に以上のような誤りがあり、また田村家本五輪書と齟齬する事項もあること、それがこれまで問題化されなかったのは、要するに、記述内容を読むという基本的な手続きを踏んだ者が出なかったからである。まことにお粗末な事態であったが、我々の研究プロジェクトにおいて、はじめてこれが指摘されるようになったのである。


 さて、このように五方の構えと名称の対応の誤りが明らかになったとしても、次の問題がある。すなわち、その肥後兵法書に、「儀談」「すいけい」「重氣」「うちよく」とあるこれらの名称は、そもそも何ごとであるのか、と問わねばならない。いったい、どこからこうした五方の搆えの名称が出來したのか、という問いでもある。

 この件については、多数ある肥後兵法書の現存写本を通覧しても、結局、埒が明かない。別の資料を参照することが必要である。

 その一つは、絵図資料である。五方の搆えを描いた絵図は、ありそうでいて、なかなかないものだが、我々が最近になって相遇した世にも珍しい、五方の搆えを描いた図がある。さしあたりこれを「五方之搆図」(仮称)としておく。写し作成は明和六年(1769)、江戸中期である。

 この図の現状は、上から中段、上段、下段、左脇、右脇と、五輪書の五方の搆えの順序通りに並べている。元図は絵巻物だったが、画軸にするため、それを切り張りして、上から下へ並べた配置である。

 それぞれの形をみると特徴がある。一つは、中段も下段も、二刀を深く組んで交差させていることである。「合」ではなく、交差の形である。また、上段は、右の太刀を大きく後へ引いている。それは右脇の搆えも同じで、これも太刀を脇に引っ提げるというよりも、後へ大きく引いている。これらはいづれも五輪書の記述にはない形であり、後世の変形を示している。

 とはいえ、この図の興味深いところは、肥後兵法書のように、五方の搆えに名を付けていることである。つまり、「圓極」(中段)、「儀斷」(上段)、「鷙撃」(下段)、「迂直」(左脇)、「水形」(右脇)という名称である。このうち、「圓極」と「鷙撃」は肥後兵法書にない名称だが、「儀斷」、「迂直」、「水形」の三つは、類似する名称である。

 逆に言えば、肥後兵法書の「儀談」「うちよく」「すいけい」という名称、あるいは田村家本五輪書に「義段」「右直」「衰形」とあるのは、実はこの五方之搆図にいう「儀斷」「迂直」「水形」のことではないか、と見当をつけることができる。しかも、この図を見るに、肥後兵法書の記載する名称に関して、第三の「重氣」という異名を別にすれば、上記のごとく我々が訂正した順序と相応している。言い換えれば、上記の訂正の正しさを傍証するのが、この五方之搆図なのである。

 さらに云えば、肥後系伝書だけを見ていてはわからなかったことだが、五方之搆図の名称の特徴に注目して見れば、肥後兵法書や田村家本五輪書にはない「鷙撃」という名も含めて、これらの名称は、明らかに『孫子』あるいはその周辺の兵学の語句から採ったもののようである。

 すなわち、「迂直」は、『孫子』軍争篇の《軍爭之難者、以迂爲直、以患爲利。故迂其途、而誘之以利、後人發先人至。此知迂直之計者也》(軍争の難きは迂を以て直と為し、患を以て利と為す。故に其途を迂にして、之を誘うに利を以てし、人に後れて発し人に先んじて至る。これ、迂直の計を知る者なり)の「迂直之計」であろうし、また、「水形」とは、『孫子』虚実篇の《夫兵形象水。水之形、避高而趨下、兵之形、避實而撃虚。水因地而制流、兵因敵而制勝。故兵無常勢、水無常形》(夫れ兵形は水に象る。水の形は、高きを避けて下〔ひく〕きに趨き、兵の形は、実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵に常勢無く、水に常形無し)とあるところの「水之形」であろう。肥後兵法書諸写本が、これらを「うちよく」「すいけい」と仮名で書いていたり、田村家本五輪書に「右直」「衰形」と当て字で記したりするのは、出典の知識がすでに失われていたことを示す。

 また、五方之搆図の「鷙撃」は、猛禽の撃ちということのようだが、となると、やはりこれは、『孫子』兵勢篇の《水之疾至於漂石者勢也。鷙鳥之撃至於毀折者節也》(水の疾くして石を漂わすに至るは勢なり。鷙鳥の撃ちて毀折に至るは節なり)の「鷙鳥之撃」であろう。しかしながら、この「鷙撃」は肥後兵法書に対応する名がない。実はそこが面白いところなのである。

 つまり、「鷙撃」は「しげき」と読む。肥後兵法書には対応する名がないが、ひとつ、訳が分からぬ宙に浮いた名がある。それが、「重氣」である。これは従来武蔵研究では、「じゅうき」と音読みされてきた。それが間違いだったのである。

 ここまで云えば、読者にはもうお分かりと思うが、「重氣」という字句は「しげき」のことである。

    「鷙撃」 → 「しげき」 → 「重氣」

 ようするに、「鷙撃」が「しげき」と仮名で書かれたのが、間違いのはじまりで、その「しげき」の意味を知らぬ何者かが冗談のように「重氣」(しげ・き)と当て字してしまった。そうなると、なにやら尤もらしい語に見えて、結局、「じゅうき」と音読みすべき語と勘違いされるようになったのである。

 この遷移過程を知らぬ現代の連中は、これを「じゅうき」と呼んで、その錯誤を反復しているわけである。もっとも、こういう事実が判明したのも、我々の研究プロジェクトの副産物である。肥後兵法書の「重氣」が「じゅうき」ではなく、元は「しげき」という字句だったということ、これをこの場ではじめて知ったという者もあろうが、それは当然のことで、この説は、諸君が読みつつあるまさにここで、はじめて提示されたのである。したがって、武蔵道統を称する現行諸派の諸君も、今後は、「重氣」に「じゅうき」などという間違ったルビをふらずに、せめて『孫子』くらいは読んで、語の由来を確認して、「しげき」と呼んでほしいものである。

 さらに続ければ、五方之搆図にある「儀断」とは、『孫子』用間篇の《非仁義、不能使間》(仁義に非ざれば、間を使ふこと能はず)について、たとえば『孫子直解』等の註解書に、《義主斷、斷以決自己之惑》(義は断を主とす。断は以て自己の惑を決す)と記すところ、あるいは、山鹿素行『孫子諺義』(巻第十三)において註解するところの、《孫子遺説云、(中略)、非仁恩、不足以結間之心、非義断、不足以決己之惑》(仁恩に非ざれば以て間の心を結ぶに足らず、義断に非ざれば以て己の惑を決するに足らず)という文言にみえる「義断」がその出所であろう。

 この五方之搆図では、上段を、大きく後へ引いて搆える形にしている。右手を耳のあたりにつけるという肥後兵法書の形よりも、さらに大きく後へ引いた形である。肥後では、右手は耳のそばにあって、太刀を肩にかつぐ恰好だったが、他国へ出た後に、こんなところまで後へ引くようになったらしい。新儀の形である。

 そうしてまた、五方之搆図に「圓極」とあるのは、この図冒頭に「黙坐」とする静坐の図があることから、あれこれ朱子学周辺を詮索したくなるものだが、それよりむしろ、この「圓極」は、余りにも有名な『孫子』虚実篇の《形兵之極、至於無形。無形、則深間不能窺、智者不能謀》(兵を形〔あら〕はすの極は無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺ふこと能はず、智者も謀ること能はず)の「形兵之極、至於無形」あたりに想を得たもののようである。

 このように「圓極」というと、尾張円明流や三河武蔵流の伝書にみえるところの、「圓曲」、「喝咄」、「陽劔」、「陰劔」、「水形(水系)」という五法のことが連想されるが、こちらは搆えというより、戦法である。名称も釈義も異なっている。肥後から兵法書が流出した後の変異形態の一種であるが、類似する見かけとは違って、五方之搆図とは共通するところがない。

 五方之搆図が、中段を「圓極」とするのは、まず無難なところだろうが、この「圓極」は、肥後系伝書にない名称だから、これは肥後から流出派生した後に発生した名称である。もし、肥後兵法書の元本に「圓極」という名称があれば、肥後でそれを排除して「喝咄切先返」などという見出しを付けることはないからである。他方、それ以外の四つの名称は、曲りなりにも肥後兵法書の現存写本が伝えているところなので、この四つは肥後兵法書の元本の段階ですでにあったものであろう。

 かくして見れば、五方の搆えに種々命名を試みた者の趣向が判明するわけだが、それが五輪書の五方の搆えの説明とはさほど合致しないところが、ご愛嬌というべきであろう。

 たとえば、下段の搆えについて、『孫子』の《鷙鳥の撃ちて毀折に至るは節なり》と関連づけるにはかなり懸隔のある話であろうし、左脇の搆えを、《軍争の難きは迂を以て直となす》ところの「迂直の計」と結びつけるのは、左脇に迂すイメージからきたのだろうが、『孫子』の急がば回れというコンテクストからすると、強引とも言える附会である。あるいは、右脇の搆えについても、それを《水の形は高きを避けて下〔ひく〕きに趨く》という一節と関連づけるあたりは、太刀を右脇に引っ提げる形の連想かもしれないが、《兵に常勢無く、水に常形無し》というには当らない。ましてや、上段の搆えを「義断」とするあたりは、《義断に非ざれば以て己の惑を決するに足らず》とする山鹿流の註釈を見て、上段からの打ちをイメージしたにしても、そもそも『孫子』ではこれは間諜論なのである。

 もとより、これら適切とは云えぬ命名を、武蔵本人の仕業と見る阿呆はあるまい。すでに見たように、《佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法のふるき事をも用ひず》(五輪書地之巻)というのが武蔵の流儀である。五方の搆えにこうした孫子兵法流の異名を付す趣向は、武蔵好みではない。明らかに後人の作為である。

 江戸中期に作成されたこの五方之搆図は、目下のところ、どの流派のものか、特定できていない。それぞれの搆えの形をみると、他派とは異なる独特な変形もある。だが、上述のように、五方之搆図は、「圓極」という名称を除いて、肥後兵法書の元本の段階の様態を伝えるものである。この図は明和年中の写しであり、その原図がそれ以前にあったらしい。つまり、十八世紀前半に肥後から流出した兵法書があり、それが改編されて「圓極」という名称をもつ解釈書が作成され、それを元に、こうした五方之搆図の原図が生まれたようである。

 五方之搆図には、上段の「儀断」以下、「鷙撃」、「迂直」、「水形」と、正しい順序と名称がある。しかるに、肥後兵法書の現存写本において、あれだけ名称の錯誤がある。ということは、十八世紀中期以後、肥後において写本の崩れが生じたのである。かくして、流出先で作成された異本を元に作成された五方之搆図の方が、本国の伝書よりも正しい名称を伝えていることもあるという、こんな結果になってしまったのである。


 ところで、この詮索をまだ続けるとすれば、五方之搆図の原図作成において依拠された文書があったはず、ということになる。肥後兵法書の元本からすれば、それは流出後の異本であるが、「儀断」、「鷙撃」、「迂直」、「水形」という名称に、何なら「圓極」という名称も備えた文書があれば、それが五方之搆図の根拠文書であろう。

 この件については、関連文書として参照しておくべきものがある。これには、五方之搆図と同じく、「圓極」、「義斷」、「鷙撃」、「迂直」、「水形」という五つの名称を記載する。よって、五方之搆図の関連文書とみなしうるものである。

 この文書は、文章拙劣で、条々数も足らず、肥後兵法書とは似て非なるものだが、注意したいのは、「義斷」、「鷙撃」、「迂直」、「水形」の四ヶ条に限っては、例外的に肥後兵法書の記述内容とほぼ同文だという点である。いわば、肥後兵法書をはじめ五輪書も参照した上で編まれた一種の覚書のようである。

 むろん、かなり写し崩れもあって、十八世紀の写本をさらに写したと思しき文書であるから、根拠文書と云えるほどのものではない。しかも、それがさらに、序文と奥書を付されて、相伝書の体裁を模すあたりは、偽書の躰と化している。明治末になって付された奥書は、本文とは異筆であるのみならず、そこにはなんと、《寛永十五年十一月吉日 新免武藏玄信》と書き付けて、武蔵が寛永十五年に伝授したものにしてしまっている。それで、文書名も「宮本武藏劍道皆傳書付」というわけである(東大史料編纂所蔵)。

 こういう露骨な偽書の体裁を有するとはいえ、上述のように、本書は「義斷」、「鷙撃」、「迂直」、「水形」の四ヶ条については、肥後兵法書とほぼ同文の内容をもつ。「圓極」については、肥後兵法書には元来記載がないのだから、対応する条文は、別の内容である。これも含めて、肥後から流出した後に書き出された文章がほとんどである。したがって、本文については、これを仮に「異本」兵法書を呼んでおくことにする。

 それで、肥後兵法書とほぼ同文の、上記四ヶ条のうち、一箇所、注目すべきところがある。それは、「迂直」の条で、そこには、《迂直の搆ハ、太刀を左の脇へする心に搆》とある。左の脇に「する」とあるのは、写し崩れであって、「すつる」(捨る)の「つ」の脱字があるが、要するに、この異本兵法書は、肥後兵法書が「右の脇」と改竄したところの原型、「左の脇」という語句を保存しているのである。

 これまた、肥後から流出した後で作成された異本であるにもかかわらず、そちらの方が物事を正しく伝承していることもあるという事例である。整理しておけば、以下のごとくであろう。

 

五方 五方之搆図 異本兵法書 肥後兵法書
中 段 (圓 極) (圓 極) 喝咄切先返
上 段 儀 斷 義 斷 儀 談
下 段 鷙 撃 鷙 撃 うちよく(右脇)
左 脇 迂 直 迂 直 重 氣 (左脇)
右 脇 水 形 水 形 すいけい(下段)

 この一覧表でいえば、肥後兵法書の第二「儀談」(上段)とは「義斷」のことで、順番・構えとの対応もよいし、名称も異字であるがほぼよかろう。しかし、第三「うちよく」(右脇)とは、第四「迂直」(左脇)のことである。したがって、「うちよく」に関しては順番も搆えとの対応も間違ったのである。さらに、第四「重氣」(左脇)とは、第四「迂直」(左脇)のことであり、これは順番と搆えとの対応はよいが、名称を間違えたのである。そして第五「すいけい」(下段)というのは、順番と名称はよいが、構えとの対応が間違っている。そして何より、第三「鷙撃」(下段)の名を、滑稽にも「しげき」→「重氣」と改名してしまったことがある。

五方の搆えに関して、このように、肥後兵法書の現存写本は混乱を極めている。だが、従来の武蔵研究では、それが問題化されることさえなく、今日に至っていたのである。しかるに、以上のようにして、我々の読解における内在的分析に加えて、五方之搆図とこの異本兵法書を傍証として参照することにより、肥後兵法書の復元が可能となったのである。

以上の事どもは、我々の五輪書研究の副産物である。蛇足ながら、それをここに提示したのは、既述のように、肥後兵法書そのものがまともに読まれたためしがないからであり、そんな武蔵研究の低迷してきた事態を改善するためにほかならない。  

14 搆えあって搆えなし

【原文】

 一 有搆無搆の教の事。
有搆無搆と云ハ、
太刀を搆と云事、有べき事にあらず。
されども、五方に置事あれバ、
搆ともなるべし。
太刀は、敵の縁により、
所により、けいきにしたがひ、
いづれのかたに置たりとも、
其敵きりよき様に持心也。
上段も、時に随ひ、
少さぐる心なれバ、中段となり、
中段も*、利により少上れば、上段となる。
下段も、折にふれ少上れバ、中段となる。
両脇の搆も、位により、少し中へ出せバ、
中段、下段ともなる心也。
然によつて、搆ハ有て搆ハなきと云利也。
先、太刀をとりてハ、
何れにしてなりとも敵をきる、と云心也。
若、敵のきる太刀を、うくる、はる、
あたる、ねばる、さはる、
など云事あれども、
みな敵をきる縁也、と心得べし。
うくるとおもひ、はるとおもひ、
あたるとおもひ、ねばるとおもひ、
さはると思ふによつて、切事不足なるべし。
何事もきる縁とおもふ事、肝要也。
能々吟味すべし。
兵法大にして、人数だてと云も搆也。
ミな合戦に勝縁也。
いつくと云事悪し。能々工夫すべし。(1)

 

【現代文】

 


一 有搆無搆〔うこうむこう〕の教えの事

有搆無搆〔搆えあって搆えなし〕というのは、(こういうことである――)

太刀を搆えるということは、あるべきことではない。けれども、太刀を「五方」に置くのであれば、搆えともなるであろう。(ただし)太刀は、敵の出方により、場所により、形勢にしたがって、(五方の)何れの方に太刀を置いたとしても、その敵を切りやすいように太刀を持つのである。

上段も、時にしたがい、少し(太刀が)下る感じであれば、中段となり、中段も、場合により少し上れば、上段となる。下段も、折にふれ少し上れば、中段となる。両脇の搆えも、状態により、少し中へ出せば、中段、下段ともなる、ということである。――そういうことなので、搆えはあって搆えはない、というわけである。

まず(何よりも)、太刀を手に取っては、どのようにしてでも敵を切るのだ、という心持である。もし(仮に)、敵の切ってくる太刀を、受ける、張る、当る、粘る、触る、などと云うことがあっても、それはすべて、敵を切るためのものだ、と心得るべきである。

受けると思い、張ると思い、当ると思い、粘ると思い、触ると思うと、そのことによって、切ることが不十分になるであろう。何ごとも敵を切るためだと思うことが肝要である。よくよく吟味すべし。

兵法が大きい(大分の兵法の)ばあい、「人数立て」〔兵員配置〕というのも、搆えである。すべては合戦に勝つためのものである。

(どんなばあいでも)居付くということはよくない。よくよく工夫すべし。

 

 

【註解】

 

 (1)有搆無搆と云ハ

有搆無搆〔うこうむこう〕というのは、「搆えあって搆えなし」ということである。ようするに、搆えはあるけれど、その搆えにとらわれてはならない、というのが、武蔵の言う有搆無搆の教えである。

直前の節まで「五方の搆え」を説いたばかりである。武蔵は、大急ぎでこの有搆無搆の教訓を補足しなければならない。そうしないと、「五方の搆え」が仰々しく武蔵流の術技だと誤解されかねない。武蔵の根本的なスタンスは、

 「実戦においては、搆えなど、どうでもいい」
ということにある。搆えとはいっても、その搆えの形式に何の意味もない。何のための搆えなのか、よく考えてみよ。太刀を「五方」のどれに置こうとも、戦場の実戦においては、――其敵きりよき様に持心也。――敵を切りやすいように太刀をもつというだけの話である、と。

まことにプラクティック(practic)な教えである。

有搆無搆とは「形に捉われるな」という教えである。この教えを単独に採ってみれば、さしたることもない凡庸な教えのようだが、この言説が、無数の搆えが繁殖した当時の様相、搆えをめぐる形式主義の支配的な状況の中で語られたとみるとき、武蔵の言挙げの批判的な意味が理解されるであろう。

すなわち、戦場のリアリティを欠いた状況のなかでは、戦闘術は実践性を離れた形式化をまぬがれない。リアリティの欠如と形式主義は相補的現象である。しかも、この形式主義が剣の精神化を生産するのである。

そうなると、搆えそれ自体に何のかのと意味づけをして、薀蓄を傾ける流派が出てくる。するとますます搆えは細分化し、何十、何百という搆えを誇るものまで現れる。こうした「進化」としての分節化(articulation)の全盛、それが武蔵の時代だった。五輪書が書かれた時代だった。

このようなとき、太刀の搆えといっても、それは、敵を切り殺すためのもので、搆えそれじたいに意味はない、とする武蔵の言挙げの、状況批判の意味合いを読み取っておくべきである。

また、武蔵がここでも注意を促すのは、「居つく」ということである。ここでの文脈だと、形に捉われ搆えに気が行くと、居つく。それはいけないと言っているようにみえる。

最後になって、このことが出てくるが、むろん、見たとおり取って付けたようで、納まりが悪い。武蔵は、ここで「居つく」ことについて、あと数行何か書くつもりであったのだろうが、これも草稿状態を示す箇処である。

ただ、注意を喚起しておきたいのは、武蔵はここでは、居つくから搆えにこだわるのはよくない、ということは言っていないことだ。

まず、太刀を手に取っては、どのようにしてでも敵を切るのだ、という心持が肝腎。もし、敵の切ってくる太刀を、受ける、張る、当る、粘る、触る、などということがあっても、それはすべて、敵を切るためのものだ、と心得るべきである。受けると思い、張ると思い、当ると思い、粘ると思い、触ると思うと、そのことによって、切ることが不十分になるであろう。何ごとも敵を切るためだと思うことが肝要である。よくよく吟味すべし、というわけである。

ようするに、この有搆無搆の教えは、五方の搆えを説いてしまった後で、それを再度ぶちこわす。搆えにこだわっていると、敵を切れないぞ、という教えである。

なお文中、「受ける」「張る」「当る」「粘る」「触る〔さわる〕」とあるのは、兵法のスペシフィックな語彙群であるから、そのまま読まれたい。

 


ここで肥後兵法書をみれば、右掲のように、該当部分には、搆える心があると、太刀が居付き、身も居付くものなり、とある。これは五輪書よりは説明的であるが、つまり、搆えるという型に捉われると、太刀も身体も「居付く」、固着してしまって柔軟性を失うぞ、という指摘である。

居つくなということは五輪書も述べている。しかしこの有搆無搆の条では、その教えの重点は、何が何でも敵を切るんだ、どうやってでも敵を切るんだ、と思って太刀を取れというところにある。前にも述べたように、肥後兵法書では、何が何でも敵を切るんだという、その殺伐を嫌って、居付かないようにとする方へ軸足が移っている。

また肥後兵法書には、「上段の内にも三つの色あり。中段の内にも下段にも三つの色あり。左右脇までも同じ心なり」とする。五方の搆えそれぞれにさらに三つの色があるというから、いわば十五色である。せっかく、五輪書が有搆無搆といって、搆えを無化したのに、逆に数が増殖してしまったようである。他の諸流との交渉影響もあっただろうが、これでは話が逆行している。これは、武蔵死後、肥後の寺尾求馬助の門流では、五方では不足と見て、型の細分化・分節化という状況が生じつつあったことを示す。

これに対し五輪書の武蔵は、上段も少し下れば中段になる云々として、搆えの細分化のあげく搆えの型の境界が曖昧になり、結局は型など無くなってしまう、無搆に行き着くではないか、という皮肉である。

こうした形式主義化、型への拘泥というのは、「偃武」による支配秩序が完成して、武士が官僚化する状況と、構造的に相同のことである。秩序には形式が必要である。戦国の遺物としての武蔵は、この秩序の内部にはとうてい納まらぬものであった。

だから、武蔵が有搆無搆というとき、孫子兵法の「兵に常勢無く、水に常形無し」の敷衍というよりも、もっとヤクザなところがある。肥後兵法書は、それを居つくなという教えに回収しようとするが、それは後世の合理化である。この有搆無搆の条に明らかなように、構えや形にこだわっていると、人は切れないぞ、敵を殺せないぞ、という戦場の実際論が、武蔵の本旨なのである。

――――――――――――


ここで校異の問題にふれておく。それは、文中、《上段も、時に随ひ、少さぐる心なれバ、中段となり、中段も、利により少上れバ、上段となる。下段も、折にふれ少上れバ、中段となる》とあるところ、諸本のうちには、この「も」字を「を」字に作るものがある。

つまり、《中段も、利により少上れバ、上段となる》のところ、《中段も》を《中段を》として、「も」でなく「を」字と書くのである。

興味深いことに、これが筑前系/肥後系を横断して見られるところである。《中段も》と書く例は筑前系/肥後系両方にあり、また、《中段を》と記す写本も、筑前系/肥後系両方にわたって存在する。

とすれば、このケースは、どう見るべきであるか。どちらが正しいのか。

もとより、前後の文では「上段も」「下段も」「両脇の搆も」とすべて「も」字にするから、この中段だけ「中段を」とする理由がない。したがって、これは「も」字を「を」字に誤写したものである。

しかるに、留意すべきは、これが筑前系・肥後系を横断して見られる文字表記である点である。両系統それぞれにおいて、これが偶発したとするのは、いささか難がある。

とすれば、寺尾孫之丞が発給した五輪書には、ここを《中段を》としていた。それを奇異に感じた後の写本が、この「を」字を「も」字に変えて、文の整合を試みた。――そう考えることもできる。

それゆえ、ここは《中段を》としたいところであるが、それが武蔵オリジナル草稿の文字だったか、となると、確証があるわけではない。寺尾孫之丞が編集段階で草稿を誤写した可能性もなきにしもあらず。

かくして、この《中段を》は宙に浮いて、留保に付すことになる。我々のテクストでは、ここは、「も」字に統一して文章の整合性を示す諸本にしたがい、《中段も》の方を採ったのである。 

15 一つ拍子の打ち

【原文】

 

一 敵をうつに、一拍子の打の事。
敵を打拍子に、一拍子と云て、
敵我あたるほどの位を得て、
敵のわきまへぬうちを心に得て、
我身もうごかさず、心もつけず、
いかにも早く、直にうつ拍子也。
敵の、太刀ひかん、はづさん、うたん、
とおもふ心のなきうちを打拍子、是一拍子也。
此拍子、よくならひ得て、
間の拍子をはやく打事、鍛錬すべし。(1)

  

【現代文】

 

一 敵を打つに、一つ拍子の打ちの事

敵を打つ拍子に、一つ拍子というものがあって、敵と自分が(太刀を打って)当るほどの位置を得て、敵の心の準備ができないのを心得て、こちらは身体も動かさず、心もつけず〔起こさせず〕、できるだけ早く真っ直ぐに打つ拍子である。

敵が、太刀を引こう、外そう、打とうと思う心を、まだ起さない内に打つ拍子、これが一つ拍子である。

この拍子をよく習得して、間〔あい〕の拍子を早く打つこと、鍛練すべし。

 

 

【註解】

 (1)おもふ心のなきうちを打拍子

 この条と次条「二のこし」にわたって、関連する教えが連続する。何れも「間」の拍子に関わることである。それを念頭において読まれたい。――この「間の拍子」の「間」は、「ま」「あい」どちらとも読めて、確定できないのだが、ここでは「あい」としておく。
 まず、一拍子。これは「いち拍子」ではなく、「ひとつ拍子」と読む。これは打撃する拍子の話である。しかしそれはまず、敵の攻撃の心が起きる前に、機先を制して攻撃することである。敵の心が起動する以前の打撃、つまりは、「不意打ち」である。
 この拍子(タイミング)は、いかにも先制攻撃であるが、早ければ早いほどよいというわけでもない。ようは、気の遅い敵の心の動きを読んで、攻撃の機先を制することである。
 武蔵の教えは、拍子を外す拍子、つまりは敵の攻撃リズムを撹乱し、失調させることを重視していたらしい。そのことは、すでに前巻・地之巻にも見えるところである。ところが、攻撃の最中ではなく、攻撃開始の前に拍子を外す、――とは変な話かもしれないが、まさにそれが、武蔵流の先制攻撃の要諦なのである。
 《敵の、太刀ひかん、はづさん、うたん、と思ふ心のなきうちを打拍子、是一拍子也》とあるが、とくに、《敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、いかにも早く、直にうつ拍子なり》という。これが武蔵流の不意打ちの要旨である。
 語釈のことでは、我身も動かさず、心も付けず、というところ、「心も付けず」とは、心を添付させず、ということではない。心を起動させず、という意味である。現代語で、灯りをつける、テレビをつけるなどという「つける」に似た語意である。ここは、身も動かさず、心の起りもなく、ということで、後の別条に「空より」という表現でなされることもある。
 このあたり、五輪書の記述を敷衍して言えば、――攻撃しようとする意図(intention)は、すでに表に現れる。心の動きは内面的なものだが、それは必ず気配として表出され、それが察知される。だから、それでは不意打ちにはならない。ここは、「心も付けず」なのである。つまり、自分の心や身体とは無関係に、太刀(手)が勝手に動いてしまう、そんな攻撃メカニズムを武蔵は語っているのである。これは後述の分裂運動の一種である。
 右掲肥後兵法書には、心おそき敵には、太刀相になると、我身を動さず、太刀の起りを知らせず、早く、空〔くう〕にあたる、これ一拍子なり、とある。五輪書の「心を付けず」は、ここでは、「太刀の起りを知らせず、早く空にあたる」に対応するところである。こちらは、五輪書の記事とちがって、記述はいたって簡潔で、定式化されている。ただし、《空にあたる》という表現は、五輪書の趣旨からすると、ややズレがある。
 あるいは、肥後兵法書では、これが「心おそき敵」が相手のケースだとする。敵には気の早いやつもいれば、遅いやつもいる。そんな相手に応じた、ケース・バイ・ケースである。これはかなり実際的な教えのようにみえる。
 つまり、「心おそき敵」には一拍子、しかし、武蔵の教えにはそんな話はない。肥後兵法書の説明はケースの分析をして一見具体的でわかりやすいのだが、相手を限定しすぎている。このケースでは、相手が遅いというより、こちらが早く懸るのである。いわば懸〔けん〕の先である。五輪書では、――敵の心が遅かろうと、早かろうと、――敵の不意を衝いて、攻撃の「先」を制することである。

――――――――――――


 この一拍子について、岩波版注記は、「ただ一撃で敵を斃す、直線的な打ち」などと書いているが、どこをどう読めば、こんな見当違いの解釈が可能なのか、呆れるところである。ここは拍子のことを云っているのである。一拍子とは、敵がまだ何を思う心もない内に打つ拍子、なのである。岩波版注記には、誤釈というより、恣意的な解釈がしばしば見られる。これはその一例である。
 また、文中、「間の拍子を早く打つ事」とあるが、この「間の拍子」を、「半拍子」とする語釈例もあるが、それでは、不意打ちである「一拍子」という語意を外してしまう。ここでは「一拍子」とは「間の拍子」であり、不意をつく、拍子を外し、拍子を背く拍子だということが要点なのである。
 このあたり、既成現代語訳を見るに、さまざま誤訳を陳列している。戦前の石田訳は、「心も付けず」は意訳して、戦後の誤訳よりはマシなところを示しているが、「間の拍子」については、「間早に」としていて、この語を抹消してしまっている。戦後の神子訳も同様で、「間の拍子」について「きわめて早い間で」としており、石田訳の路線を踏襲するだけである。これでは、「間の拍子」という語が跡形もないのである。
 以後の大河内訳は、《いかにも早く、直にうつ拍子なり》を、「すばやく一撃で敵を倒す拍子のことである」として、原文にない語句を入れて珍訳を示しているが、これは岩波版注記を頂戴したものらしい。鎌田訳は、「心も付けず」を「どこにも心を付けず」としているところを見ると、「付けず」の語意がわかっていないらしい。それに、「間の拍子」を、「間合いをきりつめ」などと珍訳しているのは、これも文意が把握できていない証拠である。
 さして難解とも思えぬこのあたりであるが、これまで正しい現代語訳が出たことがないのは、まさに不思議と謂うべし。ようするに、訳者の質が問題なのである。

 

16 二つのこしの拍子 

【原文】

 一 二のこしの拍子の事。
二のこしの拍子、我うちださんとするとき、
敵はやく引、はやくはりのくる様なる時ハ、
我うつとみせて、敵のはりてたるむ所を打、
引てたるむところをうつ、
これ二のこしの拍子*也。
此書付ばかりにてハ、中々打得がたかるべし。
おしへをうけてハ、忽合点のゆく所也。(1) 

 

【現代文】

一 二つのこしの拍子の事

二つのこし(二重)の拍子とは、こちらが打ち出そうとすると、敵が早く引き、早く張り退〔の〕けるような時、こちらが打つと見せかけて、敵が張って(一瞬)弛むところを打ち、引いて弛むところを打つ。これが二つのこしの拍子である。

この文書を読んだだけでは、この打ちは、なかなかできないはずである。だがこれも、教えを受ければ、たちまち合点のゆくところである。 

 

【註解】

 

 (1)二のこしの拍子


 これも前条につづいて、拍子の話である。
 まず条件は、敵の位〔態勢〕である。敵が早く反応する相手、つまり、《敵はやく引、はやくはりのくる様なる時ハ》というばあいである。
 そのケースでは、自分が打つと見せかけて――つまり、フェイントをかけて――、敵が張って弛〔たる〕むところを打ち、引いて弛むところを打つ。
 これは、相手の反応(張り、引き)を誘発し、その直後の一瞬の弛みを引き出して打つという二拍子の攻撃である。たんに打ち合うということではなく、相手の出方を見て打つというのでもなく、こちらからまず仕懸けるふりをして、相手のリアクションを誘発して遂行する、リフレクシヴ(reflexive)な攻撃である。この組立てが、
   攻撃の擬態 → 相手の弛みの誘発 → つけ込み
という一連の流れのなか、まず、相手のリアクションを誘発するためのフェイントをかける。反応の早い敵は、すぐに張るなり、引くなり対応してくる。その瞬間、擬態にはっと気づいて、弛む。そこが付け目で、気づいたところがすでに遅く、二拍子目が実の攻撃である。
 これは、前条が「一拍子の打ち」のことだったのに対し、いわば二拍子の打ちである。一拍子、二拍子と、このあたり五輪書は話を連続させているわけである。二拍子だから「二のこし」というのだが、「二のこし」という語の意味は、これだけではわからない。
 文意からすると、最初の拍子は擬態で、次に実の打ちをするということで、これは二拍子の攻撃だから、二拍子目はまずためている、次にのこしているということである。この「ため」や「のこし」があるということである。とすれば、「二のこし」は、「二残し」ということになるだろうが、やや語呂が悪い。
 もうひとつ考えられるのは、ここは二拍子だから、二拍子目は最初の拍子に重なる。二重である。たとえば、九重の塔という場合、その「九重」を、「ここのえ」ともいうが、他方、「九のこし」ともいう。とすれば、ここでの「二のこし」は「二の重」、二層の意味である。
 どちらかというと、文意に素直に沿行するのは、後者の方である。したがって、我々は、この「二のこし」を、「二の重」、二層の意味と解しておいた。二拍子だから、拍子の重層ということである。

――――――――――――

 異本間の相違ということでは、ここではいくつか指摘すべき箇処があろう。ひとつは、筑前系諸本に、
《引てたるむところをうつ、これ二のこしの拍子也》
とあるところ、肥後系写本では、「二のこしの打」とする。ここは表題が、「二のこしの拍子」だから、「打」ではなく「拍子」である。筑前系諸本の方が正しい。
 さて、――ここで、上記の「二のこし」について、異本間に若干問題がある。すなわち、現存五輪書写本は、たいてい、これを「二のこし」とする。ところが、写本の中には、これを「二の越」と記すものが多数ある。


 たとえば、筑前系では、早川系は《二のこし》とするが、立花=越後系の諸本には、《二の越》と記す。「こし」を「越」と漢字で書いたのである。またこれは、肥後系でも、丸岡家本・田村家本・富永家本なども同じく《二の越》と記している。つまり、この《二の越》もまた、筑前系/肥後系を横断してあらわれているのである。
 このように、《二のこし》も《二の越》も、両方とも筑前系/肥後系に共通する。すると校異の所在によってのみでは、いづれを是とすることもできない。
 しかしながら、前条との連続で、ここは「一拍子」に対する「二拍子」についての話である。すでに上記に述べたように、「二のこし」は実は、「二の重〔こし〕」の意である。つまり、二層、二重ということである。
 したがって、「二のこし」という文字は、本来「二の重」と書くべき語句なのである。おそらく武蔵が、「二のこし」と仮名で書いたのだろう。だが、そのため、門流末葉の間で、「重」〔こし〕の語義が忘却されて不明になってしまい、この「こし」に「越」と当て字するようになってしまったというのが、その経緯であろう。すなわち、
    二の重 → 二のこし → 二の越
 この「二の越」というのは、オリジナルにはなく、伝写過程で「生産」された字句である。ただし我々の見るところ、当て字とはいえ、微妙なところで文意に沿わないものでもない。
 それというのも、この「越」はたとえば、建物に「越(こし)屋根」というものがあるのをイメージすれば、いささか腑に落ちることもあろう。これは大屋根の上に、さらに小さな屋根を設けて、通風採光の用をさせる。これは屋根の重層である。「越」の意味は重複することである。
 ゆえに、「二の越」は二拍子の打ちを意味するのに、大きくはズレはない。「越」(こし)は重層重複のことだからである。そのかぎりにおいて「二の重」という意味は、異字でも保全されている。ただし、この「越」が、兵法用語「越す」にからむとなると、やはり、「二の越」では、明らかに意味にズレが生じるのである。「二の越」は二次的な当て字だからである。
 我々のテクストは、「二のこし」を「二の重〔こし〕」として、これを復元したのものである。これもまた、この読解作業におけるテクストクリティークの一例である。要は、「二の越」などという語句はオリジナルにはなかった、これは武蔵によって「二のこし」と書かれたもので、本来は「二の重」の意味だったのである
 なお、この件の現代語訳に関連していえば、あろうことか、既成訳はたいてい「二のこし」について「二の腰」と誤訳している。
 これはどこから生じた誤謬かと云えば、戦前の岩波版五輪書(高柳光壽校訂)が、この「こし」に「(腰)」と傍注している、そのあたりが起源であろう。高柳は「二の越」とする写本が多数あるのも知らなかったとみえる。かくして、岩波版五輪書において、細川家本の「二のこし」の「こし」に、「腰」という漢字をあてがってしまったのである。しかるに、戦前戦後を通じて五輪書現代語訳はすべてこれに準拠し、「二の腰」と誤解する仕儀になってしまったのである。
 しかし、そもそも「二の腰」は明らかに間違いで、「腰」という解釈は、文脈からして何の根拠もない。これが「こし」だとするかぎりは、諸写本が当て字した「越」の方がまだしもである。もとより、既成現代語訳の「二の腰」は論外である。

 もう一つ校異の問題を取り上げると、本条末尾、筑前系諸本に、
《おしへをうけてハ、忽合点のゆく所也》
とあって、《おしへを》として「を」字を入れるところ、肥後系諸本の中には、楠家本や細川家本のように、この「を」字を欠くものがある。
 しかるに、同じ肥後系でも、丸岡家本や富永家本など、この「を」字を保全しているものがある。したがって、この「を」字を欠く事態は、肥後系早期のものではなく、二次的な派生以後の脱字である。
 しかるに、従来の五輪書校訂本では、これを全く無視して、むしろ、ここに「を」字の脱字があるということすら認識していない。これは、肥後系(とくに細川家本)中心主義的な見方としては当然の帰結であって、まともに諸本を校合するという基本的作業を怠った結果である。
 これを看過している五輪書校訂本は、その意味において失格である。同じ肥後系でも、丸岡家本・富永家本・田村家本などにこの「を」字を保全していることさえ認識していないようでは、肥後系中心主義どころか、細川家本中心主義という偏向を露呈しているのである。
 これは言わずもがなの些細な校異であるが、従来の五輪書校訂におけるそうした偏向を示す典型として、ここに指摘しておく。

――――――――――――

 この「二のこし」については、肥後兵法書にも記述がある。前に見た「拍子の間を知ると云事」である。そこでは、
 ――心おそき敵には、太刀相になると、我身をうごかさず、太刀の起りを知らせず、早く空にあたる、これが一拍子である。(他方、)敵の気がはやいばあいには、我身と心を打ち、敵の動きのあとを打つこと、これを二のこしと云うのである、と。
 こうしてみると、一拍子は、敵が「心おそき」相手のばあい、二のこしの拍子は、敵が「氣はやき」相手のばあい、と使い分けるような話である。これは一応納得できることだが、では、五輪書は、そういう話の筋かというと、そうでもない。
 前にも述べたように、一拍子は、相手の不意を衝いてこちらが早く懸るという、縣の先である。敵がおそいかどうかは、五輪書には言わないことである。あえていえば、敵が「心おそき」相手というよりも、不意を衝きやすい相手ということであろうが、それも打ってみないことにはわからない。
 これに対し、二のこしの拍子は、五輪書では、敵の気がはやく、打つと見せれば、すぐに張ったり引いたりして反応する相手である。したがって、五輪書にそう書いているから、肥後兵法書は、一拍子の方は、逆に「心おそき」相手という場合だろうと拡大解釈をしてしまったようである。ただし、そんな分類は五輪書の記述にはない。
 つぎに、その二のこしはどんなことかと、肥後兵法書をみれば、「我身と心を打ち、敵の動きのあとを打つこと」とあるだけであって、具体的な説明はない。とくに、五輪書がいうところの、「打つと見せかけて、敵が張って(一瞬)弛むところを打ち、引いて弛むところを打つ」という肝腎の記述がまったく脱落している。これだと、「二のこし」のことを語ったことにはならないのである。
 それゆえ、この二のこしの拍子に関して、「我身と心を打ち、敵の動きのあとを打つこと」とする肥後兵法書の記述は、逸脱しているというよりも、記述に不足がありすぎて、何も言っていないに等しい。肥後兵法書は、どうやら「二のこし」について伝承がなかったようで、その肝腎を理解していないのである。この点、諸君の注意を喚起しておきたい。
 二のこしの拍子を語る五輪書の方では、心と身体の動きは、太刀(手)と同時ではない。前条の「一拍子」が、身体と心に何の気配も見せずに、先に手が動いたのに対し、ここでは、まず「我身と心を打ち」、つまり身体と心に攻撃の気配を見せる。この攻撃擬態に反応して敵が動く、その一瞬後弛みを捉えて打つ、ということである。
 したがって、「一拍子」が先制攻撃(preemptive attack)なら、二拍子の「残し」は言わば「後制」攻撃(post-emptive attack)なのである。前者が機先を制するのに対し、後者は言わば「機後」を制する。武蔵の思考は明晰であり、解説は構造的に明解である。

 

17 無念無相の打ち

【原文】

 

一 無念無相の打と云事。

敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、

身もうつ身になり、心も打心になつて、

手ハ、いつとなく、空より後ばやに強く打事、

是無念無相とて、一大事の打也。

此打、たび/\出合打也。

能々ならひ得て、鍛錬有べき儀也。(1) 

【現代文】

 

一 無念無相の打ちという事

敵も打ち出そうとし、自分も打ち出そうと思う時、身も打つ身になり、心も打つ心になって、手は何時となく、空〔くう〕から遅ればせに、強く打つこと。これが無念無相といって、(我が流派では)重要な打ちである。

この打ちは(さまざまな状況で)度々使える打ちである。よくよく習得して、鍛練あるべきことである。

 

 

【註解】

 (1)無念無相の打

ここに無念無相という語句がある。ところで、この「無相」というのは「無想」ではないか、「無念無相」ではなく「無念無想」ではないかという質疑もあるが、これは、「無念無相」でよい。というのも、慧能の『六祖壇経』に「無住為本、無相為體、無念為宗」というテーゼがあって、「無相」を體となすと記すように、禅家では「無念無相」という。武蔵の知的文化的なバックグラウンドからして、ここは、「無想」ではなく、「無相」なのである。

しかし、無念無相の打ち――である。さてさて、このあたりから、なんとなく神秘主義的な雰囲気が出てきて、いわばオリエンタリズムの好餌となる。何となく解ったようで解らない、茫漠とした気分というのが味噌である。

諸流のうちには、無想流、無相流、無念流なる名を称するものもなきしもあらず、そういうところからすると、無念無相は、近世ことさらに愛好された語だったようである。

武蔵もまた、此条において、《是無念無相とて、一大事の打也》と述べているのだから、これは重要なことなのである。しかも、他流、たとえば、時中流の伝書「諸流極意秘傳之巻」(享保十六年)などには、
一 青木休心居士ハ、常極眞ト察切
一 神明武藏ハ、無念無相ト打
一 戸田流ニハ、保論苔之長 短一身ト秘傳ス
一 柳生流ニハ、棒心清江水ト秘傳
一 一刀流ニハ、近代四ツノ切トテ秘スレ共、現在目ニ見ユル業太刀也
一 新影ニ、文五郎扇團ト秘メ、脇指ノ時左ニ扇又ハ何ニテモ持也
一 微塵流ニハ、大八相ノヒシキ打トテ秘傳ス

此外諸流家々ニ秘傳有トイヘ共、皆ハマグリノグリハマニテ、凡同ジ。
とあって、時中流の祖・青木休心をはじめ、諸流の秘伝を列挙するなかに、「神明武藏」の秘伝として、ほかならぬ無念無相の打ちを挙げているのもおもしろい。

ようするに、「神明武藏」は無念無相の打ちだというのは、武蔵流の数ある教えのうち、世間では、これが武蔵の極意秘伝として有名になっていたのである。

しかし、《是無念無相とて、一大事の打也》とは言っても、五輪書の教えからすれば、無念無相は、極意秘伝というような、そんなミステリアスなことではない。あきらかに、もっと明確な話なのである。

ようするに、身も打つ身になり、心も打つ心になって、手は、何時となく、空〔くう〕から遅ればせに強く打つ、というところがポイントである。身も心も打つ気になっているのに、肝心の手の方は、いつとはなく「空から」遅ればせに動くという。ここが武蔵の教えの妙味である。

しかし、ここでまず注意したいのは、これが最近までよく言われていた「一致」テーゼとは逆の、「分裂」テーゼを背景にしているということだ。すなわち、心気体の一致、気剣体の一致、心技体の一致、眼意足の一致、心形刀の一致…というような、一致論、三要素一体論があったが、それとはまったく違う「分裂」テーゼである。

この三要素一致テーゼの方は、近世後期から言われはじめた新しい観念である。この一致論への言説の転換は、幕末のあたりと特定しうる。それ以前には、むしろ逆に、右掲のごとき「心氣體の三つをつかい分ける」といった分析的な考えが基本であった。

このことを念頭において、ここでの武蔵の教えを読まねばならない。つまり、一致論から読めば間違うことがある。ここは徹底して武蔵の教えを分裂テーゼとして読む必要がある。

すなわち、まず第一に、身心と手が分裂している。ただ分裂しているだけではない。その分裂(splitting)において、分裂構造が尋常のものではない。これがふつうなら、分裂するのは、心と身体(手)である。心身二元論ならそういうことになる。ところが、武蔵の分裂構造は、身心と手の分裂なのである。

第二に、手が「いつとはなく、空から、遅ればせに」動くという点である。

ふつうなら、「空」にする(なる)のは心の方である。だから「無心」ということを強調する。ところが、武蔵は逆のことをいう。身心が打つ気でいるが、手が「空」だというのが無念無相だとするのである。

たとえば、柳生宗矩『兵法家伝書』には、
《手足身に所作はありて、心になくなり、習をはなれて習にたがはず、何事も、するわざ自由也。此時は、わが心いづくにありともしれず》
とある。いわゆる無心の境位である。

すなわち、――さまざま修行をし尽くして、修行が稽古の効果を蓄積すれば、手足身体に動作はあっても、心には動作がなくなり、修得したことが念頭を去っても修得したに違背せず、どんなことでも、する動きが自由自在になる。こうになると、自分の心がどこにあるかもわからなくなり、天魔外道でさえ、我が心を窺い知ることはできないのである。ようするに、このレベルまで達するための修行である、云々。

これは心を空にするという論理だが、武蔵の方は、先ほど見たように、身も心も先に行っているのに、手は遅れて、「いつとはなく、空から」動くのである。

こういうあたり、ほんの僅かの差異、紙一重の違いで、同じ無念無相といっても、武蔵のそれは他と異なるのである。むろん、従来の読み手はだれもそんな差異に注意せず、他と同類の無念無相だと錯覚してきたわけだから、我々のこういう指摘が必要なのである。

武蔵の無念無相は、たんなる無心ではなく、いわば道元の「身心脱落」というテーゼに近いのである。道元の身心脱落がいかに従来の禅思想史のなかでユニークな突出したものであったか、それが単に「空」や「無心」を語る思考とはいかに違っていたか、そのことは少しは理解されている。ところが、武蔵の無念無相は、通俗的解釈のなかで手垢にまみれている、というぐあいなのである。


それゆえここでは、内在的分析を通して、この「無念無相」を解析してみることにする。前々から引用している肥後兵法書の「拍子の間を知ると云事」の当該部分、無念無相のことを述べるところがある。

それを見るに、肥後系伝書のみならず、尾張円明流や三河武蔵流の伝書に至るまで、たいていの写本には、これが無念無「想」とあって、そのことからすると、肥後兵法書初期の段階ですでに無念無「想」と記していたものらしい。五輪書の「無念無相」に沿わない字句である点、肥後兵法書はやや杜撰な発足であったようである。

そのように、この無念無「想」という字句は、肥後兵法書に特徴的な伝承崩れであるから、これを無理に五輪書に合わせて訂正する必要はないし、その意味もない。「無念無想」は、武蔵なら書かない字句であるから、そのままにしておくべきである。

それはともかくとして、肥後兵法書では、見かけは少しだけだが、実際は説き方がかなり違っている。たとえば、
《又、無念無想と云は、身を打やうになし、心と太刀ハ殘し、敵の氣の間を、空よりつよく打つ、是無念無想也》

つまり、ここでは、分裂するのは、

   身 × 心と太刀(手)
であって、それは五輪書の、

   身と心 × 手(太刀)
という分裂構造とは異なる。心のポジションが五輪書では身の方にあるのに対し、肥後兵法書では、太刀(手)の方へ移項しているのである。

ここで改めて肥後兵法書をみると、前項「二のこし」には、《我身と心を打ち》とあって、残すのは太刀であり、「無念無想」の項には、《身を打やうになし、心と太刀は殘し》とあって、前述のように、残すのは心と太刀である。

したがって、五輪書の「無念無相」は、肥後兵法書の「二のこし」の打ちと、形式上は相似である。ここから言えることは、肥後兵法書の祖述には混乱があるということである。五輪書の教説を見直し自身の解釈で再構成しているというよりも、そもそも五輪書を理解していないのである。

上に見たように、無念無相の打ちに関して、肥後兵法書の段階では、心は太刀(手)の項にあるのだが、もともと五輪書では、心は身の項にあり、身心を一つにして、手(太刀)を空から動くものとする。――すなわち、心は動にして不動だということではなく、心は分裂の二項間を動くことによって、ポジションが「空」なのである。

五輪書では、手(太刀)を空に、太刀を残す、という点が強調される。そうして、通俗的な「残心」テーゼから離脱している。武蔵は、このようにして禅思想のディスクールに一般的な「無心」というクリシェを、わざと避けているふしがある。

ただ、通俗観念に染まった者には、「心と太刀は残せ」といった方が理解しやすいのであろう。肥後兵法書はその境位にある。逆に、五輪書のように、身も心も打つ気になって、しかし手(太刀)は気にするな、遅ればせでよい、と言うことで、難解になるのではない。むしろ、初心または非熟達者にとっては、その方が理解しやすいかもしれない。

すでに指摘してあるように五輪書は、説き方が懇切である。少なくとも、なるべく理解しやすいように、という対機説法なのである。


――――――――――――

 

なお、既成現代語訳に関していえば、それらの障害はやはり、《手は、いつとなく、空より後ばやに強く打事》という箇処にあるらしい。いろいろ誤訳がならんでいる。

戦前の石田訳は、「空より」を意訳しているが、これは戦後の諸訳よりも的外れではない。ただし、《後ばやに》を「その後は機敏に」としているところを見ると、この語の意味を知らなかったようである。現代語でいえば《後ばやに》とは「遅ればせに」という意味である。

戦後になると誤訳は著しくなった。まず神子訳は、《いつとなく空より》を「きわめて自然に」と意訳したのだが、これは「超訳」にすぎて、脱線である。そして《後ばやに》の語訳も、「加速をつけて」と、すばらしく脱線してしまった。《後ばやに》は、後になると速く、の意味ではないか、するとこれは加速(acceleration)だと、――そんな勝手な思いつきで、こんな語訳に及んだものらしい。「後ばや」が「おくればや」と読むものだとは知らない。古典の素養がない素人の誤訳である。

続いて大河内訳は、まったく文言が同じで神子訳のパクリである。次の鎌田訳は、神子の「加速をつけて」はあんまりだと思ったのか、別になんとかしようとしたようすだが、「すばやく敵の気の間を」という訳の分らぬ珍訳を示している。むろんこれは独自の工夫ではない。岩波版注記が、何のコメントも付さず、ここに兵法三十五箇条の「拍子の間を知ると云事」の一節を引用しているのだが、それを見たらしい。そこに「敵の気の間を、空よりつよく打つ」とあるのを、ここにそのまま転記したのである。

これは鎌田訳の杜撰なスタンスを示す事例である。何の工夫もせずに岩波版注記を流用するのだが、その極みはこれである。神子訳は《後ばやに》を誤訳しただけだが、鎌田訳は五輪書とは違う文書の文言を誤用したのである。

以上は、既成現代語訳のレベルを示すものである。これまで語訳は、こういうレベルに低迷してきたのである。

 

18 流水の打ち 

【原文】

 一 流水の打と云事。
流水の打と云て、敵あひに成て、せりあふ時、
敵、はやくひかん、はやくはづさん、
早く太刀をはりのけんとする時、
我身も心も大になつて、
太刀を、我身の跡より、
いかほどもゆる/\と、
よどミの有様に、大に強くうつ事也。
此打、ならひ得てハ、たしかにうちよきもの也。
敵の位を見分事、肝要也。(1)

 

【現代文】


一 流水の打ちという事

流水〔りゅうすい〕の打ちというのは、敵合(敵相)になって競り合う時に、敵が早く引こう、早く外そう、早く太刀を張りのけようとする時、こちらは身も心も大きくなって、太刀を我が身の後から、いかほどもゆるゆると、淀みのあるように、大きく強く打つことである。

この打ちを習得すれば、たしかに打ちやすいものである。

(以上四つの「間の拍子」については)敵の位〔態勢〕を見分けることが肝要である。 

【註解】

 (1)いかほどもゆる/\と、よどミの有様に

この流水の打ちは、意図して遅れるという拍子である。早いばかりが拍子ではないことは、武蔵の再三説くところであるが、その極みはこの「流水の打ち」である。

流水の打ちという「流水」とは、正確には「流水の淀み」のことである。「流水」といえば、「淀み」という反対物が連想される。その反対物の連想を織り込んだ、一種の省略語法であり、「淀み」といわずに、逆に「流水」という反対物を表に出すという言語遊戯が行使されているわけだ。

「流水」の打ちとは、実は「淀み」の打ちだという戯れである。五輪書に「流水の打」と記しているところをみると、武蔵生前すでに、この「流水」という省略語法が流派内用語として定着していたようである。

かくして、「流水の打ち」とは、一部解説書にあるごとく、水の流れるようにスムースに打つ、ということでは決してない。逆である。ここでは「淀み」、できるだけ遅く、ということがポイントなのである。

これは、先ほどの「二のこしの拍子」の打ちと前提が似ている。その二つの「こし」(二重)の打ちとは、
《我うちださんとするとき、敵はやく引、はやくはりのくる様なる時は、我うつとみせて、敵のはりてたるむ所を打、引てたるむところをうつ》
ということであった。これに対し、この流水の打ちは、
《敵合に成て、せりあふ時、敵はやくひかん、はやくはづさん、早く太刀をはりのけんとする時、我身も心も大になつて、太刀を我身の跡より、いかほどもゆる/\と、よどミの有様に、大に強くうつ事也》
ということなのである。どちらも敵は早く反応する相手だが、流水の打ちの方は、敵合(敵相)になって競り合っていて、敵が引く一瞬をとらえて攻勢に出る攻撃である。

ところがこの攻勢は、素早く一気にどっと出るという常識とは逆に、できるだけゆっくりと淀みのあるように、緩慢に出ろという教えなのである。そのときの気持は、身も心も大きくなって、太刀を我が身の後から、ゆるゆると淀みのあるように、大きく強く打つことである。

このように、太刀はゆっくりと《我が身の後から》打つという感じは、よく解るところである。これはまた、先ほどの無念無相の打ち、《空より後ばやに》という文言と呼応する内容である。ただし、無念無相の打ちが、躰々になって懸ってくるアグレッシヴ(攻撃的)な敵が相手であるのに対し、流水の打ちの方は、敵は、引いたり外したりするディフェンシヴ(防衛的)なポジションである。つまり「敵の位」が違うのである。

最後に、《敵の位を見分る事、肝要也》とある。ここには、しかし、「能々分別有べし」とか、「能々工夫すべし」とか、そういう結語はない。何やら書き残しがありそうで、武蔵が書かずに終った文言があるようである。未定稿の徴しがここにある。

ところで、この敵の「位」とは、敵のポジション、つまり態勢のことである。つまり、不意を衝きやすい相手か、気が早くてすぐ弛む相手か、あるいは、張り合ってくるアグレッシヴ(攻撃的)な相手か、それとも引きがちなディフェンシヴ(防衛的)な相手か、そういう敵の態勢(positions)を見分ける事が肝要だということである。

したがって、《敵の位を見分る事、肝要也》という一行は、この「流水の打」だけのことではない。これより前の、「一拍子」「二のこし」「無念無相」の三条も含めた総括的な要約なのである。

なるほど、以上、本条を含めて、四つのパートになっているが、肥後兵法書では「拍子の間を知る」というテーマで、一箇条にまとめている。両者の対応関係を整理すれば、以下のごとし。

 

敵の位 五 輪 書 肥後兵法書
不意の
隙あり
(1)一拍子
敵を打拍子に、一拍子と云て、敵我あたるほどの位を得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、いかにも早く、直にうつひやうしなり。敵の太刀ひかん、はづさん、うたん、と思ふ心のなきうちを打拍子、是一拍子也。
(1)一拍子
心おそき敵には、太刀相になると、我身をうごかさず、太刀の起りを知らせず、早く空にあたる、是一拍子也。
早いが
たるむ
(2)二のこしの拍子
我うちださんとするとき、敵はやく引、はやくはりのくる様なる時は、我うつとみせて、敵のはりてたるむ所を打、引てたるむところをうつ、これ二のこしの拍子也。
(2)二のこし
敵氣はやきには、我身と心を打、敵動きの跡を打事、是二のこしと云也。
攻撃的
(3)無念無相の打
敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、身もうつ身になり、心も打心になつて、手は、いつとなく、空より後ばやに強く打事、是無念無相とて一大事の打也。
(3)無念無想
又、無念無想と云ハ、身を打やうになし、心と太刀ハ殘し、敵の氣の間を、空よりつよく打つ、是無念無想也。
防衛的
(4)流水の打
敵合に成て、せりあふ時、敵、はやくひかん、はやくはづさん、早く太刀をはりのけんとする時、我身も心も大になつて、太刀を我身の跡より、いかほどもゆる/\と、よどみの有様に、大に強くうつ事也。
(4)おくれ拍子
又、おくれ拍子と云ハ、敵太刀にてはらんとし請んとする時、如何にも遲く、中によどむ心にして、間を打事、是おくれ拍子也。

 

 両者を対応させてみると、肥後兵法書も、一拍子、二のこし、無念無想とあって、順序は同じであるが、ただ名称の点で、五輪書では第四を「流水の打ち」としているのに対し、肥後兵法書では、「おくれ」〔後れ〕の拍子と名を変えている。

「流水の打ち」の「流水」とは、前にも述べたように「流水の淀み」という語句の省略語法である。正確には「流水」の打ちというより「淀み」の打ちということである。だから、後出の「紅葉の打ち」等々と同様、武蔵はここで、すこし言葉遊びをやっているということである。

肥後兵法書の「おくれ」という表現は、「流水の打ち」では誤解を生じやすいと考えて、これを修正してしまったのである。武蔵の文芸的な遊興性が消去されている。何事も後には窮屈になるもののようである。

しかし、問題は、ここに肥後兵法書が示しているように、これら四つを「拍子の間を知ると云事」で括れるか、ということである。肥後兵法書は、無念無想にも、《敵の氣の間を、空よりつよく打つ》として、新義を示しているし、流水の打ちに対応する「おくれ拍子」についても、《如何にも遲く、中によどむ心にして、間を打事》として、「間」の拍子を打つという新解釈を提示している。

しかし、五輪書の教えに明らかなごとく、無念無相の打ちと流水の打ちは、「間」の拍子がテーマだとは言えない。こちらは、敵の位がアグレッシヴか、ディフェンシヴかによって、打ち方が違うという教えなのである。

無念無相の打ちは、敵の位がアグレッシヴであるとき、《身もうつ身になり、心も打心になつて、手は、いつとなく、空より後ばやに強く打事》であって、「間」の拍子ではない。むしろ、いわば「空」の打ちである。あるいは、流水の打ちは、敵の位がディフェンシヴであるとき、《太刀を我身の跡より、いかほどもゆる/\と、よどみの有様に、大に強くうつ事》であって、これも「間」の拍子ではない。

「間」の拍子といって適切なのは、一拍子と二のこしの拍子である。一拍子は、《敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、いかにも早く、直にうつ》拍子であり、《敵の太刀ひかん、はづさん、うたん、と思ふ心のなきうちを打つ拍子》である。不意の隙間に付け込んで先をとるのである。また、二のこしの拍子は、《我うつとみせて、敵のはりてたるむ所を打、引てたるむところをうつ》拍子である。これも、敵の拍子を攪乱して相手が弛む瞬間に付け入るのであるから、「間」の拍子と云ってよい。

ようするに、前者では、敵の反応以前に付け入り、後者では、敵の反応後に付け込む。その「間」の拍子について五輪書は教えている。ただし、これは「間」の拍子であって、拍子の「間」ではない。この点も、肥後兵法書の語法には問題がある。

また、前に述べたように、これが敵の位において、心が遅いか、気が早いか、ということではない。敵の心が遅いのではなく、不意打ちをこうむる隙があるということであり、敵の気が早いのではなく、早くてもすぐ弛む隙があるということである。

したがって、以上のことからすれば、肥後兵法書に「拍子の間を知ると云事」でこれら四つを括るというのは無理がある。道理がない。もしこれら四つを括るというのであれば、それは敵の位ということである。敵の位はそれぞれ異なるから、それに応じた拍子や打ちがあるという教えである。こうしたことは、五輪書の記述を、無構造に、起伏なくベタに読んでいては、看取できないことである。


余談になるが、既成現代語訳を見るに、最後の《敵の位を見分る事、肝要也》のあたり、どうも「敵の位」という語が躓きの石であったようである。この語がきちんと理解されずに、翻訳がなされてきたのである。

武蔵は、ここまでの四段について、総括的にこの注意を促しているのである。これは独立した一行である。それを読めないのは、「敵の位」というキーワードを理解していないからである。

戦前の石田訳は、敵の「位」という語を、敵の「形勢」と訳して、誤訳の皮切りになったが、これは戦後の諸訳に較べれば、まだ、語訳への努力がみられる。

神子訳は、「敵の位」について、「敵の位置、力量」と訳して、この語を理解していないことを露呈している。言うまでもないが、「敵の位」とは、上述のごとく、敵の四つのポジションのことである。この点では、戦前の石田訳の方がまだしもマシである。戦後になって語訳能力が後退したのである。

神子訳が出た後の大河内訳は、何の工夫もなく、神子訳をそっくり頂戴したにすぎない。同じく鎌田訳は、神子訳の「位置、力量」という訳語の「位置」だけを頂戴している。これは「位」を位置の意味と勘違いしたのか、いづれにしても、「敵の位」という語句がわかっていないのであって、ここでも訳者として力量不足であることを隠さない。  

 

 

19. 縁の当り 

【原文】

 
一 縁のあたりと云事。
我うち出す時、
敵、打とめん、はりのけんとする時、
我打一つにして、あたまをも打、
手をも打、足をも打。太刀の道ひとつをもつて、
いづれなりとも打所、是縁の打也。(1)
此打、能々打ならひ(得てハ*)、何時も出合打也。
さい/\打合て、分別有べき事也。(2)

 

 

【現代文】

 一 縁〔えん〕の当りという事

 こちらが打ち出すと、敵は打ち留めよう、張りのけようとする、その時、こちらは打ち一つで、頭をも打ち、手をも打ち、足をも打つ。太刀の軌道一つで、どこなりとも打つところ、これが縁の打ちである。

 この打ちは、よくよく打ち習い(得れば)、どんな場合でも使える打ちである。何度も打ち合って(練習し)、分別しておくべきことである。

 

【註解】

 

 (1)太刀の道一つをもつて、いづれなりとも打

自分が打ち出して、敵が打ち留めよう、張りのけようとする時、こちらは打ち一つで、頭をも打ち、手をも打ち、足をも打つ。太刀の軌道は一つで、どこなりとも打つ。こういう打撃法が「縁の打ち」であるという。

太刀の軌道は一つで、どこなりとも打つというのは、打つ場所によって太刀筋が異なるのでなく、同じ軌道でどこへでも打つということである。野球の打者が、狙いを定めるより先にバットを起動させ、高低左右どこでも打つというのと近いかもしれない。

しかし、これがどうして「縁の打ち」というべきものか、となると、解釈は異なってくるだろう。

たとえば、これが次の攻撃へ展開する機縁となるから「縁の打ち」だという理解もある。しかしこれは間違いである。そんなことは、どこにも書かれていない。

ようするに、太刀の軌道一つで、どこなりとも打つ、という字義通りのことが、ここでのポイントなのである。このとき自分から、頭、手、足、身体のどこを狙って打つというのではない。どこをヒットするかは、相手の出方次第なのである。だから、自分では意図しないが、当る場所は「相手次第」だということで、「縁の当り」というタイトルなのである。

武蔵は後出の別のところで、「打つ」と「当る」は違う、両方を区別する必要がある――と語っている。しかし、こういう打ちになると、「縁の打ち」といっても「当り」に近い。そこで、「縁の当り」という。繰り返せば、ようするに、ポイントは、《太刀の道一つをもつて、いづれなりとも打》、つまり、太刀の軌道は一つで、どこなりとも打って当てる、ということである。

ところが一方、肥後兵法書では、右掲のような「縁の当り」の記述がある。よく読めば分ろうが、話は、五輪書の教えとはかなり違っている。

つまり、「縁の当り」というのは、敵が太刀で切かかってくるさい、間合いが近い時は、我が太刀で張ることもあり、受けることもあり、当ることもある。受けるも張るも当るも、敵を打つ太刀の縁だと思うべし。切るも外すも突くも、すべて打たんがためだから、我身も心も太刀も、常に打つというアグレッシヴな心持である、云々。

これは、肥後兵法書が、五輪書の教説からの逸脱を見せているところである。肥後兵法書は、寺尾求馬助の門流で生じたものである。武蔵の教義が反芻されるうちに、変質を結果したのも当然である。

この箇処について言えば、もともと五輪書の方は、太刀の軌道は一つで、どこなりとも打って当てる、というのが「縁の当り」である。ところが、肥後兵法書では、その《太刀の道一つをもつて》という肝腎なポイントが脱落しているのである。

そもそも、武藏が五輪書でいうところは、意図と結果というリニアな「因果」関係(causality)の切断である。この意図と結果の因果連関に介在するのが、相手の動きである。この偶発的な「縁」によって「因果」が実現する。そこでは、結果的にどこを打撃するかは、その被害者自身がもたらした縁によるのである。

このあたり、武蔵という思考は、なかなか食えない、一筋縄ではいかないところがある。

 

 

(2)さい/\打合て、分別有べき事也

まず、字句校異の問題だが、筑前系/肥後系ともに諸写本は、《此打、能々打ならひ、何時も出合打也》としている。このばあい、「打ならひ」では、「何時も出合打也」という次への接続の具合が悪い。

しかし、これは筑前系/肥後系とも諸写本にほぼ共通するところである。ただし例外もある。越後石井家冊子本である。同家の巻子本は、諸本と同じく《此打、能々打ならひ》とするのであるが、冊子本は、《此打、能々習ひ得てハ》として、しかも、「得てハ」の三文字に朱点を付して、誤記だという認識を示している。

しかるに、これは書写において、ついそう書いてしまったものの、その誤謬には真実が内包されているのである。その誤写は、ここに脱字のあることを直指している。それがたとえば、「得てハ」の三文字ならば、この不通の文意も通るようになる。

他方、《打ならひ》は、筑前系/肥後系とも諸写本にほぼ共通する文言なので、おそらく寺尾孫之丞段階における誤記であろう。おそらく、オリジナルは、《此打、能々打ならひ得ては、何時も出合打也》というような文言であったはずである。つまり、この打ちをよくよく打ちならえば、いつでも使える役に立つ打ちだよ、というわけである。

したがって、《打ならひ》の次に脱字があったものとみなし、我々のテクストでは、「得ては」という三文字をその穴埋めの候補として、如上の修復を行っている。

こうした修復の前例は、越後系石井家本の他に、肥後系の丸岡家本・田村家本の系統に、《打習バ》、《打習テハ》とする事例が見られるが、この部分の異常に気づいていた者もすでにあったということである。それぞれは、その異変に対応して、文字を宛行っているのだが、それはこの脱字を座視するよりまだマシである。

我々もまた、この箇処に脱字あることを看過できず、その候補を考えていたのだが、たまたま越後で発掘した写本の文言に触発されたかたちで、これを「得ては」としたまでである。他によき文言があれば、その折に検討してみたいと考えている。

さて、次の問題箇処に移る。

これも字句校異の問題だが、「さい/\」とある箇所である。これは、文脈からして、「再々」、つまり、たびたび、何度も、繰り返し、ということである。しかるに、たとえば、細川家本には、
《細々打あひて分別あるべき事也》
とある。この「細々」という字句について、細川家本を底本とする岩波版は、わざわざ「こまごま」とルビをふって、しかも脚注には、「しばしば。たびたび」と矛盾した語釈を示している。しかし「こまごま」とルビをふるのは、校註者の間違いである。諸本参照すればすぐに分ることだが、そもそも、「細々」とする細川家本が間違っているのである。

岩波版がこういう次第なので、既成現代語訳には、これを「細々」(こまごま)とするものがある。これは誤謬の再生産である。

「細々」とするのは、書写者が「さい/\」とある箇所を誤解して、「細々」と当て字してしまったのだが、この「さい/\」を「細々」と記す例は、細川家本のみにあらず。肥後系諸本には他にも例がある。富永家本は《細/\》とし、円明流系統の多田家本や稼堂文庫本にも《細々》とある。それゆえ、《細々》という表記は、後期写本の特徴だということである。

とすれば、細川家本が「細々」とするところから、判明することは何か。それは、細川家本が、後期写本と同じ位相にあるということである。「さい/\」を「細々」と当て字するその写し崩れをそのまま継承しているのが細川家本なのである。そうした後発性の特徴を示す細川家本にもかかわらず、これを古型として信奉とする偏向がいまだに支配的である。困ったことに、それが五輪書研究の現状なのである。

 

20 石火の当り

【原文】

 一 石火のあたりと云事。
石火のあたりハ、
敵の太刀とわが太刀と付合程にて、
我太刀少もあげずして、いかにも強く打也。
是ハ、足もつよく、身も強く、手も強く、
三所をもつて、はやく打べき也。
此打、たび/\打ならはずしてハ、打がたし。
能鍛錬をすれバ、つよくあたるもの也。(1)

 

 

【現代文】

 

一 石火の当りという事


石火〔せっか〕の当りは、敵の太刀と我が太刀が触れ合うほど(接近した状態)で、我が太刀は少しも上げずに、できるだけ強く打つのである。


これは、足も強く、身も強く、手も強く、三所*(さんしょ、足・身・手)をもって早く打つべきである。


この打ちは、度々(繰り返し)練習しなくては、打つことはできない。よく鍛練をすれば、強く当たる(ようになる)ものである。

 

 

【註解】

 

 (1)我太刀少もあげずして、いかにも強く打也

この「石火」は、「いしび」ではなく、「せっか」と読む。火打ち石を打って火花が散る、そんな一瞬のこと、それが一般的な意味であろう。和語の伝統的文脈では、刹那の果敢なさという語感もあった。《老少不定の世のなかは、石火の光にことならず》(平家物語 巻十)。道元の『普勧坐禅儀』にも《既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ。仏道の要機を保任す、誰か浪に石火を楽しまん。加以、形質は草露の如く、運命は電光に似たり》ともある。

ここにあるごとく、現代人にも周知の「電光石火」という言葉がある。もともとは、禅家のいう「撃石火、閃電光」あるいは「閃電光、撃石火」という成語である。たとえば、『碧巌録』に《撃石火の如く、閃電光に似て、直下に一條の正路を撥開す》とある。

五輪書の「石火」という語も、そのような禅家の文脈で当時流布していたと思われるが、武蔵の語の用法はそれとは異なっている。たとえば、沢庵の『不動智神妙録』に、こういう一節があった。
《石火の機と申事の候。是も前の心持にて候。石をはたと打と否や、ぴかりと出候火の如く、うつと其儘出る火なれば、間もすきまもなき事にて候、是も心の留まるべき間のなき事を申候》

これが通常の石火という語の語られる背景である。とくに、「心の留まるべき間のなき事」とあるのは、しばしば禅問答に、間に髪を容れずの応答のあることからくる。「如何是仏」と問えば、即座に手をパンと打つ、といった類の話である。

しかしこの「石火の当り」の条文を一読すればわかるように、武蔵は、そういう「心の留まらぬ」ことを教訓する禅家の文脈から、この「石火」という言葉を解放しているのである。ここでの話は比喩ではなく、もっと即物的である。

すなわち、石火、そんな素早い一瞬の動きのことであるが、これを目にもとまらぬ早業というように読んでは間違いなのである。ここで焦点は、

 《我太刀、少もあげずして》
とあるところである。ふつうは、強く打つには、大きく太刀を振りかぶる、そうでなければならないはずだと思う。ところが、ここで武蔵が言うのは、少しも上げずに強く打つことである。そんなことができるのかと思うが、これができるのである。

昔のことになるが、類似のことは大道芸でもあった。棒状の物――木刀か鉄棒か今となっては確かめようはないが――で、石を割るのである。そのとき、打ち手の棒はほとんど動かないのに、石が割れた。気合で割る、という感じであった。

気合で割るといっても、それでは話を蒙昧化するだけである。ここはもっと端的な例、たとえば削岩機を想起すればよい。つまりこの機械の尖端で動くハンマーの運動幅はごく小さい。にもかかわらず、岩石を割り進む。運動幅はごく小さいが、ハンマーの速度とパワーが大きいのである。

この石火の当りで云うところの《我太刀少もあげずして、いかにも強く打也》というのは、物理学的に言えば、要するに運動量は小さいが、運動エネルギーは大きい、という運動のことである。

武蔵の言うケースは、接近戦で太刀と太刀とがしのぎ合う状態で、太刀を大きく振るなどできない場合である。「少しも上げずに」というのは、たとえば五寸(15cm)どころか、三分・五分(0.9cm・1.5cm)の運動幅でも、太刀は十分強く打てることである。

つまりブーンと大きく太刀を振るのではなく、いわばガッという瞬時の動きである。そのためには身体の三處、つまり足も体も手も瞬時動員して、その僅かな運動幅の動きに最大限のパワーを発揮する。そのガッという動きが「石火」の動きである。

これは空手の突きでも同じである。いわば、たとえ三分・五分の運動幅でも十分な打撃は可能である。突きは水平運動だが、太刀の場合は垂直運動、その場合でも大きな打撃力を発揮できるのである。それを武蔵は、《我太刀少もあげずして、いかにも強く打也》と書いているのである。

なお蛇足とはいえ、一言加えるなら、このあたり、近代の武道家が「気」だの「丹田」だのと言いたがるが、武蔵は決してそんな説明はしないということは、強調しておかねばならない。武蔵の説明は一貫して、フィジカルなものである。それは言わば、近代のオリエンタリズムとは無縁の、物理学である。

この石火の打ちについて、武蔵は、《足もつよく、身も強く、手も強く、三所をもつて、はやく打べき也》と記している。この三所は、足・身・手のことであるが、それを総動員して全身で打つというわけである。

この「三所」〔さんしょ〕は、たんに三ヶ所という意味ではない。太刀・刀剣で、三所というのは、目貫・笄〔こうがい〕・小柄の刀装具三品をいうが、三所物〔さんしょもの〕というのは、それが完備していて、しかも同じ意匠、同じ作者であるものをいう。要するに、武蔵がここで「三所」という言葉を用いたのは、そういう三点セットの三所物のように、一体となって、という意味合いである。

したがって、この「三所」は、たんに三ヶ所ということではなく、三つ一体に、という、武蔵流の三位一体論なのである。既成の語釈・語訳はどれもそれを知らないようだが、ここは、そんな含蓄まで、きちんと読みとるべきところである。

――――――――――――


ここで、校異の問題である。それは本条最後の文に関することである。すなわち、筑前系諸本に、
《能鍛錬をすれバ、つよくあたるもの也》
とあって、《鍛練を》とするところ、肥後系諸本は軒並み、この「を」字がなく、《鍛練すれば》という語句である。

この相異は、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異である。したがって、ここに取り上げておくべきところである。

これについてまず云えば、筑前系諸本において、《鍛練を》として、「を」字を入れるのが共通するところである。石井家巻子本に「を」字を欠く例があるが、同家冊子本では「を」字を追補しているから、巻子本は明らかに脱字である。また同じ越後系の諸本は、すべてこれを《鍛練を》とする。したがって石井家巻子本の脱字は孤立例であり、越後系伝書は本来《鍛練を》としたものとみなしうる。

このように《鍛練を》が筑前系諸本に共通することからすれば、筑前系初期からこれがあったものと思われる。既述のように、このケースでは、寺尾孫之丞前期の姿を伝えている可能性が高い。したがって、当初は、この《鍛練を》であったものとみえる。

それに対し、肥後系諸本に「を」字を欠くについては、その経緯に二つ可能性がある。

ひとつは、寺尾孫之丞後期、寺尾が伝授した五輪書の記述が、《鍛練を》とはせず、「を」字を欠いていたこと。このケースでは、寺尾孫之丞の時期による表記のゆらぎである。したがって、寺尾孫之丞の段階では、正しいのはどちらとも云えない。ただし、前に柴任へ伝授したのであるから、前期の文言の方を古型として採るべきであろう。

また、この校異に関するもう一つの可能性は、寺尾の段階ではなく、その後の写本に脱字が発生したという可能性である。そのばあい、おそらく、門外流出後早期であろう。というのも、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系統の諸本も同じく、「を」字を欠くかたちであるからだ。かくして、肥後系諸本においては、早期に発生したこの脱字をそのまま伝写伝播したのであり、現存写本は何れもその子孫である。

ともあれ、この「を」字を欠く問題はそこまでであって、とくにこれを採るべき理由はない。寺尾孫之丞の当初は、《鍛練を》という方であったであろう。したがって、我々のテクストでは、ここを《鍛練を》として、「を」字の入ったものとしている。

なお、ついでながら、この行文において、《能鍛練を》とあって「能」〔よく〕とするのだが、これを《能々》とする例がある。肥後系の富永家本や狩野文庫本他がそれであるし、また筑前系でも石井家本・神田家本・猿子家本その他がそれである。このケースは、かなり例が多いし、筑前系/肥後系を横断する事例である。だが、結論をいえば、これは偶発的な誤記である。

そこで、この校異については、我々においてとくに問題とするに当たらない。だが、《能》が《能く》と送り仮名する例もある。そこで、これが《能/\》が化すケースもあることは、知っておいてよいのである。

 

21 紅葉の打ち

 

【原文】

 一 紅葉の打と云事。
紅葉のうち、敵の太刀を打落し、
太刀とりはなす(はなつ)心也。(1)
敵、前に太刀を搆、
うたん、はらん、うけんと思ふ時、
我打心ハ、無念無相の打、
又、石火の打にても、敵の太刀を強く打、
其まゝ跡をはねる*心にて、切先さがりにうてバ、
敵の太刀、かならず落もの也。
この打、鍛練すれバ、打落す事安し。
能々稽古有べし。(2)

 

【現代文】

 

一 紅葉の打ちという事

紅葉〔こうよう〕の打ち(というのは)、敵の太刀を打ち落し、(敵の手から)太刀をとり放つという意味である。

敵が前に太刀を搆え、打とう、張ろう、受けようと思う時、こちらの打つ心は、無念無相の打ちでも、また石火の打ちでも、敵の太刀を強く打ち、直ちに後を撥ねる心持で、切先下りに打てば、敵の太刀は必ず落ちるものである。

この打ちを鍛練すれば、敵の太刀を打ち落とすことは容易である。よくよく稽古あるべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)敵の太刀を打落し、太刀とりはなす心也

紅葉の打ち――とは、また武蔵の洒落である。このワードプレイ(言語遊戯)では、敵の太刀を打ち落とす、その太刀が落ちるから、「紅葉」なのである。「落ちる」と言えば、「紅葉」である。別に他意はない。

前例では、「流水の打ち」の「流水」という名があった。これは「流水のよどみ」の省略語法である。「流水」と云えば、「淀み」が連想されるから、「流水」を指示語としたワードプレイである。

   「流水」 → よどむ

   「紅葉」 → 落ちる

こう並べてみれば、ここで武蔵が術名で遊んでいる様子がわかるだろう。

ところで、この「紅葉」という字句につき、これを「もみぢ」とルビをふるものがあるが、それは余計な誤りである。「流水」(りゅうすい)、「石火」(せっか)はまだしも、後に、「秋猴」(しゅうこう)、「漆膠」(しっこう)などとあるのだから、術名は共通して音読みである。したがって、この「紅葉」も、「もみぢ」ではなく、「こうよう」と音読みにすべきである。

一例、肥後系後期写本、田村家本に、《紅葉ノ打ト云事。コウヤウノ打》とあって、「紅葉」の読みを示している。田村家本のことだから、早期のかたちを示す根拠史料とはなしがたいが、肥後系では「紅葉」を「こうよう」と読んでいたという証拠である。

以上、「紅葉」の読みという点、後学の諸君に注意を喚起しておく。

この「紅葉の打」の条は、とくに注釈を要しないであろう。そのまま読めるはずだろう。しかし、こういうふうに注釈なしでも読めるようになったのは、我々のテクスト校訂作業の結果である。ちなみに細川家本を底本とする他のテクストを見ればわかるが、字句には誤写があって、読みの混乱を生産してきた、いわば問題の部分である。

この部分に限っても、たとえば、細川家本では、

 《紅葉の打、敵の太刀を打おとし、太刀取なをす心也》
とある。この「なをす」では、意味が通らない。敵の太刀を打落として、太刀を取り直す、――要するに、何のことだかわからない。

それゆえ、ここは、他の諸写本にあるごとく、「はなす」もしくは「はなつ」が正しい。敵の太刀を打って、手から太刀を取り落とさせるのである。

このばあい、「はなす」「はなつ」のどちらがオリジナルに近いか、といえば、「はなつ」の方とも思えるが、書写の具体的シーンを想定すれば、「つ」→「す」の順序ではなく、「す」→「つ」であろう。変体仮名「す」(須)であれば、「つ」に替る可能性があるからだ。

これに対し、「なをす」と記す細川家本のケースでは、当初の写本には「はなす」とあったのが、「は」と「な」が入れ替わって、「なはす」と誤写され、次いで、「なはす」では不適切だと気づいた伝写者が、この「なはす」を「なほす」、さらには「なをす」にしてしまい、現存細川家本の形になったという次第である。

   「はなす」→「なはす」→「なほす」→「なをす」

このうち、「なほす」と記す例は、常武堂本である。常武堂本は細川家本と同系統の明治の写本であるが、細川家本より古い語形を保存していることがある。このケースはその一例である。

ようするに、「はなす」が直接、「なをす」に交替することはない。この間に少なくとも複数回の書写があって、「なをす」に行き着く。これは近縁の楠家本にはない特有誤記であるから、後発性の誤写である。

この箇処でもそうだが、細川家本の後発性を示す特徴のあるところである。細川家本を古型としてむやみに信奉するのは、たれか云う、「なまへいほう、大きずのもと」である。

ところで問題は、現在流布している現代語訳は、こうした誤写字句をもつ細川家本に依拠するために、混乱した翻訳を演じていることである。これら訳者が安易に頼った岩波版そのものが間違っているのだから、いたし方がないことであるが、いづれも誤りであることは、文章の意味が通るかどうか見ればわかる。

ここでも、戦前の石田訳は、異本の「はなす」に注目して、それを傍記して、語訳もほぼ正しく示しているが、それに対し、戦後の神子訳以下は、そんなことにも気づかず、能天気な訳文を示している。戦後、五輪書翻訳能力が格段に低下したという見本である。

ようするに、「紅葉の打ち」とは、敵の太刀を打ちおとして、太刀をとりなおすことである――などという、わけのわからない訳文を放置しておいてはいけない。訂正されるべきである。

――というわけで、毎度のように流布本既成現代語訳の間違いを指摘しておくが、これも武蔵研究の方からすると、座視できないためである。くだらぬ瑕疵をあげつらう、こういう指摘をするのも、とくに他意はない。問題点を枚挙しては、一つひとつ潰して行き、五輪書翻訳をめぐる劣悪な状況の改善を期したい、それがためである。  


(2)其まゝ跡をはねる心にて

ここも、とくに注釈なしに読めるであろう。――敵が前に太刀を搆え、打とう、張ろう、受けようと思う時、こちらの打つ心は、「無念無相の打ち」でも、また「石火の打ち」でも、敵の太刀を強く打ち、そのまま後を撥ねるという心持で、切先下りに打てば、敵の太刀は必ず落ちるものである。この打ちを鍛練すれば、敵の太刀を打ち落とすことは容易である。よくよく稽古あるべし――ということであった。

たんに打つのではなく、強打するというシリーズである。ここに出てくる「無念無相の打ち」でも、また「石火の打ち」でも、強く打つことである。

ただし、ここでもまた、テクストの字句のことについて、問題があったことを述べておかねばならない。

我々のテクストでは、《敵の太刀を強く打、其まゝ跡をはねる心にて》としたのだが、現存諸写本はほとんど、これを《ねはる》と記す。つまり、「ねばる」〔粘る〕である。

しかし、これが「ねばる」では、何のことだか文意が通らない。というのも、この紅葉の打ちの意味は、敵の太刀を打ち落すことだからである。それを、「ねばる」とは文意が通じない。後出の「ねばりをかくると云事」では、こう書かれている。

――粘るというのは、自分の太刀が敵の太刀と決して離れないという気持で、あまり強くはない心持で入るべきである。敵の太刀に自分の太刀を接着させて、粘りをかけて入る時は、どれほど静かに入ってもかまわない、云々。

「ねばる」というのは、ここにあるように、あまり強くはない心で、できるだけ静かに入るのである。しかも、自分の太刀が敵の太刀と決して離れないという心である。太刀を打ち落とす、《太刀とりはなす心也》というのがテーマの「紅葉の打ち」とは、明かに逆なのである。

直前に、《又、石火の打にても》とある。そこで、「石火のあたり」の条をもう一度読めば、――我が太刀は少しも上げずに、いかにも強く打つことである。これは、足も強く、身も強く、手も強く、三所〔足・身・手〕をもって早く打つべきである、とある。ようするに、ここは「ねばる」どころか、いかにも強く、早く打つべき打ちなのである。

とすれば、「ねばる」という語ほど、この場面に不適切なものはないのである。この不審は、およそ五輪書を読むに多少年季を入れたというほどの者なら、誰しも抱くところである。

しかしながら、現存諸写本では、ほとんどが、ここは「ねばる」としている。これでは話の埒は明かない。筑前系・肥後系を横断して大半の諸本が「ねばる」としているとすれば、この「ねばる」は、最早期にあった誤写だということである。つまり結論を云えば、寺尾孫之丞段階にすでに生じていた誤記である。

では、武蔵のオリジナルはどういう語であったか。それが次の問題である。

そこで、ひとつ異本に注目すべき語句がある。肥後系は申すまでもないが、筑前系写本のうち、吉田家本でも、また筑前=越後系の諸本でも、ここは「ねばる」である。しかるに、中山文庫本のみ、これを「はねる」と記載している。これが我々に意想を与えるのである。

その中山文庫本には、

 《敵の太刀を強く打、其侭跡をはねる心にて》
とあるのだが、「ねばる」ではなく、「はねる」である。「はねる」なら、撥ねる、はじく、ということで、敵の太刀を強打して打ち落とすというテーマに相応する。こうしてはじめて、文意が通るのである。

    「はねる」 → 「ねはる」

ようするに写本は、平仮名で濁点なし、という状況だから、誤写が生じやすい。このケースでは、本来《はねる》とあったのが、《ねはる》と誤写されたというのは、「は」と「ね」が入れ替わっているのである。おそらく、オリジナルには、「は」(半)字と「ね」(年)字が書いてあって、両者の類似から、誤写したものらしい。

なお、ここで誤解なきように断わっておけば、上記のごとく中山文庫本のみ、これを「はねる」としているのだが、それは、中山文庫本が古型をとどめているということではない。「はねる」を「ねはる」に誤写したのは、寺尾孫之丞段階のことである。これは筑前二天流早川大塚系の書写プロセスのなかで、たんに誤写したものか、あるいは、だれかが「ねばる」では不都合だと気づいて、修正したのである。何れにしても後世の変異である。

つまり、同じ筑前系でも、越後系諸本をふくめて、《ねはる》とするから、中山文庫本の書記は例外である。したがって、中山文庫本にみえる「はねる」は、それじたい後発的な変異であって、依拠すべきところはない。ただ、「ねばる」では変だと気づいた者があったか、もしくは、誤記が結果的に正しい記事になった、というところが、興味深いのである。

ともあれ、この「紅葉の打ち」は、強打するという一連の教えの一つである。「無念無相の打ち」や「石火の打ち」を引き合いに出しているが、これは両方とも、強く打つことである。強く打って、打ち落とす、それが「紅葉の打ち」である。そこには、「ねばる」という余地はない。というよりも、上記に見たごとく、「ねばる」という語ほど、この条文に不適切なものはないのである。

寺尾孫之丞は、必ずしも五輪書の内容を知悉してはいない。それは他の諸事例でも知れることである。にもかかわらず、これまで、それが指摘されたためしがない。それというのも、五輪書写本の語句の解析をまともにやった研究が存在しなかったからである。

ともあれ、以上のような文意検討の結果、我々のテクストでは、諸本にある《ねはる》を採らず、これを《はねる》としておく。これは、想定すべきオリジナルに遡っての修復である。


蛇足ながら、この箇処の語釈・語訳の問題を付け加えておく。

如上、諸写本の「ねばる」は訂正すべきなのだが、岩波版注記では、細川家本の《ねはる》をうけて、これを「敵の太刀につけて容易に離れないこと」として、後に出てくる「ねばりをかくるといふ事」を参照しろとしている。それを参照すれば、これが「ねばる」では不都合だと知れるが、それについて何の不審も起こしていないようである。参照先の文章を読めていないのである。

敵の太刀を打落とすという話なのに、敵の太刀を強く打った後、直ちに後を粘って、どうするというのか。具体的なシーンがイメージされないままに、「ねばる」としているのである。

既成現代語訳は、細川家本に依拠するために、ここでも混乱した翻訳を示している。「ねばる」をそのままにして、現代語訳に及んでいるのは云うまでもない。

戦後の神子訳は、《その儘》という語をそのまま「そのまま」としているが、このケースの《その儘》は、直ちに、すぐさま、という語意である。それを現代語の「そのまま」としては、誤訳なのである。

しかも、細川家本に《その儘あとを》とあるこの「あとを」という語句を無視している。これがあっては、「ねばる」という語へ繋がるのに抵抗があるからである。かくして、神子訳は、「そのまま、ねばるような気持で」という誤訳を提示してしまった。これで、「直ちに後を撥ねる心持で」という本来の文意とはまったくかけ離れてしまったのである。

大河内訳・鎌田訳の二本は、神子訳の「そのまま」という誤訳を頂戴し、あるいは、《あとを》という文字を無視するのも同様であり、また、さらには、上記の岩波版注記そのままの二重の誤りを反復している。とくに鎌田訳はその後に「切先を押し下げつつ打つならば、必ず敵の太刀は落ちるものである」と、さらなる誤訳を展開している。このケースで「切先を押し下げつつ打つ」というのは、まったくイメージ不可能な謎のシーンである。

いづれにしても、「ねばる」という語を前提とすれば、こうした珍訳も生れる余地があったということである。

22. 太刀に替わる身 

【原文】

 
一 太刀にかはる身と云事。
身にかはる太刀とも云べし。
惣而、敵をうつ身に、
太刀も身も一度にハうたざるもの也。
敵の打縁により、
身をバさきに打身になり、
太刀ハ、身にかまはず打所也。
若ハ、身はゆかず、太刀にてうつ事はあれども、
大かたハ、身を先へ打、太刀を跡より打もの也。
能々吟味して、打習べき也。(1) 

 

 

【現代文】

 

一 太刀に替る身という事

身に替る太刀とも云える。

総じて、敵を打つ身に(ついて云えば)、太刀も身体も、同時には打ち込まないものである。敵が打ってくる縁〔出方〕によって、身体の方を先に打ち出すかっこうで、太刀は(先立つ)身体にかまわず打つのである。

場合によっては、身体は先に行かず、太刀で打つことはあるけれども、たいていは、身体を先へ打ち込み、太刀を後から打つものである。よくよく吟味して、打ち習うべきである。

 

 

【註解】

 

 (1)太刀も身も一度にハうたざるもの也

ここも、重要な教えである。自分の身体と太刀の関係である。

ふつう、常識的なところでは、こう考えるであろう。――太刀は道具である。道具を使うに習熟するということは、この外在的な道具(external tool)を、自分の身体の延長として、あるいは身体の一部として使えるようになることである。太刀は身体と一体化し同化する。さらに言えば、太刀という外在的な道具を内在化してしまう。それが、上達ということの内実であり、太刀を我が物として自由に使えるということである――と。

こうした身体と太刀の一体化・内在化という思考からすると、身体と太刀の本来的な分離は解消され、その分裂は乗り超えられなければならない。言うならば、身体と太刀は一体化された運動体、オーガニックに統合されたものにならなければならない。そうしてはじめて、太刀は自身の身体の一部として、またその延長として、自在に使えるようになる、と。

しかし、武蔵の言うのは、それとはまったく逆のことである。
《惣而、敵をうつ身に、太刀も身も一度にハうたざるもの也。敵の打縁により、身をバさきに打身になり、太刀ハ、身にかまはず打所也》

太刀と身体は、同時には打ち込まない。身体の方を先に打ち出すかっこうで、太刀は先立つ身体にかまわず打つ。すなわち、身体と太刀とはその外在的関係をそのままに、両者は分裂させて運動するというのである。

こうした分裂運動(splitting)は、統合あるいは一体化・同化のイデオロギーからすると、まったく理に反するものであろう。道具を使用するのは、ある意味で因果律に従うことである。運動のスピードや滑らかさは、身体と道具の一体化によって生れる。とすれば、武蔵のいう分裂運動は、そうした身体と道具の一体性を解体することにほかならない。運動の因果関係は壊乱される。

ところが、ここで、すでに話の筋は見えてきたはずである。そのような壊乱的なネガティヴな局面こそが、まさにポジティヴな様相を直指しているのである。

この節のタイトルは「太刀に替る身」であった。《身にかはる太刀とも云べし》ともある。これは、身体と太刀が互換的な存在だということである。というのも、太刀が道具だというだけではなく、身体もまた道具だということである。太刀を打ち出す、しかし身体を打ち出すともいうのである。この打ち出される二つの道具は、同時運動してはならない。ここには、身体が太刀という道具を統合し一体化するという発想はない。

最初、身体と道具の関係は外在的である。上達に従い、身体と道具の関係は内在化し、一体化する。しかし、そこには留まらない。この形成された運動の一体性を解体し、もう一度分裂した運動にしてしまう。――この第三の段階のことを、武蔵は語っているのである。

これに相同のことは、すでに前の条々において見たように、「拍子」に関して述べられていた。

しかしながら、強調しておかなければならないのは、身体と道具のこうした運動の分裂性は、観念的なものではなく、きわめて実践的=実戦的な要諦であることだ。下手の立場に立ってみよう――。

相手が上手だと、下手はどんなに鋭く打ち込んでもフッとかわされ、どんなに必死に受け防いでもスッと打ち込まれてしまう。もっと言えば、攻撃しても手応えがなく、防衛しても手応えがないという感じになる。

これは要するに、達者な相手の分裂運動に対し、まさに打つ手がない状態である。相手は身体と太刀を分裂的に運動させている。その分裂の間隙に誘い込まれ、取り込まれて、翻弄されているわけだ。

この「太刀に替る身」の条は、以上のような場面を念頭において、読まれるべきである。また同時に「拍子」を説く諸条の場面も、併せて想起しつつ読むべきところであろう。

五輪書の記述に対して、肥後兵法書「太刀に替る身の事」の方は、もっと直截な説き方である。
《太刀を打出す時ハ、身ハ連れぬもの也。又身を打と見する時、太刀ハ跡より打こゝろ也》
とあって、身体と太刀の分裂運動が明確に述べられている。その分、わかりよいが、反面、エキスパートのための話かもしれないという部分がある。文は続いて、身体と太刀、この他に第三の次元として「心」を、ともに語っているからである。

こうしてみると、この部分は五輪書だけでも理解は十分できるが、武蔵死後、肥後の門流ではもっと複雑な話が語られていたのである。つまり、この運動原理に関して、身体と太刀の「2体問題」ではなく、身体と太刀と心の「3体問題」として語るとなると、話は一気に難解になる。要するに、後のものほど解釈が複雑になってくるという例である。

なお、一部解説書に、上記《身をバさきに打身になり、太刀ハ、身にかまはず打所也》という箇処を、これを「捨て身」の戦法と解釈するものがあるが、これは間違いである。

これでは、肥後兵法書に、《太刀を打出す時ハ、身ハ連れぬもの也》と逆のケースも同時に示されているのを、どう解するのか。捨て身の反対に、へっぴり腰で太刀だけ前に出している格好をしろというのか。こんな嗤うべき珍解釈が跡を絶たないというのが、困りものである。

ようするに、全体の文脈は、以上に分析したように、身体と太刀の分裂運動を語っているのだから、ここは「身体とは関係なく打つ」という意味である。

――――――――――――

 

校異のことでは、以下の点がある。

すなわち、肥後系諸本に、《若ハ、身はゆるがず、太刀にてうつ事ハあれども、大かたハ、身を先へ打…》とするところである。これは、筑前系諸本に、身は「ゆかず」とする。つまり、筑前系は、「身は行かず」とするのに対し、肥後系諸本では、「身は揺るがず」とするのである。

これは、筑前系諸本の「身は行かず」が正しい。というのも、本条の趣旨文脈からして、《身をバさきに打身になり》ということだから、ここは身が先に「行く」か「行かぬ」かということである。それゆえ、続いて、《大かたハ、身を先へ打、太刀を跡より打もの也》という話になる。

これを「ゆるがず」とする肥後系写本は、「ゆかず」の語句に「る」という余計な文字を挟んでしまったのである。この衍字誤記は、筑前系写本にはないから、後に肥後で発生したものである。

そこで興味深いのは、円明流系統の多田家本である。そこには、肥後系では例外的に、《行ず》として「ゆかず」の文言を記している。ただしこれは、古型をとどめたものではなく、肥後系一般の「ゆるがず」では文意が通らぬと見たための修正であろう。

あるいは、越後の大瀧家本も、《ゆかず》とするが、これは底本の肥後系写本に、越後の三巻兵書を参照して、訂正したものである。いづれにしても、肥後系写本はその早期に、《ゆるがず》という誤記が発生していたのである。

もとより、こういう次第であるから、肥後系諸本だけを見ていては、これが「ゆかず」とは知れない。筑前系諸本も、早川系だけではなく、立花系である越後諸本まで漁渉してはじめて、判明するところである。

しかるに一般には、肥後系細川家本しか知らない状況である。そこでは、これを「ゆるがず」としか知らないから、敵に見抜かれないように、身体は動かさず、太刀だけをすばやく打つ、などという、文脈から脱線した頓馬な語釈になってしまうのである。

 

23 打つと当るの違い 

【原文】

 一 打とあたると云事。
うつと云事、あたると云事、二つ也。
うつと云こゝろハ、何れのうちにても、
おもひうけて、たしかに打也。
あたるハ、行あたるほどの心にて、
何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、
これハ、あたる也。
打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。
敵の手にても、足にても、
あたると云ハ、先、あたる也。
あたりて後を、強くうたんため也。
あたるハ、さはるほどの心、
能ならひ得てハ、各別の事也。
工夫すべし。(1) 

 

 

【現代文】

一 打つと当るという事
 
打つということ、当るということ、(これは)二つ(別々のこと)である。
 
打つという意味は、どんな打ちでも、しっかりと心得て、確実に打つということである。当るというのは、(たまたま)行き当るという程のことであり、どれほど強く当って、敵が即死してしまう程であっても、これは当るということである。打つというのは、心得て打つ場合である。(ここを)吟味すべし。
 
敵の手でも足でも、当るというのは、まず、当るのである。(それは)当った後を強く打つためのものである。(だから)当るというのは、触る〔様子をみる〕という程のことであり、よく習得すれば、まったく別のことだ(とわかる)。工夫すべし。 

【註解】

 

 

(1)うつと云事、あたるといふ事、二つ也

「打つ」と「当る」、これは同じ事ではない。二つは別物だとする。

これは我々の現代語でも、その違いはわかる。目指した通り打撃できるのが「打つ」であり、たまたま偶然にヒットするのが「当る」である。

おもしろいのは、「当る」は偶然のヒットだから、たとえ敵に致命傷を与えるほどの打撃でも、それは「打つ」ではなく「当る」だ、とするところである。

こういう弁別を、武蔵はなぜ、ことさらに言うのだろうか。

打つであれ当るであれ、対戦で敵に致命傷を与えることが目的なら、それの区別などどうでもいいはずである。要は、勝てばいいのだから。「運も実力のうち」という話もあって、それはそれで、現実はその通りなのだ。

しかし、こういう僥倖が頼りの戦法では、戦闘と殺人を職業とする武士にしては、はなはだ心許ないことではある。「当る」ではなく「打つ」ことができるようにする、まさにそれが武士の道の修練なのである。

この水之巻では、「太刀の持ち方」という初歩の初歩からはじまって、話はここまで来ているのである。つまり、前条で述べたように分裂運動という高度な技法にまで、話は及んでいるわけだ。

前に「無念無相の打」という話もあった。
《敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、身もうつ身になり、心も打心になつて、手ハ、いつとなく、空より後ばやに強く打事、是無念無相とて、一大事の打也》

これも、再見するに、かなり高度な技法である。いつとはなく空から打つ、とはいっても、これは「当る」ではなく、まさしく「打つ」なのである。

こうしたことまで述べ来たったこの地点で、武蔵は「打つと当るとは違うぞ」というのである。武蔵が、こうしたことをことさらに言うは、たぶん、前条「太刀にかはる身と云事」との関連があるからだ。

つまり、身体と太刀の一体性を解体しての分裂運動では、意図と結果のリニアな因果性も切断される。言ってみれば、こういうことだ――。

ふつうなら、まさに打とうとする時、その意図(intention)が身体に現れる。それに対し、即座に人は対応する。結果だけが外在化するのではなく、行動以前の意図という内面的なものが、まさに外在化するのである。ところが、分裂運動に習熟すると、意図と結果のリニアな因果性が切断され、まさに意図の外在化も消える。そのため相手にとっては、何の徴候も、何の脈絡もないのに、不意を突かれるという始末になる。

このように、意図と結果のリニアな因果性の切断、意図の消去というところまで話が及んだのだから、それゆえ武蔵は、ここで改めて、意図的行為としての「打つ」と、非意図的な行為としての「当る」の違いを、強調しているのである。

むろん武蔵は、「当る」が無意味だとするのではない。これは肥後兵法書が別様に述べている。どこに当ってもけっこう、当っても当らなくても、それもけっこう。ようするに、
《真の打をせんとて、手足を起こし立る心也》
である。「真の打ち」をするために、手足を励起するのだ、という。なるほど、もともと五輪書の方も、《あたると云は、先、あたる也。あたりて後を、強くうたんため也》と書いていたのである。

24 手を出さぬ猿

【原文】

 一 しうこうの身と云事。
秋猴の身とハ、手を出さぬ心也。
敵へ入身に、少も手を出だす心なく、
敵打つ前、身をはやく入心也。
手を出さんとおもヘバ、
かならず身の遠のく物なるによつて、
惣身をはやくうつり入心也。
手にてうけ合する程の間にハ、
身も入安きもの也。
能々吟味すべし。(1) 

 

 

【現代文】

一 しゅうこうの身という事

秋猴*〔しゅうこう〕の身とは、手を出さぬという意味である。

敵へ入身〔いりみ〕に(なって)、少しも手を出すつもりがなく、敵が打つ前に、(こちらの)身体を(先に)早く入れてしまうのである。

手を出そうと思うと、必ず身は遠退いてしまうものなので、全身を素早く移し入れる心持である。手でうけ合わす〔立ち向かう〕程の間があれば、(それより先に)身体も入れやすいものである。よくよく吟味すべし。

 

 

 

【註解】

 

 (1)秋猴の身とハ、手をいださぬ心なり

ここは特に解説は要しないであろう。敵が打ってくる前に、自分が相手の懐へ入り込んでしまう、というやり方である。前にも出てきたが、敵の圏内へ入ることを「入身」〔いりみ〕と言っている。

この入身、実は意味はさまざまである。相撲では、相手の身体に自分の体を密着させて相手を倒すという手を、入身という。柔術などで入身というのは、武器を持つ相手に素手で立ち向かうこと。また一般に、たんに相手に立ち向かうことも、入身という。

しかし、それはともかく、ここでの入身は、手を出さずに相手の圏内に飛び込むのである。懐に飛び込まれては、近すぎて打撃することができない。そういう体勢をとる、ということである。

この入身の教えで、ポイントは、「手を出さない」ということである。手を出そうとすると、身体の方は引いてしまうものだから、手を出そうと思わずに、体を丸ごと相手の懐へ飛び込ませよ、という指示である。ほんとうは切られる恐怖でつい手を出してしまいがち、そこを「手は出すな」とするのである。これはまことに、懇切な要点指導である。肥後兵法書には、
《敵につく時、左右の手なき心にして、敵の身につくべし》
とある。「空手」〔くうしゅ〕とはちがって、この「無手」〔むしゅ〕は、文字通り、手がないつもりで、手を出さないということである。

また、右左の肩肱までは使ってよいが、手先には心あるべからず、としており、こちらは指示が詳しい。手先に心あるべからず、というのは、太刀を持つ手のことである。手を出そうとすると、身体の方は引いてしまうものだから、手を出そうと思わずに、体を丸ごと相手の懐へ飛び込め、というのが五輪書の教えだが、その延長上で話がやや詳しくなっている。

そして、《敵につく拍子、前に同じ》とあるのは、ここだけでは分らないが、実は肥後兵法書では、次条の「漆膠の身と云事」と順序が入れ替わっている。そちらの方が先に出ており、そこに、《敵につく拍子、枕の押へにして、靜なる心なるべし》とある。ここで、《敵につく拍子、前に同じ》とあるのは、そのことである。

――――――――――――


ところで語釈の点で一つ、片付けなければならぬ問題がある。諸氏お気づきのように、特異な言葉がここに一つ出ている。それは「秋猴」〔しゅうこう〕という言葉である。これが何かについては、従来の解釈には問題がある。それをここで指摘しておきたい。

おもしろいことに、従来の五輪書解説書はすべて、この点に関して間違っているのである。この間違いを産んだのは、岩波版校註の、
《「しうこう(秋猴)」は愁猴。手の短い猿のこと》
という愉快な珍解釈に依拠したせいなのである。どこからこの「手の短い猿」などという話が出てきたか、その典拠を示さないから、これは勝手な臆測であろうと思われた。

ところが唯一、神子侃(徳間書店版五輪書 昭和三八年)だけが典拠を示し、これを、
《「類聚名物考」によれば愁猴。手の短い猿》
としているから、岩波版渡辺注記はこれをパクったものであろう。しかし、この神子の依った解釈自体が、そもそも間違っているのである。

秋猴は決して「愁猴」なんぞではない。秋猴は、れっきとした言葉である。「秋」は「愁」の略字ではない。ここは、武蔵の当時、この秋猴という言葉がどう使われていたか、それを見てみればよい。

武蔵自身、五輪書に謡曲の引例があるのに效えば、たとえば、能の「富士太鼓」に、こんな一節がある。
《秋猴が手を出し、斑狼が涙にても留むべきものを、今更に、神ならぬ身を恨みかこち、歎くぞあはれなる、歎くぞあはれなりける》

この用例でわかるように、「秋猴」とはちゃんとした言葉であり、しかも伝統的文脈では、この秋猴は「手を出す」行為と不離一体なのである。

では、この秋猴は何に手を出したのか。ここは、猿が川面に映った月を見て、それを取ろうとして手を出して、川に落ちたという故事に依るべきだろう。これは、欲望対象の幻影であることを教訓する古い仏教説話である。ここで猿が「秋」の猴なのは、月といえば、秋の月だからである。

これはいわゆる「猿猴捉月」という成句にもなっている有名な故事、長谷川等伯(1539~1610)の代表作の一つに周知の通り「猿猴捉月図」という襖絵がある。まさにご覧の通りで、猿は手が短いどころか、逆に手長の猿の図である。

かくして、ここで武蔵がいう「しうこうの身」なる言葉は、「しうこう」といえば、川面に映った幻影の欲望対象としての月に手を出した猿、という故事が即座にイメージされるという文化的伝統を背景にしているのである。

こういうバックグラウンドを共有する空間では、「手を出す」といえば「秋猴」が連想されるわけで、それは前出例で言えば、「落ちる」といえば「紅葉」が連想されるのと同じ動きである。

ここで留意すべきは、武蔵が謡曲も絵画も能くした人物だったことだ。このように「秋猴」という語をもって、術名とするのは、「猿猴捉月」という周知のテーマがあった。これは武蔵自身の文人教養を背景にしたものだが、それだけではなく、これが当時の武士たちの教養とも同期するものであったということである。「秋猴」という語を間において、武蔵は読者に語りかけるのである。

くりかえせば、秋猴とは手の長い猿のことである。秋猴の身とは「手を出さぬ」こととあるから、これは、前出「流水の打ち」と同じ用法である。流れる水と言えば、淀み、というように、反対物を内包する語法である。月を捉えんとして川に落ちた猿は、もう手を出さないだろう。ほんとうは、秋猴の手は長いのである。

それゆえ結論は、こうだ。――「しうこう」を「愁猴」とし「手の短い猿」と解するのは、明白な誤りであって、武蔵が背景にして書いた文化的コンテクストに対する無知からするものである。この愚かな初歩的誤謬にもとづく、従来の解釈は改められる必要がある。

この誤謬指摘もまた、従来、五輪書研究では何人によってもなされたことがない。我々のここでの指摘をもって嚆矢とするわけだが、現行の解説本・現代語訳ともにすべて同じ誤謬を増殖させているとは、いささか語るに落ちる事態であるとしか言いようのない一件ではある。

――――――――――――


ここで諸本校異の問題で、取り上げるべきところがある。それは、筑前系諸本間の相異である。すなわち、筑前系のうち、越後系諸本に、
《手にてうけ合する程の間にハ、身も入安きもの也》
とあって、《うけ合する程》とするところ、早川系の吉田家本・中山文庫本・伊丹家本では、ともに《うけ合程》としており、「する」二字を落としている。

文意に大差ないが、「うけ合する」は「うけあひする」というよりも「うけあはする」ということだろうが、「うけ合」では、「うけあう」ということであって、違ってくる。

肥後系諸本を参照すれば、これは、「うけ合する」など「する」二字を入れる点で共通している。筑前系/肥後系を横断して存在するのは、「うけ合する」である。したがって、これは、早川系写本において脱字があったということである。

ようするに、この脱字は、筑前系において立花系/早川系が分岐した後の発生である。しかも吉田家本・中山文庫本・伊丹家本に共通するところからすると、早川系写本早期の誤記である。

したがって、この箇処について、立花峯均系統の写本はこれを正しく伝えたが、早川系の吉田家本・中山文庫本では誤記があるということである。言い換えれば、こうした相異から、筑前系における両系統の弁別が可能なのである。

それとともに、吉田家本地水火風四巻のポジションが知れる。つまり、この四巻は、吉田治年が吉田実連から預かった五輪書ではなく、後世の写本だということである。

この事実も、吉田家本・中山文庫本・伊丹家本等の早川系写本のみを見ていては、解らなかったことである。立花峯均・増寿門流の越後系諸本を発掘し、その内容を分析して、はじめて判明したことなのである。   

25. 漆膠の身

【原文】

 一 しつかうの身と云事。
漆膠とハ、入身に、よく付て離ぬ心也。
敵の身に入とき、かしらをも付、身をも付、
足をも付、強く付所也。
人毎、顔足ハ早くいれども、
身ハのくもの也。
敵の身へ我身をよく付、
少も身のあひのなき様に、つくもの也。
能々吟味有べし。(1)

 

 

【現代文】

 

一 しっこうの身という事

漆膠〔しっこう〕とは、入身〔いりみ〕のとき、(敵に)ぴったり密着して離れないということである。敵の懐に入った時、頭も、身体も、足も、強く密着させるのである。

人はだれでも、顔や足は早く入るけれども、身体が退いてしまうものである。敵の身体にこちらの身体をぴったり押し着け、少しも身体の隙間のないように密着するのである。よくよく吟味あるべし。

 

 

【註解】

 

 

 (1)漆膠とハ、入身に、よく付て離ぬ心也

ここは前節と連続して、入身のことである。

入身をするに、漆〔うるし〕や膠〔にかわ〕といった接着剤のように、自分の体を相手の体にぴったりと密着させて、くっついて離れない、そういうふうにしろと言うのである。

教訓は、――人はだれでも、顔や足は早く入るけれども、胴体は退いてしまうものである。敵の身体にこちらの身体をぴったり押し付け、少しも身体の隙間のないように密着する――ということである。これも懇切な教えである。

なぜ身体を密着させるのか。――右掲肥後兵法書該当部分には、
《身つかぬ所あれば、敵色々わざをする事あり。敵につく拍子、枕の押へにして、靜なる心なるべし》
とあって、五輪書の説明より、もう少し踏み込んだ記述がある。敵に何もさせないというのが、漆膠の入身のポイントである。それにともなう敵に密着する拍子は「枕の押え」で静かなる心、というあたりは、後に関連する記述が出てくるであろう。

ところで、「漆膠」は「うるしにかは」と言わず、「しつかう」と音読みである。「膠漆」〔かうしつ〕という場合もある。これは、「膠漆(漆膠)の契り」とか「膠漆の交り」という成語があるところからきている。ようするに、恋人のように離れがたいほど密着した関係のことである。

こういうあたり、武蔵のユーモアと云うべきところである。敵として対戦する相手に入身をするのに、まさしく恋人のように離れがたいほど密着した関係を指す「漆膠」という言葉をもってくるわけである。

いまや、接着剤は化学的な合成樹脂材料が多い。ハウスシック症候群に悩まされても、漆にかぶれた経験のない人の多い時代である。漆や膠について知らない若い人もあるだろうから、少し解説しておく。

世界中で原始以来使われた接着剤はアスファルトを措いて他にはないが、東洋では漆や膠という材料を接着剤として使う文化が発達した。この点、西洋とは異なるのである。

漆は漆工芸などが知られているから、漆塗りの塗装仕上げに使うものと思っている人が多いが、接着剤としても活用された。仏像彫刻で「乾漆」〔かんしつ〕というのは、麻布に漆を塗って貼り重ね、それから型を抜くもので、奈良時代に多く行われた。その後「寄木造」〔よせぎづくり〕という技法が流行したが、これは、仏像の各パーツを漆で接着して造ったのである。別々に彫刻してつくった仏像の手足胴体など、各パーツを接着して組立てる一体の像とする。

漆は金属の接着にまで使われたようで、たとえば茶釜などで漆を接着剤として使った。松籟(松風の音)の絶妙なるは、ひとつにはこの接着の技であるとされたらしい。むろん甲冑はじめ武具にも用いられた。

膠はゼラチン、動物性の接着材である。「煮皮」から来ているという説があるが、これはどうとも云えない。動物の皮だけではなく、腱や骨その他の組織を煮沸してつくる。しかし他方、「魚膠」というものがあって、鮫・タラ・カレイといった魚の、皮や浮袋や鱗などから膠をつくったときく。不殺生のため獣類材料を忌む仏具などではとくに魚膠を使ったが、魚は殺生にはならなかったらしい。

膠は接着剤のほか、染色などにも使った。ゼラチンだから食品材料にもなる。「阿膠」〔あきょう〕と呼ばれて、強壮・止血の薬効があるとされたが、いまでも薬のカプセルにゼラチンを使う。木工用接着には、漆と膠を混ぜて使うことがあった。そこで「漆膠」という語の接着になる。

ともあれ、武蔵がこの「漆膠」という言葉を使ったについては、むろん彼の工芸家としての一面がある。武蔵の作品には書画のほか、工芸品もあったらしい。工芸品には漆や膠という接着剤は不可欠の使用材料であり、武蔵にとって漆や膠は身近な話題であったとすれば、この「漆膠」条はそういう背景を知ったうえで読まれるべきである。

これに関連することだが、五輪書の他の箇処で、武具を「嗜む」とあるが、それは自分が使う武器について知識をもつということだけではない。たとえば、弓矢の名人は矢を射る上手であっただけではなく、その矢を自作してもいた。そういう武器自作の伝統のなかで、工芸家・武蔵がいたのである。

――――――――――――


ここで諸本校異の問題に関し、指摘すべきところが若干ある。

一つは、筑前系諸本間の相異である。すなわち、近藤家本・石井家本・伊藤家本など越後系諸本に、
《かしらをも付、身をもつけ、足をも付》
とあって、《身をも》とするところ、早川系の伊丹家甲本では「も」字を記すが、吉田家本・中山文庫本・伊丹家乙本は、ともに《身を》としており、「も」字を落としている。

これも前記と同じく、肥後系諸本を参照すれば、《身をも》と「も」字を入れる点で共通している。筑前系・肥後系を横断して《身をも》である。前後の文脈からしても、前に「かしらをも」、後ろに「足をも」とあるのだから、これは「身をも」とすべきところである。

ようするに、この脱字は、筑前系写本において立花系/早川系が分岐した後の発生であるばかりか、早川系でも伊丹家甲本のように正記するものがあるのだから、むしろ早川系内部での異変である。

次の校異の問題は、肥後系諸本の間の相異である。指摘すべきは二つである。

すなわち、一つは、楠家本に《人毎》とする語句のところ、細川家本や丸岡家本は、これを《人毎に》として、「に」字を入れる。この写本三本だけを見ていると、これは楠家本に「に」字の脱字があると見かねないところであろう。しかし、そうではない。

肥後系諸本にも富永家本のように、やはり《人毎》として「に」字を入れない例がある。そして筑前系諸本は如何と見るに、やや写し崩れがある越後系近藤家甲本を除いて、基本的に「に」字を入れず、《人毎》である。したがって、この「に」字は、当初存在しなかった文字であり、肥後系において後の伝写過程で発生した衍字なのである。

このことから、楠家本に《人毎》として「に」字を入れないのは、脱字ではなく、むしろその方が正しいのである。こうしたことは、肥後系諸本のみを見ていては判断がつかないところである。筑前系諸本を参照してはじめて、判断が可能なのである。

さらに、肥後系諸本の間の校異として、もう一つ挙げるべきは、同じ行文の一字である。

すなわち、丸岡家本に、《身はのくものなり》として、《身は》とするところ、楠家本や細川家本は、これを《身の》と記す。

つまり、《身は》が正しいのか、《身の》が正しいのか。これも、この写本三本だけを見ていると、楠家本と細川家本が正しく、丸岡家本の「は」字は、「の」字を誤写したものだ、と見かねないところであろう。しかし、これもそうではない。

同じ肥後系でも、富永家本は、「は」でも「の」でもなく、ここに脱字を示す。円明流系統の狩野文庫本は《身は》として「は」字を入れる。しかし、こうした肥後系諸本の範囲では、《身は》が正しいのか、《身の》が正しいのか、判定はつかないのである。

ところが、これは、筑前系諸本を参照すれば、決着がつくことである。つまり、筑前系諸本は何れも《身ハ》としている。筑前系/肥後系を横断して存在する文言があれば、それが古型だとみなしうる。しかも、筑前系において立花=越後系も含めた諸本に共通する文字であれば、柴任美矩が相伝した寺尾孫之丞前期にすでにあった可能性が高い。それゆえ、これは《身の》ではなく、《身は》が正しいのである。

このことからして、丸岡家本に《身は》として「は」字を入れるのは、「の」字の誤記ではなく、むしろその方が正しい。楠家本と細川家本の「の」字の方が誤記である。

 

校異字句 楠家本 細川家本 丸岡家本
 人毎 × ×
 身ハ × ×

 

 かくして、以上のように、この行文の問題箇処二つにつき、判定ができる。諸本それぞれについて要約してみると、楠家本は、《人毎》として「に」字を入れないのは正しいが、《身の》とする点は誤記がある。丸岡家本は、《人毎に》として「に」字を入れる点、誤っているが、《身は》とするところは正しい。それに対し、細川家本は、《人毎に》として「に」字を入れる点で誤りがあり、《身は》を《身の》と記すところも誤っており、両方において誤記がある。

もちろん、こうしたことは、肥後系諸本のみを見ていては判断がつかないところである。筑前系諸本を参照してはじめて、判断が可能なのである。

したがって、ここで繰り返し云えば、五輪書校訂にあたっては、諸本を広く参照照合しなければならない、それが基本条件だということである。従来、五輪書研究において欠落していたのは、まさにその点である。

とくに、肥後系諸本に偏った五輪書テクスト校訂が従来支配的であった。今日でさえ、同前の事態であるから、この弊害は大きい。肥後系諸本のみを見ていては、判断を誤る。その典型例として、上記のような検証をしてみせたというわけである。 

 

26 たけくらべ

【原文】

 一 たけくらべと云事。
たけくらべと云ハ、いづれにても敵へ入こむ時、
我身のちゞまざる様にして、
足をも延べ、腰をものべ、首をも延て、強く入り、
敵のかほと顔とならべ、身のたけをくらぶるに、
くらべ勝と思ほど、たけ高くなつて、
強く入所、肝心也。能々工夫有べし。(1) 

 

 

【現代文】

 

一 たけくらべという事

丈くらべというのは、どのようにしても敵の方へ入り込む時、自分の身体が萎縮しないようにして、足も伸ばし、腰も伸ばし、頭も伸ばして、強く入る。

敵の顔と(自分の)顔を並べ、背丈を比べて比べ勝つと思うほど、丈高くなって強く入る。そこが肝心である。よくよく工夫あるべし。

 

 

 

【註解】

 

 

(1)身のたけをくらぶるに、くらべ勝と思ほど

これも入身に関する一連の教えである。秋猴の身、漆膠の入身、と来て、丈くらべである。

話のポイントは、入身のとき、身を屈めて入るのではなく、大いに威丈高になって、相手を圧倒しろ、という教えである。敵の顔と顔を並べ、身の丈を比べて比べ勝つと思うほど、背丈を高くして強く入れ、とするところ、教えは具体的で、イメージしやすい。

《敵のかほと顔とならべ》とあるところも面白い。自分の顔を、敵の顔にすりつけるにする光景が目にうかぶのである。この語句があるか無いかによって、イメージの喚起力が違う。

では、右掲の肥後兵法書の記事は、どうか。敵の身際につく時、敵と身の丈を比べるようにして、我身をのばして、敵の身長より自分の身長が高くなる心持、ということである。《みぎはへ付拍子は、何れも同意なり》とあるのは、前条「しつかうのつきと云事」に、《敵につく拍子、枕の押へにして、靜なる心なるべし》というあたりを指している。

しかし、肥後兵法書には、五輪書の《敵のかほと顔とならべ》というイメージの喚起力がある語句がない。武蔵は実戦の経験からこの語句を最初に入れたのだが、肥後兵法書は、この要点を理解しなかったと見えて、これを落としている。しかも、肥後兵法書のいうように、《靜なる心なるべし》ということであれば、五輪書の《強く入所、肝心也》とは話が違う。このあたりも、教義の変質の一端であろう。

いづれにしても、丈くらべは、自身を大きく見せるという点で、威丈高になれ、ということである。しかしこれは、並以上の身長の持主だからできることかもしれない。生来短小な体格では、むろん限界がある。だから、これは並の身長同士の対戦での教訓であろう。またここには、身長で負ける相手でも、すこしでも丈高くなって劣る勢いを挽回する、という消極的な意味もあろう。

けれども、威丈高になれというここでの要点は、やはり、密着接近戦になると、どうしても身が屈んで萎縮するという防衛的傾向がある、そこを具体的に、丈比べというイメージを喚起して、初心者にもわかる教訓内容としているのである。


ここで、「たけくらべ」に関して――余談になるが――ちなみに言えば、「たけくらべ」というと、例の樋口一葉の小説を連想する人が多い。しかし小説「たけくらべ」には丈比べの場面はなく、本文中「たけくらべ」という言葉すら皆無である、という点はあまり知られていない。

にもかかわらず、これが「たけくらべ」というタイトルであるのは、思春期の少年少女が主人公の物語であるからだ。すなわち、この段階は子供から大人へ移行する過渡期である。まだ子どもの部分では、依然として「たけくらべ」をやっている。ただし、このたけくらべは、身長を比べるという意味ではない。それは、本項上記の、張り合って対抗し威丈高になるという意味でのたけくらべである。

この反撥は、実は思春期特有のアンビヴァレントな感情で、美登利は信如に対し、つい邪険になるのだが、実は彼を愛してしまっているという構造である。これを明治28年(1895)という時期に書いたわけで、近代恋愛小説の初期を画する小説であった。

かくして、この一葉「たけくらべ」も幼児の背比べというよりは、対抗し威勢を競い、威丈高になるということなのである。この五輪書の「たけくらべ」の意味に近いのである。

一葉の「たけくらべ」に言及したついでに、もう一点――これも余談になるのだが――この小説の中に「十六武蔵」という言葉が出てくる。
《「あゝ面白くない、おもしろくない。彼の人が來なければ幻燈をはじめるのも嫌。伯母さん此處の家に智惠の板は賣りませぬか。十六武藏でも何でもよい。手が暇で困る」
と美登利の淋しがれば、夫れよと即坐に鋏を借りて女子づれは切拔きにかゝる》(樋口一葉「たけくらべ」)
という箇処である。それで、この「十六武蔵」の何たるか、問われることがあるので、ここで答えておきたい。

これは江戸期に流行した対戦ゲーム。2人でするが、一方が親になり他方が子になって、右図のように駒の数が異なる。親は中央に一つある駒だけ、子は16個でゲーム開始である。親が先手で交互に一手ずつ駒を動かすが、駒は線沿いに隣の交点に動かすという制約がある。親の駒が子の間に入ると両側の子を取れる。子は親を取囲めば勝ちであり、逆にもう包囲できないほど子の駒が減ると親の勝ちである。下の三角形部分は雪隠〔せっちん〕という。トイレに逃げ込むのであろうか。

このゲームを「十六武蔵」というのは、親を「武蔵」と言うからである。「十六」は捕り手である子の駒数である。これは本書後出の「多敵の位」ではないが、一人で多数を相手にするところから、親を「武蔵」と言うようになったらしい。この「十六武蔵」というゲーム、ずいぶんポピュラーであったらしく、着物の裾模様に十六武蔵という名前まである。この名は現在でも歌舞伎衣裳に残っている。

ともあれ、武蔵と一葉の不意の遭遇に感〔かま〕けてみたわけだが、武蔵の名はこういうところまで波及したのである。  

27 粘りをかける

【原文】

 一 ねばりをかくると云事
敵も打かけ、我も太刀うちかくるに、
敵うくる時、我太刀、敵の太刀に付て、
ねばる心にして入也。
ねばるハ、太刀はなれがたき心、
あまり強くなき心に入べし。
敵の太刀に付て、ねばりをかけ、入ときハ、
いかほど静に入ても、くるしからず。(1)
ねばると云事と、もつるゝと云事、
ねばるハ強し、もつるゝハ弱し。
此事分別有べし。(2)

 

 

【現代文】

 


一 ねばりをかけるという事

敵も打ち懸り、こちらも太刀を打ち懸けると、敵が(その)太刀を受ける、その時、自分の太刀を敵の太刀に接着させて、粘るという感じで入るのである。

(ただし)粘るというのは、太刀が離れがたい心持(はあっても、それは)あまり強くはない、そういう気持で入るべきである。敵の太刀に(自分の太刀を)接着させて粘りをかけ、入る時は、どれほど静かに入ってもかまわない。

粘るということと、もつれるということ。粘るのは強いが、もつれるのは弱い。この違い、分別あるべし。

 

 

 

【註解】

 (1)いかほど静に入ても、くるしからず

これも敵我接近しての入身である。ただし、手より先に身を入れるという前例とは違って、こんどは手(太刀)を出してから入る方法である。どんなぐあいに手を出すか、といえば、ねばりをかけてから、入るという。

この「ねばる」〔粘る〕という語は、スペシフィックな兵法語彙とすべきだが、我々の現代語でも十分通じる、かなり生命の長い言葉である。

『徒然草』に、「膠にも作るものなれば、ねばりたるものにこそ」とある。柔らかくべとべと、ねばねばして、接着してなかなか取れなくなる。そういう状態である。

となると、前出「漆膠の入身」と同様の話である。あちらも、密着して離れないという教えであった。膠は木工の接着に使うが、他方画材でもあるし、墨をつくるにも使うから、武蔵にはなじみの物である。

しかしこの「粘る」は、前の「漆膠の身」の話と違う。というのは、漆膠の接着の話は入身、つまり体を密着させることであったのに対し、こちらの粘るの方は、太刀を相手の太刀に接着させるということだからである。つまり、前の話は身体の密着、こちらの話は太刀の密着――そういう違いがある。

この「粘りをかける」という話でおもしろいのは、ひとつには、ちゃんちゃんばらばら、太刀を打合うというイメージを覆している点である。こちらが打って、相手が受ける、するとこんどは、相手の太刀に自分の太刀を接着させて、動きを阻止し、相手の先制を封じる。これで敵の拍子が狂う。その隙にすっと入込むのである。

もう一つは、これが二刀流が前提だということ。それを念頭に置く必要がある。とすれば、これも、二刀の利を生かす独特の戦法のひとつであるにはちがいない。敵に太刀を振らせないのである。その余地を与えない。そうしているうちに、敵はこちらの太刀を外そうとして、拍子がはずれ、弛みつくから、そこへつけ入るのである。

前出の条々にそのあたりの話はあった。右の肥後兵法書の記事も同じ要領を語っている。敵が太刀で受け、早くはずそうとする時、こちらは心を太刀につけず、ねばる。こうすれば、敵の先〔せん〕の拍子が狂ってしまう。そこが付け目である。

ここでいう《心を太刀につけず》とあるのは、五輪書にいう《太刀はなれがたき心、あまり強くなき心に入べし》と同じ趣旨である。太刀を接着させることばかりに、気が行くのはよくない。太刀を接着させるのも、あまり強くない心持、ほどほどでよい。ねばりをかけるのは、入り込むためにするのである。

ただし、肥後兵法書では、ねばりをかけて、入るという、その「入る」ことの方には、あまり気が行っていないようである。その点、五輪書の記述とはズレがある。

この「粘りをかける」という話での要点は、静かに、強くなく、すっと入るということである。どれほど静かに入ってもかまわないほどだ、ともいうのである。

同じ「敵へ入る」にしても、前節「たけくらべ」のように、「強く入る」場合もあるから、これはそれとは逆の入り方である。

 

 

(2)ねばるハ強し、もつるゝハ弱し

それからもうひとつ、《ねばるハ強し、もつるゝハ弱し》というこの教えがある。粘るのは強いが、縺れるのは弱い。戦いのヘゲモニーは、ねばりをかける方にある。これは現代人にも十分わかる話だろうし、それゆえ有名で、武蔵金言集の一つになっている。

ただし、ほんとうに理解されているとも思えない。もみ合って紛糾しているのを見ても、それが縺れているのか、粘りをかけているのか、第三者には外見上はわからない場合がある。闘争空間の当事者も、粘っているつもりで、実はたんに縺れに巻き込まれているだけのケースが少なくない。だからこの《ねばるハ強し、もつるゝハ弱し》は、解説本が言うほど一般化できないテーゼなのである。

無条件にこれを一般化すれば、たんに頭で理解される金言でしかなくなる。武蔵金言集の類は、だいたいその種のものである。

要するに《ねばるハ強し、もつるゝハ弱し》とは、これこそまさに実践的=実戦的なテーゼであって、闘争空間のヘゲモニー争いの内部にある者にしか行使できないところではある。粘ると縺れるの違いは、頭で理解できるが、実際に練習して覚えるのである。理解する=分るとは、実はその行為(act)ができることである。武蔵は、それゆえ、《此事、分別有べし》、その区別を知れと、ことさらに言っているのである。

28 体当たり

【原文】

 一 身のあたりと云事。
身のあたりハ、敵のきはへ入込て、
身にて敵にあたる心也。
すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、
敵の胸にあたる也。
我身を、いかほども強くなり、あたる事、
いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし。
此入事、入ならひ得てハ、
敵二間も三間もはけのく程、強きもの也。
敵死入ほども、あたる也。
能々鍛錬有べし。(1)

 

 

【現代文】

一 身の当りという事

身の当り〔体当たり〕は、敵のそばへ入り込んで、体で敵にぶつかるということである。

(この体当たりは)少し顔をそむけ、左の肩を出して、敵の胸にぶつかるのである。我が身をできるだけ強固な感じにして、(そして)ぶつかるには、行きあい拍子〔いきなりという調子〕で、弾じけるような感じで入ること。

この入り方を習得できれば、敵が二間も三間もぶっ飛ぶほど強いものである。敵が死んでしまうほどの衝撃でぶつかるのである。

よくよく鍛練あるべし。

 

 

 

【註解】

 

 

(1)敵死入るほども、あたる也

これも「入込」とあるからには、入身の一種と考えてよかろう。しかし、こんどは体当りである。身体をぶちかますのである。

直前の「ねばりをかける」が、《いかほど静に入ても、くるしからず》というものであったのに対し、こんどは逆に、《此入事、入ならひ得てハ、敵二間も三間もはけのく程、強きもの也。敵死入ほども、あたる也》という強烈なものである。まさにこれが、武蔵流兵法である。
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也》

この体当たりは左肩でぶちかます。なぜ、右肩ではなく、左肩なのか?――そういう質問もあろうから、それについて云えば、もちろんこれは二刀遣いの教えだが、利き腕の右手に太刀をもっているからである。そういう具体的なシーンを念頭におくべきである。これは一刀流でも、体当たりの時は同じことである。

太刀で勝負ということからすれば、こんな体当たりは明らかにルール違反である。体当りを練習しろと言う武蔵は、反則行為を奨めているわけだ。「剣聖」とか何とか言うが、武蔵は汚い、ダーティ・ムサシである――?

ところが、そんなことは剣の精神化・道徳化という、剣道イデオロギーが発生した後の偏見だ。むろん武蔵は、後世のそんなナイーヴな思考など搆っちゃいない。前にも再三強調したように、五輪書は、戦場の殺し合いの実戦で、いかに相手を倒すか、ということを教える教本なのである。

ゲームの対戦ならいざ知らず、戦場ではルールなしの、何でもありの、リアルな殺し合いである。そのとき、太刀で切り殺すこともあれば、いざとなれば、体当りでも何でも、相手を倒すことが必要である。云うまでもないが、武蔵において、身体も武器の一つなのである。そこで武蔵は、体当りでも、訓練すれば人を殺せるようになると教える。
《此入事、入ならひ得てハ、敵二間も三間もはけのく程、強きもの也。敵死入ほども、あたる也》

言うならば、わが肉体こそ凶器である。まさに、これこそ、リアルな「無刀」の教えなのである。だから、無刀取りを右のように教える柳生宗矩の兵法論が、いかに観念的なものか、五輪書のこういう性格と比較対照すればわかる。体当たりまで教える武蔵に対し、「きられてとるべし」と無刀を述べる宗矩の言説は、洗練されているが、教えは禅家亜流の逆説を弄して、リアルではない。

さてもかように、人を殺せるほど強く体当りしろという武蔵は、実は巨躯の持主であったらしい。実際にそうやって――二間(3.6m)も三間(5.4m)もぶっとばして――相手を殺せたであろう。

前条「たけくらべ」に、威丈高になって相手を圧倒する、という話があったが、やはり武蔵のような巨躯の持主に利があることになる。武蔵がどれほどの身長だったか、諸説あるが、ここで改めて推測してみることにしよう。

それで、我々の資料は右の画像である。これがどれほど正確な図像であるか確証はないが、――その顔貌の変形は別にして――武蔵像のなかでも身体のデフォルマシオンが比較的少ないとみえる。よって、これを計測資料としたわけである。

いま、t:身丈、h:頭部寸法とする。このとき、図上計測では、

      t = 7.0h
という結果である。いま、頭部寸法(h)を八寸五分(25.7cm)とすると、上の数式により、身丈(t)は五尺九寸五分(180cm)となる。ただし画像では、この下段の搆えの武蔵の体はやや腰をおとしている。とすれば、もう少し割増する必要があるだろう。

これを要するに、この図を計測のための資料とする限りにおいて、武蔵の身長は六尺(182cm)はゆうにありそうである。とすれば、『丹治峯均筆記』などにみえる、身の丈六尺だったという武蔵の身長に関する伝説とほぼ一致する。

六尺という身長は、今日の若い日本人ならザラにあることで、たしかに背は高いには高いが、とくに云うほどの高さではない。だから現今の日本人のサイズでこれを考えてはいけない。

それに対し、武蔵当時の日本人成人男性の平均身長が、一六〇cm未満という話がある。とすれば、六尺の身長なら、これはかなりの巨躯だということになる。それを現代日本人のサイズに比例して当てはめると、二メートルちかい身長に相当する。

五輪書では、こういう巨大な男が、体当りをぶちかまして人を殺せると言い、体当りの練習を奨めるのである。武蔵流は多様だが、なかでもこれはパワー戦法なのである。

――――――――――――


なお、この条では校異に関して指摘しておくべき箇処がある。それは、肥後系諸本に、語の重複が見られることである。たとえば、
《少我顔をそばめ、我左の肩を出し、敵のむねにあたる也。あたる事、我身をいかほどもつよくなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
とある。これに対し、筑前系諸本には、
《すこし我顔をそばめ、わが左の肩を出し、敵の胸にあたる也。我身をいか程も強くなり、あたる事、ゆきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
とあって、はじめの「あたる事」という語句はない。

肥後系の写本に「あたる事」が二つ重出するのは、文脈からしても明らかに余分な語句であって、誤写とみなすべきところである。これは筑前系では見られない症状だから、肥後で後に発生した誤写であろう。

つまり、この誤写は、《敵の胸にあたる也》の「あたる也」を「あたる事」として重複したものであり、もともと偶発的なものである。しかし、早期に派生した系統の子孫たる諸本にもみられるから、これは肥後系において門外流出後早々に、この誤写をした写本が発生し、それが先祖となって、以後子孫が増殖したのである。

こうした偶発的な誤写が、後世広く派生した諸本に見られるということは、逆に云えば、肥後系諸本の先祖はある一本に還元できるのかもしれない。その一本は、初期写本の門外流出後まもなく生れたもので、以後生産される諸写本の祖となったものである。

しかるに、現存写本を見るに、その後の伝写過程での写し崩れが多様を極めているので、その元祖一本を復元することは不可能なほどである。言い換えれば、肥後系諸本は何れも初期写本からの距離が大きいのである。

ともあれ、この《あたる事》という字句重複については、肥後系早期における誤写としておく。我々のテクストでは、これを採らず、筑前系諸本にしたがい、「あたる事」という語句を一つにしている。


ところで、ここでも語釈の問題がある。ひとつは、
《敵二間も三間もはけのく程、強きもの也》
とあるところの「はけのく」である。これは諸本共通の語句で、オリジナルにもそうあった語句であろう。ただし、「のく」(退く)は、今日でも日常語に残るもので、意味のわかる語だが、他方、「はけ」が付くとなると、現代語の感じでは少々わかりにくいかもしれない。

しかし、「はけのく」の「はけ」は、現代語でも「はける」(捌ける)とあって、これはたとえば、商品などが売れて、消えて無くなるときの謂である。また、類似語では「はげ」(禿げ、剥げ)という語がある。これも頭から毛髪が消え失せた状態や、塗装が剥げたりする様を云う。

そこで、当時の人々は、消え失せることを「はけのく」もしくは「はげのく」と言ったもので、五輪書の語用のこのケースでは、たんに「ここから消え失せる」というだけではなく、これがさらに、「向うへぶっ飛んでいってしまう」という語感のある口語になる。

したがって、これを無理に現代語の語感に合わせて、「はねのく」(撥ね退く)とする必要はない。「はね」のくではなく「はけ」のくでよいのである。

既成現代語訳をみるに、神子訳の「はねとばす」は誤訳である。他は、これを「ふっとぶ」「ふっとばす」と訳していて、その点おおむね正しい。ただし、訳者たちは、この語の言語分析をして調べたのではなく、「撥ね退く」の線上で、文脈からその意味を割り出したにすぎない。それでも、プロセスは間違っているが結果として、まあまあ合格、という事例である。

さらに、語釈の点で、もう一つの問題箇所は、
《我身を、いかほども強くなり、あたる事、いきあひ拍子にて、はづむ心に入べし》
とあるように、「いきあひ拍子」「ゆきあひ拍子」と記すところである。

これは、現代でも使うが、「行きあい拍子」である。「いきなり」(行き成)の類語である。ここでの「いきあひ拍子」のケースでは、いきなりという調子で、出しぬけにカウンター(counter)で激突することである。

筑前=越後系の諸本では、「ゆきあひ拍子」としていて、これは「行きあい拍子」の意であろう。門流内部では、行きあいとして伝承されていたのである。また、底本は肥後系だが、越後の三巻兵書を参照したらしい大瀧家本では、「行合拍子」と漢字で記している。

それゆえ、諸本の「いきあひ拍子」は、この「行きあい拍子」ということのはずだが、他方、肥後系異本には、「いきあひ」について、奇体な漢字表記をしているものがある。

たとえば、丸岡家本は「息相」、富永家本は「息合」と記す。また同様に、肥後系派生の円明流系統の狩野文庫本では「息相」、稼堂文庫本では「息合」と記している。これらはいづれも、「いきあひ」という語を誤解釈して、如上の当て字をしたものである。

岩波文庫旧版の高柳校註では、この「いきあひ」に、(息合)と傍注をふっている。そんな当て字のある写本を見たのかもしれない。ただし、岩波文庫旧版の「いきあひ」という字句は、細川家本が底本なら、これは誤写というべきである。なぜなら、細川家本はこれを「いきあい」と記しているからである。

ところが、戦後の岩波文庫新版になると、由々しき問題がある。というのも、新版の渡辺校訂本では、細川家本の「いきあい」を、勝手に「いきあふ」に改竄しているのである。しかもその件について何の断りもない。戦前の高柳校訂本はたんなる誤写というべきだが、この新版は明らかな改竄である。

しかも、この「いきあふ」以下の部分には、「勢いをつけて、弾み入るように、思い切って敵のふところに入れ」と脚注している。これでは、曖昧にしただけで、「いきあふ」の本義から逸脱を拡大するばかりである。

ちなみに、戦前の五輪書訳本、――たとえば、石田外茂一訳では、これを、「勢いをつけて心にはづみをつけて入り込め」としている。これを見るに、戦後の岩波新版注記はこれとそっくりで、どうやらこれを頂戴したものらしい。

そうすると、岩波新版が、細川家本の「いきあい」を「いきあふ」に改竄した動機が知れよう。つまり、「勢いをつけて」という誤解釈をもって、その線に近づけるべく、原文の字句を「改訂」してしまったのである。いうならば、こうした恣意的改竄を含むのが岩波版五輪書なのである。この点、読者の注意を喚起しておきたい。

既成現代語訳は、以上の混乱に引きずられて、右掲の如く、おのおの誤訳を展開している。

戦後最初の神子訳は、戦前版高柳校註の誤りを踏襲しているが、後二者は戦後岩波版の校註の誤りを反復している。大河内訳は神子訳をうけて、両方取りである。鎌田訳はそれを解消し、新版渡辺注記をそのまま頂戴している。かくして、以上を見れば、近年の現代語訳にはいかに進歩がないか、明らかであろう。

五輪書解釈史という観点から、我々は既成現代語訳を論らっているわけだが、ここでも語釈上、看過できない誤りが認められるので、なぜこんな訳になったのかを含めて、それを指摘しておいたわけである。 

29 三つの受け

【原文】

 
一 三つのうけの事。
三のうけと云ハ、敵へ入込時、
敵うち出す太刀をうくるに、
我太刀にて、敵の目をつく様にして、
敵の太刀を、わが右のかたへ
引ながしてうくる事。
又、つきうけと云て、敵の打太刀を、
敵の右の目をつく様にして、
くびをはさむ心に、つきかけてうくる所。
又、敵の打時、みじかき太刀にて入に、
うくる太刀ハ、さのみかまハず、
我左の手にて、敵のつらをつく様にして入込。
是三つのうけ也。左の手をにぎりて、
こぶしにてつらをつく様に思ふべし。
能々鍛錬有べきもの也。(1) 

 

 

【現代文】

 

一 三つの受けの事

三つの受けというのは、敵の方に入り込む時、敵が打ち出す太刀を受けるに、(次のような受け方がある)。

我が太刀で敵の目を突くようにして、敵の太刀を自分の右の方向へ引き流して、受ける。

また、「突き受け」といって、敵の打ちかかる太刀を、敵の右の目を突くようにして、相手の首をはさむ感じで、突きかけて、受ける。

また、敵が打ってくる時、(こちらが)短い太刀で入るばあい、(敵の打ちを)受ける太刀の方はさしてかまわず、左の手で敵の顔面を突くようにして、入り込む。

以上が、三つの受けである。(どの場合も)左の手を握って拳で(敵の)顔面を突く、そのように思えばいい。よくよく鍛練あるべきである。

 

 

 

【註解】

 

 (1)左の手をにぎりて、こぶしにてつらをつく様に思ふべし

相手の打ってくる太刀を、どう受けるか、その受けかたである。これには、三つあるとして説明している。

しかし武蔵流の「受け」は、たんなる受けではないのが、おもしろいところである。どれも、アグレッシヴな受けかたである。いわば能動的な受けというよりも攻撃的な受け、攻撃に他ならぬ受けなのである。受けといいながら、まさに攻撃なのである。

それが、相手の眼なり顔なりを突くという動作である。
《我太刀にて、敵の目をつく様にして》
《敵の右の目をつく様にして》
《我左の手にて、敵のつらをつく様にして》

いづれにしても、わが太刀(手)は「受ける」というより、相手の目や顔に向かっている。これを果たして「受け」というのであろうか?――それほど、武蔵の教えの「受け」は、タフで荒々しい。

ところで、以上のことは一読してだれでも言えることなのだが、この三つの受けも、従前の一連の「入る」という教えの一部であることが、案外忘却されている。

この教えの冒頭また途中にあるように、この三つの受けは「入る」と同時の受けなのである。入ると敵は打ってくる。それを受ける、という話の筋道である。

したがって、動作の基調は攻撃的なのである。これをたんなる「受け」の教えと思うから、意外な気がするだけである。

さて、問題は、この三つの受けについて具体的なイメージは?――となると、従来の解説書はどれもこれも、はなはだ心許ないと言わざるをえない。

それというのも、まず、ここで武蔵の語っている「受け」において、一刀なのか、二刀なのか、それすら明確にしていない解説なのである。大部分は、これを一刀での受け太刀と誤解したまま、珍妙な解説に及んでいる。

この五輪書読解で再三指摘されているように、従来の五輪書解説本には、具体的にイメージされないままの文字面だけの解説が多すぎたのである。これが五輪書を読む環境の最大の悪弊であった。

実際に剣道をやっていると自称する者らにしても、自己流の近代剣道の先入観に囚われている。武蔵流二刀、これを例外的な剣法だという偏見を棄てきれないうちは、五輪書は正確に読めないのである。

五輪書では武蔵の教えは二刀一流、したがって、この条を読む第一の前提は、二刀での受けだということである。すると、話は従来の解説書とはまったく違ってくる。

三つの受けの第一、《我太刀にて、敵の目をつく様にして、敵の太刀を、わが右のかたへ引ながしてうくる事》。言うまでもなく、二刀だからこれができるのである。

もし一刀なら、「我が太刀で敵の目を突くようにして、敵の太刀を自分の右の方向へ引き流して受ける」なんてことは、できない。敵の目を突くようにするのは、左手に持った太刀である。左手から目を突きかけると、相手の身体は思わず右へ流れる。その右の方向へ引き流して受けるのは、右手に持った太刀である。

そして、「右の方へ引き流して」というのだから、強いて逆方向へ流すのである。一般に受け太刀でお互いに相手の太刀を受け流すのは「左」方向であるので、「右の方へ引き流して」となると、これは相手にとって具合の悪い不利な体勢になる。相手は逆手になって次の打撃に惑ううちに、一撃をくらうであろう。

三つの受けの第二、《つきうけと云て、敵の打太刀を、敵の右の目をつく様にして、くびをはさむ心に、つきかけてうくる所》。「突き受け」、これも二刀だからできる。もし一刀なら、一体どうやって、「相手の首をはさむ」感じで突きかけることなどできるのか。一刀が前提の解説は、このあたり、まったく混乱してしている。

ここでは、X字形に組んだ二刀で、相手の太刀を受けるのはむろんだが、このX字形に組んだ二刀が、相手の首をはさむように押し込むのである。

三つの受けの第三、《みじかき太刀にて入に、うくる太刀は、さのみかまはず、我左の手にて、敵のつらをつく様にして入込》。これもまた、二刀だからできることである。

ここでいう、短い太刀とは、左手の太刀であり、受ける太刀とは、右手の太刀である。まさに、敵の打ちを受けるこの太刀の方は、さしてかまわず、左の手で敵の顔面を突くようにして、左から(逆方向から)入り込むのである。この第三の受けでは、もう「受ける」という意識はない。左手から入り込むという方が勝っている。「受けるのはどうでもいいよ」という、受けに搆わない受けである。

これを総括して、武蔵は「三つの受け」と言うが、なお付け加えて、
《左の手をにぎりて、こぶしにてつらをつく様に思ふべし》
と書いている。左手の太刀の突き方である。突くのは握った拳で顔面を突くという感じだ――とまで、武蔵は教えている。懇切な教訓である。

以上のように、この三つの受けはすべて二刀だからできること、二刀を前提にしなければイメージできないことである。このケースではどれも、左手の太刀が積極的に働いている。

そういうわけだから、《左の手にさして心なし》という右の肥後兵法書の記述は、内輪の要諦と心得る必要があろうが、それにしても、五輪書での左手の活躍ぶりを見れば、《左の手にさして心なし》とは言えないのは、明らかである。この点、武蔵死後、教義の逸脱もあれば変形もあったということである。

――――――――――――


ここで校異の問題である。これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるから、とり上げておきたい。すなわち、筑前系諸本に、
《又、つきうけと云て、敵の打太刀を、敵の右の目をつくやうにして》
とあって、《敵の打》とするところ、肥後系諸本には、この「の」字を欠いている。

この相異は、筑前系/肥後系を截然と分かつものである。これについてまず云えば、筑前系諸本において、越後系諸本も含めて、《敵の打》と「の」字を入れるのが共通するところである。このように《敵の打》が筑前系諸本に共通することからすれば、筑前系初期からこれがあったものと思われる。既述のように、このケースでは、寺尾孫之丞前期の姿を伝えている可能性が高い。したがって、当初は、この《敵の打》であったものとみえる。

それに対し、肥後系諸本に「の」字を欠くについては、その経緯に二つ可能性がある。

ひとつは、寺尾孫之丞後期、寺尾が伝授した五輪書の記述が、《敵の打》とはせず、「の」字を欠いていたこと。このケースでは、寺尾孫之丞の時期による表記のゆらぎである。したがって、寺尾孫之丞の段階では、正しいのはどちらとも云えない。ただし、前に柴任へ伝授したのであるから、前期の文言の方を古型として採るべきであろう。

また、この校異に関するもう一つの可能性は、寺尾の段階ではなく、その後の写本に脱字が発生したという可能性である。そのばあい、おそらく、門外流出後早期であろう。というのも、早期派生系統の子孫たる富永家本や円明流系統の諸本も同じく、「の」字を欠くかたちであるからだ。かくして、肥後系諸本においては、早期に発生したこの脱字をそのまま伝写伝播したのであり、現存写本は何れもその子孫である。

このうち何れであったか、むろんそれは確言できない。文の内容を見るに、表記のゆらぎの範囲ともみえるし、このケースでは、「の」字のない方が文体が引き締まるようにも思える。だが他方で、続く後の文に、《又、敵の打とき、みじかき太刀にて入に》ともあって、《敵の打》という文言は異例ではない。したがって、文章構成の点でもどちらとも言えないのである。

したがって、これは外在的条件によって何れかを決することになる。つまり、筑前系諸本の示すところ、その共通してあることから、寺尾孫之丞前期の表記である可能性が高い。そこから、この箇処の《敵の打》については、これを採るべきである。かくして、我々のテクストでは如上の文言としている。

30 敵の顔を刺す

 

【原文】

一 面をさすと云事。
面をさすと云ハ、敵太刀相になりて、
敵の太刀の間、我太刀の間に、
敵のかほを、我太刀先にてつく心に
常におもふ所、肝心也。
敵の顔をつく心あれバ、
敵のかほ、身ものるもの也。
敵をのらするやうにしてハ、
色々勝所の利有。能々工夫すべし。
戦のうちに、敵の身のる心有てハ、はや勝所也。
それによつて、面をさすと云事、
忘るべからず。兵法稽古のうちに、
此利、鍛練有べきもの也。(1) 

 

 

【現代文】

 一 顔を刺すという事
面〔おもて、顔〕をさすというのは、敵と太刀あい(接近戦)になって、敵の太刀の合間、我太刀の合間に、敵の顔を我が太刀先で突くのだ、と常に思うこと、そこが肝心である。
 
敵の顔を突く心持があれば、敵の顔も身体ものけぞるものである。敵をのけぞらせるようにすれば、いろいろと勝機がある。(これを)よくよく工夫すべし。
 
戦いの最中、敵に身をのけぞる気持が生じれば、もはや勝てるのである。そうだからこそ、顔を刺すということを忘れてはならない。兵法を稽古するなかで、この利〔戦法〕を鍛練することである。
 

【註解】

 (1)敵のかほを、我太刀先にてつく

これは前条「三つのうけの事」と関連があって、敵の顔を突くことである。ここでは、敵の顔を突くという攻撃を仕懸て、敵の身をのけぞらせる、という戦法の教えである。

ここは、とくに説明を要しないであろう。話は明快だからだ。敵と打合っている合間、合間に、敵の顔を突いてやれ、ということがポイントである。ただし、語釈上で、若干説明する必要のある語がありそうである。

一つは「太刀相」〔たちあい〕という語である。これは、「立合」から「太刀相」となると兵法用語であるから、そのままでよいが、語義としては、敵と接近戦になって、敵我互いに太刀を振るい合う状況のことである。《敵の太刀の間〔あい〕、我太刀の間に》とあるように、太刀を振っての戦闘の最中である。

もうひとつは、「のる」という語である。これは「乗る」ではない。「伸る」でもない。「反る」「仰る」である。

 《急所を一つ真の当、うんとのるを》(浄瑠璃「源平布引滝」四)

 《太刀の少し仰たるを、門の扉に当てて推し直し》(太平記 八)
という用例がある「のる」である。要するに、「のけぞる」である。このあたり注意すれば、読むのに苦労はないであろう。


しかし、既成現代語訳は、どうしたものか、あまり正確なものがない。

とくに、上記《敵太刀相になりて、敵の太刀の間、我太刀の間に》というところを、戦後になって、神子訳が「敵味方が五分五分になったときに」と意訳してしまった。神子訳は、《敵の太刀の間、我太刀の間に》とある部分を無視して訳している。まことに不正確な翻訳であるが、それが後の現代語訳にそのまま流用されている。

大河内訳は、「敵味方の太刀が対等になったときに」とし、また鎌田訳は、「敵味方が互角になったときに」としており、独自の工夫は何も見られない。むしろ、神子訳の文言を「翻訳」しているだけである。五輪書を訳さずに、神子訳を言い換えているのである。五分五分、対等、互角と、どう訳そうが、それは「太刀相」の意味ではない。

鎌田訳は、右例のように《肝腎だというのである》というところなど、神子訳の引き写しであろう。原文に当たらずに、神子訳しか見ていないのではないか、とさえ思われる。

ようするに、ここでも戦前の石田訳の方が、(多少不正確であっても)戦後の諸訳と比べれば、まだしも上等である。五輪書現代語訳は、戦後、明らかに退歩したのである。今日、流布しているのは、そうした退歩した現代語訳なのである。

 

31 敵の胸を刺す 

【原文】

 
一 心をさすと云事
心をさすと云ハ、戦のうちに、
上つまり、わきつまりたる所などにて、
切事いづれもなりがたきとき、敵をつく事、
敵の打太刀をはづす心ハ、
我太刀のむねを直に敵に見せて、
太刀先ゆがまざる様に引とりて、
敵の胸をつく事也。
若、我草臥たる時か、
又ハ刀のきれざる時などに、
此儀専用る心也。能々分別すべし。(1)

【現代文】

 

一 胸を刺すという事

心〔むね、胸〕をさすというのは、戦いの最中、上が詰まり脇も詰まっている(余裕のない)場所などで、切ることがどうしてもできない時、敵を突くこと(である)。

敵が打ちかかる太刀を外す要点は、我が太刀の棟(峰)を真っ直ぐ敵に見せて、太刀先が曲がらないように手前に引いて、敵の胸を突くことである。

(ただし)もし自分が疲れきってしまった時、あるいはまた、刀が切れなくなった時などに、これをもっぱら使うというのが趣旨である。よくよく分別すべし。

 

 

【註解】

 

(1)若、我草臥たる時か、又ハ刀のきれざる時などに

これも前節以来の一連の「突く」の教えである。とくに、敵の胸を突くと云うここは、きわめてリアルな話になっている。

胸を突くのは、前条のような顔を突くのと違って、どうやら窮鼠猫を囓む式の攻撃である。あまり威勢のいい話ではない。だから、こんな劣勢のことまで、五輪書には書いていることに、まず注意すべきである。

では、どういうケースなら、この胸を突くことに理があるのか。

武蔵の教えでは、まず、上も横も、太刀を振回せる空間の余裕がない場所で、切ることも入身することもできない時である。つまり、上中下段、右脇も左脇も、五方の搆えどころではない場面である。これは屋内など狭い場所で戦う時、もしくはそういう場所に追い込まれた状況であろう。

しかし、なかんづく武蔵が言うのは、自分が疲れきった時、あるいは、刀が切れなくなった時、である。現実の戦場では、戦いに疲れ切って、なおかつ敵を相手にしなければならない時がある。こんなとき、もう太刀を振り回せる力がないかもしれない。あるいは、敵を何人も斬ると、太刀は刄がこぼれ、血糊で切れなくなる。そんな切れない太刀しかなくて、敵と闘うという場合である。

武蔵が言うのは、いづれにしても、窮地に立っている場面である。もう太刀で切れない、こういう状況に陥って、どうしようもないとき、最後の手段が突きである。しかも胸だけを狙って突くのである。

しかし戦場では、六具固めて、もちろん鎧も装着している。だから、胸を突く、刺すといっても、むやみにて突くのではない。いわば胸板も貫けとばかりに突くのである。
《敵の打太刀をはづす心は、我太刀のむねを直に敵に見せて、太刀先ゆがまざるやうに引とりて、敵の胸をつく事也》

ここで、敵の打つ太刀を「外す」と言うのだから、これはもう、攻撃されても「受け」もできないほどの最悪の状況を想定しているとみえる。それで、一気に敵の心臓を突くのだが、このとき我が太刀の「むね」(棟/峰)を、真っ直ぐ敵に見せたかっこうで、太刀先が曲がらないように、いったん手前に引いて、そして敵の胸を突く――というのが、指南のポイントである。

それはなぜかというと、戦場で鎧を装着しているのが前提だからだ。胸を防護する鎧を刺し通すには、真っ直ぐに突くのでなければならない。斜め角度があっては刺し込むことはできない。だから、このあたりも疎かには読めないところである。

ところが、《我太刀のむねを直に敵に見せて》――というこの部分が、実は解釈の点に関して問題がある。

太刀の棟(峰)とは刃の反対側、刃のない背中の方である。ここでの太刀の持ち方は、太刀の刃は下向き、太刀の棟は上向き。これが通常の持ち方である。これで、ずいと水平に突くということである。

ところが、岩波版注記は、これを「切先を下げることをいう」とわざわざ解説している。それはご丁寧なことであるが、間違った余計な解説である。切先を下げると刀身の背が相手に見えるかたちである、だから「我太刀のむねを直に敵に見せて」というのはそうだろう――という臆測でしかない。しかし、そもそも、武蔵は「切先を下げる」などということは一言も言っていない。

我が太刀の棟(峰)、これを「直に敵に見せる」と、武蔵はわざわざ言うのだから、これは敵から見て真っ直ぐに、ということである。つまり軸線の問題を教えているのである。

敵から見て真っ直ぐな軸線は、自分から見て真っ直ぐな軸線とは一致しない。角度がある。それは、自分の太刀が右手にあるからだ。その太刀をいったん引いて突き出すのだから、その軸線が、敵から真っ直ぐにしろ、という教えである。

こうしてこの軸線に沿って真っ直ぐ突き出せば、相手には太刀の棟が見える恰好である。わざわざ切先を下げる必要はない。もちろん切先を下げては、胸は突けない。切先を下げるという珍解釈は、そんな基本的なこともイメージできないらしい。

従来の現代語訳はどうであったか、それを見てみよう。神子訳の「敵に垂直に向け」は、原文《直に》を「垂直に」とするのが誤りである。これでは、太刀を垂直に立てることになってしまう。ここは「真っ直ぐに」という意味であって、「垂直に」ということではない。大河内訳は、神子の誤訳をそのまま頂戴している。また、鎌田訳は明らかに、上記岩波版注記の解説をそのまま頂戴した訳文であり、誤訳は明白である。しかも切先を下げて、手前に引く、となると、まったく別の動作である。先ほども述べたように、武蔵は「切先を下げる」などということは一言も言っていない。これは余計な解釈が誤訳を招いた事例である。

ようするに、戦前の石田訳が最もまともな語訳である。神子訳以下の戦後の現代語訳、岩波版注記ともに、ひどい誤訳・誤釈である。この事例でもそうだが、戦後になって、五輪書の語訳能力が格段に落ちたのである。

ともあれ、そんな劣悪な状況にばかり付き合っておれない。いまひとつ、別の解釈があるすれば、こうだ。

右手の太刀が役に立たない。そういう状況だ。――とすれば、残る左手の太刀で刺すのである。より具体的に言えば、敵の打つ太刀を左に外して、左手の刀で胸を刺す。つまり、左手の脇差しか使えないというミゼラブルな状況まで想定したものと読み込めば、こういうシーンもありうる、ということである。

こうした場面は、前節の「顔を刺す」と一連の教えとして読む必要がある。つまり、左手の太刀の活用がここでも語られているものとみえる。

いづれにしても、従来の解説書は、一刀をもっての動作を暗黙の前提にしており、そこでさまざま解釈の破綻が出来したのである。ここでも、左右両手に太刀を持った二刀の場面をイメージすれば、従来のそうした誤読の袋小路を突破できるはずである。

ここは窮地に追い込まれて敵の心臓を刺すという必殺術の教えである。それにしても、ここで「むね」という言葉が二通りある、それが注意されるところである。「心」〔心臓〕と「棟」〔太刀のむね〕である。

武蔵が言語遊戯をしているわけではないが、このあたり、窮地に立って心臓を突くという最後の手段まで教える武蔵には、読む方が胸を突かれる思いがしないか。

 

32 喝咄〔かつとつ〕

  

【原文】

 一 かつとつと云事。
喝咄と云ハ、何れも
我うちかけ、敵をおつこむ時、
敵又打かへす様なる所、
下より敵をつく様にあげて、かへしにて打事、
いづれもはやき拍子をもつて、喝咄と打。
喝とつきあげ、咄と打心也。
此拍子、何時も打あいの内にハ、専出合事也。
喝咄のしやう、切先あぐる心にして、
敵をつくと思ひ、あぐると一度に打拍子、
能稽古して、吟味有べき事也。(1)

 

 

【現代文】

 

一 喝咄という事

喝咄〔かっとつ〕というのは、いづれにしても、こちらが打ちかけて敵を追込んだ時、敵が再び打ち返すような場合、下から敵を突くように突き上げて、「返し」で打つことである。いづれも早い拍子で喝咄と打つ。「喝」〔かつ〕と突き上げ、「咄」〔とつ〕と打つ心持である。

この拍子は、いつでも敵と打ち合いの最中には、もっぱら使えることである。喝咄のやり方は、太刀の切先を突き上げる感じで、敵を突くぞと思い、突き上げると同時に打つ、その拍子をよく稽古して、吟味しておくことである。

 

 

 

【註解】

 

 (1)喝とつきあげ、咄と打心也

これは、突き上げて、そして打つ、という連続攻撃である。それを、早い拍子で喝咄〔かつとつ〕と打つ、とあるごとく、喝〔かつ〕・咄〔とつ〕という音声語を援用して教えている。

この突き上げて打つ連続攻撃は、もう少し言えば、《下より敵をつく様にあげて、かへしにて打》というように、下から突き上げて、「返し」で打つのである。ようするに、突きあげるときに敵をのけぞらせ、返す刀で敵を打つ。だが戦場では、甲冑で覆われた頭や肩を切るのではなく、腕や手を切るのであろう。

この「返し」は兵法語彙として、語訳せずにそのまま用いる。行って戻す復路である。ここは、突き上げた太刀を、こんどは上から打つということである。これは応用範囲が広く、《此拍子、何時も打あいの内には、専出合事也》、この拍子は、太刀打合いのときはいつでも使えるというものだったらしい。

具体的な場面としては、右掲肥後兵法書のように、まず、敵の顔を狙って突き上げる。相手がのけぞるところを、すかさず打つということである(喝咄切先返)。これは前出「面をさす」の条にも語られていたことである。あるいは、喝咄する時、大小の太刀の刄を立て、敵の打つ右の手を突く気で、打ち上げる。それが、敵の太刀にあたっても、あたらなくても、同じ事。ようは、我が手元が違わぬように早く打つ事、これが肝腎だともいう(儀談の搆)。

ただし、肥後兵法書には、喝咄への言及はあっても、これを独立した一条としては扱わない。諸条に分散して言及がある。このかぎりにおいて、後の肥後の門流では、重点の置き方が変ったのである。

しかしながら、この五輪書でわざわざこれに一条を立てて云うからには、喝咄という拍子、攻撃リズムを教えることが、重要だと思われていたらしいのである。つまり、《此拍子、何時も打あいの内には、専出合事也》とあるように、技法解説は欠かせないはずである。

「喝」というのは、本来は禅宗用語で、どなりつけることである。『正法眼蔵』に、臨済と慧然の応酬を引例するなかに、

  《慧然便ち喝す》*(佛道)
とあるごとくである。さら言えば「喝」は、言語表現の不可能な内容を表現する発声であり、また、死者に引導を渡すさいの一喝でもある。

現代語では「一喝」は、叱りつける意味で用いられるところであり、「喝を入れる」という言葉もある。「喝破」〔かっぱ〕というのは、物事を見抜いて真実を明らかにするといった意味で使われるが、これも本来は、大声で叱りつけることである。

もうひとつの、「咄」という語は、落語家のことを「咄家」〔はなしか〕とも云うように「談話」の意味があるが、それは和製の語義である。もともと「咄」とは、見て字の如し、これも言語表現不可能な内容を表現する発声であり、驚いたときに使った言葉である。「咄咄」〔とっとつ〕とは、おやまあと驚いたとき思わず出る語である。「咄呵」〔とつか〕というのは、舌打ちの発声だが、本来「咄」には、「こらっ」と叱るという意味があったらしい。

周知のように「咄嗟」〔とっさ〕という言葉があり、現代語でも使用されている。「咄嗟に打つ」とかいう用法があるのだが、これは急なこと、瞬間のことである。ところが、この咄嗟、本来は叱るという意味だったらしい。

以上、ようするに、「喝」「咄」も言語表現不可能な内容を表現する発語であり、どなりつける、叱りつけるのが本義の発声である。こういう語だから、太刀を突いて打つという攻撃に際し、武蔵は援用したものらしい。こんなかたちで「喝」「咄」が生き延びるとは、昔の禅家たちには思いも寄らなかったであろう。

しかしここで、誤解があってはならないことは、突いて打つ、この連続攻撃のとき「かつ、とつ」と実際に発声しろとは、言われていないことである。ここは攻撃リズムを分りやすく教えているのである。

  《喝とつきあげ、咄と打心也》
である。そういうリズムで、そういう心持で打て、ということである。したがって、これは発声なき発声である。思えば、語用の変貌もあったのである。

この喝咄は、武蔵門流では、稽古の基本であったらしい。たとえば、丹羽信英は『兵法列世伝』において、師匠の立花増寿の日常稽古について、次のように記している。

立花増寿は、公務繁多なれども、毎朝出仕の時、兵法稽古場で、表二回、喝咄二回ずつ稽古するのが決まりだった。大急用があっても、吉日でも凶日でも、そういう決まった定式だったので、屋敷の表を掃除する者も、稽古所に木刀を組置くこと、主人の指図に違うことはなかった。三歳の児でさえ立花増寿のこうした習慣を知っていた、云々。

この立花増寿は筑前黒田家の家臣、知行千三百石で用人等を勤めた重臣である。立花峯均の甥で、峯均から二天流兵法の相伝を受けた一人である。武蔵から数えて六代目である。

その人物が毎朝稽古を欠かさなかった。その稽古メニューは、「表二回、喝咄二回」だったという。この「表」は、この水之巻にすでに出た、五方の搆の五つである。そして「喝咄」は本条記事にある通り通りである。この喝咄が毎朝稽古されていたことは、これも「表」五本と並ぶ基本技として修行されたようである。


ところで、語釈の問題が一つある。それは、
《我うちかけ、敵をおつこむ時》
とある、その「おつこむ」である。この語は、『日葡辞書』*に《voccomu》(ヲッコム)とあって、当時の語用が確認できる語である。これは諸本にある「おつこむ」ではなく、表記としては「をつこむ」が正しい。

要するに、「をつこむ」は、追い込む、押し込める、という意味で、他の語例に、

  《其外の兵共、城の内迄をつこみ》(幸若「三木」)
などとあって、攻め込むという意味もある。

しかしながら、この「をつこむ」がオリジナルの表記であったかどうか、確証がない。これが「追込」で、寺尾孫之丞の段階で平仮名表記にして、それが後に定着したものかもしれない、という可能性もある。「追込」という文字の方が先にあったかもしれぬ。――というわけで、必ずしも仮名にはこだわらない。音声に先立つグラマトロジーである。

それはともあれ、喝咄は、敵を追い込んだときの攻撃技である。この点に特徴がある。したがって、重要な業であるのだが、前に述べたように、肥後兵法書では、これに独立した一条を与えていない。その点で、教義の変質があったのである。

これに対し、筑前二天流では、上述の立花増寿の朝稽古のように、五つの表とともに毎日稽古するほどの基本技であった。あるいは、『丹治峯均筆記』に、以下のような話もある。

――ある時、肥後で、小知の武士が、十八九歳の息子を一人連れて武蔵のところへやって来て、息子を弟子にしたいと頼んだ。武蔵は健やかなる若者ゆえ、許可した。親は帰って若者は残り、終日稽古した。武蔵は「喝咄の位」を数百回教えた。晩になって若者が帰る。その途中の町なかで、人を殺めた者が血刀を振って向って来る。後から追手が声々に、「その者を、留めてくだされ」と言っている。かの若者は、さっき稽古したところなので、両刀を抜き放ち、喝咄で打ち懸かる。狼藉者もよんどころなく応戦して、双方切り合いになった。若者は喝咄で、突き上げて打込む。しかし相手が後ヘ退いたので当たらない。若者はまた追いかける。何度も何度も喝咄で打つが、狼藉者は後へ退いて行く。そのうちに、町の戸口の門を閉ざされ、貫抜(閂)を打つ。若者は、門際まで相手を追つめる。背後の貫抜に塞がれ、相手はもう退くことができない。そこを袈裟がけに切って捨てた。追手の者どもは悦び、死骸などを片づけた。かの若者の父親が、早速現場へ駆けつけ、以上のことすっかり聞いて、息子を召連れ、武蔵のもとヘ伺候し、云々。

つまりは、一日喝咄を習って、それが思わぬ役に立ったという話だが、筑前二天流には、喝咄にこういう逸話があったのである。それだけ、この喝咄を重要視していた、ということである。その点で、肥後の門流とは相異がある。余談であるが、一応念頭におかれたい。

 

 

33 張り受け

【原文】

 一 はりうけと云事。
はりうけと云ハ、敵と打合とき、
とたん/\と云拍子になるに、
敵の打所を、我太刀にてはり合せ、うつ也。
はり合する心ハ、さのみきつくはるにあらず、
又、うくるにあらず。
敵の打太刀に應じて、打太刀をはりて、
はるよりはやく、敵を打事也。
はるにて先をとり、うつにて先をとる所、肝要也。
はる拍子能あへバ、敵何と強くうちても、
少はる心あれバ、太刀先の落る事にあらず。
能習得て、吟味有べし。(1)

 

 

【現代文】

 

一 張り受けという事

張り受けというのは、敵と打ち合う時、「トッ、たん、トッ、たん」という拍子になるばあい、敵の打ってくるところを、我が太刀で張り合わせて打つのである。

張り合わせる感じは、さほどきつく張るのでもなく、また受けるのでもない。敵の打ちかかる太刀に応じて、(敵の)打つ太刀を張って、張るより早く敵を打つことである。張ることで先〔せん〕を取り、打つことで先を取る、そこが肝要である。

張る拍子がよく合えば、敵がどれほど強く打っても、(こちらに)少し張る気持があれば、太刀先が落ちることはない。よく(これを)習得して、吟味あるべし。

 

 

【註解】

 

 (1)はるよりはやく、敵を打事也

ここは前条「喝咄」につづいて、やはり連続技である。すなわち、喝咄が打つ拍子、攻撃リズムの教えであったのに対し、ここは受ける方である。

敵との太刀の打ち合いで、どうしても拍子が単調になってうまくいかない、というばあいがある。そういうケースでは、「張りうけ」をしろというのがここでの教えである。

前出「三つの受け」という条があったが、受けといっても、それとはちがう。張るといっても、さほど強烈に張るのではなく、まさに敵の太刀に拍子を合わせるように軽く張る、ということである。

この張り合せは、相手の攻撃リズムに同調し、拍子を調えるという感じである。これが「張り受け」であるのは、相手の太刀を受け止めるのではなく、まさに相手の拍子を吸収し受けとる、という心であろう。
《はる拍子能あへば、敵何と強くうちても、少はる心あれば、太刀先の落る事にあらず》
とあるところである。受けが強ければ、反力も大きい。しかし、相手の拍子を吸収し受けとるこの張り合せでは、太刀先が落ちることもない。
《敵の打太刀に應じて、打太刀をはりて、はるよりはやく、敵を打事也》

この張り合せは軽く合せ、一瞬後には打ちへ移る。喝咄が「突きあげて打つ」拍子であったのに対し、ここは「張り合せて打つ」という拍子である。

この張り合わせは、二刀の場合、左右いづれにしても、敵の打つ太刀を外側へ流すものであろう。右手の太刀を張り合わせたら右へ流し、左から回り込んで左右どちらの太刀でも打つ。また左手の小太刀で張り合わせて左へ流せば、右から回り込んで右の太刀で打つ。

前者がかなり粉砕的な攻撃であるに対し、張り受けからの打ちは、いわばスマートな打法である。それは、《はるにて先〔せん〕をとり、うつにて先をとる所、肝要也》とあるごとく、戦闘のイニシアティヴをとるのが目的なのだから。

肥後兵法書では、これに対応する条文がないが、あえて探せば、《喝咄つゞく太刀筋なれば、つくる事もあり。敵合近くしてハなりがたし、受て取事》とあるところが関連するだろう。


この条で語釈上の問題点をあげれば、《敵と打合とき、とたん/\と云拍子になるに》というところがそれであろう。この《とたん/\》が問題なのである。

この《とたん/\》というのが、擬音であることは見易いところである。つまり、「喝咄」〔かつとつ〕が漢語もしくは禅宗由来の語であったのに対し、これは純粋な擬音語である。

「喝咄」が、カツと突き上げ、トツと打つ、という自分の連続技のことであったのだが、この「とたん」は、「トッ、たん」という相互応酬の恰好である。つまり、我が「トッ」と打つ、敵が「たん」と返す、またその逆である。

たとえば、尾張円明流の福冨三郎右衛門親茂の相伝書(正徳六年)に、
《とたんとハ、我より「と」の拍子を打時に、「たん」の拍子を敵より打事也》
とあるごとくである。これは、異本「五七階級巻」も同様である。

ようするに、この「とたん」は一語ではなく、「と」「たん」という二音で、我と敵の打合いを示している。そして、「とたん/\」というのは、その「トッ、たん」という敵我の打合いが、連続するさまをいうわけである。

ところで、この「トッ、たん、トッ、たん」という打合いの拍子が、よくない。というのも、この「とたん/\」という拍子とは、つまり、リズムが単調になったときのことである。言い換えれば、打合いの拍子が単調に膠着した状態である。そこで、五輪書は、この「はりうけ」を教えているのである。


しかしながら、この《とたん/\》は、これまでの五輪書語釈を見ると、手に負えない難題だったようで、正しく読み解いた例がない。

戦前の石田訳は、《とたん/\》の語を消去して、「調子がはかばかしくなくなった」と意訳している。「はかばかしくない」という意味では、大筋では誤りはないが、《とたん/\》の場面がわかっていないので、語訳というほどのものではない。

戦後の神子訳では、《とたん/\》の語訳を放棄しているが、「互に打合う」というあたりに、やや見處がある。しかし剣術の打合いは、テニスのラリー(rally)ではないのである。

ところが、その後に出た岩波版五輪書の注記で、状況は一変した。なんと、これを「どたどたと拍子がかみあわなくなったさま」と解釈したのである。これは語釈上の新機軸だが、まさに爆笑物である。もとより、前近代の剣術に無知としか言いようがないが、《とたん/\》の場面のイメージが大間違いなのである。そして、もっと嘆かわしいことに、この「どたどた」という誤った場面イメージを鵜呑みにした、現代語訳が目下一般的である。悲惨と云うべし。

申すまでもないが、武蔵は、拍子が噛み合わないなどとは書いていない。単調な拍子に膠着することを、ここでは問題にしているのである。

音楽の演奏でもそうだが、いつもの相手と合奏していても、何となく調子が出ない。ノリが悪い――そういうことがあるが、太刀で切り合って戦うのは、音楽の合奏ではないのである。

相手と拍子が合わないことが問題なのではなく、むしろ逆に、相手と拍子が合いすぎる方がよくない。思い起こそう、五輪書の随所に、拍子をずらしたり、外したりする、破調戦法の教えがあるではないか。

したがって、この《とたん/\》を、「どたどた」とか「どたばた」とか、そういう具合にイメージ解釈するのは、誤りである。ここで武蔵が問題にしているのは、拍子の齟齬ではない。また拍子の「乱調」ではなく、あくまでも拍子の「単調」なのである。そして、その《とたん/\》という「単調」を破れ、と教えているのである。

この点で、要するに、五輪書のこの《とたん/\》を正しく読めたものは、これまで出なかったのである。我々のこの五輪書読解研究以前、既存の語釈・語訳はすべて、見当違いの誤りを反復するのみであった。

なお、戦後の神子訳以来、おおむね既成現代語訳は、ここでいう「張る」を、「はたく」と訳している(大河内、鎌田訳)。はたきをかけるように軽く「はたく」ということのようである。

鷹揚に言えば、この現代語「はたく」でも間違いとはしないが、この訳語の使用は適切ではない。これは近代になって変化した語意であり、標準語帝国主義の一端でしかない。「はたく」という語の伝統的な語感はそれとはちがう。厳密に言えば「はたく」はもともと「叩く/砕く」である。「張る」という意味はない。したがって、こういう系統の違う語種をわざわざ訳語にすることは不適切である。

むしろ、この「張る」もまた、「打つ」と同じく、五輪書におけるスペシフィックな兵法語彙であるから、ここは無理に現代語に訳そうとはせずに、そのまま「張る」としておいた方がよかろう。

34. 一人で多数と戦う

【原文】

 一 多敵の位の事。
多敵のくらゐと云ハ、
一身にして大勢と戦ときの事也。
我刀脇指をぬきて、
左右へ廣く太刀を横に捨て、搆る也。
敵は四方よりかゝるとも、
一方へおひまはす心也。
敵かゝる位、前後を見分て、
先へすゝむものにはやく行あひ、
大に目を付て、敵うち出す位を得て、
右の太刀も左の太刀も、一度に振ちがへて、
行太刀にて、其敵をきり、もどる太刀にて、
わきにすゝむ敵をきる心也。
太刀を振ちがへて待事悪し。
はやく両脇の位に搆、敵の出たる所を、
強くきりこミ、おつくづして、其まゝ、
又敵の出たるかたへかゝり、振くづす心也。
いかにもして、敵をひとへに、
うをつなぎにおひなす心にしかけて、
敵のかさなるとミヘバ、
其まゝ間をすかさず、強くはらひこむべし。
敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれバ、
はか行がたし。
又敵の出るかた/\と思ヘバ、
待心有て、はか行がたし。
敵の拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝事也。
おり/\相手をあまたよせ、
おひこミ付て、其心を得れバ、
一人の敵も、十、二十の敵も、心安き事也。
能稽古して吟味有べき也。(1)

 

 

【現代文】

一 多敵の位の事

多敵〔たてき〕の位というのは、一人で多勢と戦う時のことである。

わが刀と脇差を抜いて、左右に広く太刀を横に拡げておくようにして搆えるのである。

敵が四方からかかってくるとしても、敵を一方へ追廻すようにする心持である。敵がかってくる出方、その前後を見分けて、先へ進む者に素早く行き合い、大どころに目をつけて、敵が打ち出してくるところを捉えて、右の太刀も左の太刀も同時に振りちがえて、行く太刀で前の敵を切り、戻る太刀で脇に進む敵を切るのである。

太刀を振りちがえて待つのはよくない。素早く両脇の位に太刀を搆え、敵の出てくるところを、強く切り込み、追い崩して、すぐさま、また敵の出てくる方へ切りかかり、振り崩すのである。

できるだけ、敵を一列に魚つなぎ*にしてしまうように追いやるように仕懸けて、敵が(一列に)重なったと見れば、すぐさま、間をあけず強く(横に)払い(切り)込むべし。

敵と接近したところで、しつこく敵を追い廻すのでは、捗〔はか〕が行かない。また(逆に)、敵の出てくる方、出てくる方と思っていると、待つ心があって、(これも)捗が行かない。

敵の拍子をうけて、その崩れる部分を見分けて撃破するのである。

ときおり相手を多数集め(練習して)、追込むのに慣れて、その感じをつかめば、一人の敵でも、十人二十人の敵でも、平気だということになる。よく稽古して、吟味しておくべきである。

【註解】

 

 (1)一身にして大勢と戦ときの事也

これは、一人で多数を相手に戦う、その戦法の要諦である。「多敵」は「たてき」と読む。

タイトルの《多敵の位》の「位」という語は、これまで何度も出てきたのであるが、これは兵法用語として、訳さずそのまま使いたい語である。

この「位」を現代日本語に訳せば、状態、態勢、搆え、戦法、その他多義的であるが、要するに、現代日本語よりも英語の《position》が近いのである。なかでも、メラニー・クラインの《position》概念、つまり日本語では「態勢」とでも訳すところの意味である。

こうした語釈のポイントを押さえて、「位」という語を読むべきである。《多敵の位》の「位」という語は、さしあたりここでは、態勢、搆えという意味に絞り込んでよい。

  《我刀脇指をぬきて、左右へ廣く太刀を横に捨て、搆る也》
とあるように、これが《多敵の位》、一人で多勢と戦う時の搆えである。

  《太刀を振ちがへて待事悪し。はやく両脇の位に搆》
ともあるところからすると、この両脇に左右へ広く搆えた形が、その基本的なポジションなのである。

この「両脇の位」は、実は、五方の搆のカテゴリーにはない。上中下は「体」の搆え、右脇・左脇は「用」の搆えである。この「両脇の位」は、右脇の搆えでも左脇でもない。両脇の搆えなのである。

したがって、これは、「第六の搆」とでもいうべきものである。前に見たように、五方の搆以外には構えはない、という解説があったところだが、実は、その他にこの「両脇の位」があったのである。

五方の搆は、見るところ、一人を相手にして戦い斬り合う時のものであるが、この第六の搆は、その位置づけとしては、《多敵の位》、一人で多数と戦うためのものであり、いわば「用の用」たる応用の極である。

こうした点についても、これを五方の搆との関係で、第六の搆として明確に述べた解説は、これまでなかった。世の五輪書読みは、この重要な箇条ですら、まともに読んでいなかったのである。

さて、――ここはまさしく、五輪書中、白眉とも言うべき一文、もっとも有名な箇処の一つである。

武蔵は二十代までに六十余回対戦したというが、一方で、こうした集団戦で、一人で多数を相手に戦う武蔵、というのが伝説的なイメージとなった。それもこれも、この五輪書の記述に淵源があるとも言えるだろう。

武蔵の説明は、この有名な文章をそのまま読めばわかる。とくに難解な部分はない。ここでの話は、とりわけ具体的であるからだ。

なかでも、二刀で敵を追廻し、一列に「魚つなぎ」にして殲滅する――というあたりの、描写の鮮やかさは、戦闘教本たる性格を超えて、近世国語史上の言語表現の新しさを告知する部分である。

曰く、――敵が四方からかかってくるとしても、敵を一方へ追廻すようにする心持である。敵がかってくる出方、その前後を見分けて、先へ進む者に素早く行き合い、大どころに目をつけて、敵が打ち出してくるところを捉えて、右の太刀も左の太刀も同時に振りちがえて、行く太刀で前の敵を切り、戻る太刀で脇に進む敵を切るのである。

太刀を振りちがえて待つのはよくない。素早く両脇の位に太刀を搆え、敵の出てくるところを、強く切り込み、追い崩して、すぐさま、また敵の出てくる方へ切りかかり、振り崩すのである。

できるだけ、敵を一列に「魚つなぎ」にしてしまうように追いやる。そのように仕懸けて、敵が一列に重なったと見れば、すぐさま、間をあけず強く横に払い切り込むべし。

敵と接近したところで、しつこく敵を追い廻すのでは、捗〔はか〕が行かない。また逆に、敵の出てくる方、出てくる方と思っていると、待つ心があって、(これも)捗が行かない。敵の拍子をうけて、その崩れる部分を見分けて撃破するのである、云々。

多敵を相手の戦法のポイントは、敵を一列に「魚つなぎ」にすることである。つまり、四方から包囲してかかる敵でも、それを線状にしてしまえば、一人ずつ片付けて行けるというのが、この戦法の要諦である。

ちなみに言えば、一人で多数を相手にするこの「多敵」相手の戦闘ということは、何も武蔵だけの教えではない。沢庵宗彭の『不動智神妙録』にも、千手観音を譬えにして似たような右掲の一節があるだろう。

これによって見れば、一人で十人を相手にする要諦を語っているようにみえるが、ここでもまた、禅家常套句の「心を留めず」が反復されているだけである。沢庵の話は抽象的というよりも、床屋談義に近い。

こうした禅家(もしくはそれに影響された兵法書)の教訓と、武蔵の五輪書の相違がどんなものか、それを如実に現すのがこの「多敵の位」の記述である。一つだけ例にとれば、武蔵の「魚つなぎ」スキーマに対し、沢庵の「一人にも心をとゞめず」という言葉のいかに粗笨なことか。

ようするに、武蔵が沢庵の思想に影響されたなどという珍説は、吉川英治をもって代表とするが、史実上は両者遭遇の記録はないというよりも、むしろ武蔵の五輪書を読めばただちに解ることだが、沢庵流の通俗的教訓など歯牙にもかけていないのである。

武蔵がこの五輪書で、禅家亜流の通俗的兵法思想を大きく踏み越えているのは明らかである。むしろ武蔵は、そうした兵法書のスタンスを批判するために五輪書を書いたのではないかとさえ、思われるほどである。

というのも、武蔵は、当時支配的な思想的言語であった禅家の言葉を、苦心して遠ざけようとしているからだ。兵法の固有言語を探っている。従来、類似ばかりを突き合わせて、両者の差異に注意しない五輪書解説書が多すぎるが、もうそろそろ気づかれてよいはずである。

――――――――――――


さて例によって、この一節にも校異の問題がある。そのもっとも重大な箇処は、細川家本に文字列の欠落があるところであろう。同じ肥後系の諸本では、この箇処に細川家本のような脱落はない。

 

*【吉田家本】
《先へすゝむものにはやく行あひ、大に目を付て、敵うち出す位を得て、右の太刀も左の太刀も一度に振りちがへて、行太刀にて其敵をきり、もどる太刀にてわきにすゝむ敵をきる心也。太刀を振りちがへて待事悪し》

*【楠家本】
《先へすゝむものにはやくゆきあひ、大きに目をつけて、敵打出すくらゐを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、ゆく太刀にて其敵をきり、もどる太刀にてわきにすゝむ敵をきる心なり。太刀をふりちがへて待事あしゝ》

*【丸岡家本】
《先へ進む者ニ早く行合、大に目を付て、敵打出す位を得て、右の太刀も左の太刀も、一度に振違へて、行太刀にて其敵を切、もどる太刀にて脇に進む敵を切心なり。太刀を振違て待事あしゝ》

*【石井家本】
《先へすゝむものにはやく行あひ、大に目を付て、敵うち出す位を得て、右の太刀も左の太刀も、一度に振ちがへて、行太刀にて其敵をきり、もどる太刀にて、わきにすゝむ敵をきる心也。太刀を振ちがへて待事悪し》

*【細川家本】
《先へすゝむものにはやくゆきあい、大きに目をつけて、敵打出すくらいを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、【★★★★★★★★★★★脱文★★★★★★★★★★★】待事悪し》

*【狩野文庫本】
《先え進ム者ニ早行逢、大に目を付て、敵打出ス位を得て、右の太刀も左の太刀も一度に振違へて、行太刀ニて其敵を切、戻る太刀ニ而脇に進ム敵を切心也。太刀を振違て待事悪し》

 

明らかに細川家本は、《…行太刀にて、其敵をきり、もどる太刀にて、わきにすゝむ敵をきる心也。太刀を振ちがへて…》という無視できない重要部分を欠落させている。これは単純なミスであって、「ふりちがへて」という重出する語句に引かされて、その中間の文言を写し忘れたのである。

ただしこの脱落は、細川家本と同系統の常武堂本にもみられる。とすれば、細川家本の作成段階で生じた誤写ではない。細川家本と常武堂本のこの系統の祖本に、すでにこの脱落が発生していたというわけである。両本はそれに気づかず、脱落を継承したのである。

もとより、書写者の粗忽に起因するこの文言脱落は、写本によくあることなので、それ自体に目くじらをたてる必要はない。筑前系諸本を参照するまでもない。こうした誤写を継承した細川家本がどの程度の写本か、ということを示すだけのことである。このあたり、むやみに細川家本を古いと信奉してはならないという証拠である。

上掲の部分について、他の校異をいえば、諸本に《敵うち出す位を得て》として、「位」を漢字で記すところ、楠家本は「くらゐ」と仮名で記し、細川家本も、おなじく「くらい」と記す。

しかし、同じ仮名でも、細川家本の「くらい」は特異表記である。他の箇所でも同様の仕儀だが、楠家本は、これを「くらゐ」と記し、また、細川家本と同系統の常武堂本でも、これは「くらゐ」と記す。したがって、細川家本の「くらい」は、常武堂本・細川家本の祖本にはなかったもので、細川家本作成段階で発生したものである。

つまり、この字句の変遷プロセスは、こうである。

   「位」 → 「くらゐ」 → 「くらい」

すなわち、それをいえば、筑前系諸本はもとより、肥後系の他の諸本にも、これを漢字「位」で記すのだから、肥後系早期には、「位」と記していたのである。それを、楠家本と細川家本系統の祖本の段階で、「くらゐ」と仮名文字に変換してしまった。そして、楠家本と常武堂本はこれを受け継いだが、細川家本の作成段階で、「くらゐ」を「くらい」と書いてしまったのである。したがって、この「くらい」という細川家本の文字は、そのポジションが末端たることの標識なのである。

しかるに、岩波版五輪書などに、これを「くらい」と記している。それは、むろん細川家本を底本にしたせいだが、その校訂者は、他の諸本の字句表記を知らず、ましてや、細川家本の「くらい」という表記が、五輪書諸写本全体の中でどのようなポジションにあるか、それを知らない。そうした無知ゆえに、漢字「位」でもなく、仮名変換後の「くらゐ」でもなく、「くらい」と記した擬い物の五輪書テクストを公刊してしまうのである。

細川家本についてさらにいえば、この条文には、《敵の敵の(重複)拍子をうけて、くづるゝ所をしり、勝事也》とあって、語句の重複を示す箇処もある。これは、常武堂本にはない重複だから、細川家本作成の段階で発生した固有の誤記である。

大幅な脱字があるかと思えば、こうした語句重複もある。不足も過剰もある。せっかくの「多敵の位の事」の条文なのに、細川家本には他の諸本にはない誤記がある。このていどの写本が、他の諸本を寄せつけない特権的地位を得てきたことに、今更ながら驚くのである。

改めていえば、上記の脱文は、肥後系諸本の中でも、細川家本・常武堂本の系統のみに見られる脱文である。前に見たように、この水之巻の「太刀の持様の事」でも同じく、細川家本・常武堂本の系統のみが脱文を示している。他の諸本にはない特異性のある誤写である。その脱文の意味は、このケースと同じく、後発的な誤写である。

こういう特異性のある脱文脱字は、偶発的な誤写であるが、史料批判の視点からすると、無意味なものではない。そういう誤写が当該資料の位置づけを可能にするからである。

他の箇処でも見るように、楠家本と細川家本に共通する仮名変換や脱文脱字があることから、この両本は近縁関係にあると知れる。そして、このケースのように、他の諸本にある字句が、細川家本には脱落している。それゆえこれは、楠家本の系統と分岐派生した後の、脱文発生である。

こうしてみれば明らかであるが、この細川家本の脱文は、その祖本の段階で発生したものの、かなり後発的なものである。しかも、上述のように、同系統の常武堂本にはない「くらい」という異字表記や重複もある。したがって、そうした示差的特徴から、細川家本のステイタスも知れる。細川家本は決して早期の写本ではなく、後発的な写本である。それをこの誤写が示しているのである。

しかし、この脱文について云えば、問題は、それでは文意が通らないにもかかわらず、そのまま無理やり読まれてきたことである。細川家本を金科玉条とする状況において、そういう経緯があった。言い換えれば、この有名な「多敵の位の事」は、脱文のある細川家本を底本として、流布され読まれてきたのである。

この欠落のあるテクストに依拠する現代語訳は、右掲のごとく、苦労して文意の通るようにしている。つまり、あらぬ文言を捏造して改竄している。そのため、気づかない読者が多いのである。

この部分の現代語訳も、そのうち訂正されねばならぬであろう。というのも、ここは、《右の太刀も左の太刀も、一度に振ちがへて、行太刀にて、其敵をきり、もどる太刀にて、わきにすゝむ敵をきる心也》という肝心の記述があるのに、訳文読者は、それを知らずに読まされているからである。

岩波新版の脚注では、ここに脱文の可能性のあることを指摘している。しかし、そこに引用しているのは、何と戦前版『武術叢書』所収の五輪書なのである。ここに同書が底本とした狩野文庫本の文言でも引いておれば、まだしも、これで、岩波版校訂者が実は異本照合などしなかったことが露呈してしまった。云うならば、そんな諸本校合もしていない恣意的なテクストが武蔵の五輪書だと称しているのが、岩波版なのである。


なおまた、ここで別の校異の問題箇処を指摘しておきたい。すなわち、筑前系諸本に、
《敵あひこむところ、ひたとおひまわしぬれバ、はか行がたし》
とあって、《はか行がたし》とするところであるが、肥後系諸本には、《はかのゆきがたし》として「の」字を入れるものが多い。

さてこれは、筑前系諸本に「の」字の脱落があるのか、それとも肥後系諸本の「の」字が余計な文字なのか。これについては、すでに前例で示したのと同じく、筑前系諸本に共通したところなので、古型は「の」字を入れないものとみなしうる。また、五輪書の他例を見ても、《はかゆきがたし》として「の」字を入れないケースが多い。

ただし、肥後系では、円明流系統の狩野文庫本と多田家本に、「の」字のないケースが見られる。この系統は肥後系の早期に派生した系統である。したがって、肥後系も早期写本の段階には、《はか行がたし》としていた可能性がある。とすれば、肥後系諸本の「の」字は、門外流出後の早期に発生したものではなく、それ以後の二次過程で発生した衍字である。

それゆえ、我々のテクストでは、ここを、「の」字を入れない《はか行がたし》としている。

――――――――――――

 

次に、語釈につき、若干の説明が必要と思われる点がある。まずは、
《我刀脇指をぬきて、左右へ廣く太刀を横に捨て、搆る也》
とあるところ、この「捨てる」という語である。この「捨てる」は、現代語の「捨てる」とは意味が違っている。そのままにしておく、という語義である。これは「放置する」というのに近いかもしれない。

面白いのは、鉄道用語に「捨てる」という語があり、車両を切り離して置いてくることを云ったものらしい。「捨てる」には、もともと「離す」「放す」というニュアンスがある。

ここでは、「捨てる」は身体から太刀を離したかたちで、大きく左右に広げるという話である。したがって上記部分の訳は、「左右に広く太刀を横に拡げておいて搆える」ということである。むろん、刀と脇差を抜いて搆える、これは二刀である。

ところが、ここも岩波版注記に、「我が両刀を抜いて左右にひろげもち両脇に下げて搆えるのである」と記すのは、明白な誤りである。「横に捨てる」には「両脇に下げる」という意味はない。だいいち、「左右にひろげもち」「両脇に下げる」では話が矛盾している。このあたり、誤りは明白であろう。

また同じく語釈の点では、以下の部分が問題である。
《敵あひこむ所、ひたとおひまはしぬれバ、はか行がたし》

この「敵あひこむ」は、「敵合(敵相)こむ」であろう。敵合(敵相)とは敵との距離のことである。「こむ」には「込む」「籠む」の意味があるが、間合い、距離のことをいうここでは、間近い(close)状態を指す。

他に類似の表現としては、「敵合(敵相)近く」がある。これは敵との接近戦のことである。逆に「敵合(敵相)遠き時」とは敵との距離があるときである。そこで、「こむ」というのは、距離が接近することで、つまりは敵方へ入り込んだ状態である。

岩波版注記はこれについて、ノーコメントである。そこで、従来の現代語訳は、ここをどう工夫しているか。――と思って見るに、右掲の如く、なんと、驚いたことに、戦後現代語訳の三者とも同じである。これは神子訳の創案であるが、後二者は何の工夫もせずに、それをそのまま頂戴したのである。ただし、神子訳も、戦前の石田訳の「敵が込み合つて」という誤訳を先輩にもつのである。

しかし、「敵あひこむ」を、「敵が込み合つて」「敵がかたまっている」と誤訳してしまうのは、いかなる考えのあってのことか。

おそらく、これは敵合(敵相)という語を忘れて、「敵、あひこむ」と誤って読んだものと推量される。しかも「あひこむ」を「相籠む」、つまり相互にびっしりと混みあっている状態と錯覚したのであろう。もっとも、「こみ合う」という言葉はあっても、「相籠む」なんてことは云わないが。

いづれにしても、「敵あひ」(敵合/敵相)という語が、五輪書の他の箇所でも使用されている以上、ここは「敵、あひこむ」では間違いなのである。

ついでにもうひとつ指摘しておけば、上記《ひたと》という語を、「まともに」とか「真正面から」と訳すのも間違いである。「ひたと」とは、「ひたと詰め寄る、ひたと寄り添う」といった用例があるが、ここでは、「ひたと」は、執拗に、しつこく、というニュアンスである。

とくにこの部分、敵と接近したところで、しつこく敵を追い廻すのは、捗が行かないし、逆に、敵の出てくる方、出てくる方、あっちこっちに気が奪われると、待つ気持になって、これも捗が行かない、とある。

前のケースは敵に接近して追いまわし過ぎるし、後のケースでは敵の出方を窺って待ちの状態であり、それでは両方とも捗が行かないと、対照的なケースを指しているのである。

なおここでは、武蔵は「はか行きがたし」と再三述べている。「はかが行かない」とは、仕事が捗らないことである。実効的(efficient)でなく、効率が悪いのである。何の仕事が捗らないのかというと、つまり、敵を殺傷して片付けるという仕事が、である。このあたり、武蔵の性格というより、戦場の実効主義的空気を伝えるところである。

35 打ち合いの利

【原文】

 一 打あひの利の事
此打あひの利と云事にて、
兵法、太刀にての勝利をわきまゆる所也。
こまやかに書記すにあらず。
(能*)稽古有て、勝所を知べきもの也。
大かた、兵法の実の道を顕す太刀也。(口傳) (1)

 

 

【現代文】

 一 打ち合いの利の事

 この打ち合いの利ということで、兵法における、太刀を用いての勝つ利*をわきまえるのである。

 ここで詳細に書き記すのではない。(よく)稽古して勝ちどころをを知るべきものである。

 (これは)大かた、兵法の真実の道を体現する太刀である。(口伝*)

 

 

【註解】

 

(1)兵法の実の道を顕す太刀也

まず、ここで、見出し部分に改行があるが、その問題は次条において言及することにしたい。

本文内容を見るに、この打ち合いの利ということで、兵法の、太刀を使っての「勝利」をわきまえるのだ、という。「勝利」というのは、現代語の「しょうり」ではなく、「勝つ利」と読む。勝利法のことである。つまり、この打ち合いの利ということで、太刀で勝つ方法をわきまえる、ということである。

そして、これが、
《大かた、兵法の実の道を顕す太刀也》
というわけである。

ようするに、この打ち合いの利は、「大かた」兵法の真実の道を体現する太刀である。「大かた」という語がここにあるのは、ここでいう太刀で勝つ方法は複数あって、それがどれもだいたい兵法の実の道を顕す太刀だ、ということであろう。

この条文には、前段までのように具体的な記述がない。総括的な文とみなすべきところである。言い換えれば、以上の水之巻の条々について述べたものであって、「打ち合いの利」という術業があるわけではない。

ところで、この条文の末尾に「口伝」とあるのが、問題である。この「口伝」の二文字はやや唐突であって、不審とすべきところである。結論を先に言えば、これはおそらく寺尾孫之丞の段階で、後入れされた可能性のある字句である。

この「口伝」とはなにごとであろうか。

寺尾孫之丞は、五巻兵書を武蔵から遺贈されたのだが、前に述べたように、これを流儀の組織化に活用した。つまり、初級者でも読める兵法教本として書かれた五輪書を、門流が代々相伝すべき文書へと変えたのである。このとき、五輪書に記述のないことで、自分が武蔵から教えられた内容もある。それも伝える必要があると考えたのである。

武蔵から教えられた重要事と思われることだが、それが五輪書草稿には記述がない。このとき、編集者としては、それを五輪書に追加して付記する方法もありえたが、寺尾孫之丞は、あくまでも忠実な伝持者として、武蔵の草稿を増補せず、そのままにしておいて、関連箇処に「口伝」と記して、その内容を門人に別に口頭で伝えたのである。

したがって、この「口伝」という字句は、寺尾孫之丞の段階で記入された文字である。もとより、武蔵から寺尾孫之丞へ譲与された草稿には、これはなかった。

しかし、この「五輪書には書かれていない事」が、実は、流儀の組織化には肝心のところであった。つまり、武蔵遺稿を託されただけではない、その遺稿に「書かれていない事」(unwritten)も知っているということ、――それが、寺尾孫之丞が自身の流派を武蔵正統として組織化するための示差的特性(differentia)であった。

寺尾孫之丞は、五輪書において、本条の他、二ヶ所に、この「口伝」という文字を記入して、それを示した。合計三つの口伝である。

以後、寺尾孫之丞の門流では、この「書かれていない事」、口伝内容を、「三箇の大事」として伝えたらしい。これを示すのが、『丹治峯均筆記』の記事である。

つまり立花峯均は、本師吉田実連から相伝を受けたのだが、すでに明石で柴任美矩から伝授があった。それで「再伝」というわけだが、そのおり、最終巻・空之巻の相伝とともに、《三ケの大事》の伝授があったというわけである。

問題は、この「三箇の大事」という語である。これは他流では、新陰流截相口伝書事にもその語があって、特に武蔵流に限った特有語ではない。新陰流では「截相」とあって、これは切り合いのことだが、五輪書に上記の如く「打あひの利」とあるのと共通する。新陰流で截相口伝書事というのは、「三箇大事」を含めて、三種九事ある。

ともあれ、立花峯均が吉田実連から一流相伝を受けた段階で、筑前二天流には《三ケの大事》というものが存在したのである。

また、丹羽信英の『兵法列世伝』自記にも、次のような記事がある。丹羽信英の実父、桐山丹英が死期に臨んでのこと、――信英が十四歳の春から、父丹英が難治の病に冒されて、もはや重態に及んで、兄弟(兄丹誠と信英)を呼んで遺言した。とくに兵法のことを謂うには、曰く、「おれは兵法に志厚く、大事の兵法を(立花峯均から)得たけれども、お前たちが成就するところを見ないで死ぬのは、残念だ。せめて三箇の大事を見せておいてやる。木刀を持って来い」と。信英は走って、木刀を取って来る、云々。

桐山丹英は、立花峯均の相伝弟子四人の一人である。我が死期に臨んで、息子たちに「三箇の大事」を見せた。この場面からすると、「三箇の大事」は太刀の打ち合いに関するものである。

それが筑前系には伝わっていた。しかし肥後系にはその伝承がない。それはなぜか、と問うまでもない。

すなわち、一つは、肥後では正統たる寺尾孫之丞の系統が消滅したからである。二つには、肥後で武蔵流主流となった求馬助系統が、寺尾孫之丞の系統ではなかったこと。三つには、それゆえ武蔵の流儀を正しく伝える門流がなかった。

かくして、五輪書もまた、寺尾孫之丞の門流から外部へ流出した後に写し写された海賊版しか殘らなかったのである。そのようなものであるから、五輪書に付属した口伝などありえようはずもない。

しかしながら、ここで改めて注意を喚起すべきは、五輪書三ヶ所にある「口伝」という文字は、寺尾孫之丞が記したものだということである。武蔵から寺尾孫之丞へ「口伝」として伝授されたものはなかった。五輪書は奥義秘伝書ではない。また五輪書の兵法教本としての性格からして、そのように特定の門弟に対して秘伝があったとは考えられない。

これは、武蔵から寺尾孫之丞への段階ではなく、寺尾孫之丞から門人へという段階で生じたものである。寺尾孫之丞は、たんに、五輪書には記載のない事項、その「書かれていない事」(unwritten)を補足して伝える必要があると考えただけである。そして彼は門人たちにそれを伝授した。それが、ここにいう「口伝」の起源である。

本条に関して言えば、武蔵は《こまやかに書記すにあらず》と書いた。また、《大かた、兵法の実の道を顕す太刀也》と書いた。そこのところを補足説明する話を、寺尾孫之丞は口頭で伝え、五輪書には「口伝」と書いたのである。

しかし、おそらく寺尾孫之丞の門人たち以下の世代は、これを重大事と受け取った。言い換えれば、世間の他流、たとえば新陰流の口伝と同様に、極意奥伝として受け取った。ここで、五輪書にも、「表」に対する「裏」や「奥」が生じ、テクストとしての五輪書だけではなく、その「裏」や「奥」も伝承しなければ一流相伝とはならないことになったのである。

けれども、五輪書を編集した寺尾孫之丞の段階まで戻れば、「口伝」という文字は、そんな重大事を意味するものではなかった。孫之丞はこれを、五輪書というテクストを補足するものとして付記したのである。

以上のことから、我々のテクストでは、「口伝」の二字を( )に括っておいた。それは、一つには、武蔵のオリジナル草稿にはなかったという意味で、もう一つは、にもかかわらず、寺尾孫之丞の段階で存在した文字だという意味である。

寺尾孫之丞が言い伝えたこと、その具体的内容は不明である。しかし、五輪書というテクストは、編集されたまさにその当初に、無記、すなわち「書かれていない事」(unwritten)を付属せしめていたのである。

なお付け加えて云えば、この打ち合いの利と口伝については、筑前二天流で伝承され、それが越後に伝播しても存続していたようである。

それを示すのが越後の伝書、「戒示三ヶ条」の第一条である。そこには、――(貴殿)執心により、打合の利を相伝せしめ、三巻の書を渡しおく。なお謹しんで御執行(修行)あって、直通の位に至られるべく、志を忘れるな、という文言がある。

これにより、この「打合の利」の口伝とともに、地水火の三巻兵書の伝授があったこと、また、この「打合の利」は、「直通の位」の前段階と位置づけられていたと知れる。

このように、「打合の利」とその口伝という五輪書水之巻の記事は、明治初期の武蔵門流末裔においてさえも確認できるのである。

――――――――――――


ここで校異の問題がある。これは、筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるから、とり上げておきたい。すなわち、筑前系諸本に、
《こまやかに書記すに非ず。稽古有て、勝所を知べきもの也》
とあって、《稽古有て》とするところ、肥後系諸本には、《能稽古ありて》として、「能」字を入れている。

これについて云えば、筑前系諸本において、越後系諸本も含めて、「能」字を入ないのが共通するところである。このように「能」字のないのが筑前系諸本に共通することからすれば、筑前系初期からこうであったものと思われる。既述のように、このケースでは、寺尾孫之丞前期の姿を伝えている可能性が高い。したがって、当初は、「能」字はなかったとみえる。

それに対し、肥後系諸本には「能」字を入れる。これについては、その経緯に二つ可能性がある。

ひとつは、寺尾孫之丞後期、寺尾が伝授した五輪書の記述が、「能」字を入れていたこと。このケースでは、寺尾孫之丞の時期による表記のゆらぎである。したがって、寺尾孫之丞の段階では、正しいのはどちらとも云えない。ただし、前に柴任へ伝授したのであるから、前期の文言の方を古型として採るべきであろう。

ただし、これにも、別の可能性もある。つまり、寺尾孫之丞後期もやはり「能」字はなかった。しかるに、門外流出後早々に「能」字を入れる写本が発生し、それが伝写されるようになったというプロセスである。

つまり、「稽古有て」とある文章としては、ここに「能」字が入る方が無難である。そこで、脱字があると見た後世の者が、ここに「能」字を入れた。肥後系諸本通有のことであるから、早期の発生であろう。その結果、さらには、「能」一字では不足とみたか、円明流系統では狩野文庫本・稼堂文庫本のように、「能々」とするものまで現われた。

何れにしても、この「能」字は不安定な流動状態にあったものである。それゆえ、この文字は肥後系における後入れの可能性が高い。

以上の点を考慮した上で、我々のテクストでは、この「能」字を( )に入れておいた。つまり、後入れの可能性は高いにしても、寺尾孫之丞後期にあった可能性も消去できない。ここはそういう留保する意味を含めて、かくのごとく処理したのである。

 

36 一つの打ち

 

【原文】

 


一 一つの打と云事[見出し改行*]
此一つの打と云心をもつて、
たしかに勝所を得事也。
兵法よく学ざれバ、心得がたし。
此儀、よく鍛錬すれバ、兵法心のまゝになつて、
おもうまゝに勝道也。能々稽古すべし。(1)

【現代文】

 

一 一つの打ちという事
 

この一つの打ちという心をもって、確実に勝つところを把握することである。兵法をよく学ばないと、これは理解できない。
 

この儀(一つの打ち)をよく鍛練すれば、兵法は心のまま(自在)になって、思うままに勝てるようになる道である。よくよく稽古すべし。

 

 

【註解】

 (1)兵法心のまゝになつて、おもうまゝに勝道也

これも前条と同様である。「一つの打ち」の具体的な内容は、この記述では不明である。

曰く、――この一つの打ちという心をもって、確実に勝つところを把握することである。兵法をよく学ばないと、これは理解できない。この儀(一つの打ち)をよく鍛練すれば、兵法は心のまま(自在)になって、思うままに勝てるようになる道だ。よくよく稽古すべし。

ただし、これだけでは具体的な内容は知れない。「一つの打ち」の内容は語られていないのである。

ただし、この「一つの打ち」は、当時各流派通有の、ある種一般性のある語であったかもしれない。その可能性はある。

ちなみに云えば、新当流々祖・塚原卜伝の伝説に、大永二年(1522)、彼が三十四歳のとき、鹿島神宮で参籠し夢に神託を得て「一〔ひとつ〕の太刀」の理に開眼したという。ただしその内容に関しては、何ひとつ具体的な記録がない。また柳生流にも「一刀両段」という太刀のことあり、これは柳生流三学の太刀数が五つある中の、第一の太刀の名称である。むろん、この「一刀両段」の名は南泉斬猫(『碧巌録』第六十三則・『無門関』第十四則)の故事による。

後世の人だが、幕末期の千葉周作(1794~1855 小野一刀流の流れを汲む北辰一刀流始祖)が、一刀流の名の意味を語るところによれば、
《一心一刀の處にて切落すと共に敵に當るの意、受けると直に當るの意にて、二心二刀にならぬことを申したるのみのことなり。一刀流と名つけたるところの意味これなり。よくよく自得発明すべし》(一刀流秘事)

こうあるところを見れば、あんがいこういう話が「一つの打ち」の内容であったかもしれない。一刀流/二刀流の相違はあっても、要諦として謂う所は同じであって差支えないのである。

ただし、この点に関しては、深追いしすぎると誤る可能性がある。武蔵が具体的なことを述べていないのだから、追求は自重して、ほんとうは「一つの打ち」の内容はよくわからないのだ、としておきたい。

具体的な内容を書かないこのスタイルで云えば、前条「打あひの利と云事」と同じく、ここにも続いて「口傳」という文字があってよさそうなものである。たとえば、越後系諸本には、この条にも「口傳」という字句を入れている。

これは、同じ筑前系でも早川系の吉田家本・中山文庫本・伊丹家本には見えない字句である。したがって、筑前系諸本に共通するとは言えない字句であることから、筑前系当初にあったとは思えないものである。

しかしながら、よく注意すべき点もある。前条「打あひの利の事」と次条「直通の位と云事」と合わせて前後三ケ条のみ、見出しの後、改行がある。この体裁からして、これが水之巻の特別な諸箇条だったことが想定できる。

この見出し改行は、筑前系諸本に共通であり、したがって、寺尾孫之丞の段階からあった形式であろう。肥後系では、楠家本と富永家本のみ、この形式を伝えている(田村家本は、地之巻の途中から全条見出し改行に及んでいるから、これは本件とは無関係の体裁である)。つまり、肥後系のうちで、楠家本と富永家本の二本は、この件に関するかぎり、他の肥後系諸本よりも古い形を残しているのである。

これに対して、細川家本をはじめ他の肥後系写本は、これを無視した格好である。要は、体裁の崩れである。門外に流出してしまえば、後は、何事も正確ではなくなるのである。

ともあれ、筑前系諸本にあるように、この三ヶ条が特別な体裁をもつことを看過すべきではない。しかも、前後二ヶ条が「口伝」という文字を入れている。とすれば、その間の本条に「口伝」の文字がないのも、体裁の整わぬところである。しかも、条文の内容からすれば、話は具体的ではなく、前条と同じく末尾に「口伝」とあっても、奇とするに当たらない。

しかし一方で、三箇の大事ということもある。口伝が三つだとすれば、火之巻の「巖(いわお)の身」に「口伝」の文字があるところからすると、もし「一つの打と云事」のここに「口伝」の文字が入っていたとすれば、こんどは数が合わない。すると、諸本にあるごとく、ここには「口伝」という文字はなかったとすべきである。

以上のことからすれば、問題ははなはだ錯綜している。それゆえ、寺尾孫之丞がここに「口伝」という文字を入れたか、入れなかったか、それは未決として留保しておきたい。 

37 直通〔じきづう〕の位

【原文】

 一 直通の位と云事[見出し改行*]
直通の心、二刀一流の實の道をうけて
傳ゆる所也。能々鍛練して、
此兵法に身をなす事、肝要也。(口傳) (1)

 

 

【現代文】

 

一 直通の位という事

 直通の心〔意味〕は、二刀一流の真実の道を承けて伝えるところである。よくよく鍛練して、この兵法を体現することが肝要である。(口伝*)

 

【註解】

 

 (1)直通の位

水之巻末尾三段の最後である。これも、見出し改行で、末尾に「口伝」とあって、前々条「打あひの利の事」と同である。また、前二条と同じく、具体的内容は記されていない。したがって、本条をふくめた、三ヶ条について、共通する形式がある点、注意を喚起しておく。

タイトルの《直通の位》という「位」は、前述のように武蔵流兵法の語彙とすべきところ、本書に多用される語である。すでに示したように、これは、ポジション、態勢(position)の意であるが、ここではとくに、兵法伝承の《直通》に関わる内容なので、これは現代語で「位」〔くらい〕というそのままで差し支えない。

《直通》は「ちょくつう」ではなく「じきづう」と読む。類語に禅語の「直道」〔ぢきだう〕がある。ただし、一部解説書に「直通」を「じきつう」とするのは、誤りである。

「直通」とは、一般に、極意に直接通達することと解することも可能であるが、それでは少し話のポイントがずれる。ここで述べられているのは、二刀一流の真実の道、その伝承のことである。

すなわち、いかにして武蔵流兵法は伝承されるのか――それは、よくよく鍛練して、この兵法を体現することによって、である。

つまり、「此兵法に身をなす」という表現をみれば、これは会得・体得というよりも、体現(embodiment)である。自身が武蔵の二刀一流を具体化し、実現するのである。一般的な表現では、発明自得である。

こういう伝承論は、仏家の法燈伝承システム、師嗣相伝のそれと同じである。一流伝承は、一子相伝の家業ではない。武蔵流兵法の道を体現した個人によって伝承されるのである。

さらに言えば、師嗣相伝といっても、直接的関係でないケースもある。師の歿後生まれた者が後嗣となってもいい。ようするにポイントは、仏法であれ、兵法であれ、「直道」「直通」ということなのである。

さて、ここで明敏な読者ならお気づきかもしれぬが、ここに、
《直通の心、二刀一流の實の道をうけて傳ゆる所也》
とあるところ、これが武蔵自身の文だとするには、もとより難がある。武蔵は当流、「二刀一流」の始祖である。元祖が、「二刀一流の真実の道を承けて伝えるところである」なんてことは書かない。これは、流派伝承者、武蔵の弟子が書く文である。つまり、《二刀一流の實の道をうけて傳ゆる所也》と書いたのは、武蔵ではなく、寺尾孫之丞である。

それゆえ、本条を含めた三ヶ条について、よく見直す必要がある。既述のように、この三ヶ条は、何れも見出し改行のスタイルをもち、またその二ヶ条について、「口伝」という文字がある。

そこで、この三ヶ条より前の条々とは異なるものだということが知れる。とすれば、この三ヶ条は、寺尾孫之丞による増補ではないか、という見方が可能である。

改めて、この三ヶ条を見てみよう。

前々条「打あひの利の事」には、まず、こうある。――この打ち合いの利ということで、兵法における、太刀を用いての勝つ利をわきまえるのである。ここで詳細に書き記すのではない。(よく)稽古して勝ちどころをを知るべきものである。――とあって、これは内容は具体的ではないが、武蔵の記述だとしても、まず問題はない。

ただし次の《大かた、兵法の実の道を顕す太刀也》という一文が、やや浮いている感がある。とすれば、末尾の「口伝」という文字を含めて、この文以下を寺尾孫之丞の付記と看做すことができる。

また、続いて前条の「一つの打と云事」は、――この一つの打ちという心をもって、確実に勝つところを把握することである。兵法をよく学ばないと、これは理解できない。この儀(一つの打ち)をよく鍛練すれば、兵法は心のまま(自在)になって、思うままに勝てるようになる道である。よくよく稽古すべし。――ということである。これも、内容は具体的ではないが、武蔵の記述が原型にあったと見てよい。

ただし、寺尾孫之丞は、この条文について、なぜこのようなところに配置したのか、それが問題である。

おそらく、これは武蔵の草稿に断簡としてあったものであろう。ただし、その内容が具体的に述べられていない。寺尾孫之丞は、そういう種類の断簡も捨てずに、ここへ編集したものらしい。つまり、この三ヶ条は、書きさしの草稿断簡であったが、寺尾孫之丞はそのどれも無視することはできず、ここに収録したのである。

そして、本条「直通の位と云事」となると、――直通の心〔意味〕は、二刀一流の真実の道を承けて伝えるところである。よくよく鍛練して、この兵法を体現することが肝要である――ということになる。

これはその内容からすると、前述のごとく武蔵自身の作文ではない。流派伝承者としての寺尾孫之丞の文である。言い換えれば、寺尾孫之丞が自身の門人に諭した教訓である。それと同時に、「直通の位」と記すからには、まさに寺尾孫之丞による武蔵正統宣言のようなものである。

タイトルの《直通の位》という「位」とは、まさにその意味なのである。寺尾孫之丞は、この直通の位にある者として、ここにそれを書き付けたのである。

しかるに、爾後興味深い誤解が生じた。その一例は、右掲の肥後兵法書の記述である。タイトルは「期を知ると云事」。異本には「機」と記すものがある。内容からすれば、契機(moment)の意であるから、これは仏教語彙としての「機」とすべきところである。

さて、その機(期)を述べたところで、
《一流に直通と云極意の太刀あり。此事、口傳》
とある。もちろん、「期を知ると云事」に順接しない唐突な文言であるが、これをみるに、当流に「直通」という極意の太刀があるという話である。つまり、肥後兵法書では、五輪書の「直通」が、いつのまにか、「極意の太刀」に変化してしまっているのである。

寺尾孫之丞は、こう書いた。――直通の心〔意味〕は、二刀一流の真実の道を承けて伝えるところである。よくよく鍛練して、この兵法を体現することが肝要である。口伝。

ここには、もちろん、「直通」を極意の太刀などと見なす余地はない。もとより、《我一流におゐて、太刀に奥口なし、搆に極りなし》(風之巻後記)という武蔵が極意の太刀などということを言い出すはずもない。

その伝説とは異なり、実際には、肥後兵法書は、寺尾求馬助の門流に帰すべき兵書であるが、どうしてこうしたことが発生したのか。それというのも、寺尾求馬助が、兄・寺尾孫之丞から一流相伝を受けなかったからである。すなわち、この「直通の位」について、孫之丞からその口伝を受けなかったから、「一流に直通と云極意の太刀あり」というような、こんな伝聞じみた記事が発生したのである。

上に見たように、肥後兵法書にあるのは、「期を知ると云事」という条文であり、「直通の位と云事」という条文はない。それは、求馬助が「直通の位」を伝えられなかったからである。

寺尾孫之丞から相伝をうけた柴任美矩の系統末裔であるところの、筑前二天流の立花峯均や増寿の相伝証文にある直通とは、空即直通などととあるものの、その意味は当流伝承のことである。また筑前=越後系の兵法文書、たとえば、「戒示三ヶ条」でも、その第一条に、さらに修行に励んで、直通の位に至るように、と指示がある。これは、五輪書の「直通の位」、その寺尾孫之丞の教訓と同趣の文言である。

「直通の位」とは、筑前系二天流では、三箇の大事の一つであって、修行の最終段階を指す。だが、「極意の太刀」というようなものではない。

したがって、肥後兵法書がかりに寺尾求馬助自身の作物だとしても、すでに五輪書の趣旨から外れたものである。言い換えれば、五輪書を相伝しなかった流派による変形、異伝である。五輪書の字句に写し崩れがあったように、流儀の内容も写し崩れが発生したのである。

なお、丹羽信英『兵法先師伝記』によれば、彼の当時、つまり十八世紀後半になるが、直通と記す当流の兵書を見たことを記している。

すなわち、――また、当流の兵書といって、世間に所持する者がある。あるいは、江戸の古書物屋などで入手して来ることもある。これを見るに、我が五巻の書(五輪書)のように正しいことはなく、なるほど、空のことを書いてあるし、直通、直通と所々に記してはあるけれども、いま伝来の五巻の書(五輪書)とは、格別の違いである、と。

そして、それはどういうものかといえば、武蔵が二十代の折の相伝書らしいのである。――そのとき先師、名のりを「義経」と書きおかれた。先師の年若き時、我が武勇は源義経に比すと云われたので、直ちに義経と号された、と言い伝える。かの世間にある巻物を見れば、これは偽説ではないと聞える、と。

ようするに丹羽信英が見たのは、当流、武蔵流の兵書というもので、「義經」という署名の伝書らしい。これはおそらく「宮本武藏守義輕」と記してある円明流の伝書であろう。「輕」と「經」は崩すと似た字である。

その兵書にはおそらく慶長年間の日付が記してあった。それで、丹羽信英は、《先師二十五歳ノ頃ヨリ一流ヲ立ラル》と書いたのである。

こういう「世間ニ有ル卷物」、円明流の伝書が、江戸の古書店で売られていて、それを入手した者がある。それを丹羽信英が見せてもらったのである。もちろん所有者は、円明流とは無関係の人物であろう。

この兵書はたぶん、播州龍野の多田円明流伝書『兵道鏡』と類似の文書であろう。その『兵道鏡』には、これも「直通之位之事」とあって、五輪書と同じ項目がある。それだけではなく、前々条に「太刀刀ぬき合樣之事」、前条に「是極一刀之事」とあって、それぞれ、五輪書の「打あひの利の事」、「一つの打と云事」に対応するもののごとくである。

 

五 輪 書 兵 道 鏡
打あひの利の事
太刀刀ぬき合樣之事
一つの打と云事
是極一刀之事 
直通の位と云事
直通之位之事

 

 

詳しい比較分析は他に譲るとして、五輪書の文体と、兵道鏡の「直通の位の事」のそれを見るに、教外別伝とあるものの長広舌であり、それも品崩れ、他流の文書の如くである。

直通の位というのは兵法の心魂である、という文言にはじまり、直通の心魂がなければ、狂気醉人、證なき者におなじ、直通の心魂なき太刀を死に太刀と云う、仕合してまけた事がないので、他流の奇特は要らぬ物なり、などとあるところを見れば、根本の崩れ方が大きい。

ここに「大師」とあるのは弘法大師空海のことだが、五輪書に「奥口なし」とある文言が、こういうところに化けている。これは唐突なエピソードのようだが、円明流の密教化という事情をみれば、弘法大師が出てきてもそれは奇異とすべきものではない。

『兵道鏡』は、慶長十一年八月吉日の日付があるものの、後世、円明流系統で派生した仮託文書であろう。宮本武蔵守「義輕」の他にも、「宮本武蔵守」が何人もいたとする系譜を有する円明流伝書である。

つまり、武蔵流が派生していく中で発生した文書であり、丹羽信英の十八世紀後半までにはすでに世間に流布していたという文書である。丹羽信英は初期武蔵流文書と見たようだが、武蔵とは無縁のものである。

 

しかし、こうした文書が発生するについては、何らかの媒介がなければならない。それには、肥後兵法書の「直通という極意の太刀」というような誤解がそこに仲介していたはずである。したがって、

   兵道鏡 → 肥後兵法書 → 五輪書
という、今日一般に信じられている進化論的コースは、仮託文書の日付を鵜呑みにしたもので、誤りとすべきである。実際には、進化したのではなく、変異したのである。つまり、そのコースは時間が逆方向なのである。

   五輪書 → 肥後兵法書 → 兵道鏡

五輪書の写本が門外に流出して、その後派生伝播していったのだが、そのプロセスで、五輪書摘要版というべき文書が作成されるようになった。その端緒は、三十九箇条肥後兵法書に確認できる。

こうした現象は、五輪書を正統相伝文書として伝えた筑前系では存在しなかったことである。もちろん、肥後兵法書に相当するような摘要版など筑前系にはありえない。海賊版の五輪書写本しかなく、五輪書を相伝する正統たりえないところで、「別の」根拠文書が必要になったのである。

しかし、さらにそれが外部へ派生して行った段階で、いわば頚木が外れ、それぞれ独自の伝承をもとに文書を作成するようになったのである。丹羽信英が見た巻物は、その「義經」名と慶長年間と思しき日付からして、『兵道鏡』に類似の文書であったはずだが、それは本来の武蔵門流とはかけ離れたところで派生した流派の作物だったのである。

さて、本題にもどって要約すれば、五輪書の「直通の位の事」は、その流儀伝承に関わることである。しかも、そこには寺尾孫之丞に帰すべき文言がある。

すなわち、《直通の心、二刀一流の實の道をうけて傳ゆる所也》と。もとより、「うけて伝える」というのは、元祖の記す文言ではなく、その門弟の書く文である。これはすでに述べた通りである。とすれば、この「直通の位」は、武蔵に帰すべき語ではなく、本書の編者たる寺尾孫之丞に帰すべきものである。

既述のように、本条を含めた水之巻末尾三ヶ条は、他の条々と異なる体裁をもつ。これは元になる武蔵草稿に断簡があったのだが、それをそのままここに編入したのではなく、寺尾孫之丞が何らかの加工をしたうえで、ここに入れたものである。

武蔵本来の水之巻の記述は、「多敵の位」までであろう。次の水之巻後記に、語られているのも、一人で数十人にも勝つという心のわきまえまでである。この末尾三ヶ条に関連のあることは語られていない。言い換えれば、この末尾三ヶ条は、草稿にはなく、寺尾孫之丞の編集によって生じたものである。 

38 水之巻後書

【原文】

 
右書付所、一流の劔術、大かた、
此巻に記し置事也。
兵法、太刀をとつて人に勝處を覚るハ、
先、五つの表を以て、五方の搆をしり、
太刀の道を覚へて、惣躰やはらかになり、
心もきゝ出、道の拍子をしり、
おのれと太刀手さへて、
身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ、
一人に勝、二人にかち、
兵法の善悪をしるほどになり、[以下不連続]
此一書の内を、一ヶ条/\と稽古して、
敵と戦ひ、次第/\に道の利を得て、
たへず心にかけ、急ぐ心なくして、
折々手にふれ、徳を覚へ、
何れの人とも打あひ、其心をしつて、
千里の道も、ひと足宛はこぶ也。
ゆる/\と思ひ、此法をおこなふ事、
武士の役なりと心得て、[以下不連続]
今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、
後ハ上手に勝と思ひ、此書物のごとくにして、
少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。
たとへ何ほどの敵に打勝ても、
習にそむく事におゐてハ、
實の道に有べからず。
此利、心にうかミてハ、一身をもつて、
数十人にも勝心のわきまへ有べし。
然上ハ、劔術の智力にて、
大分一分の兵法をも得道すべし。
千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。
能々吟味有べきもの也。(1)

 

 

【現代文】

 

 

右に書き付けたところは、我が流派の剣の使い方の大略を、この巻に記しておいたのである。

兵法において、太刀を手に取って人に勝つところを覚えるには、まず五つの表〔おもて〕によって五方〔ごほう〕の搆えを知り、太刀の道を覚えること。そうして、全身が柔らかになり、心も利きが出て、道の拍子を知り、自然に太刀の使い方が冴えて、身も足も心のまま、ほどけたようになるにしたがって、一人に勝ち、二人に勝ち、兵法の善し悪しが分別できるほどになり、[以下不連続]

この書物の中(にある教え)を一ヶ条ずつ稽古して、敵と戦い、次第しだいに道の利〔理〕を得て、絶えずそれを心にかけて、性急な心にならず、機会があるごとに、太刀を手に触れてその徳〔効能〕を覚え、
どんな人とも打ち合って、その心を知り、千里の道も一歩ずつ足を運ぶのである。焦らず気長に考えて、この戦闘法を修行することは、武士の役目だと心得て、[以下不連続]
今日は昨日の自分に勝ち、明日は下手の者に勝ち、後には上手の者に勝つと思い、この書物の通りにして、少しも脇道に気が行かないように心がけることである。たとえ、いかほどの敵に打ち勝っても、習ったことに背くようであれば、それは決して真実の道ではありえない。

この利〔理〕が心に浮べば、一人で数十人にも勝てる心のわきまえができるのである。そうなれば、(次は)剣術の智力によって、大分一分の兵法*をも得道すべし。

千日の稽古を鍛〔たん〕とし、万日の稽古を練〔れん〕とする。よくよく吟味あるべきである。

 

 

【註解】

 (1)千日の稽古を鍛とし、萬日の稽古を練とす

水之巻を総括して語る後書きである。この水之巻は、かなり初歩的な教えからはじまり、多敵の位まで段階が進んだ。要するに、書かれざる口伝という寺尾孫之丞之の仕込み、その不立文字の部分は別にすれば、太刀の使い方のほぼ全容が語られたのである。

そうして、最後に、千日の稽古を鍛〔たん〕とし、万日の稽古を練〔れん〕とする、何よりも焦らず着実に一歩ずつ修行あるべし、研究あるべし、という教えである。これはどうみても、練達の上級者向けではなく、初級者ないしは凡庸な者を対象にした教えであろう。武蔵本人は無師独覚の人で、十三歳の少年の時から決闘に明け暮れた天賦の兵法者だったが、その彼自身は、他人にはかように教訓したのである。

ここでの内容は、とくに難しい話ではない。懇切に教え諭す文章で、だれにも解る話であろう。
《千里の道も、ひと足宛はこぶ也》
《今日は昨日の我に勝、あすは下手に勝、後は上手に勝と思ひ》
《千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす》
とあるのは、武蔵の金言集に算えられる言葉であり、いわば標語として使えるほど、わかりやすく説こうとする懇切なものが、武蔵の教授にはある。とくに水之巻は、五巻のうち入門篇のようなものであるが、それはこの後書の文章によっても知れるところである。

なお、上に掲げたテクスト及び現代語訳は、寺尾孫之丞の編集文である。これには問題がある。想定すべき武蔵オリジナルを復元してみれば、これとは異なる。それは後に示すことにしたい。

 

 

ここで先に、語釈に関して、若干説明を必要するところがある。それはたとえば、
《惣躰やはらかになり、心もきゝ出、道の拍子をしり、おのれと太刀の手さへて、身も足も、心のまゝに、ほどけたる時に随ひ》
とあるところである。堅さが取れて、全身が柔らかくなり、心も利きが出て、道の拍子を知り、自然に太刀の使い方も冴えて、身も足も心のままに、ほどけたようにゆったりとなるにしたがって…というのが文意である。「心も利きが出る」「道の拍子を知る」というところなどは、成語であるから、そのまま使いたいところであるが、では、これはどういう意味か。

「心も利きが出る」という「利き」は、働きとか効果とか性能で、現代語でも「ブレーキの利きがよい」などという用法である。
《小判のきゝぞ、こたへける》(近松「冥途の飛脚」)
というのはそれである。「心も利きが出る」とは心の働きがよくなる、効果が出るという意味で、それで「道の拍子を知る」ようになる。「道の拍子」とは、太刀の道の拍子。太刀の使い方の拍子、リズムやテンポ、タイミングといったことである。拍子というテーマでは、水之巻はいくつかの節で述べていた通りである。

いま、既成現代語訳が、このあたりをいかに訳しているかを見ると、右掲のごとく、各人まちまちである。まず、《心もきゝ出》については、戦前の石田訳の「心が機敏になり」、戦後の神子訳の「正しい判断力がつき」は明らかに筋が違う。岩波版注記は、石田訳を流用し、「心のはたらき機敏なこと」している。後二者、大河内訳と鎌田訳の「心の働きが機敏」というのは、岩波版注記を頂戴したものである。しかし、「心の利きが出る」のと、「心の働きが機敏になる」というのは、若干ニュアンスがちがう。機敏というより、性能が良くなると云ったほうがよい。前出のように淀むこともあるのだから、機敏とは限らないのである。

同時に問題のあるのは、後半部分の、《身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ》とある箇処である。

石田訳はこれを「心のまゝに自由自在になる」と訳して、「ほどけたる」という語の訳を回避した意訳で臨んでいる。神子訳は、「思うままに動く」として、あっさり脱線している。岩波版注記は、「思うままに円滑に動く、自由自在となる」として、先行する石田訳と神子訳両方の意訳を頂戴しているだけで、同じ間違いを反復している。それは右の「二刀一流極意條々」の文言を見つけたまではよいが、そこを読み間違えているからである。文意は論理的で、「自由になるのは、ほどけたからだ」と言っているにすぎない。「ほどける」の意味を、体も足も思うままに円滑に動くようになることとするのは、誤りである。

「ほどける」は、文字通り、まさに「解〔ほど〕ける」でよいのであり、緊張が寛解することである。自由自在に動くという意味ではない。身体が自由自在に動くのは、解けた結果/効果(effect)なのである。

これに対し後二者の大河内訳・鎌田訳は、岩波版注記を流用したもので、とくに鎌田訳は例によって岩波版注記をそのままパクったに過ぎず、何の努力もしない怠慢ぶりである。

また、次の部分はどうであろうか。
《然る上は、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし》

ひとつ問題は「剣術の智力」という語であろう。ここでいう「剣術」は今日我々の云う「剣術」とは少し意味が違う。剣の技、技術という意味であるが、ここでは兵法と同義語で使っている。また「智力」というのは、むろん知識(knowledge)の力ではない。知性(intellect)の力でもなく、智慧の力という意味である。この智慧という言葉は、本来仏教用語のそれであるが、策略知略という意味を含む兵法用語だから特種なものである。

先と同様にして、既成現代語訳が、ここをいかに訳しているかを見ると、右掲のごときもので、戦前の石田訳はまだしも、戦後の三者ともに誤訳で落第である。《智力》という言葉のどこから「理論、知識」「知識と実力」「知識と実践」といった訳語が出てくるのか。「剣術の智力によって」とすれば間違いがないのに、余計な解釈をして誤訳した事例である。せめて「剣術の智慧の力」とでもしておけばよかったのである。いづれも訂正を要する訳である。

しかも、この訳者たちが誤っているのは、「大分一分の兵法」が、武蔵の用法では兵法語彙だということをわきまえず、この語を分解して訳していること、そして、《然る上は、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし》とある明確な指示の身ぶりを、「体得(会得)することができるであろう」と、間の抜けた未来形に訳しているところである。

これは神子訳が播いた種であるが、後二者は何の工夫も無く、これを頂戴しているだけである。それゆえ、問題は当初の神子訳にあるとしても、それをそのまま流用する後二者の、怠惰な横着にこそ問題がある。

ともあれ、ここは、ようするに、一人で数十人にも勝てる心のわきまえができたなら、次は、剣術の智力によって、大分一分〔だいぶんいちぶん〕の兵法、その戦い方をも得道しなさい、という指示である。この「大分一分の兵法」というのは、合戦のような大人数の戦闘と一対一の戦闘を無差異化する武蔵流の兵法理論である。

したがって、語訳の上でも、この「大分一分の兵法」を、大人数の戦い「と」一対一の戦いという具合に分割してはならないのである。武蔵の兵法理論は、まさに「大分の兵法」と「一分の兵法」をショートサーキットさせ、無差異化するところに、その特性があったのである。

かくして、剣術がマスターできたら、次に、その「大分一分の兵法」をマスターせよということである。その「大分一分の兵法」は次巻・火之巻に述べられる。この水之巻の後書によるかぎりでは、武蔵の教えのプログラムでは、剣術から大分一分の兵法へ、という発展コースが設定されているようである。それゆえまた、この水之巻後記は、次の火之巻へのドアを指し示しているのである。

――――――――――――


さて、校異の問題に入る前に、実はもっと根本的な問題がこの後書の文章にある。上掲テクスト及び訳文にチェックを入れておいたのであるが、文章に不連続と思わせる箇処がある。それは、
《…身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ、一人に勝、二人にかち、兵法の善悪をしるほどになり》★《此一書の内を、一ヶ条/\と稽古して、敵と戦ひ、次第/\に道の利を得て…》
とあるところであり、また、もう一つの不連続箇処は、
《…ゆる/\と思ひ、此法をおこなふ事、武士の役なりと心得て》★《今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、後ハ上手に勝と思ひ…》
とあるところである。この二つの箇処の前後に連続性がなく、一文として続きにくい。おそらく、このあたり、何か異変のあったものと思われる。

もし、この不連続箇処の間の文がなかったと仮定すれば、
《…身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ、一人に勝、二人にかち、兵法の善悪をしるほどになり》★《今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、後ハ上手に勝と思ひ…》
ということで、さして無理なく文章が連続する。したがって、草稿本文の最初はこのような文だったが、後に、不連続部分が間に挿入されたと思われる。すなわち、ここに不連続性を示す箇処により、当初の草稿本文を復元しうるのである。

しかし武蔵は、その当初本文にさらに文を書き加えた。それが、不連続箇処によって区切られる中間の文である。ただし、前後不連続であるから、これは武蔵の文章そのままではないことはたしかである。

そこで、この後補挿入と思われる文をつぶさに分析してみると、右のように二つの構成部分があると知れる。この〔A〕〔B〕二つの部分の内容は、乖離したものではなく、関連のある内容である。したがって、一団の文章とみなしうる。ただし、問題は、上記のように、この部分が前後の文と連続しないことである。

そうしてみると、考えられるのは、この〔A〕〔B〕二つの構成部分の前後が入れ替わっているのではないか、ということである。つまり、《此一書の内を、一ヶ条/\と稽古して…》とある部分〔A〕が前に出て、《何れの人とも打あひ、其心をしつて…》とある部分〔B〕が後へ回ったのではないか、ということである。そのために、前後の文章との連続性が失われたのである。

そこで、この想定に基づいて、〔A〕〔B〕二つの順序を入れ替えてみると、前後の文章との連続性が出てきたのである。

 

写本によるテクスト   想定しうるテクスト
右書付所、一流の劔術、大かた、此巻に記し置事也。兵法、太刀をとつて人に勝處を覚るハ、先、五つの表を以て、五方の搆をしり、太刀の道を覚へて、惣躰やはらかになり、心もきゝ出、道の拍子をしり、おのれと太刀手さへて、身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ、一人に勝、二人にかち、兵法の善悪をしるほどになり、
 
右書付所、一流の劔術、大かた、此巻に記し置事也。兵法、太刀をとつて人に勝處を覚るハ、先、五つの表を以て、五方の搆をしり、太刀の道を覚へて、惣躰やはらかになり、心もきゝ出、道の拍子をしり、おのれと太刀手さへて、身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ、一人に勝、二人にかち、兵法の善悪をしるほどになり、
此一書の内を、一ヶ条/\と稽古して、敵と戦ひ、次第/\に道の利を得て、たへず心にかけ、急ぐ心なくして、折々手にふれ、徳を覚へ、
 
何れの人とも打あひ、其心をしつて、千里の道も、ひと足宛はこぶ也。ゆる/\と思ひ、此法をおこなふ事、武士の役なりと心得て、
何れの人とも打あひ、其心をしつて、千里の道も、ひと足宛はこぶ也。ゆる/\と思ひ、此法をおこなふ事、武士の役なりと心得て、
 
此一書の内を、一ヶ条/\と稽古して、敵と戦ひ、次第/\に道の利を得て、たへず心にかけ、急ぐ心なくして、折々手にふれ、徳を覚へ、
今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、後ハ上手に勝と思ひ、此書物のごとくにして、少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。たとへ何ほどの敵に打勝ても、習にそむく事におゐてハ、實の道に有べからず。此利、心にうかミてハ、一身をもつて、数十人にも勝心のわきまへ有べし。然上ハ、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々吟味有べきもの也。
 
今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、後ハ上手に勝と思ひ、此書物のごとくにして、少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。たとへ何ほどの敵に打勝ても、習にそむく事におゐてハ、實の道に有べからず。此利、心にうかミてハ、一身をもつて、数十人にも勝心のわきまへ有べし。然上ハ、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々吟味有べきもの也。

 このように、問題部分を操作すれば、文意が通るようになる。したがって、上掲想定文が、オリジナルではないかとみなしうる。

とすれば、この文章異変はどこで生じたのか。それは申すまでもなく、寺尾孫之丞の編集段階であろう。おそらく武蔵の草稿には、読み取り難しいものがあったし、文章の後先も文面どおりではなかったようである。挿入や書き込みのある草稿ゆえに、文の順序が不明確なこともあったようである。

ただ、寺尾は、できるだけ草稿の原型を残そうとしたはずである。その結果、武蔵が書き置いたままに、文を並べただけなのだが、その無作為が却って文章の順序を混乱せしめることになったのである。

このケースでは、草稿本文は、上記のように、不連続の閾のある間の文はなかった。そこに武蔵は後から書き足した。そのとき、挿入順序が曖昧で、後に寺尾を混乱させたのであろう。

寺尾孫之丞は、本書草稿を贈与されてはじめて、内容を見たのである。武蔵の原稿に疑問が生じても、すでに武蔵はこの世にいなかった。かくして、寺尾は自分の判断と解釈で、それを清書せざるをえない。しかし寺尾はできるだけ原型に忠実であろうとし、その通りに作為なく書き写した。ところが、後補文を本文に流し込むと、その語順が武蔵の意図とは違っていたのである。

かくして、当該箇処の想定すべきオリジナルの復元は以下の通りである。現代語訳も添えて示せば、復元結果はより明確になろう。

 

 

【原 文】

(前略)
身も足も、心のまゝ、ほどけたる時に随ひ、
一人に勝、二人にかち、
兵法の善悪をしるほどになり、
何れの人とも打あひ、其心をしつて、
千里の道も、ひと足宛はこぶ也。
ゆる/\と思ひ、此法をおこなふ事、
武士の役なりと心得て
此一書の内を、一ヶ条/\と稽古して、
敵と戦ひ、次第/\に道の利を得て、
たへず心にかけ、急ぐ心なくして、
折々手にふれ、徳を覚へ、
今日ハ昨日の我に勝、あすハ下手に勝、
後ハ上手に勝と思ひ、此書物のごとくにして、
少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。
(後略)

 

【現代語訳】

(前略)身も足も心のまま、ほどけたようになるにしたがって、一人に勝ち、二人に勝ち、兵法の善し悪しが分別できるほどになり、

どんな人とも打ち合って、その心を知り、千里の道も一歩ずつ足を運ぶのである。
焦らず気長に考えて、この戦闘法を修行することは、武士の役目だと心得て、この書物の中(にある教え)を一ヶ条ずつ稽古して、敵と戦い、次第しだいに道の利〔理〕を得て、絶えずそれを心にかけて、性急な心にならず、機会があるごとに、太刀を手に触れてその徳〔効能〕を覚え、

今日は昨日の自分に勝ち、明日は下手の者に勝ち、後には上手の者に勝つと思い、この書物の通りにして、少しも脇道に気が行かないように心がけることである。(後略)

 

 

 想定すべき武蔵オリジナルを復元してみれば、かくのごとくである。先に掲げたテクスト及び現代語訳は、現存写本にもとづき寺尾孫之丞の編集文をそのまま提示しておいた。したがって、彼此比較して読まれたし。

――――――――――――

 さて、重要な問題が片付いたので、ここで諸本校異の問題に立ち入っておきたい。ここにはいろいろ字句の相異があるからである。あちこち多いので、以下にまとめて提示しておく。

 

 

*【吉田家本】
《惣躰やわらかになり、心もきゝ出、道の拍子をしり、おのれと太刀手さへて、身も足も、心のまゝほどけたる時に随ひ、(中略)急心なくして、折々手にふれ、徳を覚へ》


*【楠家本】
《惣躰やはらかになり、心のきゝ出て、道の拍子をしり、をのれと太刀も手さへて、身も足も、心のまゝにほどけたる時にしたがひ、(中略)いそぐ心なくして、おり/\手にふれてハ、徳をおぼえ》


*【富永家本】
《惣躰やはらかになり、心の利出て、道の拍子を知り、おのれと太刀も手さへ、身も足も、心のまゝにほどけたる時に隨、(中略)急心無くして、折々手に觸てハ、徳を覚へ》


*【近藤家乙本】
《摠躰やハらかになり、心もきゝ出、道の拍子をしり、おのれと太刀手さへて、身も足も、心のまゝほどけたる時に随ひ、(中略)急ぐ心なくして、折々手にふれ、徳を覚へ》


*【細川家本】
《惣躰自由〔ヤハラカ〕になり、心のきゝ出て、道の拍子をしり、おのれと太刀も手さへて、身も足も、心の儘にほどけたる時に随ひ、(中略)いそぐ心なくして、折々手にふれては、徳を覺へ》


*【狩野文庫本】
《惣躰和ラかに自由ニ成、心のきゝ出て、道の拍子を知、おのれと太刀も手さへて、身も足も、心の儘にほどけたる時に隨ひ、(中略)急心なくして、折々手にふれては、徳を覚》

 

 まず、「やわらかに」と諸本にあるところ、肥後系細川家本は「自由」と書いて「ヤハラカ」とルビを振っている。これは同系統の常武堂本も同じであるから、細川家本・常武堂本両者の祖本の段階で発生した字句である。

他方、丸岡家本は、「自由」と書いてルビなしである。それに対し楠家本は、「やはらか」と記し、早期派生系統の富永家本も、同前である。もとより、筑前系諸本には「自由」という字句はない。

したがって、何れにしても、「自由」と漢字表記するのは、肥後系の中でも後発的変異である。細川家本や丸岡家本は、この字句からしてその後発性を示している。

それよりもこのあたり、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異が複数ある。それを順に確認してみたい。

まず、一つは、筑前系諸本に、《心もきゝ出》とあるところ、肥後系ではこれを、《心のきゝ出て》とする。《心も》ではなく《心の》であり、《出》ではなく《出て》と「て」字を補う。

次に、筑前系諸本には、《おのれと太刀手さへて》とするところ、肥後系では、《おのれと太刀も手さへて》として、「も」字を入れる。

三つめには、筑前系諸本では、《心のまゝ、ほどけたる時に随ひ》とあって「心のまゝ」とするところ、肥後系では、「心のまゝに」として、これも「に」字を入れる。

最後に、筑前系では、《折々手にふれ》とするところ、肥後系では、《折々手にふれては》として「ては」の二字を入れる。

以上のように、筑前系諸本と肥後系諸本の間には種々校異点があるのだが、これはいかがであろうか。

その文意の点では、どちらも不都合なく通る。やや問題がありそうなのは、筑前系の《おのれと太刀手さへて》とあるところ、肥後系のように《太刀も》と「も」字を入れた方が、文が滑らかになるが、それでも、ここに「も」字の脱落があったとは確言できない。《おのれと、太刀、手さへて》の方が文体がマッチョでゴツゴツした感じが出るからである。

そこで興味深いのは、筑前=越後系の石井家本である。巻子本では《太刀の》と「の」字をいれているが、冊子本ではこれに朱点を打って、衍字たることを示している。いうならば、《おのれと太刀手さへて》には、書写者がついつい《太刀の》とか《太刀も》とか、文字を入れてしまいたくなる箇処なのである。

《太刀も》と「も」字を入れた肥後系の起源も、そういう偶発的な衍字誤記にあったらしい。同様にして、《心のまゝ、ほどけたる時に随ひ》においても、《心のまゝ》の後に「に」字を入れてしまった。このように文字をつい補足してしまう傾向の書写者がいて、《折々手にふれ「ては」》と、ここも「ては」を付加し、また、《心も利き出》にも「て」字を加えたほか、「心も」を「心の」と誤写した。その初期写本が、爾後の子孫たちの字句をもたらしたというわけである。

では、例によって、間テクスト的分析によって見るとどうか、ということになる。すなわち、立花峯均=越後系も含めた筑前系諸本に共通するところから、これは筑前系初期からあった文言である。しかもそれが、寺尾孫之丞前期、柴任美矩が承けた五輪書の字句である可能性が高い。とすれば、こちらにアドヴァンテージがある。

他方、肥後系は、早期に派生した系統の子孫たる富永家本や円明流系統諸本も同じだから、これも早期写本にあった文言である。この場合、門外流出後早々に異本が現われ、そこで写し崩れが出来したのである。

さて、もう一つ指摘しておくべき校異があろう。それは細川家本の系統に特徴的な字句である。つまり、
《此利、心にうかひては、一身を以て数十人にも勝心のわきまへあるべし》
と細川家本にあって、《うかひて》(浮かびて)とするところ、常武堂本も同じである。他方、筑前系/肥後系を通じて、諸本には《うかミて》とする。

これは明らかに、細川家本・常武堂本の《うかひて》の「ひ」字の表記は新しい。近縁性のある楠家本も丸岡家本も、ともに「ミ」字に作るからである。細川家本の「ひ」字は最も後発性の書字法である。

このことに関連して言えば、上述のごとく「やわらか」と諸本にあるところ、細川家本の祖本段階で、「自由」と漢字に書いて「ヤハラカ」とルビを振るようになっている。丸岡家本は、「自由」と書くが、ルビなしである。それに対し楠家本は、「やはらか」と記す。したがって、「自由」と漢字表記するのは、後発的変異である。これは上述の通りである。

このように「自由」と漢字で表記し、「ヤハラカ」とルビを振るのは、「やはらか」と「自由」の両方を参照したとみえる。つまり、細川家本の祖本は後発的変異以後の写本だが、それだけにとどまらず、諸本を参照して編集して成った写本だと知れるところである。細川家本の奥書にしても、編集によって取り込まれたものであるから、祖本が諸本を参照した痕跡を細川家本が残すのも当然である。

また、「自由に」「ヤハラカ」ということでは、円明流系統の狩野文庫本や多田家本にも、《惣躰和ラかに自由ニ成》《惣躰やわらかに自由ニ成》とあるところである。これはルビが本文化したとみえる。ただし、細川家本と同じく、《やわらかに》《自由に》の両方を参照した後の後期性を示す。つまり、細川家本はこうした後期写本と同じ位相にある。

それと同じことで、細川家本・常武堂本の系統に特徴的な《うかひて》の「ひ」字も、細川家本の後発性を示す字句である。しかるに、近縁性のある楠家本も丸岡家本も、ともに「ミ」字を記す。これは諸本共通である。楠家本・細川家本・丸岡家本、この三本のうち、細川家本のみが「ミ」字を「ひ」字に変えているのである。

こうしてみれば、細川家本の後発的特徴はここでも明らかである。したがって、同本を古型だと思い込むのは、錯覚以外の何ものでもないことが知れよう。

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ところで、以上本文で見たように、この水之巻は武蔵の教えの基本となるものである。このことから、後に、興味深い相伝方法も生じた。それは、地之巻よりもこの水之巻の方を先に伝授するというケースである。

五輪書は必ずしも一括同時伝授ということではなかった。巻を分けて順次伝授することかあった。それは筑前二天流にみられたことである。たとえば、三代柴任美矩はその門人・吉田実連へ五輪書を伝授するに、以下のような次第であった。

   (水之巻) 明暦二年(1656)閏四月十日

   (地之巻) 万治三年(1660)五月朔日

   (火之巻) 寛文九年(1669)四月十七日

   (風之巻)    同 上

   (空之巻) 延宝八年(1680)四月二十二日

これによれば、地之巻に先行して水之巻が伝授されている。そして、その水之巻伝授から空之巻まで、あしかけ二十五年である。

また、近年発掘した越後系諸本によれば、四代吉田実連は、その門人・立花峯均へ五輪書を伝授するに、以下のような次第であった。

   (水之巻) 元禄四年(1691)七月廿六日

   (地之巻) 元禄八年(1695)十月十二日

   (風之巻) 元禄十二年(1699)五月十日

   (火之巻) 元禄十三年(1700)八月十九日

   (空之巻) 元禄十六年(1703)五月二十八日

このケースでは、やはり地之巻に先行して水之巻が伝授されている。そして、また、火之巻より風の巻の方が先に渡されているようである。しかし、五代立花峯均は、三人の門人に同時に五輪書を相伝したが、そのばあいは、五巻一括伝授であった。

いづれにしても、五輪書の伝授形態はさまざまであるが、上記ケースのように、地之巻に先行して水之巻を伝授するということは、剣術の教えを説く水之巻を基本とみなしていたからであろう。

今日の我々は、五巻の書を地之巻から読み進めるのであるが、武蔵門流の現場では、このように水之巻から伝授するやり方もあった、ということも、念頭におくべきである。

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最後にもう一つ、この水之巻後書に関していえば、これがそっくりそのまま、肥後兵法書の後書に転記されていることである。

しかも、そのうえ、奇怪なことには、その後に、
寛永十八年二月朔日 新免武蔵守藤原玄信 判
と記されているのである。寛永十八年二月といえば、武蔵が細川忠利の求めに応じて、兵法の書三十九箇条を書いて献上したという伝説の日付なのである。

他方、五輪書水之巻の日付は、正保二年五月十二日であり、しかも宛先は寺尾孫之丞なのである。

肥後兵法書を見る限りにおいて、同書が作成されたとき、水之巻後書を流用しただけではなく、寺尾求馬助門流の伝説にしたがって、この日付に改竄したものらしい。もちろん、寺尾孫之丞という宛名は抹消されている。

もちろんこの後書の内容は、若年初心の者向けのものであり、柳生宗矩から新陰流の印可を受け、『兵法家伝書』を相伝されたほどの細川忠利に授与する文書の内容ではない。

後に、これでは体裁が整わぬと思ったものか、肥後兵法書異本三十五箇条版には、献上本のスタイルを作っているものもある。周知の如く、細川忠利は寛永十八年三月に死去したが、二月にはすでに重病の床にあり、かような奥書は状況に対応しない。後世の捏造文書である。

このように献上本の体裁をとるものが先にあったのなら、この奥書の方を肥後兵法書諸本に記すであろう。しかし諸本にはたいていそれを記さない。したがって、献上本の体裁をとるものは、後に発生した偽作である。

肥後兵法書の当初は、五輪書摘要本であり、水之巻後書をここに引いただけのものであったはずである。それが、次の段階では、寛永十八年二月の日付を付すようになった。そうしてさらに後には、献上本のスタイルを擬するようになったのである。
(phase1) 原型 五輪書摘要本
(phase2) 水之巻後書に日付「寛永十八年二月」を記入
(phase3) 水之巻後書を廃棄し、献上本の奥書を擬す

ともあれ、五輪書水之巻後書は、寺尾孫之丞の編集によって爾後のかたちに成ったものである。その編集段階で、文章の順序の錯誤が発生したことは、上に見た通りである。このかたちは、武蔵死後、寺尾孫之丞の編集段階で生じたものである。したがって、寛永十八年には存在しない文書なのである。

このことから、肥後兵法書の寛永十八年二月という日付は、後の虚構であり、肥後兵法書の偽書たることを自ら露呈している。しかるに、現今なお、五輪書の前に兵法書三十五箇条が書かれていたという妄説を開陳する者がいる。迷蒙、いまだ醒めやらぬ、という状況である。