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【満州写真館】チチハル(斉斉哈爾)の満州時代を地図・画像とともに紹介

北満州の平原の都市、斉斉哈爾(チチハル)を紹介いたします。

この地域はハルピンから斉斉哈爾(チチハル)を経由して北へ行く路線、そして満州里へつながる路線も整備され、交通の便は改善しました。

チチハルへはハルピンから鉄道にて半日程度で到着します。

町は松花江の支流、嫩江(のんこう)のほとり、東岸にあります。日本の開拓団が入植した所ですが、満州国設立前にチチハル日本人居留者は300名程度であったそうです。

ハルピンよりも北に位置すること、内陸であることから冬の寒さは厳しく、北原白秋の詩集「満州地図」にも『星さへ凍る晩でした』と歌われるほどです。10月には夜になると5℃以下となる寒さです。

まずは地図から紹介いたします。白地図に管理人にて色を付けてみました。

右下、青い丸がハルピンがあります。そして線路が延び、一旦分岐してチチハルがあります。赤く塗ってみました。また巨大な山脈、興安嶺を緑で塗っています。

 

 

斉斉哈爾(チチハル市街地図)

チチハルは古くからある町で、清の時代の前からここに町がありました。

清朝のときにロシア東侵政策の防衛としてネルチンスク条約で国境画定、さらにこの町を防衛拠点として、軍事と政治の中心都市として定めました。

チチハルは、土地の少数民族であるダフール族の言葉で国境の要塞という意味だそうですが、チチハルと名付けられたのは満州国設立後です。

街は、おおよそ碁盤目大連や奉天にみられる様な整ったものではなく、あまり都市計画は進んでいなかったようです。

 

チチハルは満州国設立当時の人口は7万人程度でした。内分けですが、漢民族がほぼ占め、一部、満州人が居ました。城壁都市で内城、外城、城外の区域に分かれて形成されていました。

内城は、2メートル半ほどの高さの黒レンガの城壁で、東西南北に門がありました。

内城には東南に孔子廟がそして魁星楼がありました。

外城は土壁でした。

この外城の南西部に外国人居留区があり、僅かですがロシア人などがいました。

経済上、あまり重要性が無いためか、ロシア人などの外人の居住もわずかでした。

地図から、四角い内城がわかります。

左に嫩江があります。河は地図の上から下方向へ流れています。

 

斉斉哈爾 南大街

内城の南門外に連なって南大街という商業区が広がっており、目抜き通りとなっていました。

さらに外城の外に城外があり、永定大街、竜門大街、永安大街がありました。

この付近は、南部満州に比べると農業はふるっていませんでしたが、麦、大豆、粟が採れ、放牧もありました。

画像は斉斉哈爾大街です。高い位置から道路を見下ろしており、恐らく城壁の上からの撮影でしょう。道の真ん中では警官と思われる服装の人物がこちらを見上げています。

道路は整地されていますが舗装はされていない様に見えます。また道路の左右は歩道が確保されていますが、板張りです。

『斉斉哈爾市街の最も繁盛なのは南門大街と南門外である。ここは商舗が立ち並び、すこぶる賑わっている。ただ周辺は生産に乏しい。付近からは雑穀、魚類、真珠、工業品も産出するが、その数量も金額も決して多くは無い。』

この付近はあまり生産性の良い地域ではなさそうです。

魚類は河から得られるのでしょう。また真珠とありますが、淡水真珠のことか、と思われますが詳細は不明です。

 

斉斉哈爾(チチハル)市街地

チチハルを見渡します。斉斉哈爾は平原の中の街という紹介があり、なるほど斉斉哈爾の写真はどれをみても遠くに山陰がありません。

画面上中央やや左に、ぽつんと高い魁星楼が見えます。

他には特に背の高いビルもありません。屋根の平らな家、大きな三角の屋根が混在しています。

斉斉哈爾には、もともと清の頃からの官吏や軍人の末裔がいました。いわゆる八旗人です。

 

斉斉哈爾(チチハル)市街地 2

高い建物の上から斉斉哈爾を見下ろしてみます。

家は高い壁で囲まれています。屋根の平らな家ととがった屋根とあり、とがったほうは瓦屋根です。

 

斉斉哈爾(チチハル)繁華街

同じくチチハルの繁華街をみてみます。白い大きな建物が見え、馬車が行きかいますが、自動車は特に見えません。

特に背の高いビルが見えないものも、これまでの写真と同じです。

看板がいくつもみえますが、いずれも漢字です。画面中央、白い壁に縦書きの漢字がありますが、"林"の右のほうにちらりとだけ「マ」と読めるものがあり、もしかすると日本語の看板かもしれません。

 

斉斉哈爾名所 商舗櫛比する南大町の盛観

人が沢山行きかう大通りです。馬車が多く観られます。

遠くにある白っぽいゲートですが、中央に英語で「WELCOME」とかかれています。何故英語が?という気がします。英語のわかる人が、見た目のよさで掲げてみたといったところでしょうか。

上に掲げられている旗は不鮮明で判明しませんでしたが、アメリカやイギリスのものではありません(単一色でやや濃い色で、日本国旗でもなく、満州国の国旗でもなさそうです)。英語と関係のある旗でもなさそうです。

 

こちらも市街地をみわたしたものです。二階建てのビルが左上に見えます。

画面遠くにぽつんと魁星楼と思われます建物が見えます。

さてこちら斉斉哈爾には北満の行政に必要な施設が多く集中しており、日本赤十字社、駐屯地、さらに露国領事館もおかれています。これは満州北部に広くロシア人が点在していたことをうかがわせます。

昭和初期の古めの書籍ですと

『チチハルはロシア的色彩濃厚なスラブ式の都会である。

ロシアは満州里(マンチュリー)周辺の鉄道を足がかりに満州への勢力を持っていたが、これは昭和十年に売却して、完全に後退した。亡命のロシア人たちはチチハルを中心に北満州にすむ。』

という記述があります。

つまり、北満州の国境地帯は、亡命してきたロシア人の子孫やソ連邦からの逃亡ロシア人が住んでおり、役所はチチハルにあった様です。しかし、チチハルに住んでいるわけでは無く、その周辺にでも住んでいるのでしょう。

 

さてチチハルは満州立国にあたり、学校などの施設も作られており、こうした様子は満州の他の大都市に負けていないようです。農業学校、師範学校、工業学校、商業学校、小中学校、女子中学校、女史教養院、女史職業学校などがありました。

 

斉斉哈爾フランス教会

チチハルにあった教会です。写真でみても地上4階くらいはありそうですし、塔の部分は5~6階くらいはありそうです

欧州ふうの名前がついているのも特徴ですが、当時の書物には特にこの教会に言及したものはありません。満州の都市にはたいてい教会がありましたので、たいして珍しくもなかったのでしょう。

チチハルは大きなビルが少ないだけに、この大きな教会はめだったことでしょう。塔の上には小さい窓があり、ここからは遠くが見渡せたと思われます。

 

さて、教会の前には人々が集まっていて賑やかそうです。

 

教会前の雑踏をクローズアップしてみます。

壁に沿ってテントが見え、テーブルも見えますので、

屋台でもでているのでしょう。

画面中央手前、木製と思われる円筒状のものが二つ見えます。おそらく人が担ぐ行商人用のものと思われますが、何屋さんかまでは判別できませんでした。

 

斉斉哈爾駅

チチハル駅ですが、キャプションがなく詳細は不明です。

大きな給水塔が遠くに見えます。

 

近代化されたチチハル駅です。日本人の設計によるもので、上の階はホテルを兼ねています。

また広い広場を持つ新しい区画に造られた駅で、恐らく、先のチチハル駅とは違う場所に建てられたと思われ、また先のチチハル駅はこちらの駅に着替えられたものと思われます。

 

実はこの駅は区画整理で出来た更地の端っこあり、周りはなにもありません。この駅舎を離れた位置から撮影した写真がありますが、野原の真ん中にぽつんと建っている様にすら見えます。満州国崩壊まで、駅の付近の区画は更地のまま、建物などは埋まらなかった様です。

市街地には映画館もありましたが、この駅舎での映画上映について言及した資料がありました。イベントとして映画上映があったのか、シアターがあったのかは不明です。

 

魁星楼

窓、手すり、屋根まで細かく細工された建物です。

人が登っているのがみえます。この楼閣は城壁の一部でもあります。

魁星楼とは科挙制度があったころの学府のものです。

科挙制度の首席を魁(優れたもの)と呼んだことによります。

つまり中国のあちこちに魁星楼はあったわけです(今日でも観光用にいくつかありますが、再建されたものがほとんどのようです)。

ところが魁星楼何故かこのチチハルのものが有名で、満州国時代はこちらの写真ばかりが出てきます。これについて考えますに、ほかに高い建物の無いチチハルで最も目立った、チチハルに他にこれといって名所が無かったからでしょう。

 

 

魁星楼の上部をクローズアップしたものです。撮影された角度は同じ様です。

満鉄斉斉哈爾高所

斉斉哈爾日本領事館

斉斉哈爾(チチハル)市街地 3

いまいちどチチハルの街並みを見ています。

冬景色です。

うっすらと雪がみえます。この付近は豪雪地帯ではなく、さほど雪は積もりませんが、大陸性の気候で夜間は特に気温が下がり、あらゆるものが凍ります。

 

嫩江(のんこう)

氷が流れる嫩江からチチハルの市街地を見ています。遠くに四角くととがった建物が見えますが、もしかすると新しい駅舎かもしれません。

この他、塔の様なものが見えますが、先ほどのフランス教会でしょうか。

 

チチハルは生産性の悪い地域として紹介されています。

沃土、沃野として紹介される満州では珍しいことではあります。

しかしそれでも人は住み、またチチハル周辺に、いくつもの集落や町がありました。

例えば墨爾根(メルゲン)という町もありました。メルゲン城ともかかれ、元々は蒙古族の襲撃を防御するために、金の時代に作られた町です。詳しい資料が無く、満州全土を紹介する書籍にも数行程度の記述しかありません(人口も7万は居るのでは、という推定のみ)。

勿論写真もなく、土壁の城塞都市であることくらいがわかるくらいです。

このメルゲンもチチハルと同じく嫩江(のんこう)に添ってできた町です。つまり水があれば町が出来、人は住んでいた様です。

 

北満州は、南満州と比べると、確かに農産物の生産も低い様ですが、チチハル以外は沃野として表現されています。これは想像ですが、近代に開墾された土地は生産性はよくなっており、沃野として紹介されたのかもしれません。

 

チチハル近郊

チチハル近郊での放牧風景です。角の立派な羊も見えます。

 

遠くまでさえぎるものの無い平らな土地です。

こうした土地にも日本人をはじめ入植者がありました。

 

北満州に移植したかたがたのエピソードからいくつか拾ってみます。

北満の大平原では局所的に上昇気流が起きるのか、唐突に雹(ひょう)が降ることがありました。直径2センチにもなる代物で、体に当たると痛いほどですが、何しろ広くて平らで木も生えていない広野では身を隠す場所がなく、ひたすら降り止むまで耐えるしかなかったそうです。

 

大平原には狼や兎など様々な動物がおり、狩人もいました。また北満州は天然資源の珍しいものが多く、ロシア人狩人が緑柱石(アクアマリン)の大きな石を見つけて満州人に五千元で売って大もうけしたそうです。その値段が付くということは、当時の満州人に、お金持ちが居たことがわかります。