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五輪書 地之巻 全文(原文・現代語訳・註解)

五輪書全体の地ならしをする地之巻。兵法を学ばんとする者へのガイダンス、武蔵自身が本書の案内をおこなう。内容は以下のようなものである。

1 自 序 五輪書全体の序文にあたるもの
2 地之巻序 地之巻の前文
3 兵法の道とは (兵法の道と云事)
4 兵法の道を大工に喩える (兵法の道大工にたとへたる事)
5 士卒たる者 (兵法の道士卒たる者)
6 地水火風空五巻の概略 (此兵法の書五卷に仕立る事)
7 二刀一流という名 (此一流二刀と名付る事)
8 太刀の徳 (兵法二字の利を知る事)
9 武器を使い分ける (兵法に武具の利を知ると云事)
10 拍子ということ (兵法の拍子の事)
11 地之巻後書

1. 自序

【原文】

兵法の道、二天一流と号し、(1)
数年鍛練の事、始て書物に顕さんと思、(2)
時、寛永二十年十月上旬の比、
九州肥後の地岩戸山に上り、
天を拜し、觀音を礼し、佛前に向。(3)
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、
年つもりて六十。(4)
われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、
十三歳にして始て勝負をす。(5) 
其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者(6)
にうち勝、十六歳にして、
但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、(7)
二十一歳にして、都へのぼり、
天下の兵法者に逢、数度の勝負をけつすと
いへども、勝利を得ざると云事なし。(8)
其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、
六十餘度迄勝負をすといへども、
一度も其利をうしなはず。
其程、年十三より二十八九迄の事也。(9)
われ三十を越て、跡をおもひミるに、
兵法至極してかつにハあらず。
をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か、
又ハ、他流の兵法不足なる所にや。(10)
其後、猶も深き道理を得んと、
朝鍛夕錬して見れバ、をのづから
兵法の道に逢事、我五十歳の比也。
それより以來は、
尋入べき道なくして光陰を送る。(11)
兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、
万事におゐて、われに師匠なし。(12)
今此書を作るといへども、
佛法儒道の古語をもからず、
軍記軍法のふるき事をも用ひず。
此一流のミたて、實の心を顕す事、
天道と觀世音を鏡として、(13)
十月十日の夜、寅の一天に
筆をとつて、書始るもの也。(14)

【現代語訳】

 兵法の道を二天一流と名づけて、長年修行してきたことを、初めて書物に記述しようと思い、時に寛永二十年(1643)十月上旬の頃、九州肥後の地にある岩戸山〔いわとのやま〕に登って、天を拜し、観音を礼拝し、仏前に向った。

 生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年齢は積み重なってもう六十(になってしまった)。私は若年の昔より兵法の道を心がけ、十三歳にして初めて決闘勝負をするようになった。その相手、新当流有馬喜兵衛という兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国の秋山という強力な兵法者に打勝った。二十一歳にして都へ上り、天下(有数)の兵法者に出会い、何度も決闘勝負を行なったが、勝利を得ざるという事がなかった。

 その後、諸国各地へ行って、さまざまな流派の兵法者と遭遇し、六十数回まで勝負を行なったけれども、一度もその利〔勝利〕を失うことがなかった〔負けたことがなかった〕。それは十三歳より二十八九歳までのことであった。

 私は三十を越して我が過去を振り返ってみると、これは兵法が極まっていたので勝った、ということではなかった。自然と兵法の道の働き*があって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか。

 その後、なおも深き道理を得ようとして、朝に夕に鍛練してきたが、結局、兵法の道にやっと適うようになったのは、私が五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた。

 兵法の利〔勝利〕にまかせて諸々の芸能〔武芸〕の道としてきたので、万事において私には師匠というものがなかった。

 これから、この書物を書いていくのだが、仏法や儒道の古き言葉を借りたり、軍記軍法の古き事例を用いたりはしない。この流派の見立て(考え)や真実の心を明らかにすること、天道*と観世音を鏡として、十月十日の夜、寅の刻の一天*(午前四時前)に筆を執って書き始めたのである。

【註解】

 

 (1)兵法の道、二天一流と号し


 
五輪書第一巻、地之巻。地・水・火・風・空という五蘊に准えて名づけた五巻の最初の巻である。その冒頭に、武蔵は自身の来し方を振り返って、ごく簡単な兵法自伝を記す。
 
以下のこの自序部分を五巻全体の前に置く編集もあるが、「自序」として独立した巻は存在せず、地之巻冒頭に含まれている文であることから、ここでは、それに準じる配置とする。
 
ここで《兵法》とあるのを、「ひょうほう」と読んでいる者があるが、それは妥当ではない。近世初期の武蔵の時代、これはまだ「へいほう」と読んだ文字である。後出の条に、《なまへいほう大疵のもと》とある。生兵法大疵のもと、である。ここで《兵法》とあるのを、「ひょうほう」と読むのも、その「なまへいほう」の類である。
 
《兵法》というのは、ここでは、現代の語感にある軍事的戦略もしくは戦術ということではないのに注意。当時の《兵法》の意味は、戦闘術の意味である。
 
武蔵を剣術家、剣豪と見るのは、後世の偏向した見方である。この五輪書を通じて言えることだが、後世の意味での剣術・剣道という概念はまだ発生していない――そのことを確認されたい。
 
とくに「兵法者」という場合、仕官している一般の武士と違って、武芸者、戦闘術の専門家の意味である。しかし、これは武蔵のような戦闘術の「理論家」を指すものではなく、あくまでも武芸者、現役の戦闘者という意味が強い。
 
さて、《兵法の道、二天一流と号し》ということだが、その二天一流の「二天」とは何か、について、武蔵研究史を通覧するに正しい説明を見たことがない。それだけでも、武蔵研究の従来のレベルが知れるのである。
 
我々の所見では、「二天」とは太陽と月という二つの天体を指し、陰陽二元のことである。したがって「二天一」とは、「二」にして「一」、つまりこの陰陽二項対立の止揚として「一」、というほどの意味である。
 
それを、左右両手に剣をもつ二刀流の名にしているわけである。それゆえ、この名に深い意味のあることではなく、宇宙原理としての陰陽二元の太極という、当時の概念としては至極一般的なものである。ただ、神道流とか新陰流、念流あるいはタイ捨流等々といった当時の流派名と比較すれば、いささか「哲学的」な好みが出た名ではある。
 
本書五輪書には「二刀一流」という名も出てくるから、「二刀一流」ともいったらしい。武蔵はこの五輪書のなかでは両方の名を併用している。兵法のうち剣術に限って「二刀一流」の名をを用いたのではないかとも思われるが、武蔵にとって、とくに区別はなかったようである。
 
近世初期の朱子学者・林羅山の新免玄信像賛に、
《劍客新免玄信、一手毎に一刀を持ち、曰く二刀一流》
とある。これによれば、武蔵の流名は「二刀一流」であり、五輪書にある「二刀一流」の用例も、これで傍証を得る。つまり、五輪書にある「二刀一流」は「二天一流」の誤記ではない。武蔵自身が「二刀一流」と書いていたのである。
 
「二天一流」も「二刀一流」も、とくに後期武蔵の使用名称であるか、というとそれは確証がない。五輪書は、兵法を道を二天一流と称して、多年修行してきた、とある。流派名称にそれほどこだわった気配もない。
 
武蔵門流の中には、播磨や尾張に「円明流」、三河に「武蔵流」を称するものがあった。円明流の「円明」とは、読んで字の如く、日月の二天、円満具足である。筑前の武蔵道統では「二天流」という。これは、日月の二天からすると、円明流のシノニムである。またその「円明流」が、必ずしも武蔵固有の流派名称でなかったようで、それで、「二天一流」「二刀一流」をいうこともあったのだろう。これも、「二」にして「一」、陰陽二項対立の止揚として「一」、ということで、「二天」と「二刀」にさほどの意義相違があるわけではない。
 
周知の左右海鼠透鍔という伝武蔵作品があるが、これは形状から「海鼠透鍔」と呼んでいるが、本来のデザインは、「二天一流」「二刀一流」のシンボルイメージである。
 
しかし武蔵は、たとえば「円明流」を廃して「二天一流」に改名したのではない。武蔵が壮年期に「円明流」を称したという実証はない。むしろ、後年その門流の一部に「円明流」を称するものが出たという、逆のプロセスも考えられる。「二天一流」名を最も用いる肥後でも、豊田景英の書いたものをみると、一般には「武蔵流」と称していた(豊田氏先祖附)。
 
したがって、「二天一流」をもって武蔵の剣法として排他的に考えるのは誤っている。あるいは、「二天一流」が武蔵の完成的剣法で、それ以前の円明流等々は、未完成のものだ、という認識も、明らかな誤認と云うべきである。恣意的な解釈である。
 
それゆえ、そういう誤認が興行されている今日では、武蔵の遺産は現実には存在せず、存在するのは名のみの似て非なるものであり、それゆえある意味では、事実上の遺産は、こういう五輪書というテクストの内部にしか存在しないのかもしれない。

 

(2)始て書物に顕さん

 
兵法の道を二天一流と名づけて、多年鍛練修行してきたのだが、その兵法の道のことを、ここではじめて、書物に書きあらわそうと思う、と武蔵は記す。ここで注意すべきは、これが、書物としての最初の兵法論だということである。同じようなことは、後にも再三述べている。
 
ようするに、武蔵はこのときになって、はじめて兵法論を書いた。そして、本書を書上げない前に死亡したのだから、本書は遺稿でもある。つまり、この最初の著作は同時に最後の著作なのである。五輪書は、武蔵の最初にして最後の兵法書である。
 
この記述は、ひとつの急所であるから、よく頭に入れておいていただきたい。武蔵には本書、五輪書以前には、書物としての兵法書著述はなかったのである。
 
しかし、この《始て書物に顕さん》という字句が、まともに読まれた例がない。たとえば、三十九(三十五)箇条兵法書、我々の云う「肥後兵法書」を武蔵著作だと信じて疑わない蒙説が、今なお支配的である。ましてや、兵道鏡→兵法三十五箇条→五輪書という進化論的図式を掲げて、講釈する僻説が、昔から後を絶たぬ。これに至っては、歴史研究のイロハさえ心得ぬ者らのタワ言である。
 
それよりも、このように五輪書に明記してあることを読めないとは、文盲と言うべし。しかしながら、近年に至っては、五輪書にこの《始て書物に顕さん》という字句のあることさえ知らずに、五輪書論を書くという徒輩まである。あるいは、上記の進化論的図式に固執するために、この語句を故意に無視する者らもある。まさに倒錯と言うべし。
 
そのような今日の状況だからこそ、多年鍛練修行してきた兵法の道のことを、ここではじめて、書物に書きあらわそうと思う、と武蔵が記すこの箇処を、改めて確認しておくことを諸君にすすめる。
 
もとより、武蔵がこの年になるまで、兵法論を一切語らなかったのではない。兵法講義において、口頭での教説があった。著作なき思想家は、「如是我聞」「子曰く」の東洋的伝統の中に多い。おそらく武蔵も、この五輪書を書かねば、「師曰く」という聞書だけが残ったかもしれない。
 
また、この五巻の兵書(五輪書)に記述されているようなことは、武蔵在世中に世間に知られてもいた。それは本巻後書に、《多分一分の兵法として、世に傳る所》とある通りである。
 
もとより、武蔵については、その二刀一流のほかにも、その「多分一分の兵法」「大分一分の兵法」という兵法論でさえ、上に言及した林羅山賛の背景にあって言及されているから、武蔵がどういう兵法理論をもつものか、世間周知のことであったようだ。
 
しからば、なぜ武蔵は、ここで、はじめて、書物に書きあらわそうと思ったのか。
 
そのことは、ある意味では、本書を最後まで通読してはじめてわかることだから、ここでは、あえて答えを隠しておくことにする。読者に、武蔵の記述と、じかに向き合っていただきたいからである。

 

 

 (3)寛永二十年十月上旬の比


 
以上がこの一段の枕、前置きに相当する部分である。
 
寛永二十年(1943)十月は、武蔵の死の一年半前である。十月上旬という日付は、この節の末尾に、十月十日とあるのに対応する。序文であるから、日付を書いているのである。
 
九州肥後の岩戸山というのは、岩殿山ともいう。岩戸山とは全国どこにでもある名だが、たいていは洞窟があって、「岩戸」の名はそれに由来する。ここに「岩戸観音」と呼ばれる観音霊場があって、いわば仏教的な聖地である。現在は雲巌禅寺という(現・熊本市松尾町)。
 
岩戸山の名の通り、ここにも霊巌洞という窟があって、そこで武蔵はこの五輪書を書いたという伝説がある。これは明治末の武蔵伝記(宮本武蔵遺跡顕彰会編『宮本武蔵』明治四十二年)が拾った地元伝説である。この書が依拠した『二天記』にはそれに該当する記事がない。しかるに、『武公伝』には、
《寛永二十年[癸未]十月十日、劔術五輪書、肥後巌門ニ於テ始テ編之。序ハ龍田山泰勝寺春山和尚[泰勝寺第二世也]ニ雌黄ヲ乞フ》
とあって、「肥後巌門」とするから、これは岩戸山の霊巌洞のことである。すると、武蔵死後百年も経たないうちに、武蔵が霊巌洞で五輪書を書いた/書き始めた、という伝説ができあがっていたのである。
 
しかし、『武公伝』にしても後世の伝説を拾ったものである。上記にある、龍田山泰勝寺春山和尚というのも誤りであり、この記事じたいが誤伝なのである。
 
ともあれ、武蔵は、本書を書き始める前に、岩戸山に登った。天を拜し観音を礼しとあるところから、「天」と「観音」という二つの宗教的対象が武蔵にあることが知れる。
 
この場合、天は儒教的存在であり、観音は仏教的存在であるとは一応言えるが、もう少しよく考えて見る必要があろう。武蔵における宗教という主題は、ここでは触れないが、我々のいう宮本武蔵における「至高悪」の問題を考えるとき無視できないポイントである。
 
ところで、岩戸山に登り…とあるが、後にも述べるように、岩戸山で本書を書き始めたとは書いていない。十月上旬のある日、岩戸山に登った、天を拜し観音を礼拝し仏前に向った、ということだけである。したがってこの文章では、霊巌洞を五輪書執筆の場所とする材料はない。
 
我々の所見では、この日岩戸山に登ったのは、武蔵が生涯はじめて兵法書を執筆するにあたって、その著述成就を祈願するためである。したがって、霊巌洞に籠って執筆したという話ではない。  

 
 
(4)生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十


 
原文は改行無しであるが、我々はここで改行を入れてみた。筑前系五輪書では、これを「向ひ」とせずに、「向」としているのがヒントであった。
 
他の五輪書刊本をみると、「歳つもりて六十」の後に改行を入れる例がほとんどである。しかし、この一文は履歴の開始文であるから、後文と一つである。また、《天を拜し觀音を禮し佛前に向》までが前文に相当する。ここで、文章の呼吸が変っている。ゆえに改行を入れるとすれば、ここしかない。
 
こうした改行措置は従来なかったことである。こういう読みは、我々のテクストの内容分析よってはじめて可能になったのである。
 
この一節――《生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十》――は、このサイトでは繰り返し引用される文である。それというのも、このわずかな行文に、武蔵という人物に関する情報が濃縮されているからである。

 
まず、「生國播磨」。――武蔵の産地を播磨とする決定的な根拠はこの部分にある。これほどダイレクトに書かれていながら、これまで多くの研究者や小説家が、これを否認し、あえて美作出生説を採って来たという経緯がある。美作説にとっては、おそらく、これほど呪わしい一文は存在しないであろう。だが、それこそ、まさに倒錯的な事態なのであった。
 
なお、ここで注意をひとつしておけば、五輪書写本に「播磨」の文字が「幡摩」や「幡磨」と記すケースがある。それを見て、五輪書校訂者がこれは誤字だと勘違いして、あるいは「播磨」と訂正に及ぶことがある。しかしそれは余計なことなのである。
 
近世では、『黒田家譜』にも「幡磨」と記す。これは播州出身の黒田官兵衛を祖とする黒田家のことからすると、著者貝原益軒の誤字であるとみえる。『黒田家譜』に「幡磨」と記すから、筑前では「播磨」ではなく「幡磨」と記す例が多々ある。
 
「播」は「幡」と音が同じで、古来「幡」字を用いる例は少なくない。また播磨の「磨」も同じように「摩」字を用いることも例が多い。「はりま」は「播磨」と記すに決まったことではない。古代では「針間」とさえ書いた。播磨国名はそもそも最初から宛字なのである。五輪書写本が「幡摩」や「幡磨」と記すなら、それはそれよいでのである。ただし、地元播磨では、やはり一般に「播磨」と書いていたことは知っておくべきである。

 
次に、「新免武蔵守藤原玄信」。――これが武蔵の「兵法者」としての正式な名のりである。五輪書は兵法書なので、こういうフォーマルな名のりを記す。これに対し、「宮本武蔵」は通称、俗称というべき名である。
 
この名のりに関して、少し解説しておけば、まず「新免」という氏名〔うじな〕がある。これは「しんめん」と読む。『本朝武芸小伝』など、これを知らずに「にいみ」とルビを振る例があるが、それは誤りである。
 
新免氏は、戦国後期、美作国吉野郡の竹山城に拠った武家である。支配領域三千石ないし五千石ていどの国人であり、播磨、備前、因幡三国に囲まれて、それら諸勢力に翻弄された小領主であった。その家系の元祖を、徳大寺実孝とする。ゆえに新免氏は藤原姓である。
 
むろん、これは貴種流離譚の一種であって、徳大寺実孝が実際に美作国へ流されたという事実はないし、まして同地に子を遺したわけでもない。ただし、そういう史実関係とは別に、新免氏は、その元祖を藤原北家・徳大寺実孝とする伝承を有し、藤原姓を名のってきたという「事実」はある。武蔵の「新免武蔵守藤原玄信」という名のりに、姓を「藤原」と記すのは、それゆえである。
 
武蔵が新免氏を名のるのは、兵法者新免無二の家を嗣いだからである。無二が新免氏を名のる以上、おそらく美作国吉野郡の新免氏に連なる同族であろう。ところが、具体的にそれがどういう関係にあるのか、不明である。
 
ただ、竹山城主・新免宗貫は、播磨国宍粟郡の長水山城主・宇野氏から養子に入った人で、新免氏は宇野氏の勢力下にあったらしい。また当時、戦国状況下、難を避けて、美作から隣接する播磨西部へ流れてきた家々が多くあった。そういう流出入があったことからすれば、新免無二の家も、そうした「播磨へ流れてきた家」の一つであったかもしれない。
 
これに対し、武蔵実家は、小倉碑文が記すように赤松末葉、ようするに播磨に多数ある赤松系の家の一つである。赤松末葉なら村上源氏である。ただし、それが具体的にどの家であったか、氏が何であったか不明である。他方、宮本武蔵の「宮本」というのは、武蔵の代から名のり出した氏名で、当時多くのケースのように、自身の出身地を通称にしたにすぎない。
 
そして、「新免武蔵守」。これは、武蔵の代に名のり出したというよりも、兵法家としての新免無二の家名であろう。新免無二の死後、武蔵がその兵法家を再興したとき、その家名「新免武蔵守」を受け継いだものとみえる。
 
ところで、武蔵が「武蔵守」を名のることが理解できないらしく、武蔵は不遜にも国主の号を僭称したとんでもない奴だ、という論難がその昔あったし、近年でもそれを鸚鵡のごとく反復する者がいる。あるいは、その反対に、武蔵を擁護するために、武蔵は「武蔵守」を名のったのではない、武蔵がそんな不逞をするわけがない、武蔵の門人あるいはその流末が、先師を尊敬して「武蔵守」にしてしまったのだ、という珍説もある。笑止と言うべし。これらは当時の事情を知らぬ、無知をさらしているにすぎない。
 
ようするに、武蔵の当時、武家には「○○守」を名のる者は無数にあった。おそらく「武蔵守」を名のる者も全国では多数あっただろう。たとえば、新免氏のケースでは、支配領域三~五千石にすぎない竹山城主が新免伊賀守、しかも、その同族家老でおそらく知行数百石ていどの者までも、新免備後守、新免備前守を称していた。
 
むろん、これは朝廷のお墨付きのある職名ではない。社会的慣習としての私称である。また武家に限らず、神職や刀工など職人にも「○○守」を名のる者が多かったのである。こうしたことは、本サイトではじめて注意を喚起するまでは、だれもかれも上記のような阿呆なことを書いていたものである。
 
兵法者も一種の職人である。新免無二の場合、その「無二」というのは「無双」と同義の号であるが、兵法家としての家名は「新免武蔵守」を名のったようである。そうして、武蔵は新免無二の家名を嗣いで、そのブランド名「新免武蔵守」を名のった。それ以上でも、それ以下でもない。
 
以上の諸点については、本サイトの諸論攷に詳しいので、それを参照のこと。
 
最後に、「玄信」とあるのは、これは諱(いみな)である。諱のばあいは「げんしん」と音読みにはしない。ただし、この諱の読みは不明である。
 
『武公伝』の田村秀之写本には、「ハルノブ」とルビをふるが、これは武蔵道統伝書には異例のことで、しかもその根拠は明らかではない。『武公伝』は、吉岡兼法の「兼法」を諱と誤解して、「カネノリ」とルビをふる。これは「憲法」「兼房」とも記されて、もともと号だから「ケンボウ」である。あるいはまた、『武公伝』は足利将軍・義昭に「ヨシテル」などという読みをする。「ヨシテル」なら義昭より前に十三代将軍・義輝という人がいるから、これは明らかに誤認である。そんな具合で、『武公伝』のルビは、誤謬も含めた恣意的なものである。よって、『武公伝』写本に「ハルノブ」とあるからといって、それを根拠とするわけにはいかない。
 
他方、「玄」字は「もと」と読む例があるので、諱「玄信」は「もとのぶ」だった可能性もある。いづれにしても、まだ有力な傍証を得ないので、後人が勝手に決めるわけにいかない。したがって、「玄信」という諱の読みは未確定、としておくべきである。
 
『本朝武芸小伝』に武蔵の諱を「政名」とし、《自ら日下開山神明宮本武藏政名流と号す》と書いているが、これも典拠不明である。「日下開山神明宮本武藏政名流」なんぞと仰々しく号した後世の一派が、そのように言い出したのかもしれない。
 
以上のように、兵法者としての武蔵のフォーマルな名のりは「新免武蔵守藤原玄信」である。つまり、氏は「新免」、職名は「武蔵守」、姓は「藤原」、諱は「玄信」である。
 
これが、兵法者としての武蔵の名のりであるから、武蔵諸流伝書に「宮本武蔵守」などと記すのは、後世発生の流派であることの印である。「宮本武蔵」が世間で有名になった後、本来の「新免」という氏名が忘却された結果、そうした流派伝書が発生した。
 
宮本伊織(泊神社棟札)によれば、武蔵は、神免(新免)の遺家を継承したが、自身の代になって「宮本」氏を名のるようになった。おそらく、武蔵は、姫路で三木之助を養子にして一家を創設したとき、これを宮本氏としたのである。こちらは、兵法家ではなく、世俗的な家名として区別したということである。

 さて、《生國播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信、年つもりて六十》という一文が示すのは、武蔵が播磨産だということである。そして、次にもうひとつ重要なことは、これによって武蔵の生年が確定することである。すなわち、寛永二十年に六十歳だということから逆算して、生年は天正十二年(1584)と特定できるわけである。
 
ただし小倉宮本家系譜では、武蔵の生年を天正十年とする。二年早いわけだ。これが何に拠ったかは不明だが、現存文書が、幕末に近い弘化三年(1846)と遅い史料であることからすれば、これをオリジナル資料と見なすわけにはいかない。小倉宮本家文書はその系図に見られる如く、干支を何箇所も間違っていたりして、かなり粗忽な者が作製した文書である。おそらく書記者に誤認があったのである。
 
本サイトの他論考に明らかにされているように、宮本家伝書は制作が新しいだけではなく、他の内容も誤伝が少なくない。もとより、武蔵死後二百年たって書かれた文書と、武蔵自身の五輪書の記事を同列におく阿呆はいない。したがって我々は、この後世作成の記事を誤記として却下し、武蔵生年を天正十二年と特定するわけである。
 
なお、この「六十」という数字に関して、これは修辞的概数であって正確にジャスト六十歳ということではない、だから天正十年生れという宮本家伝書を斥けえないという珍説もある。けれども、年齢において六十という数字は、特別な意味を有する。四十、五十などという数字は比較にならない。すなわち六十は、暦年循環サイクル(12×5=60年)の年であるからだ。
 
これがもし、六十二歳であれば、この自序に通有のその書き方がある。すなわち――「六十二」、もしくは「六十有二」である。この自序では、以下に、十三歳、十六歳、二十一歳という数字を記すように、概数ではなく正確な年齢を記している。これに対し、《六十餘度迄勝負をすといへども》《年十三より二十八九迄の事也》とあるように、概数は「六十餘度」「二十八九」と記す。この用例からすれば、武蔵は六十歳だから、そのまま「年つもりて六十」と書いたにすぎない。修辞的概数ではないのである。要するに、
 
   《新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十》
 
   《六十餘度迄勝負をすといへども》
 
この二ヶ所を対照させるだけでも、「六十」と「六十餘」の書き分けは明らかである。その点で「年つもりて六十」には何の問題もない。ところが、一部に、この「六十」を「六十二」だと強弁する説がある。それは、さまざま難点の多い宮本家文書を信じて疑わない蒙昧な説である。後世文書については、その史料批判をきちんとした上で物を言うべきである。
 
かつては、武蔵美作出生説が、「生国播磨」という記事に対し同様の強弁をしていた時代があったが、近年ではさすがにそんな蒙昧は後退した。ところが最近では、「年つもりて六十」に対し、珍妙な強弁妄説を語る者が出てきたのである。かくして戦前も戦後も、五輪書の記事は、文字通りに読んでもらえないのである。
 
ふつう、人は生れを干支で覚えるから、自分の年齢を間違えるわけがない。年改まって正月が来れば、今年で何歳になったと確認するものである。武蔵はこの年六十歳になって、初冬に至り還暦を間近に控えたのを機縁に、本書執筆を開始するつもりで、岩戸山に登って祈願したのであろう。
 
かくして、この一節は、武蔵事蹟研究において、比類なき重要性を有している。すなわち、これによって我々は、武蔵の生国と生年を特定しうるのである。まさにこの五輪書に拠るかぎり、
 
 《武蔵は天正十二年(1584)、播磨国のどこかで生まれた》
のである。武蔵伝記研究において、これ以上のものはありえないプライマリーな史料である。これを否定する史料は、これまで出たことはなかったし、今後も出ることはないであろう。
 

 (5)十三歳にしてはじめて勝負をす

 武蔵自身が記すところのこの最初の決闘は、数えで十三歳、満で十二歳である。現在で言えば、中学一年生か。決闘するには、早過ぎると見る向きもあるが、必ずしもそうではあるまい。

 武蔵自身は、当時としては極めて巨大な体躯の持主であったと見なしうる。当時の日本人の成人男子の平均身長は一六〇cmに満たない、――そういうものだったらしい。武蔵は十三歳の頃にはすでに並の大人よりも大きな肉体をもっていたかもしれないという推測は成り立つ。十二歳の少年が並の大人よりも図体が大きいという例は、今日でもよくあることである。

 また、戦国末期とはいえ関ヶ原以前の当時の暴力的状況を勘案すれば、荒ぶる兵法者として、この少年が、いわば特異点(singular point)として出現したとしても不思議はない。

 周知のごとく、武蔵十三歳の折の肖像画というものが、いくつか残されている。そのうちの覚書のある「元祖宮本辨之助肖像」を見るに、池田甲斐守(旗本・池田長休か)組下の西番組頭・倉橋與四郎(小石川柳町馬場住)が所持して、一向他見を免さなかったのを、池田甲斐守がむりやり借り出して写させたものらしい。同じこの像は、《湯島天神下、神道平田大学所持》とあって、平田篤胤も別に所持していたようである。江戸ではそのようにして、この「十三歳」武蔵肖像画が再三写されていたのである。

 この宮本辨之助肖像を見るに、後世少年武蔵を想像して描いたというよりも、もともと武蔵をこんな毛深い豪傑に描いた絵があって、それを少年武蔵像と錯覚して写したものであろう。じっさい、上記肖像の覚書には後人が朱書して、これは十三歳の折の肖像だというが、本当は三十八歳の時の肖像だろうと記す。何をもって三十八歳なのか不明だが。

 あるいは、同種の「宮本武蔵肖像」(宮内庁書陵部蔵)の賛には、十三歳の折の肖像だという話はなく、尾張徳川家の家老成瀬が、武蔵を呼んで仕合をさせた折、武蔵の肖像を自ら描いたのがこれだ、というわけである。成瀬隼人正がこんな画を描くわけはないし、これは画像に勿体をつけた後世の付賛である。だがとにかく、このケースでは、これは「少年武蔵」の肖像ではないのである。

 しかし、この画は人気があったと見えて、あちこちで写されたらしい。とくにこれが十三歳の武蔵の姿だということで、人気が出たものらしい。五輪書は知らずとも、武蔵が初めて決闘したのは、十三歳のときだという話が巷間流布していたからである。上記二点より後のものだが、椿椿山〔つばきちんざん〕画という一点(島田美術館蔵)もその一種であろう。

 この一連の肖像画に共通する過度な異相ぶりには、現在伝わる武蔵の肖像の中でもとくに興味深いものがある。言うならば、武蔵は強い、少年の頃からこんな毛むくじゃらの物凄い怪物じみたやつだったというところか、十九世紀の武蔵イメージを伝える作画である。

 さらにまた、十三歳という年齢にこだわってみれば、これは、童形から結髪への、いわば大人の仲間入りの、イニシエーションの年齢である。したがって、武蔵の最初の決闘が、文化人類学的に言えば一種のイニシエーション儀礼としての意味を有することを考慮しなければならないのである。

 いうならば、この決闘は成人社会への参入の関門として行なわれる戦士的殺人(warrior murder)であった可能性がある。とすれば、きわめてアルカイックな民俗的意義をこの決闘はもつと云えよう。

 したがって、現代の常識とは異なり、この武蔵の「初戦」は、当時の何らかの武家慣行を背景にしていると想定しうるのである。

 

 (6)新當流有馬喜兵衛と云兵法者

 有馬喜兵衛という人物は不明である。武蔵が五輪書にその名を記したので、後世にその名が残った人である。右の「武稽百人一首」にも登場する。

 現在、この有馬「喜兵衛」を「きへえ」と読むのが一般的だが、「武稽百人一首」にも振り仮名するように、これは「きひょうえ」と読むのが正しい。これが慶長期のことならば、なおさら「きへえ」ではなく、「きひょうえ」である。

 周知の人名では「黒田官兵衛」がある。これは播州から出た筑前黒田家の実質的な元祖、黒田官兵衛(如水)である。官兵衛は、小寺職隆の猶子となって、「小寺」官兵衛を名のっていた。当時の漢字の読みや音韻は、切利支丹文献で傍証できる。官兵衛はキリシタン大名としても有名で、フロイス『日本史』(Luis Frois, Historia de Iapam )のような切支丹文献にその名が登場する。これによれば、官兵衛は「コデラ・カンビョウエ」(Codera Quambioye)と名を記されている。つまり「官兵衛」は当時「かんびょうえ」と読んでいたのである。

 これと同様、有馬「喜兵衛」も「きひょうえ」である。武蔵もそういう読みで、この「喜兵衛」という文字を書いたはずである。したがって、ここで世間啓蒙のために、「きへえ」では正しくない、と強調しておく必要がある。

 五輪書の武蔵によれば、有馬喜兵衛は新当流の兵法者だという。ただし、五輪書では、有馬喜兵衛について、それしか判らない。

 新当流は当時有数の流派の一つである。この新当流に有馬の名のあることからして、徳川家康に有馬神道流剣術を印可した紀州の有馬満盛の一族だ、という説もあるらしいが、むろん何の確証もない。肥後系武蔵伝記『二天記』に、
《神道流ヲ新當流ト書ク。有間大和守學之、有間流ト云フ[一本作有馬]。有間豐前守トモ云フ。聞エアル人ナリ。有間喜兵衛ハ其家族ナルヨシ。常陸國飯篠長威齋ト云者、鹿島ノ香取神ヨリ其技術ヲ受。天眞正傳ト書ス。是神道流ナリ》
とあるが、かなりの部分が間違った記事である。これに「有間喜兵衛は其家族なるよし」とあるのは、「武稽百人一首」にもある通り、巷間伝説の閾を出ない。『二天記』の十八世紀後期には、伝説風説以外に語る材料がないのも確かである。多くの武蔵評伝が『二天記』のこの記事を引用しているが、それはそろそろやめた方がよろしい。

 なおまた、現在、この初めての決闘の地を、播州佐用郡平福村(現・兵庫県佐用町平福)の河原に比定する風が支配的である。しかし、それは、大正期の地元の郡誌が拾った、近代の伝説であるにすぎない。これが播州のどこかで行われたとまでは言えたとしても、平福と場所を特定する材料はない。

 江戸期の資料なら、享保十二年(1727)の『丹治峰均筆記』に、
《十三歳ノ時、新當流ノ兵法者有馬喜兵衛ト云者、播州ニ来リ、濱辺ニヤラヒヲユヒ、金ミガキノ高札ヲ立テ、試闘望次第可致旨書記ス》
として、見てきたような講談話になるのだが、ここでは矢来を組んだ決闘場を河原ではなく「浜辺」としている。場所は海浜である。ただし、
《いつあふべきも定がたく、なを浜辺々々をさがし》(武家義理物語)
のように、上方大坂語で浜辺を河岸・川端とするケースもあるが、九州の『丹治峰均筆記』に上方語を擬する理由はないから、この「浜辺」はやはり海の浜辺であろう。とすれば、この記事は播州のどこか海岸部をイメージしているもののようである。

 この伝承からすれば、同じ播州でも佐用郡平福のような山間部ではなく、さしづめ、播磨灘に面した揖東郡興浜村あたり(現・姫路市網干区)ということになろう。とすれば、場所は宮本村の近所である。

 ただし、『丹治峰均筆記』の伝説記事に立ち入るのも、程ほどにしておいた方がよい。この記事には、もとより信憑性はないので、これも不確定としておくべきであろう。

 

 
 
(7)但馬國秋山と云強力の兵法者


 
有馬喜兵衛という人物相手の最初の決闘に続いて、武蔵十六歳のときの決闘である。ただし、これが武蔵第二回目の勝負だったか、となると、それは確言できない。武蔵はそうは書いていないからである。
 
但馬国というのは、現在の兵庫県北部の日本海に面した地域である。南部の播磨は山陽側、但馬は山陰側で、そもそも言語も民俗も異なる。いわば生国播磨の少年にとって異国であった。つまり武蔵は、十六歳で異国修行を開始していたのである。
 
――というのが、今日の武蔵伝記のスタンダードな物語であるが、実は五輪書には武蔵が但馬へ行ったとは書いていない。「但馬國秋山」とするだけである。
 
「但馬國秋山」とは、但馬国の住人、秋山という意味である。但馬で決闘が行われたということではない。しかし、小倉の武蔵碑では、武蔵は但馬へ行ったことになっている。となると、これは宮本伊織が武蔵から聞いた話だろう。しかし、どうして但馬国なのか。武蔵は、だれか但馬に縁故があったのか。
 
ここから以下は、従来の武蔵研究では出たためしのない話になる。
 
実は、武蔵は当時の但馬に縁故があった。これは、武蔵の出身地を考えれば、容易に想像がつく。というのも、武蔵十六歳の当時、但馬竹田城主は赤松広秀(左兵衛佐広通)であり、この赤松広秀こそ、龍野赤松氏最後の城主であった。武蔵の生地・播磨国揖東郡宮本村は、龍野赤松氏の領域であり、武蔵の実父が生前、赤松広秀に属した武士だった可能性がある。
 
但馬の赤松広秀の家臣団には、龍野以来の譜代の武士たちがあり、それゆえ、武蔵縁故の人々がいたことであろう。播州生れの武蔵が、但馬に結びつくのは、まさにこのような環境条件である。
 
勿論、少年武蔵を但馬へ向わしめる、そうした人的ネットワークに気づいた研究者はいない。謬説に惑わされ美作のことに気を奪われて、あまりにも播磨の武蔵について無知な話ばかりだったのである。
 
少年武蔵は、但馬の竹田城下に居留して、そこで兵法修行する一方で、文芸を学んだと思われる。云うならば、武蔵の知と芸術の涵養の場所は、まず、この但馬竹田城下である。
 
というのも、赤松広英は、龍野以来、藤原惺窩の旧い知友であり、当時は朝鮮朱子学者・姜沆を支援し、日本における最新の儒学興隆に尽力していた。広秀は、但馬竹田に孔子廟を建立し、日本では長く絶えていた釋奠〔せきてん〕の儀式を復活し、祭儀を執行した。そういう新しい知的なエネルギーに満ちた環境が、当時の但馬にはあった。
 
但馬は、当時細川氏の領国だった丹後に接する。そして但馬は、丹波を経て、京都へ直結した地域である。いま、和田山あたりのスーパーマーケットの駐車場には、姫路ナンバーと京都ナンバーの車が並んでいる。しかも、ほとんどその二種ばかりである。これは神戸あたりでは見かけない光景である。
 
この自序の次の記事には、武蔵が上京したことを書いている。なるほど、武蔵にとって、但馬は、播磨と京都を結ぶ中継点であったのである。播磨から但馬へ、但馬から京都へ。そのプロセスこそ、武蔵を育てるものがあった。
 
したがって、武蔵が但馬へ行ったとしても、それは単に旅の途中、偶然に立ち寄ったということではない。武蔵はしばらく但馬竹田城下に居留して、最先端の知と芸術の薫陶を受け、そうして、京都へ伸びる人脈を得たものと思われる。
 
その意味で、武蔵にとって、但馬という土地の意義は大きい。五輪書に、「但馬國秋山」のことを書いて、それを記念したのである。十六歳の武蔵は秋山という強敵と戦って勝った。伊織の小倉碑文は《芳聲、街に満つ》と記している。その街〔ちまた〕とは、但馬の竹田城下のことであろう。
 
ともあれ、この但馬国の秋山は不明な人物である。五輪書に武蔵が記した六十回以上という決闘のうち、具体的な相手の名が書き込まれているのは、この秋山と前記の有馬、この二人だけである。いづれも武蔵が少年時の決闘相手であり、その名を記す以上、武蔵にとって意義深い決闘だったのであろう。
 
しかるに、武蔵伝記の中で必ず特筆される、有名な小次郎や吉岡一門の名は出て来ない。これはどういうわけだろうと、だれしも思うのではないか。しかし、こういう後世の期待を裏切るあたりが、武蔵という人物の面白いところなのである。
 
ほんとうは、晩年の武蔵にとって重要なのは、そうした後世有名になった決闘よりも、有馬や秋山という相手と戦った思い出である。秋山の名は、彼が強敵だったから、武蔵は書き残したのだろうが、もう一つ、但馬という土地の懐かしい記憶に結びついているからである。

 (8)二十一歳にして都へのぼり

 武蔵は二十一歳のとき都(京都)へ上り、天下の兵法者に出会い、何度も決闘を行なったが、勝利を得ざるという事がなかったという。

 この「天下の兵法者」というのが、吉岡であろうと見当はつくが、武蔵はどこまでも韜晦を決め込んでいるものらしい。ところが武蔵死後、養子伊織が建てた小倉碑文では、かなり詳細な話になって出ている。武蔵対吉岡の対戦記事としては最古のものだから、一応見ておく必要があろう。原文は漢文だが、以下それを読めば、
《後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ》

 話はこうだ。京都へ行って、「扶桑第一之兵術」、つまり日本一の吉岡と称する吉岡一門の嫡嗣清十郎に勝負を申入れ、洛外の蓮台野で試合をした。清十郎は武蔵の木刀の一撃で倒れた。かねて、勝負は一撃だけでそれ以上は打たない、と取り決めてあったので、清十郎の命を取るまではしなかった。門弟らは彼を戸板に乗せて去った。清十郎は治療して回復したが、もう兵術を捨て剃髪して出家した――。

 こういう話が小倉碑文の出来るまでに存在していたものらしい。ところがこの武蔵対吉岡の記事はまだ続きがある。
《而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す》
とあって、今度は吉岡伝七郎が相手。しかし、小倉碑文には、伝七郎が清十郎とどんな関係にあるのか、記事はない。伝七郎を清十郎の弟とするのは、後世の肥後系武蔵伝記にしかなく、これは肥後で発生したローカルな伝説である。

 決闘場所はこれも洛外である。場所は不明である。五尺余というから一・五m以上、長大な木刀を手にした伝七郎だが、武蔵は何とその木刀を伝七郎から奪って、彼を撲殺してしまった。「立處死」というから即死である。

 かくして武蔵は、天下の兵法者、吉岡を二人ながら倒した。ところが、小倉碑文の記事にはまだ続きがあって、例の洛外下り松の決闘の話がここに出てくる。
《吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法也》

 というわけで、吉岡清十郎、伝七郎と、二人まで倒された門生らは怨恨を抱き、「兵術の業では武蔵には勝てない。作戦を練ろう」と企んだ。吉岡又七郎は兵術にことよせて、下り松の辺りに門生数百人を結集し、さまざまな武器を使って武蔵を殺害しようとした。武蔵は日ごろ先を見越す才があったので、この不正な動きを察知して、自分の門弟に指示した。「お前たちは関係ない人間だ。すぐに退去しろ。たとえ敵が群れをなし隊をなすほど多勢でも、俺の眼から見れば、浮雲みたいなものだ。どうして恐れることがあろうか」という。結果は、猟犬が猛獣を追い廻すに似ていた。武蔵は勝ち、威を震って市内へ帰った。人はみなこれを感嘆した――という次第である。

 吉岡一門数百人、対するに武蔵は一人、この記事自体が英雄譚の典型みたいなものだが、すでに武蔵死後十回忌の承応三年(1654)という早い段階で、ここまでの説話が出来上がっていたのである。これ以後さまざま尾鰭がついて、後の武蔵伝説のハイライトとなる吉岡一門との対決潭が形成されるのである。

 小倉碑文は、武蔵に敗北して吉岡兵法家が「泯絶」したとも誌す。ところが『本朝武芸小伝』では、吉岡は又三郎という者が後を嗣いでその後も存続しているし、その又三郎が慶長十九年の禁中能楽興行のさい刃傷沙汰の騒ぎを起こし、警護の者らに殺されたという話がある。

 ということは、慶長九年に武蔵に敗れて、いったんは「泯絶」した吉岡兵法家も、この又三郎を当主にして復興されたようだが、この禁中狼藉事件で、吉岡兵法家はまたまた危殆に瀕したはず。ところが、その後も、吉岡流は存続したようである。

 貞享元年(1684)の福住道祐『吉岡伝』には、他の諸書とはまったく異なる「宮本武蔵」が登場して興味深いが、同書は染物屋吉岡の由来を語る創作物語で、如何せん、そこに登場する「宮本武蔵」は、富田勢源と宮本武蔵のハイブリッド混合体でしかない。

  (9)六十餘度迄勝負をすといへども


 
京都で天下の兵法者に勝って後、武蔵は諸国各地を遍歴し、さまざまな流派の兵法者と相遇し、六十回以上も決闘勝負を行なったのであるが、一度も負けなかった。それは十三歳より二十八、九歳までのことであった――ということである。
 
この無敗の記録は、今日の武蔵評伝の中で必ず特筆される事蹟である。この五輪書の記事を読めばわかるように、この六十回以上の仕合は、十三歳より二十八、九歳までのことだというのである。つまり、これは武蔵の十代から二十代までの間のことである。
 
ところが、しばしば見受けられるのは、これを死ぬまでの生涯で六十回以上の試合と勘違いした説である。晩年の試合まで、この「六十余度」に加えてしまうのである。
 
しかし明らかに、武蔵自身の記述では、これは十代から二十代までの間の十五、六年間のことである。その後の試合は数のうちに入っていないと見るべきである。だとすれば、この六十余度の勝負と、その後の試合とは、何が違うのか。答えはおそらく、生命と賭した決闘勝負と、そうではない試合との相違、ということである。
 
とすれば、武蔵は若い頃の十五、六年間に六十回以上も決闘したのである。これだと、年平均四回は――単なる試合ではなく――決闘勝負をやっていることになる。いくら強い遍歴修行者だとしても、これは尋常のことではない。若き武蔵は、ある意味で無茶な男だったのである。
 
ふつうは、一生一回きりの決闘でも、名を後世にのこすことがある。たとえば、武蔵同時代の者では、寛永十一年伊賀越鍵屋辻決闘で有名な荒木又右衛門がそれである。それに対し武蔵は六十回以上、そういう意味では、武蔵は本当に無茶で猛烈な武芸者だった。
 
ところで、この「六十回以上も決闘して負けたことがなかった」という記述について、自慢たらしく何を書いているのか、といった評言がなされてきた。しかし、これは勘違いというよりも無知なのである。
 
つまり、人は謙遜するのが当たり前で、こんな自慢話は鼻持ちならないとするのは、近代の日常的センスからする道徳的判断であって、そんなものは五輪書の記述とは無縁なのである。
 
この記述が、五輪書という書物の自序部分として書かれていることに注意しなければならない。ここでは礼法として、自身の名のり、自分が何者か、何をしてきたのか、それを説明しなければならないのである。
 
ようするに、フーテンの寅さんが「手前、生国と発しまするは…」と言って、仁義を切るのと同じ作法なのである。こういう民俗的儀礼空間の中に五輪書自序部分がある。
 
したがって、こうした武蔵の仁義の切り様を、自慢話と誤解するのは無知に等しいのである。とくに武蔵の場合、どこそこの家中の誰それ、という名のりをするような秩序内存在ではない。これは武蔵が生涯、制外者としての兵法者であり続けた痕跡とみるべきである。
 
話をもどせば、単なる試合ではない命がけの決闘勝負は、上記のように二十八、九歳まで。だから、その頃それも終りにしたらしい。この年齢からして、一般に最後の決闘とされるのは、『武公伝』『二天記』など肥後系伝記に慶長十七年(1612)のことする巌流島の一件である。もとより、これを慶長十七年とするのは肥後系伝記のみで、筑前の伝記『丹治峯均筆記』には武蔵十九歳のこととする。したがって、巌流島決闘の年は不明としなければならない。この件については、本サイトに別に論議されているので、それを参照されたし。
 
また、五輪書には、吉岡の名も記さないし、こちらの、後世歌舞伎や浄瑠璃にまでなった有名な巌流島決闘のことも、武蔵は何も書いていない。つまりは、舟島で巌流を打ち殺した決闘も、六十回以上も勝負して負けたことがなかったという彼の戦闘者としてのキャリアの一つにすぎないもののようである。
 
前に引いた小倉碑文には、この巖流との決闘の記事もすでにあり、数多い巌流島決闘譚の中でも、まさにこれが初出記事である。
《爰に兵術の達人有り、名は岩流。彼と雌雄を決すを求む。岩流云く、眞劔を以て雌雄を決すを請ふと。武蔵對へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ、吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前の際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。兩雄、同時に相會す。岩流、三尺の白刄を手にして來たり、命を顧みず術を尽くす。武藏、木刄の一撃を以て之を殺す。電光、猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ》
 
話はつまり、こうだ。――岩流という兵術の達人が居た。この記事では、勝負を挑んだのは武蔵である。岩流の方は受けて立ち、「真剣で勝負をしようじゃないか」という。これに対し武蔵は「あんたは真剣を振るって妙技を尽くせ。俺は木刀で秘術を見せよう」と答えた。堅く漆約を結びとあるから、このケースでは、決闘は契約を必要としたものらしい。両者は長門と豊前の間の海中にある舟島で勝負することになった。岩流は三尺の白刄だというから、これは長い太刀である。武蔵は木刀、しかし一撃で岩流を打ち殺した。
 
ふつうは木刀と真剣なら、剣の方が有利とみなされる。それは剣の方が殺傷力があるからではない。木刀は断面形状からして真剣より運動速度において劣るからだ。しかし武蔵は木刀を使う。これは武蔵の膂力が尋常ではなかったことの証左である。
 
むろん、実戦では、太刀は折れたり曲がったり、目釘が弛んで柄が外れたりで、実はさして実用に耐えるものではない。実戦的実用的な武蔵には、真剣に対する思い入れはない。
 
それに加えて別のことがある。すなわち、木刀を使うのは、ある意味で最もプリミティヴな武器使用である。というのも、それは切るというより、粉砕すること、必殺の頭部壊滅を狙ったものである。撲殺である。
 
この撲殺は殺人の原始形態であり、いわばこの道具、殺し方に、武蔵の戦闘思想の根本が垣間見えるのである。言い換えれば、武蔵には、心法論の通俗的哲学はないし、唯剣主義のある種の美学もない。もっと暴力の根源にまでアクセスした戦闘者であった。

 (10)われ三十を越て、跡をおもひミるに

 

 このあたり微妙なことを武蔵は書いている。

 決闘勝負を卒業した武蔵は、三十歳を越して、おのが過去を振り返ってみる。そして思い至る。自分の兵法、戦闘術が究極に達していたので勝ったのではなかった。自然と兵法の道の働きがあって、天の原理を離れなかったせいであろうか。あるいは、対戦相手の他流の兵法に欠陥があったからだろうか、と。

 誤解なきように注意しておくが、ここで武蔵が述べているのは、自分は無敗でやって来れたが、それは自分の力のせいではない、と謙虚に謙遜して言っているのではない、ということだ。
《をのづから道の器用ありて、天理をはなれざるゆへか、又は、他流の兵法不足なる所にや》

 案外見逃されているのは、この文が問いかけの疑問文であることだ。これを問いとして、それゆえ、以後の道の探究へと話が進むのである。

 ところが、もっとわけの判らぬ誤解は、《をのづから道の器用ありて》という箇処の語釈である。これについては、「生れつき才能があって」と訳す事例が戦前からあり、戦後もおおむねそれを踏襲した語釈が主流である。

 小林秀雄はこれについて少し違った見方をしている。少し長いが、かつてこれ以上の読みは出なかったという意味で、避けて通れぬ読解なので、右に掲げる。

 先ず最初に明らかにしておかねばならないのは、小林の語釈では、「器用とは、無論、器用不器用の器用」だということだが、これが間違いである。小林の理解は、「生れつき武芸の才能があって」という当時一般の語釈を超えるものではない。ただ、この文のように、「器用」という言葉に徹底して拘ってみせたところが、小林的なのである。

 「器用」が個人的な器用不器用の器用を指すことは当時すでにあったが、ここで武蔵のいう《道の器用》とは、その意味では無論ありえない。これは道の「はたらき」「作用」という意味での器用である。

 小林はこれを、個人的な器用さのことと誤釈して、「目的を遂行したものは、自分の心ではない。自分の腕の驚くべき器用である」と颯爽と語る。しかし武蔵の文をよく見るまでもなく、これは自分の腕の器用ではなく、「道の器用」なのである。

 小林は《をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か》を、粗忽にもよく読んでみなかったらしい。そこで、「器用」を現代語の器用不器用の器用と錯覚し、そのまま突っ走って右のようなユニークな読解を展開してしまったのである。

 「必要なのは、この器用といふ侮蔑された考への解放だ」――颯爽たる文章はズッこけたとき、悲惨である、という事例がこの文である。

 小林は「器用」を、高級な考えではないがと貶めておいて、それを一転、優れたものとして救抜する、という手続を示す。いわば小林には常套手段であるが、自分で勝手な種を蒔いて、それを育てて収穫するだけのことである。読者はそれが常識の転覆であるような錯覚に到って、満足を覚える――そこが小林流である。

 結局、右の小林の読解において残しうるのは――「兵法は、觀念のうちにはない。有效な行爲の中にある」という、ある意味で平凡な思考だけである。残念なことに、「行為」「遂行」という概念にまで手をかけながら、小林は手を滑らせて、その概念の豊饒さを見ていない。小林の限界である。

 と同時にそれは、従来の武蔵論の限界でもある。最高の武蔵論ですら、従来はこのありさま、それゆえにこそ、新しい地平に立脚した武蔵論の期待されるところである。

 改めて言えば、ここで武蔵のいう「器用」は、おのれの個人的器用ではなく、「道の器用」なのである。道の作用、道のはたらきである。言うまでもないが、こうした道のはたらきという思考は当時新しいものだった。

 これについて以下のことを確認しておきたい。すなわち、これは勝利を神仏の加護として合理化する中世的思考とは違った、極めて新しい近世的といえる実際的思考の出現である。修道論としての道の思想は、仏教的色彩に染め上げられて、以前からあった。しかし、武蔵のいう「道」は、明らかに朱子学を通過した以後の合理主義的な思考であり、しかも実際的である。

 三十歳を過ぎて、武蔵は諸国を遍歴することもなく、生国播磨を拠点とするようになった。そこで、姫路・龍野・明石のあたらしい領主、本多家と小笠原家に親近し、兵法指南のかたわら、三木之助、ついで伊織を養子にして、それぞれ、姫路と明石に宮本家を創設した。

 しかし、五輪書の記述によれば、武蔵はまだずっと、修行を重ねていた。それは最強の兵法者となった後の、事後の修行であり、いわば武蔵にしか分らぬ境位での修行であった。

 

 

 (11)兵法の道にあふ事、我五十歳の比也

 

 このあたりも武蔵が書いているのは微妙なことだ。

 自分はその後、なおも深き道理を得んとして、朝に夕に鍛練してきた。そうした結果、自分が兵法の道にやっと適うようになったのは、五十歳の頃であった。それより以来は、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた、と。

 これはいわば「事後の修行」である。武蔵は、二十代まで六十数回の決闘に敗け知らず、文字通り天下無双、最強の兵法者としての名声を獲得し、しかもすでに決闘勝負を卒業した。武蔵は兵法者としての目的を達成してしまったはずだ。

 行為はある目的のために、それを実現するために行う、というのがスタンダードな行為理解だとすれば、この事後の修行はありえないことである。では、なぜこうした事後の修行が必要なのか。実は、ここには行為と達成との間の根本的逆説がある。

 おそらくこの事後の修行は、禅家などで言う「証上の修」、つまり悟りを得た後にまだ修行をするという「修証一如」の考えに近い。仏道修行の目的は悟達である。しかし悟達してしまった後は何があるか、といえば、まだ修行があるのだった。これにはまた、悟りに執着するな、それに捉われるなという禅家一流の志向があるが、とすれば、悟りそれ自体は存在しないと「悟る」わけで、これは、トポロジカルなループを描くプロセスである。

 別の言い方をすれば、武蔵は往還二道を経由したということである。

 凡人は、「そこ」へ到達しようと、あくせく努力する。ところが、武蔵のようなその道の天才にして、往相は無自覚なもので、気がついたら、すでに天下無双たる「そこ」に居たという境位である。

 武蔵は、京都で吉岡一門を打倒し、その上、諸国を廻って相手を求めて勝ち続け、結局、自分が無敵になってしまった。しかし、なぜ、自分が勝ってしまったのか、それが分からないのである。武蔵はその天下無双たる自身に納得できない。天才ゆえの孤独である。

 しかし、武蔵は妥協しない。自分に納得がいくまで、その道理を求める。いわば「対自」な帰り道の往相があってはじめて、「これ」という何かを得る。その道の天才にして、道はリニアな単線ではなく、往還二道なのである。

 武蔵の場合、なおも深き道理を得んとする事後の修行が最終的に完了するのは、自分が兵法の道にやっと相応するようになった時である。武蔵はそれは、五十歳の頃であったという。言わば武蔵は、二十年もこの事後の修行に時間を費やしたのである。

 そこで興味深いのは、道の道理を得たあとは、もう探究すべき道はなくなって、歳月を送ってきた、というくだりであり、ここが《武蔵的》と言えば言えるところである。

 もう探究すべき道はなくなった、というのは、つまりは原理としての「道」に一体化した、同一化したという、神秘主義的なものではない。むしろ、自身の目的としてのそうした「究極」そのものを無化しえたとき、「もう探究すべき道はなくなった」と語りえるのである。

 この点武蔵は、極めて自由な地点まで行ったということである。武蔵は自由という言葉を使用している。しかしそれは少し我々の用法とは異なる。

 つまり我々の用いる「自由」という言葉は明治以来の近代的な概念だが、この言葉自体は仏教に由来し古くからあった。しかし武蔵がこの「自由」という言葉を使うとき、それは原理としての「道」に則ってはじめて得る自由なのである。

 武蔵がようやく道に適うようになったと思ったのは、五十歳の頃。明石小笠原家の豊前小倉移封にともなって、武蔵が播磨から九州へ行くのが、寛永九年(1632)、そのとき四十九歳。だから、武蔵は、三十代~四十代のほぼ二十年間、播磨時代を通じて、事後の修行に費やしていた。武蔵が壮年期、播磨を拠点とした時期が、その事後の修行の期間と重なるのである。

 

 (12)万事におゐてわれに師匠なし

 有名な一文である。五輪書の中でも五指に数えられるほど従来名高いテーゼで、解説本もこぞってこれに取り組む。

 しかしこれを、武蔵の「自信」とか、それと紙一重の「不遜」とか、そういう類の解釈をすべきではない。

 しばしば引用されて、手垢がついてしまっている言葉だが、「独行道」の、

   《佛神は尊し、佛神をたのまず》
がある。この「独行道」が武蔵の自誓だというのが、肥後系武蔵伝記『武公伝』『二天記』以来の伝説だが、これが武蔵の著述だという確証はない。しかし、他の条々は別にしても、この言葉はいかにも武蔵の言いそうなことである。

 仏や神は貴い=尊いが、自分は神仏を頼りにしないというのである。このポジションはいわば中世から近世への過渡期の思想である。少なくとも、神も仏もない残酷な現世を生きて死んだ、無数の人々の屍体から生じた思想であるにちがいない。

 では、神仏ではなく、何に依拠するのか。まさにそれが実践原理としての「道」である。

 原理を自在に駆使して運用しうる時、まさに人間は自由なのである。この原理をたとえば物理法則としたとき、西洋近代科学が誕生した。ある意味で、近世初期はそうした可能性を有した時代である。

 武蔵は実践原理=法則を研究するという事後の修行を通じて《reflexive process》のトポロジカルな道程を歩んだ。無意識にやってしまった行為を改めて考える。それはたぶん可能世界でありえたかもしれないサイエンス(科学)としての知であった。
《兵法の利に任て諸藝諸能の道となせば、万事におゐてわれに師匠なし》

 兵法の「利」にまかせて、諸々の芸能の道としてきたので、万事において私には師匠というものがない、と武蔵は言う。ここは、有名な一文であるのに、従来まったく誤読されてきた箇処である。

 それゆえ、まず、この「利」という語に拘泥してみる必要がある。この五輪書で武蔵はこの「利」という語を本書全篇にわたって多用する。しかもそれぞれの文脈にまかせて、その語義は一律ではない。多義的な語である。

 ここでの、兵法の「利」、とはいかなることか。五輪書の「利」は、なかなか現代日本語にはぴったりくる訳語がない。英語の《merit》のニュアンスに近い。利点、長所、価値、功徳等々の語義を含む。そしてまた、利益〔りやく〕(benefit)ということである。実利(utility)、効用(effect)の意味もある。

 そういうことを念頭に置いた上で、これが「兵法の利」だということに注意する必要がある。つまり、「利」のもう一つの意味は、勝利(win)ということである。すなわち、この自序の条において、前に、
《其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず》
とあったところである。つまり、《一度も其利をうしなはず》の「利」である。ここでの「利」とは、ほかならぬ、勝利のことである。それゆえ、兵法の利に任せて、というのは、文意を酌んで訳せば、兵法において勝利を得るにまかせて、という意味合いである。

 武蔵は自分が、兵法の勝ちにまかせて、諸々の芸能(武芸)の道としてきた、というわけである。これは、一人の天才が、おのづからの道を歩んで勝ち続けてしまったが、年三十を過ぎて、その道を逆にたどり直すことで、ようやく二十年後に、兵法の道に適い、自身の勝ちに納得できるようになった、ということの反面である。

 武蔵は勝ち続けたその勢いのまま、諸般の武芸を修得していった。いわば実戦のなかで学びとった。そのことを云っているのである。今になって思うと、師匠なんて一人もいなかった。ようするに、武蔵は自身が自身の師匠になるしかなかった。それゆえ、武蔵は無師独覚の人である。「万事において我に師匠なし」というのはそのことである。

 そのことに武蔵の孤独な影を見るのは、むろん近代の感傷家の心である。そうではなく、ここに天才という一種の聖痕(trauma)を負った者の屹立を見れば済むことなのだ。

 武蔵の場合、兵法の利がもたらすものとは、つまりは、道に逢うところの独覚である。明らかに、非人称の、大文字の他者として「道」が存在する。それゆえに、これに依拠する無師独覚である。

 このかぎりでは「仏法」「仏道」を大文字の他者とする禅家とそう大した懸隔はない。ただし、禅家は師資相承である。やはり先師なくして道は立たない。であれば、ここでの武蔵の「無師」のポジションは、少なくとも何らかの禅家批判をも含むのである。

 こうも言えよう。――およそ、師匠なき者には弟子なしである。武蔵は五輪書を書くことによって、まさに自身の通過した勝ちにまかせた兵法独学へと誘うのである。逆に言えば、この五輪書を書いて遺すことこそ、「我に師匠なし」という無師のポジションの勧めなのである。未知の五輪書読者との不可能な関係をまさに実現するわけである。

 なお、この《諸藝諸能の道となせば》の部分につき、問題はこの「諸藝諸能の道」の方である。というのも、この芸能を兵法にかぎらず、これを「芸道の道」として、武蔵の書画はじめ多芸のアーティストの側面を想定して解釈する者がある。つまり、兵法の「道理」を極めておれば、あとはどんな道にでも応用が利く、書画でも能楽でも応用できる、だからどんな芸能でも自分にはいない師匠はいない、というような極めてヌルい解釈である。むろん、これは誤りである。

 第一の誤りは、ここでの語が「理」ではなく、筑前系/肥後系諸本共通して「利」であることを無視している点である。当時の語例では「利」は「理」と互換性があるが、ここはあくまでも「利」である。「兵法の理」ではなく、「兵法の利」なのである。この点では、岩波版注記をはじめ、従来見かける既成の語釈はほぼ誤りである。

 そうして第二に、この五輪書が兵法教本であり、それが言う「兵法の利」である以上は、諸芸諸能の「芸能」は、武芸のことである。書画や舞踊音楽、文芸など芸術一般のことではない。

 ここでの文脈は、「兵法の勝ちにまかせて、もろもろの武芸を習得してきたので、どんな武芸種目でも自分には師匠はなかった」ということである。武芸は何でもこなした。しかし独学独習で師匠はいないとするだけである。

 この点で、既成現代語訳はすべて落第である。戦前の石田訳は、いわば超訳の部類だが、兵法の「利」とあるのを、「道理」とすり替えている。戦後の神子訳は、諸藝諸能を「さまざまな武芸」とするのは正しいが、やはり「利」を「道理」と錯誤する点、前例と同様である。しかも、そのため「それを」と挿むが、その文脈では、兵法の「利」をさまざまな武芸の道としている、という文意のようで、これは原文を逸脱した誤訳である。

 ついで大河内訳は、神子訳をそっくり頂戴して新味のない訳だが、せっかく神子訳が「武芸」としているのを無視している。また鎌田訳は、兵法の「利」について、前例のように「道理」とはせず、その訳に工夫を示しているようにみえるが、「兵法の道で得たもの」と記すところ、「利」の意味を取り違えている。もとより、諸藝諸能を「もろもろの芸道の道」とするのは、あたかも馬から落ちて落馬したという等しい。余裕がなく推敲なしで刊行してしまったもののようである。

 ついでに、このあたり、右の小林秀雄の読みをみると、解釈のレベルでは他の追随をゆるさないが、またまた的外れと言わねばならない。武蔵がたんに諸般の武芸習得において無師であったというのを、例の「器用」とのリンクで、ここまで勝手な話を展開してしまうわけだ。要するに、「芸」や「芸能」、あるいは「器用」を現代語の意味で読んで錯覚してしまう初歩的誤りであるにもせよ、こういうところ、決して武蔵の思想に通達したものではないのである。

 

 (13)此一流の見立、實の心を顕す事

 これは、前記の「万事におゐて、われに師匠なし」と連続する。

 今この書物を書くとはいえ、仏法や儒道の古語を借りたりしないし、軍記軍法の古き事例をも用いない。私のこの流儀の見立て、考え、真実の心を明らかにすることだけだ、とする。――ここは五輪書記述のポジションを言明しているところなので、注意して読まれたし。

 言うまでもなく、軍記軍法の古事を用いない、話題にしないとは、この五輪書の、兵法書としての根本的異質性を示す。言わば常識的な兵学、軍学の内部には納まらないのが五輪書である。それは他の兵法書一つでも繙いてみれば、歴然としていることである。

 おそらく、その軍記軍法の古事については、武蔵には語るべきことが山ほどあっただろう。当時の武士は夜咄にも、軍記軍法の評判、合戦論議に花を咲かせていた。しかし、武蔵はあえてそれをしないと言明する。それをしないのは「あえて」である。その「あえて」のポジションが武蔵的だと言える。

 しかるに、いまだに阿呆なことを書く者が跡を絶たない。曰く、――武蔵は剣術家であって、軍学者ではない。実戦で武将大将として合戦を指揮したこともない。そんな武蔵が合戦のことを五輪書に書いているのだが、陣形戦法など具体的なことは書いていない、抽象的な議論に終始している、云々。

 ようするに、こういうことをシタリ顔で書く者は、五輪書に軍学者流の教説を期待しているようだが、おのれの蒙昧をさらしているのに気がつかない。いわば、五輪書に何が書いてあるか解らない、と自分で宣伝しているようなものである。

 この点、看過できない妄説が再生産されているのが現状なので、以下に若干注意を喚起しておく。

 五輪書に「一分の兵法」というのが出てくる。これは一分〔いちぶん〕というのだから、一人で相手と戦うときのことである。しかしこの戦いの場所はどこかといえば、それは戦場なのである。合戦の場である。武蔵は五輪書で、「一分」の兵法について述べるときでも、戦場以外の場を想定していない。

 五輪書は一般向けの兵法教本だから、「一分」の兵法といっても、兵法者の決闘勝負や、不時の喧嘩ではないのである。まして況んや道場試合ではない。武士の働きどころは戦場である。合戦の現場を離れて「一分」の兵法もない。しかるに、そんなことさえ解らずに、五輪書をたんなる剣術指南書だと錯覚して解説を書く愚か者がいる。

 「一分」の兵法に対し、「大分(多分)」の兵法は、集団戦である。もちろん、これは合戦の最中の多人数同士の戦闘である。ただし武蔵の五輪書のユニークなところは、「一分」の兵法と「大分(多分)」の兵法が無差異化してトポロジカルに連接していることだ。その肝腎な道理を理解できない者が、上記のようなことを言うのである。

 しかし、たとえば軍事学の古典『孫子』のどこに、後世の兵書軍書のような陣形戦法など具体的な解説があるか。また孫子その人はどこで、大将として合戦を指揮していたというのか。むろん、そうでないにもかかわらず、『孫子』は今日いまだに戦争論の聖書なのである。上記のようなことを言う者は、だれでも知っている『孫子』の中身さえ知らないのである。

 大将として合戦を指揮する者でなくとも、武蔵当時の武士は、事あるごとに軍記軍法の古事について、陣形がどうの、戦法がどうのと論評していたものだ。それは、今日の我々がスポーツ試合の結果について、微に入り細に入り評論したがるのと同様である。それはしかし床屋談義というものである。

 武蔵はその種の合戦論には、我関せず、である。では、五輪書における合戦論のポジションはどういうものであったか。――それはどうみても、士卒の背後から采配を振るようなスタンスではない。

 戦場における武将の心得としてしばしば言われてきたのは、将たるもの、士卒に先立って働くべきで、士卒の背後から采配をふり廻すごときは、だれも勇将とは呼ばない。士卒の者どもの背後に控えて、采配を振っているようでは、武将はつとまらぬ。一軍の先頭に立って真っ先に敵陣へ突撃するのが武将というものだ。大将たる人の勇を借りて、士卒はようやく続くものなり、という話がある。

 武蔵が五輪書で「大分(多分)の兵法」として教えているのは、士卒の背後に隠れて采配を振るような安閑とした話ではない。むしろ自ら率先して戦う、実戦現場でのリーダーとしての心得である。五輪書における合戦論は、あくまでも戦場の現場に即したものである。

 同じようなことだが、細川忠興(三斎 1563~1646)が軍事の話にはいつも、「平生も軍法も替る事なし」と言っていたという。そして、――軍法の八陣の図などといい、今、軍法者といって伝授するのは、それは異国の沙汰であって、本朝(日本)の戦争では無駄なことだ。ただ大将は、敵の様子を考えて備えを立て、その場の分別こそが第一に重要なのだ。おれなどは、先手二つの備を旗本にして、後備三段と決めて、敵が遠い時は広く備え、敵が近い時は円く備えるだけで、その無二の態勢で討入れば、勝利を得るのだ。大将が心弱くしては勝つ利を失う。士卒ともに、敵よりも大将を信用しなければ、人数(軍勢)を使うことはできない、と。

 ようするに、信長秀吉の時代から、関ヶ原、大坂陣まで、何度も合戦を経験した細川忠興にしてこうである。おれなどは、馬鹿の一つ覚えのような陣形一つで、それを広げたり丸めたりするだけだったが、こうして勝ち残っている。合戦における大将に必要なのは、臨機応変のその場の判断力と、そして勇気だ。それが士卒を動かす。軍法の八陣の図などといって、さも特別な理論ありげに売り込む軍法者流は、何の役にも立たない。それは異国のやりかたかもしれないが、少なくとも日本人のやることではない。細川家の言い伝えでは、忠興はこんなことを語ったというわけである。

 武蔵が繰り返し言うのは、兵法の「智恵」「智力」ということである。これは、「知識」の有無とは無関係である。いわば実践的な臨機応変の対応力であるが、動態的なその場の状況に対応するだけではなく、そういう状況変化そのものを生み出すこと。それは道理に「強く」なければできない。つまりは、そういう意味での「智恵」「智力」である。言い換えれば、武蔵の教えは、知識としての兵学軍学ではなく、もっと根本的な、戦闘者の思想というべきものである。

 また言えば、剣術勝負ならいざ知らず、本来、多人数で戦う合戦に「専門家」など存在しない。それは、今日、政治経済に専門家が存在しないのと同じことである。何れも「評論家」はいても、実は専門家などいないのである。

 武蔵が、軍記軍法の古き事例など話題にしないというのは、士卒軍勢の背後にいて采配を振り廻しているような軍学者流の議論を嫌ったのである。言うまでもなく、軍学者流は理論精密らしくみせているが、机上の空論である。

 むしろ武蔵の教えは、「大分(多分)」の兵法というより、「大分(多分)一分」の兵法とするところに、その特異性があった。リアルな戦場において戦闘者個々人が何をわきまえ知るべきかを教える。そこには武将も士卒もない。武蔵の教えのその場所は、個人としての武士が戦場でいかに戦うか、ということである。その具体的な個(concrete individual)の位相に立脚するというスタンスが類例のないものであった。

 しかるに、武蔵は剣術は知っていても合戦を知らない、一度も大将として合戦を指揮したこともない、だから武蔵は合戦を語る資格がない、などという阿呆な評論が、いまだに反復されている。これなど、まさに見当違いのタワ言にすぎない。無知と言うべし。林羅山でさえ軍事論を書いている。羅山は武蔵の知友だが、大将どころか、京都の町人出の儒者であった。

 他方、大将として合戦を指揮した経験がある者は、自分が関与した合戦しか知らない。それもたまたま勝ち残っただけである。しかも、自分がなぜ勝てたか、それを具体的に分析して語りえた者はいない。そんな書物があるなら是非拝見したいところだが、むろんそんなものはこの世には存在しない。

 ようするに、リアルな戦場には専門家など存在しない。戦場は毎度状況条件が新しく、歴戦の経験など役に立たない。過去の経験に固執すれば必ず失敗する。それが実戦の現場である。戦争におよそ縁のない現代の日本社会に生きる諸君にも、この事実は他所事にあらず、何がしか実感として、おおよそ首肯しうるところであろう。

 もとより武蔵は愚鈍な豪傑にあらず、リアルな戦場には専門家など存在しない、歴戦の経験知など通用しない、戦場はつねに新しいという戦争の本質を、十分に知り盡している者である。そして、その上で、戦場において個々人が最低限何をわきまえ知っておくべきか、実戦における基本的な教えを述べている。五輪書に書いていないことで、真実重要なことは他に何もないのである。


 ところで、ここにもう一つ、見落とせない記述がある。武蔵は、仏法や儒道の古語を借用しはしないという。

 もしこうなると、当時これは極めて難しい作業である。なぜなら日本語の隅々にまで、仏教儒教の言葉が滲透していたからだ。これを漢意として斥け、古語を再構成した国学の発生はまだ先の後世のことである。

 しかし、こうした言挙げが出現したのは、まさに武蔵の一文をもって嚆矢としなければならない。ここでも我々は、武蔵の垣間見た、仏教でもない儒教でもない、思想の可能世界に思い至るのである。

 これについて、小林秀雄は右掲のような見解を示している。《傳統を全く否定し去つて、立派な思想建築が出來上るわけはない。併し、彼の性急な天才は、事を敢行して了つたのである》などは、例によってカッコよすぎる小林秀雄節であるし、他にもやや的外れなところもあるが、基本的に同意しうる内容であろう。また、このあたりが、小林の読解の、凡百の武蔵論と違うところである。武蔵資料として引いてみたわけである。

 それにしても、武蔵はやはり、「天道と觀世音を鏡として」と書くのである。しかし、これを純粋な儒教仏教的理念対象としてみるべきではない。また、自分の見解言説は、天道と観音が保証人だということでもない。やはり「鏡」なのである。自身の道が真実かどうか、この鏡の反射像としてしてのみ見えるということだ。実体はないのである。それが、
《空を道とし、道を空と見る所也》(空之巻)
ということである。

 禅家は、神秀と慧能の偈の対位法をはじめとして、鏡と塵の比喩で多くを語ってきた。ならば、禅思想の文脈でこれを読めないこともないが、それは武蔵の本意ではあるまい。むしろ、この鏡は「鑑」字だとすれば、「天鑑私無し」という切支丹文献に見えるテーゼにも通じてしまうのである。言い換えれば、「天道と觀世音を鏡として」の意味は、当時通有の思想からすれば、要するに、「無私」ということにほかならない。とすれば、諸宗教を横断する意味合いでこの一節は読まれなければならない。それが、武蔵云うところの、「佛法儒道の古語をもからず」というポジションであろう。

 なるほど、この「天道」は、当時最新思想としての儒学的な「天」の意味ではなく、むしろ民間に流布した天道思想のそれでであろう。つまり「おテントウさま」という語に今なお残る意味の「天道」である。したがって儒教的というよりも民俗的観念なのである。

 もうひとつの「観世音」もまた、民間信仰習俗のなかで見るべきもので、武蔵が籠った岩戸山の観音信仰と対照してみるべきである。観音信仰は古来現世的であり、近世とくに観音霊場ブームとして盛況を迎えることになるのだが、武蔵の語りのポジションは、仏教的というより、世俗的民衆的である。

 ようするに武蔵は、禅であれ朱子学であれ、若年の頃から親しんで、骨髄に徹した素養としてあったが、この晩年に至り、当時最新の思想の言葉で語るのではなく、むしろ大衆的な民間信仰の方へシフトしたポジションで語ろうとしている。それが、仏法や儒道の古語を借用することはしないという彼の言挙げであった。

 なぜ、ことさら、そうなのか。その答えは明らかであろう。五輪書は奥義秘伝の書ではない。まさに万人向けの兵法教本なのである。初心者にも読ませる教本である。初学者なら少年である。そういう子供まで読者に想定したのが、このように、漢文ではなく、わざと和文で書かれたこの兵法教本なのである。

 (14)十月十日の夜、寅の一天に

 

 先に冒頭、武蔵は、寛永二十年(1643)十月上旬の頃、九州肥後の地にある岩戸山に登って、天を拜し、観音を礼拝し、仏前に向った、と記していたのである

 武蔵が住んでいたのが、熊本城東の千葉城址(武公伝)あるいは近郊の村(丹治峯均筆記)だとすれば、そこからこの岩戸山へやってきて、禊祓の水浴などして、天を拜し観音を礼拝し仏前に向った、ということであろう。

 しかしながら、十月上旬の頃というその日の岩戸山は、すでに述べたように、著述成就祈願のための登山である。そうして五輪書を書き始めたのは、それから数日後、この箇処に記す十月十日である。

 十月十日という日は、偶然その日になったということではなく、これは五月五日や七月七日と同じく十二節供の日である。武蔵は、本書を起稿するにあたって、わざわざ節供の日を選んだのである。これも武蔵研究史において従来注意されてこなかったことである。

 かくして、この記事により、五輪書執筆開始は、日時まで特定しうるものとなった。つまり、寛永二十年(1643)十月十日夜の寅の刻である。執筆開始をこれだけ精密に特定できるケースは珍しい。

 ところで、問題は「寅の一天」と諸本にあるところである。これが従来の五輪書読みには読めなかった語句であり、なかなかの難所であった。というのも、これは修辞的に「一天」としたもので、武蔵の詩的語法について行けず、置き去りにされた恰好のものばかりであった。

 まずだれでも言えるのは、この「寅の一天」が「寅の一点」という時刻を指しているらしいことである。ただし、その「一点」という語は、梵語の十二母音の第一、阿字のことでもあり、物事の始まりを意味する。つまり、五輪書の執筆開始と、この「一点」という語は修辞的に重なる。

 武蔵はここで、その「一点」という語の連想で言語遊戯をしている。というのも、「一点」という語が召喚する阿字には、たとえば阿字観、つまり一切の存在の不生不滅という空観、そこから当時の兵法ではとくに、阿字の利剣ということもあって、「一点」にはそういう連想を生むところがある。

 この「一天」は、また月のことであり、この十月十日の夜、十日夜〔とおかんや〕といって、月見をする民俗もあった。あるいは阿字観には、それにともなう月輪観という観法があって、そこでも「月」の連想が発生する。「寒流帯月澄如鏡」という詩句もある。武蔵は、そういうもろもろの意味の多重性を弄して、「一天」と書いたらしい。

 つまりは、日/月の「二天」のうちの一天、月である。「二天」を号した武蔵が「一天」と書く、その書字の快楽というものに感応できなければ、五輪書を読んだことにはならない。

 さて、時刻の「寅の一点」である。――明治までは日本人の生活時間は不定不等時、現在のように一日を等分した定時法ではなく、季節の日の出・日歿の時間の違いで時間は伸縮した。旧暦十月なら初冬で、夜が長かったから、同じ寅の刻でも、標準の午前四、五時よりも少し後へずれる。「寅の一点」だとすれば、一点は一刻(二時間)の四分一の、最初の意味である。つまり、旧暦同日肥後なら、初冬のことゆえ、時間が後へずれて午前四時よりすこし前、ということになるわけだ。

 この点につき、岩波版注記は「寅の一てん 午前四時三十分」と記しているが、何を根拠としてこの時間に特定したのか不明である。

 この「寅の刻」に関連して言えば、武蔵は徹夜して起きていたようである。前述のようにこの「十日夜」はいわば収穫祭の月見の夜であり、その流れで徹夜して起きていたのであろう。「十日夜」の月の沈むころ、丑の刻であり、月を見送った人々は寝床につくが、武蔵は寝ずにそのまま起きていた。

 そして、《十月十日の夜、寅の一天に》とあるのは、夜明けということではなく、あくまでも「夜」だということに注意したい。つまり古い日本の一日は、夜明けとともに始まるのであって、この寅の刻はまだ「夜」である。

 したがって武蔵の執筆開始は、十月十日の夜明け前ではなく、十月十日の夜である。これは現在の日取りでは、翌「十一日」の午前四時前になる。厳密に西暦太陽暦に置き直して言えば、一六四三年十一月二十二日の午前四時前、これが執筆開始の時点である。

 ちなみに言えば、異本には、丸岡家本のようにこれを「朝」〔アシタ〕と記すものがある。これは字句の改竄である。寅の刻だから暁だと、後知恵で解釈して、訂正してしまったのである。この「訂正」で、丸岡家本が実は書写を重ねた後の新しい写本だということが知れるのである。

 ようするに、ここで注意すべきポイントは、「十日」の夜明け前だと誤解すると、一日違う、ということだ。武蔵は「十月十日の夜」と書いているのである。この点、誤解している五輪書解説本があるので、注意しておきたい。

 さて、以上のように「寅の一天」を「寅の刻の一点」と、あえて不風流に解いたのだが、むろんこれは「一天」が「一点」の誤りだというわけではない。「一点」を「一天」として詩的に変換して表現してあるということだ。とくに、「十日夜」の月こそが、その「一天」である。ただし、西の空に沈んでしまった「十日夜」の月。その空〔くう〕なる不在の一天、時刻はもう寅の刻である。

 寅の一天。――この多義的で豊穣な背景のある武蔵の詩的語法は、これまで読み取られたためしがない。むしろ逆に、読み損なう者さえあるという始末である。世の中には、何でも字義通りにしか読めない硬頭の愚者がいて、「一天」は「一点」の誤りだとするのである。

 この点、諸本のうち細川家本のみ、「寅の一てん」と仮名で記している。これも、「一天」という文字に不審を覚えた書写者の書き換えである。丸岡家本の「朝」と似た仕儀で、明らかに後知恵による改変である。これが他の写本にはなく、細川家本のみに発生した表記であるところから、細川家本が後発的な写本だということを示す特徴の一端である。

 武蔵は、だれにでも読めるように、漢文ではなく和語で五輪書を書いたが、必ずしも何でも仮名で書いたわけではない。筑前系を含む諸本を照合すれば知れることだが、武蔵のオリジナルは、「一天」と漢字で書いたのである。

 さて、申すまでもなく、「寅の刻」には宗教的に特別な意味がある。つまり、夢告・顕現など瑞祥神秘体験が寅の刻にあるだけではなく、古来祭儀の開始や、参籠修行日々の始めは寅の刻という習慣であった。少なくとも寅の刻は、聖なる時間である。そこで、武蔵もわざわざ、寅という時刻を記しているのである。

 つまり、十月十日という特別な夜の、寅の刻という特別な時間を記しているところをみれば、これがある種の宗教的儀礼にかかわるところの、時間の選びである。言い換えれば、武蔵は生涯最初の兵法書の執筆開始にあたり、この特別な日時を選び、その成就祈願の願文として、この自序を書き下ろしたのである。
――――――――――――

 ところで、肥後の伝説を鵜呑みにすれば、五輪書執筆の場所は霊巌洞となるが、この五輪書の部分を見るかぎり、霊巌洞で書き始めたとも、書いたとも記していない。

 おそらく、執筆の場所は、――思い切り平凡な場面だが――熊本の居宅であろう。あるいは、そうでなければ、翌年の発病時点の事情から知れるように、熊本近郊の村にあった別荘であろう。小説などで、武蔵が霊巌洞で五輪書を執筆しているシーンがあるが、あれは話を面白くするためのフィクションである。この五輪書自序には、霊巌洞で書くと述べている部分はどこにもないのである。


 さて、この自序部分に関して、ひとつ言っておかねばならぬことがありそうだ。それは、この自序が本文と文体が違うという理由で、この自序部分を武蔵が書いたのではなく、後世の仮託とする説が、一部に流通していることである。

 これは我々の看過しえぬ謬説の一つであるが、まさに文体を語りながら、実は文章というものを知らぬ者の戯言である。すなわち、序文は本文と同じ文体でなければならない、という自身の前提の錯誤に気づいていないのである。

 歴史的に見れば、序文が本文と同じ文体になったのは、ごく最近のことである。それまでは、明治期でさえ、序文は本文と違い、おおむね改まった簡潔な文体で書いたものである。ときには、本文が和文なのに序文は漢文、という例もある。ようするに、序文と本文の文体が異なるのが普通であって、本文と文体が同じ序文という事例の方が稀なのである。

 およそ、こういう初歩的な知識さえない論者が、文体の差異をさも意味ありげに指摘するが、五輪書のような断片集となると、本文中にも文体のブレがあるという事実については、杜撰なことに、まったく気づかぬものらしい。

 この点につき、我々の分析からする所見を述べれば、五輪書の本文と序文には、別人のものとするほどの根本的な文体の相違はない。多少文章が書ける者なら、異なる文体で作文は可能である。まして、このケースでは、採択すべきほどの有意な差異(significant differences)は存在しない。

 言うまでもなく、この序文の内容を読めば、およそ武蔵の門弟ら余人に書けるようなものではない。それは明らかである。曰く、《其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。それより以來は、尋入べき道なくして光陰をおくる。兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、万事におゐて、われに師匠なし。今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法のふるき事をも用ひず》云々。こんなことが書けるのは、武蔵本人以外にあろうはずがない。

 したがって、現存五輪書において、本文/序文の文体の差異を論じるのは無意味な所為である。それゆえ、あろうはずのない文体の差異を論じて、何事か憶測を得たがる者があるとすれば、それはそもそも前提の錯誤があるのだから、まったく的外れでしかないと断じてよいのである。


 さらに付け加えれば、この五巻の書については、その内容分析から、五巻をはじめから順に書き下ろしたとはみえない。原稿は切紙断簡のかたちで書かれてあったと思われる。武蔵は書き足し、削りして、以前にはなかったかたちの兵法書を作成していったのである。

 この寛永二十年(1643)十月から約一年半後、武蔵は死ぬ。しかも、武蔵が不治の病に倒れるのは、これより一年も経たぬうちである。武蔵が岩戸山に登って祈願したのは、すでにその時、死の予感があったからであろう。武蔵は死期の近いのを感じて、本書執筆に取りかかった。

 したがって五輪書とは、厳密な語の意味で、武蔵の「遺書」であり、また前述のように、まさしく武蔵が墓碑としてデザインした書物なのである。

 ただし、武蔵は五輪書を「完成」して死んだのではない。上述のように、執筆開始後まもなく武蔵は病に倒れ、本書を未完成のまま残して死んだのである。これから多くの箇処で確認するように、本書は未完の書とみるべきである。未定稿として遺された原稿を、門弟の寺尾孫之丞が編集し、武蔵の企画の通り、五巻本にして、門人にこれを伝授したのである。

 そのオリジナルは早期に失われたらしい。したがって、現代の我々のもとには、後世伝写された写本しか存在しない。しかもそれぞれに校異を有する不完全な写本しかない。こういう状況を承知の上で、これから五輪書の世界に入って行くことにするのである。

2. 地之巻序

【原文】

夫、兵法と云事、武家の法也。
将たるものハ、とりわき此法をおこなひ、
卒たる者も、此道を知べき事なり。
今世の間に、兵法の道、たしかに
わきまへたると云武士なし。(1)
先、道を顕して有ハ、佛法として
人をたすくる道、又、儒道として文の道を糺し、
醫者と云て諸病を治する道、
或は歌道者とて和歌の道をおしへ、
或ハ数寄者、弓法者、其外、諸藝諸能までも、
思ひ/\に稽古し、心々にすくもの也。
兵法の道にハ、すく人まれなり。
先、武士ハ、文武二道と云て、
二の道を嗜む事、是道也。*
たとひ此道不器用なりとも、
武士たるものハ、おのれ/\が分才ほどは、
兵の法をバ勤むべき事也。(2)
大かた武士の思ふ心をはかるに、
武士ハたゞ、死(る*)と云道を嗜む事と
覚ゆるほどの儀也。
死(る*)道におゐてハ、武士ばかりに限らず、
出家にても女にても、百姓以下に至迄、
義理をしり、恥をおもひ、死する所を
思ひきる事は、其差別なきもの也。(3)
武士の兵法をおこなふ道ハ、
何事におゐても、人にすぐるゝ所を本とし、
或ハ一身の切合に勝、或ハ数人の戦に勝、
主君のため我身のため、
名をあげ身をもたてんとおもふ、
これ兵法の徳を以てなり。(4)
又、世の間に、兵法の道を習ても、
實のとき、役にハ立まじきとおもふ
心あるべし。其儀におゐては、
何時にても役に立様に稽古し、
万事に至り、役に立様におしゆる事、
是兵法の実の道也。(5)

【現代語訳】

 まさに兵法ということは武家の法〔なすべきこと〕である。武将たる者は、とりわけこの法を行い、士卒たる者も、この道を知るべきである。(しかるに)今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない。
 
まず、道を明らかにして存在するのは、仏法として人を助ける道、また儒道として文の道をただし、医者といって諸病を治す道、あるいは歌道者といって和歌の道を教え、あるいは数寄者、弓術者、その他、諸々の芸能までも、思い思いに稽古し、それぞれ深く心を寄せるものである。(それに対し)兵法の道に深く心を寄せる人は稀である。
(まず武士は、文武二道といって、二つの道を嗜むこと、これが道である)。
たとえ、この(兵法の)道に不器用であっても、武士たる者は、それぞれおのれの分才〔資質器量〕に応じて、兵法に励むべきである。
 
おおよそ武士の思う心を推察してみるに、武士はただ「死ぬ」という道を嗜む事と考えているという程度のことである。しかし、死ぬ道においては、武士だけに限らない。出家者でも、女でも、百姓に至るまで、義理を知り恥辱を思い、(自分が)死するところを思い切ることには、(職業・性別の)違いなどないものである。
 
武士が兵法を行う道は、何事においても、他人にまさることが根本であり、ある場合は一身の斬り合いに勝ち、ある場合は多人数の戦いに勝つ。そうして主君のため我身のために、名を揚げ身をも立てようと思うのも、これは兵法の徳〔すぐれた効能〕によるのである。
 
また世間には、兵法の道を習っても、実際の(戦いの)時、役に立つはずがないと思う気持があるだろう。そのことにおいては、いつ何時でも役に立つように稽古をして、どんな状況になっても役に立つように教えること、これが兵法の真実〔まこと〕の道なのである。

【註解】

 (1)兵法の道、たしかにわきまへたると云武士なし

 

 兵法とは戦闘術である。この兵法ということは武家の「法」であるという。この場合、「法」は現代語の意味の「法」ではないから、すこし注意を要する。

 現代語に訳せば適切な概念に納まらず、多岐にわたる意味の幅をもつが、ここでは行動の規範(norm)・原則(principle)というほどの意味である。これを「おきて」とする訳もあるが、禁止を伴うものでない以上、掟(law)ではない。

 言うまでもなく、慶長二十年=元和元年(1615)の「武家諸法度」がある。これをみるに、武家法とはいえ、条項のなかには、
《文武弓馬之道、専ら相嗜むべき事》
《群飲佚遊を制すべき事》
《諸国諸侍、倹約を用らるべき事》
とあって、倫理綱領のようなものである。とくに酒を飲んで騒ぐようなことは規制しろ、というあたりは、法度の法度たる側面である。

 これが近世における最初の、公式の武家の法であるが、もちろん、犯罪人の処分、他国者の居住禁止、隣国の企てや徒党の報告義務、築城新設禁止、私の婚姻取締、等々あって禁制を含むから、これは掟に属するもので、武蔵のいう「武家の法」はこれとは意味が違う。

 武蔵の「武家の法」は、その実践思想からするものである。武蔵は、《将たるものは、とりわき此法をおこなひ、卒たる者も、此道を知べき事なり》とする。

 ここで「武家」というのは、指揮官たる武将クラスの者も、士卒たる配下の者も含む。武士の総体である。したがって、この五輪書において、武蔵が教えを説くのは、もっぱら武士たる者が対象である。

 言い換えれば、武蔵が教えを説くにあたって、武将と士卒、これに差異があるわけではない。ともに戦闘の構成要員である。この一種平等な扱いは、武蔵のいう「武家」が、戦国武士のポジションにある存在であり、個(individual)としての武士であるからだ。

 そこで、武将が行うべき「此法」とは、兵法のことであり、士卒が知るべき「此道」とあるのは、兵法の道のことである。

 だが、武蔵に言わせれば、――今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない。この言葉はきわめて異例であり、かつ重要である。なぜなら、この五輪書は兵法、戦闘術を教える教本であるが、まさに、こんな批判を述べた兵法書は存在しないからである。

 このあたり、「実践理性批判」の書としての五輪書の面目である。本書全巻を通じて批判の書たる性格は一貫している。とりわけ後に見る風之巻は、その一巻が現状批判で特化されている。この批判の書という性格において、五輪書は極めて特異な存在なのである。

 

 (2)兵法の道にハ、すく人まれなり

 武蔵は世の人々の「道」について述べる。仏家、儒家、医家に道がある。歌人、数寄者(これは茶人などをいう)、弓術者、その他、諸々の芸能にも道があり、思い思いに稽古し、それぞれ心に好く、つまり深く心を寄せる。

 それがこれら諸々の職業のあり方、生き方である。専門家、職人としての道の姿である。仏家、儒家、医家も芸能の民だった。武士もまた本来そうした職人であり、芸能者の一種である。このことに注意したい。

 ところが、武蔵に言わせれば、そうした他の諸職業の人々とは違って、武家で兵法の道には「好く」人、その道に深く心を寄せる人は稀である。これは、今の世の中には、兵法の道をたしかにわきまえたという武士はいない、という先にあった批判と対応する言説である。こうした武家の現状は、すでに戦乱終熄後数十年、いわば戦後状況の特徴だったのであろう。

 武蔵が言うのは比較論である。他の職業の人々はおのれの道に熱心に努力し、またそれを好くものなのに、武士はそれとは逆ではないか。

 そこで武蔵は言う、――たとえこの道に不器用であっても、武士たる者は、それぞれの分才〔資質能力〕に応じて、兵法に励むべきである、という。

 この「たとえ、この道に不器用であっても」というところが、五輪書らしいし、また、武蔵らしい。というのも、五輪書という兵法教科書は、普遍的な入門書たる性格をここで示すからである。また、武蔵自身は、この道の天才であって、その天才が、不器用で資質のない者にまで語りかけるのが、この部分である。そういうところに、読者は感応すべきである。

 ところで、この部分には、異質な文言が唐突に紛れ込んでいる。それは、《兵法の道にハ、すく人まれなり》と《たとひ此道不器用なりとも》の間である。――《先、武士ハ、文武二道と云て、二の道を嗜む事、是道也》。まず武士は、「文武二道」という二つの道を嗜むことが最も肝要である、と。

 《たとひ此道不器用なりとも》の「此道」が請けるのは、《兵法の道にハ、すく人まれなり》の「兵法の道」である。したがって、《先、武士ハ、文武二道と云て、二の道を嗜む事、是道也》という文が間にあっては、「此道」の指示が妨げられ、前後が繋がらない。

 これは前後の文脈からすれば、文脈を切断する語句であり、脈絡のない文言である。したがって、我々のテクストでは、それをマークするために、字下げして示している。

 このような問題の指摘も、従来の五輪書研究には出なかったことである。この箇処が看過されてきたわけだが、ようするに、五輪書はこれまで、まともに読まれたことがなかったのである。

 これは武蔵草稿のこの箇処に書き付けられてあったものらしく、寺尾孫之丞の編集段階で、これを本文に流し込んだのである。ここで、武蔵は、文武二道について何か書くつもりだったらしいが、それが書きさしになっていたようである。

 その内容は、たとえば、後に「兵法二字の利を知る事」の後半に出てくる断簡らしき文も、その一つかもしれない。つまり、そこには、「道において、儒者・仏者・数寄者(茶匠)・礼法者・乱舞者(舞踏家)の道があるが、これらの事は武士の道ではない。(しかしこれが)その道(武士の道)ではないとはいえ、道を広く知れば、どんなことにでも対応できるのである。どの道であれ、人々の間で、自分のそれぞれの道をよくみがくこと、これが肝要である」というようなことが書かれている。

 しかし、ここでの文脈は、おそらくそれとは逆であろう。――なぜ文武二道なのか。

 武蔵のいうところは、通常の文武二道、両道の論とは違う。というのも、ふつうはこれは文化=教養(culture)を欠く武辺者に諭す話である。――武張ってばかりいないで、文化的な教養も身につけろ、という話の筋道である。

 最初のヴァージョンの「武家諸法度」第一條、《文武弓馬之道専可相嗜事》とある「文武」の文字にしても、近世における文武二道論の根拠とされるが、「武」には「文」が必要だというほどのところである。

 これに対して、武蔵の話の方位は反対である。つまり、武(militarity)の道を忘れた武士に対する説諭である。文武二道は、それゆえ、「文化」してしまった武士への警告である。

 もともと「文化」とは、東アジアでは、暴力的手段に依らない統治、政治支配のことである。本質的に幕藩体制は軍事政権による支配であるが、偃武以後、武士は自身の本質から乖離することによって、文化官僚として生き延びる存在となった。言い換えれば、自身の本質を否定することによってのみ延命しうるという、はなはだ厄介な矛盾を生きる存在になった。

 ここでの武蔵の批判を一つの歴史的証言と見るならば、こうした存在へ武士が転化したのは、徐々にではなく、むしろわずか数十年ほどの間の急激な変化であったということだ。

 「文武二道」という二つの道を嗜むこと。――これは、文化が欠如しているのではなく、文化が過剰になった、武士の「武」がもはや消滅しつつあるという状況、つまり寛永後期の状況を背景にして語られたのである。

 ここで、「嗜む」という言葉の意味に注意を向けておくべきである。普通我々の日常的用法では、「嗜む」は芸事趣味などに、好んで親しみ、一定程度の水準に達しているということである。しかし以前は、何かに備えてあらかじめ用意しておく準備のことであり、したがって用意怠りなきこと、そこから物事を工夫して行う、という意味である。

 したがって「文武二道」という二つの道を嗜むといっても、趣味で一定程度まで達するという遊びのことではなく、明らかに何かに備えて準備しておく、という意味での嗜みである。


 

 (3)死ぬると云道

 

 武士は何によって武士なのか、武士たるゆえんは何か。一般に考えられているのは、武士は「死ぬという道」を嗜んでいる、いつでも死ぬ用意がある、死ぬことをわきまえているから武士なのだ、という程度のことだ。

 武蔵は言う。しかし、「死ぬという道」に、武士も、その他の人々との違いはないのだと。僧や女性であっても、百姓の身分であっても、武士と違いはない。武蔵はそう断言する。

 なぜなら、義理によって、あるいは恥によって、自分が死するところを思い切ることには、武士と他の職業との違いもないし、性別の差異もないからだ。

 このように、非武士的存在として、出家(僧)、女性、百姓の三つが出てくるところに注意したい。出家は武士とちがって世俗的存在でない者、女性は武士とちがって男性でない者、百姓は武士とちがって戦闘者でない者である。世俗/非俗の宗教的差異、男/女の性的差異、武士/百姓の社会的差異。そういう差異を横断して、だれでも自分の死に所をわきまえている。それが武蔵の見立てである。

 このあたり、「死ぬという道」における平等無差別を述べるところ、きわめて、武蔵の思想的ポジションは鮮明である。少なくとも「いつでも死ぬ覚悟ができている」ということしか売物にできないような武士が多く現れていたのである。

 そして後世、十八世紀になると、かの『葉隠』の有名な、「武士道とは死ぬ事とみつけたり」という科白もある。この後『葉隠』のせりふは、こうだ。
《毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべきなり》

 いつも死んだ身になっておれば、武の道に自由でありえて、一生落ち度なく、主君に仕える家職をやり通せる。――これなど「馬鹿なことを言うな」というところだろう。武士の道は、ずいぶん退転してしまったものである。武士が命がけの戦闘から遠ざかって生きるようになった結果、かえって、常住死身が売物になってしまうのである。まして、《常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得》となると、武蔵の世代の武士からすれば、嗤うしかないであろう。そしてむろん、武蔵にとって、死ぬという道は、決して武士の専売特許ではない。

 その点、後世武蔵伝説に奇怪な変形が生じたとみえるものに、「巌〔いわお〕の身」に関するものがある。

 これは、肥後の伝説にある逸話で、――あるとき、熊本城主・細川光尚が武蔵に尋ねた、「巌の身というのはどういうことか」。すると武蔵は、寺尾求馬助をこの席に召されたし、と云う。そこで求馬助が召し出されると、武蔵が求馬助に言った、「寺尾求馬助、御前において切腹を仰せ付けられた。速やかに覚悟しろ」と。求馬助は、ただちに刀を抜き、まさに切腹しようとする。その時、武蔵は大声で、「求馬助、切腹は止めよ」と言ったので、求馬助は差し控えた。そこで武蔵は光尚に言う、「いまご覧になられましたな。求馬助は命を受け、心の色変ることなく、ただちに覚悟した心意、これがすなわち、巌の身にて御座候」と、云々。

 もとよりこれは、後世、寺尾求馬助を称揚するために生れた伝説である。これが「巌の身」の通俗解釈たることは勿論だが、第一、武蔵がかようなことを仕懸けるか、ということである。武蔵の五輪書のこの「死ぬという道」の部分を少しでも知っていたら、こんな説話は生れようがないのである。いわゆる武士道の美学が勃興する十八世紀の産物である。


 そもそも「死ぬという道」に、武士とそれ以外の人々との違いはない、僧であっても、女性であっても、そして百姓であっても、義理によって、あるいは恥によって、自分が死するところを思い切ることには、武士と他の職業との違いもないし、性別の差異もない。武蔵はそう言う。

 少なくとも「いつでも死ぬ覚悟ができている」ということしか売物にできないような武士が多くなっていたが、その「いつでも死ぬ覚悟ができている」ことは、実際は世間では決して専売物件にはならないのである。

 このあたり武蔵は、世間の人心の実際を背景に語っている。個別の事件としては無数にその例があるだろう。そして、比較的近い時期の大事件としては、天草島原の切支丹一揆における、寛永十五年(1638)春の原城陥落があろう。

 原城籠城戦のときの矢文がある。それには、我々が今度籠城しているのは、何も「天下様」(将軍)に恨みがあってのことではなく、切支丹宗門を厳しく御制禁のゆえ、身の置きどころがないので、このようなことになったと。我々は切支丹宗門に立ち返った、もう無抵抗に易々と殺されはしませんぞ、という宣言である。

 切支丹の宗旨における作法では、自害するのは厳禁である。武士は何かというと「死ぬ、死ぬ」といって自害切腹するが、我々は決して自害しない。死ぬまで戦う。こちらから攻撃を仕掛けることはないが、そちらから攻撃なさるなら、身にふりかかる火の粉を払うのと同じで、防御撃退しますぞ。どんな攻撃をなさるか、お待ちしておりますと、まことに堂々たる応対である。

 あるいはまた、原城包囲軍を指揮する幕府上使には、百姓である我ら程度の者どもに、いつまで手間取って包囲しているのか。我々「たかが百姓づれ」の者に、上使まで差し向けられるとは、かたじけない次第、冥加の至りと存ずる。この上は、どんな御成敗を命じられようとも、尋常にお受けしますので、珍しい新手で我々をお攻めなされ。新しい戦術があれば、見せてもらいたいと、このあたりは、支配被支配の身分上下関係を、慇懃無礼に愚弄している。

 このように、我々は切支丹宗門に立ち返った、殺すなら殺してみろ、我々は決して自害しない、我々は「たかが百姓づれ」の者だが、ただでは殺されない、戦って死ぬぞ、というわけである。ここに明らかに浮上するのは、もう一つ別の「死ぬという道」である。

 この一戦では、上記の「百姓づれ」どころか、女子供までが戦って死んだ。攻め寄せる武士たちに、石や物を投げてさえ死傷させたのである。これに参戦した武蔵の眼前で、そのオルタナティヴな「死ぬという道」が演じられたのである。

 また、この「死ぬという道」に関して、もう一つ付け加えるべき事件があるはずである。森鴎外の短編「阿部一族」で知られる、細川忠利の死にともなう殉死とその後の騒動のことである。

 武蔵は寛永十七年の七月ごろ肥後へやってきて、以後、五年後に死ぬまで肥後に住んだ。細川忠利の招聘に応じて武蔵が肥後へ来たかどうかは別にして、その翌年、寛永十八年三月に忠利が病死した。

 その死を受けて十八人が殉死をゆるされて供をしたが、ひとり阿部弥一右衛門という者には殉死のゆるしが出なかった。数日後、弥一右衛門はゆるしがないが追腹を切った。――森鴎外は小説「阿部一族」で、そういう説を立てているが、それは事実ではなく、阿部弥一右衛門は皆と同じ日に殉死している。

 弥一右衛門は、豊前で召抱えられて細川忠利に取り立てられ、肥後で千石余の家格に出世した。その特別の恩義を感じていたので殉死したのである。ただし、この阿部騒動の原因は、千石余の阿部家の知行が分知されたことにある。親類分知は家格の下落を意味するからである。

 翌寛永十九年四月、忠利の一周忌に、弥一右衛門の嫡男・権兵衛が殉死者遺族の一人として位牌の前に進み焼香して退くと思うと、脇差の小柄を抜き取って自分の髻〔もとどり〕切って、位牌の前に供えたという椿事が生じた。嫡男・権兵衛は処刑され、これを機に阿部一族兄弟郎党が籠居するところを、攻め取られたのである。

 この事件は寛永十九年だから、武蔵はそのとき、肥後熊本にいた。それで、森鴎外は武蔵を小説に登場させたのである。むろん鴎外は、この臆病者の十太夫と、武蔵を交錯させることで、時代の変り目を一瞬でイメージさせるのである。

 おそらく、武蔵が五輪書のここで「死」という道について書いたとき、少なくともこの事件――殉死とその後の阿部討ち――が反響している。この事件に遭遇した時、武蔵は「これは違う」と思ったに違いない。それが、この五輪書の部分によって知れる。


 ここで校異の問題で、指摘しておくべき箇処がある。すなわち、筑前系諸本のうちには、
《大形武士の思心をはかるに、武士ハ只死と云道を嗜事、と覚ほどの儀なり。死道におゐてハ、武士斗に限らず、出家にても、女にても、百姓已下に至まで、ぎりをしり、はぢをおもひ、死所を思ひ切事ハ、その差別なきもの也》
とするものがあって、「死」と漢字一文字で記すところ、肥後系諸本には、《死ぬる》《死する》と送り仮名を入れる。

 ただしこれは、個別に見れば、必ずしもすべてが筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるというわけではない。というのも、第三の《死所》は、立花峯均=越後系諸本には、《死する所》とするからである。

 この校異に関して、少し立ち入ってみる。筑前系で、この三ヶ所につき、すべてを漢字「死」一文字で記すのは、吉田家本・中山文庫本である。他方、第三の箇処を《死する所》とするのは、立花=越後系の渡辺家本や石井家本である。

 このケースにおいては、筑前系/肥後系を横断して共通する語句を、古型とみなす。したがって、肥後系において、第三の箇処を《死する所》とするのも、早期写本にあったものと思われる。これに対し、筑前系諸本のうち、早川系において、第三の箇処を《死所》とするのは、おそらく、前二ヶ所との統一を図った後智恵による措置であろう。

 しかるに、前二ヶ所については、筑前系諸本は共通して、「死」と漢字一文字で記す。ただしこれは、たとえば《死と云道》とあっても、「死」という名詞ではなく、「死ぬる」という動詞である。送り仮名がないだけである。したがって、前二ヶ所の「死」字は、「死ぬる」と読むところである。「死(ぬる)と云道」「死(ぬる)道」ということである。

 ところで、このばあい、越後系も含めた筑前系諸本に共通する表記であることから、《死と云道》《死道》というのは、筑前系初期にあった字句である。そして、柴任美矩が寺尾孫之丞から伝授された段階にまで遡りうる初期性がある。もし最初に送り仮名があれば、筑前系諸本では、作為なしにそれが落ちるということはない。それゆえ《死と云道》《死道》という表記が初期形態である。

 これに対し、肥後系諸本においては、「死(ぬる)と云道」「死(ぬる)道」について、それぞれ送り仮名を付す。前者は《死ぬる》、後者は《死する》である。つまり、前後送り仮名が異なるのである。いづれにしても肥後系の送り仮名は、寺尾孫之丞段階にあったものではなく、後になって付すようになった肥後ローカルのパターンである。したがって、後補の送り仮名はもともと恣意的なものである。後者が《死する》となっているのは、第三の《死する所》の波及効果であろう。

 以上、要するに、寺尾孫之丞段階では、前二ヶ所は、《死と云道》《死道》という表記であった。しかるに、第三の箇処のみ《死する所》と送り仮名を付した字句であった。筑前系の吉田家本・中山文庫本は、第三の箇処も漢字「死」一文字にして前後統一したが、これは後の修正である。

 また肥後系では、前二ヶ所の漢字「死」一文字を、早期に送り仮名を付すようになった。早期というわけは、早期に派生した系統の末裔たる富永家本や円明流系統諸本にも、送り仮名を付すからである。ただし、早期と云っても、これは寺尾孫之丞段階に遡りうるものではなく、孫之丞以後、門外流出後早期に、ということである。

 このあたりのことは、以下の多数の校異を分析してはじめて得る結論である。ここでは結論のみを示しておく。

 

 (4)或ハ一身の切合に勝、或ハ数人の戦に勝

 武士の道は「死ぬ」ことにあるのではない。まったく逆なのだ。

 武蔵によれば、武士の道は「勝つ」ということにある。この勝負に勝つということは、隠喩として読んでは間違うことになる。勝つとは、端的に言えば、相手を殺すということである。

 このあたり、きわめて殺伐としているが、武蔵における武士の武士たる所以は、まさに戦闘者として敵を殺して勝つということなのだ。

 したがって、武士の兵法を行う道は、何事に於ても人に優る所を本として――これは単なる競争原理と見誤られてはならない。「優る」というのは、単に人に優ることではない。戦場で敵と戦って殺して勝つというリアルな場面でのことである。

 これは「いつでも死ぬ覚悟ができている」ということしか売物にできないような武士の口吻とはちがう。武士の道は「死ぬ」ことにあるではなく「勝つ」こと、もっと明確に言えば敵を「殺す」ことにある。

 ヒューマニズムの今日からすれば、武蔵のこのテーゼは、反道徳的なことであろう。しかし道徳の彼岸に、倫理というものあるとすれば、武蔵のポジションは、まさに殺人という悪の、道徳の彼岸としての倫理の次元にある。そしてこの悪と同義の倫理、その実践思想を語ったのが武蔵であった。

 したがって、《主君のため我身のため、名をあげ身をもたてんとおもふ。これ兵法の徳なり》というのは、まさしく欲望が肯定された戦国の空気を持ち越しているわけで、兵法の徳、兵法のメリットは、戦闘術、殺人術と同時に、そうした現世的欲望を否定するのではなく、肯定し、しかも実現する効用がある。

 幕末の幕臣・川路聖謨の喝破するところによれば、武士の役儀なんぞは余事であって、武士本来の職は、「人殺し奉公」というものだ、とする(寧府紀事)。川路聖謨の口吻には、武家社会末期のアイロニーが含まれている。川路のように、江戸末期になって見える本来の真実というものがある。それが、職人としての殺人者という武士の定義である。

 川路聖謨が近世武士の道の出口なら、武蔵はその入口に位置する。ここで注意を喚起しておきたいのは、五輪書のこれが、主君のために我が身を犠牲にするという犠牲の論理ではないことである。後世の君臣関係は、そういう家臣の犠牲を美徳とする片務的関係になってしまったが、武蔵の世代まではまだ、君臣関係は双務的である。すなわち、双方に義務のある契約であって、これが履行されないとき、主従契約はただちに廃棄されるのである。

 それゆえ「主君のため、我身のため」と武蔵は言えたが、後世の武士道は、「我身のため」とはもはや主張できない畸形的で倒錯的な道徳的関係になってしまったのである。上記の細川忠利の死にともなう一連の事件は、ちょうどその過渡を示すものであろう。

 この点は、武蔵の世代を、元和偃武以後の秩序確立後に人と成った世代から截然と分けるところである。武士はまだ近世的な武士道という道徳に縛り付けられていない。そういう最後のポジションを五輪書は語るのである。

 個人的な欲望を肯定する自由な戦国の無秩序。そこから武蔵という思想者は出現した。武士の道は、死ぬことではなく、勝つことだ、まさしく、敵を殺すことだという断言。こうした武蔵のアグレッシヴなポジションは、「剣聖武蔵」といった近代鼓吹された聖人的武蔵像とは異なる。まさにこうしたアグレッシヴなポジションが、死を前にしてさえ武蔵に貫かれていたことを知るべきである。  

 


 (5)何時にても役に立様に

 世の中には、兵法の道を習っても、実際の戦いの時、役には立ちそうにないと思う気持があるだろう、という。つまり、当時、そんな気分が支配的だった。

 武蔵の晩年には、もう兵法、戦闘術など軽んじられていたようだ。天下泰平になって、武士は戦闘者であった過去を忘れ、官吏役人へ変身していた。

 そこから、兵法など習っても、いざという時の実際の役には立たない、というネガティヴな見方が出てきた。兵法無用という状況があって、現実にも無用だとするわけである。

 また一方で、戦闘術を売物にする兵法者そのものが胡散臭い存在であった。兵法はアナクロニックな芸能であった。

 これに対し武蔵は、いつでも役に立てるように、実戦的な訓練をしておくべきだとする。つまり、ここでは「役に立つ」がキーワードである。武蔵の兵法論は、どこまでも実用的(practical)なのである。

 この実用的ということについて言えば、今日世間一般の思い込み、つまり武蔵は五輪書で、剣の道を極めることを教えたというのは錯覚である。武蔵が五輪書で教えたのは、武士として役に立つように、ということである。つまり、戦いと殺人を家業とする武士として役に立つ、ということである。剣の道を極めるなどというのは、修練が自己目的化して逆立ちした、近代のロマンチックな美的妄想である。武蔵はそんなことは言わないし、ましてや教えもしていない。

 もうひとつは、前に出てきた「文武二道」の意味がここにある。

 というのも、すでに大坂陣後の元和偃武によって、武は無用化し、武士はまさに政治支配秩序の官僚、文官となったのである。本来武官であった武家は、自身が政治権力を掌握したとき、武官は形式化し、実質的には文官となる。それゆえ、武蔵がここでいう「文武二道」とは、文武両道バランスのとれた者になれという説諭ではなく、まさに武士たる者、「武」を忘れるな、という警告なのである。

 「役に立つ」という武蔵の兵法実用論、それはいわば兵法無用論へのリアクションにほかならない。これが反時代的なポジションであったことは言うまでもない。それゆえ武蔵の五輪書は、一貫して批判的スタンスを通すのである。


 校異の問題で、指摘しておくべき箇処が、ここでもいくつかある。すなわち、筑前系諸本には、
《又世の間に、兵法の道を習ても、實のとき、役にハ立間敷とおもふ心有べし》
とあって、《世の間》《實のとき》とするところ、肥後系諸本には、これを《世の中》として「間」ではなく「中」に作り、また、《實の時の》として「の」字を付す。これは、若干例外はあるが、ほぼ、筑前系/肥後系を区分する指標的相異であるといえる。

 この校異を見るに、一見したところ、肥後系諸本の字句が正しいように思われる。というのも、「世の中」は五輪書に頻出する語句であるし、また《實の時の》として「の」字を付すのにも、不都合はなく、筑前系諸本の《實のとき》は、「の」字の脱字ではないかと見えるからである。

 しかし、そうは行かないのが、五輪書研究の研究たる所以である。字句が正しそうにみえるからという理由だけでは、それが原型たということにはならないのである。

 すなわち、越後系も含めて筑前系諸本に共通して記すものは、初期性を示す語句である。寺尾孫之丞前期に遡りうる可能性が高い。それに対し、肥後系諸本は、五輪書相伝とは無縁な場所で伝写されたものであり、門外流出後の写本の末裔である。したがって、筑前系諸本と異なるばあい、その語句表記は、基本的に、後世門外での変更を蒙ったものである。

 たとえば、《世の中》という語句にしても、もし最初《世の中》という一般的な表現があれば、それをわざわざ《世の間》と誤写することはありえない。逆に、《世の間》という表現に異を感じた後世の者が、世の中に一般的な《世の中》という語句に変更したようである。あるいは《實の時の》という語句は、《實の時》とあれば文の歯切れがよかろうに、あらずもがなの「の」字を加えたものらしい。ようするに、こうしたことは、肥後系諸本のみを見ていては、思いも寄らぬことである。

 なお、この部分で、筑前系諸本の間に、ひとつ校異がある。それは、立花=越後系の渡辺家本・石井家本が《實のとき、役にたつまじきと》として、《役に》と記すところ、早川系ではこれを《役にハ》として「ハ」を入れる。

 これはどうかと云うに、それは肥後系諸本を参照すればよい。筑前系/肥後系を横断して存在する語句は、基本的に、それが古型である。ところが、このケースでは、肥後系諸本には《役にハ》と《役に》の両方がある。つまり、両方とも筑前系/肥後系を横断して存在する語句である。

 とすれば、このケースではどちらが正しい語句か、それを決することはできない。ただし、「ハ」を入れない《役に》があるのは、肥後系のうち円明流系統である。これは写し崩れの多い後期写本だから、こちらを却下すべきということになろうが、それは早計拙速というものである。

 それというのも、円明流系統諸本は早期に派生した系統の末裔であるから、肥後系早期のかたちを残している可能性もある。とすれば、こちらもあながち「ハ」字の脱落とは云えないことになる。

 円明流系の狩野文庫本では、《実の時、役ニ立まじきと》とするから、肥後系一般の《時の》ではない。そうしてみれば、越後の石井家本と円明流系狩野文庫本は、同じ文の構成を示す。

 しかも、云うまでもなく、両者は最も遠い関係にある。これが偶然ではないとすれば、これが筑前系/肥後系を横断して存在する古型ということになる。ようするに、柳田國男の蝸牛論ではないが、辺縁に古型が残されることがあるという理である。

 したがって、《役にハ》と《役に》のどちらが正しいか、我々の所見では、この問題は、当面、未決事項とすべきところである。それゆえ、我々のテクストでは、《役に(は)》と記して、両方可能性のあることを示しておいたのである。

3. 兵法の道

【原文】

一 兵法の道と云事。
漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、
兵法達者と云傳たり。
武士として、此法を学ばずと云事有べからず。
近代、兵法者と云て世をわたるもの、
これハ劔術一通りの儀也。
常陸國鹿嶋かんとりの社人共、
明神の傳として流々を立て、
國々を廻り人に傳事、近き比の事也。
いにしへより十能七藝とあるうちに、
利方と云て、藝にわたるといへ共、
利方と云出すより、
劔術一通りにかぎるべからず。
劔術一へんの利までにてハ、劔術もしりがたし。
勿論、兵の法にハ叶べからず。(1)
世の中を見るに、諸藝をうり物に仕立、
わが身をうり物の様に思ひ、
諸道具に付ても、うり物にこしらゆる心、
花實の二つにして、
花よりも実のすくなき所也。
とりわき此兵法の道に、
色をかざり花をさかせて、術をてらし、
或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ、
此道を習て利を得んと思事、
誰か謂、なまへいほう大きずのもと、
誠なるべし。(2)

凡、人の世をわたる事、士農工商とて四の道也。
一にハ農の道。
農人ハ、色々の農具をまうけ、四季轉変の
こゝろへ暇なくして、春秋を送る事、是農の道也。
二にハ商の道。
酒を作るものハ、それ/\の道具を求め、
其善悪の利を得て、とせいを送る。
何もあきなひの道、其身/\のかせぎ、
其利を以て世をわたる、是商の道也。
三にハ士の道。
武士におゐてハ、さま/\の兵具をこしらへ、
兵具品々の徳をわきまへたらんこそ、
武士の道なるべけれ。兵具をもたしなまず、
其具/\の利をも覚へざる事、
武家ハ、少々たしなミの淺きものか。
四には工の道。
大工の道におゐてハ、種々様々の道具を
たくみこしらへ、其具/\を能つかひ覚へ、
すみかねをもつて、其指圖をたゞし、
暇もなく其わざをして、世をわたる。
是士農工商、四の道也。(3)

兵法を、大工の道にたとへて云顕す也。
大工にたとゆる事、家と云事に付ての儀也。
公家、武家、四家、
其家の破れ、家のつゞくと云事、
其流、其風、其家などゝいへバ、
家と云より、大工の道にたとへたり。
大工は、大にたくむと書くなれバ、
兵法の道、大なるたくミによつて、
大工に云なぞらへて書顕す也。
兵の法を学ばんと思はゞ、此書を思案して、
師は針、弟子は糸となつて、
たへず稽古有べき事也。(4)

【現代語訳】

一 兵法の道という事

中国から我が国まで、この道を(自在に)行う者を、兵法達者〔兵法に熟達した者〕と言い伝えてきた。武士である以上、この法〔兵法〕を学ばないということはあってはならない。

近年、兵法者と称して世渡りをする者(がいるが)、これは(兵法というより)剣術だけのことである。常陸国の鹿島・香取の社人どもは、明神からの伝授として諸流派を立て、国々を廻って人に伝授しているが、これは近年のことである。

昔から「十能七芸」とあるなかで、(近代の兵法者は)「利方」〔りかた、役立つ〕と宣伝して、(剣術の)芸で世渡りをしているのだが、「利方」〔実用性〕を主張するのなら、剣術だけに限定してはならない。剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術でさえ知ることは難しい。勿論、兵法(全般)に叶うことはありえない。

世の中を見るに、諸々の芸を売物に仕立て、我身を売物のように思い、諸道具についても売物に拵える。そういう心は、花と実の二つに分ければ、花よりも実が少ないというところである。とりわけこの兵法の道に、色を飾り花を咲かせ、術を衒し〔見せびらかし〕、あるいは第一道場、第二道場などといってこの道を教え、またこの道を習って、利益を得ようと思うこと、たれかいう、「なま兵法、大けがのもと」とは、まさにこのことだ。


およそ、人が世を渡るには、「士農工商」といって四つの道がある。

一つには「農」の道。農民は色々の農具を設け、四季の気候の変化にたえず注意して日々を送ること、これが農の道である。

二つには「商」の道。酒を造る者はそれぞれの道具を求め、その(商品の)善し悪しで利を得て、渡世とする。どんな商売でも、それぞれ自身の稼ぎ、その利をもって世を渡ること、これが商いの道である。

三つには「士」の道。武士においては、さまざまの武器をこしらえ、兵具それぞれの徳〔特性〕を弁えていることこそ、武士の道というものであろう。兵具の嗜みもなく、その道具それぞれの利点をも知らないようでは、武家は少々嗜みが浅いということか。

四つには「工」の道。大工の道においては、種々様々の道具を工夫して拵え、それぞれの道具をうまく使うことを覚え、墨矩〔すみかね〕をもってその指図〔設計〕を検討し、たえずその仕事をして世を渡るのである。

これらが「士農工商」四つの道である。


兵法を大工の道にたとえて言いあらわすのである。大工にたとえるのは、「家」ということに(関連)付けてのことである。

公家、武家、四家*〔しけ〕。其家の破滅、家の存続という事、あるいは、その流、その風、その家などという。そこで、家ということから、大工の道にたとえるのである。

大工は「大いにたくむ」と書く。それゆえ、兵法の道も、大いなるたくみ〔企み〕によって、大工に云いなぞらえて書きあらわすのである。

兵法を学ばんと思うのなら、この書を読んでよく考えて、師は針になり弟子は糸となって、たえず稽古するようにしなければならない。

【註解】

 (1)劔術一通りにかぎるべからず

武蔵はかくも状況批判的だが、その論点の第一は、武士である以上、兵法、つまり戦闘術を学ばなければならない、この戦闘術は総合的な武芸であって、剣術だけに限ってはならない、ということである。

この武蔵による批判を見るかぎりにおいて、当時すでに兵法という広義の戦闘術の意味は廢れ、武士の戦闘術といえば剣術、というように兵法の意味の幅は狭くなっていたらしい。

かくして我々のいう、剣の精神化・剣の物神化が始まっているのだが、ここで武蔵が具体的に名指しして批判しているのは、鹿島香取の社人たちである。これはどういう存在であったか。

鹿島は常陸国(現・茨城県鹿嶋市宮中)、香取は下総国の、それぞれ一之宮、古い神社である。祭神をみると、鹿島はタケミカツチ(建甕槌命)、香取はフツヌシ(経津主命)と、共に日本神話のハイライト、国譲りの段に登場する神である。

両社はともに武剣の神社として古来伝統があり、鹿島神宮神宝の国宝直刀は、八尺を超える長大なもので、平安期の作刀とされる。家康以来、将軍家の社殿造営があり、鹿島・香取ともに全国に末社が多い。『撃剣叢談』に、
《鹿島流は常陸國鹿島に出づ。鹿島並に下總國香取の社の神宮等は、往古より剣術を業とす。夫故上手も多かりし。此鹿島神官等の門人に入て學び、鹿島流と稱へて世に傳ふる者往々有也》
とあり、また『北条早雲記』に、
《神道流の術は鹿島香取の両神より長威齋へさづけ給ふ刀術ゆゑ、傳書に天真正傳とあり天真正とは両神の事也と云へり》
とある飯篠長威斎の神道流にしても、神授の武術を売物にしたのである。新当流の祖・塚原卜伝は鹿島神宮の神官、吉川氏の出ということである。

戦いに当って、全員一致の一揆性を神前で確認し、誓約するだけではない。そもそも戦闘術が神授のものであった。これは鹿島香取の神道流に限らず、他の流派にも謂う事例は尠なくない。いわば戦闘者の《マナ》は中世的宗教性を帯びていた。

たとえば、それは、陰流始祖愛洲移香斎、九州鵜戸神宮に参籠し感霊を蒙り、念流慈音、同じく鵜戸神宮に参籠し、また筑紫の安楽寺に奥旨を感得したという。神道流始祖飯篠長威斎、鹿島・香取神宮に神授を得て、新当流塚原卜伝、鹿島神宮に祈願し霊夢を得る。天道流斎藤伝鬼坊、鶴岡八幡宮に参籠し霊夢の瑞を得て、また東軍流川崎鑰之助、上州白雲山に神旨を悟り、林崎甚助重信、林崎明神に祈って術を悟り、片山伯耆守久安、阿太古社に詣で霊夢を得て明悟という。竹内流始祖竹内中務大夫久盛、異人より業を教授されるという等々、その事例は多い。

しかしながら、それだけではない。別の事情もある。

戦国期を通じて大きな寺社は武装し領地を維持していた。言うならば、地域に割拠する武装集団の一種であって、その限りにおいて武士団と変りはなかった。この伝統は平安末期の叡山・多武峰の僧兵社人にまで溯る。とくに山岳の寺社などはそれが要塞化して、後の武家の山城のモデルになったのである。

かくして後世の常識とは違って、戦国期までは、寺社は武装した僧兵社人を多く擁し、さながらそれが一つの領主であった。この武装寺社の伝統の中から、戦闘術がさまざまに誕生したのである。したがって武士だけではなく、寺社の僧や社人は武術の発達を支えた集団であった。

この点で、「鹿島香取の社人ども」とあるところ、岩波版注記に《鹿島香取の神官たち》とするのは社人のことを知らないからである。社人とは神人〔じにん〕とも呼ばれた部類の者らで、寺院でいえば僧兵にあたる。これを「神官」と訳してしまっては間違いである。

従来の解釈本や現代語訳も同様であるが、とくに「社人」を、あろうことか「神主」と解し訳してしまうのは、無知な情けない誤謬である。


さてここで、武蔵は《常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り、人に傳事、近き比の事也》と記す。ここには鹿島・香取は古い神社かもしれないが、その社人が神授の剣術だと宣伝して売って歩くようになったのは、最近のことだ、決して古いことではないという。この武蔵一流の揶揄から、我々は剣道史の常識とは違う証言を得るのである。

すなわち、当今の剣道史において、鹿島香取に由来する諸流派をもって重要な起点とされるところであるが、実際の歴史は決して鹿島香取を中心とするものではなかったことである。実はこれは、神君家康が両社を保護した結果に過ぎず、江戸の幕府の威光を背景にして、この流派が全国展開に乗り出し、その宣伝を通じて、自らは剣の道の本家なり、元祖なり、とする歴史を捏造したものであった。

ところが、それを真に受けた後世の剣道史家が再生産した物語が、支配的になってしまったのである。武蔵の《近き比の事也》という証言は、剣道史に根本的な変更を要求するものだが、まだそれをまともに受けとめた論は出ていない。

ところで、《近代、兵法者と云て世をわたるもの》と武蔵が書いているところをみると、天下泰平になって、武芸を売る芸能者は却って増えたのかもしれない。ところが、その武術が剣術にのみ偏向したものである。武蔵はこれに異を称えるのである。「剣聖武蔵」などいうイメージからすれば、逆であろうが、実際は武蔵は剣への偏向、剣術中心主義(swordmanship-centrism)を批判しているのである。

剣術中心主義批判。――これは、本来総合的な兵法が、剣術に収斂されてしまう状況の中で、その一元化を批判しているのである。戦場での実戦性能をみれば剣が有利なのではない。しかし明らかに、武芸が実戦から乖離してしまう状況の中で、こうした剣術の特権化が生じたのである。言い換えれば、戦場のリアリティが喪失されると同時に、剣がシンボリックな覇権的ステイタスを獲得したのである。

――――――――――――


以下、もう少し踏み込んで読み解くために、ここで、語釈の問題にふれておく。

まず、「十能七芸」というのは、多種多様な芸能ということである。ここでは、もろもろの戦闘術のことを指して、「十能七芸」というわけである。

ここには「七芸」とあるが、本来は「六芸」という。六芸とは、古代中国で云われたことである。この場合、士以上の階級の学修すべきものとして、礼・楽・射・御(馬術)・書・数の六種の技芸があった。

これは日本に文化輸入されたが、後世、兵法の六種の武芸、すなわち剣・槍・弓・馬・柔・砲を指して謂うようになった。柔は体術、つまり格闘術であり、砲は鉄砲のことで、これも兵法のなかの種目である。

ここでの「芸能」は武術諸般のことである。「芸能者」「芸者」とは武芸者のことであった。

戦闘術としての兵法は、実戦において多様な武術を含んでいた。武蔵が、兵法は剣だけに限定してはならない、とするわけである。

ところで、五輪書では、この「六芸」を「七芸」としている。この「六」と「七」の相違に注目すれば、この「七芸」のようにどうして「六芸」から一つ数が増えたかというと、それは上記の剣・槍・弓・馬・柔・砲の六芸に、「兵法」を追加しているからだ。いいかえれば、兵法は類概念であって、その中に六つの種(species)を含むのであるが、その種に類が並列する。

歴史的にいえば、「七芸」と記すのは、近世の新しい用法である。しかし、武蔵の時代では、それはまだ定位を得ているわけではない。それゆえ、五輪書では、武蔵はこの類概念としての兵法について、あれやこれや述べざるをえないのである。


さて次に言えば、ここで、武蔵は、重要なことに言及する。重要なことだが、語釈にやや難しい点があり、これまで正しく読まれたことがない、という曰くつきの箇処である。

――昔から「十能七芸」とあるなかで、近代の兵法者は、「利方」、役立つぞと言って、剣術の芸で世渡りをしているのだが、そのように利方〔実用性〕を主張するのなら、剣術だけに限定してはならない。剣術だけの「利」に留まるなら、その剣術でさえ知ることは難しい。勿論、兵法(全般)には叶うことはありえない。――というわけである。

ここでいう「利方」は、現代語で言えば、実践的勝利法というほどの意味合いである。ただしこの語のニュアンスは、きちんとわきまえておかねばなるまい。「利方」という語は、「りかた」「りがた」と訓むが、実効性がある、実用的というほどの意味あいである。たとえば、
《大小の拵へも、りかたを好む立派の侍》(浄瑠璃・近江源氏先陣館)
がそれで、この文意は、大小の刀の拵えも、装飾的ではなく実用性を好む、ということである。このケースでは、「りかた」は実用性の意味である。

「利」という語も、利益にとどまらず、効果的、実効性があるという意である。ちなみに「利発」とは賢〔さと〕いという意味だけでなく、役に立つことを意味する。《りハツ(利発)なる小判を長櫃の底に入置》(日本永代蔵)とは、実効性がある、役に立ってくれる金貨という意である。

とくに兵法に「利」ということを言うのは、たとえば『孫子』に、
《利あらずば動かず、得あらずば用ゐず、危あらずば戰はず》
《利に合して動き、利に合せざれば止む》(火攻篇)
とあるように、あくまでも戦争における実利主義的原則からくる。この反精神主義的な原則は、古来のものであって、とくに言うべきことはない。武蔵の「利」の概念とその論も、この伝統の系譜のうちにある。

そういう「利」につく戦法、「利方」という以上、これは兵法全般にかかわることなのである。そこで、《劔術一へんの利までにては、劔術もしりがたし》――剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術も知ることは難しい、という。

この《劔術一へんの利》の「一へん」は、「一偏」〔いっぺん〕、すなわち、それだけに偏るということである。「一遍、二遍」、一回、二回という方の「いっぺん」ではない。武骨一偏、正直一偏という方の「いっぺん」である。それだけが取り柄の、という意味もある。

したがって、《劔術一へんの利までにては、劔術もしりがたし》とは、剣術だけに偏った「利」に留まるなら、その剣術も知ることは難しい、ということである。「鹿嶋香取の社人ども」にはじまり、いわば、このあたり明確に剣術中心主義批判が提起されているのである。

そして言う、――勿論、「兵の法」には叶うことはありえない、と。ここでいう「兵の法」の「兵」は、軍隊という意味ではなく、本来「兵器」「武器」の意味である。したがって、「兵の法」とは武器の取り扱い方というのが字義通りの意味である。

ただし、その意味合いを残しながら、一方で「兵の法」は文飾で、本来たんに「兵法」というところを「兵の法」と書いて、少し気取ったスタイルにしているのである。我々の訳では、これをたんに「兵法」としているが、上述の「兵の法」の「兵」は、「兵器」「武器」の意味だという含みも念頭においていただきたい。文章語句は意味の揺らぎの中でふくらみをもつのである。

――――――――――――


かくして、武蔵の剣術中心主義批判が提起されたわけだが、このあたり、既成現代語訳はいかがと見るに、いづれも見事に間違っている。

戦前の石田訳は、《劔術一へんの利までにては》を、「劍を使ふ理を知つてゐるといふだけでは」と訳して、《劔術一へんの利》を訳していない。そもそもここでは「利方」という話なのに、「利」を「理」とすり替えるというのは、どういうわけか。「剣理」だの何だのという近代剣道の先入見が、明らかな文字さえ別の文字に読んでしまう。

この訳文では、剣理を知っているだけではダメだ、実際に剣で戦わなければ、という文脈が発生してしまう。武蔵の剣術中心主義批判が霞んでしまっている訳文であり、誤訳である。

では、戦後になるとどうか、というに、まず神子訳は、これを「剣術だけの技術によっているうちは」と読んだ。ここで「技術」という語が出てくるのは、どうにも解せないことだが、おそらく、ここに出てくる「利」を「利業」と読んだものらしい。これでは、「利方」うんぬんという文脈を見失ってしまっているのである。これも、武蔵の「利」という概念を理解していない誤訳である。

また、神子訳は、《兵の法》という語を、「戦争の原則」と訳しているが、これは《兵の法》が「兵法」の修辞的表現だと知らないために、無理な誤訳に及んだのである。

ちなみに神子訳の後の岩波版注記は、《劔術一へん》の「一へん」について、「一通」と同意の語だとして、「通り一遍。ただうわべだけの実意のこもらぬこと」と注釈している。これは、「一へん」を、偏るの「一偏」ではなく、一回二回の「一遍」と誤読したものだが、どうして、続いてこれが「通り一遍」の意味に化けるのか、奇怪ななりゆきである。

この語釈のように、ただうわべだけの実意のこもらぬ剣の修行ではダメだ、ということなら、心底実意のこもった剣の修行をすべきだ、という文脈が発生してしまう。これも、武蔵の剣術偏向批判を、どうしても読みたくないらしい。「剣聖武蔵」が剣術中心主義を批判しているなどとは思いも寄らぬものらしく、文章をねじ曲げて解釈しようとするのである。

この岩波版注記が出て、混乱の度合いを増したのが、続く現代語訳二者である。大河内訳は、《劔術一へんの利までにては》を、「剣の技術だけによっているうちは」と訳した。これは神子訳の翻案だが、それを誤って翻訳している。「剣術だけの技術」ではダメだというのが神子訳だが、大河内訳は、「剣の技術だけ」ではダメだという具合に、文意をズラした。これでは、剣の技術だけではダメだ、剣の心がなくては、という文脈が発生してしまう。つまり剣術への偏向を批判する武蔵の論旨はどこかに消えてしまったのである。もちろん、「利方」うんぬんの話も消滅してしまっている。

もう一つの鎌田訳は、これを「剣術だけに役立つのでは」と訳した。これは「利方」という文脈に留意した点で、既存の諸訳とは異なる方向に進んだのだが、もちろん訳文は誤訳である。《劔術一へんの利》というのは、「剣術だけに役立つ」ということではなく、「利方」といっても、剣術だけに偏った「利」にとどまっているようではダメだ、ということである。ようするに、この訳文では「利」という武蔵語彙が消えて、「利方」ということに関説しての、武蔵の剣術偏向批判という趣旨が行方不明なのである。

また、大河内訳・鎌田訳ともに、神子訳の影響を受けて、《兵の法》を、それぞれ「兵法の原則」「戦争の掟」と訳出している。むろん、「戦争の原則」「兵法の原則」「戦争の掟」、どれもこれも珍訳の類である。この点、戦前の石田訳はこれを「兵法」と記して、誤っていない。他例にも明らかなように、戦後になって五輪書翻訳能力が低下したのだが、これもその一例である。

というわけで、この肝心な、武蔵の剣術中心主義批判の箇処は、正しく翻訳されたことがなかったのである。言い換えれば、近現代の剣道イデオロギーもさることながら、「剣聖武蔵」という思い込みがあって、武蔵の剣術中心主義批判が読めていないのである。あるいは訳者には、無意識にそうは読むまいという否認の諸機制(mechanisms of Verleugnung)が、作動しているようである。

――――――――――――


次に、この部分の諸本校異に立ち入ってみる。校異箇処が二、三蟠っているので、以下に、まとめて示す。


*【吉田家本】
《漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、兵法達者と云傳たり。武士として、此法を学ばずと云事有べからず。近代、兵法者と云て世を渡もの、これハ劔術一通の儀也。常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り、人に傳事、近き比の事也。いにしへより十能七藝と有うちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通にかぎるべからず》

*【楠家本】
《漢土和朝迄も、此道をおこなふ者を、兵法達者といひつたへたり。武士として、此法を学ばずといふ事有べからす。近代、兵法者と云て世をわたるもの、是ハ劔術一通の事也。ひたちの國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳へとして流々をたてゝ國々を廻り、人につたゆる事、ちかき比の儀也。去しへより、十能七藝と有内に、利方と云て藝にわたるといへども、利方と云出すより、劔術一通にかきるべからず》

*【丸岡家本】
《漢土倭朝までも、此道を行ふ者を、兵法の達者といひ傳へたり。武士として此法を不学といふ事有べからず。近代、兵法者と云て世を渡る者、是は劔術一通りの事なり。常陸の國かしまかんとりの社人共、明神の傳へとして流々をたてゝ國々を廻り、人に傳る事、近き比の儀なり。古へより、十能七藝とある内に、利方と云て藝にわたるといへども、利方と云出すより、劔術一通りに限るべからず》

*【石井家本】
《漢土和朝迄も、此道をおこなふものを、兵法達者と云傳たるハ、武士として、此法を学バずと云事有べからず。近代、兵法者と云て世をわたるもの、これハ劔術一通りの儀なり。常陸國鹿嶋かんとりの社人共、明神の傳として流々を立て、國々を廻り人に傳事、近き比の事也。いにしへより十能七藝とあるうちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通りにかぎるべからず》

*【細川家本】
《漢土和朝までも、此道をおこなふ者を、兵法の達者といひ傳へたり。武士として、此法を学ずと云事あるべからず。近代、兵法者と云て世を渡るもの、是は劔術一通の事也。常陸國かしまかんとりの社人共、明神の傳へとして流々をたてゝ國々を廻り、人につたゆる事、ちかき比の義也。古しへより、十能七藝と有うちに、利方と云て藝にいたるといへども、利方と云出すより、劔術一通にかぎるべからず》

*【富永家本】
《漢土和朝迄も、此道を行ふ者を、兵法の達者といひ傳へたり。武士として、此法を学ばずといふ事不可有。近代、兵法者と云て世を渡る者、是ハ劔術一通の事なり。常陸国鹿嶋かんとりの社人ども、明神の傳へとして流々を立て国々を廻りて、人に傳る事、近比の儀なり。古より、一能七藝と有内に、利方と云て藝に渡るといえども、利方と云出すより、劔術一通にかきるべからず》


まず、この箇処につき、肥後系諸本の中には、相互に異なる語句を記すものがある。

それは筑前系諸本に、《兵法達者》とするところを、細川家本・丸岡家本ほかの諸本は《兵法の達者》として、「の」字を入れる。これは、あらずもがなの衍字誤記である。

というのも、肥後系のなかには、楠家本のように、《兵法達者》として、筑前系諸本と同じ語句に書くものがある。そして、筑前系/肥後系を横断して共通する語句は、基本的に古型を示す。このことから、細川家本と丸岡家本などの《兵法の達者》という語句の「の」字は、後に発生した衍字であり、楠家本の《兵法達者》が正しいのである。

こうしたことは、肥後系諸本のみを見ていては、その正誤の判別のしようがあるまいし、ことに細川家本を信奉している者らは、《兵法の達者》の「の」字が余計な誤記であることに、いまだに気づきもしない。筑前系/肥後系を横断して広く諸本を校合するという基本的な手続きを踏む研究者は、今まで現れたことがなかったのである。

次に、興味深い校異がある。すなわち、筑前系諸本が、
《これハ劔術一通の儀也》《近き比の事也》
とするところ、肥後系諸本は、
《是ハ劔術一通の事也》《ちかき比の儀也》
とするのである。つまり、「儀」と「事」という文字が、そっくり入れ替わっている。

これは、筑前系諸本では、立花峯均系統の越後本まで同じだから、筑前系初期からこうなっていたものである。さらに、柴任美矩が寺尾孫之丞から承けた五輪書には、こう記されていた可能性がある。つまり、寺尾孫之丞前期の語句ということである。

それに対し、肥後系では、諸本ほぼ同じく、事/儀(義)の順序だから、おそらく肥後系早期にこの順序でこの語句があったものである。しかるに、これが寺尾孫之丞段階まで遡る校異か、というと、それをサポートする要件がない。

この順序の相異は、「儀」と「事」という文字だから、大きく文意を変えるものではないとしても、寺尾孫之丞が前期と後期で、この二語を入れ替えたとみるには、その理由がない。これは寺尾孫之丞以後、さらに門外流出後の後人の所為であろう。

他方、もし仮にこれが前期/後期の相異だとしても、筑前系諸本が示すのは、寺尾孫之丞前期、承応年間の柴任相伝のものである。したがって、後期のものより優先順位は高い。したがって、ここは、《劔術一通の儀》《近き比の事》とあるところを採るべきであろう

また、ここの別の校異では、諸本に《藝にわたる》とするところを、肥後系細川家本にのみ、《藝にいたる》として、「わ」字を「い」字としている。これは単純な誤写である。

山本源介を宛名とする細川家本と同系統の写本に、常武堂本がある。それはどうかと見るに、常武堂本は、諸本と同じく、これを《藝にわたる》と記している。とすれば、これは、細川家本固有の誤写であり、しかも、常武堂本の祖本と細川家本が分岐派生した後に発生した誤記である。

この種の事例は、五輪書を通じて、他にも尠なくない。ようするに、このように肥後系諸本のなかでも細川家本に特徴的誤記があることは、細川家本が繰り返し伝写された後の写本だということを示す。

世の中には、細川家本が古型を保つと、いまだに信じて妄説を反復する者が跡を絶たないのだが、そうした盲信には根拠がないということは、こうした事例でも明らかである。


(2)なまへいほう大きずのもと、誠なるべし

これも状況批判、とくに剣術中心主義の兵法者に対する批判である。世の中を見るに、諸芸を売物に仕立てて、我身を売物のように思い、諸道具についても売物に拵える心がある、というのは、ある意味で文字通り、《武芸の商品化》である。つまり、武芸が芸能化して「売る」という風俗が生まれたのである。

この芸能商品化批判は、しかし、大切な武術を商品にするな、といった後世の道徳主義的・精神主義的な武道神聖観念からの批判と同じではない。むしろまったく逆なのだ。

武蔵は、この兵法の芸能商品化において、実がなくて花しかない、兵法が実戦において役に立たない見かけだけ、格好だけの飾り物に堕してしまっていると批判するのである。武蔵はあくまでも実戦主義である。
《とりわき此兵法の道に、色をかざり花をさかせて、術をてらし》

とりわけ、この兵法の道に、という。この《此兵法の道》というのは、前からの文脈からすれば、とりわけ、剣術兵法の道に、という意味である。

ここでの「花/実」の比喩に関して云えば、武蔵の念頭にあったのは、たとえば稲であろう。稲の花ばかり多くて実りの少ない、そんなケースもある。実践主義において豊穣とは、花の多いことではなく、実のあることなのだ。この実の道、花よりも実、という比喩のラインを見ておくことである。

また、《一道場、二道場など云て、此道をおしへ》とあるのは、門人を多数集め、門前市をなすありさまで営業繁昌して、一つの道場だけでは足らず、第二道場まで設けて、剣術指南しているという場面を指している。

なるほど、門人数千という伝説のあるケースも少なくない。今日の例でもわかるが、何事であれ、人気があるからといって、それが上等だと思うのは錯覚である。商売上手は、商人のみではなく、剣術指南にもあることである。

売れているから偉いと思うのは、現代人にもある錯覚で、それゆえ、通俗剣術評論などでみかける話である。何某は門弟何千人、だから強かったのが分るなどと、たわ言が語られているが、現代の流行作家でも同じことだが、人気があるからといってその作品が上等なのではない。

武蔵が、《一道場、二道場など云て》と、ここで揶揄しているのは、おそらく上方や江戸など、大都市で繁昌して門人多数を擁するケースであろう。世間に売れている道場である。これも、武芸の商品化という一連の話である。

ここで、《なまへいほう大きず(大疵)のもと》(なま兵法、大怪我のもと)と、俚諺を引くのは、武蔵のユーモアであるが、これによって知れるのは、この諺が当時すでに出来ていたということである。

こういう戯言めいた語り口は、「どうしようもない連中だよ」といった武蔵の苦笑が見えそうだが、そういう言葉の端々から知れるところ、武蔵は五輪書を、けっこう楽しんで書いているようである。

なお、この《なまへいほう》という字句について、注意を喚起すべきべきことがあろう。

この五輪書では、「兵法」という語が頻出するのであるが、今日、この「兵法」という語を「ひょうほう」と読む者がある。漢音・呉音の相違であるが、「兵法」を「ひょうほう」と読むのは後の時代のことである。

この箇処で知られるように、武蔵の時代では、「兵法」は、「ひょうほう」ではなく、「へいほう」と読んだ。したがって、五輪書の「兵法」を「ひょうほう」と読むのは誤りである。

こうしたことが知れるのも、この書物が異例にも、和語仮名を多用して書かれているからである。

――――――――――――


ここで、校異の問題について、指摘すべきところは、次の点であろう。すなわち、筑前系諸本には、
《色をかざり花をさかせて、術をてらし、或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ》
とあって、《術をてらし》とするところ、肥後系諸本では、面白いことに、字句がさまざまで一定しない。

   術とてらし (楠家本)

   術とてらひ (細川家本)

   術をてらひ (丸岡家本)

   術をてらし (富永家本)

これを見るに、肥後系諸本は、文字の交換ゲームのように、写本ごとに語句が異なっている。つまりは、この部分に関して、肥後系諸本には写し崩れがあって、繰り返し伝写を経たものだと知れるのである。

どれが正しいかといえば、筑前系諸本の字句を参照すればわかることである。つまり、筑前系/肥後系を横断して共通する語句が、基本的に、寺尾孫之丞段階へ遡りうる初期性を有する。このケースでは、肥後系のうち、富永家本のみが正しい書記を示している。

つまり、このことで判明するのは、第一に、写し崩れの多い富永家本だが、こうした正しい語句を伝えているケースもあることである。

第二点は、後期写本にもかかわらず、他の諸本にはない正しい語句を、しばしば記載するのは、肥後系早期写本の痕跡を留めているということである。言い換えれば、肥後系のなかでは早期に派生した系統の末裔である、ということである。

もう一つ、このことで判明することがある。つまり、肥後系のうち、比較的正確な部類に入る楠家本・細川家本・丸岡家本であっても、このようにそれぞれ異なる写し崩れがあるということは、この三本の写本としてのステイタスを示している。

すでに述べたように、肥後系諸本のなかでも細川家本のみ誤記するケースでは、細川家本の古さを主張する説は、妄説として否定されるところだが、このように、三本とも間違っている事例をみれば、楠家本・丸岡家本とも、細川家本と大差ない段階での写本である。どれも、肥後系初期写本からの距離が相当あるものとしなければならない。

それに対し、富永家本は、これら三本よりも後の時代の写本であろうが、早期に分岐した別系統の写本であるため、この三本が誤写する以前の形を保全しているケースもあるということである。

さて、ここでのもう一つの校異は、筑前系と肥後系を区分するものである。つまり、筑前系と肥後系では相異があるが、肥後系は諸本共通であるから、筑前系/肥後系に明瞭な相違があるということである。

それは、筑前系写本では、《或ハ一道場、二道場など云て》という部分であるが、肥後系はそこを、《或ハ一道場、或ハ二道場など云て》として、第二の「或ハ」と挿む。このケースについて見てみよう。

これはどちらが正しい書記であるのか。もしこれを、従来のように肥後系諸本を中心にして見れば、筑前系諸本は、第二の「或ハ」を落としていることになる。すると、筑前系はここに脱字を有するという結論になるが、それは妥当な判断であろうか。

これも、爾後にも多い例の一つだから、ここで、この種の校異パターンを見出すために、少し立ち入って見ておく必要がある。

まず、検証するのは、筑前系諸本に共通するものか否か、という点である。これは既述のごとく、共通ならば、初期性を示す語句である。

さらに、念のため見ておくべきは、文意の点でどうか、ということである。このケースで、第二の「或ハ」がない筑前系のばあい、文意は、上掲の我々の読解のように、ここは、門人を多数集め、一つの道場だけでは足らず、第二道場まで設けて、繁昌しているという場面である。

それに対し、肥後系諸本のように第二の「或ハ」を挿むばあいは、そういう文意にならず、第一道場、あるいは第二道場、というような別項枚挙の「或ハ」になる。たとえば、五輪書の記述例では、次条に、《棟梁におゐて、大工をつかふ事、其上中下を知り、或は床まはり、或は戸障子、或は敷居、鴨居、天井已下、それ/\につかひて》とあるように、「或ハ」という語は別のケースを枚挙するのに用いるのである。

しかし、ここでの文脈からすれば、このケースもあれば、あるいは別のケースもあるという枚挙では、文意不通である。つまり、「ある場合は第一道場、ある場合は第二道場などと云って、この道を教え」ということでは、何のことだか、話が胡乱である。これは第二の「或ハ」が介在するためである。「或ハ」は第一のそれだけでよい。「或ハ」は、「第一道場、第二道場などと云って、この道を教え」という文にかかるのである。

要するに、肥後系諸本の第二の「或ハ」という字句は、第一の「或ハ」に引かされて、挿んでしまった偶発的誤写なのである。それが肥後系諸本に共通するところをみると、これは肥後系早期の写本に発生した誤記なのである。

しかも、文意不通のところからすれば、寺尾孫之丞段階で、これがあったとは思われない。孫之丞相伝の写本より後に発生した誤記である。このように、肥後系早期の誤写だが、寺尾孫之丞段階より後に発生した誤記、つまり門外流出後、書写された段階で生じた誤記がある。

そして、寺尾孫之丞以後に発生した偶発的誤記が、肥後系諸本に共通するとすれば、それは、その誤記を発生させた写本こそ、肥後系現存写本の元祖なのである。その後も派生伝写されて行って現存写本に至るのだが、このことから帰結されるのは、肥後系諸本は当初、複数の系統から発したのではない、ということである。筑前系/肥後系を区分する校異において、このパターンがあることを、以後念頭におかれたい。

こうしたことは、むろん、肥後系諸本だけを見ていては分らないことである。筑前系諸本へも横断して照合してみなくては、肥後系諸本のどれが正しいのか、判断がつかなし、あるいは肥後系諸本全体が間違っている場合はなおさら想定外のことで、そんな問題があるとさえ、気づかれもしなかったのである。

従来の五輪書研究は、肥後系諸本を中心としたものであったから、諸本照合の範囲が決定的に限定されており、そのため根本的に誤った史料評価を繰り返してきた。そういう悪弊にも、そろそろ気づかれて然るべき時なのである。

 

(3)人の世をわたる事

ここから以下、話の趣ががらりと変る。つまり、前段までは、剣術中心主義批判だが、ここで話が一変する。

本条のタイトルは「兵法の道と云事」だが、それに適合するのは、前段までである。しかし、それは、「生兵法、大疵のもと」の俚諺が出たところで終っているから、剣術中心主義批判の文は、書きさしのままの草稿だったのである。

これは、この条が武蔵草稿にこの順序で書かれていたというよりも、武蔵の断簡が種々あって、それを寺尾孫之丞が編集して、この「兵法の道と云事」の後に、武蔵の草稿文章を編入したのである。したがって、本条は長くなっているが、それだけではなく、五輪書が未定稿だったという特徴を示すところである。

とりわけ、如上の事情なので、本条の話の筋は統一性を欠く。この条に収録された文は、武蔵の断簡を集めたとは言え、編集の手に余るもので、収拾がついていない。それは武蔵のオリジナルそのものが、諸文書きさしのままで、未完成だったからである。

ようするに寺尾孫之丞は、武蔵の断簡を捨てることなく、ここへ編入したのである。後世の我々は、寺尾孫之丞がここに集めた三つの断簡を読んでいる途中である。すなわち、
A 剣術中心主義批判
B 士農工商、渡世論
C 兵法を大工の道に譬えること

我々の目下の場所は、この三つのパートのうち、二番目の話の入口にいるわけである。

さて、ここでは、およそ、人が世を渡るには「士農工商」四つの道がある、として武蔵は、社会を構成する諸職業の渡世の道について語り出す。

この部分はとくに説明は要しない。それは、現代の我々にも、そのままさして抵抗なく入る考えであるからだ。そのこと自体が不思議に思えなくてはなるまい。

というのも、当時すでに近世的身分観念が相当支配的になっていたから、垂直的身分制度を、自然または当為として語る社会構成論が大半であった。そうでない場合でも、せいぜい士農工商を社会分業論で説くにとどまる。

これに対し、ここで武蔵が言うのは、もっと具体的な話で、「世を渡る」という個人の渡世の仕方で差異を説明し、同時にその渡世の仕方は根本的に差異はないのだ、ということだ。この無差別論は、先に「死ぬ」という道においても示されたが、この「生きる」という道においても、同じスタンスで語られるのである。

士農工商という成語にも関わらず、五輪書が、武士を最初に挙げるのではなく、農商の次の三番目に武士を挙げるのも注意されるところである。

言い換えれば、これは実践的な社会論である。士農工商とはいえ、武蔵は決して身分の上下など語ってはいない。渡世の生活次元で職業の差異を云うにすぎない。権力や富で人間に差異があるのではない。渡世の仕方で違いがあるだけだ。武士もまた渡世の一つであるにすぎない。

こうした考えは、武蔵の世代までは可能だった。というのも、下克上によってわずか一代で大名に成り上がった者の珍しくない情況を経験した世代であるからだ。暴力的抗争に勝ち残って獲得された権力が、封建的身分として固定するのを横目に見てきた世代である。渾沌とした実力主義の時代から、世襲的身分秩序固定化の時代へ――。武蔵の世代はその両方を経験している。そのことを念頭において、この一節は読まれなければならない。

そうして士農工商の四つの道を説くなかで、他の渡世はそのまま語るのに、武士について、《兵具をもたしなまず、其具/\の利をも覚へざる事、武家は、少々たしなみの淺きものか》と批判的なのは、むろん五輪書が、武士である者を読者に想定して書かれているからだ。他の渡世の者がこうであるのに、武士は何という体たらくか、という次第である。


ここで余談になるが、この士農工商のうち「商」について、商売はさまざまあろうに、なぜ武蔵はここで酒造の話を出してくるのか、――という問いがあった。なるほど言われてみれば、たしかにそうで、商いの代表例として、なぜ酒屋なのか。

しかし、これは大して難しい話ではない。武蔵の当時――十七世紀前半の近世初期――商売で最も成功した代表例は、大坂の鴻池、住友などである。井原西鶴が、
《難波の津にも、江戸酒つくりはじめて一門さかゆるもあり、また銅山にかかりてにわか分限になるものあり》(日本永代蔵)
というところである。この銅山の方は住友だが、江戸酒というのは鴻池である。

蛇足であるが、鴻池の創業者新六(1570~1650)は、慶長五年(1600)に伊丹で酒造業を始め、これを江戸に運んで売った。ドブロクしかなかった東国へ清酒を持ち込んで売って、莫大な利益をあげたという伝説的人物である。三代目善右衛門宗利のとき明暦二年(1656)に両替商を始め、酒造はやめたが、金融業・海運業・新田開発へ手を広げ近世最大の豪商となった。諸地方の民話伝説でも大金持といえば「大坂の鴻池」が登場する。

ただし「大坂の鴻池」とはいうが、正確には西鶴の当時、鴻池本家は伊丹にあった。武蔵の時代ではまだ酒造家であっただろう。摂津にある伊丹・池田などは灘よりも先に栄え、鴻池だけではなく酒造で分限者になった商家が多く出たのである。

武蔵が商いの道で酒造家を例に出したのは、おそらく鴻池のこうした成功を、当時の誰でも知っていたからである。商売の話で「酒」となると、みんなの頭に連想されるのが鴻池であった。したがって、入門書たる五輪書はこうした誰でも知っている話をしているのである。

周知のごとく、近代になって、武蔵の五輪書が「剣禅一如」の極意を述べている、などと阿呆を公言する論者もあった。だが、ようするに彼らは、五輪書に何が書かれているか、それを読んでいないのである。


ここで、語釈の問題を挙げれば、大工の話で《すみかねをもつて、其指圖をたゞし》とあるところが、見慣れないという向きもあろう。「すみかね」〔墨矩〕は、後述のように、大工の道具、墨壷と矩尺(曲尺)であり、建材を削ったり部材を組み立てたりするさい、寸法を計測し墨で線を入れたりする。「差圖」は現代語に「指図する」という意味で残っているが、ここでは設計(図)というところである。

逐語的にはそういう語釈であるが、《すみかねをもつて、其指圖をたゞし》は一種の成語であり、ようするに「設計を吟味する、検討する」というほどの意味である。

既成現代語訳はいづれも明らかに珍訳誤訳である。ようするに、「指圖をたゞし」の意味がわかっていない。要領を得ないから、逐語訳にして却って間違うという例である。 

 

(4)兵法を大工の道にたとへて

既述の通り、ここから、三つ目のパートに入る。まず、《兵法を大工の道にたとへて云顕す也》とあるのだが、前に、《是士農工商、四の道也》とあって、すぐに《兵法を、大工の道にたとへて云顕す也》と続いてくるのだが、これがいかにも唐突な文の続き方である。

しかし、それは前段と連絡を付けようとするから、そういう印象を抱くのである。前段の文章は《是士農工商、四の道也》で終って、武蔵は書きさしにしておいた断簡を、寺尾孫之丞の編集段階で、ここへ編入したのである。同じくまた、別のこの《兵法を大工の道にたとへて云顕す也》以下の断簡をここへ編入したのである。その結果、本条は三つの寄せ集めの文章を構成内容とすることになった。

その結果、本条を一つの文章と読もうとすると、文章の不連続をあらわに残す唐突な話の振り方に見えるのである。寺尾孫之丞は、すでに前段の士農工商、渡世論を、編入しており、ついで、この第三のパート、「兵法を大工の道にたとへて」以下の文章が編入されているという前提で読まねばならないのである。

それにしても、次条に「兵法の道、大工にたとへたる事」というのが出てくるから、内容としては、これは重複である。しかしこれは、次条に兵法を大工の道に喩えて説明することを予告するものではない。寺尾孫之丞は、次条と類似のこの断簡を、他に持って行き場がなくて、関連のある次条の前においたのである。

したがって、これが本条「兵法の道と云事」の一部とはみなすことはできない。むしろ、次条「兵法の道、大工にたとへたる事」に関連のある断簡として読んだ方がよいのである。

さて、ここでは、兵法を大工の道にたとえるというわけだが、そこに入る前に、語釈の問題を一つ、片付けておく。

つまり、公家、武家、四家〔しけ〕、というのだが、この「四家」は、いろいろなケースで使われる言葉である。たとえば、藤原氏の南家・北家・式家・京家を指していうこともあれば、仏教で、苦清浄家(三蔵教)・捨煩悩家(通教)・般若家(別教)・諦家(円教)といって、四家(四派)を立てることもある。通例、その道の代表的な家なり人物を「四家」と呼ぶ。たとえば、蘇軾(東坡)・黄庭堅・蔡襄・米芾は、宋四家である。これは書画に堪能な武蔵にはなじみのある四家である。

日本では、後に江戸狩野派は、加治橋・木挽町・中橋・浜町の奥絵師四家を立てた。また周知の如く、茶道の千家にも四家がある。あるいは、「四家髄脳」とは古典的歌学書四本、無名抄・綺語抄・奥儀抄・和歌童蒙抄のことである。「四」というのは特別な数字で、「四天王」と云ったりもする。四職、四姓などもある。

ところで、武蔵はここで、「公家、武家、四家」と、「家」の付く語を並べているだけである。そういう「家」のつく言葉の連想を演じている。「家」といえば、「四家」という言葉もあったな、という具合である。

この場合、「四家」〔しけ〕は、何か代表的な四人ないし四派を指す一般的な言葉である。この点、岩波版注記に、これを「源平藤橘」を指すものかと解釈案を提示しているが、これは教養不足による誤りである。「源平藤橘」は「四姓」という。「四家」とは言わない。

武蔵のいう「四家」は、「家」の連想から召喚された語である。これは様々な分野の代表的四派を意味する「四家」であって、とくに何という特定のことではないのである。


さて、公家、武家、四家〔四派〕、其家の破滅、家の存続という事、あるいは、その流、その風、その家などという。そこで、家ということから、大工の道にたとえるのである。――これが、武蔵の話である。

かくして、士農工商のうち「工」は数ある中で大工に代表させるわけだが、これは普請(建設工事)という特別な業務が、兵法と関連するところからくる。なかでも、もっとも密接な関連は築城術である。

しかも、武家の仕事は合戦と普請だという話もある。とすればすなわち、軍事技術(military engineering)と土木技術(civil engineering)は、ともに戦争から発生するのである。したがって、ここで武蔵が大工の話をするのは、兵法家として当然の話題ということである。

しかしながら、とくと考えてみれば、兵法を大工の道に喩えて言おうとは、意外なことではある。ここは武蔵一流の皮肉もある。

まず第一に、大工は建築・建設のテクノロジーであり、武士の兵法は、破壊と殺人のテクノロジーである。つまり武蔵は何と、破壊的(destructive)な技術を、建設的(constructive)な技術で譬えようというのである。正反対のものを、もっとも遠い者同士の間を、架橋する弁証法である。

また第二に、これは、身分的には下の者によって上の者を説明するということである。通常は話は逆で、武士は支配階級として他の諸階級のモデルとされる。ところが武蔵は、それを逆転してしまう。武士のモデルが大工なのである。したがって武蔵の言説実践は、云うならば、ここでも、転覆的(subversive)である。

武士は大工の隠喩で語られる。この隠喩としての大工の背景には、少なくとも十七世紀前半の高度成長期の全国的建設ブームで建設業が異例の脚光を浴びた状況があるかもしれないし、また武蔵の好みもあるかもしれない。つまり武蔵には、兵法家としての築城術や、あるいは町割という都市計画、作庭など造園術といった事蹟伝承があるからだ。

もう一つ、注意されるのは、《師は針、弟子は糸となつて》とあるところ、この針糸の比喩は、糸の導き手としての針というところからきている。さらにいえば、兵法/大工の比喩が男性的であるのに対し、この針糸の比喩は意外にもフェミニンなものである。そういう五輪書の記述特性も見落としてはなるまい。


最後に一つ確認しておけば、上述の通り、本条末尾のこの部分は、大工にたとえるという話なので、次条との区分が曖昧である。というか、むしろ、編集段階で関連のある断簡をここへ編入したものである。

もともと地之巻の相当部分は完成稿として遺されたものではなく、草稿であった。それゆえ、武蔵から本書草稿を遺贈された寺尾孫之丞は、原稿を編集する必要があったのである。いづれにしても、地之巻はもともと完成稿ではなく、あちこち未完成部分を遺している。このことは、「武蔵は五輪書を完成して死んだ」とは決して言えない、ということを意味する。このあたり、誤解のないように注意しておきたい。

4. 兵法の道を大工に喩える

 【原文】

 一 兵法の道、大工にたとへたる事。
大将ハ、大工の棟梁として、
天下のかねをわきまへ、其国のかねを糺し、
其家のかねをしる事、棟梁の道也。
大工の棟梁ハ、堂塔伽藍のすみかねを覚へ、
くうでんろうかくの指圖をしり、
人々をつかひ、家々を取立事、
大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事也。(1)
家を立るに、木くばりする事、
直にして節もなく、見付のよきを表の柱とし、
少ふしありとも直に強きを裏の柱とし、
たとひ少弱くとも、節なき木のミさまよきをバ、
敷居、鴨居、戸障子と、それ/\につかひ、
節有とも、ゆがみたりとも、強き木をバ、
其家のつよみ/\を見分て、能吟味して
つかふにおゐてハ、其家ひさしくくづれがたし。
又、材木のうちにしても、
節おほく、ゆがミてよハきをバ、あしゝろともなし、
後には薪ともなすべき事也。
棟梁におゐて、大工をつかふ事、
其上中下を知り、或ハ床まはり、
或ハ戸障子、或ハ敷居、鴨居、
天井已下、それ/\につかひて、
あしきにハ、ねだをはらせ、
猶悪きにハ、くさびを削せ、
人を見分てつかヘバ、
其渉行て、手ぎハ能もの也。(2)
はかのゆき、手ぎハよきと云所、
物ごとをゆるさゞる事、たいゆうを知る事、
氣の上中下を知事、いさみをつくると云事、
むたいを知と云事、
か様の事ども、棟梁の心持に有事也。
兵法の利、かくのごとし。(3)

 【現代語訳】

 一 兵法の道を大工にたとえる事
 
(武家の)大将は、大工の棟梁として(譬えて云えば)、天下の規矩〔かね〕をわきまえ、その国の規矩をただし、その家の規矩を知る。それが棟梁の道である。
 
大工の棟梁は、堂塔伽藍の墨矩〔すみかね〕を覚え、宮殿楼閣の設計を理解し、人々を使い家を立てること、(その意味では)大工の棟梁(の仕事)は、武家の棟梁も同じことである。
 
家を建てるために、木配りをする場合、まっ直ぐで節もない見かけのよいのを表の柱とし、少し節〔ふし〕があっても、まっ直ぐで強いのを、裏の柱とする。たとえ少し弱くても、節がなく見た目のよいのは、敷居・鴨居・戸障子とそれぞれに使う。節があっても歪んでいても、強い木を、その家の強度の要所を見分け、よく吟味して使えば、その家は長く崩壊しにくいものになる。また材木のうちでも、節が多く歪んでいて弱いのは、足代〔あしじろ・足場〕に使えるし、後には薪木にもすることができるのである。
 
棟梁が大工を使う場合、その(腕前の)上・中・下を知り、ある者は床廻り、ある者は戸障子、ある者は敷居・鴨居・天井など、それぞれに使って、腕の悪い大工には根太〔ねだ〕を張らせ、もっと悪いのには楔〔くさび〕を削らせる。人を見分けて使えば、(工事が)捗どって手際のよいものである。
 
その捗が行って、手際がよいというところ、(それは)どんなことでも気をゆるめないこと、体と用〔実体と機能〕を知ること、気〔気質器量〕の上・中・下を知ること、勇みをつける〔鼓舞する〕ということ、無体〔無理なこと〕を知るということ、このようなことが、棟梁の心持にあることである。
 
兵法の利*はこの如くである。
 

【註解】

 (1)大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事也

 この一文は、前条最後のパートと内容が重なるが、草稿には別の文章としてあったものである。そしておそらく、次条「士卒たる者は」と一体の長い文章であったと思われる。

 冒頭、いきなり《大将は、大工の棟梁として》とある。これは、諸本共通の文言であるが、もちろんこのままでは現代語では文意不通で不都合である。ここは、「武家の大将は、大工の棟梁として譬えて云えば」ということである。

 武蔵草稿には、たしかに、《大工の棟梁として》とあったものであろう。ただし、語の配置は違っていた。《大将は、天下のかねをわきまへ》とあって、「大工の棟梁として」という語句が脇に添えられていたのがそのかたちであろう。それを編集段階で本文に挟み込んだので、こういう文になったのである。

 したがってこの「大工の棟梁として」という語句は、「武家の大将は、大工の棟梁として譬えて云えば」ということを指示する縮約文であると理解する必要がある。

 さて、ここは「兵法の道、大工にたとへたる事」とあって、何と、兵法の道を大工に譬えてみようというわけである。このアナロジーを支える共通のキーワードは、まず、「かね」という語である。ここはまず、語釈が必要であろう。

 「すみかね」というのは、すでに出てきた言葉であるが、右の写真のように曲尺〔かね〕で墨出しする技術である。これが大工仕事の根本であることは言うまでもない。

 『孟子』などにいう「規矩準縄」の「矩」は直角、ひいては直角定規のことである。「規」は円、「準」は水平・垂直、「縄」は直線を意味する。こうした規矩準縄が社会秩序の隠喩となったのは古い。武蔵の比喩も、政治的軍事的なものであり、こうした伝統を背景に受けとる必要がある。つまり、武蔵の漢文古典に対する教養の一端である。

 この部分は、大名を含む武将クラスの者を、大工の棟梁に喩える。その共通するところは、集団組織のリーダーであることだ。

 武蔵が青年の頃、全国で城作りが盛んであった。これは戦後の失業対策でもあった。今で言えば超高層の天守を含む大規模な建設工事である。たとえば、姫路城(兵庫県姫路市)を例にとれば、足掛け九年の工期に、作業動員延べ二千五百万人という。建設機械がない時代だから人海戦術である。こうなると、プロジェクトの組織力が大きな問題となる。こうしたことを背景にして、武蔵のここでの大工の比喩を読むべきである。

 大工の「棟梁」というのは当て字で、「頭領」「統領」という文字を避けたもののようである。「頭領」は「かしら」、つまりは集団のヘッドでありリーダーのことである。

 近世は「殿」様や「上」様だが、武蔵の世代には、戦国期の「おかしら」という名称がなじんでいたものらしい。こちらの方は、暴力集団の頭目という武将の出自ルーツを裏切らずにいるのである。

 つまり武蔵のこの比喩には、今は大名となって権勢を極めているが、もとは「かしら」と呼ばれた者にすぎないという暗黙の指示内容もある。そんな過去を忘れて、ずっと昔から支配者であったような顔をするようになっているが、彼らは武士団を率いて実力でのしあがった連中である、と。

 そういう意味で、武家の頭領を大工の「かしら」に喩える以下の徹底的な比喩の列挙には、アイロニカルな意味がある。

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 この部分で、諸本校異の問題を挙げれば、大工の「棟梁」という語である。筑前系諸本は、「棟梁」という文字で共通しているが、肥後系諸本には別の文字を宛てているケースがある。

 別の文字とは、「頭量」「統領」という字であるが、これは筑前系諸本には記さない文字である。したがって、肥後で後に発生した異字のようである。そこで、かような異字がどの時点で発生したか、それを探ってみる。というのも、肥後系諸本の写本としてのステイタスが、これで判明するからである。

 早期に派生した系統の子孫たる富永家本では、「棟梁」と「頭量」の二種を用いている。楠家本も同様である。このケースは、肥後系諸本の中でも早期にあった可能性を示唆するが、同じ条文に「棟梁」と「頭量」の二種を用いるというのも妙なことで、これは、寺尾孫之丞段階ではありえないことである。孫之丞より後の仕業であろう。

 他に二種の異字を用いるのは、丸岡家本で、こちらは「棟梁」と「統領」である。これは早期に「頭量」とあったのを、「統領」に換えたという系統である。あるいは、細川家本では、もはや「棟梁」という文字は消えて、「統領」で条文を統一している。

 これを通覧するに、「棟梁」という文字の残存有無、「頭量」から「統領」へという変化によって、肥後系諸本における異字発生は、以下のように時期を想定しうる。

   (phase0) 「棟梁」のみを用いる

   (phase1) 「棟梁」を用い最後一回のみ「頭量」を記す

   (phase2) 「棟梁」を用い最後一回のみ「統領」と記す

   (phase3) 「棟梁」を用いず「統領」あるいは「頭量」に統一

 この点に関するかぎり、比較的早期のかたちを保存しているのは、富永家本と楠家本であり、それに続いて丸岡家本にみられる異字「統領」が生じた。ここまでは、基本的に「棟梁」という文字を用いて、最後の一回だけ「頭量」あるいは「統領」に変えているパターンである。ところが、その次になって、細川家本・田村家本のように「棟梁」を用いず「統領」あるいは「頭量」に統一するようになったのである。

 以上のことから知れるのは、この点に関するかぎり、細川家本は、筑前系の中でも後期写本と言うべき田村家本と同じ位相にあることである。言い換えれば、細川家本は、伝写プロセスの後期特性を示す写本だということである。

 むろん、このようなことは細川家本信仰者には受け容れがたい結論であろうが、諸本を比較照合して客観的に判断すれば、こういうことになるのである。

 校異をもう一つ挙げれば、筑前系諸本に、
《人々をつかひ、家々をとり立事、大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事也》
とあって、《大工の棟梁、武家の棟梁も》とするところ、肥後系諸本には、《大工の棟梁も武家の棟梁も》として、「も」字を入れる。つまり、この「も」字の有無が問題である。

 これは現代語の方から見れば、「も」字が入った方が文意が通る。大工の棟梁も武家の棟梁もおなじ事、というわけである。そこから、これは筑前系諸本には、ここに「も」字の脱落があるのではないか、ということなろうが、それは誤りである。現代語の方寸で古語を見ては誤ること、しばしばである。

 文体の点では、《大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事》の方がしっかりしており、それがよろしい。《大工の棟梁も武家の棟梁もおなじ事》では、文体が弱い。それだけではなく、実は、文意に相異が出ている。

 つまり、《大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事》では、大工の棟梁(のこと)は、武家の棟梁も同じことだ、という意味である。ここでは、大工の棟梁が、武家の棟梁のアナロジー・モデルであることが示されている。他方、《大工の棟梁も武家の棟梁も同じ事》では、大工の棟梁が武家の棟梁のモデルであるというアナロジー関係はどこかに消えてしまって、いわば両者同列に扱っていることになる。

 つまり、文意の点では、ここは「も」字のないのが正しい。ここに「も」字を入れたのは、その文章構造が読めなかった後世の者が、ついここに「も」字を入れてしまったのである。これと似た前例は、《或ハ一道場、二道場など云て、此道をおしへ》とあるところ、《或ハ一道場、或ハ二道場など云て、此道をおしへ》と、「或ハ」という語句を入れてしまうケースである。

 このように、内容の分析から、《大工の棟梁、武家の棟梁も同じ事》の方が古いだと知れる。他方、これが筑前系諸本共通の語句であってみれば、こちらが初期形態である。つまり、このケースでは、内容分析は、校異分布から導かれる結論と一致する。

 これに対し、 肥後系諸本の「も」字は衍字であるが、それだけではなく、上記のように、ここに脱字があると見て「補正」したものであり、後世の解釈にもとづく改竄である。言い換えれば、門外流出後に発生した改変である。もとより、寺尾孫之丞の関知しない後世の改竄である。

 

 (2)家を立るに、木くばりする事

 こうしてみると、大工と武家の棟梁のアナロジーは二通りで、しかもそれが重層している。

 ここで「木配り」とは、どの建築部位にどの木を材料に使うか、という判断である。それについて、すでに「大工にたとへる」と述べてあるから、ここは読む者をして、必然的に二重の読みをさせるような仕掛けになっている。

 すなわち、先ず最初に、大工の木配りの話があり、次に、大工の棟梁が配下の大工たちをいかに使うかという話が続く。それを要するに、武家の棟梁のモデルにするわけだ。それゆえ、比喩構造は、

  大工棟梁の組織力(木配り→大工の配置)→ 武家棟梁の組織力
という構造になっている。つまり、数学的に言えば、武家の棟梁は、大工の棟梁の関数であるというわけだ。

 木材配置と人材配置とは同じ事である。優れた素材は言うまでもなく、どんな劣質な素材でも使いようはある。材木に使えないものがないように、人材にも使いどころのない者はない、というあたりが話の味噌である。

 もうお気づきだろうが、人材という語の「材」は、材木のことである。通俗解説本が飛びつくのはこのあたりである。「適材適所」がテーマのこの種の話は、なにも武蔵の言を借りるまでもない。だれでも言ってきたことである。

 ただ五輪書が奥義秘伝書の類いではなく、普遍的な読者を対象とする入門書であったことから、こうした分かりやすい比喩で説いているにすぎない。しかも、そういう分かりやすい比喩に、独特の壊乱的な毒気があることはすでに述べたところだが、そういう毒の針は、現代の通俗解釈本の意識には存在しない。

 このとき、材木を比喩とする武蔵の棟梁組織論は、人間を物として扱っているではないか、という穿った非難もありそうである。しかし、あえて誤解を承知でこうも云える。すなわち、(カント=ラカン流に言えば)物の尊厳にまで高められたとき、――語呂合わせではないが――人間は「ものになる」のである、と。

 身分上下関係論が社会組織論の主軸になろうとしていた、封建的道徳社会が、まさに創出されようとする状況下では、武蔵のこうした唯物論的組織論の異常な新しさを、――まさしく流産した近代社会の可能性の一端を、確認しておくべきであろう。

 すなわち、武蔵の世代以降の思考は、まさに見事に反動化してしまう。しかしながら、近世身分社会は、リニアな必然性をもって誕生したのではなく、武蔵のような思考にみられるごとく、別の道というオルタナティヴの可能性もあったということである。

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 諸本校異の問題を挙げれば、指摘すべきは、以下の相異がある点であろう。すなわち、筑前系諸本のうち早川系に、
《家を立るに、木くばりする事、直にして節のなく、見付の能を表の柱とし》
とあって、《木くばりする》、《節のなく》とするところだが、この二ヶ所について見ることにしよう。

 まず、《木くばりする》については、これは立花=越後系諸本も同前であり、筑前系諸本共通のところである。したがって、これが初期形態である。

 これに対し、肥後系諸本はこれを《木くばりをする》として、「を」字を入れる。これは肥後系諸本に共通するところであるから、この相異は、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異である。

 このケースでは、筑前系諸本共通の《木くばりする》が初期形態であるので、肥後系の《木くばりをする》の「を」字は、後に入った文字である。それが寺尾孫之丞段階まで遡りうるか否かは別にして、何れにしても、後の挿入である。

 また、もう一つの《節のなく》は、同じ筑前系の立花隨翁本をはじめ越後系諸本には《節もなく》として、「も」字に作る。つまり、筑前系諸本の間に、「の」字と「も」字の相異がある。つまり、早川系と立花系の特徴的な相異である。

 これの何れが正しいかは、肥後系諸本を参照して判別する。誤解なきように言っておくが、無論それは、肥後系諸本がスタンダード〔標準〕となるという意味ではない。つまり、筑前系/肥後系を横断して共通する語句は、基本的には、寺尾孫之丞段階に遡りうる古型を示す。筑前系/肥後系を横断して共通する語句、というのがポイントである。

 肥後系諸本は如何と見るに、基本的には《節もなく》として「も」字に作る。しかし、《節のなく》がないかといえば、そうではなく、円明流系諸本のうち、狩野文庫・多田家本では、「の」字である。

 しかるに、円明流系統は写し崩れが大きいので、その点多々問題があるが、このケースでも派生後の誤記であろう。比較的近縁の稼堂文庫本や大瀧家本は、「の」字ではなく「も」字に作る。それゆえ、肥後系諸本も当初は、《節もなく》として「も」字を書いたものであろう。

 かくして、《節のなく》は、筑前系/肥後系の両方に存在するのだが、これはそれぞれ派生後の誤記とみなすべき字句である。筑前系では、立花=越後系諸本の書字が正しく、吉田家本はじめ早川系諸本の方が誤記である。

 つまり、立花系はこの箇処を正しく伝えたが、早川系は、おそらく早川実寛→月成実久の段階で、この誤記を生じたものであろう。吉田家本・中山文庫本・伊丹家本にはその結果が反映されているのである。

 したがって、このケースでは、筑前系/肥後系の双方に《節もなく》《節のなく》の両方があるのだが、如上、正誤の判別をして、我々のテクストでは、これを、《節もなく》と記しているというわけである。

 

 (3)兵法の利、かくのごとし

 うまく人材配置をすれば、物事は効率よく運ぶ。手際がよいというところである。そこでは、具体的にどういうことかというと、《物ごとをゆるさゞる事、たいゆうを知る事、氣の上中下を知事、いさみをつくると云事、むたいを知と云事》と武蔵は言う。

 とはいえ、ここで、語釈が必要であろう。まず、「物ごとをゆるさゞる事」。「物ごと」は現代語の「物事」ではなく、「物毎」。どんなことでも、という意味。「ゆるす」もまた現代語の「許す」という意味ではなく、「ゆるめる」という意である。馬術で、「引かず、ゆるさず」という手綱の要領があるが、これは、手綱は引くでもない、ゆるめるでもないというわけである。ようするに、「物ごとをゆるさゞる事」とは、どんなことでも手を抜かない、おろそかにしない、ということである。

 次に、「たいゆうを知事」の「たいゆう」とは、武蔵の知的バックグラウンドで、当時通有の概念、体〔たい〕と用〔ゆう〕、つまりは物事人事の実体と機能のことである。

 また、「氣の上中下を知事」は、気質器量の上中下の相異を知ることである。「気」が当て字で、「機」もしくは「器」ということもある。「いさみをつくると云事」の「いさみ」は勇み、勇みをつけるとは、鼓舞するということである。そして、「むたいを知ると云事」。「むたい」は無体、無理なことである。そこで、無理なことを知って、無理なことをさせないということである。不合理なことを無理にさせる精神主義もあるが、そういうことはさせない。武蔵の話は合理的である。

 大工の棟梁は、こういうことを呑み込んでいる、十分承知しているものだ。そこで、武蔵は云う、兵法の利、かくのごとし、と。

 ここまで大工の話だったものが、不意にここで、それがまさに兵法のことだったと明かされる。つまり、これが武将の心得を説くためのアナロジーだったのである。

 この兵法の「利」とは、ここでは、アドヴァンテージの意である。つまり、兵法において勝れているとは、まさにこのようなことだ、というわけである。

 ここはとくに難しい話は何もないであろうし、このあたり、武蔵をビジネスに応用したがる通俗解説本の格好の材料となってきたところである。「現代に通じる武蔵の教訓」という路線で、武蔵解説本が多く出版されたという、戦前・戦時・戦後を通じての社会の経緯がある。「武蔵」はどんな時にも応用がきくのである。

 ただし、話を逆にしてはならない。つまり、武蔵は、兵法軍事のことを、平常の建設工事を喩えにして語っているのであって、その逆ではない。ところが、現代の通俗武蔵本は、兵法を比喩にして、平常のビジネスについて語りたがる。話は逆である。

 武蔵は、徹底して、大工の棟梁の仕事ぶりをモデルにして、武将の兵法の道を語っている。大工の仕事を譬えにして兵法を語る、むろん、そんな兵法論は、当時としては、まったく異例のもので、云わば転覆的である。そのユニークなところ、読者に注意を喚起しておきたい。

 あるいは、武蔵が兵法家として語っているところ、それは尋常の合理的な仕事の進め方にすぎない。しかしこれは、当時としては異例のことである。武蔵は非合理な美学に傾こうとする武士の思考を批判するために、こうした大工の話を引き合いに出しているのである。それを読み違えては、通俗武蔵本と変りがない。

 武蔵のいわゆる合理主義、――これはそれ自体が、すでに反時代的なものになりつつあった。これを忘れてはならない。こうした徹底した合理主義は、むしろ近代的なもので、近世幕藩期を通じて異質なものであったけれど、その初期、つまり十七世紀初頭の日本社会で、確かにいったんは発生したものであった。そのことはきちんと押さえておく必要がある。

 なお、この条は、《兵法の利、かくのごとし》と書いて唐突に終っている。本条の内容は人材論のみで、結語らしきものがないから、書きさし文であろう。

 また、このあたり、次条の「兵法の道、士卒たるものは」との境界が不分明である。したがって、もとは次条と一体の文章であったが、編集段階で、二条に分けたものかもしれない。その可能性を念頭において読むべきところである。


 ここで語釈の問題がある。とくにこの部分の前後、これまで正しく解した者がいない。ちなみに、既成現代語訳は、右掲のごとくさまざまである。

 なかでもとくに、「たいゆう」が「体用」とは知らないので、話が混乱している。戦前の石田訳は、旧岩波版五輪書の高柳傍注、「大勇」を頂戴したものである。戦後の神子訳は、「たいゆう」を「大要」と読んだが、「全体の大要を知る」となると、これは脱線転覆である。

 岩波版注記は、これを「大用」と解釈しているが、これは根拠がない。柳生流ではないのだから、武蔵は「大用」などとは謂わない。五輪書に他に「たいゆう」の例があるのは、五方の搆について、上中下は「体」の搆、右脇左脇は「用」の搆とする体用論である。岩波版注記は、ここに体用論というバックグラウンドがあることを知らぬのである。

 続く大河内訳は、岩波新版注記の「大用」なる語釈を頂戴し、鎌田訳も同様にその「大用」という解釈を頂いて、「大用」という語をわざわざ訳して使う。何れにしても、岩波版注記の誤釈に発する間違った翻訳であることは申すまでもない。

 また、末尾の《兵法の利、かくのごとし》というところも、既成現代語訳には問題がある。というのも、この「利」を「理」と曲解して、「道理」と訳すものがある。

 これは、武蔵の合理主義思想の一面としての露骨な実利効用論を、あえて見まいとするものの如くである。五輪書において「兵法の利」というばあい、その「利」は「理」の意味ではなく、文字通りの利である。これは、孫子兵法の昔から云ってきた戦いにおける「利」である。

 既成現代語訳を見るに、この「兵法の利」を「兵法の理」と曲解する例は、すでに戦前の石田訳に現れている。それを戦後の神子訳も引き継いだが、こんどは「理」ではなく「道理」と訳して脱線した。後続二者は、それをそのまま反復している。とくに鎌田訳は、句読点の打ち方まで神子訳そのままである。

 何れにしても、「曲訳」としか言いようのないものであり、現代語訳事情はかくも道理のない混乱状況なのである。

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 ここは、大きな諸本校異はないが、ひとつ問題を挙げれば、筑前系諸本に、
《節多くゆがミてよハきをバ、あしじろともなし、後にハ薪ともなすべき事也》
《物ごとをゆるさゞる事、たいゆうを知事、氣の上中下を知事、氣の上中下を知事》
とあって、《なすべき事也》《たいゆうを》とし「事」字、「を」字を入れるところ、肥後系諸本も同様のものがある。したがって、筑前系/肥後系を横断して共通するところから、この語句は初期性を有するとみなしうる。これを正記とするわけである。

 しかるに、肥後系諸本のうち、写し崩れによる特殊な脱字を示すものがある。たとえば、肥後系細川家本に、
《ふしおほく、ゆがミてよわきをば、あしじろともなし、後には薪ともなすべき【★】也》
《物毎をゆるさゞる事、たいゆう【★】知事、氣の上中下を知事》
とあって、《なすべき也》《たいゆう知事》とする。これは諸本では、筑前系/肥後系を横断して、《なすべき事也》、《たいゆうを知事》とする。つまり、細川家本の文には脱字があり、《たいゆう知事》として、「事」字を落とし、《たいゆう知事》として「を」字を欠くのである。

 前者の「事」字を落す例は、肥後系では他には狩野文庫本がある。後者の「を」字を欠く例は、丸岡家本とその系統の田村家本にある。それゆえ、これは、肥後系諸本のみを見ていては、「事」字、「を」字の有無、その正誤の判別が付かないところである。しかし、筑前系諸本を見てはじめて、その判断がつくのである。

 このケースの脱字は、肥後系において、早期ではなく、系統派生後に発生した異変である。しかし、興味深いのは、細川家本・常武堂本の系統のみ、「事」字、「を」字の両方を脱落させていることである。つまり、細川家本・常武堂本の祖本の段階ですでにあった脱字である。

 それに対し、細川家本に近縁性のある楠家本は、これを両方とも落さず記す。しかも、写し崩れの大きい他の諸本でさえ、正しく記すのに、細川家本には脱字がある。すなわち、これらの脱字は後々になって偶発的に発生したものである。つまりは、細川家本の後発性を示す標識である。

 また同様に、この部分には、同系統の常武堂本にもない細川家本特有の異字がある。つまり、それは、《果敢の行、手ぎわよきと云所》と記すところ、この「果敢」が特異文字である。諸本は、これを「はか」と仮名で記すが、細川家本は、これをわざわざ「果敢」と漢字で記すのである。

 同系統の常武堂本には、これを「はか」と記すから、この「果敢」字は、細川家本の作成段階で発生した恣意的な書換えである。

 他にこれが見られるのは、円明流系統の一本、稼堂文庫本である。円明流系統では狩野文庫本も多田家本も「はか」と記すから、この系統では、稼堂文庫本でのみ発生した異字である。いづれもポジションの末流たることを示す恣意的な書換えである。

 要するに、こういう恣意的な文字変換が、細川家本の特徴である。言い換えれば、細川家本には、そのような後発的特徴の脱字や異字があるのだから、もとよりこの写本を古いとは見なせない。しかるに、たびたび言うように、これを古型を保持した写本とみなす者がある。しかも、細川家本が寺尾孫之丞段階の写本に直接接するがごとき妄説まで現れている。

 もちろんこれが謬説たることは、本書の読解過程の随所で明らかである。細川家本は他の諸本と同じく、肥後系早期写本から派生したものであり、しかも、その元祖からの距離は遠く、なんら特別なステイタスをもたない写本である。この点、誤りなきようにすべきである。

5. 士卒たる者

【原文】

 一 兵法の道、士卒たるものハ、(1)
大工にして、手づから其道具をとぎ、
色々のせめ道具をこしらへ、
大工の箱に入てもち、
棟梁の云付る所をうけ、
柱、かうりやうをも、てうなにてけづり、
床棚をもかんなにて削り、
すかし物、彫物をもして、
能かねを糺し、すミ/\めんだうまでも、
手ぎハよく仕立所、大工の法也。
大工のわざ、手にかけてよく仕覚へ、
すミかねをよくしれば、後は棟梁となるもの也。
大工の嗜、能きるゝ道具をもち、
すき/\にとぐ事肝要也。
其道具をとつて、御厨子、書棚、机つくゑ、
又は行燈、まな板、なべのふた迄も、
達者にする所、大工の専也。(2)
士卒たる者、此ごとくなり。能々吟味有べし。
大工の嗜、ひづまざる事、とめを合する事、
かんなにて能削事、すり(ミ*)かゝざる事、
後にひすかざる事、肝要也。
此道を学ばんと思はゞ、
書顕す所の一こと/\に心を入て、
よく吟味有べき者也。(3)

 【現代語訳】

一 兵法の道、士卒たる者は、大工にして(譬えて云えば)、自分の手でその道具をとぎ、いろいろ工夫した工具をこしらえ、それを大工の道具箱に入れて持ち、棟梁の指示するところに従って、柱・虹梁〔こうりょう〕を手斧〔ちょうな〕で削ったり、床棚を鉋〔かんな〕で削ったり、透し物・彫り物もして、よく規矩を調整し、隅ずみや複雑な部分までも、手ぎわよく仕上げるところ、それが大工の法〔なすべきこと〕である。

 大工が仕事を自らの手でよく覚え、墨かねをよく知れば、後は棟梁となるものである。

 大工の嗜み(とは)、よく切れる道具をもち、それを暇さえあれば研ぐこと、それが肝要である。その道具を手にとって、御厨子〔仏壇〕、書棚、机卓、または行灯、まな板、鍋の蓋までも、上手に作る。それが大工の専*〔せん、第一とするところ〕である。

 士卒たる者は、これと同様である。よくよく吟味あるべし。

 大工が心がけるのは、木がひずまないこと、部材の接合部を(ぴたりと)合わせること、かんなでうまく削ること、(部材表面を)擦って傷つけないこと、後で乾燥しても隙間が生じないようにすること、これらが肝要である。

 この(兵法の)道を学ばんと思うなら、ここで書き表わすところのひとこと、ひとことを、心に入れて、よく吟味すべきなのである。

 【註解】

 (1)兵法の道、士卒たるものハ

まず、タイトルのことで言えば、ここでは「兵法の道、士卒たるものは」としており、これは「…の事」「…と云事」という五輪書の各条タイトルの通例からすれば、異例であって、明らかに不自然な部分である。

もしこれが独立した一条であるならば、前条が、
《一 兵法の道、大工にたとへたる事。大将は、大工の棟梁として》
というかたちで始まるのだから、ここも、当然、
《一 兵法の道、大工にたとへたる事。士卒たるものは、大工にして》
という書き出しであるべきところである。この「大工にたとへたる事」という語句がないのは、これが前条と重複するからではなく、そもそもオリジナル草稿には、これが独立した一条ではなく、前条に連続した一体のものだったのである。

それを二つに分けて、後半を一つ書きの独立した一条にしたのは、おそらく寺尾孫之丞の編集段階であろう。

前々条「兵法の道と云事」から、この「士卒たるものは、大工にして」の本条まで、条々の内容を見れば、書きさし断簡の寄せ集めで構成したものと知れる。その中でも、この前後は、編集によって分割されたものである。

前条の《兵法の利、かくのごとし》で終る、その唐突な終り方をみれば、そこに切断面が示されていると見える。とすれば、この条文の起こし方、つまり、――《一 兵法の道、士卒たるものは、大工にして》と云う開始文において、《一 兵法の道》という部分が、オリジナル草稿にはなかったものかもしれぬ。寺尾孫之丞は、編集にあたって、《一 兵法の道》という文字を、とりあえず入れたのであろう。

ところが、それが浮いてしまっているのである。ここに入れた《兵法の道》という語の後始末がついていない。ようするに、そういう編集作業によってもカバーできないのが、このあたりの草稿状態である。編集子が多少やりくりしてもカバーできないのである。このあたり、そんな草稿状態を示すところであろう。

 

 (2)大工の専也

前条が武家の棟梁、統率者である武将のことであるのに対し、こんどは士卒、ふつうの兵士のことである。武士にもいろいろあって、家来とともに出陣する武士から、いわゆる鑓隊・鉄砲隊の足軽まで、さまざまであるが、ここはそれを総称して士卒と呼んでいる。

ここもまた、大工をモデルにしてアナロジーで語る。

冒頭の《士卒たるものは、大工にして》とあるところ、諸本共通であるが、これは、前条に、《大将は、大工の棟梁として》とあるのと同趣である。これは「士卒たるものは、大工に譬えて云えば」というように、比喩で語るところである。

つまり、「大工の法也」「大工の専也」として、大工のなすべきこと、大工の第一とすべきことを語って、士卒たるものの比喩とする。「大工の法也」「大工の専也」とある「法」や「専」は、本書に頻出する特種語彙であるので、そのまま読んでもらいたいところである。

なお、「専」という字は「もっぱら」ではなく、「せん」と読む。
《茶は水がせんじゃ》(狂言「清水」)

これは、茶は水が最も大事だ、ということである。五輪書を読むなら、この「専」という古語を覚えていただきたい。

それ以外には、この条はそのまま読めるので、とくに説明は要しないだろうが、若干の大工道具語彙について解説が必要かもしれない。

たとえば「せめ道具」。これは一般に「責め道具」というときの、拷問や性交のための道具のことではない。この場合の「せめる」は、努力して究める、探究するということであり、類似用例を捜せば、
《せめず心をこらさざる者、誠の変化をしるといふ事なし》(三冊子・赤雙紙)
であろう。つまり、ここでの「せめ道具」は、自分でいろいろ工夫して拵えた道具ということである。

これについて岩波版注記は、《責金、責(締)木など》という訳のわからぬ注釈を記載しているが、これは誤りである。「せめる」を「締める」と取り違えているだけではなく、文脈そのものを理解していないのである。大工に「責金、責(締)木など」という物が必要なのか、自分で考えてみればよい。ここは一般に要領を得ない箇処のようで、既成現代語訳にはいろいろとバカげた誤訳がみられるところであるが、ここでは省く。

また「虹梁」〔こうりょう〕は建築用語、建物の梁は露出するので装飾的に扱うことが多い。右図のようなものが一般的だが、ここに細密な彫刻をしたものもある。

「手斧」〔ちょうな〕は今でも梁を削るのに使われるが、鉋以前は柱・床板もこれで削った。その場合、仕上りはうろこ状になる。「鉋」〔かんな〕は、以前からあった鑓鉋〔やりかんな〕ではなく、ここでいう鉋は、武蔵の時代には新しい道具だった台鉋のことだろう。床棚を削ると書いているからそうである。

 

 「規矩」〔かね〕・「墨かね」は、前述のように、どちらも計測墨出しする大工の根本技術だが、それがものごとの基準として隠喩的使用されることが多い。

あるいは、「すみずみ、めんどうまでも」とある「めんどう」は、ここでは、手間のかかる複雑でややこしい部分、としておいた。「めんどう」は、本来は「めどう」で、みぐるしいの意である。今日でも関西語で、「めんどい」という語にのこる。

しかるに、これが、どうでもいい、わずらわしいの意に転じ、「面倒」と当て字されて、今日に共通する意味になった。ここでは、文脈から、わずらわしい複雑で手間のかかるところと、語の新義で語釈しておいた。

なお、岩波版注記に、この「めんどう」という語について、「馬道(めどう)。長廊下のこと。書院の外廻り」という珍解釈を示している。ようするに、これは間違いである。

ここは、柱、虹梁をも、手斧で削り、床棚をもかんなで削り、すかし物、彫物をもして、よく墨かねを糺し、隅々「めんどう」までも、手際よく仕立て、とあるように、細工技術に関するところだから、隅々と来て、ディテールの細工の話になる。だから、そこで、いきなり屋外の馬道、長廊下の話が出てくるわけがない。

こういう明白な誤解釈が陳列されているところを見るに、この注釈を書いた者は文章の内容を理解していないのである。全般に見て、岩波版注記の記載には無知な誤りが少なくない。

ともあれ、武蔵の言うように、彫刻や欄間などの透し物、俎板から鍋の蓋まで作ってしまうとすれば、大工仕事は範囲は広い。というよりも、「おれはこれ以外にはやらない」と矜持があって、つっぱる大工もあろうに、こんな具合に、何でも器用に造ってしまう大工の方に、武蔵は共感をおぼえているようにも思える。

 

 (3)卒たる者、此ごとくなり

 武蔵は、士卒、兵士たる者は、このごとくなり、大工と同様である、この事実をよくよく吟味しろ、とする。とすれば、いったんここで条文は終ってよいはずだが、現存写本では、さらに続けて、《大工の嗜、ひずまざる事、とめを合する事…》と記している。

 前段に、《大工の嗜、能きるゝ道具をもち、すき/\にとぐ事肝要也》とあって、大工の嗜み(心がけ)を述べているから、これは重複であり、文章の整理がすんでいないところである。

 このように、再度大工の嗜の話が重複して出てくる。つまり、むしろこの反復部分を削った文の方が話は筋が通るのだが、これは、別の書きさしの断片を捨てずに、そのまま取り込んで、ここに加えたかたちである。

 これも草稿状態を示すところであり、また草稿断片を捨てずに編集したものとみえる箇処である。

 なお、語釈のことからすれば、ここでは、現存写本に共通して、《すりミかゝざる事、後にひすかざる事》とある箇所が問題であろう。

 《すりミかゝざる事》というと、従来語釈は一般に「摺り磨かない」というように読んでしまうのだが、それは早とちりである。どうして大工が摺り磨いてはいけないのか、それを知らずに訳しているが、それでは意味が通らない。棚板や床框など、とくに最後の仕上げにすり磨いて、それから漆など塗装することがある。

 したがって、ここには、誤記があるとみなければならない。ようするに、《すりミかゝざる事》の「ミ」(み)字が衍字なのである。武蔵のオリジナルテクストには、《すりかゝざる事》とあったはずのものである。

 つまり、これは《擦り欠かざる事》という語句で、「部材表面を擦って傷つけないこと」という話なのである。直前に「かんなでうまく削ること」とある文脈の連続からすると、せっかくきれいに削っても、それを傷つけては台無しだからである。これは今日でも同じで、かんなで仕上げた後は、表面を傷つけないように大事に養生するものである。

 現存諸本は、筑前系/肥後系を問わず、多数が《すり「ミ」かゝざる事》としている。ということは、この衍字誤写は寺尾孫之丞段階のものであろう。孫之丞は、つい「摺り磨かざる事」と読んでしまって、オリジナルにはない一字を入れてしまった。それが、この部分に関するかぎり、そのまま「誤りなく」伝写されて、現存諸写本の文字になっているわけである。

 興味深いことに、肥後系諸本の中に、ここに異を立てているものがある。つまり、丸岡家本は、これを《磨琢事》として、否定形ではなく「すりみがく事」としている。これは「すりみがかない事」では、文意不通とみなして、改竄したものであろう。また後継の田村家本は、この《すりミかゝざる事》という語句そのものを削除している。この系統は、他の諸本と異なり、書写者が、《すりミかゝざる事》では変だと気づいたようである。

 ともあれ、我々のテクストでは、現存写本の多くに違背して、これを《すりかゝざる事》としている。つまり、「ミ」(み)字を衍字とみなして、武蔵のオリジナルを復元したのである。

 もうひとつ、ここでの語釈に関して指摘しておきたいのは、上掲の《大工の嗜、ひずまざる事、とめを合事、かんなにて能削事、すり(ミ)かゝざる事、後にひすかざる事、肝要なり》の部分、「後にひすかざる事」とある《ひすく》という語である。

 これについては、従来、「ひずく」として、これをさらに「ひずむ」「ゆがむ」と無理やり誤釈しているものが多い。岩波版注記に至っては、これを「ねじれないこと」として、珍解釈を披露している。

 むろん、《ひすく》には、歪む、ねじれるの意だという語例はない。これは五輪書読解に多い恣意的な誤釈の一例である。そもそも、すでに「大工のたしなみ、ひずまざる事」と書いているのだから、歪むということなら、「ひずまざる事」と書くであろう。

 とすれば、これは「ひすく」とそのまま読んだ方がよい。「後に」ひすかざる事というのだから、ここは、後に木材が乾燥収縮して、隙間が生じる、という意味の「乾すく」である。だから、ここは、後々木材が乾燥しても隙間が生じないようにすること、という語義である。

 このあたり、既成現代語訳と比較すれば明白なことだが、我々の語釈によって、はじめて五輪書が正しく読めるようになった、という一例である。


 諸本校異に言及したついでに、ここでもう一つ指摘しておけば、この条文の終りの結語部分、筑前系諸本に、
《此道を学ばんと思ハヾ、書顕す所の一こと/\に心を入て、よく吟味有べき者也》
とあって、《一こと/\に》とあるところ、これに対して肥後系諸本には、語句表記さまざまで、誤りが多い。
(楠 家 本)  書顕す処の一こと/\に
(細川家本)  書顕す所のこと/\に
(丸岡家本)  書顕す所のこと/\くに
(田村家本)  書顕ス処ノ如クニ
(富永家本)  書顕所の一/\こと/\くに
(狩野文庫本) 書に顕ス所の一事/\に

 このように、上掲例では楠家本と狩野文庫本だけが正記する他は、誤記が見られるところである。細川家本は、「一」字を脱字して、「ことごと(事毎)に」と誤解し、丸岡家本は同じ脱字をうけて、「ことごと(悉)くに」と解釈し、田村家本にいたっては、語重複記号「/\」を「く」字に読んで、「如くに」と改竄している。あるいは、富永家本では、「一々悉くに」と読む。

 まことに混乱した状況だが、こうした諸例からすれば、細川家本や丸岡家本も他と変わりがない。写本としての程度が知れるところである。

 しかし、岩波版は、他の諸本との照合を怠っているものだから、これをそのまま「こと/\に」と書いて、何の断りもない。もっとも流布している岩波版五輪書が信用ならないというのは、この例でもわかる。一般の読者は、それを誤記と知らずに読まされているわけである。

 いづれにしても、この大工のアナロジー、その根柢には、大工の使う道具の多くが武器に似ており、即、武器に転用しうるという事実がある。これを忘れてはならない。

かくして武蔵は、大工を範例にして、徹底して比喩してみせたわけである。大工をモデルにして武士は定義されるのである。身分制秩序の固定しつつあった当時、これがどれほど転覆的な言説実践であったか、それを十分認識する必要があろう。

もう一つ付け加えるならば、こうして武士を大工をモデルにして語るのは、おそらく、武家の子弟に武士の何たるかを教えるというスタンスだったことである。

こうしたシンプルな比喩の提示は、まさに兵法の道の初心者、武士の子弟たちを相手の講義である。その様子をみれば、五輪書は決して道の達者向けの奥義書ではなく、子供たちに教えるという極めて初歩的な教育書だったのである。

それゆえ、もっとも初歩的なものが、もっとも転覆的であるという、一種の奇蹟をこの書は実践しているのである。

なお付け加えれば、以上のような武蔵の大工/武士論が、当時であっても、いかに特異なものであったか、それは知っておくべきであろう。

たとえば、柳生十兵衛に右掲の如き論説がある(寛永十四年十一月書付「昔飛衛といふ者あり」)。これは《一ツの見之所は常にはずれずして、工の縄墨のごとし》として、以下、見、機、躰の三段を語る仕儀である。

これも大工を比喩に使った言説ではあるが、武蔵の論法とはまったく話の筋道が違うだけではなく、そもそも武蔵のような転覆的な威力はどこにもない。たんなる技術論である。これは剣術家と兵法家の相違である。兵法家とは古来思想家でもあった。そこの違いである。

6. 地水火風空五巻の概略 

【原文】

一 此兵法の書、五卷に仕立事。
五ツの道をわかち、一巻/\にして、
其利をしらしめんために、
地水火風空として、五巻に書顕すなり。(1)
地之巻におゐてハ、
兵法の道の大躰、我一流の見立、
劔術一通りにしてハ、まことの道を得がたし。
大なる所より、ちいさきところをしり、
淺より深きに至る。
直なる道の地形を引ならすに依て、
初を地之巻と名付る也。(2)
第二、水之巻。
水を本として、心を水になす也。
水ハ、方圓の器にしたがひ、
一てきとなり、さうかいとなる。
水にへきたんの色あり。清き所をもちゐて、
一流の事を此巻に書顕也。
劔術一通の理、さだかに見分、
一人の敵に自由に勝ときハ、
世界の人に皆勝所也。
人に勝といふ心ハ、千万の敵にも同意なり。
将たるものゝ兵法、ちいさきを大になす事、
尺のかね*を以て大佛をたつるに同じ。
か様の儀、こまやかには書分がたし。
一を以万を知る事、兵法の利也。
一流の事、此水の巻に書記すなり。(3)
第三、火之巻。
此巻に戦の事を書記す也。
火ハ大小となり、けやけき心なるによつて、
合戦の事を書也。
合戦の道、一人と一人との戦も、
萬と萬との戦も同じ道也。
心を大なる事になし、心をちいさくなして、
よく吟味して見るべし。
大なる所は見へやすし、
ちいさき所は見へがたし。其子細、
大人数の事ハ、そくざにもとをりがたし。
一人の事ハ、心ひとつにてかはる事はやき
に依て、ちいさき所しる事得がたし。
能吟味有べし。
此火の巻の事、はやき間の事なるに依て、
日々に手なれ、常の事と*おもひ、
心の替らぬ所、兵法の肝要也。然に依て、
戦勝負の所を、火之巻に書顕す也。(4)
第四、風之巻。
此巻を風之巻と記す事、我一流の事に非ず。
世の中の兵法、其流々の事を書のする所也。
風と云におゐてハ、昔の風、今の風、
其家々の風などゝあれバ、世間の兵法、
其流々のしわざを、さだかに書顕す、是風也。
他の事をよくしらずしてハ、
ミずからのわきまへなりがたし。
道々事々をおこなふに、外道と云心有。
日々に其道を勤と云とも、心の背けば、
其身ハ能道とおもふとも、直なる所よりみれば、
実の道にハあらず。
実の道を極めざれバ、少心のゆがみにつゐて、
後にハ大にゆがむもの也。
ものごとに、あまりたるハ、たらざるに同じ。
よく吟味すべし。
他の兵法、劔術ばかり、と世におもふ事、尤也。
わが兵法の利わざにおゐてハ、各別の儀也。
世間の兵法をしらしめんために、
風之巻として、他流の事を書顕す也。(5)
第五、空之巻。
此巻、空と書顕す事。
空と云出すよりしてハ、
何をか奥と云、何をかくちといはん。
道理を得てハ道理を離れ、
兵法の道におのれと自由有て、
おのれと奇特を得、
時にあひてハ拍子をしり、
おのづから打、おのづからあたる、
是皆空の道也。
おのれと實の道に入事を、
空の巻にして書とゞむるもの也。(6)

【現代語訳】

一 この兵法の書を、五巻に仕立てる事

五つの道を分け、一巻ずつにして、その(道の)利を教えるために、地・水・火・風・空の五巻に書きあらわすのである。

地〔ち〕之巻においては、兵法の道の概略、我が流派の見立てるところ、剣術だけをやっていては真実の道は得がたい。大きな所から小さい所を知り、浅いことから深いことへ至る、そのまっ直ぐな道の地形*〔ぢぎょう・ぢかた〕を造成して均すことから、はじめ(の巻)を「地」の巻と名づけるのである。

第二、水〔すい〕之巻。水を手本として、心を水のようにする。水は、容器の形にしたがって四角になったり円形になったりする。水はわずか一滴のこともあれば、広大な滄海となることもある。水には碧潭〔深い淵の青緑〕の色がある。その水の清浄なところを用いて、我が流派の事をこの巻に書きあらわすのである。

剣術一通りの理を定かに見分け、一人の敵に自由に勝つときは、世の中の人の誰にでも勝つのである。人に勝つというのは、千人万人の敵についても同じ意味である。武将たる者の兵法は、小さいものを大きく行うことであり、それは尺のかね〔曲尺〕を使って大仏を建てるのと同じである。

こうしたことは、詳細には説明しがたいが、一をもって万を知ること、それが兵法の利〔効用〕である。(そこで)我が流派のことを、この「水」の巻に書き記すのである。

第三、火〔か〕之巻。この巻には戦さの事を書き記す。火は、大きくなったり小さくなったり(自在に変化し)、きわだって派手なところがあることから、合戦の事を書くのである。

合戦の道において、一人と一人の戦いも、万人と万人の戦いも、同じ道である。心を大きなことにしたり、小さくしたりして、よく吟味して見るべし。

大きな所は見えやすいが、小さな所は見えにくい。そのわけは、大人数の事は即坐に変えることは難しいが、一人の事は、心一つでさっと変るので、小さな所は(逆に)知ることがむずかしいからだ。(この点を)よく吟味しておくべきである。

この火の巻で説くのは、早い間の(変化の)事であるから、日々に手馴れて、日常のことと思い、心の変らぬところ、それが兵法の肝要である。それゆえ、戦さ勝負のところを「火」の巻に書きあらわすのである。

第四、風〔ふう〕之巻。この巻を「風」の巻と記すこと。これは我が流派のことではない。世の中の兵法、その諸流派のことを、書き載せるのである。

風というばあい、昔の風、今の風、その家々の風などとあるから、世間の兵法、その諸流派のやり方を、定かに書きあらわしておく。これが「風」ということである。

他の(流派の)事をよく知らずしては、自身の理解も成りがたい。いろいろな道においてさまざまな事を行うに、外道〔げどう〕という心がある。日々にその道に励むとしても、心が(道に)背いていては、自身は善いと思っていても、まっとうな所から見れば、真実の道ではない。真実の道をきわめなければ、(最初は)ほんの些細な心の歪みでも、後には大きな歪みになってしまうものである。どんなことでも、過剰は不足に等しい。(これを)よく吟味すべし。

他(流)の兵法のことを、世間の人が、剣術だけでしかないと思うのは当然である。我が兵法の利わざ〔理事*〕においては、(他流とは)まったく違っている。世間の兵法(がどんなものか、それ)を知らしめるために、「風」の巻として、他流の事を書きあらわすのである。

第五、空〔くう〕之巻。この巻を、「空」と書きあらわすわけは、(以下のようなことだ)

「空」と言い出す以上、何を奥と云い、何を入口と云うのか。(そんな区別など、ありはしない)

道理を得てしまえば、道理を離れ、兵法の道におのずと自由があって、おのずから奇特〔きどく、不思議なほど優れた効験〕を得る。時に相応しては拍子を知り、おのずから打ち、おのずから当る。これみな空の道である。

(そのように)おのずから真実の道に入ることを、「空」の巻にして書留めるのである。

 

 【註解】

 (1)地・水・火・風・空

ここでは本書の構成概略が示される。地・水・火・風・空の五巻、これらがどういう内容なのか、概略を記す。長文である。

したがって、なお序文のごとき体裁であるが、この点、諸家の指摘するような矛盾はない。というのも、次に述べられるように、地の巻は地形地盤の地ならしをしているからだ。それをここでは再帰的(reflexive)に語っているのである。

あるいは、「地水火風空」の五輪・五蘊として仕立てることから、武蔵は東洋哲学流の形式的体裁にこだわりすぎる、という批評もあるが、これはいかにも見方が浅薄である。武蔵にそれほど形式性を重んじるふうはない。

既に述べたように、五輪書とは書物の形式をとった武蔵の墓である。この墓は五輪塔である。その形態に留意すればいいのであって、形式主義というものではない。

ようするに、形式と形態は違う。武蔵がとっているのは、形式ではなく、形態だということが気づかれねばならない。あたかも寿蔵を五輪塔にして建造するように、武蔵はちょっとした戯れを演じているのである。

なお、ここで「その利を知らしめんがために」という「利」は、メリットというより、いわばアドヴァンテージというほどの意味である。

 

(2)地之卷

最初の地の巻は、なぜ「地」の巻か。まっすぐな道を敷設するとき、地ならしをする――と、武蔵は土木的発想で語る。土木建築用語では「地業」という作業である。これなくして何も建造できない。

ここで「地形」とは、「ちけい」ではなく、「ぢぎやう」「ぢかた」と訓む。土木建築用語では「ぢかた」と訓む習慣が今でも残っている。

このあたりの比喩の採り方は面白いので、とくと見ておくことだ。

つまり、「地」というと、当時の人間なら、すぐさま「天地」哲学論を振り回してみたくなろうが、武蔵はそれをしないで、何とまさに土木的に「地」を語るのである。

五輪書の記述の発想は土木建築的である。こうした記述の特徴が従来指摘されたことがなかったのも、これまでの五輪書論の瑕疵欠陥とすべきである。

剣術だけをやっていては、まことの道は得がたい、というのが武蔵流である。大きな所から小さい所を知り、浅いことから深いことへ至る、そういう真っ直ぐな道を通すための造成工事をするのが、地の巻だというわけである。

日本のような自然では地形には起伏がある。そこに直線道路を敷設するためには、昔も今も地形を平らにする造成工事が必要なのである。

この《地形を引きならす》について、岩波版注記に「道に玉石を敷きつめて地固めすることをいう。基礎を固めるの意」とあるが、これは根拠なき謬説である。

《地形を引きならす》とは、読んで字の如し、土木造成工事のように地形を平らにすることである。何も道路舗装や基礎固めまでするとは一言も書かれていない。これは余計な解釈をして誤る例である。

この箇処について見れば既成現代語訳は、右掲の通り、すべて誤りである。武蔵のような昔の人間ほども、かれら訳者は土木工事を知らないのである。これは世間的常識がないということである。

 

(3)水之卷

水の巻は、《一流の事、此水の巻に書記すなり》とあるように、主として、武蔵流の太刀筋を初歩から具体的に教える。

心を水のようにする、という。水は状況に応じて形態を変え、また一滴から広大な海までその大きさを変える。碧潭の水の澄み切った清浄さがある。自由で清浄なこういう水の心にするのである。

水に碧潭の色あり、清き所を用ゐて――というあたり、この碧潭という語は「寒山詩」の有名な一節を反響させている。吾心似秋月、碧潭清皎潔。かくして、この措辞、当時の詩文教養の世界を背景にしていることを読み取らねばならない。

ところで、しばしば引用されて問題になる部分が、次に来る。すなわち、一人の敵に自由に勝つときは、世界中の人の誰にでも勝つ、人に勝つというのは、千人万人の敵についても同じ意味である、という「一をもって万を知る」、「一人に勝てば万人に勝つ」というテーゼである。

これはおかしいじゃないか、と理屈をこねる話が多い。ようするに、一人に勝っても、次にもっと強い奴が現れないとも限らない、それが世の中だ。これでは井の中の蛙ではないか、と。

常識は、一対一の対戦と、合戦のような集団的戦闘は、おのずから異なる、両者は同軌に扱えないとする。リアルな実戦主義者、武蔵にしては、ずいぶん非現実的な話ではないか、と。――これはこれで、尤もな見解ではあろう。

しかし、それは常識の論理であって、武蔵はここで、そういう常識的な考えをひっくり返して見せるのである。だから話は、非常識なその先に進んでいなくてはならない。

「一人に勝てば万人に勝つ」――考えると、これは謎めいたテーゼで、まるで禅の公案である。しかし、武蔵の言うことは、水のアナロジーからのトポロジカルな論理の展開である。

すなわち、武将たる者の兵法は、小さいものを大きくすることであり、それは「尺のかね」をもって大仏を建立するに同じことである、と。「尺のかね」は曲尺のこと、前述の大工が使う物差しである。この拡張拡大自由自在という論理の非常識性が、武蔵的なのである。

まず最初に、戦闘に規模の大小はあれ、根本は「一人に勝つ」ということなのだ。「一人に勝つ」ということがマスターできなければ、大規模な戦闘にも勝てない。それゆえの個人の鍛錬なのだとは言える。

だが、それだけなら、だれにでも言えることだ。武蔵のおもしろいところは、トポロジカルな高度な論理を、――まさに形式論理では短絡としかみえない論理を、そのショートサーキットを、――あっさり行使するところである。

常識を裏切る事例をあげれば、たとえばトポロジカルな論理では、右のようなドーナツとコーヒーカップは、まさに同じ構造なのである。ここには構造的相同性(structual homology)がある。《一人に勝てば万人に勝つ》というテーゼは、たんなる同一性ではなく構造的相同性を語っているわけだ。これは《一を以て萬を知ること、兵法の利なり》とあるのも同じ論理である。

この明解なロジックが把握できず、蒙昧な剣禅一如で誤魔化してしまったり、あるいは武蔵の論法はおかしいと非難したりするのが、従来の五輪書読みに共通する欠陥である。ようするに、武蔵のロジックを理解するには知能が足りないわけだ。

では、なぜこの水の巻で、こうしたロジックが展開されるのか。それはすでに冒頭で言っているではないか。水は、容器の形にしたがって、四角になったり円形になったりする。水はわずか一滴であることもあれば、広大な滄海となることもある、と。方円同一、滴水即大海である。大小自在、形態自由である。これが流体のトポロジーでなくて何であろうか。

ようするに、視覚的イメージとしては、水のように大小自在・形態自由であること、これが腑に落ちるようでないと、武蔵流の思考法について行けないわけである。

こうした武蔵の思考と論理は、ある意味で、社会秩序確立以前の具体的思考形態である。秩序が確立してしまうと、こうした思考は受け入れられなくなる。それゆえ、この自由自在の論理が規則違反の短絡としかみえないのである。

「一をもって万を知る」――これは五輪書で一貫して主張されるテーゼである。この強力なショートサーキットのロジックも、短絡どころか、大小自在・形態自由の武蔵流流体トポロジーにおいて、構造的整合性をもっているのである。このあたり、頭で理解するところでないとしても、数学的構造の了解と似たようなところがあろう。

このことを、武蔵がここにわざわざ書いたのも、この水之巻の読み方に誤解があってはならぬと、懸念してのことである。水之巻は、剣術の初歩から教える。しかし、それを剣術だけに視野を狭窄して読んではならない。一人との戦闘も、千万の敵に対するのも同じことだと、そのことをたえず念頭において学ぶべきである。ようするに、この巻が「水」の巻であって、心を、水のトポロジカルな流体性になすようにしろ、というわけである。

しかし、このように武蔵が強調しているのに、どうしても、この水之巻を剣術中心主義的に読んでしまう。その傾向は今日現代でも同じである。武蔵の懸念も警告も、無視されてきた。とすれば、我々は、改めて武蔵流の水のトポロジカルな論理を強調しておくべきである。


さて、ここの部分で指摘すべき校異が数ヶ所ある。

その一つは、《第二、水の巻。水を本として、心を水になす也》とあるべきところ、これを《水になる》とする諸本のあることである。これの校異は、筑前系・肥後系を横断して、諸本に見られるものである。

  水になす 水になる
筑前系  立花隨翁本 渡辺家本
 近藤家本 石井家本
 伊藤家本 神田家本
 吉田家本 中山文庫本
 伊丹家本
肥後系  楠家本 丸岡家本
 富永家本 田村家本
 狩野文庫本 多田家本
 稼堂文庫本 山岡鉄舟本
 細川家本 常武堂本

 

 このように、筑前系では吉田家本・中山文庫本・伊丹家本など早川系が「なる」とするのに対し、肥後系では、上掲リストの範囲では、細川家本・常武堂本の系統のみが、例外的に「なる」と記す。興味深いところである。

もとより、この部分の記述が「心を水になる」では、明らかに文として誤りである。ここは、肥後系写本の多数派が正しい。肥後系の中でも細川家本・常武堂本の系統のみが誤写している。読者は、こんなケースもあることを知っておいてよい。

むろん、これまでの五輪書研究で、肥後系諸本の中でも細川家本の系統のみが誤写している箇処があるなんぞ、そんなことが指摘されたことはなかったのである。岩波版五輪書は、諸本校合をしていない杜撰なものだから、この点、何の断りもない。

他方、筑前系写本は、従来、吉田家本・中山文庫本しか知られていなかったので、筑前系に「水になす」などと書くヴァージョンがあるとは、思いも寄らぬところであった。しかるに、我々が越後で諸写本を発掘精査した結果、筑前系の立花=越後系諸本には、「水になす」と正しく記してあることが判明したのである。

校異の問題で、もう一つは、次の箇処である。すなわち、諸本に「尺のかた」とあるのをみかけるが、これは、「尺のかね」の誤写誤伝である。

「尺のかた」とするのは、小を大になすという文脈から、大仏の制作にあたって、まず一尺ほどの型(模型)を作ったということだろうという推測から、「かた」とみなしたものである。しかし、大仏の模型にするのに、一尺のミニチュアでは小さすぎる、模型は少なくとも四尺五尺はある、ということを知らなかったのである。

そうでなくとも、もし模型のことなら、「尺のかた」とは書かず、「一尺のかた」と書いたはずである。「尺のかた」ではいかにも語句表現がよろしくない。ようするに、ここは、曲尺〔かねじゃく・さしがね〕のことを「尺のかね」と書いたのである。おそらく、「ね」(年)字を「た」(多)と誤読して「かた」としたことが、まず最初の間違いだったようである。

そのように「かた」とするのは、これも、肥後系・筑前系を問わず、見られる誤写であるから、史料批判によってはじめて訂正可能な箇所である。

 

  尺のかね 尺のかた
筑前系  立花隨翁本 渡辺家本
 近藤家本 石井家本
 伊藤家本 神田家本
 吉田家本 中山文庫本
 伊丹家本
肥後系  富永家本
 多田家本 稼堂文庫本
 楠家本 丸岡家本
 細川家本 常武堂本
 田村家本 狩野文庫本
 山岡鉄舟本

 

 こうしてみると、筑前系では、上掲の「水になす/なる」の例と同じく、立花=越後系と早川系の間で截然たる相異があり、ここでも、早川系の吉田家本・中山文庫本等よりも、立花=越後系の立花隨翁本・渡辺家本・石井家本等々の諸本の方が正しい。これをみるに、柴任美矩→吉田実連の段階まで「尺のかね」であったのを、のちに早川系で「かた」と誤写したものらしい。

また、肥後系諸本をみると、楠家本・細川家本・丸岡家本等がそろって「尺のかた」とするのに対し、富永家本は「尺のかね」である。しかも円明流系統のうち、多田家本と稼堂文庫本が同じく「曲尺」「かね」と書いている。

ということは、肥後系でも早期には「尺のかね」であったとみえる。これら写本は、どれも後期写本なのだが、早期に派生した系統の末裔である。そこで、たまたま早期の遺跡が保全されていたというわけである。

何れにしても、「かね」が「かた」に変異したのである。それは書写者の頭に解釈が働いて、目が文字を読み違え、手はおのづから「かね」を「かた」と書いてしまったのである。

細川家本を底本とする岩波版の注記は、これを《小さな原型。「かね」か》としており、「小さな原型」は無理を通した誤釈であるが、さすがにおかしいと思ったのか、「かた」ではなく「かね」かと示唆しているのは正しい。

既成現代語訳はすべて、右掲の通り、岩波版細川家本の「尺のかた」を無理に訳して、間違っている。神子訳は「一尺の模型」という、原文にはない「一尺」を持ち込んだ超訳であり、以下、大河内訳・鎌田訳も神子訳の誤りを反復している。神子訳は以前のものだからしかたがないが、せっかく岩波版注記が「かね」の線を示唆しているのに、大河内訳・鎌田訳ともに、これを考える努力を怠ったのである。

ここは、「尺のかね」でなければならない。これは「一尺ほどの小さな物差」という意味でなく、まさに曲尺〔かねじゃく〕のことである。すこしひねった言い方でそれを「尺のかね」と洒落て書いているだけである。他の例では、兵法のことを「兵の法」と書いたりする。こういう文飾語法の知識がないと、語釈も語訳も初歩的なミスをしてしまうのである。


この部分でもう一つ指摘すべき校異箇処がある。すなわち、筑前系諸本に、
《一を以て万を知事、兵法の利也》
とあって、諸本共通して《万を》とするところ、肥後系諸本のなかには、《万と》として、「と」字に作る例がある。しかし、これが肥後系諸本すべてに共通する語句かというと、そうではない。丸岡家本や円明流系統では、《万を》とする。

したがって、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、《万を》の方である。それゆえ、既出例と同じく、このケースでは、《万を》と記すのが古型であり、これが正記である。《万と》と記すのは誤記である。

こうしたことは、肥後系諸本ばかりを見ていては、判定がつかないところである。筑前系/肥後系を横断して諸本を照合して、はじめて分ることなのである。

改めて内容を分析してみれば、実際、《一を以て万と知る事》では、文意不通である。内容の点でも、これは明らかに誤写である。そして一部写本に限ったことなので、肥後系の派生過程において、これは早期にはなく、後になって発生した誤写である。

このように後発的特徴を示す誤写を有するのは、楠家本や細川家本などである。誤写の後発性とその共有ということからして、この両本は近縁性をもつ。言い換えれば、丸岡家本系統が派生した後に派生分岐したのが、楠家本と細川家本の系統である。

このあたりに校異が集中しているので、よい機会だから史料評価をしてみよう。以上の諸校異――「心を水になす 」、「尺のかね」、「一を以て万を知る」の三ヶ所――について、肥後系の楠家本・細川家本・丸岡家本の正誤を、それぞれ整理すれば以下の如くである。

 

校 異 字 句 楠家本 細川家本 丸岡家本
 心を水になす ×
 尺のかね × × ×
 一を以て万を知る × ×

 

 この一覧表によって校異の結果は明らかである。すなわち、水之巻の記事におけるこの校異三ヶ所に関するかぎり、丸岡家本が二勝一敗、楠家本が一勝二敗、細川家本は零勝三敗で、最下位である。

他の部分では異なる結果が出るが、このあたりについては以上の結果である。したがって、先入見なしに公平に物事を見るとき、なぜ、これまで細川家本に格別のステイタスが与えられてきたか、不思議に思わない者はあるまい。

ようするに、細川家本を諸本に勝る特別な写本と見るその理由も根拠もない。ましてや、筑前系/肥後系を横断して諸本を照合すれば、従来細川家本に賦与されてきた格別のステイタスには、およそ根拠がないのは明らかである。かくして、思い込み、先入見というものから自由になれない限り、五輪書もまた不可解な蒙昧の中におかれたままである。

 

   (4)火之卷

火の巻では、戦闘での駆け引きや戦局の視点など実戦的な戦法を述べる。ここはとくに説明を要しないであろう。

ただ若干語釈を要する言葉があり、それらに関して言えば、まず、「けやけき」とあるのは、際立って目立つというほどの意味。火であるから赫然としていること。

また次に、《もとをりがたし》の「もとをる」はすこし難しいが、元来は「まわる、まがる」という意味である。あるいは、古いところでは、『古事記』中巻の歌謡にある、
《細螺のい這ひ母登富理》
《大石に這ひ母登富呂布細螺の》
の「もとほり」「もとほろふ」であるが、細螺〔きさご〕が巻貝であるところから、「もとほる」である。これは「くるくる回る」という意である。しかし後代の「もとをる」は、自由に操作する、自由が利く、あるいは役に立つという語義に転じた。そこで、《もとをりがたし》とは、自由が利かないという意である。「もとほり」の古義の語感が残存しているとすれば、ここは、大人数だと図体が大きくて、方向転換が難しいというほどの感じである。

さて、火は、大きくなったり小さくなったりする。水も、容器にしたがって、自在に形を変えたし大きさも変えた。それゆえ、ここでも武蔵は、
《一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也》
として、前記の水のトポロジカルな論理を繰り返している。水之巻では流体のトポロジーであったが、こんどは炎のトポロジーである。こうした水や火の原型的イメージは、バシュラール風の自然学=物理学として読んでよいものである。

他に言えば、ここでの武蔵流のテーゼは、《心を大なる事になし、心をちいさくなして》とか、《大なる所は見えやすし、小き所は見えがたし》というものである。

後者について言えば、戦場において大きな所は見えやすいが、小さな所は見えにくい――しかし、それは常識とは逆であろう。「木を見て森を見ず」とか言うから、小さいところは見やすいが、大きなところは見えにくいというのが、通常の話である。

それを武蔵は、変化ということで説明する。大人数なら図体が大きくて変るのが難しいものだから、見えやすいが、一人の事のような小さな所はあっという間に変化するから見えにくい。

この火の巻で説くのは、――と武蔵は云う、――早い間の(変化の)事であるから、日々に手馴れて、日常のことと思い、心の変らぬところ、それが兵法の肝要である、と。

ようするに、瞬時に変転する細部を把握するには心の不変がなくてはならない――という初歩の教えである。言うならば、変化における不変、運動における不動、という兵法の弁証法的構造がここで示唆されているというわけである。

しかしこれはまだ教えの初歩である。だれでも言う基本のことだから、とりたてて論ずべきことはない。後に武蔵はもっと複雑な話を繰り出してくるだろう。

――――――――――――


この部分における校異について指摘すべき箇処がある。すなわち、筑前系諸本に、
《日々に手なれ、常の事とおもひ、心の替らぬ所、兵法の肝要なり》
とあって、諸本共通して《常の事と》とするところ、肥後系写本には、《常のごとく》とする例が多い。

この相異が筑前系/肥後系を截然と区分する差異かというと、必ずしもそうではない。肥後系のうちでも円明流系統の狩野文庫本は、《事と》と記し、多田家本には、同類の《事に》と写し崩すのである。

円明流系統は比較的早期に派生した写本の子孫である。それゆえ、早期写本の痕跡を残している箇処もある。このケースもそうであろう。おそらく、肥後系も早期には、《事と》と記していたのである。これが後に、《ごとく》へと変異したものらしい。

もとより、「常の事と」思うも、「常のごとく」思うも、このケースでは、文意は大して変らない。しかし、どちらが正しいかとなると、古型はどちらか、ということで決まるのである。

筑前系諸本には共通して《事と》と記すから、これは筑前系の初期からあったという見当が付く。しかも、肥後系でも円明流系統に《事と》の例があることからすると、肥後系早期にはこう記していたらしいということになる。

このような《事と》から《ごとく》へ、というこの変異プロセスは、いかなる経緯をたどって生じたのか。それはおそらく、肥後系で仮名で「ことゝ」と記す写本が発生して、その「ことゝ」の「とゝ」二字を、「とく」と読んでしまい、「ことく」と記すようになったものである。以後、肥後系写本のなかに《ごとく》と読んで伝える写本が生じたのである。

これは円明流系統の派生以後のことであり、肥後系のなかでも《ごとく》と記す写本は、いづれも大して古いものではないのである。

しかし、《常のごとく》と記す岩波版細川家本に依拠する従来の語釈は、こうした校異状況を知らないようで、その無知から、ここを抵抗なく読んでしまっている。

それだけではなく、既成現代語訳を通覧するに、《常のごとくおもひ》という語句が曖昧になっていった。戦前の石田訳がその皮切りのようで、細川家本の《常のごとくおもひ、心のかはらぬ所》が、「平常と變らぬ心を持つやうになること」と一種の超訳で臨んでいる。

戦後になると、神子訳が、「いざというときに平常心で当たれるようになること」と、これまた輪をかけた超訳を示し、原文のどこにもない「平常心」という言葉を持ち込んだ。この神子訳の脱線は、岩波版注記も継承して、「いかなる場合に臨んでも、迷いのない、平常心を養うこと」と記して、いつのまにか「迷いのない」という形容詞を密輸して、誤謬を増幅している。

次の大河内訳は、「いざというときも、いつもと変らずに戦うこと」として、まったく原文から遠くかけ離れた脱線を演じているし、鎌田訳は、「平常心で当たれるように心がかわらないこと」として、神子訳および岩波版注記の「平常心」を頂戴しているだけではなく、細川家本原文の《常のごとくおもひ》という語句は、跡形もないという破壊ぶりである。

こういう誤釈珍訳を陳列してみると、その遠因はやはり、細川家本が《常のごとく》という誤記を写したことにあると言わざるを得ない。これが迷惑の原因である。これが、文意を不明確にして、ついには「迷いのない平常心」などという阿呆な話が思いつかれるようになった。

もし訳者が、《常の事とおもひ》が正しいと知っておれば、ここまでの脱線は生じなかったかもしれない。この箇処もまた、原文校訂にまで遡って、現代語訳の訂正が必要なところである。

 (5)風之卷

風の巻は、《他流の事を書顕す也》と、他流に対する批評である。ようするに、一言で云えば「他流批判」である。五輪書の兵法書としての特徴は、このような他流批判を含むことである。

何ごとであれ、自身が自身であること、アイデンティティは、自身一個では規定できない。往時の構造主義的思考の所説を俟つまでもなく、まさしく他との差異によってのみ自己規定は可能である。

武蔵は、他の流派の事をよく知らずしては、自派の理解は成りがたい、とする。つまり、即自的な自己知はありえず、対他の回路を巡回してはじめて、自己了解に到るのである。これまた他者を反面の鏡として、ネガティヴな鏡として、自己認識に到るという弁証法である。

しかし武蔵の教えはそこにとどまらない。言うならば、構造主義的な自他の差異にとどまらず、自他の対立のプロセスを通じて、この対立が実はリアルな対戦と重層的に規定されることを示し、兵法の弁証法的構造を武蔵は語ろうとするとみえる。ただしこれも、弁証法が闘争の論理だというヘーゲルの思考を前提しての話ではあるが。

もうひとつは、修行のバタフライ効果とも言うべきものである。すなわち――《道々事々をおこなふに、外道と云心有》として、「外道」〔げどう〕のことを語り、真実の道を究めなければ、始めはほんの少しの心の歪みも、後には大きな歪みになってしまうものだ、という話である。

《ものごとに、あまりたるは、たらざるに同じ》――どんなことでも、過剰は不足に等しい。この反対物の一致(correspondence of opponents)は武蔵的テーゼと云うべきもので、後にも繰り返されるだろう。武蔵一流のユーモアで、毒が効いている。

だから、他の諸流派がどんなものか、知っておかねばならない。言わば、この風之巻は他流のやり方を解説するとともに、初心の者へのガイダンスを行うのである。

――――――――――――


ここで、語釈の問題を挙げれば、以下の部分である。
《他の兵法、劔術ばかり、と世におもふ事尤也。わが兵法の利わざにおゐては、各別の儀也》

この「利わざ」という語。これは筑前系/肥後系を通じて、同じく「利わざ」である。ただし、これはそのままでは読めないところである。したがって、当時の「りわざ」の語法から「理事」という書字に復元すべきところである。「事」は「わざ」と訓むのである。後に述べられるであろうが、この「理」と「事」は相対される概念である。

五輪書諸写本はいづれも同じく「利わざ」である。とすれば、この「利わざ」という字句は、寺尾孫之丞の段階まで遡りうるものである。これは、「理事」を「利わざ」と仮名書きしたもので、「利」字には漢字の所記的意味はない。武蔵のオリジナルにも、そのように仮名書きで「りわざ」とあって、「理事」を意味せしめただろうし、孫之丞はそれを転写しただけである。したがって、「利わざ」という表記の「利」字は、文字通りの仮名文字であって、それに所記的意味を読み取るのは、明らかな錯誤である

この「利わざ」に関して、岩波版注記は「理合(りあい)と業(わざ)」だとしている。これは意味内容は誤りではないものの、やはり「りわざ」が「理事」という成語であったことを明確に注記すべきところである。この点、正確な注記とは言えない。

既成現代語訳を見るに、右掲のごとくで、神子訳は「りわざ」の語義を知らないために誤訳しているが、他の二者は、岩波版注記にガイドされて、「理事」に近い線を出している。ただし、「理事」が成語であることが、この訳語では不明である。


なお、ついでに校異の点を申せば、ここで一つ、注意すべきことがある。それは、他の諸写本にはなく、細川家本・常武堂本の系統にのみある脱文箇処のことである。

 


*【吉田家本】
《実の道を極めざれば、少心のゆがミにつゐて、後にハ大にゆがむものなり。ものごとに、あまりたるは、たらざるにおなじ。能吟味すべし》

*【楠家本】
《実の道をきわめざれバ、少心のゆかミにつゐて、のちにハ大きにゆかむもの也。物毎に、あまりたるハたらざるに同じ。よく吟味すべし》

*【丸岡家本】
《実の道を極めざれば、すこし心のゆがみに付て、後には大キにゆがむもの也。物ごとに、餘たるは、不足におなじ。能吟味すべし》

*【石井家本】
《實の道を極めざれバ、少し心のゆがみにつゐて、後にハ大にゆがむもの也。ものごとに、あまりたるハ、たらざるに同じ。能吟味すべし》

*【細川家本】
《實の道を極めざれば、少心のゆがみに付て、後にハ大きにゆがむもの也。【★★★★★★脱文★★★★★★】吟味すべし》

*【狩野文庫本】
《実の道を極ざれバ、少心のゆがミに付て、後ニハ大きにゆがむ者也。物毎ニ、余りたるハたらざるに同じ。能吟味すべし》

 

 さきほど、反対物の一致として述べたところの、《ものごとに、あまりたるは、たらざるに同じ》、つまり過剰は不足に等しいという武蔵的テーゼ、それがここでは丸ごと脱落している。

これは、続いて《よく吟味すべし》と指示があるものだから、落せない言葉である。にもかかわらず、細川家本・常武堂本の系統には、それがない。つまり、細川家本・常武堂本の祖本の段階で、不注意にもこれを脱落せしめたのである。

これは、筑前系では勿論、肥後系諸本の中でも、この系統にのみ見られる脱字である。つまり、写し崩れの多い他の肥後系諸本でさえ、ここを正しく記すのに、細川家本・常武堂本の系統だけが誤写している。ようするに、細川家本をむやみに信奉して、異本照合を怠っていると、武蔵の重要なテーゼさえも見失ってしまうのである。

しかるに、岩波版注記は、このような細川家本の脱字について何の断りもない。ということは、他の異本を参照しなかったと見える。そういう杜撰な校訂が現行岩波版を生み出している。

武蔵が云っておるではないか。――《他の事をよくしらずしては、みずからのわきまへなりがたし》。

五輪書を校訂する者が、武蔵の教えに背いてどうする? 後学の諸君は、武蔵の教訓にしたがって、他の異本を可能なかぎり当たってみることだ。そうすれば、多少なりとも自身のわきまえもできることだろう。

しかし、さらに問題なのは、岩波版細川家本しか知らない既成現代語訳である。むろん、この武蔵的テーゼがここにあるとさえ気づかず、素通りしてしまっている。かくして、今に至るも、読者はそれを知らされず、「五輪書」と称する粗悪な擬い物を読まされているというわけである。

 (6)空之卷

五輪塔の一番上に宝珠が載っている。これが空〔くう〕の部分である。

最高のポジションがまた最も深いのである。逆にいえば、深淵こそ最も高みにある。そんなトポロジカルな逆説である。

ここで「空」というと、何やら抹香臭くなるのも致し方ない。仏教に影響されてそういう最高最深の境位を求める文化的伝統があって、それが我々の場所にまで連続しているからである。

しかし、武蔵の場合、「空」は具体的に、奥も入口もない空間である。しかもそれは、作為執着によるのではなく、おのずから自由である空間である。これはまた仏家の即身成仏や頓悟法門などといった密教的伝統を背景に、禅門においてとくに主張された思想的ポジションであるが、武蔵がこれを言うとき、決して禅堂での観想においてではなく、まさしくリアルな戦闘シーンを背景にして語るのである。

したがって、武蔵が「空」というとき、殺人という至高悪の深淵、まさにリアルなものの空虚の露出を、我々は読み取らねばならない。空は決して観念的なものではなく、まさにリアルなものの次元に出現するのである。

こうしたことを念頭において、ここでの武蔵のテーゼ、
《空と云出すよりしては、何をか奥と云、何をか口といはん》
《道理を得ては、道理をはなれ》
を受けとらねばならない。この二つは、要するに同じことを言っているのである。

あらかじめ言えば、この空之巻が最高の境地を語っているとみるのは、誤りである。既に「空」というときは、何を「奥」といい何を「入口」といおうか、である。もはや入口も奥もない。最高も最低もない。武蔵がこの兵書を、若年初心者のために書いたそのポジションは、まさにそこにある。

ただし、この「そこ」はどこにもない場所、非場所(utopos)であると、言えば言えるが、それでは文学的にすぎる。そうではない。むしろトポロジカルな場所として、それは死と殺人のリアルな現場で不意に露出するものである。言わば、最悪の場所でこそ「空」はある。

それゆえ、以下に言う「おのづからの道」としての空の道も、そのような文脈で読まれなければならない。すなわち、――道理を得てしまえば、道理を離れ、兵法の道におのづと自由があって、おのづから奇特を得る。時に相応しては拍子を知り、おのづから打ち、おのづから当る。これみな空の道である。そのようにおのづから真実の道に入ることを、空の巻にして書留めるのである、云々。

この武蔵流の「おのづからの道」としての空の道を、老荘的自然主義と読むのは誤りであるし、ましてや、日本的なあれやこれやの無心としての自然主義と見るのも誤解である。

武蔵は、明確に、おのづから打ち、おのづから当る、これみな空の道である、と書いている。この「おのづからの道」とは自動運動のことである。自動と自然が違うのはだれでも理解できよう。しかも、それが自動的に人を殺傷する運動なのである。

これが、武蔵の「おのづからの道」としての空の道である。殺生の最悪の場所でこそ「空」はある。ゆえに、武蔵の「空」は、善悪の彼岸という倫理性を帯びる。このことを見ないかぎり、五輪書という兵法教本の根底にある地獄も知らぬ、能天気な武蔵論ばかり、という現状が再生産されるのである。

――――――――――――


ここで、校異の所在から、ひとつ興味深い事実が判明するので、それを挙げておく。ことは筑前系写本に限ってのことである。すなわち、
《空と云出すよりしてハ、何をか奥と云、何をかくちといはん》
という、奥/口の話のところ、筑前系吉田家本では、第二の《何をか》を落としている。

他の筑前系諸本、立花隨翁本をはじめ越後系の諸本では、この第二の《何をか》は正しく保全されている。それのみならず、同じ早川系の中山文庫本や伊丹家本にしても、この第二の《何をか》を落としていない。

吉田家本は、一般に中山文庫本等諸本よりも比較的正確である。そして、他には見られない文字表記の一致も見られる。したがって、このことから、吉田家本は中山文庫本の「父祖」ではないかという推測もあった。しかるに、この例のように、中山文庫本が正記する箇処を、吉田家本が脱字せしめているのである。

ここから、興味深い結論を得るのである。すなわち、――同じ吉田=早川系であっても、吉田家本に、中山文庫本にはない誤記があるということは、吉田家本のうち地水火風四巻は、中山文庫本等諸本の「父祖」ではなく、互いに平行関係にある写本だということである。つまり、吉田家本四巻は、早川系内で分岐派生した後の写本だということである。それゆえ同じ系統でも、その中で校異が発生しているのである。

そのことから、さらに、吉田家本は、中山文庫本の「父祖」と交渉があったのではないか、と推測しうる。つまり、中山文庫本は、吉田実連から早川実寛(吉田卓翁)へ派生した流れに属するのだが、この早川系の写本が早期に還流して、それが吉田家本四巻になったと見なしうるのである。


そうすると、吉田家本空之巻に継ぎ足した立花増昆の跋文(寛政四年)の記事を、どうみるか。というのも、そこには、

――二天流の兵書、地水火風空五巻は、新免玄信居士により、寺尾孫之允信正、柴任美矩に伝わり、柴任美矩から吉田実連に与えた書五巻、これが貴家(吉田家)の高祖父吉田式部治年が所持していて、代々伝えたのだが、筐底に埋れていたばかりであった、という。

つまり、寛政四年(1792)の段階での立花増昆の言によれば、柴任が吉田実連に与えた五巻は、吉田治年以来この吉田本家に伝持されていた。ところが、現存吉田家本を見るに、空之巻以外の四巻は、柴任美矩→吉田実連当時のものではなく、写し崩れのある明らかに後世の写本である。言い換えれば、吉田治年以来、吉田本家にあったと立花増昆が云う五巻のうち、空之巻だけが現存しており、他は逸失して、替りに後の写本が充当されているのである。

したがって、いま地之巻に関わっているところだが、この地之巻を含む吉田家本四巻は、どこから来たものか、ということが次の問題である。

この件については、なおしばらく再考を要するところであるが、当面は、早川実寛系統の月成実久から大塚重寧あたりの五輪書が書写されて、吉田家へ還流したのではないかと想定している。

それはともあれ、この脱字箇処から、吉田家本と中山文庫本との関係も、おおよそのところ見当がつくようになった。吉田家本と中山文庫本はともに、立花系の隨翁本に対して、早川系と位置づけられるものであるが、吉田家本と中山文庫本の両者は平行関係にあり、大塚家本や中山文庫本の「先祖」から吉田家本四巻が派生したと見ることができるのである。

7. 二刀一流という名

 【原文】


一 此一流二刀と名付る事。
二刀と云出す所、武士ハ、
将卒ともに、直に二刀を腰に付る役也。
昔ハ、太刀、刀と云、今ハ、刀、脇指と云。
武士たる者の此両腰を持事、
こまかに書顕すに及ばず。
我朝におゐて、しるもしらぬも、
こしにおぶ事、武士の道也。
此二ツの利をしらしめんために、
二刀一流と云也。(1)
鑓長刀よりしてハ、外の物と云て、
武道具の内也。
一流の道、初心の者におゐて、
太刀、刀両手に持て、道を仕習ふ事、実の所也。
一命を捨るときハ、道具を殘さず役に立度もの也。
道具を役にたてず、腰に納て死する事、
本意にあるべからず。
然ども、両手に物を持事、
左右ともに自由にハ叶がたし。
太刀を片手にて取習ハせんため也。(2)
鑓長刀、大道具ハ是非に及ばず、
刀脇差におゐてハ、
何れも片手にて持道具也。
太刀を両手にて持て悪しき事、
馬上にて悪し、かけはしる時、あしゝ、
沼ふけ、石原、さかしき道、人こミに悪し。
左に弓鑓を持、其外何れの道具を持ても、
皆片手にて太刀をつかふ物なれば、
両手にて太刀を搆る事、実の道にあらず。
若、片手にて打ころしがたきときハ、
両手にても打とむべし。
手間の入事にても有べからず。(3)
先、片手にて太刀を振ならわせんために、
二刀として、太刀を片手にて振覚る道也。
人毎に始て取付*時ハ、
太刀重くて振廻しがたき物なれども、
萬、始てとり付ときハ、
弓もひきがたし、長刀も振がたし。
何れも其道具/\に馴てハ、弓も力強くなり、
太刀*も振つけぬれバ、
道の力を得て振よくなる也。
太刀の道と云事、はやく振にあらず。
第二、水の巻にて知べし。
太刀ハ廣き所にて振、
脇指ハせばき所にてふる事、
先、道の本意也。
此一流におゐて、長きにても勝、
短にても勝故によつて、太刀の寸を定めず。
何れにても勝事を得るこゝろ、一流の道也。
太刀ひとつ持たるよりも、二つ持て能所、
大勢を一人して戦時、
又とり籠りものなどのときに、能事あり。
か様の儀、今委しく書顕すにおよばず。
一を以て万をしるべし。
兵法の道、おこなひ得てハ、
ひとつも見へずと云事なし。
能々吟味有べき也。(4)

【現代語訳】

一 この流派を二刀と名づける事

二刀を主張するのは、(以下のようなわけだ――)

武士は武将・士卒ともに、まさに二刀を腰につけるのが役目である。(この二刀を)昔は太刀・刀〔たち・かたな〕といい、今は刀・脇差〔かたな・わきざし〕という。武士たる者がこの両刀を持つことは、細かく書きあらわすまでもない。我国において(そのわけを)知る者も知らぬ者も、腰に(二刀を)帯びることが武士の道である。この(刀)二つの利点を知らしめるために、「二刀一流」と言うのである。

鑓〔やり〕・長刀〔なぎなた〕からすれば、(太刀は)「外〔と〕の物」*といって武器の内である。我が流派のやり方は、初心の者であっても、太刀と刀を両手に持って、道を習練する。それが本当のやり方である。

一命を捨てる時は、道具〔武器〕を残らず役に立てたいものである。道具を役に立てずに、腰に納めたまま死ぬというのは、決して本意ではないはずだ。けれども、両手に物を持って、左右ともに自由に扱うのはむずかしい。(そこで、二刀を持たせるのは)太刀を片手でも使いなれるようにするためである。

鑓・長刀など大きな武器は、両手で持つのは当然である。(これに対し)刀や脇差のばあいは、いづれも片手で持つ道具である。

太刀を両手で持って具合が悪いのは、馬に乗っている場合よくないし、走りまわるときに具合が悪い。沼、ふけ〔湿地〕、石原、嶮しい道、籠城者の場合も具合が悪い。左に弓や鑓を持ち、その他どんな道具を持っていても、すべて片手で太刀を使うものであるから、両手で太刀を搆えることは本当のやり方ではない。

もし片手で打ち殺すのが難しい時は、両手(で持って)でも、打ち留めるとよい。手間のかかる事でもないはずだ。

(だから我が流派では)まず、片手で太刀を振りなれるようにするために、二刀として、太刀を片手で振るのを覚えるというやり方である。

人はだれでも、初めて手にする時には、太刀が重くて振り回すことができないけれども、(それは太刀に限らず)何でも最初始めた時は、弓も引けないし、長刀も振れないものだ。何であれ、その武器それぞれに慣れてくると、弓も力強くなるし、太刀も振り慣れると、道の力を得て、楽に振れるようになるのである。

(しかし)太刀の道ということは、早く振ればいいというものではない。(これは)第二の水の巻で(書いているから)知ることができよう。

太刀は広い所で振り、脇差は狭い所で振ること、これがまず道の本来のあり方である。

この流派においては、長い刀でも勝ち短い刀でも勝つ。だから、太刀の長さは定めない。(長短)どちらでも勝つ事を得るのが、我が流派のやり方である。

太刀を一つだけ持つよりも、二つ持つ場合の長所は、多勢と一人で戦う時、また取籠り者〔屋内籠城者〕などの時に、利点がある。

このようなことは、ここで委しく書きあらわすに及ばない。一をもって万を知るべし。兵法の道に習熟すれば、分からないということは一つもない。よくよく吟味あるべきである。

【註解】

 

 (1)二刀一流と云也

二刀流・宮本武蔵。これは五輪書に取付こうとするほどの者なら、だれでも知っていることである。

しかし、どうして武蔵は二刀流なのか、なぜ普通の流派のように一刀ではないのか。現在の剣道はたいてい一刀であるし、時代劇など見ても両手で一刀を搆えている。とすれば、武蔵はなぜこんな変則的スタイルをとったのか?――まず、こんなところが初歩的な疑問である。

ところが、ここに武蔵が書いているところを読めば、そういう問題構成そのものが間違っているのがわかる。

以下、武蔵の説明を読んで行こう。

まず第一に、意外にも武蔵が言うのは、一刀よりも二刀の方が当然だということである。これは現在一般の常識を覆す説である。

つまり、どうして武士は一本差しではなく、二本差しなのか――というありふれた「考現学的」視点を、武蔵は突きつけるのである。現に武士はだれでも刀を二本差している。そのわけを知る者も知らぬ者も、腰に二刀を帯びる。それが武士の慣習である。しかし、それを不思議に思わないか?

それには理由がある。二刀の利点を知らしめんがために、「二刀一流」と言うのだ、と武蔵はいうのである。

なお、ここで若干の解説が必要かもしれない。つまり、太刀と刀ということである。武蔵の云うところでは、

  昔は、 太刀〔たち〕・刀〔かたな〕

  今は、 刀〔かたな〕・脇差〔わきざし〕
といっているとある。太刀と刀は同じものではないか、と思う人があるかもしれないが、それが違うのである。

いちばんの区別は、その身につけ方である。太刀は刃を下に向けて紐でぶら下げて佩く。刀は刃を上に向けて帯に差す。

太刀は、元和偃武以後になると廢れ、もっぱら儀礼もしくは装飾用になった。平和になって、今日の我々も知るような、帯に大小を差す習慣になったのである。だから、武蔵は二刀について、昔は「太刀・刀」のセットだったが、今は「刀・脇差」のセットだというのである。むろん、昔の「刀」と今の「脇差」とでは、意味も機能も違う。

武蔵は昔と今の刀剣の相違を語る。ここで露出するのは、武蔵が世代を縦断していることである。武蔵は、関ヶ原以前、若年期から決闘勝負を敢行した世代である。言い換えれば、慶長期の戦闘の場を知っていた世代であり、それが寛永末期になって、慶長当時と今の刀剣の相違を明示するのである。

「太刀/刀」から「刀/脇差」への史的変遷、この過程で、太刀を振るう武士の戦闘スタイルが、おそらく変った。武蔵は、といえば、本来のかたち、その伝統的なスタイルを保持する流儀を、あえて言挙げする。つまり、武蔵の「二刀一流」とは、新奇な流儀ではなく、むしろ逆に、まことにコンサーヴァティヴなスタイルだったのである。


(2)太刀を片手にて取習はせんため也

なぜ二刀流なのか?――話は実際的で具体的である。

戦場では、武士は身にさまざまな武器を具備している。もし一命を捨てる戦闘なら、身につけた武器をすべて使い切って死ぬというのが当然で、武器を使い切らずに死ぬのは本意ではなかろう――と、武蔵は言う。これは実戦上のまったく具体的な必然の話であり、それが観念的な剣術論と五輪書の違いである。

だから、初心の者であっても、二刀で稽古させる。それが武蔵流二刀一流のやり方だという。

ここで、従来しばしば出た見解に関説しておくのもよいかもしれない。すなわち、剣道をやっている者の意見では、やはりこの武蔵流二刀は難しいという。初心者には一刀でも難しいのに、二刀など、とうてい無理だということである。

たしかにそうであろう。しかし、どうして武蔵はそんな無理なことを強いるのか。ところがここでも、そういう問題の設定の仕方が間違っているのである。

武蔵は戦場のリアルな場面を念頭においている。一定のルールがあって演じる試合ではないのだ。自身の総力をあげて戦う、何でもありの殺し合いの場である。そこでは手当たり次第の道具を手にとって戦うだろう。そういう環境条件では、一刀より二刀を使えるようにしておくのが、まさしく合理的なのである。

ここで分かるのは、ルールのあるゲームとしての剣道と、ルールのないリアルな戦闘術との違いである。前者において無理なことでも、後者においては「有理」なのである。だから、剣道場での達人が、現実の戦場では簡単に殺されるということもあるわけである。

二刀は無理なのではなく、二刀有理である。

武蔵が二刀を主張するのは、戦場でいざとなると必要だからである。戦場で二刀でも戦えるようにするために、すでに初心者の段階から、二刀で訓練するのである。

戦場で一命を捨てる時は、道具〔武器〕を残らず役に立てたいものである。持った道具を役に立てずに、腰に納めたまま死ぬというのは、決して本意ではないはずだ。けれども、両手に物を持って、左右ともに自由に扱うのはむずかしい。そこで、二刀を持たせるのは、太刀を片手でも使いこなせるようにするためである。――かようにも、武蔵の話はいたって合理的なのである。


なお、この部分で、《鑓長刀よりしては、外の物と云て、武道具の内也》とある部分について、諸本おおむね共通するところであるが、中には異なるものもある。たとえば、楠家本のように、
《鑓長刀、太刀よりしてハ、外の物と云て、武具の内也》
とあって、話が違う文言である。これは他例では、肥後系の富永家本や円明流系統の稼堂文庫本にみえる語句である。

つまり、筑前系も含めて、諸本では、「鑓長刀からすれば、(太刀は)外の物といって、武道具のうちである」という文意であるが、この異本になると、「鑓長刀は、太刀からすれば、外の物といって」という内容であり、前者では太刀が「外の物」であり、後者では鑓長刀がそれである。――この両者のどちらが正しいか。

今日通常の考えであれば、諸本に「太刀」の二字欠損があるのではないか、とするであろう。太刀が中心で、鑓長刀という大型武器は余技とすべき「外の物」だという理解である。

しかし、ことは逆で、合戦の場では、南北朝以後伝統的に鑓が戦いの主力であり、それは本巻中、後に武器それぞれの効用を述べるところで、《合戦の場にしては、肝要の道具也》と書くのをみれば、鑓は本体であり、決して「外の物」とは見ていないのである。

したがって、この場合は「太刀」の二字が入らない方が正しいのである。鑓長刀は、太刀からすれば、外の物だというのは、剣術中心主義、剣の精神化・物神化が生じた以後の頭で、この部分を増補して文意を改竄したのである。

ただし、細川家本を底本とするはずの岩波版注記に、ここを誤釈しているのは、どうしたわけか、だれしも理解に苦しむところである。すなわち、それは「外の物」について、
「剣術を中心として、鑓・長刀以下、弓・馬・柔・棒・鎖鎌などの諸芸を外の物として、流派ごとにそれぞれ兼修(対応策としても)した」
という解釈を披瀝しているが、これは明らかに間違いである。こんな発想は後代のことであり、武蔵の時代は、そうした剣術中心主義はまだ初期段階にすぎない。岩波版注記は、細川家本をテクストとしているのに、原文を無視して、剣術中心主義によって読む、という芸当を演じているのである。

ついでに、既成現代語訳を見ておこう。ここは難所、案の定、いづれも目いっぱい誤訳を演じているところが面白い。

戦前の石田訳からして、間違いである。「鑓・薙刀その他も武器ではあるが外の物と言はれてゐて」というわけで、細川家本の文章を読んでいない。「刀だけが基本的武器である」に至っては、何をかいわんや、である。

戦後の神子訳はいわば「超訳」で、すばらしく的を外している。大河内訳は、「外の物」の語義を知らない。鎌田訳は、岩波版注記と神子訳を両方パクって、間違いを倍増している。

これら諸訳がテクストにしたのは岩波版細川家本の《鑓・長刀よりしては、外の物と云て、武道具のうち也》という文である。どこをどう弄れば、こんな現代語訳になるのか、摩訶不思議である。これら現代語訳からは、原文を想像することさえできない。逸脱どころか、脱線転覆という訳文である。ようするに、こんなレベルの現代語訳ばかりが、従来流通してきたのである。

 

(3)両手にて太刀を搆る事、実の道にあらず

武蔵流では、初心の者であっても、刀二つをそれぞれ左右の手に持って練習させる。二刀を持たせるのは、太刀を片手でも使いなれるようにするためである、ということであった。

そして、ここでは、まず、鑓・長刀など大きな武器は、両手で持つのは、是非に及ばぬ、当然のことである。これに対し、刀や脇差のばあいは、どちらも片手で持つ道具である、と語る。これも、話は明解である。

そこで、話がいよいよ具体的になって、太刀を両手で持って具合が悪いケースを列挙する。

武蔵の言うには、両手で一刀を持っていると、具合が悪いのは、第一に馬に乗っているとき。昔から弓手〔ゆんで〕・馬手〔めて〕と云って、手綱を右手で握る。戦場で馬に乗って走るとき、片方の手で太刀を持つのは当然である。

また、戦場では、武器を持って走りまわることになるが、そのときも、両手で一刀を握っていては走れない。刀を両手で握って、捧持するかっこうでは、具合がわるいのである。

それから、沼、ふけ、石原、嶮しい道、そして人こみ、つまり建物に籠城している者を攻める場合も具合が悪い。ここにいう「ふけ」は湿地・湿原のことである。ふけ田(深田)を略して「ふけ」と云ったという説もあるが、それは逆である。

河川の氾濫原の湿地帯の中に城を築くケースのあったことから、武蔵は沼やふけ(湿原)での戦いのことを書いているのである。なお、この「沼・ふけ」という語は、以後何度も出てくるから、ここでの語釈を記憶しておいてもらいたい。

ところで、太刀を両手で持って不都合な、その使用環境をみると、むしろその方が一般的なケースだと知れるのである。つまり、通常は太刀を片手に持って戦場を駆け巡るのである。太刀を両手で握って持って都合がいいという方が特殊なことなのだ。

左手に弓や鑓やその他道具を持っているし、そこで片手で太刀を使うわけであるから、両手で一刀を握って搆えたりするのは、まっとうな方法ではない。

――というわけで、今日の常識は完全に覆される。すなわち我々のイメージは、「剣道」というイデオロギーによって汚染されているのである。泰平の世の中で道場剣法が長く続いた結果、太刀は両手で持つのが正しいという理由なき観念に毒されてしまっていたのである。
《両手にて太刀を搆る事、実の道にあらず》

この二刀一流のテーゼは明確である。武蔵に言わせれば、戦いの現場では、太刀を両手で搆える方が変則的であり、例外的なのである。
《両手にて太刀を搆る事、実の道にあらず。若、片手にて打ころしがたきときは、両手にても打とむべし。手間の入事にても有べからず》

もし片手で打ち殺すのが難しい時は、両手で刀をもってでも、打ち留めるがいい。手間のかかることでもないはずだ。――まさにこれは、戦慄すべき一文である。

こういうリアルな地獄の深淵が露呈するのが、五輪書なのである。剣聖と謳われる高邁な心境に到るための書ではない。五輪書は、たしかに殺人術(arts of killing)の教本なのである。

 

(4)太刀ひとつ持たるよりも、二つ持て能所

ここは懇切な教示である。――片手で太刀を振り慣れるようにするために、まず、二刀をもって太刀を片手で振るのを覚える。だれでも初めて太刀に取り付く時は、太刀が重くて振回すことができない。それは当然だ。太刀に限らず、何でも最初習い始めた時は、弓も長刀も扱いが難しい。ところがその武器に慣れると、弓も力強くなり、太刀も振り慣れると楽に振れるようになる――。

とくに説明は要しないであろう。次の、「太刀の道ということは、早く振ればいいというものではない」という話は、武蔵が書いているように、次の水之巻に、むやみに早く振りまわしてもうまく切れないぞ、という教えが語られている。

太刀は広い所で振り、脇差は狭い所で振ること、これがまず道の本意である。――というのは、使用環境で太刀と脇差を使い分けろ、という実用的な話である。ただしそれだけではなく、太刀の長さにこだわらず、どんな長さの刀でも勝ちを得るところが、我が流派のやり方だという。

実際、武蔵以後の門流でも、二刀でも勝ち、また、短い小太刀だけでも勝ち、そのうえ無刀の素手でも勝つ、ということをやっていた。『丹治峯均筆記』に、筑前二天流四代・吉田実連の逸話に、その種のことが記されている。吉田実連が云う通り、武蔵の流儀は「二刀には限り申さず」なのである。

実際、我々の研究調査において、近年越後で発見したものに、五尺木刀という長大な道具がある。この歴史資料の発見は、実証研究において画期的なものであった。これには若干反りがあり、刄棟の別があるから、これは木刀の一種とみえる。また腕貫穴のほか、石突もあるから、『丹治峯均筆記』に記されている「五尺杖」に相当するものであった。


二刀の木刀は、三尺と二尺、これは通常のものであろう。越後の武蔵門流では、二刀術の他に、五尺木刀術の伝承があった。その現物が上掲写真のものであるが、五尺木刀術の伝書もある。しかし、それだけではない。二尺の枕木刀もあるから、短い道具も武蔵門流では修学されたのである。いうならば、五輪書以後二世紀、武蔵流は、やはり、「長きにても勝ち、短きにても勝つ」ことを教えていたのである。

そもそも武蔵は、二刀流にこだわっていない。いつのころか「こだわり」ということが男の美学として語られるようになった。それは固定した封建秩序のなかから誕生した、センチメンタルでナルシシスティックな美意識であろう。武蔵のスタンスは、そんな美学とはまったく逆である。

武蔵流はリアルな戦闘術だから、道具は何でも使う。両手二刀で戦うというのも、その一端にすぎない。そして、刀の長さにこだわらないのは、戦場の具体的な場面での使用が念頭にあるからだ。剣は武士の魂だとかいう剣の物神化も、武蔵には無縁なのである

したがって、二刀に過剰な意味づけをするでもない。二刀を持つ場合の長所は、たった一人で多勢と戦う時や、屋内籠城者相手などの場合、メリットがあるというから、その効用は限定的である。武蔵は、言う。
《先、片手にて太刀を振ならわせんために、二刀として、太刀を片手にて振覚る道也》

つまり、二刀を習わせるのは、片手で太刀が振れるようにするためである。ここは注意が必要だ。というのは、片手で太刀が振れるようにするのは、二刀を使えるようにするため、ではない。逆である。

武蔵流は二刀、というイメージが滲みついているから、片手で太刀が振れるようにするのは、二刀を使えるようにするためだと思っている人が多いが、武蔵が書いているように、二刀使いが主眼ではなく、戦場の実戦現場で片手で太刀が振れるようにするために、二刀で練習するのである。

したがって、武蔵二刀流のイメージは変更されなければならない。厳密に言えば、武蔵は、二刀流ではなく「片手流」なのである。ここは極めて重要なポイントだから、銘記しておいていただきたい。

肥後兵法書では、冒頭の「此道二刀と名付事」の條に、五輪書のこの記事を祖述したものがあって、
《此道、二刀として、太刀を二ツ持儀、左の手にさして心なし。太刀を片手にて取りならハせんためなり》
と、ずばり核心的な記述がある。二刀つかいといっても、まさに左の手にさして意味はない、というわけである。

しかし、五輪書を読めば分るように、武蔵は片手でも太刀を振れるようにと教えるが、「左手にさして心なし」とまでは言わない。戦場なら、負傷して右手の機能を失っても、左手一本でも戦わなければならない。それが五輪書の「太刀を片手で取り習わせる」の本意である。

したがって、肥後兵法書のこの記事には、武蔵の教えの趣旨に照らせば、明らかに逸脱がある。武蔵の教えでは、右手も左手もそれぞれ使えるようにするのである。

随所で後に確認することになろうが、肥後兵法書をディテールにわたって読み込めば、武蔵ならそうは言うまい、という論説がある。もとより事実は、肥後の伝説とは違って、三十九箇条であれ三十五箇条であれ肥後兵法書は、後人の作物である。

――――――――――――


ここで、諸本校異について、指摘すべき箇処がある。それは、筑前系諸本に、
《人毎に始て取付時ハ、太刀重くて振廻しがたき物なれども》
とあって、はじめて《取付》時は、とするところ、肥後系諸本はこれを、はじめて《とる》時は、として、「付」字を落としている。

これは、筑前系と肥後系の諸本にそれぞれ共通するところであるから、筑前系/肥後系を截然と区別する指標的相異である。

これについて厳密に言えば、「はじめて取付く時」の方が、正確な語句表現である。「取付く」というのは、着手する、とりかかる、という意だが、ここでは、「習いはじめた時」という語意である。

ただし、必ずしもそうは厳密でないとすれば、「はじめて取る時」でも差し支えない。つまり、「はじめて(手に)取る時」ということだとすれば、文意が通じることなので、肥後系の「付」字のないケースも排除できない。つまり、どちらもありうる表現である。

とすれば、文の内容では判断の付かないところである。しかし、既出例で述べたように、筑前系諸本に共通して存在する語句は、寺尾孫之丞まで遡りうる初期形態を示す。これに対して、肥後系諸本はいづれも門外流出後の写本の末裔であり、たしかに寺尾段階まで遡りうるという確証がない。

かりに、これが寺尾孫之丞後期の語句だとみれば、寺尾は後期になって前期と異なる語句を記したことになる。それも上述のように確証なきことなので、「付」字を欠く肥後系諸本の《初てとる時》という語句は、後に発生した脱字とみなしうる。

とはいえ、ここで、次の文に《萬、始てとり付時ハ》とあって、「はじめて取付く時」という語句が再出するわけであるから、やはり、文の正確さを期するとすれば、筑前系諸本のように、《取付》とすべきであろう。それゆえ、我々のテクストでは、《取付》の方を採用している。  

8. 太刀の徳 

 【原文】

一 兵法二の字の利を知事。(1)
此道におゐて、太刀を振得たるものを、
兵法者と世に云傳たり。武藝の道に至て、
弓を能射れば、射手と云、
鉄炮を得たる者ハ、鉄炮打と云、
鑓をつかひ得てハ、鑓つかひと云、
長刀を覚てハ、長刀つかひと云。
然におゐてハ、太刀の道を覚へたるものを、
太刀つかひ、脇指つかひといはん事也。
弓鉄炮、鑓長刀、皆是武家の道具なれば、
何も兵法の道也。然ども、
太刀よりして、兵法と云事、道理也。
太刀の徳よりして、
世を治、身をおさむる事なれば、
太刀ハ兵法のおこる所也。
太刀の徳を得てハ、一人して十人に必勝事也。
一人して十人に勝なれば、
百人して千人に勝、千人して万人に勝。
然によつて、我一流の兵法に、
一人も万人もおなじ事にして、
武士の法を残らず、兵法と云所也。

道におゐて、儒者、佛者、
数奇者、しつけ者、乱舞者、
これらの事ハ、武士の道にてハなし。
其道にあらざるといへども、
道を廣くしれば、物ごとに出合事也。
いづれも、人間におゐて、
我道々を能ミがく事、肝要也。(2)

 【現代語訳】

一 兵法という二字のわけを知る事

この兵法の道において、太刀を(上手に)振れる者を、「兵法者」と世に言い伝えてきた。

武芸の道に上達して、弓をよく射れば射手と云い、鉄炮を修得した者は鉄炮打ちと云い、鑓をつかえれば鑓つかいと云い、長刀を覚えたばあいは長刀つかいと云う。

そうであるのに、太刀の道を覚えた者を、太刀つかい、脇差つかいとは云わないのである。(――それはなぜか?)

弓・鉄炮、鑓・長刀は、すべてこれ武家の道具であるから、何れも兵法の道である。けれども、太刀によって、「兵法」というのは道理である。(なぜならば)太刀の徳〔効能〕によって、世を治め身を治めるのであるから、太刀は兵法の起こるところなのである。

太刀の徳を得れば、一人で十人に必ず勝つのである。一人で十人に勝てば、百人で千人に勝ち、千人で万人に勝つ。

しかるによって、我が流派の兵法においては、一人も万人も同じ事であり、それが、武士の法を残らず「兵法」という所以である。


(それぞれ)道において、儒者・仏者・数寄者(茶匠)・礼法者・乱舞者(舞踏家)の道があるが、これらの事は武士の道ではない。(しかしこれが)その道(武士の道)ではないとはいえ、道を広く知れば、どんなことにでも対応できるのである。

どの道であれ、人間〔じんかん、世の中〕において、自分のそれぞれの道をよくみがくこと、これが肝要である。

 

【註解】

 (1)兵法二の字の利を知事

このタイトルは、「兵法」という二字の利を知るということである。ここは、《二の字の》という語がある。したがって本書に頻出する「兵法の利」という言葉と混同しないように、《兵法二の字》と書いているのである。つまり、「兵法の利」ではなく、「兵法」という言葉の「利」を知るということである。

このばあいの「利」は、「理」の当て字らしく、ほぼ「理由、わけ」の意である。つまり、どうして「兵法」というのか、そのわけを説明するのである。

  「兵法二の字の利を知事」

  「兵法に武具の利を知と云事」

後者は次条のタイトルである。後者の「利」のケースは、字義通りの「利」である。それに対して、本条の「兵法二の字の利」の「利」は、「理」の当て字である。したがって、本書の「利」という文字には、この二つのケースがある。

ただし、五輪書の語釈には、「利」をむやみに「理」に読み替えてしまう曲解が多い。それは近代の五輪書読みの悪弊であるが、他方で、「利」字には、「理」の当て字のケースもあるという事実は、念頭におくべきである。そのどちらなのか、それはそれぞれの文の内容を読めば知れることである。

そのように、現存写本には「理」も「利」字に書いてしまう傾向があるとして、では、武蔵のオリジナルではどうだったか、それを知りたいものだが、我々の手がかりは、寺尾孫之丞が写し編集した字句を遡れない。

ただし、オリジナルが「利」と「理」を厳密に書き分けたわけでもなさそうである。というのも、和文の教本という本書の性格からすれば、「利」字が仮名であった可能性がある。我々も後世の筆写者も漢字の「利」だと思っているが、実際には、「利」字は、仮名「り」(利)であったとすれば、「利」が「理」の当て字だという如上の見方も正しいとは言えぬ。「理」のつもりで書かれた仮名「り」(利)かも知れないからである。

そういうことであれば、「利」字と「理」字、どちらが正しいか、という問題構成はそれじたい誤っているのである。というわけで、オリジナルまで遡行するとなると、この「利」字を漢字に書いて翻刻するのも、正確とは言えない。その字義が「利」であれ「理」であれ、相当部分は、ただ「り」という平かな文字に翻刻すべきかもしれない。

そういうことをのみこんだ上で、五輪書の「利」字に応接しなければならない。我々の五輪書テクストの「利」字も、そういう条件つきのものだということを承知いただきたいのである。

以上、「利」字をめぐる話で横道に逸れたが、ここは「兵法」二字、「兵法」という言葉のわけを知るということであった。

内容からすれば、「兵法」という語の二つの意味、すなわち、軍学・用兵術という意味での兵法、それにもう一つの、剣術としての太刀の道という意味での兵法、この二つの意味の関係を述べたものである。

ところが、武蔵の世代では、兵法とは、広く戦闘術一般を指す言葉で、とりたてて、こんな二つの意味を分析してみせる傾向にはない。兵法と言えば戦闘術一般のことで、それには一対一の決闘から合戦のような多人数の戦闘まで含む、というのが武蔵の世代である。

しかし、武蔵がわざわざ、こうしたことを解説してみせなければならないのは、時代の変化である。「兵法」という語の意味が曖昧になってきたからである。


(2)我一流の兵法に、一人も万人もおなじ事にして

一通り武蔵の説くところを見てみよう。まずは、太刀を振り得たる者を、世間では「兵法者」と呼んできた、という事実の提示がある。「太刀を振り得たる者」というのは、太刀をよく振れる者、太刀をつかうのに上達した者の意である。それを「兵法者」と呼ぶのはどういうわけか。

武蔵がいうように、弓・鉄炮、鑓・長刀は、すべてこれ武家の道具であるから、何れも兵法の道である。どうして、太刀のつかい手にかぎって、それを「兵法者」と呼ぶのか。

それぞれの兵法の道において、弓なら射手といい、鉄炮なら鉄炮打ち、鑓なら鑓つかい、長刀なら長刀つかいと云う。しかるに、刀剣において、太刀つかい、脇差つかい、とは云わない。兵法者というのである。

これも、前に、どうして武士は二刀を腰に差しているのか、という話があったが、ここもある種の「考現学的」な話の仕様である。他の武芸では、そうとは言わないのに、こと太刀に限って、「兵法者」というのはなぜか、ということである。

けれども、太刀によって「兵法」ということは道理である、と武蔵はいう。なぜなら、太刀の徳によって、世を治め身を治めるのであるから、太刀は兵法の起こるところなのであると。

ここは、現代人にはわかりにくい話の運びである。太刀の徳によって、世を治め身を治める、というあたりである。ところが、それは現代人の素養不足にすぎないことであって、実はこれは、武蔵当時なら、むしろ少年でも知っている古事への言及なのである。つまり、流布していた有名な『史記』の逸話、「漢皇三尺剣」を背景にした話題なのである。

すなわち、漢王劉邦が死の間際に語ったという、「おれは三尺剣をひっ提げて天下を取った」云々のせりふがある。それが一人歩きして、ことに剣の功徳を称賛するところへ変じ、たとえば、刀剣の神秘的な霊力を讃えるなかに、必ず「漢王三尺剣」の詞が出てくるのである。

これが当時周知の古事としてあった。五輪書の武蔵は、古事の具体的な引用は避けている。しかし、それと言わなくても子供でも知っている有名な古事なら、このように話題に載せるのである。五輪書の想定読者に合わせた論述なのである。

もう一つ、「漢皇三尺剣」を背景にして述べる武蔵のスタンスを知るために、同じくこれに言及する他の論者の言説と比較すればよい。たとえば、柳生十兵衛三厳(1607~50)が「月之抄」で書いていることである。

それによれば、楚の項羽が、剣を学んだが成就せず、曰く、「剣は一人に敵対できるだけ。学ぶに足らず。おれは万人の敵に対す法を学ぶ」。こうして、剣法ではなく兵法(軍学)を学んだ。これも有名な逸話だが、十兵衛は、「この言、是に似て非有り」と批評する。

一人の敵に対することを学び得ずして、万人の敵に対することを学べるはずがない。一人と万人、その多寡は異なるとはいえ、敵を亡ぼす道は一つなりと。

そうして十兵衛が繰り出してくるのは、「君見ずや、漢高祖、三尺の剣を提げて天下を平らげ、炎運四百年の洪墓を開くを。亦快とせずや」という文言である。

しかし、武蔵は、十兵衛のように唯剣主義ではない。武蔵は、太刀は兵法の起るところだというが、「亦快とせずや」と喜んだりしない。問題は、一人の敵に対することを学び得ずして、万人の敵に対することを学べるはずがない、というところではなく、一人と万人、その多寡は異なるとはいえ、敵を亡ぼす道は一つなりというところである。

武蔵ならこう云う、――我が流派の兵法においては、一人も万人も同じ事であり、それが、武士の法を残らず兵法という所以であると。ようするに、太刀の徳を得れば、一人で十人に必ず勝つ。一人で十人に勝てば、百人で千人に勝ち、千人で万人に勝つ。

そういう伸縮自在の「大分一分の兵法」のトポロジカルな論理こそ、武蔵的なものである。漢皇三尺剣など当時の時代の通念を共有して語りながらも、武蔵の兵法論、太刀論は、やはり違っているのである。

ちなみに言えば、林羅山の「新免玄信像賛」には、こうある。――剣客・新免玄信は、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く「二刀一流」。その撃つところ、また捔(刺)すところ、縦横抑揚、屈伸曲直、心に得、手に応じ、撃てば則ち摧く、攻れば則ち敗る。謂うべし、「一剣は二刀に勝たず」と。まことにこれは(異僧のような)妄ではない、(方士のような)幻でもない。ねがわくば、さらに進んで、「万人の敵」を学んでもらいたいものだ。もしこれをおし進めていえば、すなわち淮陰の長剣、漢王は左右の手(両将)を失わず、である。小をもって大に譬えれば、まさにそうではないか、と。

このとくに後半部分は、武蔵流の言説を知っていなければ書けないことである。武蔵が五輪書を書く以前から、武蔵の兵法論は世に知られていたようである。

五輪書に言う、一人も万人も同じ事であり、それが、武士の法を残らず兵法という所以である。――これは、太刀の道も合戦の道も同じこと、兵法の道であるということである。

したがって、こう言う以上は、武蔵は、世間でいうところの、剣術つかいとしての「兵法者」という概念には同意してはいない。兵法を剣術だけに限ってはいけないというのが、武蔵のポジションだからだ。

ただし、この条文の話は、《我一流の兵法に、一人も万人もおなじ事にして、武士の法を残らず、兵法と云所也》で、尻切れになっている。書きさしの草稿である。

この内容からすると、前に出た「兵法の道と云事」あたりに紛れ込んでもよさそうだが、寺尾孫之丞は、これを独立した一条として、ここにおいたのである。


さて、この条文が草稿状態を示すことは申すまでもないが、以上に続く教訓、――道において、儒者・仏者・数寄者(茶匠)・礼法者・乱舞者(舞踏家)の道があるが、これらの事は武士の道ではない。しかし、武士はその道にあらずとはいえ、道を広く知れば、どんなことにでも対応できるのである。どの道であれ、人々の間で、自分のそれぞれの道をよくみがくこと、これが肝要である、云々。――これは、本条前段の兵法=太刀論からすれば、連続しにくい文言内容である。文脈からすれば、前に出た地之巻序文あたりに紛れ込んだほうがよさそうな内容である。

おそらく、これも草稿断簡である。武蔵の原稿ということで、寺尾孫之丞は、一言半句も捨てるに捨てられず、また、他へ持って行き場がなくて、ここへ編入したことのようである。それを取り入れたものが以後定着し、如上のごとき条文になったものである。

したがって、我々の史料批判にもとづく結論では、現存写本は武蔵が書いたそのままの、一字一句疑い得ない不可侵の「聖書」ではない。ことにこの地之巻は、草稿状態の書きさしの文章が多くて、寺尾孫之丞は草稿を苦心して編集したようである。この点、五輪書研究者の蒙を啓く必要が――いまだ、なお――ある、と謂わねばならないのである。

――――――――――――

ここで、校異について、指摘すべき箇処が若干ある。それを一通り確認しておく。

まず、最初は、筑前系諸本間の校異である。たとえば、立花系の隨翁本に、
《鉄炮を得たる者ハ、鉄炮打と云》
とある。このようにするのは、越後系の渡辺家本その他でも同前である。ところが、この部分、助詞《ハ》が吉田家本や中山文庫本には脱落している。

この相異は、筑前系のなかでも、立花系の諸本と、吉田家本・中山文庫本を区別するところである。

この「ハ」字の有無、いづれが正しいか、それはいうまでもなく、吉田家本・中山文庫本に脱字があるということである。というのも、筑前系/肥後系を横断して共通なのは、この「ハ」字を記す方だからだ。これは単純な誤写であるが、その誤記を吉田家本・中山文庫本が共有しているのである。早川系の特徴とすべき箇処である。

次の校異は、筑前系諸本は共通して同一だが、肥後系では、諸本間に相異がみられるところである。それが複数あるので、以下にまとめて表示しておく。

 


*【吉田家本】
《太刀の徳を得てハ、一人して十人に必勝事也。一人して十人にかつなれば、百人して千人に勝、千人にして万人に勝。(中略)道におゐて、儒者、佛者、数寄者、しつけ者、亂舞者、これらの事ハ、武士の道にてハなし》

*【楠家本】
《太刀の徳を得てハ、一人して十人にかならず勝事也。一人にして十人に勝なれバ、百人して千人にかち、千人にして万人にかつ。(中略)道におゐて、儒者、佛者、数奇者、しつけしや、乱舞者、これらの事ハ武士のミちにてはなし》

*【丸岡家本】
《太刀の徳を得ては、一人して十人にニ必勝ことなり。一人して十人に勝なれば、百人して千人に勝、千人しては万人に勝。(中略)道において、儒者、佛者、數奇者、しつけ者、乱舞者、此等の事は武士の道に【★】はなし》

*【立花隨翁本】
《太刀の徳を得てハ、一人して十人に必勝事也。一人して十人に勝なれば、百人して千人に勝、千人して万人に勝。(中略)道におゐて、儒者、佛者、数寄者、しつけ者、乱舞者、これらの事ハ、武士の道にてハなし》

*【細川家本】
《太刀の徳を得ては、一人して十人に【★】勝事也。一人にして十人に勝なれば、百人して千人にかち、千人にして万人に勝つ。(中略)道におゐて、儒者、佛者、数寄者、しつけ者、亂舞者、此等の事ハ武士の道に【★】はなし》

*【狩野文庫本】
《太刀の徳を得てハ、一人して十人ニ必勝事也。一人して十人に勝事なれバ、百人して千人ニ勝、千人して万人に勝。(中略)道におゐて、儒者、仏者、数奇者、躾者、乱舞者、是等の事ハ武士の道ニ而ハなし》

 問題箇処を順不同で取り上げて行けば、まず、《太刀の徳を得てハ、一人して十人に必勝事也》とあるところ、「必ず」勝つ事というわけだが、肥後系諸本のうち、細川家本のみ、この《必》字を落としている。
 この脱字は、細川家本だけに見られるもので、もとより写本としてのステイタスがかなり落ちるということの証左である。数ある諸写本の中で、細川家本は、従来、ある種特権的な地位を与えられてきたが、既出例もあわせて、こうした事例をみれば、それには何の根拠もないことが知れよう。
 我々がこのような指摘をするのは、細川家本を槍玉に挙げるためではない。その写本としてのステイタスを、客観的に評価すべきだということである。世間の認識を啓蒙するために、同言を繰り返しているのである。
 また同じく、後尾の《これらの事ハ、武士の道にてハなし》という文では、やはり細川家本は「て」字を落としている。これは丸岡家本も同じである。楠家本はじめ肥後系異本では、「て」字を落さないから、これは細川家本等の誤記である。この脱字箇処に関するかぎり、細川家本は丸岡家本と同格というわけである。
 さて、校異の本題に入れば、筑前系諸本に《一人して十人に勝なれば、百人して千人に勝》として、《一人して》とあるところ、肥後系諸本の中には、《一人にして》とするものがある。この相異はいかがか。
 もちろんこれは小異の部類であって、どちらであっても、文意には大した違いはない。ただ、「一人して」の場合は「ひとり」して、と読むべきだろうし、「一人にして」の方は、「いちにん」にして読むことになろう。
 そのように小異であるから、伝写過程において相互に移行可能である。だが、肥後系の中でも丸岡家本や狩野文庫本のように、《一人して》と記すケースがあるところを見るに、これは、筑前系のみならず、肥後系にもあった語句である。したがって、これは筑前系/肥後系を区分する指標的差異ではない。
 筑前系のばあい、諸本共通して《一人して》とするから、これは筑前系初期にあった語句であるとみなしうる。それゆえ、これが肥後系にも存在することも勘案すれば、《一人にして》の「に」字は衍字とすべきである。かくして、《一人して》を正記として、我々のテクストではこれを採っているのである。
 これに関連して、もう一箇所指摘しておけば、筑前系諸本のうち、吉田家本等早川系では、《千人にして万人に勝》とするところ、立花=越後系諸本には、《千人して》とあって、「に」字を記さない。つまり、同じ筑前系でも立花系と早川系との間の相異である。
 このケースの是非は、肥後系諸本に横断して照合確認すべきところである。
肥後系諸本には、《千人にして》と「に」字を記す例がある。しかし、なかには、丸岡家本のように《千人しては》とするものや、狩野文庫本のように《千人して》とするものもある。
 したがって、この校異箇処については、是非を決するに至らない。つまり、筑前系諸本において相異があり、また肥後系においても「に」字の有無両方の例があるから、どちらが正しいか判定不能である。どちらでもありうるということである。
 しかし、一応どちらかを撰ぶとすれば、如何か。文体上の形式分析からすれば、直前に《百人して千人に勝》とあるのだから、ここは、
   《百人して千人に勝、千人して万人に勝》
という方がよろしい。つまり、ここでは、「一人して」「十人して」「百人して」と連続するのだから、《千人して》の方が妥当である。したがって、《千人にして》の「に」は衍字とみなしておく。それゆえ、我々の復元テクストでは、この箇所を《千人して》と記している。
 なお、以上の諸校異について、肥後系の諸本、楠家本・細川家本・丸岡家本の正誤を、前出例と同様に、以下のように整理できるであろう。

 

校 異 字 句 楠家本 細川家本 丸岡家本
 十人に「必」勝事也 ×
 一人「して」十人に勝 × ×
 千人「して」万人に勝 × × ×
 武士の道に「て」はなし × ×

 

 

 

この一覧表によって結果は一目瞭然である。相異はまちまちであるが、この校異部分に関するかぎり、楠家本が二勝二敗、丸岡家本も二勝二敗、細川家本は零勝四敗で、ここでも最下位である。

客観的にみれば、このような史料評価が結果される。だから、細川家本信奉者の鼓吹宣伝することは、あてにはならないのである。

もちろん、他の箇処では、これと逆の結果がでることも多々ある。しかし、何れにしても、この肥後系写本三本は、五輪書史料として、甲乙つけるべき示差性(differential)をもたない。平たく言えば、どんぐりの背比べなのである。

――――――――――――


ここで、語釈のことに移れば、まず、《道を廣くしれば、物ごとに出合事也》の「出合」〔いであふ〕である。これは他の箇処にも再三出てくる語である。

その語意は、相遇というよりも、対応できること、立ち向かって戦うこと、役立つこと、使える、適切なること等々、語義は幅広い。これは英語でいう《meet》の用法にちかく、また《available》というほどの意味である。

この点、既成現代語訳を見るに、戦前の石田訳は「役立つ」と訳して、まずまず語意を外していないが、「何かの時に役立つものである」では、《物ごとに》を誤訳していることになる。

戦後になると神子訳は、これを「いかなることにも対処できる」とした。「対処」では意訳にすぎるが、これがとりあえず最上の訳である。

しかるに、その後出た岩波版では、この《出あふ》に、「通じないことがない」と珍釈している。これは何の根拠もない当て推量である。前後の文脈から意訳を割り出したのだが、その推測が間違っている。《出あふ》には「通じる」という語意はない。

さらに次世代の現代語訳では、大河内訳は、岩波版注記の「通じないことがない」では、さすがに具合が悪いと思ったか、「役に立つ」を復活させている。しかし、細川家本に《物毎に出あふ事也》とあるのに、それを「役立つものがある」と訳しているところをみると、《物毎に》を「物事に」と曲解しているようであり、明らかな誤訳である。

次の鎌田訳は、例によって岩波版注記のコピー&ペーストであり、「通じないことはない」と転記しただけである。こちらは単なる誤訳の再生産である。

続いてもう一つ、既成現代語訳で、看過できない誤訳があるので、指摘しておく。それは本条末尾の一文、細川家本なら、《いづれも人間におゐて、我道/\をよくみがく事、肝要也》とある部分の、「人間」という語に関わるところである。

これは高校生でも知っていることだろうが、この「人間」は、「じんかん」と読む語で、人々の間、世の中、世間という意味である。それが既成現代語訳では、珍妙なことになっている。つまり、それを現代語の「人間」〔にんげん〕だと錯覚しているのである。

これは戦前の石田訳にすでに現れている。《いづれも人間におゐて》を「だれでも人間は」と訳してしまった。これは明らかな誤訳である。

戦後の神子訳になると、「人間として」と訳して躊躇がない。《いづれも》という語さえ、どこかに飛んでしまった。「人間」〔にんげん〕と訳すから、邪魔になってしまったらしい。その後の大河内訳は、見ての通り、神子訳のパクリである。また鎌田訳も同様である。

こういうあたり、あげつらうも恥かしいところなのだが、ようするに五輪書の既成現代語訳は、まことに情けないほどレベルが低すぎるのである。

9. 武器を使い分ける

【原文】

 一 兵法に武具の利を知と云事。
武具の利をわきまゆるに、何れの道具にても、
おりにふれ、時にしたがひ、出合もの也。(1)
脇指は、座のせばき所、
敵のミぎハへよりて、其利多し。
太刀ハ、何れの所にても、大かた出合利有。
長刀ハ、戦場にてハ鑓におとる心あり。
鑓ハ先手也、長刀ハ後手也。
おなじ位のまなびにしてハ、鑓は少強し。
鑓長刀も、事により、
つまりたる所にてハ、其利すくなし。
とり籠りものなどに然るべからず。
只戦場の道具なるべし。
合戦の場にしてハ、肝要の道具也。
されども、座敷にての利を覚へ、
こまやかに思ひ、実の道を忘るゝにおゐてハ、
出合がたかるべし。(2)
弓ハ、合戦の場にて、かけひきにも出合、
鑓わき、其外ものきハ/\にて、
早く取合する物なれば、
野相の合戦などに、とりわき能物也。
城責など、又敵相二十間を越てハ、
不足なるもの也。
當世におゐてハ、弓は申に及ばず、
諸藝花多して、実すくなし。
左様の藝能は、肝要の時、役に立難し。(3)
城郭の内にしてハ、鉄炮にしく事なし。
野相などにても、
合戦のはじまらぬうちにハ、其利多し。
戦はじまりてハ、不足なるべし。
弓の一徳は、はなつ矢、
人の目に見へてよし。
鉄炮の玉ハ、目にみヘざる所不足なり。
此儀、能々吟味あるべき事(也*)。(4)
馬の事、強くこたへて、くせなき事、肝要也。
惣而、武道具につけ、馬も大かたにありき、
刀脇差も大かたにきれ、鑓長刀も大方にとをり、
弓鉄炮もつよくそこねざる様に有べし。
道具以下にも、かたわけてすく事あるべからず。
あまりたる事ハ、たらぬとおなじ事也。
人まねをせずとも、我身にしたがひ、
武道具は、手にあふやうに有べし。
将卒ともに、物にすき、物を嫌ふ事、悪し。
工夫肝要也。(5)

 【現代語訳】

一 兵法において武具の利を知るという事

武具の利点をわきまえると、どんな道具でも、折にふれ、時にしたがい、役立つものである。

脇差は、狭い場所にいるとき、敵のすぐ側に近寄ったとき利点が多い。太刀はどんな場所でも、だいたい役に立つという利点がある。

長刀〔なぎなた〕は、戦場では鑓〔やり〕に劣る感じがある。鑓は先手であり、長刀は後手である。同じ程度の腕前では、鑓の方が少し強い。

鑓・長刀も(長いので)場合により、窮屈な所では利点が少ない。取籠り者〔屋内籠城者〕などの場合にも使えない。ただ戦場だけの武器である。合戦の場では重要な武器である。

けれども、座敷〔屋内〕での使用法を覚え、細々したことにとらわれて、本当の方法を忘れたりすると、(実戦では)役に立たないことになる。

弓は、合戦の場でかけ引きにも使えるし、鑓脇〔やりわき〕、そのほか、さまざまな物〔道具武器〕のそばで、手早く手に取って支援するものだから、野相〔のあい・野原での対戦〕の合戦などに特によろしい。(ただし)城攻めなど、または敵との距離が二十間〔三六m〕を越えては、あまり役に立たないものである。

最近では、弓は申すに及ばず、諸武芸は、花多くして実が少ない。そのような芸能〔武芸〕は、肝要の時には役に立たない。

城郭の内にあるときは、鉄砲以上のものはない。野相〔野原での対戦〕などでも、合戦の始まらぬ内はその利点が多い。しかし、戦闘が既に始まった後では、あまり役に立たないであろう。

弓の一つの長所は、放つ矢が人の目に見えて、(それが)よいのである。鉄砲の玉は目に見えないところがよくない。このことは、よくよく吟味してみるべきこと(である)。

騎馬のことでは、馬は、強く反応して癖のないことが肝要である。総じて戦闘の道具について言えば、馬も程ほどに歩いてくれ、刀や脇差も程ほどに切れ、鑓長刀も程ほどに射通せればよく、弓や鉄砲も強い破壊力などなくてよい。

道具全般のことだが、(特定の道具を)偏って愛好することがあってはならない。過剰は不足と同じ事である。人真似などせずに、武器は自分の身に応じた使い勝手がよいものであるべきだ。

武将・士卒ともに、物に好き嫌いがあるのはよくない。(この点は)工夫が肝要である。

 

【註解】

 

 (1)武具の利をわきまゆるに

ここは、武器それぞれの利点を知ろう、という武器入門篇である。我々現代人にも理解できるほど、分かりやすく具体的に説いているのが、本書の特徴である。

この書物を著述するにあたって、武蔵の念頭にあった読者は、決して免許皆伝の上級者などではなかったとわかる。本当の宛先は、そうではない。まったくの初心者に対して書いているのである。

本書は、その内容からすれば、高弟に授けた奥義秘伝書でもなければ、特定の門弟を宛先とするような相伝文書でもない。

寺尾孫之丞は、死期に臨んだ武蔵から、この書を託されたのは事実としても、これを相伝伝授するということではなかった。それゆえ、寺尾孫之丞を宛先とする現存写本は、寺尾孫之丞を祖とする一派の伝書が流布したものである。オリジナル・テクストは、そういう特定の人物を宛先にするようなものではなかったのは、本書の内容が示すところである。

ともあれ、五輪書は高度な奥義秘伝書であるどころか、それとは反対に、初心者に読ませる普遍的な兵法教本たることを主旨とするものであり、その普遍性ゆえに、他の兵法書とは異なり現代までも読み継がれているのである。この武蔵の遺書、あるいは墓碑としてのテクストは生きていると言えるのである。

さて、ここで、武蔵の論点の第一は、戦いの場の状況に応じて、どんな武器でもそれぞれに使い道があるということである。太刀には太刀の利点がある。しかしその他の武器にも、それぞれ利点がある。

それが武蔵の説くところであり、五輪書は剣術のみを語る兵書ではないことは、ここでも強調しておかなければならない。先に、兵法の道について語ったところでは、
《いにしへより十能七藝とあるうちに、利方と云て、藝にわたるといへ共、利方と云出すより、劔術一通りにかぎるべからず。劔術一ぺんの利までにては、劔術もしりがたし。勿論兵の法には叶べからず》
とあった。つまり、昔から「十能七藝」と武術が多種あるなかで、剣術だけに限定してはならない。剣術だけの利に留まるなら、その剣術も知ることは難しい。勿論、兵法には叶うことはありえない――という教えである。

剣術中心主義を批判するこのようなスタンスから、ここでは、どんな武器にも利点があるというのである。

こういうことを明確にしなければならないのは、すでに戦場から遠い時代、武器の本来の意味が失われつつあったからであろう。武器それぞれ本来どんな使用法であったか、それを武蔵は、最後の戦闘者として語り遺すのである。


(2)太刀・脇差、鑓・長刀

以下、もろもろの道具(武器)について、それも初歩的な説明である。ここでは、脇差と太刀、鑓や長刀についてである。これは格別説明は要しないであろう。

脇差は、座の狭い所で、敵のすぐ側に近寄ったとき利点が多い。太刀はどんな場所でも、だいたい役に立つ。――ようするに、状況に応じての使い分けである。

長刀〔なぎなた・薙刀〕についても述べている。ただし、長刀は、戦場では鑓に劣る感がある。鑓は先手であり、長刀は後手である。同じ程度の腕前では、鑓の方が少し強い、という話である。

武蔵門流では、筑前二天流に、武蔵所用の長刀というものが伝わっていたらしい。大坂陣、島原陣などで、武蔵が用いたものという。丹羽信英(兵法先師伝記)によれば、武蔵所用の長刀は、柴任美矩・立花峯均経由で、六代立花増寿が所持していたという話である。
《此時、先師ノ持レシ長刀、柴任美矩持傳ヘテ立花峯均ヘ譲ラレシヲ、予ガ師立花増壽ヘ譲ラレ、今ニ重器ニセラレケル。予本ヨリ常ニ是ヲミタリ。此長刀、刃長サ二尺五寸、柄大ニシテ、皆赤金作リナリ》(兵法先師伝記)

ともあれ、武蔵は、戦場では、鑓より長刀を使ったということになる。長刀は、戦場では鑓に劣る感がある、というその武蔵にして、実戦では鑓より長刀を使ったのである。

武蔵の世代ではまだ長刀を使ったということがわかるが、もとより、長刀には中世的な古典的イメージがある。武蔵は、また、長刀の名人だったかもしれぬ。

他方、鑓は集団戦の主力である。通常は、鑓が折れてはじめて、抜刀して太刀で戦う。しかし、合戦では、刀より鑓の方が有利だったことは諸史料によって明らかである。武蔵も、言う。
《合戰の場にしては、肝要の道具なり》

鑓が合戦の前面に出てくるのは、南北朝以後である。鑓は長さが特徴の武器である。二間(3.6m)も三間(5.4m)もあるものがある。鑓は先手、長刀は後手、同じ位の腕では、鑓の方が少し強いというのは、この長さを生かしたところである。

ただし長尺物だから、屋内など狭い場所では不都合である。そのあたりを、よく考えろ、と武蔵は言うのである。

鑓はふつう「突く」というイメージがあるが、本来は叩いたり薙いだりするものであった。素槍というのは直線状の穂先をもつが、他に十字槍や鎌槍など多様な形態があった。

 

(3)弓は合戦の場にて、かけひきにも出合

さて、ここでは弓の効用を説いている。武家のことを「弓矢の家」と言ったのは鎌倉期以前からのことである。弓は飛道具、およそ古代からあり、その効果のほどは戦国期には疑われるところだが、実は我々が想像するよりかなり有効な武器であったらしい。

軍忠状にみえる当時の戦場での負傷を調べた鈴木眞哉によれば、矢疵・射疵が四割で圧倒的に多い。その次が鑓疵・突疵、鉄砲疵・手火矢疵で、それぞれ二割である。それに石疵・礫疵が一割。これだけですでに九割を占める。太刀疵は少ない。集団戦としての合戦の特徴であろう。

弓矢は、やや遠い間合いでの武器である。弓は、合戦の場で駆け引きにも使えるし、鑓わきや、そのほか、さまざまな武器道具の傍で、手早く攻撃支援できるものだから、野相(のあい・野合)の合戦、つまり野原での対戦などに特によろしい、と武蔵は述べている。鉄砲が使用されるようになっても、まだ弓矢は有効な武器であった。

ただし、武蔵の云うところでは、弓の武器としての位置づけは、限定的なものである。鑓わきや、そのほかの道具の傍らで攻撃支援するのが、弓の働きである。補助的な武器であって、主力の武器というわけではなさそうである。

もう一つは、《城責など、又敵相二十間を越ては、不足なるもの也》。城攻めなどでは役に立たないし、また、敵との距離が二十間(三六m)を越えては、役不足だということである。これは、なるほど、我々にもよくわかる話である。

ところで、武蔵は弓に関連して、《當世におゐては、弓は申に及ばず、諸藝花多して、実すくなし》と批判する。弓術が見世物になり、芸能化していたということであろう。

有名なものでは京都蓮華王院(三十三間堂)の「通し矢」がある。『本朝武藝小傳』によれば、天正年間に小川甚平・木村伊兵衛・今熊野猪之助らが出て差矢を試みたのが流行の端緒らしい。百射千射さらには徹夜の大矢数など「堂射」(通し矢競技)は、ちょうど武蔵の時代の慶長年間から始まった。以来、毎年晩春初夏、各藩の代表選手が三十三間堂に集まって記録の更新を狙い天下総一を競うようになった。

『翁草』にもみえる杉山三右衛門は有名な弓術選手であったらしく、『玉露叢』によれば大矢数の「天下一」を何度も取ったらしい。

 寛永十四年閏三月十三日  通矢3475本

 明暦二年閏四月廿一日   通矢5044本
という記録がそれであるが、別の史料では『玉露叢』とは話がちがう。浦上榮・斎藤直芳『弓道及弓道史』によれば大矢数の記録は、

 明暦二年閏四月廿一日 通矢6343本 紀州 吉見臺右衛門

 寛文八年五月三日   通矢7077本 紀州 葛西園右衛門

 寛文九年五月二日   通矢8000本 尾州 星野勘右衛門

 貞享三年四月十六日  通矢8133本 紀州 和佐大八郎

この和佐大八(十八歳、一説に二十二歳)の記録を破る者はその後出ないらしい。京都でのこうした堂射の隆盛は江戸にも波及するに至り、即ち寛永十九年に弓師備後某が浅草の清水寺の付近に京都のそれを模して三十三間堂を創設したという。こういう弓術行事の流行を背景にして、武蔵の批判を読まなければならない。

 


ここで、語釈の問題を片付けておくと、《鑓わき其外ものきハ/\にて、早く取合する》――実はこれが難しい。従来現代語訳は多いが、これを正解した語釈・語訳は見あたらない。どこが難所なのか。

ようするに、まず、《鑓わき其外ものきハ/\にて》は、漢字を交えれば、「鑓脇、そのほか、物際、物際にて」ということである。

鑓脇〔やりわき〕は成語だが、鑓のわきから弓矢・鉄炮を打ち懸けるケースである。「そのほか、物際」というのは、鑓脇のような成語ではなく、物のきわ、物の脇から弓矢を射かけるさま。このばあい、「きわ」という語のニュアンスがわからないと、状況がイメージできない。今日の関西方言でいう「きわ」である。「ねき」ともいう。

つまり、鑓の脇のほか、さまざまな道具武器のそばで、というのが《鑓わき其外ものきハ/\にて》の意味である。

次に、《早く取合する》の「取合する」も、やや難しいようである。このケースでは、これは、組合せとか、寄せ集めとか、あるいは、比較するとか、そういう意味ではない。日本書紀に、
《乃提是十握剣平天下矣》
とあるところ、近世の読みでは、「すなはち、是の十握剣をとりあはせて、あめのした平げたまひき」と訓むところである。このばあい、「提」、ひっさげるというのが、取り合わすということである。手に取るという語義である。

もう一つ近世の語用で、留意しておきたいのは、
《町人の出世は、下々を取合せ、其家をあまたに仕分るこそ、親方の道なれ》(日本永代蔵)

この事例では、「取合せ」は、世話する、面倒をみるという意である。とにかく、「取合する」は一筋縄ではいかない語である。簡単に逐語訳はできない。それは承知しておかねばならない。

我々の語釈では、諸例検討の上、この《早く取合する》を、「手早く手に取って支援する」と意訳しておいた。つまりは、鑓脇、そのほか、さまざまな道具武器のそばで、手早く手に取って攻撃を支援する、というのが、《鑓わき其外ものきハ/\にて、早く取合する》という文意である。

ここを、既成現代語訳はどうかと見るに、右掲のごとく、どれも不足のある語訳しかない。

戦前の石田訳は、《取合する》を「射ち合ひする」として適当に意訳している。戦後の神子訳は、「其外ものきハ/\」の意味がわからなかったとみえて、無視した格好である。《取合する》の語意も分らぬようで、ここは単に「射る」と書いている。

岩波版注記は、これを《鑓隊そのほかの諸隊との連繋動作において、その時々に》と胡乱なことを記しているが、これは内容を理解していない証拠である。これでは「鑓わき」「物きハ/\」という「わき」や「きハ」という語を見ていないも同然である。

大河内訳は、神子訳をほぼそのまま引き写している。鎌田訳は例によって岩波版注記のパクリであるが、ここはもっとも著しい箇処である。

五輪書現代語訳では、不明な語があると、それを回避して無視するか、思い込みで意訳しにかかるが、結局、訳が不足ということになる。言い換えれば、訳者として役不足なのである。

――――――――――――

 

ところで、この部分の校異について、指摘すべきは、肥後系諸本の内、いくつかに見られる特徴的なある語句の所在である。つまり、妙なところに《其利多し》という語が書き込まれているのである。

 


*【吉田家本】
《當世におゐてハ、弓ハ申に及ばず、諸藝、花多して、實すくなし。さ様の藝能ハ、肝要のとき、役に立難し。【★】城郭の内にしてハ、鉄炮にしく事なし。野相などにても、合戦の始らぬうちにハ、其利多し》

*【楠家本】
《當世におゐてハ、弓ハ申に不及、諸藝、花おゝくして実すくなし。さやうの藝能ハ、肝要の時、役にたちがたし。其利おゝし。城くハくのうちにしてハ、鉄炮にしく事なし。野相などにても、合戦のはじまらぬうちにハ、其利おゝし》

*【丸岡家本】
《當世においては、弓は云に不及、諸藝、華多くして実少し。さやうの藝能は、肝心の時にやくに立がたし。【★】城の内にしては、鉄炮にしく事なし。野あひなどにても、合戦のはじまらぬ内には其利多し》

*【立花隨翁本】
《當世におゐてハ、弓ハ申に及バず、諸藝花多して、實すくなし。左様の藝能ハ、(肝)要の時、役に立難し。【★】城郭の内にしてハ、鉄炮にしく事なし。野相などにても、合戦の初らぬうちにハ、其利多し》

*【細川家本】
《當世におゐてハ、弓は申に及ず、諸藝、花多くして實すくなし。さやうの藝能は、肝要の時、役に立がたし。其利多し。城郭の内にしてハ、鉄炮にしく事なし。野相などにても、合戦のはじまらぬうちには、其利多し》

*【富永家本】
《當世におゐてハ、弓ハ申ニ不及、諸藝、花多くして実少し。左樣の藝能ハ、肝要の時、役に立がたし。其利少し。城郭の内にしてハ、鉄炮にしく事なし。埜相などにても、合戦を初ぬ内ニハ、其利多し》
 

 

 上掲のごとく、肥後系の細川家本・楠家本などに、《其利多し》とある。文脈からすれば、これは唐突な語の出現であり、文意不通である。もちろんこれは明白な誤記である。それは、筑前系諸本にはこの語句がないのをみてもわかる。

ようするに、その後の文に《野相などにても、合戦のはじまらぬうちには、其利多し》とあって、この《其利多し》が、どういうわけか、ここへ重出したのである。

肥後系において、この記入錯誤がいつ頃発生したのであろうか。

丸岡家本は、これを記載しない。とすれば、ある程度後になって発生した誤記だということになるが、必ずしもそうではない。それより早期に派生した系統の円明流系諸本にも、その痕跡があるからである。したがって、丸岡家本は、これを異として削除し訂正したのである。

それで、興味深いのは、上掲富永家本に、《其利少し》と記すことである。富永家本は早期に派生した系統の子孫である。そこに、《其利少し》とあれば、これが《其利多し》の原型とみなしうる。つまり、肥後系初期写本では、《其利少し》とあったものが、後に《其利多し》と誤記されるようになったと。

しかし、実際はそうではあるまい。文脈からすれば、《其利少し》とあったものが、後に《其利多し》と誤記される可能性は少ない。むしろ、先に《其利多し》とあったのを、富永家本系統では、これを異として、《多し》の部分を《少し》へ修正したのである。同様の修正事例は、細川家本と同系統の常武堂本に見られるし、そのほか、円明流系統の稼堂文庫本にも見られる。これは糊塗であり、誤謬の上塗りである。

  《其利多し》 楠家本・細川家本・狩野文庫本・多田家本

  《其利少し》 富永家本・常武堂本・稼堂文庫本

  ( 抹 消 ) 丸岡家本・田村家本

興味深いのは、このうち、丸岡家本・田村家本はこの問題箇処そのものを抹消しているが、これらと同系統の山岡鉄舟本は、まず、《其利多シ》と記し、さらに「多」を「少」と訂正している。このことは、丸岡家本や田村家本の祖本には、やはり《其利多シ》とあって、それを異とした丸岡家本や田村家本は、それを抹消したが、山岡鉄舟本の底本にはそれを「少」と訂正していたのである。

とすれば、肥後系写本では早期に、この《其利多し》があったものらしい。ただし、それも寺尾孫之丞段階ではこんな錯誤はありえない。それは筑前系諸本が示すところである。したがって、孫之丞段階より後の、門外流出後の誤記発生であろう。その後、この《其利多し》というウィルスをもつ写本が拡散して、現存諸写本のごとき姿になったのである。

ところで、この《其利多し》のような文意不通の、ナンセンスな誤記が発生するのは、写本が門外に流出して、五輪書相伝から無縁になったためである。これに対し、筑前系諸本のケースでは、幕末の写本であっても、こんなことは生じない。門流内部の相伝文書だからである。

肥後系において多くの諸本にこの記入錯誤があるのは、写本流出早期にこれが発生したという事実を示している。言い換えれば、現存肥後系写本は、その門外流出後に作成された写本の子孫なのである。

つまり、寺尾孫之丞相伝の文書に直結する写本は、肥後系諸本には現存しない。すべて門外流出後に派生した海賊版写本の子孫なのである。

こういえば、――では、楠家本や細川家本はどうなのか、寺尾孫之丞(夢世)が寛文年間に槇嶋甚介や山本源介へ伝授したものの写しではないのか、――こういう異論も立ち上がるだろう。

しかし、それはあまりにも単純素朴な物の見方である。楠家本や細川家本は、奥書にそういう相伝記事を有するが、別処に示すように、実はまったく相伝文書としての体をなしていない。もし、この二本が孫之丞相伝写本の写しなら、ここまで体裁が崩れはしない。

ようするに、この二本が依拠した写本は、他の諸本と同じく門外流出本の子孫であって、この二本のそれぞれの祖本は、異なる奥書を記入して体裁を整えた後世の編集物である。そのために、相伝文書の体裁を整えたつもりでも、正規の相伝文書のフォーマットを知らないから、半端な体裁づくりにとどまり、馬脚を現しているのである。

今日の五輪書研究者は、寺尾孫之丞段階での相伝文書のフォーマットを知らない。だから、楠家本や細川家本に相伝記事があると、それだけで、楠家本や細川家本は寺尾孫之丞の相伝文書の写しだと信じ込んでしまう。あまりにもナイーヴな妄信なのだが、ようするに無知蒙昧と言うべし。

とはいえ、寺尾孫之丞段階の相伝文書のフォーマルな体裁形式がいかなるものか、――それは、我々の近年の五輪書研究ではじめて判明したことである。今のところ、研究の最前線は我々が推し進めている。我々から見れば、他の五輪書研究には数段階の遅れがある。考究に不足があるのも当然である。

ともあれ、ここで読者が念頭におくべきは、この《其利多し》という錯入語句を受継いだ楠家本や細川家本は、寺尾孫之丞相伝文書に直結する写本であるどころか、それからかけ離れた後世編集の写本だという事実である。現在もなお、誤った史料評価が横行している以上、これは繰り返し明言しておかねばならない。

こうしたことは、可能な限り異本を横断することによって、はじめて判明することである。重箱の隅を突付くような消耗な話だが、史料評価においては不可欠なワーク、もっと云えば、必然の労苦である。

五輪書の初期状態を復元するには、諸本を横断して、綿密に語句を精査する必要がある。その労苦を厭う者は、武蔵の嫌う「かたつき」という偏向偏見に陥るのである。

 

 

(4)鉄炮の玉ハ、目にみヘざる所不足なり

鉄炮の話である。

ちなみに、合戦史上の通説では、天正三年(1575)の長篠合戦が、日本の戦争技術の革命であったということになっている。武田勝頼の騎馬軍団を、鉄炮三千丁を用意した織田信長勢が討ち破った、つまり騎馬と鑓という伝統的な戦法に対して、鉄炮という新しい戦争テクノロジーが勝利したという話である。

とくに華々しい伝説は、数万の軍勢を三千丁の鉄炮を三段撃ちにして撃破したという見てきたような話である。これは小瀬甫庵(1564~1640)の『信長記』(寛永元年 東北大学狩野文庫蔵)にみえる、
《千挺宛放ち懸、一段宛て立替々々打すべし》
という説であるが、何も傍証はない。ところが明治になって陸軍参謀本部『日本戦史』(明治三六年)がこの三千丁の鉄炮三段撃ちをオーソライズしてしまうと、それが定説となってしまったのである。

実際には、長篠合戦ではじめて大量の鉄炮が登場したのではなく、それ以前に、たとえば、すでに紀州の雑賀党が大量の鉄炮を使用する戦法を用いていた。

また、鉄炮の導入は個人戦から集団戦に戦いの様相を変えた、という説もまことしやかに語られるが、これも疑問がある。鉄炮以前に、鑓がそうした集団戦の武器だったからだ。

いずれにしても、鉄炮に過大な意味をもたせ過ぎた俗説である。

さて、ここでは鉄炮のことが語られている。「あの武蔵」が、鉄炮について言及しているとなると、それだけでも興味深いと思われるであろう。

みれば、さすがに武蔵、おもしろいことを述べている。すなわち、ひとつは、鉄炮は合戦の始まらぬ内はその利点が多いが、戦闘が始まってしまうと使えない武器だということ。双方激突する以前の遠隔戦の武器、それがおそらく鉄炮の実態だったようである。

もうひとつおもしろい話がある。つまり、弓の長所の一つは、放つ矢が人の目に見えて、それがよい。ところが鉄炮の玉は目に見えない、それがよくない。つまり、視覚的恐怖を与えないので効果がないと、そう武蔵は云うわけだ。これも当時の鉄炮に対する観念を伝えるものである。

武蔵の時代、今日の銃器とはちがって破壊力はさしてなく、銃弾は竹製の楯で容易に防げた。だから城攻め仕寄りでも、竹束で銃弾を防ぎながら前進接近する。そして、鉄炮は弾丸を撃ちつくせば、無用の長物である。飛道具の根本的な限界はそこにある。だから、まずは鉄炮を撃ち合って、それから本当の戦闘が始まるのである。

言い換えれば、長篠合戦をめぐる近代の「常識」に反して、鉄炮は合戦の道具ではない。「合戦以前」の武器、前哨戦の武器なのである。これは近代の通念を覆す、武蔵の歴史的証言である。

武蔵が五輪書執筆をはじめる五年前、寛永十五年(1638)の春、九州肥前の有馬陣、籠城する切支丹一揆を殲滅した原城制圧戦があった。たかが「百姓づれ」相手のはずが、結局、九州の諸大名を主力とする十三万余の大軍を動員しての合戦になった。一揆勢は大量の鉄炮を用意して籠城し、徹底抗戦した。攻囲側諸大名の攻撃は、前年冬から何度も撃退され、上使・板倉重昌をはじめその戦死者の多くは鉄炮疵だった。

その戦場に、武蔵は小笠原隊約一万の一翼、中津城主・小笠原信濃守長次の後見として臨んだ。小笠原隊ではその中津勢が本丸一番乗りであった。だから武蔵が五輪書にかく述べるのは、直近の合戦である有馬陣で、鉄炮で多数死傷者があったのを十分承知した上でのことである。たしかに鉄炮を撃ち合っている間は、まだ白兵戦に至らず、戦闘の決着がつかないのである。

ようするに実戦では鉄炮はあまり重要でなく、合戦ではやはり鑓が主体であった。それが五輪書のこの部分で知れるのである。

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ここで、校異について、指摘すべき箇処がある。これも従来の五輪書研究では全く看過されてきたところである。それは、筑前系/肥後系諸本の多くに、
《鉄炮の玉ハ、目にみえざる所、不足なり。此儀、能々吟味あるべき事。馬の事…》
とあるところ、《此儀、能々吟味あるべき事》で終るのが明らかに奇怪である。ところが、このように記している写本が少なくないのである。しかるに、興味深いことに、この部分、別様に記す諸本がある。一つは、《此儀、能々吟味有べし》とするもの、もう一つは、越後系の石井家本のように、
《此儀、能々吟味あるべき事也。馬の事…》
として、「也」字を入れるものである。もっとも、これは石井家巻子本のことで、校訂検討本たる同家冊子本三巻兵書には、この「也」字に朱点を打って、衍字たることを認識している。


となると、この石井家本の認識でも、本来は「也」字はなかったらしい。それは越後系諸本の祖本たる立花隨翁本で確認できる。したがって、石井家本は、《此儀、能々吟味あるべき事》で文が終止するのを奇異に感じて、いったんは「也」字を入れたものらしい。同例では他に、肥後系派生の稼堂文庫本の《此儀、能々吟味有べき事なり》や大瀧家本の《此儀、能々吟味有べき事也》などがある。なるほど、こちらの方が、文意からして正しいのである。

これに対し、丸岡家本その他諸本のように、《此儀、能々吟味有べし》とするのは、これも《此儀、能々吟味有べき事》の文を異として修正したものである。ただし、こちらは、《此儀、能々吟味有べき事》という語列を保全しないので、改竄と言うべきであろう。

とはいえ、石井家本その他のように《此儀、能々吟味有べき事也》とするのも、後智惠による修正である。やはり、それまでは、《此儀、能々吟味有べき事》で終る文として伝わっていたのである。

しかれば、この「也」字の欠落は明白なのだが、それはどこまで遡りうるか。もとより、これは筑前系/肥後系に共通するところなので、寺尾孫之丞段階にまで遡りうる文辞である。つまり、武蔵の草稿には《此儀、能々吟味有べき事也》とあったが、寺尾孫之丞の段階で「也」字の脱落が発生したのである。

ただし、そうとばかり見るのも、寺尾孫之丞には酷というべきかもしれない。これが武蔵の草稿を忠実に写した結果だと見なせないこともない。その可能性はある。しかし、それはそれとして、やはり武蔵オリジナルを復元するということであるかぎりにおいて、ここは欠落ありとして、「也」字を復元しておくべきであろう。

したがって、我々のテクストでは、この問題の「也」字を括弧に入れて、復元すべきところを示している。

 


(5)将卒ともに、物にすき物を嫌ふ事悪し

馬は、全国諸社の流鏑馬神事などに残るように、古来戦闘の重要な要素であった。ところが、フロイス『日本覚書』に、「我々は馬に乗って戦うが、日本人は戦わねばならぬとき馬から下りる」と、奇異な印象を伝えている。なるほど実際に、武田騎馬軍団と呼ばれる軍隊でさえも、合戦では馬をから下りて戦闘に及んだのである。

したがって馬は部隊移動の際の機動力の脚であり、日本の場合、騎馬戦は一種の戦争神話である。

武蔵は、馬の話から、道具自慢の通弊を誡めるところへ話をもっていく。というのも、馬は特に名馬を競って求める風があったからだ。これに対し武蔵は、強く反応して癖のないのが肝要であると言いつつ、馬も大方に、つまり程ほどに歩いてくれたら、それでいい、刀や脇差も程ほどに切れれば、それで十分だ…というように、名馬名刀どころか、よく走る馬とか、よく切れる刀とか、そういう道具武器への偏愛、フェティシズムを批判する。鑓や長刀も、弓や鉄炮にしても同じである。

実戦では、たとえば、よく切れる刀など使い物にならないという事実がある。鎧冑を着用しての戦いだから、あまり切れないほどの頑丈なものが殺傷力がある。切るというよりも叩きつけるのが実戦での太刀遣いである。

見た目に美しくよく切れる刀剣は弱い。すぐ折れる。だから、試し斬りなどでよく切れる名刀は、実は実戦的ではない。武蔵が一貫して繰り返し説くのは、戦場では花ではなく実があることが重要だということである。

だからこの原則に沿って、武蔵は、競い合ってむやみに名匠の逸品を求め、道具自慢をするというミメーシス的状況を否定する。それは虚栄にすぎないからだ。人真似をせずとも、自分に合った適当な代物でよい。道具について、「これは良い。これは悪い」という選り好みじたいが間違っている。戦場のリアルな戦闘においては、武器は実用第一である。そう武蔵は言うのである。

これが少年たち相手の話なら、――おまえたちも大人になると、あれやこれやと、名品が欲しくなるだろう。しかし、戦場の実戦ではそんなものは役に立たないぞ。武器なんてものは、自分に合った、ほどほどの道具で十分だ。虚栄や趣味では戦えない。大人になっても、それを忘れるな、という具合であろう。

ようするに武蔵は、剣の物神化へ到る当時の武器フェティシズムを却下する。刀剣をはじめ武器道具は実用から離れ、虚栄や観賞の対象になりつつあったのである。

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さて、この部分は、またまた語釈と現代語訳の問題を論〔あげつら〕わなければならない。やれやれ、という徒労感があるにはあるが、ここで徹底して訂正しておかねば、五輪書読解の転機は到来しないのである。

まずは、

 《馬の事、強くこたへて、くせなき事、肝要也》

この「強くこたへて」について言えば、「こたへる」に「耐える」「こらえる」という意味のあるは周知のことである。

芭蕉七部集のうち、元禄二年(1689)の「曠野」(阿羅野)に、

 《大粒な雨にこたえし芥子の花》(曠野 三)
とあるなどは、それである。しかし、五輪書のここでは、「耐える」ではなく「応える」の意である。よく耐える馬というよりも、強く反応するが、癖のない素直な馬、というほどの意味である。

次に、

 《弓鉄炮もつよくそこねざる様に有べし》
とあるところ、この《つよくそこねざる》は、「こわれない」ということではない。たしかに「損ねる」に自動詞としての「壊れる」「傷つく」という意味はある。しかし、これでは意味が逆である。《つよくそこねざる様に有べし》とは、(相手を)強く損ねないような、強い破壊力のないものでよい、という意味である。
《惣而、武道具につけ、馬も大かたにありき、刀脇差も大かたにきれ、鑓長刀も大方にとをり、弓鉄炮もつよくそこねざる様に有べし》

この「大かた」というのは、だいたい、ほどほどに、という意味である。したがって、ここで武蔵が言っているのは、――馬もほどほどに歩いてくれ、刀や脇差もほどほどに切れ、鑓長刀もほどほどに射通せればよく、そして――弓や鉄炮も強い破壊力などなくてよい、ということである。つまり、名馬・名品ではなく、ほどほどの性能であれば、それでよい、――これが実戦における武器道具に関する武蔵の実用主義である。


とすれば、既成現代語訳はどうかと見るに、右掲のごとく、諸訳それぞれ間違っている。これらが依拠した細川家本当該部分と照合すれば判るが、とくに、ここは粗雑な訳文になっている。

戦前の石田訳は、《馬の事、強くこたへて》の「こたへて」を「耐久力あり」と訳したのだが、戦後もその誤訳が反復されている。また、《馬も大かたにありき、刀脇差も大かたにきれ、鑓長刀も大方にとをり》というところは、「大かた」を「相當に」と訳して、まずまず、というところ、これは戦後の誤訳に比すれば、誤っていない。ところが、次の弓鉄炮の《そこねざる様に有べし》の語訳が、「狂つて居ないやうにしなければならぬ」と、すばらしく脱線して狂っている。

戦後になると、最初、神子訳が、馬も《大かたにありき》を「頑丈なのがよい」と、意味不明の誤訳をして、大きく踏み外してしまった。それだけではなく、《刀脇差も大かたにきれ、鑓長刀も大方にとをり》というところを、「大きく切れるものがよく」として、《大かた》を誤訳した。そしてもうひとつ、弓鉄炮の《そこねざる様に有べし》は、「狂つて居ないやうにしなければならぬ」という石田訳の路線で、「正確でなければならぬ」と誤訳を相続したのである。

その後の岩波版注記は、馬の事は「力が強く耐久力があり」として、耐久性という誤訳を反復するだけではなく、「強く」を「力が強く」と意味を逸脱させた。しかも、弓鉄炮の《そこねざる様に有べし》には、「容易にこわれないのがよろしい」として、誤訳の新機軸を生み出した。弓や鉄炮が強くて壊れないようにとは、そもそも意味不明であり、これでは、前後の文脈を見ていないのである。

続く大河内訳では、どういうわけか、「総じて、武道具にしろ丈夫なものがよく」という解釈を挟み、原文にない語句を入れている。そしてつづく「馬も大形に歩き、刀、脇差も大形に切れ」は直訳だが、次に「槍、長刀も大きく通り」とするところは、「大かた」という語の意味が分っていないことを露呈している。また、弓鉄炮の「強く、容易にこわれないのがよい」というのは、誤訳した岩波版注記のパクリである。

さらに、鎌田訳になると、これは全くひどいとしか言いようのないありさまである。前半は神子訳から頂戴したものだが、続いて、「馬も形が大きいものがよい。刀、脇差、槍、長刀も形が大きく切れるものがよく…」とするところは、バカバカしいほどの誤訳脱線ぶりである。

この部分は、五輪書珍訳例の代表五指に数えうるところである。戦後こんな現代語訳が流布していたと、五輪書翻訳史に記録されるべき誤訳であろう。

繰り返すまでもないが、ここで武蔵が言っているのは、武器道具は頑丈なのがよいとか、大型なのがよい、ということではなく、「ほどほどの性能があればよい」ということである。これが、武蔵の実用主義なるものの根幹である。それを見失わせるような現代語訳は、撤去廃棄されるべきゴミでしかあるまい。

 

10. 拍子ということ

 【原文】

 一 兵法の拍子の事。
物ごとにつき、拍子ハ有ものなれども、
取わき兵法の拍子、
鍛練なくしてハ、及がたき所也。
世の中の拍子、顕て有事、
乱舞の道、伶人管弦の拍子など、
是皆よくあふ所のろくなる拍子也。
武藝の道にわたつて、弓を射、鉄炮を放し、
馬に乗事迄も、拍子調子ハ有、
諸藝諸能に至ても、拍子を背事ハ有べからず。
又、空なる事におゐても、拍子ハあり、
武士の身の上にして、
奉公に身をしあぐる拍子、しさぐる拍子、
はずの相拍子、はずのちがふ拍子有。
或ハ、商の道、
分限になる拍子、分限にても其絶拍子、
道々につけて、拍子の相違有事也。
物毎、さかゆる拍子、おとろふる拍子、
能々分別すべし。(1)
兵法の拍子におゐて、さま/\有事也。
先、あふ拍子をしつて、ちがふ拍子をわきまへ、
大小遅速の拍子のうちにも、
あたる拍子をしり、間の拍子をしり、
背く拍子をしる事、兵法の専也。
此背く拍子、わきまへ得ずしてハ、
兵法たしかならざる事也。
兵法の戦に、其敵々の拍子をしり、
敵の思ひよらざる拍子を以て、空の拍子をしり、
知恵の拍子より発して勝所也。
いづれの巻にも、拍子の事を専書記す也。
其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也。(2)

【現代語訳】

 

一 兵法の拍子の事

どんな物事にも拍子はあるものだが、とりわけ兵法の拍子は、鍛練なくしては及びがたいところである。

世の中の拍子で(よく)顕われているのは、乱舞〔能舞》の道や伶人管弦〔雅楽》の拍子など、これらはすべて、よく調和したろく*な拍子である。

武芸の道では全般に、弓を射たり鉄炮を発したり、馬に乗ることまでも、拍子・調子があり、さまざまな芸能〔武芸〕に至っても、拍子に背くことはあるべきではない。

また、空なる事〔人の境遇》においても拍子はあり、武士の身の上では、奉公に身を仕上げる拍子、反対に仕下げる拍子、はず〔筈〕の合う拍子、はずの合わない拍子がある。あるいは商売の道では、分限〔金持〕になる拍子、分限であってもその家が絶える拍子、(人生の)道それぞれについて、拍子の相違がある。

(そのように)どんなことでも、栄える拍子、衰える拍子がある。それをよくよく分別すべきである。

兵法の拍子には、さまざまな拍子がある。まず、合う拍子を知って、合わない拍子をわきまえ、大きい小さい、遲い速いの拍子の中にも、当る拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子を知ること、それが兵法の専〔せん〕である。

この背く拍子をわきまえることができないようでは、兵法は確実なものにならない。兵法の戦いに(あっては)、その敵それぞれの拍子を知り、敵の予期しない拍子をもって、空の拍子を知り、智恵の拍子から発して勝つのである。

(本書の)どの巻にも、拍子のことを、専ら書き記してある。その書かれていることを吟味をして、よくよく鍛練あるべきである。

【註解】

 

 (1)兵法の拍子、鍛練なくしてハ、及がたき所也

この拍子論は、特に説明を要しないであろう。ところが、この拍子という言葉、そのまま読んで了解できればいいが、これを別の言葉に翻訳するとなると難しい。それだけ独特な概念だと言わねばならない。

たとえば、最初に舞踊や音楽の例がでてくることだから、これはリズムと理解していい。伶人管絃というのは、古典的な雅楽のことで、とくに伶人〔れいじん〕と云う場合は、宮中の楽人を指す。

また「乱舞」という言葉が、本書の他の箇処にもでてくるが、これは「らんぶ」ではなく、当時の用法では「らっぷ」と読む。もとは、酒宴の席などで楽器にあわせて歌い踊ること、能で速度の早い動きの舞を謡い奏して舞うことである。武蔵はこの「乱舞」の話を時々出してくる。この人は、能や仕舞に堪能であったようである。

話をもどせば、――また、武芸でも、弓や鉄炮、乗馬という例は、これも運動のリズムである。リズムに乗らないと何ごともうまくいかない。弓や鉄炮という飛び道具でもそうである。

ここで《諸藝諸能》というのは、「諸々の芸能」という意味である。ただし、この場合の「芸能」はいわゆる芸能一般ではなく、武芸のことである。繰り返し言うが、「芸能者」のみならず「芸者」という場合ですら、武芸者を指すのである。

ところが次に、《空なる事におゐても拍子はあり》、――つまり、「空なる事」においても拍子はある、と武蔵は云う。この《空なる事》とは、いかなることか。ここでの文脈からすれば、以下に例に挙げているのは、ひとの人生のことである。

すると、この《空なる事》の「空」とは、「くう」ではなく「そら」と読むべき語である。
《旅のそらに助け給ふべき人もなき所に》(竹取物語)

つまり、「そら」としての「空」なる事とは、人生の境涯、境遇のことである。こうした語の選び方に、武蔵的なものがある。兵法者武蔵の「脱俗」というポジションからすれば、人生世俗の事は、空〔そら〕なる事、あるは「うつせ」なる事である。

ところで、この《空なる事》について、的外れな誤解釈が支配的になっているのは、どういうわけか。それはどうやら、この「空」を「くう」と読んでしまった結果らしい。

既成現代語訳にそれが現われているが、戦前の石田訳は、これを「無形のもの」としている。空〔くう〕なる事だから、無形というわけである。戦後になると、神子訳がこれを「抽象的のもの」とした。苦しい誤訳である。かりに空〔くう〕なる事だとしても、これは的外れである。

その後現われた岩波版注記では、これを「目に見えない無形のこと」とする。神子訳の「抽象的のもの」ではあんまりだと感じたのだろう、戦前の石田訳を流用したのだが、「目にみえない」という余計な増幅がある。「無形のもの」ではなく「無形のこと」とするが、これでは何のことやら文意不明となった。

大河内訳は、「形のないもの」として、これは石田訳の言い換えにすぎない。何も考えていないのである。鎌田訳は、岩波版注記から「目に見えない」という部分を頂戴している。空〔くう〕の方向なら、別の工夫もあろうに、よく考えもせず、こんな誤訳をしているのである。

ようするに既成の語釈語訳は、戦前の石田訳以下、《空なる事》の「空」を「くう」と誤読したために、「無形のもの」から「目に見えないもの」にまで至る、こんなわけの分らぬ話になってしまったのである。

この「兵法の拍子の事」の後半に、《空の拍子》という語句が出てくるが、その「空」は訳さない。しかるに、この《空なる事》は無理やり訳そうとする。それは戦前以来のことだが、下手に訳すと間違うという例である。

正しくは、この「空」は、「そら」と読むべき語である。そして《空なる事》とは、人生における境涯、境遇のことである。このことをわきまえないと、いつまでたっても、この箇処の誤訳は訂正されないであろう。

さて続いて、次に、別の語釈の問題であるが、
《武士の身の上にして、奉公に身を仕上る拍子、仕下る拍子、はずのあふ拍子、はずのちがふ拍子あり》
という。この「奉公に身を仕上る、仕下る」というのは、立身する、没落するという意味である。

 《伊勢から来て一代で仕上た人さ》(浮世風呂)
という用例のあるところである。武士が大名に仕えて立身出世することもあり、また逆に、先祖由来の知行を失って没落することもある。

戦国の時代が過ぎて、社会秩序が安定したので、武士たちはその身分社会の中で安定した地位と生活を得たと思われがちだが、それは現代人の錯覚である。

実際には、近世を通じて、武士個々人、それぞれの家には浮沈が多かった。小身から大身へ出頭出世する者が出る一方で、先祖の武功にもかかわらす、没落する武家も多かった。武士も苦労の多い職業だったのである。武蔵のこの言説には、武家の浮沈という切実な事情が反映されているのである。

また、《はずの合う拍子、合わぬ拍子》という「はず」は、もとは弓に弦をかける部分、弓弭〔ゆはず〕だが、ここでは弓射のとき矢を弦にかける矢筈〔やはず〕のこと。「はずが合う、合わぬ」は、転じて調子が合う、合わないの意。現代語では「そうなるはずだ」「こんなはずではなかった」といった言い回しに残る「はず」である。

武士が出世したり落ちぶれたり、どんどん調子よく進んだり、調子が狂ったりする、それにも拍子があるという。商人も金持になったり破産したりする拍子がある。どんなことでも栄える拍子、衰える拍子があるという。この場合、拍子はリズムというよりも、「調子」である。

つまり、調子がいい/調子が悪い、というときの「調子」である。勢いでもある。これを「拍子」というのは現代語にもないことはない。これが第二の意味である。

そして第三の意味が、次の兵法の拍子である。

 

(2)兵法の拍子

現代剣道でも「拍子」という。太刀や体さばきの流れやリズムのこと、相手との呼吸の意味もある。

この拍子について、『劍道秘要』の註で三橋鑑一郎は、右掲のごとく記している。これだと拍子は、「転んだ拍子に頭を打って」という用法、つまりは、もののはずみ。さらにそこから「好機」、チャンスという意味にある。チャンスを知って機に乗ずるのである。

しかし、武蔵は「敵それぞれの拍子を知り、敵の思ひよらざる拍子をもって勝つ」というから、三橋の解釈は少しずれている。武蔵のいう拍子には、相手の拍子の裏をかくことや、相手の拍子を狂わせることも含まれる。

要するに、武蔵の話は――まず、合う拍子を知って、合わない拍子をわきまえ、大きい小さい、遲い速いの拍子の中にも、当る拍子を知り、間の拍子を知り、背く拍子をわきまること。それができないようでは、兵法は確実なものにならない。――ということである。

もとより、ここで興味深いのは、「背く拍子」について相互に背反する二つのポジションが語られていることである。
《諸藝諸能に至ても、拍子を背事は有べからず》
《此背く拍子、わきまへ得ずしてハ、兵法たしかならざる事也》

戦闘は楽器の合奏ではない。第一段の教えは「拍子を背く事はあってはならない」であるが、次には、「背く拍子をわきまえろ」と云うのである。相手の拍子を撹乱して勝つ、ということである。
《兵法の戦に、其敵々の拍子を知、敵の思ひよらざる拍子を以て空の拍子を知、智恵の拍子より発して勝所也》

これが拍子論の要諦である。兵法の戦いにおいては、その敵それぞれの拍子を知り、敵の予期しない拍子で空の拍子を知れ、ようするに、智恵の拍子より発して勝て、というところである。

背く拍子、敵の思ひよらざる拍子、これは「智恵の拍子」というものである。智恵とは、このケースでは、勝負のかけひきにおける策謀のことであり、武蔵はその策謀の拍子から発して勝て、と教えるのである。戦いに勝つには「智恵」が必要なのである。

興味深いのは、武蔵がここで、「空の拍子」という語を出していることである。敵の予期しない拍子によって「空の拍子」を知れ、という。

この「空」は、前出の《空なる事》とは違い、「くう」と読む語である。その「空の拍子」を出したので、その換喩(metonymy)のシフトから「智恵の拍子」という語が続いて出るわけだ。「空」と「智慧」は、仏教教学では、相互に連合する概念である。

ただしこれは武蔵的な用語であって、ここでは「空」とは「虚」の意味である。ただし、それも、哲学的な「虚」(emptiness)ではなく、もっと実際的な「虚」(unawareness)のことである。つまり、敵の予期しない拍子、敵の虚を突く拍子である。この「虚の拍子」を、武蔵は「空の拍子」と修辞したのである。

このあたり、「文」の人としての武蔵の背後が垣間見えるところである。武蔵は難しいことは書かないが、時おり、こうした語の運用において、裏地としての教養をちらりと見せることがある。ただし、従来の五輪書研究は、そのあたりについて無知に等しい。そこまでフォローした五輪書読みが、これまで出なかったのである。

ともあれ、この「拍子」ということについては、ここでは少しだけ語られたにすぎない。武蔵が書いているように、後に本書の随所で言及される、そんな重要なテーマである。

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なお、この部分の校異の問題を挙げてみる。筑前系諸本と肥後系諸本では、写本間に相異がある。筑前系/肥後系を区分する特徴的な差異である。

一つは、肥後系諸本が、《敵のおもひよらざる拍子をもつて、空の拍子を、智恵の拍子より発して勝所也》とするところ、つまり、《空の拍子を、智恵の拍子より発して》という部分である。むろん、空の拍子を智恵の拍子より発して、では意味不通である。

それに対し、筑前系諸本では、これを、《空の拍子をしり、智恵の拍子より発して》とする。つまり、この「知り」という語の有無が問題である。

もちろん、この《拍子を知る》ことは、武蔵の教説の重要なポイントの一つである。前に見たように、地之巻「此兵法の書、五巻に仕立事」において、空之巻の内容を予告する文にも、
《時にあひては拍子をしり、おのづから打、おのづからあたる、是皆空の道也》
とあったところである。

したがって、ここでも、武蔵は、《空の拍子をしり、智恵の拍子より発して勝所也》と書いたはずなのだが、肥後系諸本は、この《しり》という二字を落としている。

これは、写本ではよくあるところの、語の脱落であろう。すなわち、同じ文字が連続して現われる場合、書写者はしばしばこれを衍字として、一方を勝手に削除してしまうことがある。

このケースでは、当初、《空の拍子をしり、智恵の拍子より発して》とあったのを、肥後系早期写本で、まず、「しり」という仮名を漢字「知」と書き、さらに「智恵」とあるのを、同字二つが連続するので、《知、々恵》と表記したものであろう。

これは偶発的な書き換えである。ところが、次に、この《知々》を「智」一字に誤読した書写が出てしまった。その結果、後続派生写本では、たいていこの《空の拍子を知》の「知」という字を欠くようになってしまったのである。つまり、このケースの遷移プロセスは、

  (Phase0) 空の拍子をしり、智恵の拍子より発して

  (Phase1) 空の拍子を知、々恵の拍子より発して

  (Phase2) 空の拍子を智恵の拍子より発して
ということなのである。最初の書き換えは偶発的なものだが、それが呼び水となって、誤写を結果することになった。

寺尾孫之丞は、おそらく、それを見越して、わざわざ《しり》と仮名で書いたかもしれない。それが「知」と漢字で書くようになって、案の定、この誤記を誘発してしまったのである。

肥後系諸本がおしなべて《しり》の二字を缺くという事実は、この誤記が早期に生じたことを意味するが、同時にそれは、肥後系諸本の先祖が複数ではなく、ある特定の元祖一本から派生したということを示唆する。言い換えれば、肥後系に特徴的なこの脱字は、あちこちで偶発するものではなく、まさにある段階での特定の写本作成時に、書写者の誤読から発生したものなのである。


この件に関して、肥後系のうち興味深いのは、富永家本である。そこには、いったん「知り」とは書いたが、脇に「智」と書いて訂正している。富永家本系統の祖本には、《空の拍子を知、々恵の拍子より発して》という字句を記した写本があったかもしれない。あるいはまた、そうではなく、書写者は、文脈から思わず「空の拍子を知り」と書いてしまったが、誤記に気づいて訂正したということかもしれない。

何れにしても、富永家本のこの書写措置は興味ふかいところである。というのも、肥後系諸本が忘却した「知々」字が「知り」となって、ここに不意に浮上しているからである。

史料批判作業において、しばしば遭遇することだが、書写者の無意識の筆が、思わず、正しいことを顕在化していることがある。ある意味では、文化の集合的無意識が作用したとも云える場面である。

ともあれ、富永家本は無意識の内に「正しい」ニアミスを演じているが、それもそれきりのことで、他の肥後系諸本は、その早期写本で生じた誤記をそのまま反復している。もちろん肥後系諸本しか見ていない状況では、「智恵」と記す文字表記に、「知り」という字句の抹消があったということさえ、気づかない。しかし、肥後系だけではなく、筑前系諸本を横断して照合すれば、その異変に気づき、また、ここに痕跡の抹消があったことが知れるのである。

校異のもう一つは、末尾の箇処で、筑前系諸本に、
《其書付を吟味して、能々鍛錬有べきもの也》
とあって、《書付を吟味して》とするところ、肥後系諸本には、《書付の吟味をして》としている。

これは文意に大して影響のない相異であるが、筑前系/肥後系を截然と区分する指標的差異なので、看過できないところである。

この相異の様態についてみるに、これは筑前系諸本に共通するところから、筑前系初期にあった文字列であろう。他方また、肥後系の方も、早期に派生した系統の諸本にも共通するところから、これは肥後系早期にはこの語句があったものらしい。

したがって、問題は、この変異が、寺尾孫之丞段階にまで遡りうるか否かである。つまり、これは語句表記のゆらぎであり、寺尾孫之丞相伝時期の相異、その前期と後期の字句に違いがあったものとみなしうるか、ということである。

言い換えれば、そうでなければ、門外流出後早期に、この異記が発生したのである。もとより、《書付を吟味して》とするのに対し、《書付の吟味をして》の方は歯切れが悪いし、差分は加増だから、これを寺尾孫之丞に帰することには難がある。

そうでなくとも、《書付を吟味して》と記すのが筑前系諸本に共通するところからすれば、寺尾孫之丞前期、柴任美矩が相伝した五輪書の字句の可能性が高い。少なくとも古型を探るとすれば、《書付の吟味をして》を採る理由もない。これと同じパターンは、他にいくつもある。

11. 地之巻 後書

【原文】

 
右、一流の兵法の道、
(朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、
おのづから廣き心になつて*)
多分一分の兵法として、世に傳る所、
始て書顕す事、地水火風空、是五巻也。(1)
我兵法を学んと思ふ人ハ、道をおこなふ法あり。
第一に、よこしまになき事をおもふ所。
第二に、道の鍛錬する所。
第三に、諸藝にさハる所。
第四に、諸職の道を知事。
第五に、物毎の損徳をわきまゆる事。
第六に、諸事目利をしおぼゆる事。
第七に、目にみヘぬ所をさとつて知事。
第八に、わずかなる事にも気を付る事。
第九に、役に立ぬ事をせざる事。
大かた、かくのごとくの利を心にかけて、
兵法の道鍛練すべき也。(2)
此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、
兵法の達者とはなりがたし。
(朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、
おのづから廣き心になつて*)
此法を学び得てハ、一身にして、
二十三十の敵にもまくべき道にあらず。
先、氣に兵法をたへさず、直なる道を勤てハ、
手にてうち勝、目にみる事も人に勝、
又、鍛練を以て、惣躰自由なれば、
身にても人に勝、又、
此道になれたる心なれば、
心を以ても人に勝。此所に至てハ、
いかにとして、人に負道あらんや。(3)
又、大なる兵法にしてハ、
善人をもつ事に勝、人数をつかふ事に勝、
身をたゞしくおこなふ道に勝、
国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、
世のれいほうをおこなふ(事)に*勝。
いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、
身をたすけ、名をたすくる所、
是兵法の道也。(4)

【現代語訳】

 以上、我が流派の兵法の道を、(朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって*)多分一分〔たぶんいちぶん〕の兵法として世に伝えるところを、初めて書きあらわす。それが地水火風空のこの五巻である。

我が兵法を学ばんと思う人には、道を行う法〔規則〕がある。

第一に、思いをまっすぐにするところ。第二に、(兵法の)道を鍛練するところ。第三に、(一芸だけではなく)さまざまな武芸を経験するところ。第四に、さまざまな職業の道を知ること。第五に、どんな事であれ得失をわきまえること。第六に、諸事に目が利くように訓練すること。第七に、目に見えぬところを悟って知ること。第八に、些細な事にも気をつけること。第九に、役に立たぬことをしないこと。

だいたい、このようなことを心にかけて、兵法の道を鍛練すべきである。

とくにこの道〔兵法の道〕においては、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい。(朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって*)この方法を会得できれば、たった一人でも、二十人、三十人の敵にも負けるものではない。

まず、気持に兵法を絶やさず、真っ直ぐな道を修行すれば、手で打ち勝ち、目に見る事も人に勝つ。また鍛練によって全身が自由になれば、身体においても人に勝つ。またこの道に習熟した心であれば、心をもってしても人に勝つ。ここに至っては、どうして人に負けることがあろうか。

また、大きな兵法〔合戦〕のばあいは、よき人〔有能な人材〕を持つ事において勝ち、人数〔軍勢〕を使う事において勝ち、身を正しく行う事〔修身〕において勝つ。国を治める事〔政治〕において勝ち、民を養う事〔経済〕において勝ち、世の例法を行う事〔法律施行〕において勝つ。

何れの道においても、人に負けないところを知って、身を助け名を助ける*ところ、これが兵法の道である。

【註解】

 (1)始て書顕す事、地水火風空、是五巻也

まず、語釈の問題を片づけておくと、「一流」というのは、現代語でいう一流、二流のそれではなく、自流、つまり我が流派ということ、武蔵は二刀一流もしくは二天一流と称するが、要するに武蔵の流儀のことである。一流相伝、一流伝授というと、これは当流の技能芸術の伝えの完了、ということである。

また、《多分一分〔たぶんいちぶん〕の兵法》とある。「多分」とは、現代語の「たぶん、そうだろう」というときの「多分」ではなく、数が多いという意味である。この五輪書のケースでは、「多分」「大分」の兵法というが、合戦のような多数の集団的戦闘を指す。

これに対し、「一分」の方は、自分一身、一人のことである。五輪書の語例では、「一身」ともいうが、一人で戦う個人戦の兵法のことである。この「多分」の兵法と「一分」の兵法は、後の巻で頻出し、繰り返し言及されるところである。

しかるに、ここではあくまでも《多分一分の兵法》であって、《多分の兵法「と」一分の兵法》なのではない。これは武蔵の兵法論としての《多分一分の兵法》なのである。

本書五巻構成を解説するところで、
《合戦の道、一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也。心を大なる事になし、心をちいさくなして、よく吟味して見るべし》
と語られていたところである。つまり、《一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也》というテーゼによって直指されるのが、この《多分一分の兵法》と呼ばれる兵法論である。

ここで、注意されるのは、
《多分一分の兵法として世に傳るところ、始て書顯す事》
とある箇処である。これだけではよく判らないが、武蔵流の「多分一分の兵法」として世間に伝えられた兵法論があった。これは講義のような口頭形態しかなかったが、その内容をはじめて書物にして書きあらわす、ということになる。

本書の総序とも言うべき冒頭にも、《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ》とあったのは、すでに見た通りである。

ところで、「兵法の道」あるいは「多分一分の兵法として、世に傳る所」をはじめて書くというあたり、看過すべきでないことが二点ある。

ひとつは、武蔵には、五輪書以前に、多分一分の兵法として世に伝えた兵法論があったということ。もう一つは、武蔵が兵法論を「書く」のははじめてだ、ということである。それまでは、兵法理論を語ってきたが、書いたことはなかったのである。

釈尊や孔子は、弟子たちに語り教えたが、書かなかった。それで、「如是我聞」や「子曰く」というスタイルの経典が残るというのが、教説の東洋的古代的様式である。武蔵も同様に、弟子たちに語り教えたが、文書に書くということはなかったのである。

それは、文書に書くとなれば、どうしても他流と同じ奥義秘伝書のかたちになる。それを武蔵は嫌った。しかし、ここに至って、自身の兵法論を書物に書き残そうという気になった。それはなぜか?

おそらく、武蔵は兵法書の新しいスタイルを発明したのである。武蔵の思想的ポジションとしては、世間に多い奥義秘伝書の類いは書かぬ。兵法書は、そうした秘密文書ではなく、むしろオープンな書物であるべきだ。そこで、武蔵が書く気になったのは、いわば普遍的な入門書としての兵法教本を書くということであった。ただし、それは本朝未曾有の兵法書であった。


とすれば、五輪書に武蔵が、「多分一分の兵法」として世に伝えるところを、はじめて書あらわす、と書いている以上、五輪書以前に、世に知られた彼の兵法論はあっても、それは、曰く語られた教説であって、書かれざる教え(unwritten teachings)であったということである。

かくして、明敏な読者ならすでに気づいていることだろうが、我々はここで、極めて重要な問題に行き当たっていることになる。つまり、兵法書物をはじめて書くと、武蔵が再三明確に書いている以上、五輪書以前には、「書かれた兵法論」は存在しなかった、という事実である。

では、どうして、五輪書以前に書かれたという武蔵作の兵法書――たとえば、三十九箇条であれ三十五箇条であれ、かの肥後兵法書が存在するのか?

それは云うまでもなく、後世、武蔵作と仮託された文書にすぎない。五輪書に「はじめて書く」と明記している以上、五輪書以前には、書物(written)としての武蔵の兵法書は存在しないのである。

肥後兵法書は、武蔵死後、寺尾求馬助系統で発生した文書である。これは、寺尾求馬助門流の者に帰すべきもので、武蔵本人に帰すべき書物ではない。それを武蔵作にしてしまったのは、求馬助以後の世代であろうが、そうなると、肥後兵法書は、武蔵作と仮託された偽書ということになる。

立花峯均の『丹治峯均筆記』には、五巻の兵書(五輪書)の他に、別の兵法書があるとは書いていない。もしそれがあれば、柴任美矩は立花峯均にそれを言い伝えただろう。柴任が知らないということは、彼が肥後に居た当時、そんな兵法書は肥後にはまだ存在しなかったということだ。したがって、肥後兵法書は、柴任が肥後を去った承応年間以後に作成された文書であり、むろんそれは武蔵死後のことであり、武蔵が書いたものではない。

このかぎりにおいて、肥後系武蔵伝記『武公伝』の記事は、まさに後世の伝説である。しかも、これを真に受けた諸説が、今日に至るも絶えないのである。

曰く、武蔵は、二十代のころ宮本武蔵守義輕名で兵法書「兵道鏡」を著述した。曰く、武蔵は、「兵法三十五箇条」を書いて、寛永十八年二月、細川忠利に献上した、云々。

こうしたことを書く武蔵論がいまだに跡を絶たないが、それは、一次史料としての五輪書を読まずに武蔵論を書いているのも同然である。そうでなければ、五輪書に、これほど再三にわたって「はじめて書く」と書いているのに、それを見てみぬふりをしているのである。

したがって、この点でも、五輪書は真っ当に読まれたためしのない書物なのである。


――――――――――――


諸本校異の問題で、指摘すべきところがある。それは、たとえば、筑前系諸本に、
《右、一流の兵法の道、朝な/\夕な/\勤おこなふに依て》
とあるところ、肥後系諸本の中にはこれと同じ文言を記すものもあるが、他方、誤写による異変を記すものがある。

つまり、《夕な》とすべきところを、楠家本や富永家本のように《暮な》としたり、《朝な/\夕な/\》とあるべきところを、丸岡家本のように《朝々暮々》とする。これは何れも、諸本の系統における後発的な誤写である。

これに対し、筑前系/肥後系を横断して共通する文言は、《朝な/\夕な/\》であるから、これが正しい語句である。

さて、この部分、実は問題はそうした校異にとどまらない。諸本校異というよりも、もっと根本的な問題がある。つまり、文脈上異変と思えるところがあることに注意したい。改めて、この書き出し部分を示せば、
《右、一流の兵法の道、朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて、多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
とあるのだが、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》と、その後の文章が連続しない。そのあたりに異変があると見える。

ところが、これは字句の相違はあっても、筑前系/肥後系を横断して諸本に共通するところなので、これは寺尾孫之丞段階に帰すべき文言である。諸本校異というレベルの問題ではない。

五輪書五巻のうち、この地之巻全般について云えることだが、他の諸巻と比較して、地之巻は草稿状態の文章が多々ある。おそらく、水・火・風の三巻は先にほぼ仕上がっていたが、地之巻はまだ現在進行中の原稿である。

このケースも同様で、まず気づくのは、《…おのづから廣き心になつて》と文章が来て、それ以下が続かない。ここに断絶があり、脱文がありそうだとも見えるが、よく見ればそうでもないようである。したがって、ここは、
《右、一流の兵法の道、多分一分の兵法として、世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、是五巻也》
とあった方が、不具合がない。つまり、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という文が、浮いている。異質で余計なのである。

寺尾孫之丞が編集するとき、おそらく武蔵の原稿の行間にあった、この《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という書きさしの文を、忠実にここへ書き流したのだろうが、そのために、文章が混乱してしまったのである。

ただし、これを見るに、寺尾には罪はなく、むしろ師の遺文をいささかなりとも落さない、という編集方針であったらしい。それゆえ、他の箇処に見るように、書きさしの断簡もそのまま収録している。ここも同様であり、行間書き込みとはいえ、それをその位置に忠実に保全したのである。それがたとえ文章の混乱を帰結するにしても、余計な操作はしない、ということであったらしい。

この寺尾孫之丞の無作為によって生じた文章の異変については、もうひとつ、重要な事が知れる。それはすなわち、寺尾は草稿五輪書を武蔵から遺贈されたが、寺尾はたぶん、それまでこの草稿を見たことがなかった。武蔵が死んではじめて、師の遺稿に接したのである。

寺尾が五輪書の内容をすべて理解していたとは思えない、そういう箇処が他にもある。理解していないため生じたとみえる明らかな誤記もある。

ここはそうした誤記ではないが、武蔵草稿の行間文を、その位置で本文に入れ流したとなれば、この問題の文の本来の位置を知らなかったのである。それというのも、寺尾孫之丞は、武蔵が死んではじめて、師の遺稿に接したからである。

截紙であれ折紙であれ、紙幅がなくて書き余った文を、前の文の行間に書き流すことがある。この《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という部分もそのケースであったとすれば、後の文の余りがここへ書き込まれたのである。

では、この文、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》は、どこから紛れ込んだのか。これについては、もはや確かなことは言えない。繰り返して言えば、これは未完成原稿なのである。言い換えれば、決して実現されたことのない未完成の文章である。

ゆえに復元には制約がある。そのことを承知のうえで、場所の定まらぬこの問題の文言の本来の位置を、本条の文章内で探せば、おそらくは、後に出てくる《此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》の前にあるべきところであろう。

そこで、我々の措置としては、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という部分を、ここでは括弧に入れておくことにした。そしてこの文は、後の部分に再現することになる。それは後の当該箇処で改めて検証されるであろう。


(2)道をおこなふ法あり

ここに提示された九ケ条は、五輪書解説本において必ず引用されるもので、定式化された規則ということで、さしづめ「武蔵コード」である。

だいたい、このようなことを心にかけて、兵法の道を鍛練すべきである、という。兵法鍛練のうえでの心がけであるが、この武蔵コードが、他の兵法書の規則と異なる点は言うに及ばない。

第一テーゼはごく基本なことである。《よこしまになき事をおもふ》とは、心をまっすぐにすることである。本条中に《此道にかぎつて、直なる所を、廣く見立ざれば、兵法の達者とはなりがたし》とある文に対応する。あるいは、空之巻に《たゞしくあきらかに、大き成所を思ひとつて》とあるところに相応する。

ただし、《よこしまになき事をおもふ》とは、当時の人々であればこれを見て、即座に『論語』(爲政篇)の、《子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪》を連想したことであろう。

つまり、「子曰く、詩三百、一言以てこれを蔽へば、曰く、邪しまに無きを思ふと」とあるところだが、ようするに孔子は、四書五経の一つ『詩経』の約三百篇ある詩について、それを一言でカヴァーしていえば、《思無邪》、邪しまに無きを思ふ(Think no evil)ということだと述べた――というわけである。

これは幼少から素読の習いがあった武家の子なら、だれしも知っている文言だから、武蔵は「よこしまになき事をおもふ」と、ここに書き付けたのである。武蔵は本書自序に、《今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず》と書いてはいるが、少年の知識レベルに寄り添うように、『論語』の有名な文言を引き合いに出して、懇切な教え方を示している。五輪書読みは、そんな武蔵のスタンスを看過してはなるまい。

第二テーゼは、《道の鍛錬する所》である。兵法の道を鍛錬することである。「鍛錬」には刀鎗など金属武器を鍛えて製造するイメージがある。いわば武器としての戦闘身体を獲得するために、兵法の道を鍛錬するのである。

ここで、武蔵は《道の鍛錬》を述べているが、いわゆる「精神鍛錬」なるものを語っているのではないことに注意、である。メンタルな方面は、前条の《よこしまになき事をおもふ》につきる。直なる所を広く見立てること、正しくあきらかに大きなる所を思ひとる、ということである。

以上の第一、第二テーゼはごく根本的な事柄である。これに対し、以下の条々は武蔵的なスタンスを示している。すなわち、第三、(一芸だけではなく)諸芸に触れる、第四、諸職の道を知る、というあたりは、武芸は剣術だけに限定してはいけないという指示や、前にみたごとく士農工商四職のなかでも、大工の道をもって武士の道を語るといった武蔵の教説に対応している。

つまり武蔵は、専門化や専業化といった収斂・収束傾向を嫌うのである。何でもそうだが、一所懸命の専一の美徳が信じられているところが現代にもある。しかし武蔵は、虚空を飛ぶ鳥のように、多領域を自由に横断する、いわば――その昔、ドゥルーズとガタリがその著作で示した意味での――ノマディックな存在である。これは、一生仕官せず帰属先をもたない。その生涯についても言えるし、また多芸に渉るその活動にも示されている。

それゆえ、この武蔵コードにおいて、第六に諸事目利をしおぼゆる事、第七に目にみヘぬ所をさとつて知る事、第八にわづかなる事にも気を付る事、ということにしても、一見平凡なテーゼであるようでいて、これが兵法書とは思えない指示である点からすれば、いかにも異例なものが立ち騒いでいるとみえるのである。

そうしてとりわけ、第五の、物毎の損徳をわきまゆる事、第九、役に立ぬ事をせざる事、というあたりになると、まったく兵法書らしからぬ綱領の振舞いであり、一体これは何だという驚きを誘発するであろう。

武蔵はいう、《大かた、かくのごとくの利を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也》と。ここでも武蔵は「利」である。「理」というのではなく「利」である。結局、高邁高上な精神とは逆に、極めて低きにつく、プラグマティックな武蔵のポジションを示しておもしろいのであるが、それも、ある意味で戦国の時代の諸領域横断的な、あるいは脱領域的なノマディックな存在の、最後の生き残りが武蔵だったという証左であるかもしれない。

武蔵は《我兵法を学んと思ふ人ハ、道をおこなふ法あり》と述べて、以上のようにして、武蔵は兵法の道へみちびく。漢語の「道」は、動詞なら「みちびく」である。「我兵法」という以上、それは武蔵流だが、これら条々をみるに、武蔵は決して狭いことを考えていない。普遍的な兵法の道を学ばしめること、それが武蔵の企図するところであった。

なおまた、以上に関連して言えば、武蔵の規則にはもう一つ別のものがある。いわゆる「独行道」である。ただし、こちらは、『武公伝』に「自誓の書」とあって、自戒条々のかたちであるから、性格の異なるものである。門人への教訓ではない。しかも、二十一ヶ条だったり十九ヶ条だったりして、何ぶん武蔵自身が書いたという証拠がない文書なので、言及するまでもあるまい。

これとは別に、ここで初公開となるが、最近越後で数本発掘した「先師遺教拾箇条」がある。つまり、先師武蔵の遺した教訓ということで、十ヶ条である。こちらは、十八世紀後期に筑前から越後へ伝播した道統のものである。

五輪書の武蔵テーゼと比較すれば、一部重なる条々もあるが、他は、道徳臭の強い条項で、少年たちへの教訓のようである。入門と同時に、教訓として与えたものである。先師遺教という伝えだが、むろん五輪書の記述に照らして、かなり変形を蒙っている。丹羽信英の段階ですでにこうなっていたかどうか、それは確かではないが、後世のその変容ぶりもまた興味深い。参考までに両者対照表を以下に示しておく。

 

五輪書 九箇条 先師遺教拾箇条
 
 第一 よこしまになき事をおもふ所
 第二 道の鍛錬する所
 第三 諸藝にさはる所
 第四 諸職の道を知る事
 第五 物毎の損徳をわきまゆる事
 第六 諸事目利をしおぼゆる事
 第七 目にみヘぬ所をさとつて知る事
 第八 わずかなる事にも気を付る事
 第九 役に立ぬ事をせざる事
 
 一 起居動静、兵法を忘ざる事
 一 忠孝の道に心をつくす事
 一 用にたゝぬ事をせざる事
 一 物ごとの損得を知る事
 一 萬事人にほこらぬ事
 一 死道をわきまへ、不義におちいらぬ事
 一 志をいやしくせず、操をたがへざる事
 一 身を謹、善悪二つの道をゑらび、悪道に組せざる事
 一 天地の恩、父母の恩、師の恩忘れざる事
 一 善友を親ミ、悪友にまじハざる事
 


 

 

ここで、校異の問題にふれておく。それは、筑前系諸本に、
《大かた、かくのごとくの利を心にかけて、兵法の道鍛錬すべき也》
とあって、《かくのごとくの利》とするところ、肥後系諸本には、これを、《如此理》や《如此の理》と記す。

つまり、その特徴的差異は、ひとつには「かくのごとく」を《如此》等と漢字表記にすること、二つには、「利」字を「理」字に作ること、三つには、肥後系諸本の間で「の」字の有無の相違があることである。

肥後系において《如此》等と漢字表記にすること、「利」字を「理」字に作ること、この二つは諸本共通するところであるから、これは肥後系早期に発生した表記変更であろう。

これについて言えば、筑前系では諸本共通して、《かくのごとくの利》とするので、これが初期形態である。したがって、《如此》等と漢字表記にすること、「利」字を「理」字に作ること、これらは何れも後に肥後で発生した変異である。

しかも、《如此理》と《如此の理》というように、肥後系において「の」字の有無がある。これは、筑前系諸本と照合すれば、《如此の理》の方が古く、「の」字のない《如此理》という形の方が後発のかたち、ということになろう。こちらは、「かくのごとき理」という読みになるのだが、《如此》等と漢字表記にしたため、その読みによって「の」字が脱落したのである。

そうしてみると、丸岡家本と富永家本は早期の型を残し、共通して「の」字を闕くという近縁性を示す楠家本と細川家本は、系統派生後の後発的脱字を有するのである。言い換えれば、これに関するかぎり、楠家本と細川家本は、ともに後発的写本なのである。

ところで、問題は、肥後系において、「利」字を「理」字に作ることである。これは、文脈からして、ここは漢字「利」では不都合だと見て、それを「理」字に訂正したものである。

ただし前にも述べたことであるが、この「利」字は漢字とは限らない。仮名「り」(利)字のケースがある。肥後系の訂正者は、それを漢字を見て、「理」字に訂正した。こういう訂正を勝手になしうるというのも、書写が門外流出後のことだからである。

筑前系では、「利」字をそのまま伝えた。それは門流内で五輪書が相伝のツールだったから、古型をそのまま伝承したということである。

ちなみに付け加えて言えば、五輪書において、この「利」字は頻出多用文字の一つであるが、その運用によって、語意には強い意味と弱い意味がある。強い意味の場合には、文字通りの「利」である。やや弱くなれば、「戦い方」というほどの意、弱い意味の場合には、ほとんど「利」の意味が消えて「事」と訳した方がよいところである。

これと類似の語句は「心」である。これも強い意味の場合には、文字通りの「心」である。弱い意味の場合には、「心」の意味が消えて「意味」と訳した方がよいこともあれば、さらに意味が弱くなれば「事」と訳した方がよいこともある。

いまの《大かた、かくのごとくの利を心にかけて》のケースでは、「利」はその弱い意味である。このようなことを心にかけて、という文意である。

したがって、肥後系諸本が訂正したように、「理」字に書いてしまうと、本来の意味が逸れることになる。「理」と書いて、「ことわり」と読ませたいところ、しかし本来ここは、「り」(利)という仮名だったのである。

 

(3)一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず

まず、武蔵は言う。――この道に限って、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい、と。この道に限って、ということは、とくに兵法の道においては、という意味である。

真っ直ぐなところを広く見立てる。――これは武蔵的なパラドクシカルな表現である。真っ直ぐに見ようとするに、ついつい狭く一途一道に見立ててしまう。そうでなく、広く見立てること、真理は一本ではない。あるいは、リニアな線状のものではなく、幅のある平面(plane)である。こういう武蔵的な物の見方、真理次元のありように注意されたし。

そこで、前に留保した問題の文のことである。つまり、本条冒頭近くに、《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて》という、納まりの悪い文言があった。それを捨てずに、どこか相当の場所を探すとすれば、どこであろうか。もしかりに、それを、ここへ持ってきては、いかがであろうか。

かくして、復元文章の案文は、
《朝な/\夕な/\勤おこなふに依て、おのづから廣き心になつて、此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》

つまり、前の文から展開すれば、――とくにこの道〔兵法の道〕においては、真っ直ぐなところを広く見立てることがなければ、兵法の達者とはなりがたい。朝に夕に修行することによって、おのづから広い心になって、この法、つまり、真っ直ぐなところを広く見立てることを会得できれば、たった一人でも、二十人、三十人の敵にも負けるものではない。

このように、「真っ直ぐなところを広く見立てる」、「おのづから広い心になって」、という具合の連絡をつけたのである。さしあたりは、こうしておくが、それはそもそも、草稿の一言半句も捨てないという寺尾孫之丞の無作為の作為から、保存された文言である。それを我々も捨てずに、その本来の場所に戻してみるということを試みたわけである。


こうした手続きを経て、こんどは文の内容に立ち入ってみる。

すでに述べたように、五輪書は格別な超上級者向けの奥義書ではなく、まったくの初心者を相手の兵法教本である。それは、この部分にも表れている。

我は兵法の道を学ばん――という気を起した者に、武蔵のようになりたい、武蔵のようになれると思う心を起こさせ、研鑚努力させること、それを狙って書かれているのがこの部分である。

ここはまさに、「勝つ」「負けない」の大行列である。アジテーターとしての武蔵の面目である。要するに、
《此法を学び得ては、一身にして、二十三十の敵にもまくべき道にあらず》
なのである。真っ直ぐなところを広く見立てるという武蔵流を会得できたら、一人で二十人や三十人を相手にしても負けることはありえないと言うのである。

まさにこれが武蔵の惹句である。しかもこれが本書のなかで再三反復されるものであったとすれば、こんなあざとい誘惑もまた、カリスマとしての武蔵流なのである。

たしかに、一人で二十人や三十人を倒すのは、歴史に名が残るほど稀なことである。まず現実にはありえないことである。武蔵のように天才的な資質と体力を有する者ならば可能性の条件があるが、そんな者は他には存在するわけがない。武蔵は若い頃、京都で吉岡一門を相手にこれをやった、という伝説を背景に、この言葉が語られているのである。

これは譬えていえば、自動車メーカーがF1レースカーのイメージで、それとは似ても似つかない平凡な車を売るのに似ている。しかしユーザーは錯覚に陥って買うのではない。怪物的なF1カーと凡庸な市販車の違うことを十分知っているが、それでもF1カーとのイメージ連合には抵抗しない。そういう知識とイメージとは違うからだ。

武蔵がここで演じている煽動も、それと似たものである。「勝つ」「負けない」とカリスマ的モデル自身が繰り返し語ることによって、初心者を「その気」にさせるのである。

おそらく、一人で二十人や三十人を相手にしても負けない、という非現実的な奇蹟的イメージほど人を鼓舞する力がある。だれも自分が怪物武蔵のようになれるとは決して思わない。しかしそのイメージには抵抗できない。武蔵のように強くなりたいと思う心を起こさせる。まさに語の正しい意味での誘惑(seduction)である。
《先、氣に兵法をたへさず、直なる道を勤てハ、手にてうち勝、目にみる事も人に勝、又、鍛練を以て、惣躰自由なれば、身にても人に勝、又、此道になれたる心なれば、心を以ても人に勝。此所に至ては、いかにとして、人に負る道あらんや》

むろん、この「勝つ」という語が、現代語訳すれば「まさる」というほどの意味であることは、言うまでもない。優劣を競うに、他者にまさること、である。しかし武蔵は「勝つ」に独特な意味合いを仕込んでいるから、我々の語訳では「勝つ」という語をそのまま使うわけである。

武士は、何よりも、戦闘の職人、殺人の技術者である。ただし、死ぬために戦うのではない。勝つために戦うのである。この点、武蔵ほど明確に規定した者はいない。

手で勝ち、目に見ることでも勝つ。身でも勝ち、心でも勝つ。この――手、目、身、心という――諸器官(organs)の具体的カテゴリーの亢進。武蔵において、身体はむろんのこと、心でさえも、戦闘の道具なのである。

ここでの、「勝つ」「負けない」という語の反復が、無意識的なものの次元で作用する。もっと言えば、無意識的なものの平面に記入され書き込まれる。そういう意味で五輪書は、兵法教本として、まさに「直道」としての正しい道を進むのである。

そして事実、その効果は、我々のこの現代にまで及んでいて、いまここでこの註解を読んでいる諸君も、たしかに五輪書にすでに誘惑されてしまっていて、さらに次の巻を繙いてみたいという衝動を抑えることはできないはずである。そうではないかね?

 


(4)身をたすけ名をたすくる所、是兵法の道也

直前に語られていたのは、――手で勝ち、目に見ることでも勝つ。身でも勝ち、心でも勝つ――という一分の兵法において勝つことである。同様のロジックで、
《又、大なる兵法にしてハ、善人をもつ事に勝、人数をつかふ事に勝、身をたゞしくおこなふ道に勝、国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、世のれいほう(例法)をおこなふに勝》
というわけで、大分の兵法〔合戦〕においても、善人〔勝れた人材〕をもつことでも勝ち、人数〔兵員軍勢〕を指揮することにも勝つ。――このばあい、「善人」とは、善人・悪人の善人ではなく、「よき人」ということで、「能き人」の当て字である。つまり、戦場において役に立つ勝れた人材、有能な人物というほどの意味である。

と、ここまではよいが、さらに別の局面へ、この「勝つ」は越境し氾濫する。

身を正しく行うとは修身のこと、その自身一個の行いの道にも勝ち、国を治める事、政治行政においても勝ち、民を養う経済においても勝ち、そして世の例法、法律の施行においても勝つ。

かくして、この「勝つ」のオン・パレードは、修身、政治、経済、法律にまで波及するのである。というのも、武蔵において兵法とは、武士の道であって、狭義の軍事のみならず、人々を組織し、政治、経済、法律をもカヴァーするものであるからだ。兵法なくして、武士は成り立たないのである。

それゆえ、ここでの結語として、語られるのは、
《何れの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也》
ということである。

前に、武士は死ぬ覚悟があるかどうかで決まるのではない、人に勝つということが武士の職務だという話があった。これは後世のいわゆる「武士道」の精神とはまったく違ったものであることが注意されなければならない。

しかもここで《身を助け名を助くる》というところ、まさしく「忠君」ではなく、我が身を助け我が名を助けるのである。この自助たるべき「利己」のポジションは、少なくとも元和偃武以前の武士の姿である。まだ武士が本来の戦闘者でありえた時代の精神である。

おそらく、武家の世界ほど競争競合の激しい世界はなかった。それは「自治体」に他ならぬ領主としての武家の本質から来る。政治学でいう封建制とは、大名から名主のレベルにいたるまで、その自治(autonomy)の安堵される状態、秩序の固定した状態にすぎない。したがって、それはすでに「人に勝つ」という行動倫理とは別のものである。

我々が武蔵の思想的なポジションを見定める時、重要なことは、この「武士」なるものが、まだ野生の集団であって、封建制秩序確立以前の存在だということである。それが近世初頭の武士のエトスであるとともに、その後の封建的な武士のそれとの決定的な相異である。

統治とは、暴力の抑圧と同時にその昇華された様態にほかならない。関ヶ原以後なお形式上は主君であった豊臣家を大坂城に攻めて滅ぼした時、家康は、まさに「人に勝つ」、いわゆる下克上を実演した。しかしそれは、下克上を終結させる最後の下克上(the final supplanting)であった。つまりそれは、最後の人食いを演じた人食い種族の喩えに等しい。近世封建制はまさに最も反封建的な行為によって創出されたのである。

これとともに開始された偃武の時代、もはや「人に勝つ」ことは秩序を撹乱する行為を意味するものとなった。このとき、多くの武芸者・兵法者の類が「人に勝つ」ことを演じたのが、剣術の隆盛に他ならない。

武蔵は二十代までの六十余度の決闘に無敗という記録をもって、生前すでに、まさにそうした剣術の時代の伝説的なモデルになってしまった。しかるに、五輪書を見るかぎりにおいて、兵法教本を書きながら、同時にその剣術の時代を否定しているのである。かくして、
《何れの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也》
という一文は、誤解なきように読むべきである。武蔵がこの後書で「勝つ」「負けない」という語を呪文の行列のように並べ立てているのは、他でもない、武蔵的な意味での自律的な武士的存在が死滅していくという状況への批判に他ならない。まさに、こうした思想状況を背景にして、五輪書というテクストは読まれなければならないのである。

それというのも、前に武蔵は、武士の道は「死ぬ」ことではなく「勝つ」ことにある、と明言していたのだった。これは戦国の武士の行動原理である。武士が実戦の戦闘から離れてしまう泰平の時代になってはじめて、「死ぬ」ことが過剰な美学的価値をもつようになったのである。

武蔵の世代では、「人に勝つ」ことが武士の行動原理である。これは秩序内に回収されない自立的個人としての武士の生き方からくる。武という暴力、戦闘者としての実力だけが、どんな権威にも屈しない個としての自律独立を支えるのである。

したがって、内戦が終焉し偃武泰平の世になって、なおも「人に勝つ」ことを主張するとは、まったく反時代的で壊乱的な言説であった。

武士たちは、すでに、「勝つ」というよりも「後れをとらない」といった消極的な行動を重んじはじめていた。個としての突出した功業よりも、集団的な秩序志向が完成しつつあった。

そこから「勝つ」という武士の行動原理の貶価が生じるのも当然であって、剣術においても、たとえば柳生宗矩の、
《かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也》(兵法家伝書)
といった言説が、世間に受け入れられる土壌が出来上がっていた。言い換えれば、戦闘術が「兵法」というよりも「心法」になってしまうところ、本来暴力的存在である武士における、そのような剣の精神化が始まったとき、武蔵はあえて――きわめて下品にも――「人に勝つ」ことを、武士の規範として定式化するのである。

この「人に勝つ」というテーゼは、前述の通り、戦国の気風の保守であり、同時に偃武以後の秩序世界の中では、まさしく壊乱的な振るまいに他ならない。

要するに、以上のことを念頭において、この一節は読まれなければならない。しかも、そのような了解を前提にしてはじめて、この五巻の書を読む意味があるというわけである。


しかしながら、このあたり、既成現代語訳を見るに、戦前戦後を通じて、いかにも馬鹿げた状況が展開していることが知れる。

戦前の石田訳は、《善人を持つ》を「立派な人物を家来を持つ」と誤訳した。「善人」というのは、軍事においては、役に立つ有能な人材、というほどの意味で、「立派な人物」というような道徳的意味合いはない。また、《人数をつかふ》の訳にしても、これを現代語の「人数」の意味に錯覚してか、「多人数」と誤訳している。五輪書にある《人数》とは、兵員軍勢の意である。古語の素養が足りないこうした石田の誤訳が、戦後においても無反省に流用されるのである。

ただしそれ以外は、石田訳は原文をきちんとトレースして、しかも「勝ち」という語を隠していない。ところが、戦後になると、神子訳以来、意訳というよりも「超訳」で臨むようになった。というのも、あまりにも武蔵が、露骨にも「勝ち」を連発するのに辟易して、その「勝ち」という肝腎なキーワードを隠蔽するのである。

右掲にみる如く、この隠蔽路線は神子訳にはじまった。つまり、――すぐれた人と結びつくことに成功し、多くの部下をたくみに使い、わが身を正しく持し、国を治め、民を養い、天下の秩序を保つことができる――。石田訳と比較すれば、歴然としているが、まさしく武蔵の「勝ち」というキーワードは跡形もなく抹消されている。

その後現れた岩波版注記では、《善人を持つ事》について、戦前の石田訳の誤訳を継承して、「立派な人物を部下に持つこと」と誤釈した以外は、この箇処についてノーコメント、注釈を回避している。

以後の大河内訳は、ほとんど神子訳のパクリで、しかも岩波版注記の語釈を流用したにとどまる。また、鎌田訳も、大河内訳と同じく、神子訳のパクリと岩波版注記を反復する以外、何の新味もない。

このように、戦後の現代語訳は、原文の露骨な「勝ち」の連発にたじろいで、それをひたすら隠蔽する傾向にある。これは戦後の五輪書読みが、戦前よりも逆に秩序志向的になって、武蔵の壊乱的な言説を抑圧しにかかったもののようである。

これはたんなる誤訳なのではない。こうした戦後の現代語訳の一貫した特徴は、いわば「戦後精神」の貧困を反映している。そして、そのようにして、戦後、事実上、五輪書は読めなくなったのである。

それに対して、我々のここでの五輪書読解は、そうした戦後発生した偏向と悪弊を矯正するために、あえて武蔵の言説が内包するものを強調してみたのである。言い換えれば、それは、武蔵の五輪書を「読める」ようにするということである。そのための第一条件は、むろん、武蔵が露骨にも連発する「勝つ」というキーワードを、抑圧と隠蔽から解放することである。

――――――――――――

 

 

 

ここで、校異の問題をいくつか取り上げたい。それは、ひとつには仮名・漢字の表記の問題である。

右のように、肥後系は多くが《例法》と漢字表記をしているが、対するに筑前系は、共通して《れいほう》と仮名で記している。

これは筑前系/肥後系を截然と区分する相異である。おそらく、これは寺尾孫之丞の前期/後期の書字変化とみなすべきところである。つまり寺尾は、柴任美矩に伝授した前期には、オリジナルそのままの仮名書きにしていたが、寛文あたりの後期になって、漢字で書いたということである。古型は、《れいほう》と仮名書きする方であったのである。

しかるに、同じ肥後系でも、楠家本と細川家本は、他が《勝》と漢字で書いて共通するところを、《かち》と仮名書きしている。これは、筑前系諸本と同様に、肥後系も早期には《勝》と漢字で書いていたが、楠家本・細川家本両本共通の先祖の写本の段階で、《勝》を《かち》と書き換えたようである。この仮名書き《かち》は、楠家本と細川家本の近縁性を示すものであり、同時にその祖本が後発的写本であったという指標である。

またこの箇処で、校異に関して、もう少し複雑な問題がある。それは、筑前系/肥後系を通じて、多くの写本が、
《国をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝、世のれいほう(例法)をおこなひ勝》
とするところ、つまり、「おこなひ勝ち」とするところであるが、これはかねがね不審を抱く箇処であった。というのも、国を治める事に勝ち、民を養う事に勝ち、と来て、次に「世の例法を行い勝ち」では、文章が整わぬからである。

しかるに、これは筑前系では吉田家本・中山文庫本も《おこなひ勝》であるし、肥後系の諸本もおおむね同じである。

我々の従来の知見の範囲では、肥後系の富永家本、円明流系統と思われる稼堂文庫本、そして丸岡家本と同系統の山岡鉄舟本に、《行ニ勝》《行に勝》とあって、「おこなふに勝」する例があった。しかしこれらはいづれも後期写本だから、後世の弥縫かと思われた。

とすれば、この《おこなひ勝》は筑前系/肥後系に共通だから、寺尾孫之丞段階での誤記と見るべきところである。しかし、それにしても、余りにも明白な誤記なので、腑に落ちないということには変りがなかった。

ところが、筑前系の異系統、立花峯均系の越後諸本と遭遇するに至り、その渡辺家本・石井家本・伊藤家本等に《おこなふに勝》の語句を見つけることになった。さらにその後、立花増寿が丹羽信英へ伝授した地之巻を発掘して、《をこなふに勝》とあるのを確認できた。そうすると、筑前系にも「おこなふに勝」とする例があったということになる。そこで、我々の所見を改める必要が出てきたのである。

つまり、諸本に《おこなひ勝》とするところ、それは「行に勝」とあったのを、「行ひ勝」と誤読した結果の産物ではないか、ということである。「に」(仁)字を「ひ」(比)字と読み違えたのではないか、という見当である。

この線で行けば、同じ筑前系でも、早川系の《おこなひ勝》は誤りで、立花=越後系諸本の《おこなふに勝》が正しいということになる。すると、肥後系の富永家本等は、後期写本とはいえ、早期に派生した系統の子孫だから、その《行ニ勝》は、肥後系早期写本にそうあった痕跡である。

というわけで、筑前系/肥後系を横断して共通する語句が、二通りあるわけだが、ここでは原型の復元という趣旨から、文意の通じる方を優先して、《行(おこなふ)に勝》とする語例を、我々のテクストでは採っている。

ただし、もう一つ言えば、武蔵のオリジナルが、その《行(おこなふ)に勝》であったかとなると、そうとは見えない。というのも、このあたり、文は直前に、
《善人をもつ事に勝、人数をつかふ事に勝、身をたゞしくおこなふ道に勝、國をおさむる事に勝、民をやしなふ事に勝…》
と続いたのだから、ここは、《おこなふに勝》ではなく、《おこなふ事に勝》と、「事」字があったはずではないか、ということである。

つまり、オリジナルは、《行事に勝》とあったのだが、その「事」字が、寺尾孫之丞の段階で「ふ」字と誤読されて、この文言が《行ふに勝》とされ、「事」字が脱落してしまった。その結果、寺尾の編集段階で、文言が《おこなふに勝》となった可能性がある。筑前系の立花=越後系諸本が伝えるのは、そのような古型であるが、武蔵のオリジナル、原型ではない。

したがって、我々の復元テクストでは、さらにもう一歩を進めて、脱落したかもしれぬその「事」字を、( )に入れて示している。

 

 

もう一つ、本書の体裁に関わる根本的な問題の検討を付け加えるならば、諸本には、この地之巻はじめ各巻末に、年月日と記名、宛名が記されていることである。もっとも一般的なのは、

 

   正保二年五月十二日   新免武藏守玄信 在判

         寺尾孫之丞殿


とするもので、この日に武蔵が記名して、寺尾孫之丞へ伝授したという体裁である。これは少なくとも寺尾孫之丞の段階まで溯りうる形式である。

筑前立花系の伝書なら、これにとどまらず、寺尾孫之丞以下、代々の相伝年月日を列記して、伝系をあきらかにしている。下掲の例は、六代立花増寿が七代丹羽信英に伝授した地之巻の奥書である。武蔵にはじまり自身に至る系譜を明示している。それは筑前から伝わった越後の門流にしても同様で、以下、八代、九代、十代と幕末までその系譜を記している。

 

 

他方、肥後系の写本では、伝系記載があったとしても、せいぜい寺尾孫之丞の門人どまりである。現存写本の範囲では、肥後では、五輪書をきちんと伝える正統伝系がなかったとみえる。

むしろ、肥後系写本奥書には、不備が多い。武蔵の名を正しく記さない、年月日を欠く、そのほか、寺尾孫之丞の宛名さえ欠くものがある。こうした問題点については、後に空之巻で関説する。ただし、地水火風の四巻について共通するところなので、下に、肥後系諸本の奥書を示して、若干述べておきたい。

【楠家本】

 (年月日なし)   新免武藏守玄信

 寛文八年五月日   寺尾夢世
          [花押印]

       槇嶋甚介殿
【細川家本】

正保二歳五月十二日    新免武藏

      寺尾孫丞殿

寛文七年
   二月五日    寺尾夢世勝延
           [花押]

      山本源介殿

【丸岡家本】

 正保二年五月     新免武藏
           玄信識


    (宛名・伝系なし)

【富永家本】

正保二年五月十二日
        新免武藏守玄信
            在判


     (宛名・伝系なし)

【常武堂本】

正保二年五月十二日    新免武藏

      寺尾孫丞殿


寛文七年二月五日  寺尾夢世勝延

      山本源介殿

【狩野文庫本】

        新免武藏守玄信
正保二年五月十二日    在判

      寺尾孫亟殿
      古橋惣左衛門殿

 

 まず、楠家本を見るに、武蔵から寺尾孫之丞が本書を授かった「正保二年五月十二日」という年月日記載がない。これが第一の過瑕である。

しかるに、寺尾孫之丞が槇嶋甚介へ相伝した年月日は「寛文八年五月日」と記している。つまり、「寛文八年五月」の何日か、それを記さない。相伝文書にあるまじきこの曖昧さは、寺尾孫之丞の仕業とも思えない。後世の仮託文書の徴候的特徴である。

もとより、写しであることが明白なのに、「在判」とは書かず、寺尾の花押・印判まで描いている。これはやり過ぎという行為で、武蔵の曰く「あまりたるは足らざるにおなじ」という例である。

次に、細川家本になると、伝授年月日は記載されている。ただしそれが、「正保二歳五月十二日」とあって、異例の文字がある。細川家本の地之巻以外の他の諸巻は、これを「年」と記す。また、同系統の常武堂本をみると、地之巻でもそれは「年」という文字であって、諸本と同じである。とすれば、これは細川家本作成者の恣意的な文字使用である。

また、細川家本の武蔵の記名は、「新免武蔵」とのみあって、「玄信」という諱を欠落させている。それは同系統の常武堂本も同様。他の諸本には、諱「玄信」を記すから、これは常武堂本・細川家本の祖本の段階で生じた脱落変形である。

あるいは、細川家本系統では、「寺尾孫丞殿」「山本源介殿」の二重の伝書の体裁である。これは武蔵から授かった本書を、寺尾が自身の奥書を付して、山本へ伝授した体裁を装ったものである。しかし、寺尾前期伝授のかたちを伝える筑前系写本には、そんな体裁のものは存在しないから、これは後世の作為である。

また、楠家本のように印判まで写しはしないが、細川家本は、それでも寺尾の花押を模写している。それも、楠家本の花押とはおよそ似ていない。他方、同系統の常武堂本には、細川家本と同じく、「寺尾夢世勝延」という名を記すが、花押はない。常武堂本の祖本にはそんな花押はなかったのである。この花押は、祖本にはないのに、細川家本の作成者が創作したもののようである。これらの作為は、本物らしく見せようという所為で、これもやり過ぎて馬脚を顕したというところである。

丸岡家本は、「正保二年五月」と記して、どういうわけか、「十二日」という日の記載をしていない。また、「新免武蔵/玄信」と諱まで記すが、そこにわざわざ「識」という文字を付加して、相伝書にあるまじき体裁をさらしている。しかも、肝心の「寺尾孫之丞」という宛名も伝系も記さない。

富永家本は、「正保二年五月十二日/新免武藏守玄信/在判」と記して相伝書の形式であるが、寺尾孫之丞の宛名もしくは伝系を記さない。寺尾孫之丞の宛名を記さないのは、丸岡家本と同様であり、肥後系早期の写本には、寺尾孫之丞の宛名を記していなかったようである。

最後の狩野文庫本は円明流系統の一本だが、年月日、武蔵の記名ともに記しているが、問題はその宛名である。なんとここには、寺尾孫之丞の名に並べて、古橋惣左衛門の名を記しているのである。これは、古橋系の何者かが作為的に付加したものであろう。それにしては、古橋系の伝系を記していないのも、相伝書ではありえない体裁である。


以上を要するに、寺尾孫之丞が本書を発給した段階の体裁を基準にすれば、筑前系諸本はそれを保全しているが、肥後系諸本は、おおむね相伝文書としての体裁が崩れている。しかも、諸本それぞれ、崩れ方が異なるのである。それは門外へ流出した後の写本の子孫だからである。

しかしそれは、いづれにしても後世のことであって、寺尾孫之丞以前、そもそも、武蔵のオリジナル草稿の各巻末に、年月日・記名・宛名があったか、――となると、それは恠しい。むしろ云えば、発行年月日・記名・宛名を記すこういう奥書の体裁は、オリジナルにはなかったと思われる。

というのも、第一に、寺尾孫之丞へ託されたのは、草稿のままの五巻の書であること。草稿状態の書を相伝文書にすることはない。したがって、各巻に、発行年月日、武蔵の記名があるというのは、ありえないことである。

第二に、五輪書の内容は、奥義秘伝書のそれではなく、初心者を含めた不特定多数の一般的な読者を想定して書かれた兵法教本である。したがって、特定の人物、たとえば寺尾孫之丞という宛先があるはずはない。

もし、年月日・記名・宛名を記す奥書があったとすれば、それは最後の空之巻のみであろう。ただしそれも、本書の相伝ということではなく、武蔵から寺尾孫之丞への遺贈、形見分けという意味である。この件については、後に空之巻の読解でまとめて述べる。

おそらく、各巻にこうした奥書のある体裁を設定したのは、宛先人たる寺尾孫之丞であろう。そして、筑前二天流の相伝形式に見られるように、その寺尾の門弟以下代々、相伝者の名を連ねて行くようになったのである。

ともあれ、武蔵のオリジナル草稿の各巻末に、年月日・記名・宛名を記す奥書があったとは思えないが、柴任美矩はじめ寺尾孫之丞の門人が伝授された五輪書各巻末には、如上の年月日・記名・宛名があったのである。つまり、武蔵の死後、寺尾孫之丞が、門人にこの五巻の兵書を相伝するようになったとき、この奥書の体裁を設けたのである。

したがって、我々の五輪書テクストでは、空之巻以外の四巻には、如上の年月日・記名・宛名を記載しないことにする。それが武蔵オリジナル草稿のかたちだと考えるからである。

――かくして、地之巻の「地業」につきあって、長い助走になったが、次の水之巻から具体的な兵法指南がはじまるのである。