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五輪書 解題

 宮本武蔵といえば、五輪書、五輪書といえば、宮本武蔵。当時の他の兵法者の著書を何一つ挙げることができない者でさえも、宮本武蔵の五輪書の名は知っている。それはある意味で異常な事態であって、そのように世間の相場が決まっているのも、不思議な歴史の成り行きである。

 五輪書は宮本武蔵が書いた兵法教本である。五輪書は「ごりんのしょ」と、「の」を入れて読む。しかし武蔵は、「五輪書」という題名の本を書いたのではない。「五輪書」というのは、後人が勝手にそう呼ぶようになったまでのことで、武蔵本人はこの著作に「五輪書」というタイトルを付したわけではない。

 これが「五輪書」と云って通用する一般的通称になったのは、やはり明治以後である。江戸時代までは、おおむねこの著作は「五巻の書」とか「兵書五巻」とか、あるいは「地水火風空の五巻」とか「兵法得道書」とかさまざまな名前で呼ばれていた。そのなかで、肥後でこれを「五輪書」と呼ぶ例もあったが、それが一般化していたのではない。むしろ「五輪書」と呼ぶのはごく限られた範囲のことで、依然としてこの著作は別の名で呼ばれ続けたのである。

 周知のごとく紫式部の『源氏物語』にしても、著者がそのタイトルを付したわけではない。これも「源氏の物語」「光る源氏の物語」「紫の物語」「紫のゆかりの物語」などさまざまな名で呼ばれていた。それを江戸時代には漢流に「源語」「紫文」とも呼ぶようになった。したがって、書物のタイトルは、後世の他人が命名するものという伝統の内部に、武蔵の「五輪書」もあったというわけである。

 筑前系武蔵伝記『丹治峯均筆記』が記すように、もともと武蔵はこの五巻の兵法教本を完成させて死んだのではない。したがって、書巻全体を指す書名があったわけではないし、また現存写本のように五巻の立派な装幀の巻物が遺されたのでもなかった。

 ただし、何もタイトルがなかったかというと、そうではなく、武蔵は五巻のそれぞれに「地・水・火・風・空」の名を付けていた。全体のタイトルはないが、各巻の名はすでにあった。したがって、後人はまずこれを、「五巻の兵書」とか「兵書五巻」と呼んだのである。

 どうしてそれが「五輪書」と呼ばれるようになったかというと、「地水火風空」が宇宙を構成する五元素であって、武蔵はそこから書巻の名を得たのだが、しかしそれよりも、後に述べるように、まさにこれが五輪塔の構成要素、各パーツに割り振られた名だからである。言い換えれば、武蔵は書物としての五輪塔を作ったのである。五輪塔は、申すまでもなく墓の石塔である。それゆえ我々は、武蔵のその遺志を汲んで、この著作を「五輪の書」を呼ぶのである。

 五輪書の自序部分によれば、武蔵六十歳のとき、寛永二十年(1643)十月、この五輪書を書き始めたらしい。執筆にあたって、十月上旬、熊本西郊の岩戸山に登って祈願した。ここには岩戸観音として知られる観音霊場があり、霊巌洞という窟がある。そういう名所なので、ここで武蔵が五輪書を書いたという伝説が後世発生した。

 それはともかくとして、武蔵は、寛永二十年十月に本書を書きはじめた。その頃は、熊本の屋敷には居らず、熊本からほど近い村に別荘でもあって、そこに住んでいたようである。しかし、翌寛永二十一年/正保元年(1644)の夏ごろに発病して、執筆が思うようにいかなくなった。医師が派遣され治療を受けていたが、病いはますます悪化し、在所では治療に限界があるから、殿様の細川光尚や家老の長岡興長はじめ、皆が熊本へ戻れというのに同意せず、散々周囲を手こずらせたあげく、武蔵は同年十一月になって熊本の屋敷へ連れ戻されている。

 武蔵は死ぬまで書稿に手を入れていたかもしれないが、このような事情から、実際には、寛永二十年十月からその翌年夏もしくは秋ごろの発病までの、一年足らずが本書の執筆期間であろう。とくに寛永二十一年の十一月以降は、執筆はほとんど不可能になっていたと思われる。

 それから半年後の正保二年(1645)五月十九日に武蔵は死ぬのだが、その死の七日前に、本書を門弟の寺尾孫之丞に託したという。本書各巻に記された宛先と期日からそのような伝説が生じたのだが、ただ、この寺尾孫之丞以外には授与された者がいないのは、本書が完成した書巻ではなく、唯一部だけの草稿だったからである。

 もとより、五輪書は未完成の書である。武蔵が五輪書を、心血を注いで「書き上げ」て死んだ、という近代の伝説は、むろん根拠なき謬説以外のなにものでもない。

 

 さて、宮本武蔵の五輪書は、あまりにも有名な彼の著作である。戦前から岩波文庫にさえ入っている古典である。既に小林秀雄が指摘したように、この書は反精神主義的なある種の実用主義・実践主義の思想であって、さらに言えば近世的な合理的精神の誕生を告知するものであった。少なくとも日本思想史を語るかぎり、無視して通れぬ思想家として、宮本武蔵という存在がある。

 とはいえ、これの何たるかが十分知られているわけではないし、そのうえ、その内容たるや、これまであらゆる誤読の浪に洗われて来て、すでに分厚く手垢の付着したものになってしまっている。

 しかも、今さら何を五輪書なのか、といった反感は、我々の実見しただけでも、かれこれもう四十年前には物書き一般にあったのである。こうした五輪書への反撥は、あまりにも通俗的な五輪書理解と五輪書そのものとを混同したものであった。あるいはオーソリティ一般への反撥でもあったのだし、それにはエスタブリッシュメントたちが武蔵のこの主著を愛好する、といった傾向も存在したのである。

 これが皮肉でなくて何であろうか。剣道に限らず、武道一般の担い手がひとしく右翼的であるというのは、事実であるとしても、

   ―― Right is right.(「右」 は「正しい」)
という伝統的なナショナリスト・ポジションの範囲内にすっぽりと納まるのが、武蔵というわけでもなかった。この「右」の武蔵理解に対しては、少なくとも日本の古典的伝統の中では、「右」より「左」の方が上だという冗談も可能だが、武蔵その人は、右でも左でもない、左右二刀の遣い手たることを宣言していたと述べれば十分であろう。明らかに武蔵は、彼の同時代において逸脱者・制外者として生きたのである。

 武蔵の五輪書は、常勝を謳う実践的な実用本のふりをしているが、書かれた当時の状況からすれば、実は途方もない非実用本だということは、一読すれば明らかである。武蔵とは、時代遅れで登場した暴力の思想であり、いわば秩序世界に安住する何人も受容不可能なハードな核心を有していた。

 彼の五輪書の主題とは何か?――それを一言でいえば、殺人という「至高悪」の問題である。彼はそれを観念的な言葉ではなく、いかに勝ちを制するか、いかに敵を打ち殺せるか、という技術論として語ることによって、最終的に武の精神主義、剣のフェティシズムへの道を、あらかじめ封鎖していたのである。

 それゆえ、このかぎりにおいて、五輪書ほど誤読されてきたテクストは存在しないと言ってよい。我々の見る限りにおいて、五輪書をまともに読めた者は殆ど皆無に等しいし、今日ますます誤読の悪弊は嵩じているのである。そしてまた、今なお『葉隠』と五輪書を同列に論じて憚らぬという傾向は存続しているのである。そうである以上、今こそ五輪書を改めて正確に読み直すことが必要なのである。

 しかしながら、問題は五輪書自筆原本が現存するわけではないことだ。今日、目にしうる現存テクストは何れも写本であって、武蔵の原本ではない。その写本も数が多い。全国に散在しまた死蔵されている五輪書写本は、それこそ数え切れないほど存在するだろう。

 しかも、我々が確認しえた諸本に限っても、異本間の字句の相違は少なくない。これは伝写の過程で誤写があったということである。それは決して珍しいことでなく、伝写された古文書類一般に見られることである。五輪書にしても、本来は、認可された特定の者に限って書写して授与する、ということで伝えられてきたのである。

 五輪書のケースでは、武蔵流兵法一流相伝にあたって、師匠が五輪書を書写して、それを弟子に授与するものであったようだ。弟子は師匠が書写したものを頂戴するのである。それが、各巻順次次第を追って、ということもあれば、五巻一括伝授というばあいもありえた。

 しかるに五輪書には、上記の相伝形式をとらず、相伝伝授の体裁の整わない非正規版写本の方がむしろ多い。これはいかなる仕儀かといえば、こと五輪書に限って、それが武蔵の著述ということで、門流外に流出して、伝写されていくという経路を辿ったのである。五輪書写本は、多くがこの非正規の海賊版(pirated edditions)である。

 ともあれ、現存五輪書写本間には異なる点が多すぎるほど多い。それならば、そのうち最も信頼できる一本をもって武蔵五輪書として扱えばよいのだが、正本として存在を主張しうるものがない。しかも問題は、実際には、史料として粗悪なテクストしか「五輪書」として流通していないことである。あたかもそれ以外のヴァージョンは、読者の眼から遠ざけられているかのような事態なのである。

 具体的にそうした支配的なテクストの名を挙げれば、現行の岩波版五輪書(『日本思想大系61 近世藝道論』渡辺一郎・校訂)である。ここに武蔵の「五輪書」を収録しているが、それは「近世藝道論」という巻である。数寄者(茶道家)、能芸者、連歌師あるいは絵師といった諸芸の一つが武芸者である。兵法者・武蔵が他の諸芸と同じく、芸者、芸能者であった、そのかぎりおいて、この編集は正しい。

 ところが、同書に底本として収録されているのは、細川家本というばかりのテクストで、我々の所見では、とうてい準拠できない一写本なのである。なぜなら、その書写文には誤写もあれば脱文もあるという後発的写本であり、またその体裁は、正規の相伝文書の体をなさぬものであり、まさに上記の海賊版の末裔たる特徴を示しているからである。


 しかし、面白いのは、四十年ほど前から、武蔵から五輪書を授けられたという寺尾孫之丞が、五輪書を編集しただけではなく、それに勝手に手を入れた、創作した、という「疑惑」が一部に出ていることである。これは妄想というべき疑惑だが、戦後のその事例のひとつは、上記の岩波版五輪書を収録する『日本思想大系61 近世藝道論』の解説である。

 もはや笑殺すべき、埒もない過去の戯論だろうが、従来、これに応接した五輪書研究が出なかったのも問題である。それゆえ、いま改めて、この偽書説に付き合ってみれば、――西山松之助の論説は、寺尾孫之丞が五輪書を創作したとのことである。これは、ある連想による以外には、その理由にはまるで根拠がない。

 すなわち、たまたま、同書(近世藝道論)所収の茶書『南方録』が立花実山の実弟・立花専太夫峯均によるいわゆる「寧拙本」だということもあるのだが、その『南方録』が立花実山編纂による偽書であるという説が戦後興行されて、すでに動かない通説にまでなっている。これは近世文書に対する無知による粗雑な断案なのだが、西山松之助の論説は、何と『南方録』偽書説を、五輪書に「適用」したのである。つまり、『南方録』における立花実山の役割を、五輪書において寺尾孫之丞が演じたというわけである。むろん、このアプリケーションは、たんなる連想からくる粗忽な着想にすぎず、根拠なき空想にすぎない。

 第一に西山が挙げるところの、原本がなく写本しかないという事態は、いくらでも他に例があることで、寺尾孫之丞の創作云々とは何の関係もない。それはたとえば、源氏物語の原本が存在しないという理由で、源氏物語を偽書だとするのと同じ戯論である。

 第二に、柳生宗矩の『兵法家伝書』と比べて五輪書の実技の記録が冴えていないと述べて、武蔵の文章ではないと言いたいようだが、それは戦前言われていた批判の内容を反復しているにすぎない。欠陥の多い細川家本の重箱の隅を突付いた的外れの批判であった。しかもこれは、五輪書が極意秘伝を語らず、初歩から教える普遍的な兵法教本として書かれたことを知らぬ者の言い草である。

 いわば「剣禅一如」のイデオロギーがあって、柳生宗矩流の心法論でなければ程度が低いという思い込みが、かつて支配的だった。しかし、柳生宗矩流の活人剣は、禅と剣の結託による精神主義的志向のようにみえるが、その実、この精神主義は政治警察の論理からするものである。いわば、支配秩序のための政治的イデオロギーの枠組に他ならず、むしろ実戦兵法から遠いのである。

 第三にいう、武蔵の身体の生理的条件とは、何が言いたいのか、意味不明の理由である。武蔵は清書なきうちに死病生じ、「五巻之書」を草案のまま寺尾信正に与えた、という『丹治峯均筆記』の記事について言及がないところを見れば、それも知らないものとみえる。

 第四にいうところの、兵法観の時代による落差、というのは、文脈から察するに、決闘勝負の殺人刀から柳生宗矩流の活人剣への変化という図式によるものらしいが、そんな時代イメージはフィクションである。しかも、武蔵の五輪書にある他流批判や反時代的なスタンスをみていない。

 ようするに、西山の五輪書偽作説の理由そのものが、どれも成立しないのである。しかも、「主君細川忠利の命によって、武蔵がみずから整理記録した『兵法三十五箇条』」などというタワ言を吐かす。五輪書の前に兵法書が書かれていたというわけだが、後人による文書以外に、どこに、そんな証拠があるのか。「三十五箇条」というが、『武公伝』の「三十九箇条」の兵法書はどうだ。ようするに、肥後兵法書の根本的問題を知らずに書いているのである。

 そのうえ最後に、寺尾孫之丞の「創作」は、万治から寛文ごろまで(1660年代)に書きあげたという憶測を開陳しているが、これはたんに無知を露呈しているにすぎない。たとえば、寺尾孫之丞から柴任美矩への五輪書相伝が承応二年(1653)だった、というわずか一例の事実だけで、その無根拠が明白になってしまう底のものである。

 ようするに、武蔵関係史料をろくに読んでもいない素人談義、前後の事情を何も知らずに書いているのである。おそるべき無知と云うべし。

 

 しかしながら、かたや同書校訂者の渡辺一郎の論(「四 『五輪書』の問題点」)はといえば、中途半端な恰好で西山偽書説の尻馬にのったもので、その内容たるや、戦前の粗悪なテクストを読んだ吉田清顕や黒田亮の説を引用反芻しているだけである。五輪書研究とは無縁のものである。

 もちろん、その引用にしても、たとえば吉田清顕が翌年の『眞傳宮本武藏』において、五輪書の内容が蕪雑だという前著の論を反復しつつも、《だが、ここで特に留意しなければならないのは、この蕪雑と見られ、杜撰と思はれる所に、却つて武藏の思想の特色が存在してゐることである》と書いて、それなりのフォローをしている。渡辺はそれには頬かむりして、こうした半端な引用をもって吉田の所説を歪曲している。

 あるいは、渡辺の解説は、「兵法口伝」「二刀流口訣条々覚書」なる二文書を引いて、そこにある五巻の兵書(五輪書)は「無益の長文言也」等々という評論に読者の目を向けさせるが、もちろんこれがいかなる流派の文書たるか、いかなる文脈で書かれているかも知らずに引用している。

 我々の知見の範囲では、この口伝二書にはいくつか異本がある。渡辺が見て文言を写したのは、その引用文の字句の特徴からすると、戦後藤田西湖が入手して保有していた写本のようである。幕末の写本で、誤字脱字等、写し崩れのある写本である。

 この口伝二書については本サイトで別に翻刻解説が出るであろうが、具体的に知る者がほとんどいないのが現状であるから、ここで若干述べておけば、――これは元来は、越後へ筑前二天流を伝えた丹羽信英門下の文書である。渡辺が引用したのはそのうちの一本で、丹羽信英の曾孫弟子・十代伊藤顕信が師匠の渡部安信から伝授されて伊藤家にあった文書を写したもので、それが廻りまわって西湖文庫に納まったものらしい。

 この口伝二書は、本来不立文字の口伝を文書化したという変った代物である。筑前二天流なら、口伝は、いわゆる「三ヶの大事」という五輪書にある口伝以外にないはずなのに、このように相当分量の、しかも「文書化された口伝」が、一種の「裏文書」として発生したのである。

 この文書全体を見るに、抄物(書物)を廃して面授口訣へシフトしたいとする、口伝主義的な密教性が濃厚で、武蔵はおろか丹羽信英の二天流からしても、かなり逸脱もしくは変態している。たとえば、右掲のごとく、孫子の風林火山に擬して、弁財天の徳智やら大黒天の徳仁やら摩利支天の徳勇やらと語るのだが、まことにこれこそ、五巻の兵書を無用の長文言だと評した文書の「理論」なのである。

 むろん、こんな小賢しい理説が武蔵の兵法道統から出てくるわけがない。まさに他流の文書のごとくである。他流派の理論的色合いが顕著なので、これをそのまま武蔵門流文書と見なすことはできない。いわば、この口伝文書が語る理論の多くは凡庸なものだが、そればかりか、およそ武蔵的でない。五輪書の明解な理論に逆行して、ひたすら奥秘密教化に走っている。それゆえ、「無益の長文言」とは我事ならん、と揶揄されるところである。

 こうした類の文書が丹羽信英門下の一派から発生したのは、それ自体興味深いところだが、もちろん、こんな口伝の陰口があっても、越後の門流では五輪書はきちんと相伝され、明治に至るも五輪書の相伝が存続したのである。たとえば《至極の兵書五巻》と記されるごとく、五輪書は貶価されたのではなく、事実はむしろ逆であった。

 もとより岩波版解説者の渡辺は、そのような事情を知らず、またこの口伝二書がいかなる位置づけの文書たるやも知らず、もちろんこの文書の異本の所在も知らず、ただ、たまたま見かけた写本から、自分の言い分に合う部分だけを抜粋紹介したのである。弁財天の徳智だの大黒天の徳仁だの摩利支天の徳勇だのと語る文書に、この無益の長文言という評言があることを明記しない。申すまでもなく、それではあきらかに不公正な史料使用である。

 渡辺はこの口伝二書の文言を引用するのだが、それは前の吉田清顕の説の引用と同じく、片言の歪曲的引用である。その言論がいかなる文脈で書かれたのか、あるいは、その文書そのものがいかなる特徴や位置づけを有するのか、それを抜きにして半端な引用をしている。ただしそれも半分は、武蔵とその門流について渡辺が無知だったゆえの所業である。

 実際、この渡辺の引用文は、その後、あちこちで孫引きの再引用が繰り返された。渡辺と同じくこの資料の何たるかも知らぬ連中が、五輪書は武蔵門流でも評価が低かったという筋書で援用するという始末であり、聞けば、これが弁天さまや大黒さまを信仰する文書だとも知らないのである。しかも連中は、原本に当ってもみないから、渡辺の誤読文字をそのまま転記している。そういう無知な孫引きをする再引用者の輩出において、いまだに渡辺の誤解生産は効力を発揮して、新たな愚見愚行が再生産されているのである。

 そもそも、日本思想大系本のこの渡辺の解説をみるに、新陰流については多少知ってはいるようだが、武蔵や五輪書のことは全く知らずに書いているのである。しかも、武蔵の道統について肥後系史料しか知らないというのは、さておくとしても、それら史料の原典を当たっているのではなく、既刊書物所収の翻刻文しか読んでいない。

 ようするに、武蔵と五輪書の研究に関して、まったくの素人なのである。武蔵の弟子に、寺尾孫之丞・同求馬助・古橋惣左衛門の三人の名を挙げるところからすれば、古橋系の狩野文庫本の五輪書も見ているらしいが、狩野文庫を覗いて原本を見たというのではなく、渡辺のケースでは、山田次朗吉翻刻本の孫引きである。

 そうして何と、寺尾孫之丞が、柳生新陰流の剣術遣いだと妄想してしまう。もちろん、渡辺は、寺尾孫之丞が生涯仕官せず、二百石の禄を食んだこともない、という事実を知らない。あるいは、『二天記』が寺尾孫之丞系の伝承だと、突拍子もないことを言い出す。『二天記』を書いた豊田景英が、(寺尾求馬助系統村上派の)村上八郎右衛門の弟子だったということすら知らないのである。

 実は、こういうレベルの者が、岩波版五輪書の校訂者なのである。もとより、五輪書異本間の横断的照合という最低限の手続きさえ実行していない。それゆえ、テクストとしての細川家本の位置づけもできていない。校訂者としてありうべからざる杜撰と謂うべし。

 さらにまた、以下の我々の読解に明らかなように、テクストに関して胡乱な注解を陳列している。いわば、「五輪書を柳生流に読む」という滑稽な振舞いを演じている。そこから判断すれば、渡辺が五輪書を読めているとはみえず、そもそも五輪書校訂者としての適格性を疑わしめる。


 かくて、以上の岩波日本思想大系『近世藝道論』の解説文に関する結論を言えば、寺尾孫之丞が何者か、それすら知らない環境で、この岩波版五輪書の解説が書かれているのは明らかである。その最たるものは、寺尾孫之丞を柳生新陰流の遣い手にしてしまう渡辺の珍説だが、他方、上記の通り、むろん西山の五輪書偽作説には根拠はない。

 五輪書が事後創作されたものなら、現存五輪書は、もっと完成された体裁をもったであろう。五輪書が未完成文書だということと、寺尾孫之丞が五輪書を創作したという憶測は結びつかない。我々の見るところ、五輪書は整序されていない未定稿状態を露呈したままだから、むしろそれは、寺尾孫之丞は創作などせず、武蔵の草稿を整理編集したにとどまる、ということの証拠である。五輪書について何も知らずに、西山の五輪書偽作説を反復する亜流がなお消滅していないとすれば、このことは改めて強調しておいてよいだろう。

 皮肉なことに同書(近世藝道論)には、五輪書偽書説を誘発した『南方録』、いわゆる寧拙本が収録されている。つまり、兄・立花実山から書写を許された立花専太夫峯均による写本である。――と云えば、すぐに思い当たる読者もあろうが、この立花峯均たるや、筑前における武蔵流兵法、二天流の五代、すなわち新免武蔵守玄信→寺尾孫之允信正→柴任三左衛門美矩→吉田太郎右衛門実連→立花専太夫峯均と次第する流系に属する者である。

 立花峯均の著述『丹治峯均筆記』には、五輪書成立由来も、それが草稿のまま寺尾信正に伝授されたことも記されている。これが五輪書成立研究における肝腎の史料なのだが、西山ら五輪書偽作説論者はそれを知らず、引用もしていない。それどころか、立花峯均ヴァージョンたる寧拙本『南方録』を収録した同書(近世藝道論)に、五輪書偽作説を付して五輪書を収録しているとは、因縁じみたまったくのジョークとしか言いようがない。

 立花峯均も、まさか数世紀後に、こんな滑稽が生じるとは、夢にも思わなかったにちがいない。ようするに、同書(近世藝道論)の存在そのものが、武蔵研究史における爆笑シーンなのである。

 そもそもこうした戦後の五輪書偽作説以前には、昭和までしばらくの間、細川家本が武蔵自筆原本だと信じられていた、という驚くべき事態があった。五輪書偽作説は、そんな事態への単純な反動である。戦後の一時期、「剣聖武蔵」への反撥と偶像破壊が流行したという時代の空気もあったことは記憶しておいてよい。こういうことはよくあることで、謬説はそれを補正しようとするまた別の謬説を生むのである。

 

 あるいは、これに関連して、狩野文庫本の末尾の「私曰」という付記のこともある。これは古橋惣左衛門の「手筋の者」という編纂者が付記したもので、十八世紀後期の作文とみるべきものであるが、そこには、「此書物」ということで五輪書に関する記事がある。

 狩野文庫本には脱字誤字があって、この文章にも、あちこちそれがありそうなところなのだが、この記事から読み取れるのは、――武蔵は五月十九日に死んだが、その前に十二日に、三人(寺尾孫之允、求馬助、古橋)を呼んで、「日ごろ雜談したことは、定めて覚えていることであろう。おれには、この書物ということはない。この書物一見の後、焼き捨てるべし」と申し渡されたそうな。――というものである。

 つまり、この書物(五輪書)を一見した後は焼き捨てよ、というのが武蔵の遺言だというらしいのだが、これでは焼却すべき文書が武蔵の遺言に背いて残されたということになってしまうし、また、そんな焼却すべき文書に、どうして寺尾孫之丞・古橋惣左衛門連名の宛名があるのか、ようするに話が矛盾しているのだが、この付記を書いた当人は、そんなことは気にしていないようである。

 そもそもが、これは「由」とある伝説記事である。とり立てて、云うべき内容でもない。しかし、この「おれには、この書物ということはない。この書物一見の後、焼き捨てるべし」という科白が、後に一人歩きしてしまったのである。

 つまり、武蔵が焼却しろと言ったのだから、その書物が残っているはずがない。したがって、現在五輪書として残っているのは、偽書だというわけである。

 もう一つは、狩野文庫本の記事、《於我、此書物と云事はなし》という文言を、『武藝叢書』(廣谷雄太郎編・大正十四年)が、「我書物と云事はなし」と誤記した。すると、狩野文庫本の原文も見ていない者らが、この『武藝叢書』の字句を採り上げて、武蔵は、自分には著書は存在しない、と明言していると強弁したのである。むろん、前後の文を見れば、そもそも焼却すべしと遺言された武蔵の著作があった、ということは明らかなのだが、そんなことは無視するのである。

 それもこれも、この狩野文庫本の付記から発したことである。この付記が、伝説記事を書きとめたのが、どういうわけか、寺尾孫之丞が五輪書を偽作したという奇怪な説の根拠となったものである。実際に、狩野文庫本の付記に、寺尾孫之丞が五輪書を書いたと記しているのならまだしも、そんなことは付記には書いていない。この付記から、寺尾孫之丞が五輪書を書いたという結論を導き出すことはできない相談である。

 むしろ、この伝説の内容は、この書物を一見の後、焼却しろと武蔵が遺言した、ということにすぎず、これは尾張円明流の、「十智」という文書にまつわる伝説と同型のものである。焼却すべしとの遺言にもかかわらず、これが残った、という説話パターンである。

 ともあれ、他の円明流系五輪書にはこの記事はない。狩野文庫本の系統の特異記事である。それゆえ、本書記事を根拠にして五輪書の成立を語りえないのは申すまでもない。

 事実、古橋系統の流派は各地に存続したが、その系統の相伝五輪書はない。ということは、この狩野文庫本の場合、後世になって古橋の手筋の者が、どこかで五輪書を写して、古橋の名を寺尾孫之丞の名の脇に付け加えたものであろう。実際、狩野文庫本はかなり写し崩れのある写本であり、巷間流布していた写本を写したもののようである。

 しかるに、史料批判もできない者らは、どの段階でこの付記が発生したか、この伝説に信憑性はあるのか、そんなことも意に介さない。寺尾孫之丞偽作説とは、ようするに無知による強弁なのである。この種のものは放っておけば消滅するもので、さすがに『武藝叢書』翻刻の五輪書が信用をなくしてしまうと、だれも皆、このことを忘れてしまったのである。

 こうした偽作説のもう一つの論拠は、五輪書の文章が拙劣だという見方にあった。いわば、武蔵にあるまじき文章ではないか、というところから話がはじまったのである。この点はどうか。

 たとえば、吉田清顕『二刀流を語る』(昭和十六年)には、五輪書の文章が雑然としていて整理されていないこと、重複があったり脈絡を欠く事項の羅列があること、誤字や當字があり、言葉の使い方が変テコだ、といったような感想が述べられている。

 もとより、吉田清顕以前にも、たとえば直木三十五の五輪書悪文説があった。直木は武蔵の偶像破壊の先駆者と言うべきで、五輪書の悪文たるを公言する嚆矢となった。吉田はその尻馬に乗った感もある。ただし、細川家本の粗雑な翻刻文だとしても、いちおう五輪書を読んだ率直な感想なのである。そのかぎりにおいて、吉田は正しい。

 しかし、吉田が知らなかったのは、五輪書が未完成の草稿だったことである。文章の整理が行き届かないのは、これが清書された完成稿ではなかったためである。寺尾孫之丞の編集によってまとまった書巻の体裁にはなったが、もちろん編集者・寺尾孫之丞は、書き込みや挿入文の位置もかまわず、忠実に草稿を転写したので、かえって混乱したままになったのである。

 あるいはまた、誤字や当て字があり、言葉の使い方が変だ、という。これは、吉田の古文教養の問題もあるが、やはり吉田が見た五輪書テクストに問題があったと言うべきであろう。ようするに武術叢書版であれ岩波版であれ、既刊五輪書の翻刻文しか見知らぬ者には、その誤字脱字には気づかないから、文章の混乱がある、拙劣な文章だと見える。既刊五輪書翻刻文が五輪書そのものだと思い込んでいるのだが、そういう錯覚は、それが錯覚だとは知らない錯覚なのである。

 とはいえ、吉田清顕の感想は、既刊本五輪書をまともに読んだ上での率直なものである。五輪書を語る者の多い近年でさえ、このように率直な批評をする者はいない。ようするに、五輪書テクストをまともに読んでいないのである。原文をまともに読まずに、やたら讃辞を述べる連中が多いのである。

 ようするに、五輪書の文章については、毀誉褒貶があった。けなす者があれば、ほめる者もあった。けなす者は戦前からあった。したがって戦後は、ほめるにもシニカルな留保が入るようになった。戦後ほめてみせたものでは、たとえば、司馬遼太郎(「真説宮本武蔵」)がある。これなど一見絶賛に近い事例だが、これはまるで的外れな評言である。剣聖武蔵偶像破壊の時代からすれば、これはたんなる賞賛ではなく、半ばほめ殺しであるが、それでも、やはり五輪書をろくろく読んでいない者の科白である。ほめる者があるとしても、かようなありさまである。何ともはや、けなす者とほめる者のその両方が、五輪書を読めていないのである。

 上記の吉田清顕のような意見は、五輪書には意味が通らない不明瞭な文章が少なくない、文章として拙劣なものだ、というようなことである。これは、若き司馬遼太郎の笑止な文章鑑定よりはまだマシな客観的批評と云えるものの、しかしながら、五輪書が草案のまま残された文書だという書誌学的事実を知らないのである。

 しかも、よくよく見てみれば、これらの読み手が読んでいるのは、厳密にいえば「五輪書」なのではない。何とそれは諸家が細川家本や狩野文庫本を翻刻した刊本でしかない。むろん、他のヴァージョンの諸写本を当ってみることすらしない怠惰というより、そもそも五輪書なる史料に無知な批評であった。既刊五輪書の粗悪なテクストを読んでいるかぎり、武蔵の五輪書を読んだことにはならないのである。

 五輪書ほど、にぎやかに論議の多かった兵法書もあるまい。五輪書絶賛論、それに対し五輪書悪文説、なかでも寺尾孫之丞偽作説等々、ようするに、今日に至るまで、まともな五輪書論など出たためしがなかった。五輪書をめぐる言論状況には、まことに劣悪なものがある。

 

 少しく脇道に入ったが、ここで本道にもどる。戦前戦後を通じてもっとも流布した五輪書テクストは、岩波版五輪書であるが、我々はそれを、何らかの優越性のある「五輪書」テクストとして認証することはできない。岩波版刊行によって特権化された細川家本よりもすぐれた五輪書写本は他にいくつもある。細川家本に特別なステイタスを賦与するのは明白な錯誤である。とはいえ問題は、武蔵のオリジナルに「直接する」ほどの格別のヴァージョンが現存するわけではない、という事態なのである。

 しかし、武蔵のオリジナルが現存せず、写本しか存在しないとしても、それで一件落着するわけではない。紫式部自筆の源氏物語がないと嘆いているのと同じ愚劣だからである。五輪書研究である以上、武蔵のオリジナルを探究するアプローチに取りかかる必要がある。そのためには、諸本を広く漁渉して比較対照し、より原型に近い文言を想定しつつ、「原五輪書」の復元を試みる作業がなくてはならない。

 しかしながら、諸本を広く漁渉して比較対照を行うにしても、従来の研究には明らかに制約があった。それというのも、戦前より知られていた細川家本や狩野文庫本に加えて、楠家本や丸岡家本が発掘されるようになっても、依然としてそれは、肥後系の写本であり、しかも体裁形式の整わない海賊版の子孫であるという点では、変りなかったからである。

 つまり、その奥書をみれば、肥後系写本のステイタスが知れるのだが、いづれも寺尾孫之丞が相伝した五輪書の形式を失っている。つまり五輪書相伝とは無縁な環境で、伝写を繰り返してきたものである。現存肥後系諸本は、門外流出後発生した海賊版写本を元祖とするものである。

 現在までに発見されている肥後系諸本には、そのような非正規版しか存在しない。それはなぜかというに、肥後では寺尾求馬助の系統が主流となり、本来五輪書を独占的に伝授した寺尾孫之丞の門流が衰亡したからである。

 もとより、寺尾求馬助は、兄孫之丞から五輪書を相伝されたのではなかったから、求馬助の系統には本来海賊版しかなかった。孫之丞の系統から門外へ流出した写本を元本として、以下書き写していたのである。中には肝心の「寺尾孫之丞殿」という宛名さえ欠くものがある。現存肥後系諸本の体裁を見れば知れるように、そんな非正規ルートで、諸本が系統派生したのである。

 これに対し、五輪書を相伝ツールとしてきたのは、筑前二天流の系統である。こちらは寺尾孫之丞に発する門流であり、寺尾孫之丞から柴任美矩ヘ、そして柴任が吉田実連に一流相伝した結果、筑前福岡で二天流の道統が生じた。

 五輪書に関して云えば、筑前二天流では五輪書を師から弟子に伝授していた。それゆえ末裔に至るまで、その相伝経路は明らかである。そしてそれだけではなく、注目すべきは、寺尾孫之丞以下、代々相伝証文を付すことである。この方式を発明したのは寺尾孫之丞であろうが、その形式を保全して伝承されたのが、筑前系五輪書である。

 これは、肥後系諸本には見られぬことである。筑前系諸本と比較すれば直ちに知れることだが、現存肥後系諸本の空之巻奥書には、どれ一つとして正規の相伝形式を備えたものがない。すなわち、肥後系諸本の海賊版たるゆえんである。

 改めて言えば、現存五輪書写本には、大きく分けて、肥後系と筑前系の二系統がある。しかるに、五輪書研究の従来の悪弊は、細川家本をはじめとする肥後系諸本を中心とした見方しかしないという偏向にあった。そこでは、肥後系と筑前系の二系統があって、それが根本的にどう違うのか、ということさえ、認識されていなかった。

 たしかに、筑前系五輪書は、かつては中山文庫本のみが知られており、そうした状態では、筑前系は例外的な異本にすぎず、発見例が数多い肥後系諸本を中心とする見方に傾きがちであった。実際、中山文庫本は数のうちに入らず、これを一通り読解分析した研究者さえいなかった。中山文庫本しか知られぬ環境では、筑前系五輪書の存在はほとんど無視されてきたのである。

 それゆえ、寺尾孫之丞以来の五輪書の相伝形式も知られていなかった。むしろ、肥後系諸本の奥書こそ正規のものだと錯覚されてきたのである。言い換えれば、海賊版を正規版と取り違えていたのである。

 筑前系五輪書では、その後、『吉田家伝録』(昭和五十六年 太宰府天満宮刊)巻頭に写真が掲載されるなどして、その所在が知られた吉田家本にしても、実際にその内容が読まれるようになったのは、それから二十年以上も後のことであった。

 しかし、吉田家本の研究は事実上皆無であり、空之巻を除いて吉田家本四巻は後世の写本であり、その内容は中山文庫本と近似したものであることさえ、知られなかった。そして、筑前二天流主流の立花峯均系統の写本は、発掘されないままであった。

 立花峯均の『丹治峯均筆記』には、峯均が、立花勇勝と桐山丹英へは、五巻の書を自筆で書写して授け、立花種章(増寿)へは、峯均が実連から与えられた書に奥書を加えて譲った、とある。奥書を加えて、というのは、峯均から立花種章(増寿)への相伝証文を書き加えて、ということである。とすれば、元禄十六年(1703)に吉田実連が立花峯均へ伝授した五輪書は、享保七年(1722)に立花弥兵衛増寿の手元へ渡ったのである。しかし、その後の行方は追尾できない。ようするに、今日も行方不明なのである。

 吉田家本空之巻には、継ぎ足しがあって、立花増昆が吉田経年に写して与えたかたちの、立花峯均系統の相伝証文集が付されている。それゆえ、吉田家本の地水火風四巻の扱いも問題が残った。立花増昆の跋文により、これら四巻を、吉田実連が吉田治年へ託した五輪書だと誤解したり、あるいは立花系の五輪書だと錯覚する向きもあったが、実際にはそうでないことが後に判明した。

 それが近年までの五輪書をめぐる研究状況であった。言うならば、吉田家本の内容が知られるようになって筑前系写本への目が開かれても、それ以前の中山文庫本の内容すら認識されていない状況であってみれば、筑前系五輪書の位置づけさえなされていなかったのである。そんな有様では、肥後系諸本を中心とするそれまでの偏向を改めることはできなかったのである。

 しかるに、最近、平成二十年のことであるが、我々は越後で異系統の五輪書諸本と遭遇することができたのである。これは地元関係者諸氏の協力を得て可能になったのであるが、以来数度の現地調査により、所蔵する諸旧家を一通り廻って、五輪書諸本及び当流関係史料を発掘できたのである。この調査対象には、すでに越後を離れている信州等の子孫諸家所蔵本も含む。

 この越後系諸本こそ、まさに、我々が探していた筑前の立花峯均系統の五輪書であった。本国筑前では未発掘だった立花系の五輪書が、まったくの遠国、越後に現存していたのである。

 すなわち越後系諸本は、五代立花峯均、六代立花増寿と伝授され、そして七代丹羽信英に至って、越後へ伝来した五輪書の「子孫」である。筑前の立花系の五輪書が越後に存在するというのは、そういう由来によるのである。

 越後系諸本について一連の発掘作業が進むうちに、その後、平成二十一年秋になって、ついに筑前立花系の五輪書そのものに相遇することができた。これは、内容を見るに、上記の丹羽信英が、師匠立花増寿から伝授された五輪書の一部であった。言い換えれば、筑前から越後へ伝播した立花=越後系の祖本の現存を確認できたのである。

 そこで、立花=越後系諸本の内容を分析してみるに、吉田家本や中山文庫本とは異なるものがあり、両者の誤記するところも、越後系諸本に正記するものもある。言い換えれば、越後系諸本は、吉田家本四巻や中山文庫本とは系統を異にする写本と知れた。越後系諸本と対照すれば、吉田家本四巻と中山文庫本は、別系統のものであり、その字句の類似から両本は一つのグループに括れるのである。

 つまり、吉田家本空之巻を除いて、筑前系諸本には二系統あって、一つは吉田実連から立花峯均へ伝授した系統の子孫、もう一つは、吉田実連から早川実寛に伝授した系統の子孫である。前者は、越後系諸本であり、後者が吉田家本四巻と中山文庫本、大塚家本、伊丹家本等である。

 かくして、従来ひと色に見るしかなかった筑前系諸本の内的構成が判明したことで、五輪書写本群の視界が変った。五輪書諸本は、まず筑前系/肥後系に大別され、そして筑前系は、その内容分析から早川系と立花=越後系に分類できる。

 他方、肥後系諸本は、もともと海賊版であるために伝写経路は明らかではない。もちろん楠家本や細川家本に奥書があっても、それは、形式体裁の崩れたもので、相伝文書の体をなしていない。とすれば、その字句を個別に内容分析する以外に、諸本の史料としての位置づけはできない。かくして、これも一字一句を分析した結果、判明したことがある。

 すなわち、肥後系諸本は、門外流出後早期に発生した写本を元祖として、以下諸系統に派生した写本の末裔である。そのうち、富永家本や円明流系諸本は、早期に派生分岐したものであり、その後の伝写回数が多かったと見えて、写し崩れが大きい。しかし反面、早期に派生した系統の子孫ゆえ、その早期形態の痕跡を断片的に遺している。

 これに対し、同じ肥後系でも、楠家本・細川家本・丸岡家本は、その誤記脱字の状況様態を見るに、他に比して類似点が多く、近縁性のあるものである。そしてこの三本のうち、さらに近縁性のあるのが、楠家本・細川家本である。したがって、この二本の系統派生は、丸岡家本が派生した後のことである。

 また、従来知られていなかったことだが、山本源介を宛名とする細川家本と同系統の写本に、常武堂本がある。これは明治の写本で、それじたい新しい写本であるが、細川家本を写したものではない。いわば、細川家本同じ祖本から派生した別系統の写本である。しかも、字句の運用において、細川家本よりも楠家本に近いケースもある。

 この常武堂本との照合により判明するのは、ひとつには、常武堂本と細川家本が共有する祖本の存在である。もう一つは、細川家本が特種な字句を運用していることである。細川家本はその祖本を写したのだが、筆写者は時折脱線して、他の写本にはない特異な文字を用いて写している。言い換えれば、細川家本の作成者は、その祖本にあまり忠実ではなかったようである。

 その系統分化過程において、楠家本や細川家本は、それぞれ別の奥書を付加した編集物を祖本とするものである。しかし何分にも、後世の門外者の作為ゆえ、その奥書は原型を留めないまでに形式体裁の崩れたものである。それを写した楠家本や細川家本は、その形式の崩れをそのまま受け継いでいる。

 ただし、肥後系諸本の中では、楠家本・細川家本、そして丸岡家本は、比較的写し崩れの少ない写本である。もとより、そのことが知れるのは、筑前系諸本との横断的照合によってである。おそらく、この三本は、肥後系主流にあって派生伝写されたものとみなしうる。

 ただし、それにしても、後発的な誤記を多数含むことからすれば、決して古い写本とは言えない。字句の正確度は写本の古さとは必ずしも相関しない。むしろこの三本に特有の誤記の様態を見れば、その発生は早期のものではなく、後発性を示すものである。この点、従来の誤った史料評価は改めるべきである。

 以上の諸点は、これまでの五輪書研究では検出されたことのないことがらである。それゆえ、はじめて見知ったという読者も多かろう。ようするに、五輪書研究の最前線に関わることばかりである。

 現存五輪書写本において、十七世紀中の文書と認めうるのは、筑前系の吉田家本空之巻(延宝八年・1680)のみである。その吉田家本にしても、他の四巻は十八世紀のものである。また、肥後系諸本は、これも何れも十八世紀を遡るものがない。かような次第なので、現存史料には、武蔵の草稿原本どころか、寺尾孫之丞が門人に伝授した寺尾版写本さえも存在しない。

 したがって、五輪書の原型へ遡行するためには、直接のアプローチはできない。そこで、現存写本を手がかりにして、まずは、寺尾孫之丞の段階まで遡ることが第一である。

 そのためには、間テクスト的分析(inter-textual analysis)が必要である。すなわち、筑前系/肥後系諸本を横断して校異を特定し、その一字一句検討し、古型字句を析出するという手続きを踏む必要がある。

 我々はこの読解研究において、そうした間テクスト的な分析手続きを踏んでいる。それには、具体的に言えば、いくつかのパターンがある。それを以下にまとめておく。


 (筑前系/肥後系諸本共通のケース)

 一つは、筑前系/肥後系を横断して諸本共通の語句。これは少なくとも、寺尾孫之丞段階に遡る古型とみなすことができる。

 このケースには二つパターンがある。一つは全面的に共通するばあい。これは文句なく、基本的に古型である。つまり寺尾孫之丞の段階にすでにあった語句である。これがほとんどのケースである。

 ただし、このばあいすべてが正しいかと言えば、必ずしもそうではない。我々の読解研究がはじめて析出したように、明らかに寺尾孫之丞の誤写誤記とみなしうる語句も一部にある。

 たとえば、その代表的な事例を挙げれば、火之巻の「まぎると云事」である。この「まぎる」は「間切る」のことで、武蔵は「まぎる」と書いたのだが、寺尾孫之丞はこれを誤解して、「まぎるゝ」(紛るゝ)と誤記したのである。

 かくして、寺尾版がそういうことなので、以後の五輪書はすべて「まぎるゝ」と書くようになって、その末裔たちである現存写本には、すべて「まぎるゝ」(紛るゝ)と記している。

 このケースでは、我々は、現存写本の何れにもない語句によって、武蔵の草稿にあった語句を復元することになった。それと同時に、こうした誤記の析出によって、はしなくも、寺尾孫之丞が五輪書の内容をすべて知悉していたわけではないことが判明したのである。

 次に、筑前系/肥後系を横断して諸本共通のばあいの、もう一つのパターンは、部分的に共通するばあいである。たとえば、筑前系諸本で、立花=越後系と早川系において相異があるとき、これは肥後系諸本と照合してみて、そこに共通する語句があれば、それが正しい。また、肥後系諸本間で語句に相異のあるばあい、筑前系と同じ語句である方が正しい。言うなれば、一部例外はあるものの、筑前系/肥後系を横断して存在する語句が、基本的に古型なのである。

 このケースでは、興味深い結果が得られる。

 たとえば、肥後系の中でも富永家本や円明流系諸本は写し崩れが大きく、従来、史料評価が低く見積られていた。楠家本や細川家本と語句が異なるばあい、正しいのはそちらで、富永家本や円明流系諸本の語句は、誤りと見なされていたのである。

 しかるに、如上の評価方式では、必ずしも楠家本や細川家本が正しいのではなく、むしろ、全般に写し崩れの多い富永家本や円明流系諸本であっても、その語句が正しいばあいもある。

 たとえば地之巻「兵法の道といふ事」の、右掲の「術をてらし」の場合、筑前系/肥後系を横断して共通するのは、肥後系では富永家本である。楠家本・細川家本・丸岡家本はそれぞれまちまちである。こうしたケースでは、肥後系諸本のみを見ていては判断がつかない。右掲事例では吉田家本・渡辺家本・石井家本など筑前=越後系諸本と照合して、富永家本が正しいと知れる。そして、楠家本・細川家本・丸岡家本はそれぞれが誤記である。

 このケースのようなことがあるのは、富永家本や円明流系諸本など派生系統の写本は、肥後系のなかでも早期に派生した系統の末裔だからである。つまり、早期に派生した系統に古型の痕跡が残ったというケースがそれである。したがって、全般に写し崩れの多い富永家本や円明流系諸本であっても、必ずしも無視はできないのである。

 こうしたことは、もちろん、肥後系諸本のみを見ていては分らないことである。筑前系にまで越境してはじめて、判明することである。しかも、こうした筑前系/肥後系を横断する照合によって、肥後系諸本の史料評価も可能になるのである。

 

 (筑前系/肥後系間に相異のあるケース)

 さて、二つ目は、筑前系/肥後系において語句に違いがあるケース。とくに、筑前系諸本に共通する語句があり、そして、それとは異なる語句が、肥後系諸本には共通して存在する場合である。つまり、筑前系/肥後系を截然として区分する指標的相異である。

 このケースでは、筑前系諸本に共通することがポイントである。すなわち、筑前系に共通するとは、立花=越後系と早川系という両系統にわたって共通するということであり、これは筑前系の初期形態を示すものである。しかも、それは寺尾孫之丞が柴任美矩に伝授した五輪書にあった語句である可能性が高い。つまり、承応年間、寺尾孫之丞前期のかたちである。それゆえ、筑前系諸本に共通するこのケースでは、その語句に初期の形態が示されているとみなしうる。

 たとえば、このケースの代表的な事例は、空之巻末尾の識語の有無であろう。肥後系諸本には、周知の《空有善無悪、智者有也、理者有也、道者有也、心者空也》という識語があるのだが、筑前系諸本には、それがない。この事実は、五輪書研究において従来看過されてきたのだが、本サイトの読解研究ではじめて指摘がなされた問題点である。

 この識語の有無については、もちろん、筑前系諸本に脱字があるのではない。筑前系諸本にこれがないということは、少なくとも、寺尾孫之丞前期には、この識語がなかったのである。言い換えれば、何れにしろ後になって発生した語句であり、武蔵草稿には存在しなかった、と結論が得られるところである。

 この事例にかぎらず、筑前系/肥後系の間で相異する語句は多い。そのばあい、肥後系諸本に共通する語句には、二つの可能性がある。

 すなわち、一つには、それが寺尾孫之丞前期ではないにしても、たとえば寛文年間の寺尾孫之丞後期に由来する可能性である。このばあい、寺尾はその前期とは異なる語句を記したことになる。これもありそうなことである。この寺尾孫之丞後期の語句表現は、筑前系諸本の関知せざるところであり、それゆえ、筑前系は古いほうの語句を伝えたのである。ただし、個別に校異を当たれば、肥後系写本が寺尾孫之丞後期のかたちを示すというこのケースは少ない。

 そして、第二の可能性は、肥後系共通の語句が、寺尾孫之丞の段階にまで遡れないという可能性である。つまり、肥後系諸本に共通することから、肥後系早期にそれがすでにあったとみなしうるものの、それは寺尾孫之丞段階のものではなく、それ以後の門外流出後に発生した異変が伝播したケースである。それぞれの校異字句について個別に分析すれば、このケースが多い。

 以上のように、筑前系/肥後系を截然として区分する指標的相異のあるケースでは、肥後系諸本の語句は、筑前系諸本共通の語句に対して、二次的な位置にある。たとえ寺尾孫之丞段階に帰し得るとしても、それは孫之丞後期の語句であって、孫之丞前期の初期形態を示す筑前系の語句に比すれば、プライオリティをもつものではない。したがって、このケースでは、何れにしても、筑前系諸本共通の語句を古型として採るべきである。


 基本的に以上のようなことが、諸本校異に関する我々の間テクスト的分析の手続きである。このばあい、筑前系/肥後系に大別される諸本を、広く横断して比較照合することが、何より重要である。この結果、従来の五輪書研究のレベルは大幅に前進した。その最前線における成果は、以下の五輪書読解研究に示されている。

 この読解研究では、できるかぎり広範に諸本を校合することにつとめた。参照した五輪書写本は、右掲の筑前系十六本二十七種、肥後系十本、加えて一本の、計二十七本三十八種である。それら五輪書諸写本の内容及び位置づけに関しては、別掲「五輪書異本集」に解説があるから、それを参照されたい。

 改めてくりかえせば、オリジナルが現存せず写本しか存在しないとしても、諸本を広く漁渉して比較対照し、より原型に近い文言を割り出し、五輪書の復元を試みる必要がある。それが、以下に提示して読む、五輪書研究会版五輪書テクストである。

 この五輪書研究会版テクストは、したがって、現実には実在しないが、これはいわば、《the possible original》であり、《the supposed original》である。信憑しえない現存写本に依拠して読むよりは、研究の結果、操作的に復元したこうしたテクストに拠って読む方が、読解のためにはなろう。すなわち、テクストは読解に先在するのではなく、読解によって生産されるのである。この逆説の実践こそ、まさに我々の作業であった。

 かくして、我々のテクスト読解の実践は、五輪書諸写本の横断により得たテクストの再構成となって結実した。したがって、現在流布しているヴァージョン以外の五輪書テクストを読みたいという向きには、この我々のテクストが参考になろう。

 ここでは我々の構成した復元五輪書テクストを提示し、あわせて、諸本の校異を適宜提示することにする。それによって我々のテクストのアドヴァンテージが反照されるであろう。

 

 我々の五輪書読解は、この兵書の原テクスト復元を目指すところであるが、それにともない、世にいわゆる「兵法三十五箇条」なる文書についても、史料批判を実施することになったことは言うまでもない。これは本サイトの他所で検証がなされているところであるから、ここでは繰り返さないが、ただし、以下の点だけ指摘しておく。

 寛永十八年(1641)二月の日付を有する、その三十五箇条兵法書は、五輪書に先立つ武蔵の著作であり、五輪書の原型とされてきた。あるいは、そこから、兵法三十五箇条は不完全な五輪書であり、五輪書は兵法三十五箇条から発展した増補完全版であるという、これまた珍説が蔓延るようになった。つまり、

    兵法三十五箇条 → 五輪書

 兵法三十五箇条と五輪書の間には、いわば、こうした「進化論」的プロセスを想定するのが、これまでの五輪書研究の「常識」であった。しかし、言うまでもなく、これは史料批判抜きのナイーヴな考えである。我々の所見では、これは却下すべき謬見である。兵法三十五箇条、あるいは三十九箇条でもよいが、その類いの兵法書を、武蔵が書いていたという証拠はない。あるのは、後世肥後において伝説を文書化した文言のみである。

 そのうえ、筑前系二天流には、五輪書に先立つそうした兵法書に関する言い伝えはない。とすれば、三十九(五)箇条兵法書とは、肥後ローカルな、後世の産物である。

 寺尾孫之丞の弟子である三代柴任美矩は、年齢からして、肥後熊本で生前の武蔵その人を実見した世代であり、武蔵死後も承応年間まで肥後にいて、寺尾孫之丞に師事した。いわば、武蔵晩年のことを知っている人物である。筑前二天流に、五輪書とは別の兵法書の言い伝えがない、ということは、その兵法書は柴任が見たことも聞いたこともない代物なのである。

 しかも、念の入ったことに、肥後の後世資料によれは、これが寛永十八年二月に武蔵が細川忠利に献上した書物だということである。もし、そんな特記すべき事蹟があったとすれば、なおさら、柴任美矩がそれを言い伝えているはずである。ところが、播州明石で柴任に直接面会して話を聞いた立花峯均は、そんなことを一言も書いていない。柴任からそんな話はなかったのである。

 柴任美矩が知らないということは、ようするに、柴任が肥後に居た承応年間まで、そんな書物は肥後には存在しなかったのである。つまり、三十九箇条であれ三十五箇条であれ、武蔵が五輪書以前に書いたという兵法書は、少なくとも、承応年間以後に、肥後で出現した書物なのである。そうして、それはむろん武蔵死後のことだから、武蔵の関知しない書物である。つまりは、後年になって武蔵に仮託された偽書なのである。

 柴任美矩が肥後を去った後に出現した書物であってみれば、柴任がそれを知らないのは当然である。そしてまた、筑前二天流にそんな書物に関する口碑伝承がないのも、これも当然である。このように肥後で爾後に発生したローカルな文書であることから、我々はそれを「肥後兵法書」と呼んでいる。

 武蔵は、五輪書以前に、「書物」としての兵法書を書いたことはなかった。というのも、たしかに五輪書に武蔵自身が再三述べていることだが、武蔵が兵法論を書物にして書くのは、五輪書が最初だというのである。
《兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思ふ。時寛永二十年十月上旬の比》(地之巻・自序)
《右、一流の兵法の道、(中略)多分一分の兵法として世に傳る所、始て書顕す事、地水火風空、これ五巻なり》(地之巻・後書)
《右、書付る所、一流劔術の場にして、たへず思ひよる事のみ、書顕し置もの也。今始て此利を記すものなれば、跡先と書紛るゝ心ありて、こまやかには、いひわけがたし》(火之巻・後書)

 ここで武蔵は、自身の兵法理論を書物にしたのは、これが最初であると明言している。おそらく、それまでは口頭での教説があっただろう。著作なき思想家は、釈尊や孔子などその例は多い。それが東洋的伝統である。

 武蔵にしても、五輪書以前は、そうした兵法論講義はしたものの、それは書かれざる教説(unwritten teachings)であった。武蔵はそのようなスタイルで通してきたが、死を前にして、寛永二十年十月に、兵法論を「書物」として執筆し始めた。それが初めての兵法論著作だと明言しているのである。

 かくして、武蔵が五輪書に、一度ならず再三にわたって、兵法論を書物に書くのは始めてだと書いていることを、ここで改めて確認すべきである。

 しかるに、これまで、この五輪書の文言が無視されてきたのである。そうして、五輪書以前に、兵法書が書かれていたという妄説が蔓延って久しい。まさに奇怪至極な現象である。それは『武公伝』など十八世紀の肥後系武蔵伝記にすでに現れている。しかし問題は、今日でもその伝説を鵜呑みにする者が多いことである。

 五輪書は武蔵の著述であり、何は差し置いても、武蔵事蹟の一次史料である。証言として、これ以上のものは他にはない。したがって、その五輪書に、一度ならず、再三にわたって、兵法論を書物に書くのは初めてだと書かれている以上、この五輪書以前には、書物としての兵法書は、武蔵には存在しないのである。

 とすれば、五輪書以前に書かれ、しかも細川忠利に献呈されたという兵法書など、そもそも存在しないのである。それを作り出したのは後世の作為であり伝説である。

 肥後系武蔵伝記『武公伝』は三十九箇条といい、後継の『二天記』は三十五箇条とするから、むろん、三十五箇条より三十九箇条版の方が先にあった。しかも、その由来たるや伝説化されて、出所が明確でない。寺尾求馬助名による後記によれば、求馬助は武蔵死後四半世紀も経って、これを世間に持ち出してきたのであり、その寛文年間以前には遡ることはできない文書なのである。

 この兵法書は、寺尾求馬助系統の中で発生した文書である。それは最初、五輪書水之巻と火之巻を中心としてその内容を摘要したものであっただろう。なぜ五輪書丸ごとではなく、そうした摘要文書であったかといえば、この求馬助系統は五輪書相伝とは無縁な系統だったからだ。求馬助は兄孫之丞から、五輪書を伝授されなかったのである。

 しかし、当初、五輪書の一部を摘要したものであったが、それが整備されるにつれて、この文書が先師武蔵に仮託されるようになったのである。これには寺尾求馬助系統の「必要」もあった。というのも、孫之丞の系統は五輪書を相伝ツールとしていたが、求馬助系統には、孫之丞系統の五輪書に相当するような根拠文書がなかった。

 ところが、求馬助の子や孫の世代になると、求馬助系統が肥後武蔵流の主流になった。しかるに、肝心の相伝ツールとしての文書がない。そこで、五輪書に対抗するかたちで発生したのが、武蔵が書いたというこの仮託文書である。

 しかも、これは孫之丞系統の五輪書に対し、それより価値の勝るものでなければならない。そこで、五輪書より先に書かれた文書という設定にした。それだけではなく、武蔵が細川忠利に献呈したという権威づけもした。それが、忠利死去の前月、寛永十八年二月という日付である。五輪書執筆に先立ち、また五輪書の原型となる兵法書というものが、こうして出来上がったのである。これが、三十九箇条兵法書、我々のいう「肥後兵法書」である。

 その後、求馬助系統は肥後武蔵流主流として諸派に派生するに至るのだが、この文書に添付された由緒書きをもって自派の由来とする点では共通していた。流祖・寺尾求馬助は、これを孫之丞の五輪書と同じ日に武蔵から伝授された。しかも、この文書は五輪書に先立ち、それ以前に細川忠利に武蔵が献呈したものである。これほどの文書であるがゆえに重要な根拠文書である。肥後兵法書は、五輪書以上の価値を賦与されるようになった。

 それゆえ、五輪書は二の次の文書、いわば参考資料の位置に落ち、またそのような資料として伝写された。そのうち、肥後系五輪書写本には寺尾孫之丞という宛名さえ欠くものさえ現れた。孫之丞の名を抹消したのは、もとより求馬助を正統と設定する後世の党派的動機である。かくして、武蔵草稿を編集した当の人物さえ、忘れられるようになってしまった。――ともあれ、肥後系五輪書の背景はそのようなものである。

 かくして、肥後兵法書は、寺尾求馬助門流で発生したところの、武蔵に仮託された偽書である。しかし、誤解を封じるために言っておくべきことがある。

 肥後兵法書は武蔵には無縁の後世の作物だとはいえ、その内容は、いい加減なものではない。もともと五輪書の解釈から発したものであって、武蔵死後の肥後の門流の考えを示す文書である。この限りにおいて、これは五輪書の解釈にとって重要な史料と謂うべく、決して性急に貶価されてはならない。いうならば、武蔵の著述という体裁にしてしまったから、これが偽書となっただけで、その点を除けは、肥後の武蔵流、寺尾求馬助門流史料として重要な位置を占めるものである。

 問題は、後世の今日にある。肥後兵法書にまつわる伝説を鵜呑みにし、また三十九箇条であれ三十五箇条であれ、その後世武蔵に仮託されたこの文書の奥書を、ナイーヴにも信じるという、今日なお勢力を失わない謬見がある。その一方で、五輪書にあれほどまでに明言してしていることを見ない。五輪書以前に兵法書なし、――その真実は明白であるにも関わらず、おのれの先入見に気づかず蒙昧を去ることができない。そういう研究者が多すぎるのである。

 まさに、五輪書の肝心な文言は、いまだに読まれていないも同然なのである。したがって、ここで強調すべきは、――武蔵は五輪書以前には書物としての兵法書を書いたことはなかった。五輪書こそ、武蔵の最初にして最後の兵法書であった、ということである。

 五輪書があまりにも有名なので、武蔵が兵法書を書いたということについて、何の驚きもないのが今日である。しかし、ほんとうは、武蔵が兵法書を書いたということに驚くべきなのである。

 というのも、当時こうした兵法書が書かれるということは、ごく稀だった。兵法論著作のある同時代の人としては、『兵法家伝書』を書いた柳生宗矩や、その息子、『月之抄』の著者・柳生三厳などがいるが、これもごく例外的な事件であることはたしかである。だれでも一家をなすほどの者なら著述書物があると思うのは錯覚である。教説を書物にして残すなど、当時まったく例外的なことである。そのことに思いを致すべきである。

 とりわけ、何であれ芸術には、不立文字の口伝慣行があって、具体的なことは文字に書かない。相伝目録には術名業名を列挙するのみである。

 東洋的伝統では、著述なき師匠は多い。それとは別に門弟の聞書というかたちがあって、如是我聞、子曰く、のスタイルの文書である。武蔵もその例で、兵法理論を口で語り教え、その内容も武蔵の「大分一分」の兵法として世に知られていたが、書物を著述するということまでは考えなかった。

 されば、なぜここに至って、武蔵は兵法書を書く気になったのか。それには、次の二つの点を示せば、用は足りるであろう。――すなわち、一つは新しい著述スタイルを発明したこと、もう一つは、遺書を残すことである。

 武蔵がそれまで兵法書を書かなかったのは、当時の通例、不立文字の口伝慣行にしたがったにすぎないが、他方、兵法書を書けば、奥義秘伝書の格好になってしまうのを嫌ったのである。

 武蔵が嫌った奥義秘伝書、諸流派で伝承されている文書である。しかしまた、柳生宗矩の『兵法家伝書』のような新しいスタイルの奥義秘伝書も、武蔵の嫌うところであっただろう。

 武蔵は風之巻に、皮肉めかしてこう書いている。――兵法の事において、どれを「表」と云い、どれを「奥」というのか。芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口はあるけれども、敵と打合うときの利〔戦い方〕においては、「表」によって戦い、「奥」をもって切るということではない、と。

 結局、武蔵が書物としての兵法書を書かなかったのは、奥義秘伝書の無内容を知っていたからである。奥義とはそれを尋ねてみれば、空虚にほかならない。秘すべきことにあらざらるものを秘密にすることによって、さも何か秘奥のあるように見せかける仕組みである。

 あるいは、柳生宗矩の『兵法家伝書』のような新しいスタイルでは、禅家亜流の通俗的心法論をもって秘奥とするにすぎない。奥義秘伝書には、空虚な無内容しかない。「実」のないのを嫌う武蔵としては、奥義秘伝書のかたちの書物なら、書く必要を認めなかった。

 しかし、ここに来て、武蔵は新しい著述スタイルを発明した。それは、奥義秘伝書とはまったく逆の内容をもつ兵法書である。それは何かといえば、初心者にも理解できる普遍的な兵法教本というスタイルであった。これを着想したとき、それまでの不立文字の封印を破って、武蔵は書物を書くことにしたのである。

 これはある意味で無謀な試みであった。というのも、一つにはそれが前例のないスタイルであったからだ。芸術(arts)としての兵法について、初心者にも解るように書く、ということが未曾有のことだったのである。経験を積んだ練達の門弟向けに書くのはある意味では容易い。それはその集団に固有の特殊言語で足りるし、高度に抽象的な概念でも伝わるからだ。しかし、初心者にも解らせるのは難しい。

 五輪書の内容を見れば、その苦心のほどがわかる。十代の少年たちにも解るように、平易を第一として書いている。そのために、現代人たる我々でも読めるという稀有な書物になっているのだが、実はこれには、無謀といえるほど難しいことを敢えてやってのけた武蔵の大きな努力を見なければならない。

 しかし、武蔵はなぜ、そんな無謀なことまでして、こんな初心者向けの兵法教本を書く気になったのか。

 それは、武蔵が門人のだれにも印可状・相伝証書の類いを与えていない、という事実に想到すればわかることだ。武蔵は、他の諸流派の師匠のように相伝証書を発行していない。これが事実である。もし、武蔵がそうした相伝証書を残していたら、その写しなりとも各地に残って伝わっていたことだろう。

 武蔵は特定の門人宛に相伝証書を授与するということをしなかった。というのも、武蔵には独特の考えがあって、入門誓詞すら取らなかった。修行に奥も口もない、入門も卒業もない、それが武蔵流であった。兵法の道は、ただ自身の発明すべきことである。武蔵には門人は多かったが、厳密にいえば、武蔵には「免許門人」は一人もいないのである。

 ここから、武蔵が兵法の道をどれほど普遍的なものに考えていたか、それがわかる。風之巻一巻は他流批判であるが、それは他流を批判したものではなく、他流の「偏向」を批判したものである。これを間違ってはならない。五輪書で武蔵が一貫して説いているのは、「かたつくな」、偏向するな、ということである。このかぎりにおいては、自派も他派もない。武蔵はひたすら普遍的な兵法の道を、文字通り「指南」したのである。

 五輪書の執筆にあたって、武蔵の念頭にあったのは、練達の高弟ではなく、若年(少年)の初心者のことである。おそらく武蔵は、兵法の道の未来を、若年初心の者に託したのである。そしてそれが、兵法書をはじめて書く気になった理由である。

 武蔵がはじめて兵法書を書く気になったもう一つの理由は、これを遺書とするためである。

 武蔵は、この兵法書を五巻に分けて、それぞれに「地水火風空」の五つの名を付した。周知の通り、この五つは、宇宙万物を構成する東洋的な五元素のことだが、そうしたことよりも、武蔵の念頭にあったのは、仏教習俗にある五輪塔のイメージである。

 武蔵は、この五巻の書物を、かの五輪塔に見立てて、これを墓碑としたものらしい。いかにも武蔵らしいやり方である。

 それというのも、武蔵は、「おれには墓などいらん」と言っていた人であるようで、それは養子・宮本伊織が後に小倉赤坂山に建てた石碑の形態を見て知れることである。これが武蔵を顕彰するモニュメントであることは、その碑文に明らかだが、これには卒年月日と法名を記す墓誌もある。伊織としては、父武蔵の墓を建てたいところだったろうが、武蔵には墓など造るなと、常々言い置かれていたらしく、結局、このような石碑のかたちになったものである。墓碑にして墓碑にあらざるもの、それが小倉の武蔵碑である。

 そこには、《肥之後刕に於て卒す。時に自ら書し、天仰實相圓満之兵法逝去不絶の字に於て、言を以て遺像と爲せり。故に孝子碑を立て…》(原文漢文)とある。この武蔵碑の頭冠部には、その通り、「天仰實相圓満兵法逝去不絶」の十二文字遺偈が刻まれている。

 こちらは、《言を以て遺像と爲せり》である。いかにも武蔵的な振舞いと謂うべく、それを伊織は守って、小倉に武蔵の墓ならぬ墓を建てたのである。武蔵の墓は後に各地に設けられたが、武蔵の思想に忠実なのは、唯一、この伊織建碑の小倉武蔵碑である。

 かたや、五輪書の方は、地水火風空の五巻構成に作ったから、こちらは明らかに五輪塔のイメージである。武蔵はこの書物をもって自身の遺書とし、しかも墓碑としたのである。

 ということは、寛永二十年十月の本書執筆開始にあたって、武蔵にはすでに死の予感があったものと思われる。それは具体的には、癌による苦痛であろうが、武蔵は自分が間もなく死ぬという自覚があった。

 武蔵が病の床につくのは、おそらくそれから半年ほど後のことであろう。武蔵は、熊本の屋敷ではなく、郊外の村にあった別荘にいて、医師も派遣され療養していたが、よほど病状が重くなったのか、寛永二十一年(正保元年)の十一月になって、治療のため熊本へ連れ戻された。そうして、半年後に死亡する。

 こうしてみると、寛永二十年十月の本書執筆開始の時点から死去まで、約一年半である。その間、病状は速やかに進行してしまう。武蔵が本書執筆に関わったのは、おそらく一年足らずというところであろう。

 何れにしても、武蔵は自身の兵法について極めて自覚的だった人である。六十歳に到るまでに、自流の兵法について語り教えてきたのである。そこで今さら遺書となるものを著わすについては、特別な意図があった。

 それは決して、これまで書かなかった極秘の奥義をはじめて明らかにする、自身の兵法の理論を集大成し完成する、ということではない。むしろ逆に、他の兵法書にはない特徴、つまり、まったくの初心者にも読ませうる普遍的な兵法書を書いたということである。

 この点は誤解されてきた。五輪書は武蔵の究極の奥義書ではなく、初歩から教える普遍的な教本なのである。そうであるからこそ、我々現代人にも読めるテクストとして生きているわけである。

 以上要約すれば、五輪書は、兵法書としては未曾有の書物だった。それというのも、五輪書は、奥義秘伝書として書かれたものではない。むしろ逆に、若年初心の者にも解るように書かれた普遍的な兵法教本である。その普遍性ゆえに、特定の門人に宛てて書かれたものでもない。したがってまた、著者の意図を超えて、現代にも読み継がれるという超歴史的な古典となった。

 また、武蔵の個人的事情としては、死期を予感して書かれた遺書である。それも、若年初心の者に、兵法の道の未来を託すという期待があってのことである。小倉の武蔵碑の「天仰實相圓満兵法逝去不絶」の十二文字遺偈にあるごとく、「実相円満の兵法、逝去して絶えず」ということである。

 かくして宮本武蔵の名とともに、この五巻の兵書、五輪書が今日に伝わったのである。武蔵は、最初にして最後の兵法論を書いた。それは究極の奥義書ではなく、まさに奥も口もない普遍的な兵法教本であった。

 

 以上、武蔵と五輪書について、種々一通り述べてきた。他にも言うべきことは多数あるが、個別の諸事項については、読解研究当該箇処で記すことにする。

 五輪書については、従来さまざまな誤認や誤解があった。ここでは、五輪書に関する謬見・曲解を封じるために、基本的なポイントを以下に整理しておきたい。

 (1)著者は宮本武蔵

 五輪書は、宮本武蔵の著作である。過去に偽作説があったが、もとより武蔵関係史料もろくに知らない連中の無知に基づく憶説であり、何の根拠もない謬説である。武蔵は、そんな後世の妄説を、五輪書冒頭の自序で封じている。武蔵は、寛永二十年(1643)十月から本書の執筆に取りかかった。武蔵六十歳の年である。

 (2)五輪書以前に兵法書なし

 武蔵は、本書中で再三、書物としての兵法書を「はじめて」書くと記している。武蔵には講義などで語った口頭の兵法論があり、その理論は世間にも知られていたが、それは書かれざる兵法論であった。兵法論を書物にして書くのは五輪書が最初のことである。したがって、五輪書以前に兵法書――三十九箇条であれ、三十五箇条であれ――を武蔵が書いていたというのは、後世肥後で発生したローカルな伝説である。五輪書は、武蔵の、最初にして最後の兵法書である。

 (3)五輪書は奥義秘伝書ではない

 五輪書を通読すれば明らかなように、本書は練達、已達の者を対象にして書かれた奥義書ではない。また、特定の門人に宛て発行した極意秘伝書でもない。本書は、若年初心の者にも解るように書かれた、きわめてオープンで普遍的な兵法教本である。武蔵流には奥も口もない。その意味で、前例のないスタイルを持つ未曾有の兵法書であった。

 (4)兵法教本としての五輪書

 五輪書は兵法教本、つまり戦闘において、いかにして勝つか、それを教える書物である。戦場の実戦においては、敵に勝つとは相手を殺傷することであり、いわば兵法とは殺人技術にほかならない。戦闘を職業とする武士たる者の道は、死ぬことをわきまえることではなく、敵を殺す技術を修得し敵に勝つことにある。したがって、兵法教本としての五輪書は精神修養のための書ではない。この点、勘違いがあってはならない。

 (5)書物としての墓碑

 「五輪書」というのは後世定着した名であるが、当初はとくに本書を総称する名はなかった。五巻の兵書、兵書五巻などと呼ばれていた。しかし、本書が「地水火風空」の五大・五輪を各巻のタイトルにして書かれたのであるからには、明らかに仏教習俗の五輪塔を模したものである。つまりは、死期近きを悟った武蔵は、兵法の道を未来に託すため、本書を遺書として書き、いわば書物としての墓碑を、あたかも寿蔵のごとく建立したのである。

 (6)五輪書は未完成の書

 武蔵は、執筆を開始して、間もなく病に倒れ、やがて重き病の床に臥すようになった。そのため、本書は著者の死によって完成を阻止され、結局、未完成の原稿のまま残された。たしかに、五輪書が完成稿ではなく、草稿だったことは、その内容の端々に露頭している。したがって、武蔵は畢生の極意書・五輪書を「完成」させて死んだというのは、埒もない俗説である。今日でさえ、それを反復する解説書があるが、それは、ようするに五輪書をまともに読んだことがない者らのたわ言である。また、五輪書のオリジナルが草稿だったとは知らず、完成稿だという前提をとるかぎり、五輪書読解は最初から失敗するであろう。


 次に、書物としての五輪書の成立と運用については、以下の諸点を押さえておく必要がある。何れも、従来の五輪書研究の思い及ばなかったことである。

 (1)寺尾孫之丞への遺贈

 武蔵は死を前にして、この草稿状態の著作を、長年隨仕してきた門人・寺尾孫之丞に贈与した。ただし、これはいわゆる「相伝」ではなく、遺贈というべき授与である。武蔵は死にあたって、書画や刀剣などを、関係者に形見分けしたようだが、五輪書もそうした遺贈物の一つにすぎず、寺尾孫之丞への「相伝」というかたちではない。というのも、そもそも五輪書は、完成した文書ではなく草稿なのだから、それを「相伝」というには当たらない。

 (2)五輪書の校訂編集

 武蔵から本書を遺贈された寺尾孫之丞は、この草稿状態の文書を校訂し編集して、体裁を整備した。ただ、寺尾孫之丞はあくまでも原型を残すことに腐心したため、内容の重複を含めて、オリジナルの草稿状態はそのまま残った。行間や後補の一言半句も削除しなかったが、その配列に惑ったために、随所に文章の混乱もみられる。こうしたネガティヴな特徴から、むしろ逆に、オリジナルに忠実な編集者の姿勢が検出される。

 (3)寺尾孫之丞の誤解誤記

 寺尾孫之丞はたしかに草稿に忠実な校訂編集を行ったが、他方、明らかに寺尾孫之丞に帰すべき字句誤記がいくつかある。そのうち誤読誤解による誤記とみなすべきところもある。このことから、寺尾孫之丞は必ずしも本書の内容を知悉してはいなかった、という事実が判明する。おそらく、寺尾は武蔵から本書を遺贈されて、はじめてその全容に接したのである。そのため、一部に誤解誤読するところもあった。また、彼が本書の内容を知悉していなかったとすれば、その点でも、本書の授与は「相伝」ではないと知れる。

 (4)相伝ツールとしての五輪書

 武蔵から本書の遺贈を受けた寺尾孫之丞は、武蔵の最初にして最後の、すなわちその唯一無二の兵法書を独占することになった。そして、これを自派の相伝ツールとした。つまり、空之巻の巻末に奥書を加えて、その空の意味について自身の悟達結果を示し、武蔵の宿題としてリレーする方式を開発した。そこで、寺尾孫之丞の門流では、代々師匠は一流相伝にあたって、自身が解いた空意を記し、それをもって相伝証文とするようになった。これが、五輪書相伝における正規の方式である。それゆえまた、この体裁を具備しない五輪書写本は、非正規の海賊版である。


 以上の五輪書の成立と運用に関連して、五輪書のテクスト研究について言えば、以下の諸事項がそのポイントである。

 (1)五輪書写本の筑前系/肥後系

 寺尾孫之丞が開発したこの五輪書相伝方式は、門人柴任美矩を経由して筑前二天流に伝承され、またさらには遠い越後にまで伝わった。これら諸本を総称して、我々は「筑前系」五輪書と呼ぶことにしている。他方、本国肥後では、寺尾孫之丞の門流が早々に衰亡したらしく、この寺尾孫之丞流の相伝方式は残らなかった。しかるに、門外へ流出した写本があって、そこから伝写された写本が出回り、以後諸系統に派生して写本が再生産されて行った。これが「肥後系」諸本である。現存肥後系写本の奥書を見れば直ちに判明することだが、五輪書相伝方式の体裁が崩壊しており、すべて海賊版写本の末裔であるという特徴を示す。

 (2)肥後系五輪書への偏向

 従来、五輪書といえば、細川家本をはじめとする肥後系五輪書を中心とした研究が支配的であった。しかし、この肥後系諸本が、非正規の海賊版に発する諸系統の末裔である以上、これを五輪書テクストのスタンダードとすることはできない。しかも、肥後系諸本だけを見ていては、字句の正誤判断さえできないのである。しかるに、これまで、肥後系諸本を中心とする偏向が長く続いて、その悪弊のために五輪書研究は今日まで停滞したままであった。

 (3)筑前系諸本のプレゼンス

 筑前二天流で伝わった五輪書は、上記の相伝方式を維持して伝承された、門流内部の正規版である。それが肥後系五輪書との相違である。とくに、最近発掘の立花=越後系諸本が加わったことにより、筑前系の参照写本が増えた。それら諸本が、従来の中山文庫本や吉田家本とは異系統の立花峯均系であることが重要である。これにより、筑前系諸本間の位置づけが可能になり、かつまた、筑前系/肥後系を横断して広範な比較照合をすることができるようになった。

 (4)五輪書研究の再組織化

 この最新の史料状況により、五輪書諸本のテクスト・クリティーク(史料批判)は、最初から仕切り直すことが必要となった。つまり、五輪書研究のフォーメイションの全面的な変更と再組織化である。従来のように肥後系諸本に偏った五輪書研究では、視界地平の制約があって、誤ることが多かった。五輪書研究のもっとも基本的な前提条件は、できるだけ広く諸本を漁渉して、その字句を比較照合することにある。つまり、筑前系/肥後系を横断して諸写本の文言を客観的に評価判断し、想定しうる字句文言の古型へアプローチすること、これが五輪書研究の要件である。

 (5)「原五輪書」の復元

 五輪書テクスト研究は、まず、寺尾孫之丞段階のかたちへ遡及すること、そしてさらには、寺尾版の段階を越えて、武蔵のオリジナルを復元することである。どんな史料であれ、オリジナルのかたちを復元してはじめて、その読解に進むことができる。しかし、実は必ずしもそうではない。原型の復元には、記述内容の解析が必要である。文意を理解できなければ、語句の復元も可能ではない。それゆえ、我々の五輪書研究も、復元しつつ内容を読み解き、また逆に、読解しつつ語句を復元するという双方向の二重操作を必要とした。そのようにしてはじめて、五輪書テクストの原型確定へ一歩ずつ前進できるのである。


 以上、基本的な関連事項を列挙して要約したのだが、これで現在の五輪書研究の最前線の様相たるや如何なるものか、概略は把握されたことと思う。しかしながら、残念なことは、我々のこの研究レベルに比肩し得る五輪書研究が他に存在しないことである。

 かくなれば、我々は目下の開拓地平を明示しておいて、今後の研究進展は、後学の諸君に期待するほかない。この五輪書読解研究を公表する目的の一つは、後続の研究者の育成にある。

 そのために、本論読解研究において、従来の本文校訂や語釈読解についても、それを個別に批判しておいた。何がどう間違っているのか、それを知らなければ、研究の前進はありえない。それは武蔵が風之巻で教えていることでもある。


 さて、以下本文には、我々の五輪書研究会版テクストとその現代語訳、そして当該テクストの校異を検討し、また読解に関わる註解を附す。

 これは五輪書研究としては未曾有の膨大な分量である。このように数千枚に及ぶという研究ゆえに、ハードコピーの刊行物、つまり書物にするにしても、それは今日の出版事情ではとうてい実現不可能である。それが、このように閲覧可能になったというのも、インターネットという新媒体が成立した御蔭である。もって時代に感謝しなければなるまい。

 ただし、あらかじめ断わっておくが、これは一般向けの五輪書サイトではない。もとより、五輪書研究の最前線である。専門的な分析や検討に関わる詳細な論説が多いので、一般の読者は、読み通すのに困難を感じるであろう。

 したがって、あえて警告しておくが、本気で五輪書について知りたいという根性のある者でなければ、逐条現代語訳を通読して、このサイトをさっさと退出する方がよかろう。そして、あえて残留する覚悟のある者だけが、五輪書の真実にアクセスできるであろう。

 

 この読解研究では、前述のように現代語訳を付すのであるが、語訳について言えば、それが解釈に関わるものであるから、いわば、テクスト読解の入口であり、そして出口である。

 そこで、従来の解釈例として、個別箇処において、既成現代語訳を論評する必要があった。しかし、結論を言えば、既成現代語訳はすべて落第である。

 戦後の現代語訳は、徳間書店版五輪書(神子侃訳・昭和三八年)、教育社版(新版はニュートンプレス)『原本現代訳 五輪書』(大河内昭爾訳・昭和五五年)、および講談社学術文庫版五輪書(鎌田茂雄訳・昭和六一年)が存在する。

 また、戦前(というか戦中)の訳本『宮本武蔵五輪書詳解』(石田外茂一訳・昭和十八年・大阪屋號書店)が手元にあるので、それも例に加えてよかろう。興味深いことに、多くのケースにおいて、戦後の現代語訳は、戦前のこの石田訳に劣る。戦後、五輪書翻訳能力は、低下の一途をたどっているのである。

 既刊本現代語訳は、何れも岩波版(細川家本)にのみ依拠するという点で、根本的な偏向がある。そして、これら訳本には、どれも苦笑を禁じえない誤訳が多い。また、岩波版五輪書注記(『日本思想大系61 近世藝道論』岩波書店 昭和四七年)にも、滑稽な誤釈を演じているケースが少なくない。以下の読解研究では、岩波版注記も含め、誤訳・誤釈の目に余るものについてはこれを指摘し、読者の注意を喚起しておく。

 まことに、五輪書ほど誤読され誤解されてきたテクストは、他にない。それは既成現代語訳を見れば、それが知れよう。これらの拡販された既成現代語訳を矯正する作業は、ほとんど徒労と言うべし。しかしながら、五輪書を誤読し誤解するという近代特有の劣悪な状況がある。それを改善する役割と任務を遂行する、という意義も、ここにはあろうというものである。

 無益な指弾と言うなかれ、無用な批判と言うなかれ。階段は一歩ずつ踏んで上がる。それと同じように、一つひとつ問題を踏みしめて片付けて行かなければなるまい。千里の道も一歩ずつ、である。

 この五輪書読解研究は、平成十五年(2003)より公開されてきたが、その後も五輪書現代語訳の刊行は引きも切らぬありさまである。まことに五輪書の「需要」はいまだに多いのである。しかるに、従来のレベルを超えたものは一つもない。誤訳が反復され再生産されているだけである。まことに嗤うべく、また同時に嘆かわしいかぎりである。しかるによって、既成現代語訳については、上掲諸本を論じることで、いまだに十分である。

 なお、つけ加えれば、この五輪書読解には、個別の問題箇処でそれぞれ諸本校異を検分しているが、別に、[五輪書異本集]として、現存五輪書写本のうち参照すべき諸本を収録している。最近発掘の諸本も含めて、独自に翻刻した写本集である。五輪書の全文を逐条対照できるようにしてある。これらは、申すまでもなく、我々の五輪書研究の基礎資料である。我々の研究姿勢は、いわば楽屋裏までオープンなのである。参考にされたし。