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五輪書異本集 解説

 五輪書の原本は存在しない。武蔵自筆のそれはない。その一方で、五輪書の写本はかなりの数現存する。それを、七~八種とする説があるが、実際はそれどころではない。明治に至るまで各地で、なお当流相伝の道統が続いたし、あるいは門外へ流出して派生したため、五輪書写本は全国に散在してその数はかなり多い。
 
そのように写本は多数あるが、それでもイニシャルな原本を欠く状態では、これは書誌学上の袋小路に入った状態で、混乱揚棄へ至らないままである。どれが「正しい五輪書」なのか。
 
しかも、五輪書をめぐっては、ことに近代以後、奇怪な事態になっている。というのも、肥後系写本の一本にすぎない細川家本が、岩波版底本となって、五輪書写本群のなかで特権的地位を得てしまっている状態で、他に異本など存在しないがごとき誤解すら生んできたのである。
 
戦前一時は、誤写も少なくないこの単なる後発的な写本が、武蔵自筆原本と誤認され、そのように世間も受け取っていた時期がある。しかし、それは誤りであった。この細川家本そのものの伝来経路は不明であり、五輪書相伝の道統からすれば、門外流出後発生した非正規の写本の末裔である。
 
しかしながら、肥後系五輪書のなかに、この細川家本を完全に凌駕するほどのアドヴァンテージを有する写本が存在しないのも事実である。
 
たとえば、昭和三十六年(1961)に但馬(兵庫県)の生野町の旧家から発見された楠〔くす〕家本は、細川家本より正確な箇処もあるが、そうでない部分もある。また、村岡氏旧蔵だったが売却され、平成八年(1996)に古書店で入手されたという丸岡家本は、「最古の五輪書」と喧伝されたものだが、語句の確度からすると、楠家本・細川家本より落ちる。
 
しかし、この三本とも、肥後系諸本に共通の特徴をもつ。すなわち、肥後系諸本は相伝文書の体をなさない。形式体裁が崩れてしまっている。道統連続の相伝証文を欠く写本であり、門外に流出して伝写されて生れた代物である。いつだれが書写したか不明であり、伝写経路が恠しいという点では、本質的に海賊版(pirated edditions)なのである。
 
それゆえ、これまで、そうした非正規の海賊版の子孫にすぎないものが、「これが五輪書だ」と錯覚され、また宣伝されて、世の中に流布してきたのである。肥後系諸本しか知らぬ研究環境では、そうなるほかあるまいが、これではいかにも杜撰なことであった。それゆえまた、細川家本をはじめ現存肥後系写本をもって、五輪書を代表させるわけにはいかないのは、甲乙議論以前のことである。
 
さて、五輪書に肥後系諸本しかないのかといえば、実はそうではない。それらとは別系統の筑前系諸本がある。
 
以前から知られていたのは、中山文庫本である。吉田家本が世に出る以前では、筑前系五輪書は中山文庫本しか知られていなかった。そういう環境条件では、中山文庫本の位置づけはできず、それゆえ、中山文庫本を異端例外として無視し、数の多い肥後系諸写本を中心にした五輪書の見方しかできなかった。
 
しかし、筑前系吉田家本が知れるようになって、既知の中山文庫本が、単なる例外文書ではなく、むしろ逆に、筑前系五輪書相伝の姿をそれなりに伝えている史料だということが、ようやく判明したのである。また、中山文庫本は、字句の点でも吉田家本に近似しており、両者は近縁関係にあることも、我々の内容分析により判明した。
 
筑前系の伝書は、肥後系諸本とはちがって、空之巻に代々相伝証文が備わっており、身元のたしかな門流内の相伝文書である。
 
なかでも、吉田家本空之巻冒頭文書に限っていえば、それは延宝八年(1680)に柴任美矩が吉田実連に伝授したもので、五輪書としては、これが現存最古の写本である。十七世紀の五輪書写本と確実に認めうるのは、現在までのところ、この吉田家本空之巻のみである。それ以外は、筑前系・肥後系ともに現存写本はすべて十八世紀以降のものである。
 
この吉田家本にしても、その空之巻以外の四巻は、柴任美矩→吉田実連の段階のものではなく、後世の書写によるものである。内容を比較照合すると、吉田治年が実連から預かったというものとはどうやら違うらしい。吉田実連の甥・早川瀬兵衛実寛の系統から、後に逆輸入されたものともみえる。我々は後にこれを、中山文庫本とともに筑前早川系として括るようになる。
 
他方、吉田実連から立花峯均へ伝わった五輪書は、いまだ発見されていない。吉田家本空之巻に、立花峯均系の相伝証文が付されているが、それは寛政年間に立花増昆が吉田経年へ一流相伝するさい、吉田家本空之巻に継ぎ足されたもので、吉田家本の地水火風四巻とは別系統の文書である。柴任による空之巻は別にして、他の諸巻については、既出の吉田家本・中山文庫本だけでは、筑前系写本と云うには偏りがある。それゆえ、立花峯均系の五輪書を発掘するまでは、筑前系について明確なことは言えないのであった。
 
しかし、以後当分の間はそれが出ないままだった。同じ筑前系でも、主流たる立花峯均系統の写本が出ないかぎり、筑前系五輪書を論ずるには時期尚早であり、それゆえ、我々は五輪書研究における確言を控えていたのである。
 
そうこうするうちに、我々は、九州から遠い越後で、立花峯均系統の五輪書と遭遇することになった。つまり、立花峯均の孫弟子にあたる丹羽信英が越後に伝えた二天流の道統があって、その越後で、五輪書の「子孫」たちを発掘できたのである。
 
これは、まさに平成二十年のことで、地元関係者の協力と案内を得て、あちこちの旧家で調査をした結果である。まことに地元関係者と所蔵者の諸氏には感謝しなければならない。
 
かくして、我々は立花峯均系の五輪書の一端にふれることができるようになった。それら諸本を吉田家本と比較するに、写し崩れがややあるものの、一方で、吉田家本四巻が誤記するところを、越後の伝書が正しく記している箇処も少なくない。
 
我々の所見では、吉田家本の空之巻以外の四巻は、筑前系最初期のものではなく、後世の書写によるものである。しかし、それが明確に判明したのは、立花峯均系統の越後系諸本を現地で発掘調査した結果であり、それも最近のことなのである。
 
ようするに、同種史料ばかりが増えても仕方がない。異種史料の数が増えないかぎりは、既存史料の位置づけもできないわけである。
 
しかるに上記のように、越後のあちこちから、さらには信州まで廻って、ご子孫諸家で五輪書写本を発掘するに至って、越後系諸本が立花峯均系統の五輪書たることが確認できた。そうして、既知の中山文庫本・吉田家本と比較照合し、その結果、同じ筑前系でも相異のあることが判明し、また、それにより逆に中山文庫本・吉田家本の位置づけも可能になった。そうして、これらを区分して、「立花=越後系」、「早川系」と呼ぶことにしたのである。
 
しかも、越後系諸本の発掘を一通り進めるうちに、平成二十一年年秋になって、待望のものが発見できた。すなわち、立花系五輪書そのものである。
 
拝見するにこれは、丹羽信英が、宝暦十一年に師匠立花増寿から伝授された地水火三巻のうちの、地火二巻であった。まさに丹羽信英は、諸国漂泊のあげく越後へ到来したとき、師伝の五輪書を携帯していたのである。
 
これが出たことにより、筑前から越後へと当流が伝播した物証を得たことになる。また、(明和四年相伝の風空二巻も含め)他の諸巻は未発掘であるが、近い範囲に現存するものと目星を付けている。
 
五輪書の一部とはいえ、何よりも、立花系五輪書を発掘できた意義は大きい。筑前系と越後系の失われた環が、ここに発見できたからである。とりあえず、これを「立花隨翁本」と呼んで、他の越後系諸本と区別することにした。すなわち、これは筑前二天流立花系の五輪書であり、また、越後系諸本の祖本であるからだ。
 
このように立花=越後系諸本の一連の発掘により、従来既知の早川系諸本と照合して、筑前系五輪書の内訳がほぼ判明した。それによって、筑前系五輪書に共通する特徴を把握することが可能になったのである。
 
すなわち、筑前系は、五巻兵書(五輪書)を門流内部で嗣資相伝してきた。とくに空之巻の相伝にあたり、代々相伝証文を付した。また、道統内部の相伝文書であるから、伝写を繰り返しても、同時期の肥後系諸本と比較して、意外なほど写し崩れはすくない。
 
したがって、このことにより、相伝五輪書の重要性を改めて認識する必要がある。従来、五輪書研究において看過されてきたのは、まさにそのことであった。
 
それというも、肥後系諸本しか知らない環境では、その非正規の形態しか見知っていないから、五輪書はそのようなものだと思い込んでしまっていた。しかも、肥後系諸本が、相伝文書の体をなしていない海賊版であるという事実にも気がつかないのである。
 
寺尾孫之丞段階で、五輪書がどのような体裁であったか、それを問う問題意識すらないから、たとえば、楠家本や細川家本などの現存写本が、寺尾孫之丞が寛文年間に槇嶋甚介や山本源介といった門人らに与えた姿をそのまま伝えていると思い込む。しかし、筑前系諸本を参照すれば、そうした肥後系写本が、寺尾孫之丞段階の相伝文書としての体裁を備えておらず、それが崩壊し去った後に作成された模擬文書だということに気づくはずである。
 
肥後系諸本は、門外へ流出した写本が繰り返し伝写され派生したものである。それだけに寺尾孫之丞段階の祖形から遠い。肥後系諸本には、寺尾孫之丞の名さえ記さないものがある。また、門人宛て奥書のある楠家本・細川家本にしても、相伝文書としての体をなさない。事情不通の後人の手による編集物である。何れも門外者の仕業であるから、形式体裁の崩れ方が大きい。
 
それゆえ、五輪書における史料評価にあたって、その写本がどれほど寺尾孫之丞段階の体裁を保持しているか、この形式の相異が重要な指標になる。このポイントを外せば、正しい史料評価をすることはできない。

▲本吉田家本空之巻 寺尾孫之丞相伝証文とその前後

 以上のことは、従来看過されてきた諸点である。五輪書を肥後系/筑前系に分類するのは、これまでに例がなきにしもあらずだが、それにしても、筑前から出た五輪書というだけでは意味はない。また、筑前系でも吉田家本しか知らないようでは、その対比はできない。

 もとより、筑前系と肥後系は根本的に何が違うのか、それを詳細に分析し明らかにした研究は存在しない。そういう状況では、五輪書を肥後系/筑前系に分類する意味も理解されていないのである。

 肥後系諸本の方は、すでに以前から細川家本はじめ諸家の翻刻もあって、その内容は知られている。とりわけ、松延市次『校本五輪書』(私家版・平成十三年)のような諸本校合の仕事もある。しかるに、松延の労作でさえ、肥後系五輪書ばかりに偏向したもので、筑前系諸本はまったく視野の外にあるという有様であった。

 ことほど左様に、筑前系の方は、とくに研究が手薄である。早川系の中山文庫本は以前から知られていたが、その内容を詳しく読んだ者はいない。また、近年、吉田家本を論じることがあっても、以前から知られていた中山文庫本との比較分析さえ出なかったという状態である。ましてや、越後系諸本に至っては、その内容すら五輪書研究者に知られていないというのが現状である。

 このような状況に鑑み、我々はここで、五輪書諸本を広い範囲に求め、「異本集」として編むことにしたのである。

 我々の五輪書読解研究において参照した諸本を示せば、下記の五輪書異本二十七本三十八種である。筑前系の中でも、新発見の越後系諸本のプレゼンスに注目されよう。

 

  写本名 様 態 備 考
筑前系 吉田家本 巻子本 五巻 吉田家文書 九州大学図書館記録資料館蔵
中山文庫本 冊子本 一冊 中山久四郎旧蔵 東京都立中央図書館蔵
大塚家本 巻子本 五巻 早川大塚系 個人蔵
伊丹家本 巻子本三種 計五巻 地水風空巻 火之巻欠 福岡市総合図書館蔵
鈴木家本 巻子本 一巻 早川大塚系 火之巻 個人蔵
立花隨翁本 巻子本 地火二巻 立花系 立花増寿名 個人蔵
松井家本 巻子本 空之巻一巻 越後系 丹羽信英名 個人蔵
赤見家本 巻子本三種 計四巻 越後系 丹羽信英名他 地之巻欠 個人蔵
渡辺家本 巻子本二種 計三巻 越後系 渡部信行名 個人蔵
近藤家本 巻子本三種 欠巻あり 越後系 渡部信行・大沼美正名 個人蔵
住田伊藤家本 巻子本 地水火三巻 越後系 渡部安信名 三巻兵書 個人蔵
神田家本 巻子本・冊子本 三種 越後系 五十嵐正一名 三巻及風空 個人蔵
石井家本 巻子本・冊子本 二種 越後系 五十嵐正一名 三巻兵書 個人蔵
猿子家本 巻子本二種 計四巻 越後系 五十嵐正一名二種 個人蔵
稲荷伊藤家本 巻子本 地水火三巻 越後系 一柳省一郎名 三巻兵書 個人蔵
澤渡家本 冊子本 一冊 水之巻 越後系 木村又六名文書の写し 個人蔵
肥後系 楠家本 巻子本 五巻 但馬楠家旧蔵 宮本武蔵顕彰会蔵
細川家本 巻子本 五巻 前田家旧蔵 永青文庫蔵
丸岡家本 巻子本 五巻 村岡家旧蔵 個人蔵
富永家本 冊子本 合本一冊 牧堂文庫 熊本県立図書館蔵
常武堂本 冊子本 一冊 常武堂書写本 個人蔵
田村家本 巻子本 五巻 牧堂文庫 熊本県立図書館蔵
狩野文庫本 冊子本 一冊 狩野亮吉旧蔵 東北大学付属図書館蔵
多田家本 冊子本 五冊 多田円明流 龍野歴史文化資料館蔵
山岡鉄舟本 冊子本 合本一冊 村上康正旧蔵 金沢市立玉川図書館蔵
稼堂文庫本 冊子本 一冊 黒本植旧蔵 金沢市立玉川図書館蔵
大瀧家本 冊子本 一冊 越後の肥後系写本 個人蔵

 

 五輪書研究参考資料として提示するこの「異本集」では、筑前系写本として、吉田家本、早川系の中山文庫本・大塚家本・伊丹家本・鈴木家本を収録し、また筑前系派生の越後系諸写本を掲載する。これら筑前系諸本は、諸巻分散し欠本があるので、諸本を整理して各巻ごとに八本ないし十二本を提示する。

 また肥後系諸本では、計十一本を提示する。従来看過されてきた富永家本や円明流系諸本も含む。また、越後の肥後系写本・大瀧家本も参考のために収録する。

 筑前系諸本では、早川系の中山文庫本・大塚家本・伊丹家本が知られていたが、それを翻刻した例はない。また吉田家本にすでに翻刻例があるが、誤読誤記が散見されるので、ここに新しく翻刻した。筑前系では、新発見の上記越後系諸本をここで翻刻したが、もとより五輪書研究史上初めての登場である。

 肥後系では、上記の楠家本・細川家本・丸岡家本・常武堂本・田村家、そして山岡鉄舟筆写本を提示する。加えて、肥後系のなかでも、早期に派生した系統の末裔たる富永家本は、写し崩れが多い一方で、肥後系早期写本の痕跡を断片的に残している。それゆえ参照の必要があるため、ここに収録した。

 さらに、肥後系では、円明流系統の諸本がある。狩野文庫本・多田家本・稼堂文庫本の三本である。これらは、校異偏差からして、早期に肥後から流出した派生系統である。その後も写本が派生して、伝写を重ねたものらしく、写し崩れが大きい。肥後系写本は、もともと門外流出の海賊版だから広範に拡散した。その辺縁では、ここまで内容が崩れたという見本である。

 ただし、写し崩れが大きいとしても、その存在を無視するのは誤りである。円明流系諸本は、早期に分岐派生した系統の子孫なので、肥後系早期のかたちを痕跡として伝える箇処もある。したがって、異本史料としてここに参加せしめる所以である。

 また最後に、越後で発掘した大瀧家本を加える。これは後述のように肥後系写本を底本として、地水火三巻については越後系写本を参照したと見えるものである。参考史料として掲載しておきたい。

 以上、この「異本集」では、筑前系/肥後系を横断して諸本を翻刻提示し、多様な写本を縦覧できるようにした。すなわち、筑前系八~十二本、肥後系十一本の異本を提示し、五巻全文にわたって逐条、比較対照できるようにした。

 肥後系諸本に偏った従来の五輪書研究の歴史からすれば、これが未曾有の試みであることは申すまでもあるまい。我々がそれをここで行うのは、武蔵の五巻兵書、いわゆる「五輪書」なる稀有の兵書について、偏りなく客観的に、その現存写本群の内容状況を知らしめるためである。

 ここで改めて、諸本について以下に要約概説しておくことにする。知るも知らぬも、一通りは基本的に認識しておくべきポイントである。

 五輪書現存諸写本を大まかに分類すれば、既述の如く、筑前系と肥後系に区分が可能である。筑前系とは、寺尾孫之丞門人のうち、柴任美矩が承けて伝えた一本に発するもので、オリジナルは寺尾孫之丞前期ヴァージョンとみなしうるものである。

 いま一つは、肥後系諸本である。既述のように伝系を示すものがないので、すべての写本が身元不詳である。門外へ流出して、まず肥後系早期の写本が発生し、さらにその後伝写されて派生して行ったものである。肥後系諸本は、本国肥後にとどまらず、繰り返し書写されて広く流布したものとみえる。各地で見かけるのは、たいていこの系統の五輪書である。

 ではまず、その肥後系諸本の方からいえば、これらのうち、細川家本・楠家本・丸岡家本の三本が、肥後系の中では、比較的正確な写本である。ただし、細川家本と楠家本が、仮名を多用する傾向にあるのに対し、丸岡家本は漢字化傾向がやや強い。

 そのように、一方は仮名に偏向し、他方は漢字への偏向を示している。筑前系諸本と照合すれば杲らかだが、その字句表記の点で、どちらも写本としての後発性を示す。

 個別に云えば、楠家本は、寛文八年に槇嶋甚介が得たものの写しという体裁で、相伝証文を付するものの、相伝書としての体裁の整わぬもので、後世の編集による二次的産品である。とくに、寺尾夢世(孫之丞)の花押・印判まで印しているが、これは明らかに摸造たることを自ら暴露しているようなものである。

 細川家本は、同じく孫之丞晩年の寛文七年に山本源介へ伝授したという形のもので、奥書にその記事があるが、他方、肝心の相伝証文を欠き、相伝文書としての体裁を喪失したものであり、明らかに事情不通の門外者による後世の編集物、それを写したものである。

 これも、寺尾夢世勝延の名を書いて花押を印す。その花押たるや、前記楠家本にもあるが、およそ両者は似ても似つかぬ代物である。表示年号は寛文七年と八年、一年しか違わないのに、このありさまである。要するに、楠家本・細川家本の奥書を見れば、直接の写しどころか、これが後人による編集物たることは明らかである。

 また、楠家本・細川家本、この両本の各巻本文を分析するに、楠家本と細川家本に共通する特有の脱文箇処がある。それは他の諸本にはない脱文であるから、両者の祖先はある段階まで同一であったと知れる。にもかかわらず、奥書内容がそれぞれ異なるのは、両本の系統が派生分岐した後に、その奥書が付されたことを意味する。

 ようするに、本文と奥書が同時一体とは限らないのである。奥書は、山本源介なり槇嶋甚介なりが何年何月何日に寺尾孫之丞から相伝をうけた、という口碑伝承さえあれば、後にいつでもそれを書き込める。この両本は、そうして後世作成された編集物の子孫である。

 これに関連していえば、細川家本と同じく、山本源介を宛名とする一本、「兵法五輪書」がある。これは常武堂主人なる人物が筆写したもので、我々が「常武堂本」を呼ぶものである。この常武堂なる人物は不明である。筆写時期は、明治三十九年のことゆえ遅い。したがって、細川家本を写したものかと思ったが、その中身をみると、そうではない。

 というのも、細川家本が誤記する箇処を、常武堂本が正しく書いているケースがある。また、字句表記に、細川家本よりも古い形を示しているのである。

 たとえば、地之巻冒頭の自序にあるところの、《兵法至極してかつにハあらず。おのづから道の器用有て、天理をはなれざる故か。又ハ他流の兵法不足なる所にや》というあたり、諸本は、片仮名の助詞「ハ」を運用するのだが、細川家本は、《かつにはあらず》、《又は他流の兵法》というように、片仮名の助詞「ハ」を、仮名「は」(波・者)で記す傾向が強い。それに対し、常武堂本は、楠家本はじめ諸本と同程度に、片仮名の助詞「ハ」を運用している。

 同様のことでは、またたとえば、諸本にある《たゝかひ》や《したがひ》あるいは《くらゐ》といった仮名表記の字句において、細川家本は、これらを《たゝかい》や《したがい》あるいは《くらい》というように、「い」字に変換して記す例が多い。それに対し、常武堂本では、他の諸本と同じく、「ひ」字や「ゐ」字を用いて記している。

 常武堂本は明治の写本で、写し崩れも相当あるのだが、このように、他方で、細川家本よりも古い形を示す字句表記がある。それゆえ、細川家本よりもむしろ楠家本に近い局面もある。言い換えれば、楠家本と細川家本の両系統が分岐派生するポイントに接近するケースもある。したがって、常武堂本は、細川家本を写したものではなく、細川家本と祖本(山本源介宛文書)を共有する別系統の写本である。のみならず、細川家本が写し崩した祖本の古型を一部に保存しているのである。

 この常武堂本の出現により、細川家本のポジションも明確になった。細川家本は古型を保つどころか、他の諸本とは異なり、新規のかなり恣意的な字句使用がみられる。すなわち、山本源介宛の編集物をそのまま正確に写したものではなく、特種な写し崩しのある一本だということである。

 ――以上が、細川家本あるいは楠家本の特徴であるが、これに対し、丸岡家本は如何。この丸岡家本には、「正保二年五月 新免武藏玄信識」とのみあって、寺尾孫之丞という宛名もない。前二者よりも体裁の整わぬものである。また、前二者が内容に近縁性をもつの対し、丸岡家本は、それより以前に派生した系統の写本である。

 しかるに、丸岡家本の本文内容は、それ以外の諸本と比較するに、楠家本・細川家本と相対的に近縁関係にある。したがって、この三本の系統は、ある段階まで祖先を同じくしていたのである。

 また、牧堂文庫旧蔵の田村家本と富永家本は、同じ肥後系でも後期写本である。前記三本と比較すれば、写し崩れがかなり多い。

 田村家本は、その内容からすれば、丸岡家本と近縁関係にあり、その系統の子孫である。また、丸岡家本と同じく、寺尾孫之丞という宛先がない。さらに、漢文序(二天一流兵法書序)を付しているところをみるに、後智恵で体裁を整えるため編集した文書である。作成者は、武蔵伝記『武公伝』を書写した田村秀之である。軸装も『武公伝』と同じである。

 この丸岡家本・田村家本の親類はないかと探していたが、最近になって山岡鉄舟筆写本「二天一流兵法五倫書」に当ってみると、どうやらこれがそうらしい。というのも、特徴的な誤記脱字の位置と様態が、丸岡家本・田村家本と同様なのである。

 これは山岡鉄舟が明治十三年に筆写したもので、体裁は冊子本で一刀流諸文書と合冊である。この写本は、無刀流の村上康正が入手したもので、通例なら「春風館文庫本」と呼ぶべきであろうが、しかし、このケースではとくに書写者が明らかなので、山岡鉄舟本と呼んでおく。

 むろん明治の写本なので、かなり写し崩れがある。漢字変換を多用し、送り仮名も新型である。それに鉄舟が底本にしたのは平仮名写本のようだが、仮名判読のエラーが散見される。決して善本とは云えないが、同じ片仮名書きの田村家本より正確な箇処もないではない。総体的に、丸岡家本や田村家本と先祖を共有する点で、諸所に興味深い古型の痕跡がある。したがって、この系統の写本の一例として、この異本集に収録しておく。

 前記の富永家本は、同じく後期写本であり、写し崩れがかなりある。寺尾孫之丞という宛先もない。そういう面では、従来、重要視されるべき写本ではないと見られてきたが、実は、肥後系諸本の中では特異なポジションを占めるものの一つである。

 というのも、他の肥後系諸本にはない特徴的箇処、つまり、筑前系諸本と同じ語句をしばしば記載する。これは富永家本が、肥後系早期に派生した系統の末裔であり、その早期写本の痕跡を所々に残しているためである。つまり、他の写本が失ったものを残しているという点で、これは無視できない史料なのである。

 他方また、肥後系写本が流出してさらに派生したものに、「円明流」を冠する諸本がある。狩野文庫本・多田家本がそれである。

 狩野文庫本は、表題は「二天一流五倫巻」、内題は「円明流覚書」とあって、相違がある。この写本は、夏目漱石と親交のあった狩野亮吉が入手したもので、大正期に狩野亮吉蔵書が東北大学に一括寄贈されて、狩野文庫中の一本となっている。

 この狩野文庫本は、誤写脱字が多く、また他の諸本にはない箇条もある。しかも、宛名を寺尾孫之丞と例の「古橋惣左衛門」を連名にしたもので、戦前は注目されたが、近年ではすこぶる評判が悪い。末尾に、「私曰」として、伝承由来等の記事があるが、後世の恠しい伝説記事である。おそらく、狩野文庫本は、尾張円明流内部で伝写された写本をもとに、十八世紀後期に、古橋手筋を称する人物が制作したのであろう。

 この狩野文庫本系統の円明流本が巷間に流布していたことは、意外なところで確認できる。それは、美作津山の正木輝雄が『東作誌』(文化十二年)で、狩野文庫本の奥書(私曰以下)に類似した記事を書きとめているからである。これは、「寺尾」を「高尾」と間違うなど、内容の伝聞で書いたもので、正木が五輪書を読んだ可能性はない。しかし、その奥書の内容が世間に知られていたことがうかがえる。このことから、狩野文庫本の祖本は、文化年間以前に成立していたことが知れる。

 同系統では、龍野円明流の多田家本がある。こちらは題名が「二天一流円明之卷」で、狩野文庫本のように「五倫卷」とはしない。また、寺尾孫之丞という宛先もないし、年月日の記載もない。しかも武蔵記名に《新免武蔵守「藤原朝臣」玄信》と記す。他の諸本と同じく形式体裁の整わぬものである。

 これもまた、写し崩れがかなりあって、たぶん幕末の写本であろう。龍野の多田円明流には初期武蔵流の伝書があるが、それとは別系統の後世文書である。流布本を得て、参考資料として写したものとみえる。

 また、稼堂文庫本も、これに近縁のある一本である。題は「二天一流兵法之書」。これは、二天記や兵法三十五ヶ条とともに編集合本したもので、その書写はおそらく明治期のもので、写本としては最も新しい。漢文序を有するのは、田村家本と同じである。

 これも夏目漱石と親交のあった黒本植(号稼堂)が所持していたものだから、稼堂が熊本の五高教授時代に同地で得たものであろうかとも思ったのだが、空之巻末尾の空識語が、円明流系の多田家本と共通する点、また武蔵記名に「藤原朝臣」を挟む点からすれば、巷間流伝していた円明流系の写本を写したものと思われる。狩野文庫本、多田家本と同じく、写し崩れが大きい。

 また、巻末には、上記楠家本類似の相伝証文を付すが、その記名が寺尾孫之丞ではなく、「寺尾求馬助信行」としている。つまり寺尾求馬助が五輪書を相伝したという格好である。これは異例のもので、後世の何者かが作為した改竄であろう。

 以上の円明流系統の諸本は、どれも写し崩れが大きい。それは何れも十九世紀以降の写本であり、現存写本に至るまでに書写回数が多かったためである。しかし、他方で、早期に派生分岐した系統なので、他の肥後系諸本にはない正しい字句を残している場合もある。したがって、富永家本と同様に、写し崩れが大きいといって、無視できない史料である。一字一句精査すれば、それが判明するのである。

 何れにしても、肥後系諸本は、門外に流出した写本から派生したものであり、各地に異本が多い。そして流出し反復伝写されて、かなり変形を蒙ったというのが実際である。それゆえに、同時期の筑前系諸本と比較すれば、写し崩れが大きいというのが特徴である。

 

  これら肥後系諸本に対し、筑前系五輪書は、既述のごとく、かつては中山文庫本のみ知られていたが、後に吉田家本が知られるようになった。ともに寺尾孫之丞門人・柴任美矩から吉田実連へ伝わったものに発し、類似点が多い。
 
吉田家本空之巻は、三代柴任美矩自筆で、吉田実連への相伝証文を含むという点では、史料的価値は高い。五輪書写本のうち、明確に十七世紀の伝書とみなしうるのは、これのみである。空之巻には、立花増昆による継足しがあって、立花系の相伝証文を付す。これは寛政四年に吉田経年に伝授した折のものである。
 
また吉田家本の空之巻にはもう一本あって、「二天流空之巻」。文化十四年暮、立花増昆(一樹軒)の依頼に応じて、当主の吉田延年が、かつて立花増昆から吉田経年へ授与された空意集を付した空之巻を、増昆本人へ預けた。それに際し、吉田家側の写しを取っておいたのである。
 
このとき立花弥兵衛家へ移った吉田家本空之巻は、その後、明治十七年になって、立花家から吉田家へ返却した。この結果、吉田家本空之巻原本と、文化十四年のその写本の二本が、吉田家にあるようになったのである。
 
さて吉田家本空之巻は、柴任美矩から吉田実連へ相伝したものだが、ところが、吉田家本において空之巻以外の地水火風の四巻は、異筆というだけではなく、十八世紀の写本である。寛政年間に、立花増昆が吉田経年に一流伝授したとき、すでに吉田家に存在していたものであるが、柴任美矩→吉田実連の段階で存在していた書巻ではない。
 
他方、中山文庫本は、表題に「二天流傳」とあって、東洋史家の中山久四郎旧蔵のもので、筑前から流出したのを、戦前入手したものらしい。本書の書写は、安政三年とあるから幕末の写本であり、筆写者の長嶋元長は、同じ中山文庫の「黒田古老物語」等も写している。長嶋は当流門外者であろう。
 
中山文庫本は、文化十五年の大塚重庸までの相伝証文を写す。これは早川系、すなわち吉田実連から早川実寛へ流れた道統であり、同じ筑前二天流でも、立花峯均以下の系統とは異なる系統である。筑前系相伝文書ゆえ、大塚重庸までの伝系は明らかである。ただし、越後系諸本と比較すると、各巻末尾伝系に相伝年月日を欠くものなどあり、必ずしも写本として善本とは云えない。
 
あるいは、中山文庫本には、他の五輪書にはない文書、たとえば吉田実連による「月影之巻」や、武蔵述作という兵歌や相伝定式など関連文書も含む。 「月影之巻」は伊丹家本の一巻にもあり、早川系の伝書である。また、早川系特有の字句がみられ、これにより吉田家本四巻がこれと同類とみなしうるのである。
 
中山文庫本と吉田家本地水火風四巻は、早川系写本である。この早川系では大塚家本がある。六代月成実久が七代大塚重寧に伝授したもので、その空之巻には、以下代々追い書きがあって、十代大塚武郷の相伝証文までを含む。空之巻本文や寺尾孫之丞相伝証文に誤記が目立つが、筑前二天流の相伝形態を具備した伝書である。
 
また、この早川系の写本に、伊丹家本がある。これには三種あって、まず、地風空三巻は十一代大塚作太夫重正が伊丹九郎右衛門に与えた後期写本。この三巻は、他の筑前系五輪書のように、武蔵以下の伝系を記さない。武蔵の記名もない。その点で変則的なものであり、相伝書ではなく、文献資料として書写して与えたものかもしれない。
 
伊丹家本の他の二種は、弁別のため甲本・乙本としておくが、何れも水之巻のみである。一本(甲本)は、前後欠損があるものだが、本文の大半は残っており、書写内容はかなり正確なもので、早川系の古い写本と思われる。また、他の一本(乙本)は、九代大塚作太夫が天保八年に伊丹勘十郎に与えたもので、こちらは略したかたちだが、武蔵以下の伝系も記す。ただし、前記地風空三巻と同じく写し崩れが目立つものである。
 
早川系のもう一点は、鈴木家本である。これは火之巻一巻のみ。書巻末尾奥書に欠損があり、寺尾孫之丞以下の伝系部分が欠落しているが、字句表記の特徴から、筑前二天流早川系の写本と見なしうるものである。
 
上記伊丹家本に火之巻を欠くところから、その伊丹家本かと思われたが、書体・体裁ともに共通する点がないので、早川系の別の伝書である。吉田家本・中山文庫本と比較するに、ほぼ同等の正確性を保持しており、また両本の異字表記を正しく記すところもある。おそらく十八世紀後期の相伝五輪書の一巻であろう。
 
以上は、筑前系五輪書のうち早川系に属するものである。それに対し、吉田実連から五代立花峯均の方へ伝わった系統の兵書五巻、つまり立花系の五輪書は、これまで不明であった。我々も長い間探していたが、しかるに、既述の如く、最近になって越後でそれを発掘確認できたのである。
 
これは、立花峯均の孫弟子・七代丹羽信英が越後へ伝えたものに発する。これまでに確認した範囲では、松井家本・渡辺家本・近藤家本・石井家本・伊藤家本・神田家本・猿子〔ましこ〕家本・などがそれである。そのうちそれぞれ写本が複数種ある例もあった。
 
それら一連の越後系諸本の発掘の過程で、上記のように、立花隨翁本の発見に至ったのである。これは丹羽信英が、師匠立花弥兵衛増寿から、宝暦十一年九月十一日に、伝授された五輪書の一部である。
 
もとより身元と発行年月日が明らかな五輪書である。地火二巻に限って言えば、本書が最古の五輪書写本である。現在発見できているのは、地火二巻のみ。他の諸巻は今後発掘できる可能性が高い。それに期待するところである。
 
この立花隨翁本の様態は、地火二巻ともに前部に欠損があり、残存部分にも破損蝕損がある。しかしながら、幸運にも相当部分が連続して残存している。これにより、ひとつは立花系五輪書の内容が確認できること、そして、越後系諸本の淵源となった物証資料が得られたのである。その意義は大きい。
 
さてその越後系諸本であるが、まず第一の松井家本は、丹羽信英による寛政三年の空之巻と相伝証文を含む一巻である。これは現在までのところ越後系諸本のうちで最も古い部類に属する。さらに言えば、前記吉田家本の相伝証文が寛政四年であるのに対し、松井家本のそれは寛政三年で、一年早い。かような史料が越後に現存しているのである。また関係兵法史料として、丹羽信英が門人の渡部信行に与えた口授状その他も、渡辺家文書の中に発見している。
 
五輪書の渡辺家本と近藤家本は、もとは渡辺家に伝来した文書群が、分けられて二家に現存するものである。以下の異本集では、渡辺家本(地之巻・風之巻)、近藤家甲本(水之巻・火之巻)を収録した。また前部に欠損のあるものだが、渡辺家本空之巻がある。その残欠は渡辺家親類の家で発見され、それで渡辺家本空之巻は前後揃うことになった。以上の諸本は、八代渡部信行代五輪書の写しである。
 
また、近藤家本には、次代の九代大沼美正による地水火三巻があり、これを近藤家乙本として収録した。さらに、八代渡部信行相伝書の写しだが風空二巻があるので、これを近藤家丙本として収めた。以上により、渡辺=近藤家本は前後二種にまとめて、この異本集に収録した。
 
越後系として他に収録するのは、渡部信行の別の門人の系統で相伝された五輪書である。一つは、九代渡部安信のもの、もう一つは同じく九代五十嵐正一による相伝書である。
 
伊藤家本は、前者の渡部安信によるものである。これは、天保十五年に伊藤馬之助(喜左衛門顕信)に相伝されたもので、地水火三巻兵書である。地之巻に大幅な脱文があるが、他は無事である。これは三巻ともにこの異本集に収録した。
 
後者の五十嵐正一相伝のものとしては、石井家本、神田家本、及び猿子家本が発掘できている。
 
石井家本は、三巻兵書として地水火三巻がまとまっているもので、巻子本と冊子本の二種がある。我々にとって越後で最初に遭遇した越後系五輪書である。巻子本は、弘化四年に五十嵐正一が田中六次郎に相伝したもので、地水火三巻兵書である。また、冊子本は、「兵書」という当流兵法文書集に収録してあるもので、五十嵐正一が、八代渡部信行代の地水火三巻を写したもののようであり、巻子本と内容が異なるのが、五輪書研究にとって興味深い。この異本集には巻子本の地水火三巻を採録し、冊子本により字句補正をしている。
 
神田家本は、同じく巻子本、そして冊子本が二種ある。巻子本は、天保十五年に五十嵐正一が神田仁太郎に相伝したもので、地水火三巻兵書である。また、冊子本は、元本に多数校正の手を入れたもので、巻子本の異本状況が知れるという点で、これまた興味深い五輪書資料である。この異本集には、石井家本と同じく、巻子本の地水火三巻を収録し、冊子本により字句補正をしている。同時期の同人発給の文書ながら、この神田家本と石井家本には若干校異のある点が注意される。
 
なお、神田家本には、冊子本の風空二巻もある。これは五十嵐正一名だが宛名がなく、誤写のある後年の写しである。神田仁太郎は三巻兵書のみ伝授されて、風空二巻の相伝には至らず、その風空二巻は参考のため写しを入手していたようである。
 
猿子家本は、水火風空の四巻である。地之巻は失われている。ただしこの水火風空四巻は、同種文書ではない。水火二巻と風空二巻では手筆が異なり、時期も異なる。風空二巻は五十嵐正一が文久三年に田中六郎宛に出したもので、幕末の後期写本である。水火二巻は弘化三年五十嵐正一が発行した書巻の写しである。石井家本に比するに、手が異筆であり、字句表記が新しく誤写も少なくない。五十嵐正一門人・猿子淳堂所持の伝書を、明治になって余人が書写したものであろう。この異本集では、水火風空の四巻をともに収録する。
 
また、ここには収録しないが、稲荷伊藤家に伝わったものもある。これは、五十嵐正一に替ってその門人・十代猿子淳堂(一柳省一郎)が伊藤長治に伝授した三巻兵書である。こちらは上記猿子家本の系統で、明治になっての伝書ゆえ、字句表記が新しく誤写も少なくない。
 
とくに注意したいのは、当地では、このように地水火の三巻を先に伝授する慣例があったことである。石井家本・神田家本・伊藤家本のように、この三巻兵書のみで、風空二巻をともなわない事例がある。この三巻を先に伝授して、風空二巻は、さらに修行の進んだ後になって、ということだったらしい。おそらくは、丹羽信英が越後へ持ち込んだ方式であろう。
 
以上、越後系諸本は何れも、丹羽信英免許門人の一人・渡部信行の系統のものである。したがって、村上の赤見俊平有久や新発田の伊藤理右衛門遠風ら他の門人たちの系統の伝書があるはずだが、その後しばらく発掘には至っていなかった。
 
しかるに、平成二十三年になって、ようやく越後村上系の五輪書に遭遇できたのである。それがほかならぬ赤見家本であった。拝見するに、現存するのは水火風空の四巻で、地之巻を欠く。しかもその様態はひとつではなく、三種である。
 
まずは火之巻、これは丹羽信英が寛政元年に八代赤見俊平有久に出したもので、朱印はないが花押はあり、とくに筆跡からして自筆本と認めうる。上記の如く、幸い立花隨翁本の火之巻が残っているので、それと照合するに、改行位置までほぼ同じで、むろん字句も忠実に写し取っている。松井家本空之巻とともに越後系最古に属する写本であり、これを赤見家甲本としておく。
 
他方、風空二巻は、赤見有久門人の九代木村亦六時親が、文化七年に赤見有久の息子(岩治郎、襲名俊平)に出したもので、宛名は師父と同じ「赤見俊平」である。むろん空之巻には代々諸師の相伝証文を完備している。ただし、風之巻にはなぜか誤写が目立つ。確度に相違があるとすれば、異種本かというと、そうではなく、同じ木村時親による文書である。それゆえ、この風空二巻は乙本として同類に括っておく。
 
そして水之巻は、おそらく木村時親による伝書末尾を切り継ぎして、赤見有久以下の伝系を書き足したもので、最後に、有久の曾孫兄弟が伝授されたかたちである。すなわち、万延二年に五條良馬が赤見錦助へ出したことを記し、さらに異筆で、慶応三年に石黒贇廣が赤見鉉次郎への伝授を書き加えている。このように、水之巻は既存の赤見家伝書に、五條良馬と石黒贇廣が相次いで書き足したものであり、上記赤見家甲乙本と種類が異なるので、これを丙本と呼んでおく。
 
丹羽信英の赤見家甲本は別格として、乙丙本は木村時親を経由しており、おのづから写し崩れが発生している。ただし村上系異本の発掘により、渡部信行系統の写本で脱字のある箇処も、これで字句を確認して補完できる。そしてこの二系統の校合によって、越後系初期の原型も復元できるのである。
 
ところで、この赤見家本より数ヶ月前に、村上系の別の写本が確認できていた。これは巻子本伝書ではなく冊子本で、水之巻のみ。表題に「兵法水之巻」とある。手控えとみえるもので、赤見有久の弟子・木村時親が文化三年に伝授したものを、だれかが翌文化四年に写した写本である(表紙に「寅ノ五月」とあるのが不審だが、文化四年なら丁卯)。
 
裏表紙に「澤渡氏」と記名がある。そこから、さしあたりこれを「澤渡家本」と呼んでおく。越後村上の内藤家の家中に、兵術家の澤渡氏がある。ただし目下、澤渡氏が木村時親の門人だったかどうか、それは確認できない。木村の門人でなければ、澤渡氏は兵術家なので、おそらく、木村時親発行の伝書を写して、自家資料としたものであろう。
 
この澤渡家本は、そうした写しのゆえか、越後系の他の諸写本に比して、写し崩れがやや多いものである。ただし、越後二天流村上系の写本として稀少例なので、ここに収録しておく。
 
さらに話を戻せば、現在までのところ、越後系写本の祖本たる、丹羽信英相伝の五輪書完本は未発掘である。越後系最古の写本では、松井家本が丹羽信英による空之巻と相伝証文のみ、赤見家甲本が丹羽信英の火之巻のみ、という状況である。
 
それゆえここでは、越後系五輪書を提示するにあたり、上述の如く、五巻それぞれについて、現在までに発掘したものを収録した。以後新規発掘があれば、適宜採録したいと考えている。
 
なお、最後に付け加えれば、近年の越後調査で発掘したものに、大瀧家本がある。これは、かつて大瀧雪邨が「村上藩武芸史の研究」(「郷土村上」三号・昭和四九年)において、注記にその名を記したものであり、かねがね一見したいと思っていた一本である。我々がこれに遭遇できたのは、ようやく数十年後の越後調査のおりである。
 
これは「宮本武蔵六十余度勝負自認書」という一種奇体な表題をもつものだが、内容は五輪書五巻である。そして本書には、「五尺木刀伝来之巻」「誓約」という越後二天流固有の文書を巻末に収録している。しかるに、これが筑前=越後系五輪書かというと、そうではなかった。
 
これは、おそらく、門外の好事家が異本を校合したもので、当流内部の相伝書ではない。内容を見るに、底本は筑前系ではなく、肥後系の五輪書である。加えて、越後の三巻兵書を参照して校訂したふしがある。というのも、地水火の三巻は越後系伝書に類似の箇所もあって、肥後系五輪書ではありえない文言がある。しかるに、風空二巻になると、越後系の文言特徴が消えて、肥後系特有の部分しかなく、またかなり写し崩れが目立つからである。
 
このことから、大瀧家本は越後で発掘したものだが、底本は筑前=越後系五輪書とは別系統の、肥後系流出本によるものである。とくに円明流系の狩野文庫本との類似もあり、その系統の写本を底本にしたものであろう。ただし、肥後系五輪書を底本としつつ、越後の三巻兵書を参照しているというハイブリッドな特徴を有する点、珍しい一本であるとして、ここに収録しておく。

 

  以上述べ来たったところを整理するために、以下に五輪書諸写本の伝書経路を示しておく。五輪書諸写本の系統派生図である。
 
ところが、その伝系は、筑前系諸本でしか明らかではない。肥後系諸本はどれも出所不明のものである。それゆえ、肥後系については、校異偏差の特徴あるいはその度合から帰結されるところの、諸本の親近・疎遠の関係図でそれを代用する。内容の偏差によって系統派生図を模したものであるから、実際の経路とは別のものである。ただし、相伝五輪書をもたぬ肥後系諸本の位置づけを図示するには、この方法以外にはない。
 
したがって、むろん、下に示す系統図は、筑前系と肥後系では意味が異なる。この点、誤解なきように。なお、肥後系模式系統図の(写)とあるのは、その間に少なくとも一回以上の書写があった可能性を示す。何れも、早期写本からの距離が相当あると見なければならない。

 

 

 現在までのところ、五輪書の現存写本の状況は、あらまし以上の如くである。今後、初期の五輪書が発掘される可能性は、まだ殘っている。我々はそれに期待したい。

 改めていえば、五輪書の現存写本によるかぎり、基本的な底本とすべき一本が存在しない。したがって、五輪書について、「定本」「決定版」を称するのは、書肆の惹句以外の何ものでもなく、根拠なき主張、ありえざる妄言である。五輪書は、その異本間にしか、本来の五輪書の姿を瞥見せしめるものはない。その原本を欠くという条件下、五輪書というテクストは、それじたい、《inter-textual》なのである。

 それゆえ、ここでは、諸本を異本としてそのまま提示しておく。我々の研究作業において、諸本はあくまでも異本資料としての扱いであるため、注釈・現代語訳は、ここではとくに付さない。必要とあれば、五輪書読解本編の五輪書研究会のテクストとその註解と現代語訳を、参照していただけばよかろう。

 なお、掲載諸本は近世文書のことゆえ、原文には基本的に句読点や濁点はない。それでは現代人には読みにくかろうという老婆心が、不及是非、勝手ながら、句読点や濁点を付した。また、諸本校異のうち有意なものについては、色分けして相異箇処を示した。照合の参考にされたい。