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織田信長のルーツについて長文で考察

(1)

 

 織田信長を生んだ尾張織田家の先祖は越前の国の二宮、織田剣神社(福井県丹生郡織田町)の神官であった。剣神社は古く奈良時代以前にさかのぼる神社で、須佐之男尊(素盞嗚尊)と 気比大神、そして仲哀天皇の皇子忍熊王を祀る。その神体の剣は垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、忍熊王が神 功皇后より賜ったものだと伝えられている。忍熊王というのは継母の神功皇后の子である応神天皇が九州から攻め上ってきて、兄のカゴ坂王とともに滅ぼされたという皇子だが、その皇子が祭神になっているのは注意を引く。須佐之男尊もまた天照大神によって高天原を追放された神であったことと考え合わせると興味深い。

 この神社が所蔵する国宝に770(神護景雲4)年9月11日銘のある梵鐘がある。梵鐘があるということは神宮寺があったということだが、剣神社の神宮寺は、中世には織田寺と呼ばれ、延暦寺の末寺として多くの坊舎があったという。
 織田剣神社はこの地方の豪族伊部氏(忌部氏)の氏神であったという。伊部(忌部)氏は もともと祭祀を掌る古代豪族だったが、この地の伊部(忌部)氏も代々、剣神社の神官を努める一方、製鉄や陶器の生産に携わっていたそうだ。

 ところが織田氏は古くから藤原氏を称しており、実際剣神社には、1393(明徳4)6月17日に織田荘の荘官であった藤原信昌と嫡男の兵庫助将広が修めた置文が伝えられている。この藤原信昌が尾張織田氏の祖先と考えられている。尾張に移った織田氏も藤原姓を称しており、1518(永正15)年の織田大和守達勝の制札には藤原達勝と署名している。

 もともと伊部(忌部)氏だった剣神社の神官で織田荘の荘官だった豪族が藤原氏と姻戚関係を結んで、姓を藤原と改めたということだろうか。

 剣神社に残されている願文にある兵庫助将広という名の「将」の字は、この頃越前国の守護であった斯波義将から与えられたものと考えられている。中世から近世にかけて、武家では主従関係を結ぶと、主人から自分の名前の一字を貰い、それに親から受け継ぐ代々の通字と組み合わせて諱を作ることが一般的であった。これを偏諱といった。この藤原将広は斯波義将と主従関係を結んだということだろう。

 応永年間(1394年~)の初めというから、藤原信昌、将広親子が願文を修めた時からすぐの頃だが、越前守護職を継いだ斯波義将の子の義重は、織田常昌(常松)を登用したと「織田家譜」は伝える。この常昌(常松)は法名で諱は分からないが、時代的に見て、藤原将広と同一人物 だという説がある。

 

 

 

(2)

 1399(応永6)年、 明徳の乱後、幕府の存在を脅かす存在となった大内氏の勢力を抑えようとする将軍足利義満の挑発に乗って、大内義弘が関東管領足利満氏と結んで堺で反乱を起こすと、斯波義将と子の義重は、幕府軍として大内軍と戦った。その戦功によって翌1400(応永7)年3月、斯波義重 はこれまでの越前守護職に加え、尾張守護職を得た。義重は越前で斯波氏の被官であった甲斐氏、二宮氏、織田氏などを尾張に派遣し、当初甲斐祐徳が守護代 を務めたが、まもなく織田常松がこれに代わり守護代になった。こ うして織田氏が尾張に土着することになる。
 常松というのは法名なので、諱はわからないが時期的に見て織田剣神社に願文を修めた藤原将広のことではないか。

 義重は幕府の重職にあったので、守護代となった常松も京に居ることが多かったため、常松の弟と思われる織田常竹が又代(守護代の代理)と して、守護所であった下津城(稲沢市)で職務に当たった。下津は鎌倉街道沿い の地だが、下津城址と推定される地域からは、近年多くの中世陶磁や漆製品、木簡などが発掘されている。 また14世紀半ばに建立された臨済宗妙興寺には、1404( 應永11)年の織田出雲守常竹の署名した文書と1408(応永15)年に織田伊勢守常松が署名した文書が残されている。

 1405(応永12)年7月25日に斯波義重は幕府管領(~応永14)となるが、この頃守護斯波氏の居城として清洲城も築かれる。清洲は伊勢街道と鎌倉街道の分岐する 場所にあり、東西交通の要衝だったが、これ以後、200年間、尾張の中心地となった。

 この頃将軍の地位を子の義持に譲り北山第(金閣寺)で大御所政治を行っていた足利義満の栄華は絶頂期にあった。勘合貿易で巨大な富を得、1408(応永15)年3月8日には後小松天皇を北山第に迎え、翌月4月15日には、義満の次男義嗣が親王に準じた格式で元服の式を挙げるなど、 義満の権勢と野望は天皇になろうとした道鏡をも想起させるものがあった。ところがそれから一月も経たない5月6日、義満はあっけなく死んだ。前月より重病だったというが、暗殺されたという可能性も否定出来ない。
 当時管領の職にあった斯波義重はその喪に服すために、8月10日、職を辞し、家督を子の義敦に譲る。義重は将軍義満に寵愛され、義満の猶子となり、名のりも義教と改名していた。
 義重(義教)は1418(応永25)年没したが、その後も尾張守護代は織田常松だった。しかし1428(正長元)年 、正長の大一揆が京都で起こり、地方にも波及し、世を震撼させていた頃、常松は病にかかっており、織田弾正というものが病床に侍るという記録がある。その翌1429(永亨1)年8月、 斯波義敦は幕府管領となったが、 同年織田勘解由左衛門(教長)が守護代となったという記録があるから、この頃までに常松は没したのだろう。 常松より家督を嗣いだ織田教長の「教」という字は、恐らく斯波義重が義教に改名した後に与えられた偏諱だと思われる。


 

 

 

(3)

 尾張織田氏は織田剣神社の願文にある藤原将広と思われる初代織田常松から、1429(永亨1)年頃、その子と思われる 織田教長の時代に移る。しかし1431(永亨3)年以後教長の名前は文書に見られなくなり、それに換わって敦広が登場する。やはりこの「敦」は斯波義敦からの偏諱と思われ、初代藤原将広→斯波義将、織田教長→斯波義教、織田敦広→斯波義敦というように、斯波家の代 がわりに平行して、主君の偏諱を得た守護代の織田家当主が登場している。
 その後の尾張守護代には織田郷広という人物が出てくる。「郷」は斯波義敦の後、尾張守護となった斯波義郷の偏諱だが、義郷は義敦の弟で、1433(永亨5)年、義敦に子がなかった為 斯波家の家督を継いだ人物である。
 ところが1436(永亨8)年9月29日、斯波家の家督を嗣いで3年目、義郷は三条中納言邸に訪問した帰路、落馬し、翌日には死んでしまった。義郷が没すると、まだわずか2才の千代徳丸(義健)が家督を継 ぐが、斯波家の実権は老臣の甲斐常治が握ることになる。織田郷広はこの1433年から36年の間に尾張守護代となり、「郷」の偏諱を与えられたということだろうか。

 。内大臣万里小路時房の日記『建内記』の記事に、1441(嘉吉1)嘉吉の乱が起こった年の12月21日、尾張守護代織田郷広 が寺社領・本所領を横領したとして追放され、逐電した事件が記録されている。
 この時代は、荘園制が解体し、一円支配の領国制に向かっていおり、最終的には戦国大名によって統合される過渡期だったから、京都に居る不在領主の土地が在地豪族に横領されるというのは日常茶飯事だっただろう。当時、織田郷広に「郷」の偏諱を与えた斯波義郷は急死し、尾張の守護はまだ7歳の幼君だった。
 その権力の空白によって権力抗争が起こり、尾張の守護代織田郷広に対立する甲斐氏や、それに結びついた京都の不在領主が幕府の高官を動かして追放処分にされたということだろう。

 郷広が逐電した後、織田家は敏広が嗣いでいたが、郷広は将軍足利義政の愛妾今参局に働きかけて、赦免の内諾を得た。 ところが甲斐常治の意を受けた義政の生母日野重子 は、自分を差し置いて妾の意向に従ったことを怒り、嵯峨の里に引きこもってしまった。困惑した義政は結局、赦免を取り消し、今参局は追放されてしまった。その後郷広は甲斐常治によって越前で殺されたという。 織田氏は尾張に移ってからも越前坂井郡に領地を持っており、織田主計という者が管理していたことが、『大乗院記録』によって確かめられる。郷広は寺社領などの横領を追及され逐電した後、この地に移って再任運動をしていたのだろう。

 

 

 

 

(4)

  織田敏広が郷広の子か弟かはわからないが、「敏」は斯波義敏の「敏」を与えられたもので、「広」は織田剣神社願文の藤原将広以来、織田一族の通字になっている。
 斯波家の家督は義健が嗣いだが、その義健も、跡継ぎもなく、わずか17歳で死んでしまう。その後家督を嗣いだのが、斯波斯波高経の曾孫で持種の子の義敏であった。1452(享徳元)年のことである。この斯波義敏と織田敏広が応仁の乱の物語の配役として登場することになる。

 斯波義健が2歳で守護となり、17歳で死去したということは、斯波家の実権がすべて甲斐常治ら、斯波家の重臣が握っていたということである。そして、義健を嗣いだ義敏は宗家から4代末の一分家に過ぎない。そのことは、義敏が守護となってから、ことあるごとに、甲斐常治と対立するという形で表面化していった。
 常治は斯波家の家臣ながら、将軍に直接謁見することを許されており、常治の妹は幕府の実力者伊勢貞親の側室でもあった。妹に頼めば幕府の政所執事で、将軍義政の養父でもあった伊勢貞親を動かす力も持っていたのだ。このような中で、次第に義敏は甲斐常治と溝を深めてゆく。
 義敏は、甲斐常治の強権的な支配に不満を持っていた甲斐常治の弟甲斐近江守や国人領主堀江石見守年実らと結び甲斐常治に対抗した。そして1456(康正2) 年、斯波義敏は甲斐常治の専横を幕府に訴え出た。しかし政所執事伊勢貞親の側室は甲斐常治の妹である。貞親は将軍の養父である。結局義敏が独断で甲斐近江守を甲斐氏の総領にしようとした として、逆に義敏は敗訴してしまった。訴訟に敗れた義敏はこの年の末に、氏寺の東山東光寺に入り、1年以上も謹慎することになる。

 このような中、翌1457(長禄1)年、11月、斯波義敏の家来が甲斐常治の家来の田上某の京宅で乱暴するという事件が起こった。事件を聞いた甲斐常治は直ちに将軍義政の上意を得て、朝倉孝景・織田敏広・山名教豊 を派遣して斯波義敏の家臣40名ばかりを皆殺しにさせた。斯波義敏と甲斐常治の対立は越前の国人領主を巻き込んだ争いに発展してゆく。


 

 

 

 

(5)

1458(長禄2)年、将軍義政は、斯波義敏を許し、甲斐常治と和解させた。しかし義敏を頼む越前の国人らは納まらず、越前坂井郡の堀江利実を盟主として甲斐 常治や朝倉孝景らの守護代方と合戦をはじめた。
 守護方の国人らは、一旦は越前国内を制圧したが、朝倉孝景・甲斐八郎らが急遽京より帰国し、さらに幕府が若狭・加賀など隣国に出兵を求めるに及んで形成は逆転した。
 朝倉孝景は将軍義政の命に従い、甲斐常治を助け、国人一揆と戦い、長禄2年春から翌長禄3年5月まで越前敦賀郡で21回合戦をし一度も敗れなかった。朝倉孝景は 最初の戦国大名といわれる人物だが、織田信長の時代に生まれていたら、歴史は全く違ったものになっただろう。

 このような情勢の中で、1459(長禄3)年5月、古河公方足利成氏の討伐を命じられていた斯波義敏は、出兵の途中引き返し、その兵を甲斐常治が拠る敦賀の金ヶ崎城に向けた。しかし甲斐方は義敏の動きを予想しており、充分に備えを固めていた。義敏は兵船50艘で海から金ヶ崎城を攻めたが、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗し、第二派の攻撃も斥けられた。 戦いに負けた上に、この金ヶ崎城攻撃は、将軍義政への反逆である。追い詰められた斯波義敏とその父大野持種は、周防の大内教弘を頼って落ちていった。

 この金ヶ崎城攻撃が、守護方の唯一の勝機だったから、これに敗れた以上、国人一揆の制圧は時間の問題だった。鶴賀・府中(武生市)を奪回した朝倉・甲斐軍は、北庄(福井市)に迫った。1459(長禄3)年8月11日の夕刻、北庄(福井市和田)で両軍の決戦が行われ、朝倉孝景と甲斐氏の連合軍は大勝し 、堀江利実以下700人以上の国人方が戦死したという。
 皮肉なことにこの守護方国人一揆との決戦の翌日、甲斐常治 は京都で死去する。結局、この後越前を制圧したのは朝倉孝景で、織田信長に滅ぼされるまで100年間支配することになる。
 孝景は堀江氏の所領や、興福寺大乗院領河口荘・坪江両荘を支配することになったが、年実の一族の堀江景経を2500貫でこの地に封じたり、興福寺大乗院の荘園は半済として、領家に納入 した。甲斐常治の支配の仕方を是としない、孝景の民心掌握術の現れだが、このことで孝景は興福寺大乗院の尋尊から感謝されている。

 斯波義敏が大内氏を頼って周防国に逃れた後、幕府は斯波氏の家督を一旦義敏の子の松王丸に与えが、
1461(寛正2)年、松王丸の家督を廃し、先代義健の後見をしていた足利氏の一族渋川義廉を家督とした。義廉は応仁の乱の配役の一人となってゆく。


 

 

 

(6)

 

 1460年(長禄4)年、斯波氏の老臣、甲斐・朝倉らが渋川義鏡の子を推し、後嗣に定められ、松王丸(義良)は斯波氏の家督を罷免され出家させられた。義廉の母は山名宗全の女だったから、 背後に山名宗全の 力があったのだろう。山名宗全は嘉吉の乱を鎮定して以来、旧赤松氏が守護をしていた国も併せて、6ヵ国の守護を兼ねる大大名となり、絶大な勢力を持っていた。しかし、斯波氏の出身でもなく、越前にも尾張にも頼みとする被官も持たない義廉の支配基盤は安定したものとなりえなかった。

 周防に下っていた義敏は側室が将軍義政の寵臣伊勢貞親の側室と姉妹だったのを頼り、貞親を動かし、1463(寛正4)年11月13日、将軍義政の生母日野重子の百か日 を機に、斯波義敏は赦免され、1465(寛政6)年12月に父大野持種とともに入京、 12月29日、将軍義政と後継者と決められている今出川の足利義視の元に出仕した。伊勢貞親の子の貞宗はこうした処置は乱の元だと諫言したが、貞親は却って貞宗を勘当してしまった。

 翌1466(文正元)年7月、斯波義廉は 斯波義敏の家臣数名を捕らえて斬り、妻が山名宗全の娘であったことから支援を受けて挙兵を企てる。しかし将軍義政はこれに怒り、側近の伊勢貞親や相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂らの意見を取り入れ義廉の斯波家総領職を罷免し、7月23日、義廉を廃して、斯波家の家督を 義敏にあたえた。こうして8月25日には再び越前・尾張・遠江の守護に任じ られた。そして義廉に勘解由小路の斯波家の館を明け渡すように命じた。

 これに対し、斯波義廉は織田兵庫助敏弘と弟与十郎広近 に軍を率いて上洛させ、斯波家重臣の甲斐常治・朝倉孝景らは斯波義廉を支持し山名宗全に協力を訴えた。宗全は伊勢貞親らの無道に怒り「義廉の館に入って上使を待ち受け、合戦してくれよう」と、分国の軍勢を呼び寄せた。 そして勘解由小路の館に、櫓を上げ、盾を垣根のように並べて合戦に備えた。

 ところが9月には逆に、斯波義敏を支持していた伊勢貞親や季瓊真蘂らは、「義廉方の軍兵上洛は、今出川様(足利義視)の指図で、御所様(義政)の御命を狙っております。」と讒言し、日野富子が生んだ足利義尚を跡継ぎに決めさせようとした。しかし、その陰謀が山名宗全の知るところとなり、蔭凉軒真蘂と伊勢貞親の屋敷が山名軍に襲撃されそうな形勢となった。9月6日、伊勢貞親は驚いて、側室を連れて逐電し、義敏も越前に逃亡した。そして義廉はふたたび斯波家家督を取り戻し、9月14日、甲斐左京亮、織田広近、朝倉氏景らを従え、幕府に出仕した。


 

 

 

 

(7)

 1467(応仁1)年 1月8日、昨年末の政変を受けて細川勝元派の畠山政長が管領を罷免され、斯波義廉が管領に就任した。政長は山名宗全の後援を得た畠山義就とこれまで10年に渡って家督争いを続けてきたのだが、今回の政変によって窮地に追い詰められたのだった。

 1月18日未明、政長は、万里小路の自邸を焼き払い、みぞれまじりの烈風が吹く中、上御霊社に向かい陣を構えた。しかし政変の後、政長の軍からは逃亡する兵も多く、味方は2千ほどに過ぎなかった。一方義就方は幕府を山名宗全が掌握したことで、士気盛んで、将軍義政が両畠山だけの戦いにするよう、双方に助力を禁止したにも拘わらず、山名方援軍も義就の陣中に加わ り、その兵力は5千に達していた。
 それに対して細川勝元は動かなかった。政長に援軍を送れば、将軍の命に背くことになるし、任国の兵を上京させるなどの準備も出来ておらず、ここで戦えば山名宗全の注文通りになることは明らかだった。

 細川方の援軍がない限り勝敗は明らかだった。援軍が来ないことがわかると、政長は戦死した兵を拝殿に集めて火をかけ、何処とも知れず落ち延びた。 翌朝、拝殿の焼け跡の死体の山を見た畠山義就は、ここで指揮を執っていた政長も戦死したと信じ込み、それ以上捜索せず帰還した。都の人々も、この上御霊社の戦いからしばらくの間、政長は戦死したものと信じ 同情したのである。

 1月21日、斯波義廉の重臣の朝倉孝景が斯波義敏の父大野持種の館を焼くなど、なおも山名方は細川方への攻撃を仕掛けたが、その後は、一見平穏に戻り、山名方の大名 は勝利の内に問題は解決したと思い込み、兵も領国へ帰してしまった。

 しかし細川方は密かに戦争の準備をすすめていた。3月3日の節句に山名方の大名が花の御所と足利義視の今出川殿に参賀に集まったが、細川方の大名は誰も来ず、そこで初めて細川方の抜き差しならない意図が明らかになったのである。それは戦争の準備ということもあるが、将軍義政への恫喝ということでもあっただろう。


 

 

 
織田信長のルーツ(8)

  4月になると中国地方から都に向かう山名家の荷駄が細川勝元が守護に任じられている丹波を通過する途中に襲撃されるという事件が次々に起こった。そして山名宗全の本拠である但馬と、細川方の赤松氏の本拠である播磨の間でも戦いは始まった。都には各地から召集された両軍の兵士が続々と集まってきた。その数は『応仁記』によれば細川方16万、山名方11万という。

  5月26日、東軍が室町第の北側に面した西軍の一色義直の館を先制攻撃した。将軍と次期将軍に決められている足利義視を東軍側に取り込むことが目的だった。そしてこの策略が功を奏し、将軍義政は6月3日、幕府軍の象徴である牙旗を細川勝元に授け、義視を大将軍として山名宗全討伐の出陣式を行った。
 東軍が幕府軍となったということは、西軍に属し幕府管領の地位を得た斯波義廉も再び、その地位を失うことになる。

 一旦は家督を追われた斯波義敏は再び復活し、斯波氏の守護地である越前・尾張・遠江に入り山名党を攻撃し始めた。織田敏広はこれまでの経過から西軍の斯波義廉に味方し ていたが、斯波義敏は小田井・清洲城主の織田敏定を東軍に引き込んだ。斯波家の分裂は織田家の分裂をも引き起こすことになったのである。

 この織田敏広と敏定の関係はわからない。敏広は岩倉を根拠としたので常松の子で、敏定は清洲を根拠としたので常竹の子と推定したり、兄弟と書かれている本も多いのだが、根拠に出来るような資料はない。織田剣神社の願文の藤原将広の時代からは60年以上過ぎており、3代か4代は経っているから子孫も相当に枝分かれしてるだろう。
 ただこれまでの尾張守護代が、斯波家当主の偏諱を受けた者が多いから、斯波家当主と対応させて推定すると次のような系譜が出来る。

岩倉守護代織田家

     ・・・将広(常松?)━教長(淳広?)━郷広┳敏広 
                               ┗広近━寛広

 

清洲守護代織田家

              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   敏定┳寛定       
                                  ┗寛村


 

 

 
織田信長のルーツ(9)

 

  1467(応仁元)年8月 、西軍の大内政広が大軍を率いて上洛すると、西軍は有利に立ったが、東軍の必死の防戦で勝敗は決することなく戦いは膠着状態に入った。ところが、そんな中で東軍の大将軍で将軍義政の継嗣となっていた足利義視が伊勢国司の北畠氏を頼って出奔してしまった。
 義視が将軍後継者に決まった後に、義政の室日野富子に男子義尚が生まれたので、富子は義尚を強引に将軍の継嗣にしようとして山名宗全を頼り、応仁の乱が起こったのだったが、義視を排斥し、義尚を将軍にしようとしている日野富子と兄の内大臣勝光に何の処分もせず、富子と結託し、義視が謀反の画策していると讒言し、陰謀が露見して京都から逐電した 政所執事の伊勢貞親を密かに京都に呼び戻したりしたため、義視の義政に対する不信感は募り、また細川勝元も義視の後見人といいながら、政略的に利用だけで、義視は東軍の中で完全に孤立してしまったということだろう。

 翌年義政は和解するために伊勢に居る義政を召還するが、義視の不信感は解消するどころか、日野富子や勝光らは義政を動かし伊勢貞親を元の政所執事に復職させる事態となり、義視は 逃げるように再び比叡山に出奔した。
 一方、山名宗全は、もともと日野富子に頼まれ、義尚を将軍にするために決起した筈だったのだが、将軍義政も富子も東軍に取り込まれてしまったために 、代わりに出奔した義視を担ぐ他に道はなくなってしまった。こうして義視を将軍に擬し、山名方の大名によって西幕府を開くことになった。

 これに対して、将軍義政は翌1469(応仁3・文明元)年1月、富子の生んだ義尚を正式に後継者に決定する。この後乱は各地で断続的に続くが1471(文明3)年、斯波義廉の有力武将で 守護代であった朝倉孝景が、越前守護職に補任することを条件に東軍に寝返るという事態が起こった。守護職を得た孝景は越前の有力な西軍である甲斐八郎を駆逐し越前一国を支配してゆく。越前は西軍の補給路になっていたため、朝倉孝景の寝返りは西軍に大きな打撃となった。
 その後1473(文明5)年、山名宗全と細川勝元が、ともにこの年の内に死去し、日野富子の生んだ義尚が9代将軍に任じられると、西軍は戦う名分を失って行った。

 1475(文明7)年、越前を失った斯波義廉は、尾張の織田敏広の拠る下津城に入った。それに対し、東軍の斯波義敏の子で家督を継いだ義良(義寛)は、翌年11月、織田敏定を入部させ、敏定は清洲城に拠って、下津城のを攻撃し、城を焼き払った。
 織田敏定は大和守久長の子で、久長は、長禄の頃(1460年頃)、織田三河守、織田豊後守とともに又守護代の地位にあった人物で、嘉吉の頃(1440年頃)守護代を務めた久広の兄弟か近親者ではないかと思われ、また1443(嘉吉3)年、織田大和守という者が妙興寺に禁制を掲げているが、これは敏定の父久長のことではないかと思われる。

 東軍方の織田敏定の攻撃に対し西軍方の織田敏広は岳父である美濃の斎藤妙椿の援軍を得て、逆に清洲城を包囲した。しかし敏定はこれをよく守りぬき、結局、翌年和議が成立し敏広と敏定は尾張を分割することになった。


 

 

 
織田信長のルーツ(10)

 

  1477(文明9)年11月 、西軍の主戦力であった大内政広が 将軍義政と和解し周防に帰国して応仁の乱は終わった。足利義視はそれでも義政とは和解せず、西軍の土岐成頼を頼った。土岐成頼は京の館に火を放ち、義視と子の義材を伴い美濃の守護所革手城に帰った。幕府は義視の美濃入国を阻止しようとしたが、実現しなかったらしい。

 1478(文明10)年、応仁の乱の一因となった斯波家の家督相続の争いは、東軍が政治的に勝利したことによって、斯波義敏の子義寛が家督を相続することになり、9月9日織田敏定が守護代となった。敏定は幕府より、尾張の「凶賊退治」を命じられ下向した。この時美濃の土岐成頼と斎藤妙椿の助力を得て清洲城に入城したという。10月2日、敏定は敏広に勝利するが、敏広は斎藤妙椿の援軍を得て反撃し、清洲城を攻略、清洲城は炎上し、敏定は右目を矢で射られながらも敵を撃退し、山田庄に敗走した。そして信濃の小笠原氏に援助を求め、翌1479(文明11)年、尾張を南北に分割統治することで和睦した。
 1481(文明13)年3月には、再び敏定は敏広と戦うが勝利し、この年に敏広は死去し、敏広の子が斯波義寛から偏諱を与えられて寛広と名乗り、敏広の弟広近とともに義寛に帰順した。

 翌年、織田敏定は清洲城で、清洲織田家の宗旨を決めるため「清洲宗論」を行った。敏定は熱心な日蓮宗の信者だったが、当時日蓮宗は身延山久遠寺と、京都本圀寺が本末を争っていた為、両者を論争させて、本圀寺の勝訴と決したのである。

 この時弾正忠良信という人物が、又七郎良縁、次郎左衛門尉広貞、左京亮広長らとともに判者を務めている。織田信長の生家は代々「弾正忠」という受領名と「信」という通字を世襲しているから、弾正忠良信という人物は信長の先祖と思われ、時代的に祖父信定の父ではないかと考えられる。


 

 

 
織田信長のルーツ(11)

 

 足利義視は美濃茜部荘に12年間住んでいたが、1489(延徳元)年、将軍義尚が近江の陣中で死去したため、義視の子の義材(義種)が義政の養子となり継嗣に決まり入洛することになった。将軍家の争いはこの後も戦国時代が終わるまで続くのだが、美濃の守護家でも相続争いが起こった。
 土岐成頼は家督を長男の政房ではなく、末子の元頼に譲ろうとした。加納城主斎藤妙純(諱は利国。妙椿の養子)は政房を推し、守護代であった斎藤利藤(妙純の兄 弟)と小守護代の船田城主石丸利光は元頼を推した。そしてついに武力衝突することになったのである。

 尾張の守護家は、応仁の乱で西軍だった斯波義廉が没落したので、東軍の斯波義敏の子義良(義寛)に統一され、守護代は清洲城主の織田敏定になったが、西軍の守護代だった織田敏広 の養子寛広も守護の義良に帰順し、岩倉城を本拠として勢力を保っていた。
 そして1487(長享元)年の将軍義尚と1491(延徳3)年の将軍義材(義種)による両度の六角征伐には、岩倉・清洲両織田家が斯波義寛に従い従軍した。その間も尾張では両家の争いが続いていたが、守護家が統一されていたので、何とか平和を保っていた。

 ところが美濃で継嗣をめぐる争いが起こると、岩倉、清洲の両織田氏は再び両派に分かれて戦うことになる。
 織田敏広の室は斉藤妙椿の娘で、敏広の養子の寛広は斎藤妙純方に着いた。一方、織田敏定の子寛定は石丸年光の娘を妻としていたので石丸方に着いた。こうしてそれぞれの縁に従って敵味方に分かれたのである。

 1495(明応4)年6月14日、両軍が陣を張った正法寺で戦いは始まり、放火によって守護所のある革手の町は灰燼と帰したが、結果は斎藤妙純方が勝利し、7月5日、石丸利光は、土岐元頼と斎藤利藤の子とともに近江に逃れ、土岐成頼は隠居した。
 ところが翌1496(明応5)年、斎藤妙純が岩倉・清洲の両織田家の対立を調停に尾張に行っている隙をついて、石丸利光は管領細川政元や近江の六角氏の助けで、再び美濃に入り、土岐成頼の隠居している城田寺に城を築き、再度挙兵した。しかし石丸方は、再び敗退し、今度は土岐成頼は自刃し、石丸利光の一族を初め、土岐氏譜代の家臣の多くが戦死したり、殺された。これ以後土岐氏は衰亡する。また勝利した斎藤妙純も、この年の末に近江に出陣している時に土一揆に襲われ戦死し、守護代斎藤氏も衰微することになる。

 この船田合戦と言われる美濃の内乱で、石丸方に着いた織田敏定は陣没し、嫡子の寛定も戦死した。清洲織田氏は寛定の弟の寛村が嗣いだ。

 

 

 

 
織田信長のルーツ(12)

 

 清洲争論の時に判者の一人として名を連ねた織田良信は、「弾正忠」という官職名と諱の「信」という通字によって、信秀の祖父、信定の父と推定出来るが、同じ頃、臨済宗の僧侶の万里集九が1485(文明17)年の9月に備後守織田敏信邸で犬追物を見物したという記事を書いている。備後守というのは信長の父信秀も称した受領名である。そして敏信の「敏」は斯波義敏に与えられた偏諱であり、良信の「良」が斯波義敏の子義良(良寛)に与えられた偏諱という推定が成り立つ。とすると

 敏信 ─ 良信 ─ 信定 ─ 信秀 ─ 信長

 という弾正忠家の系譜を推定することが出来る。弾正忠家は、守護代家ではないが、守護から直接偏諱を与えられる家柄だったということだろうか。 この敏信という人物は岩倉城主で、1517(永正14)1月26日没という岩倉の龍潭寺の位牌があるらしい。それには「龍潭寺殿清巖常世大居士 」とあるらしく、『信長公記』に書かれた「西巖 -月巖 -信秀」という系譜と重ねて見ると、「清巖(敏信) -西巖(良信) -月巖(信定) -桃巖(信秀)」という系譜に結びつく 。代々法号に「巖」の字を使っていたことがわかる。
 敏信が岩倉の龍潭寺に葬られているというのは、敏信が弾正忠家の先祖だとすれば、清洲織田家の三奉行となる織田弾正忠家は、もともとは岩倉織田家ゆかりの家だったのだろうか。単に清洲、岩倉両家が尾張を分割統治する以前のことだからさして意味はないのだろうか。それとも清洲織田家の勧誘に応じたのだろうか。

 敏信より以前は推定できる資料がないのだが、初代の織田常松が病床にあった時、傍に織田弾正が侍ったと記録にある。常松が織田剣神社願文の藤原将広だとすれば、その父は藤原信昌である。弾正忠家の「信」という通字はこの信昌から来ているのかも知れない。そして子の名前が将広となったのは、恐らく斯波義将より偏諱を与えられたからで、義将の被官となる前には信広と名乗っていたのかも知れない。そして織田常松の病床にあったという織田弾正というのは、又代を務めた織田常竹のことであったかも知れないし、そうでなくとも、まだ守護代家から、せいぜい従兄弟くらいの関係にあっただろう。弾正忠家というのは、その頃まで遡る、徳川家で言えば御三家のような地位を占めていたのではないか。

 信長の出た弾正忠家は守護代清洲織田家の三奉行の一だと『信長公記』に出てくるのだが、いずれも織田一族で、同じ斯波氏が守護をしていた越前の守護代や重臣が、甲斐氏、朝倉氏、二宮氏など、一氏が独占することはなかったのに比べると、織田氏が重臣を独占していた尾張というは特殊だったと言えるのではないか。そして、そのことが織田信長の尾張統一の時に、大きな障害となったと言えるのではないか。


 

 

 
織田信長のルーツ(13)

 

 弾正忠織田家の居城は津島の北東1里の勝幡城だたが、勝幡城がいつ築城されたのかはわからない。しかし少なくとも信秀の父信定の時には勝幡城が弾正忠家の居城になっていたようだ。尾張国の西端に位置し、また南端に位置しているから、軍事的には重要な場所であっただろう。

 信定の頃の清洲織田家の当主は織田達定だが、敏定、寛定が船田合戦で戦死した為、寛定の弟の寛村が相続したようだが、まもなく寛定の子の達定が守護代となっている。達定の「達」は斯波義達の偏諱で、「定」は岩倉織田家の通字である。

 信定の居城の近くには尾張第一の港である津島があったが、信定の頃までは堺と同じよように、この地方の小領主でもある14家の豪商らによる自治が行われていたらしい。しかし、応仁乱による荘園制の解体にともない、時代は在地支配する国人領主が、周辺の小領主を飲み込み、一円知行する戦国大名に成長する過程で、弾正忠家も再三に渡り領地の横領を繰り返し、支配地域を広げていった。そして居城である勝幡城のすぐ傍に、交易によって多額の利益を生んでいる津島があったから、津島を知行、掌握すれば、そこから大きな富を得ることが期待できた。

 それを可能にする状況が信定の時代に訪れた。1508(永正5)年6月、前将軍足利義種が大内義興、細川高国の軍を率いて入京。将軍義澄を追い、再び将軍となった。義澄を支持していた尾張・遠江守護の斯波斯波義達は、遠江守護職を免ぜられ、義種を支持する今川氏親に換えられた。義達は遠江の国人と結び抵抗を続けるが、1510(永正7)年11月26日、今川勢に今川氏の拠点であった三河の引馬城(浜松市)を奪われた。この年の8月27日、大津波が押し寄せ浜名湖が外海とつながるという天災があり、その混乱の後だった。

 駿河守護今川氏親の遠江進出に対して、義達は、1511(永正8)年から翌年にかけて遠江に出兵し、斯波氏の被官である引間城主大河内貞綱や井伊直平らと共に今川軍と戦った、しかし10月17日、今川方の伊達忠宗の守る刑部城を攻撃するが敗退し、1512(永正9)年閏4月2日、今川方の朝比奈泰熈は斯波義達や大河内貞綱らが寄る引間城を攻略、さらに翌年3月、朝比奈泰以は三岳城に拠った大河内貞綱を攻略し、斯波義達の遠江奪還は完全に失敗した。
 その直後、遠江出兵問題や斯波家家督のことで義達と対立していた守護代織田達定はついに反乱を起こす。反乱は鎮圧され織田達定は自害し、清洲織田家は達定の弟の達勝が嗣ぐが、守護代家の力は大いに衰えることになる。

 さらに今川氏親が甲斐の武田信虎を攻めている隙を突いて、大河内貞綱は再度挙兵し、1517(永正14)年3月、引馬城を奪還すると、斯波義達はそれに呼応し、引馬城に立て籠もった。氏親は急遽武田信虎と和睦し、引馬城を包囲する。そして金掘り人足を使い城内の井戸を枯らしてしまい、8月19日、ついに引馬城は落城する。貞綱は討ち死にし、義達は捕虜となった。命は助けられたものの、出家を強制され尾張に送還された。斯波家の家督は義達の子の、まだ5歳の義統が継ぎ、織田達定の弟達勝が守護代となるが、もはや守護家は飾り物に過ぎず、守護代家も力を失って行く。


 

 

 
織田信長のルーツ(14)

 

 織田 信長による尾張統一というのは、祖父の信定が勝幡城を居城としてから、三代かかって実現したのだが、もともと信定は尾張守護代清洲織田家の三奉行の一家だった 。ただし清洲織田家の奉行と言っても、それは守護代家の家臣ということではなく、同じ斯波家の被官として守護代を補佐する立場ということだろう。この当時の守護代は織田達定だが、1513(永正10)年、守護斯波義達に反乱を起こし自害して後、 織田達勝が守護代を継ぐ。しかし達勝は、清洲織田家は、もはや守護代として、他家に優越するような実力はなかっただろう。つまり三奉行家の実力で補佐して、ようやく尾張南四郡の国人を支配出来たということだろう。1516(永正13)年、守護代織田達勝が妙興寺に寺領安堵の判物を下しているが、三奉行が連署している。この連署はそうした意味を持っているのだろう。
 そして守護家は斯波義達が遠江遠征で捕虜となり出家させられて以後、もはや飾り物でしかなくなってしまっていたのだから、この後、尾張一国を誰が支配するのかは混沌とした状態になったのである。

 守護家の権威も、守護代家の力も失われてゆく中で、弾正忠家は自力で一円支配に進んでゆくが、津島は大橋家を中心とする有力な15家が自治を行っており、『大橋家譜』によると、「大永年中、織田氏卜諍論、数度二及ブ。同四年(1524年)ノ夏、織田兵、津嶋ヲ焼払フ。早尾(海部郡立田村早尾)ノ塁ニ退キ又戦フ。此ノ時、津嶋中ナラビニ寺社ノ什物・官符等焼失云々。時ニ織田家卜和睦有リ。而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ備後守信秀ノ女、嫡大橋清兵衛重長ニ入輿ス。母ハ林佐渡守通村ノ女、是レヨリ津嶋一輩、信長公ノ麾下(きか)ニ属ス」(津島神社ホームページより)という経過で弾正忠家の支配下に入ったらしい。
 同じ1524(大永4)年5月3日、織田弾正忠信貞(信定)が津島天王社祢宜九郎大夫の跡職(あとしき)をその子慶満に附与しており、『大橋家譜』の記事と時期的には一致している。ただし大橋家に嫁いだ御蔵の方は信定の娘ということでなければ話は合わない。この年は信秀はまだ14歳である。

 津島は港町であると同時に、牛頭天王と習合された素戔嗚尊を祀る津島社の門前町である。素戔嗚尊を祭神にしているというと、織田家の祖先が神官を務めた織田剣神社も素戔嗚尊を祀っている。荒ぶる神、反逆の神、戦神である。織田家の家紋はこの津島社の社紋と同じで、津島社は織田家の氏神となっている。


 

 

 
織田信長のルーツ(15)

 

 織田信定が津島15家を代表する大橋家に娘を嫁がせて津島を知行するようになった2年後の1426(大永6)年、一休宗純の弟子で、連歌師の宗祇の弟子でもある宗長が尾張を訪れ た。守山城主の松平信定に招かれ連歌の会を開き、清須三奉行の織田筑前守良頼、織田伊賀守、小守護代坂井摂津守村盛らも、招かれた。
 その後宗長は熱田宮を参拝し、清洲の守護所にある坂井摂津守屋敷に泊まった後、小田井の織田筑前守、
織田伊賀守、高畠孫左衛門らの屋敷を訪れ、その後、織田弾正忠信定の招きで、津島の正覚院に泊まった。この時、信定の子の三郎信秀が、折紙などを持ち正覚院に礼にやって来たと宗長は書いている。そしてここで連歌の興行をおこなったという。この時、信秀は16歳 、宗長はすでに80歳を越えていた。

 宗長は1448(文安5)年の生まれだから、青年時代に応仁の乱に遭遇している。駿河の生まれで鍛冶職慶金の子として生まれ、守護今川義定に仕えた。宗祇が駿河を訪れた時、義忠の命で、名月の清見が関に案内したのが機縁となり、宗祇の弟子となる。
 1476(文明8)、義忠が遠江出征中、敵の流れ矢に当たり戦死した後、宗長は応仁の乱で荒廃した都に行き、一休宗純の元で参禅する。後に大徳寺の再建に際しては、秘蔵の「源氏物語」を売却し、山門の再建に充当したという。1481(文明13)年一休宗純が死去すると、一休の住んだ南山城の酬恩庵(京田辺市・一休寺)の傍に庵を結んだ。
 その後、宗長は師の宗祇に同行して、各地を旅し、諸大名の知遇を得たが、1496(明応5)年、故郷の駿河に帰り、今川氏親の庇護を受ける。その後も京都と駿河を往還するが、1502(文亀2)年、師の宗祇を連れて関東から駿河に向かう途中、宗祇は病を得て、箱根湯本で死去した。宗長はその臨終を見届け、「宗祇終焉記」を残した。
 宗祇の死後は、宗碩とともに連歌の中心的存在として諸国の大名達の招きを受け、又和歌についても秘伝とされる「古今伝授」を受ける才能を示している。

 宗長のような、公家や各地の大名家に招かれる著名な文化人が津島を訪れてることは、津島に一流の文化を伝えるということもさることながら、地方の大名家にとっては政治、軍事的な情報を得るという点でも、大きな意味があったのだろう。
 織田信定 が津島に連歌の巨匠の宗長を招いて、信定の嫡男信秀、つまり信長の父が宗長の元に御礼の挨拶に行き、連歌に接することになるのだが、この連歌が、後に織田弾正忠家の隆盛に大きな役割を果たすことになる。


 

 

 

織田信長のルーツ(16)

 

 1513(永正10)年、守護代織田達定が反乱を起こし没落し、その後1517(永正14)年、斯波義達が遠江遠征に失敗し、捕虜になり出家する。尾張守護 は子の義統が継いだが、その権力は有名無実になり、守護代家も達定の後達勝が継ぐが、その力も衰える中で、今川氏親は尾張の中央に進出し、1525(大永5)年、守護・守護代家の居城清洲城のすぐ近くに那古野城を築城し、 末子のまだ4歳だった氏豊を入れた。またこの頃、松平信定(清康の叔父)は森山に築城する。森山が守山と言われるようになったのは、宗長が招かれた時に作った句に由来するという。

 松平信定は、その頃、松平氏宗家の家督を兄の信忠と争っていた。織田信定はそこに付込んで、娘をこの松平信定の子の清定に嫁がせ、また他の娘を岩倉城主織田信安に嫁がせている。さらに嫡子の信秀には守護代織田達定の娘と結婚させ、姻戚関係によって弾正忠家の基盤固めを行っている。
 一方、尾張に進出して来た今川氏に対しても当面平和外交で接触を図る。駿河の今川氏が遠江を完全に支配下に置き、尾張の斯波氏を無力化させたことによって、尾張は今川氏による占領下の平和という状態にあったからだ。そ うした中で織田信定は津島の経済力を背景に着々と力を蓄えて行った。

 1532(天文元)年、弾正忠家の台頭に反発する守護代織田達勝や三奉行家の小田井城主織田藤左衛門らと対立する。しかし結局和談で解決したという。 守護代家と、三奉行家を相手にしても和談にするだけの実力が、弾正忠家にはあったということだろう。
 翌1533(天文2)年の初め、弾正忠家の家督を継いだ織田信秀は、守護代家の使者織田兵部丞に託し、山科言繼を通じて蹴鞠の指導を飛鳥井雅綱に依頼する。これは豊かな経済力で、貴族や文化人を招き、地方の上流武家に流行する貴族文化を政治的に利用しようとするものだろう。

 秀忠は飛鳥井雅綱らを招くため、勝幡城を改築し、準備を整えた後、7月8日、山科言継や飛鳥井雅綱らが桑名より船で津島に着き、その後、連日の様に信秀の館や老臣の平手中務の邸で、蹴鞠の会や歌舞音曲などの催しが行われたことが『言継卿記』に書かれている。


 

 

 

織田信長のルーツ(17)

 

 織田信秀は津島に宗長が訪れて以来、連歌を続けていたが、その連歌で守護家の斯波義統を通じて那古野城主の今川氏豊と交際するようになった。最初は互いに懐紙を送り、返す形でやり取りしていたのだが、ある時豪雨の中、返句を書いた懐紙を家来が 、運ぶ途中、川に落としてしまうということがあり、那古野の氏豊の方から、こちらへ来られて、同席の上、一緒に連歌をやりましょうという誘い があった。それ以後信秀はしばしば那古野に逗留するようになったのである。

 ある時、信秀が逗留している建物の、本丸が見える矢狭間の戸を、こじ開けているのを氏豊の家臣が目撃し、その不審な行為を氏豊に告げたが、氏豊は「外の景色を見たいのだろう」と言って 、信秀を信用しきっていたという。

1534(天文3)3月、織田信秀は、那古野城 に逗留している時、急病を装い、城中で寝込んでしまう。そして勝幡城から見舞いと称して信秀の家臣がやってきたのだが、それを氏豊は不審がりもせず、城内に通してしまう。その夜、織田兵は那古野城 下に火を付け、見舞いと称して城内居た信秀の家臣は、今川の兵が火を消しに行っている間に、織田兵を城内に引き込む。火消しに向かった今川兵は武装はしておらず、あっさりと討ち取られてしまう。氏豊は 女装をして城を逃れたのだが、この失態では、駿河に戻ることも出来ず、京へ行き出家してしまう。

 こうして信秀は今川氏の尾張領を乗っ取り、尾張の中央部に進出することになる。この年の5月12日、織田信長が勝幡城で生まれ、吉法師と名づけられる。 翌年信秀は、那古野城の近くに、新たに古渡城を築城し 、そこを自分の居城として、那古野城を生まれたばかりの吉法師に与え、林秀貞・平手政秀・内藤勝介・青山与三右衛門を付家老とした。

 その頃、三河を統一した松平清康は、尾張攻略に乗り出し、1535(天文4)年、守山に布陣した。 守山城は、当時信秀の弟織田信光の居城になっていた。もともとこの城は清康の叔父松平信定が築城したのだったが、松平信定は、子の信清に織田信秀の妹を娶り、さらに信定の娘を、織田信秀の弟信光に嫁がせるという二重の縁戚関係を作 り、それを背景に松平総領家の家督を争った。こういう経緯で織田信光の居城となったということか。
 ところが 、松平信定自身は、松平清康の幕下にあった。信定は松平家総領の地位を諦めていない。清康が織田信秀を攻めれば、どういう立場を取るかわからなかった。 清康が尾張に進出しようとすれば、松平一族や三河の豪族の中に、織田家に内通する者が出てくる可能性は常にあったのである。

 こうした中で、清康の家臣安部定吉が織田方と内通しているという噂が清康の家中で囁かれていた。危機を感じた定吉は嫡男の正豊に誓書を手渡し、自分が謀反の疑いで殺されたらこれを主君に見せよと言った。
 そんな矢先、12月5日、清康の陣中で馬が暴れる騒ぎが起こった。それを、父が襲われたと勘違いした正豊が主君の松平清康をいきなり殺してしまった。世に「守山崩れ」と言う事件である。この安部定吉の謀反の噂を流したのは、織田信秀 と密約を交わした松平信定だったという。

 これ以後、松平氏は急速に衰退し、変わって尾張の織田弾正忠家が駿河の今川や美濃の斎藤道三と戦うまでに、勢力を伸ばして行く。


 

 

 

 

織田信長のルーツ(18)

 

 守山崩れで松平家が大混乱となった直後の1535(天文4)年12月12日、織田信秀は岡崎城を攻撃、井田野で松平長親・松平信孝らと戦う。信秀に内通し ていた松平信定は、この機に乗じて松平清康の嫡子仙千代(広忠)を岡崎城より追放する。この時、まだ9歳だった仙千代は、阿部忠吉や大久保忠俊によって伊勢に 逃れる。12月27日、信秀は清康の喪に乗じて三河国に攻め込んだが、大樹寺で清康の弟康孝と戦って敗れた。
 松平仙千代はその後、三河の吉良氏を頼り牟呂城に居たが、翌1536(天文5)年閏10月7日、この年、花倉の乱を制して、今川家の家督を相続したばかりの今川義元を頼った。そして、翌1537(天文6)年6月25日、今川氏の力を借りて岡崎城に戻る。織田信秀と結んで松平惣領家の家督を狙っていた松平信定は、父の長親を通じて広忠に謝罪し、岡崎城を渡して恭順の意を示 した。

 織田信秀は三河侵入に失敗したものの1538(天文7)年7月には美濃の大垣城を攻略する。そして1540(天文9)年、信秀の兵2千と、同盟する刈谷城主水野忠政の兵千を合わせ、3千の兵で再び三河に侵入し、安祥城を攻撃した。一時、松平利長 に撃退されるが、松平長家、松平信康、そして岡崎五人衆の林藤助を討ち取り攻略に成功する。信秀は子の信広を安祥城の城主とし 、この城を三河進出の拠点とした。

 1541(天文10)年9月、信秀は前年伊勢豊受大神宮仮殿造営費として700貫文を寄進している。信秀は、いかに尾張国内では最も大きな勢力を占めているとはいえ、肩書きの上では守護代清洲織田家の奉行に過ぎないから、朝廷や将軍家に金を貢いで、織田一族や国人領主に号令出来る立場を固めようとしたのだろうか。

  織田信秀が尾張における今川氏の拠点であった那古野城奪ったこと、そして松平清康が殺されて三河が混乱に陥り、松平弘忠が今川氏を頼ったことによって、 織田信秀と今川氏が衝突するのは必然的ななりゆきだった。

 

 

 

 

織田信長のルーツ(19)

 

 1540(天文9)年の安祥城攻略戦の後、水野忠政は織田信秀との同盟を破棄し、松平広忠・今川義元と和解、同盟し、忠政の娘、於大の方が松平広忠に嫁ぐ。こうした工作をした後、今川義元は1542(天文11)年8月 、三河に松平広忠を救援し、安祥城を奪回するべく、三河国額田郡の大平川と藤川宿の間、庄田原へ進軍する。その数4万という。一方、安祥城の織田信秀 は、水野氏との同盟関係を失い、その兵力は4千と今川軍の十分の一の劣勢で安祥城より出撃した。そして岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(岡崎市)で遭遇戦になる。
 織田軍は小豆坂の西の坂道を上りきり、東側の坂道を登ってくる今川軍に突っ込んだ。そして西の坂道まで押し戻された時、信秀の弟信光 が今川軍の中に突入し、織田信房、佐々孫介、中野又兵衛、下方左近ら、後に「小豆坂の七本槍」と称えられた勇士がそれに続き、今川勢を打ち破ったという。 今川軍の兵力が4万というのは誇張だろうが、兵力が遥かに劣っているに拘わらず、遭遇戦で敵軍の中枢に向かって突撃するという戦いは、後の信長の桶狭間の戦いを思い起こさせる。

 考えてみれば今川義元というのは17歳まで僧侶として暮らして来た人物である。武将として育てられてきたわけではないから、本当の喧嘩の仕方、勝ち方を体験することはなかったから、どうしても机上の戦略で家臣を動かすというやり方になる。その弱みが命取りになったのが織田信長との決戦となった桶狭間の戦いだっただろう。
 この戦いで、清洲衆の那古野弥五郎が戦死しているが、清洲衆というのは守護代織田達勝の家臣ということである。 つまり信秀の軍と守護代家との連合軍だったということだが、その軍を指揮したのが、守護代の達勝ではなく、守護代家の奉行という立場であった信秀であったところに、実力を持った国人領主が守護、守護代を抑えて戦国大名化してゆく姿がある。

 中央の幕府の権威が失墜するとともに、その幕府の権威の下にあった守護大名の権威も失われ、国人領主の領地争奪戦の中から台頭してきた勢力が、国人領主を統合し家臣として編成して行く、そのような現象が日本全国に進行しつつあった。小領主にとっては、自分の領地を安堵してくれる有力大名に帰属するというのが自然のなりゆきであったから、実力がない限り、守護や守護代の地位も存続することは出来ない時代になってきたのである。


 

 

 

織田信長のルーツ(20)

 

 1543(天文12)年2月14日、織田信秀は平手政秀を京都に派遣し、内裏修造のための費用4千貫文を貢納した。これは、3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納したのに続くものだが、尾張国内の諸領主に対する指導権を得るための工作の費用ということだろう。
 織田信定が津島を手に入れ、さらに信秀が那古野城の攻略に成功したことで、伊勢大湊と結ぶ廻船の停泊港である熱田を支配するようになった。そのことによって、織田弾正忠家は海上交易による大きな利益を得ることになり、さらに伝来したばかりの鉄砲や火薬、金銀の精錬技術の革新や木綿生産の普及など技術革新がもたらした物資、そして諸外国との交易による物資の流入など、さまざまな物が尾張にもたらされることになっただろう。そうした交易の中心は泉州堺だったのだろうが、津島や熱田を押さえた織田弾正忠家は、堺と同じ水準の近代的な物品や技術を手に入れていったのだろう。

 こうして大きな経済力を得た織田信秀は戦国大名として成長し、国内の小豪族を統合、家臣化 していった。信秀の時代に守護家や守護代家、そして尾張今川家の家臣だったと見られる武士の名前が、相当数信秀の命令で動いていることが、『言継卿記』などの資料に散見されるから、それに伴って守護、守護代家は、この頃に支配力を失っていったのだろう。

 各地の戦国大名は、国内の国人領主を支配下に収める一方、近隣の大名と同盟関係を作り、勢力の拡張を図っていったのだが、 三河は守山崩れによって松平氏の勢力が衰えた上、三河には松平氏と拮抗する勢力の水野氏があった。
 水野忠政は安祥城の戦いでは織田信秀と同盟したのだが、その後、再び今川義元・松平広忠と同盟し、娘を松平広忠に嫁がせていた。しかし広忠は、小豆坂の戦いに敗れた翌1543(天文12)年7月12日に死去する。すると水野忠政の後を継いだ嫡男の信元は、 翌年9月に再び今川・松平との同盟を破棄し、織田信秀と同盟する。小豆坂の戦いで織田信秀が勝利したことが同盟関係を変えさせたのだろうか。それとも、織田信秀の人間的魅力が水野信元を引き付けたのだろうか。いずれにせよ、敵対する大大名に挟まれた小大名の生き残るための宿命だったのだろう。
 松平広忠に嫁いだ於大の方は、小豆坂の戦いのあった1542(天文11)年の12月26日に、竹千代(後の徳川家康)を生んでいたが、水野氏との同盟関係が破棄されたため離別され 、母子は離ればなれとなる。 


 

 

 

織田信長のルーツ(21)

 

 1544(天文13)年9月、織田信秀は斎藤道三によって尾張に追放された土岐頼芸を援助し、また越前の朝倉 氏は越前に逃れた土岐頼純を援助して、ともに美濃に進入、同盟して斎藤道三を攻めた。
 隣国美濃ではながらく土岐頼純と土岐頼芸が家督を争い、その内紛の中で台頭した斎藤道三が美濃の実権を握 り、頼純は享禄年中(1528~32年)に斎藤道三に大桑城を攻略され母方の伯父である越前の朝倉孝景のもとに逃れ、道三によって擁立された頼芸が守護職についたが、その頼芸も1543(天文12)年、道三に大桑城を攻められ、尾張の織田信秀を頼った。
 その頼純と頼芸が和睦し、織田・朝倉が守護家の美濃入国を助けるという名目で介入し、斉藤道三に戦いを仕掛けたのである。

 朝倉軍は朝倉宗滴が指揮し、美濃赤坂の合戦で勝利して、斎藤道三と同盟する近江六角氏の動きを封じた。ところが信秀が指揮する織田軍は、9月22日、斎藤道三の稲葉山城下に火を放ち総攻撃をかけたまでは良かったが、稲葉山城を攻略しきれずに退却し始めた時、斎藤軍の猛攻撃を受け、信秀は身一つで尾張に逃げ帰るという大敗北を喫した。斎藤軍の追撃で木曽川を渡れず、溺れ死んだ 織田兵の数は2千とも3千ともいう。そして、この「加納口の戦い」で戦死した織田方の兵の数は5千ともいい、信秀の弟の織田与二郎信康をはじめ、織田因幡守 、織田主水正、信長付きの家老だった青山与三右衞門、熱田大宮司家の千秋紀伊守、毛利十郎、家老寺沢又八舎弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎はじめ五十人 あまりの将が討死したと『信長公記』は伝える。
 織田信秀の指揮する尾張軍は、岩倉織田家、三奉行の織田家などを含むたのみ勢も加わっていたのだが、この大敗北によって、尾張国内の勢力争いは、再び流動化することになった。

 加納口の戦いからしばらく後の 11月5日、連歌師の宗牧が、勅使代理として後奈良天皇の奉書を持って那古野城 を訪れた。宗牧は織田方の大敗を聞いていたので、まずい時期に訪れたと、面会を躊躇したのだが、この日は重臣平手政秀の丁重なもてなしを受け、翌日、那古野城 で信秀と對面し、宸翰の女房奉書と古今和歌集を授けたのだが、まるで戦などなかったかのような上機嫌だったという。

 しかし、丁度この頃、加納口の戦いで大勝した斎藤道三は近江六角氏の加勢を頼み、織田播磨守の守る美濃大柿城を攻めた。織田備後守信秀は11月17日、木曽川・飛騨川を舟で越え竹が鼻 (羽島)に放火、あかなべ口(岐阜市茜部)を攻めて諸所に火を放った。そのため、大垣城を攻囲していた斎藤道三は驚いて、攻撃を中止して稲葉山城に引き上げ た。
 ところが今度は、信秀が大垣城救援に出兵している隙を衝いて、11月20日、清洲城の織田彦五郎が信秀の居城である古渡城へ出兵し城下に火を付けた。そのため信秀は美濃より帰陣 し、美濃の拠点としていた大垣城は道三に奪われ、尾張では清洲織田氏と敵対することになった。


 

 

 

織田信長のルーツ(22)

 

  守護代清洲織田家の信秀への攻撃は、元来清洲織田家の三奉行の一家でしかない信秀が主家を差し置いて、尾張の諸家を率いて三河や美濃へ出兵することへの反感があ り、信秀の美濃での大敗で、その求心力は失われたと見て、この際に信秀に従った尾張の緒豪族を信秀から切り離し、清洲織田家の威信を回復しようとしたもののように思えるが、その清洲織田家自身も守護代織田彦五郎 信友ではなく、主導権は坂井大膳などの清洲織田家の重臣に移りつつあった。

 京都の朝廷や公家との交際に、みごとな手際を見せた重臣の平手政秀は、守護代清洲織田家との紛争を解決すべく清洲の家老の坂井大膳、坂井甚介、河尻 与一へ書状を送り、和解を求めるが交渉は捗らなかった。
 信秀はこれまで尾張西部の一地方領主から、那古野城を攻略し尾張国内の覇権を握り、美濃の大垣城、三河の安祥寺城を手中に納め、小豆坂の戦いで今川の大軍に勝利するまでに成長してきたのだが、美濃の斎藤道三という大敵の存在を始めて知ることになった。国内の統一ということでは、斎藤道三の方が、守護家、守護代家の旧勢力を駆逐して、はるかに権力基盤が安定していたのである。

 織田信長が元服したのは『信長公記』によれば、13歳の時とする。 信長が生まれたのは1534(天文3)年となっているから、数え年で13歳というと1546(天文15)年のことになる。つまり加納口の戦いで大敗した2年後ということになるのだが、『信長公記』では、加納口の戦いを信長元服の後の話として書いている。
 信長が生まれた翌年、那古野城主となった時、付家老として入った林佐渡守、平手中務、青山与三右衛門、内藤勝介の4人が伴をして、信秀の居城である古渡城に行き、吉法師という幼名だった少年は、元服して三郎信長と名乗ることになったと『信長公記』には書かれているのだが、青山与三右衛門は加納口の戦いで戦死しているから矛盾が生じる。

 実際、加納口の戦いは1544(天文13)年という説と、1547(天文16)年という説があるそうだが、加納口の戦いの後にも信秀は稲葉山城下に攻め込んでいるので、混同されたものがあるのだろう か。


 

 

織田信長のルーツ(23)

 

 織田信長の教育は、平手政秀の要請によって、沢彦宗恩が行ったという。沢彦宗恩は後に、信長が美濃を平定し、稲葉山城を落とした時、稲葉山城下の井の口の町の名 を変えようとし、沢彦に諮って「岐阜」に決めたと伝えられ 、また「天下布武」の印判の作成を建言したのも沢彦だといわれる。ながく信長のブレーンとなっていたようだ から、信長が信頼する人物らしく、少年期の信長の人格形成にも大きな影響を与えたのだろう。

 信長は元服した翌年の1547(天文16)年、平手政秀の介添えで、三河の吉良大浜に初陣し、所々に放火して攻め、その日は野営して、翌日那古野城に帰陣したと『信長公記』は伝えている。
 この平手政秀は、後に信長の素行を嘆いて諌死し、それを悔やんだ信長は、後に沢彦を開山として政秀寺を建立しているから、その存在は成長期の信長にとって非常に大きな存在だったのだろう。

 政秀は山科言継が尾張を訪れた時、自邸に招いているが、言継は数寄を凝らした政秀邸の風雅な佇まいに感嘆している。相当に教養の深い人物だったようだ。また弾正忠家の家老職としては、財政を担当する一方、信秀の名代として上京し、内裏築地修理費4千貫を献納するなど、高い教養を生かして、朝廷や公家との交渉にも当たった。その外交交渉の才能は、この後、美濃の斎藤道三との和解、信長と道三の娘濃姫との婚姻という形で も実現する。

 信長の初陣と同じ年、1547(天文16)年の秋に、父信秀は再び美濃に攻め込んだ。信秀が身一つで尾張に逃げ帰り、多くの将士が戦死したという加納口の戦いは、この時のことだという説もあるが、ともかく、この時の戦いが、最後の戦いとなり、 その後平手政秀によって和平交渉が始まる。そして信秀は土岐頼芸が美濃守護職を回復するための援助をやめ、大垣城を放棄し、美濃から撤退する。そして道三の娘濃姫と信長 との婚姻を実現することで和平交渉がまとまった。

 当時、信秀は東の今川・松平と北の斎藤道三と二つの強大な敵と向かい合っていたのだが、1545(天文14)年11月、駿河の今川義元は武田、北条と三国同盟を締結し、総力を尾張に向けることが出来るようにな ったことで、信秀にとっては抜き差しならない脅威となった。その情勢の変化によって、どうしても美濃と和解する必要に迫られていたのである。

 しかし、こんな切羽詰った状況でも、信秀は謀略をめぐらせる。1547(天文16)年8月2日、松平広忠は、今川義元の支援を得るため、子の竹千代 (後の徳川家康)を今川家へ人質として送ったのだが、渥美郡田原城主戸田康光の家臣又右衞門という者が、駿河府中へ行く途中の松平竹千代を塩見坂という所で誘拐し、船で熱田へ送り、銭五百貫文で信秀に引き渡すという事件が起こった。信秀は竹千代を熱田の豪族加藤図書助順盛に預けた。
 軍事力で劣勢に立たされると、謀略で巻き返す。父、信秀の行動から信長は多くのものを学んだだろう。

 


 

 

織田信長のルーツ(24)

 

 織田信長は16、17、18歳の頃、市川大介に弓、橋本一巴に鉄砲、平田三位に兵法を学んだと『信長公記』に書かれている。信長が16歳の時といえば1549(天文18)年だが、ポルトガル人によって鉄砲が種子島に伝えられたのが1543(天文12)年で、翌年津田監物がそれを紀州根来に持ち帰り、堺の刀工芝辻清衛門に作らせ、国産の鉄砲の製作に成功したのが1545(天文14)年だった。その4年後に、単なる珍品の献上品というのではなく、実際に兵器の使用法として織田信長が鉄砲を習っていたということは、津島や熱田を支配していた織田弾正忠家が、堺との交易を活発に行い、琉球や朝鮮、中国、さらには東アジアに進出してきたヨーロッパの技術や品物に接していたことを物語っているだろう。16歳、満年齢では15歳の少年時代に、すでに信長は西洋に遭遇していたのである。それから4年後の1553(天文22)年に信長が斎藤道三と会見した時には、すでに鉄砲5百挺を持っていたというから、信長の新しい科学や技術へ傾倒する性格が読み取れるだろう。

 それまで中国との公的な勘合貿易は大内氏が独占していたのだが、1551(天文20)年に大内義隆が陶晴賢に殺され、大内氏が滅びた後は、1588(天正16)年豊臣秀吉が海賊取締り令を出すまで、平戸や五島を根城にする王直のような中国人やポルトガル人を中心とした後期倭寇や堺や博多の豪商などによる自由な貿易が行われることになるが、尾張の集産地である津島港や熱田港を支配する織田信秀や信長は、つねに貿易や流通がもたらす富に敏感に反応しただろう。

 しかし尾張の政治・軍事情勢は深刻さを増しつつあった。1548(天文17)年3月19日、織田信秀は、今川義元の参謀太原崇孚(雪 斉)が率いる駿河、三河の連合軍と、再び小豆坂で衝突した。そして先の小豆坂の戦いとは逆に、今川方が先に坂の頂上を取って、優勢に戦いを進めた上、岡部長教が率いる伏兵が、織田勢の横から攻めたため信秀は大打撃を受けて敗北した。さらに4月19日 には、織田方に着いた山崎城主松平信孝も、岡崎城攻撃の途路、耳取繩手で松平広忠に攻められ戦死する。
 信秀は、駿河からの攻撃に備えるため、この年の末に、古渡城を破却し、平野部を観望できる末森に築城したが、翌1549(天文18)年1月17日- 今度は尾張の国内の反乱を受ける。犬山城主織田信清と楽田城主織田筑後守寛貞が、春日井原を駆け通り、龍泉寺下の柏井口 に放火し、信秀に反旗を翻した。信秀は末森城より出陣し、弟守山城主織田信光の活躍で犬山軍を破 ったが、織田弾正忠家は外に今川・松平の強敵と対し、内に清洲織田家や犬山織田家などの敵を抱えることになった。
 この戦いの後、信秀は疫病にかかり、3月3日に死去したと『信長公記』は伝えるが、犬山・楽田織田家の反乱自体が、信秀重病の情勢が引き起こしたものだったのかも知れない。
 


 

 

織田信長のルーツ(25)

 

 織田信秀が死去したのは、1549(天文18)年から1551(天文20)年まで様々な説があるが、信秀の死去を秘して、2年間葬儀をしなかったという話も伝わっている。そうすると1549(天文18)年、1551(天文20)年の2つの説は両立することになる。
 死が近いことを感じた信秀は、信長と斉藤道三の娘の濃姫との婚儀を急がせたとも伝えられている。美濃との同盟が成立すれば、少なくとも尾張内部で弾正忠家に対抗する勢力を牽制することが出来るからだ。

 確かに、隣国三河では、松平清康が守山崩れで死去してから、急速に国内の統一は解体し、松平氏の勢力は衰えていた。しかも信秀が死去したとされる1549(天文18)3月3日のすぐ後、3月6日に岡崎城主松平広忠 が死去する。一説では広瀬城主佐久間全孝の陰謀によって、広忠は岡崎城中で、家臣の岩松八弥に刺されたという。
 この結果松平宗家は当主が居なくなり、岡崎城は今川義元に接収されてしまった。戦国大名としての松平氏はここで滅亡してしまうのである。

 この後の中国の大内氏の滅亡にしても、駿河の今川氏や美濃の斉藤氏、甲斐の武田氏の衰亡の過程を見ても、室町幕府の統制から脱した戦国大名の権力基盤というのは、その有力家臣が自軍を持った独立性の高い領主であり、大名はその家臣を統率するという形で成り立っているから、大名個人の軍事的、政治的、経済的な力量に負う所が多かった。それゆえ、有力な戦国大名が死去すると、大名家への求心性が失われ、領国内で後継争いの内乱が起こったり、家臣による下克上が起こったり、隣国の大名に滅ぼされてしまうという事態になることが多かったのである。

 松平氏の没落と、織田信秀の死は、すぐに弾正忠織田家の危機となって現れてくる。1549年11月9日、今川義元の参謀太原崇孚(雪 斉)は、接収した三河岡崎城を拠点に、遂に安祥城を陥し、織田信長の兄信広 を捕虜にした。そして織田家に居た松平竹千代(徳川家康)と交換するように要求してきたのである。

 こうして、弾正忠家は三河の拠点を失い、尾張東部の豪族も今川方へ着くようになり、尾張国内でも清洲織田家や岩倉織田家との対立、さらには一族の犬山織田家や、果ては弟信勝(信行)との家督相続争いなど、抜き差しなら無い事態へと進行してゆくのである。


 

 

 

 

織田信長のルーツ(26)

 

 父信秀が死に、濃姫と結婚した頃の信長の様子は、湯帷子の袖をはずして、半袴をはき、火打ち袋など色々のものをぶらさげ、髪は茶筅に結い、紅や萌黄の糸で結んで、太刀は朱鞘のものをもちいていた。近習の家臣には赤の服を着せて、町では人目も憚らず柿や瓜をかじり、歩きながら餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって歩いていた。その頃世間は上品さを大切にしていたから、この有様は大うつけとよばれるほかなかったという。
 町の顰蹙を買うような素行をしながらも、信長直属の家臣に統一した赤の服を着せて、3間半の竹の長槍で実戦訓練をしたり、鷹狩をしたりしていたと『信長公記』は伝えるが、それは、少数でも強固な団結力を持った、高い戦闘力を持った味方集団を持ちたいと、信長が思っていたということだろう。それだけ父の死後、まだ少年の信長の周りは敵だらけだった。

 顰蹙を買う様な素行というのは、思春期に見られるある種の反抗心のようにも思えるが、実際にも年長の一族重臣たちが信長を疎んじることがあったからかも知れない。父の喪を2年間伏せていたという話が真実ならば、それは家督の継承をそれまで留保すると一族重臣が決めた結果だったかも知れない。多くの一族重臣は品行方正な弟の信勝(信行)が家督を継ぐことを望んでいた。信勝と一緒に暮らす母の土田御前もそうだった。父が信長付きの筆頭家老に決めた林佐渡守までが、信勝の方が家督を継ぐに相応しいと考えていた。信長はそうした大人たちに反抗したのかも知れない。

 父の葬儀の時、遅れて来た信長は袴もつけない格好で、抹香を手で掴み仏前に投げ懸けたと伝える『信長公記』の記述は、あまりにも有名だが、これも自分を疎んじる一族重臣への反抗ということだったのだろうか。

 ともかくそんな厳しい状況の中でも、1549(天文18)年 には、信長が家督を継いだと見られる資料が見られる。熱田神宮の特権を認めた制札を、藤原信長という書名で熱田8ヶ村に下しているから、仮に父信秀がまだ生存していたとしても、家督は掌握していたと思われる。また、「織田信長年表」というのを見ると、その年の7月 に、織田信長は六匁玉の鉄砲五百梃を近江国友村の鉄砲鍛冶に注文したとする 記録があるらしい。『信長公記』には、信長自身が、この頃鉄砲を橋本一巴に習ったと記録しているし、国友村の鍛冶職人が、鉄砲の製作を始めたのもこの頃らしいから、その可能性はあるだろう。

 しかし熱田8ヵ村に制札を下した同じ月、11月9日、駿河今川義元の参謀太原崇孚(雪斉)が岡崎を拠点に安祥城を攻略し、安祥城を守っていた信長の庶兄信広 は捕虜となり、織田家の人質となっていた松平竹千代と、尾張笠寺で人質交換することになる。尾張東部には今川の勢力が大きく食い込んで来たのである。

 

 

 

織田信長のルーツ(27)

 

 1550(天文19)年8月、『定光寺年代記』は「尾州錯乱 」し 今川義元が智多郡に進出したことを伝える。「錯乱」というのは、信秀の重病によって、尾張の諸勢力が弾正忠家の支配から離脱し始めたということだろう。
 その年の12月1日には福谷の丹波隼人佐に義元は、愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を安堵している。尾張東部の国人が今川義元に帰属しはじめたのだ。
 織田信秀の勢力が盛んだった時、その幕下でも有力な武将で、第1次小豆坂の戦いでも功名の記された鳴海城主山口左馬助も、最初は織田・今川の和議の実現のために努力していたらしいが、信秀の復活がないという観測から、今川家に内通するようになっていったらしい。
 岡崎市の妙源寺所蔵文書にはには「今度、山口左馬助、別して馳走ある可の由、祝着に候。 」という、12月5日の日付の今川義元書状が残されているという。

 1551(天文20)年3月7日、信秀を供養するため建立された万松寺で織田信秀葬儀が行われた。 後に1701(元禄14)年に150忌が行われた記録があることから、1551(天文20)年に葬儀が行われたことは確からしい。ただしそれは松平清康の死後、三河国内が混乱し、岡崎松平家の支配が崩壊したのを横目に見ていた織田家の一族・重臣が、同様の事態になることを恐れて、信秀の死を秘して葬儀を先延ばししたのかも知れない。

 葬儀は国中の僧や、諸国から尾張に来ていた僧ら3百人を集めるという盛大なものだったという。しかし信長は長つかの刀と脇差を三五(みご)縄という稲穂の芯でなった縄で巻き、髪は茶筅に巻きたて、袴もはかずという格好で、仏前へ出て、抹香をわしづかみにして投げた。参会した人々は「例の大うつけであるよ」とささやき合ったが、ただ一人筑紫から来た客僧は、「あれこそ国は持つ人よ」と言ったと『信長公記』は伝える。

 

 

 

 

織田信長のルーツ(28)

 

 1552(天文21)年、織田信秀の葬儀の翌年の4月、信秀の死を機に弾正忠家から離反し、今川義元に通じた鳴海城主山口左馬介(教継)は、子の九郎二郎 (教吉)に鳴海城を守らせ、自らは桜中村に築城して立て篭り、今川方の軍勢を尾張東部に引き入れた。
 今川義元は岡部五郎兵衞元信、葛山備中守勝嘉、淺井小四郎、飯尾豊前守乗連、三浦左馬助義就を派遣し愛知郡笠寺に城砦を築いて、尾張東部制圧と、尾張中央部進出のための拠点とした。

 4月17日、信長は、山口左馬介父子や今川方が尾張東部を制圧する動きを阻止するため、八百の兵で中根村を通り、鳴海城近くの小鳴海三の山に出兵し布陣した。これに対して山口九郎二郎は 千五百の兵で、三の山より十五町東の赤塚に兵を進め、信長軍も内藤勝介 ・蜂屋般若介(頼隆)・荒川与次郎、荒川喜右衛門、長谷川橋介 ・青山藤六・戸田宗次郎・賀藤助丞らを率いて赤塚に向かった。両軍は 5,6間というから10メートルほどの距離まで、度胸比べをするように近づき、それから矢合せをした。このとき荒川与十郎が兜の庇の下を射ち抜かれて戦死し、敵が与十郎の死体を奪おうとするのを、織田方が引き戻し 、奪い合いになったが、織田方が与十郎の刀のさやを掴んで引き勝ったと『信長公記』は伝えている。その後乱戦となり、戦いは十時頃から正午頃まで続いた。山口方は萩原助十郎・中嶋又二郎・祖父江久介・横江孫八・水越助十郎 らが戦死し荒川又蔵が捕虜になった。織田方も30騎ほどが討ち死にし、赤川平七が捕虜になった。

 双方とも、少し前まで味方同士だったから顔見知りも多かったが、それだけに必死の戦いになったようだ。戦いの後、捕虜の交換が行われ、また馬を下りて戦ったので、馬は敵陣に紛れたものが多かったが、馬も交換し 合ったという。

 今川氏の尾張進出という事態にも拘わらず、この戦いには清洲、岩倉織田家はもちろん、信長の従兄弟にあたる犬山織田家も、叔父の織田信光や弟信勝付きの家臣の柴田勝家なども参戦しておらず、信長の直属の家臣だけで戦っているようだ。信秀の死後、わずかの間に一族の統一は解体し、信長は孤立していたということだろうか。
 ともかく、数え年19歳の信長にとって、この戦いが実戦での初陣だった。将としての力量を示さなければ、誰もついてこないというこなのだろう。

 

 

 

 

織田信長のルーツ(29)

 

 赤塚の戦いの後も、尾張東部での軍事衝突は続いていたようで、8月4日には松平広忠の家臣植村出羽守氏明が尾張沓懸で織田方と戦い戦死している。
 しかしこの後山口教継の諜略で、織田方だった東尾張の沓掛城の近藤景春・大高城の水野忠氏ら東尾張の領主が次々今川方に着いてゆく。これに対抗して信長は、その後鳴海城の周りに丹下・善照寺・中島の三砦を築き、大高城には鷲津・丸根のニ砦を築いて、三河との間を封鎖してゆく。こうした付城によって、今川方の進出を阻止出来るのは、東尾張の民衆は信長の支配を歓迎し、反今川の戦略に協力していたということだろうか。

 ところが同年8月15日、信長が山口教継との東尾張で争っている隙を衝いて、今度は、清洲織田家の家宰で小守護代の坂井大膳や坂井甚介・川尻与一・織田三位らが、信長方の松葉城・深田城を 攻め、松葉城主織田伊賀守・深田城主織田右衞門尉(信次)を監禁した。しかし、信長はすでに清洲織田家の動きは把握しており、内部工作も進めていた。
 清洲城主織田彦五郎(信友)は名目的には尾張守護代の地位にあり、守護斯波義統を清洲城に戴いていたが、義統は彦五郎や、その家宰で小守護代の坂井大善の傀儡になっていることに不満を持っており、密かに 自分の家臣簗田弥次右衞門を通じて信長に内応していた。 そして弥次右衞門は那古野弥五郎という16、7歳の仲の良い、というより男色関係だったらしい守護代家の家臣を仲間に引き込んでいた。那古野弥五郎は3百ほどの兵を動かせる重臣だったという。

 8月16日払暁、那古屋城を発った信長は稲葉地(名古屋市中村区)の庄内川岸に到着。叔父の守山城主織田信光の軍とともに庄内川を渡り清洲に向かった。そして清洲を出た坂井大膳らの清洲 勢と庄内川の支流五条川沿いの萱津で遭遇し、両軍は衝突した。戦闘は八時頃から正午に及び、数度の激突が繰り返され、信光の家來でまだ小姓上がりの赤瀬清六が片長(かたおとな・次将)の坂井甚介 と渡り合い討死にするが、中條小一郎と柴田勝家が坂井甚介 を倒し、その頸を取った。結局清洲方は50騎ほどが討ち取られ清洲城へ退却した。
 松葉城を守っていた清洲勢も、矢戦で多数の死傷者を出して清洲に退却し、深田城の清洲勢も、近くの三本木の町に要害を構え、信長方を迎え撃ったが、30人ほどの戦死者を出して撤収した。こうして信長方は松葉城・深田城を取り戻 し、清洲へと軍を進め、田畠薙ぎを行って清洲へ引き上げた。
 この後も、信長は簗田弥次右衞門の手引きで、清洲城下に攻め寄せ城下を焼き討ちにするが、信長に内応している守護斯波義統がいることもあって、城攻めは控え機会を待つことになる。

 この清洲衆との戦いに、前田犬千代、後の利家が初陣している。犬千代は荒子城主前田利春の子で、1538(天文7)年生まれ、信長より4歳年下である。戌年生まれなので犬千代と名づけられた。萱津の戦いの前年に元服し、信長の小姓として仕えていたが、この初陣で敵の首級を挙げ、信長は「肝に毛が生えたり」と言って喜んだという。犬千代は信長と同様のばさら武者で、こうしたまだ二十歳前の若者たちが野心と 理想と連帯感を共有して、信長の近習、馬廻りの中核となって信長を支えて行く。

 

 

 

織田信長のルーツ(30)

 

 萱津の戦いの翌年1553(天文21)年閏1月、信長の傅役だった平手政秀が切腹して果てた。諫死である。京都の公家衆とも交際するほどの教養を持っている政秀だからこそ、信長の父信秀が嫡子信長の教育を託したのだろうが、元服してからの信長は、武術や身体の鍛錬には熱心なものの、生活はどんどん婆娑羅な身なりや行動に走るようになり、信秀の葬儀の時には、異様な身なりで現れ、抹香をつかみ霊前に向かって投げつける始末だった。そのため世間からは「大うつけ」と評判になり、一族や重臣の多くが、弾正忠家の家督相続は弟の信勝の方が相応しいと言うようになった。
 その上、政秀の長男の五郎右衛門が所有していた駿馬を、馬好きな信長が譲れと言ったのを、憎らしい言い方で「それがしは武者を仕り候間、御免候え」と断ったということがあり、それ以後主従の関係が剣呑になった。
 そんなことが重なって、信長に少しでも世間的な常識や礼節、品位に従って欲しいという気持ちと、息子と主君の冷却した関係を修復したい気持ちで、切腹したのだろうか。
 さしもの婆娑羅な身なり、行動をしている信長も、政秀の切腹は堪えたらしい。信長は政秀の菩提を弔うために、信長の師として政秀が招聘した沢彦宗恩を開山とし政秀寺を建立している。

 その年の4月、舅の斎藤道三から、美濃国境近くの富田の正徳寺で対面したいという申し入れがあった。人々が「婿殿は大だわけにて候」と道三の前で言うので、その真偽を確めたい」という。信長はすぐにこの申し入れに応じた。有名な正徳寺の会見である。その様子は『信長公記』に詳しく書かれており、信長のエピソードの中でも最も有名なものの一つだから、内容は省略して、そこから見えてくるものを考えたい。

 信長は500人もの弓・鉄砲五百挺、・三間間中柄の朱槍五百本の隊を従えて、身なりは、もえぎ色の平たい紐で茶せん髷に結い、袖なしの湯帷子に虎皮と豹皮で仕立てた半袴を履いて、腰まわりには猿つかいのようにひょうたんや火燧袋を着けた、いつもの婆娑羅者の格好でやってきたのが、対面の時には、公式の席に相応しいように髷も服装も、脇差も改めていたという。何の目的で、信長は、こんな芝居じみた演出をしたのか?

 それは斉藤道三が、「大だわけの真偽を見たい」と道三らしく率直に言ってきたので、信長も率直に自分の姿を見せたということだろう。「大だわけ」と世間が言う格好でやってきて、正装に整えて出席し、道三に礼節を示したのだが、要は「大だわけ」の主張も譲ってはいないということである。それは形式や肩書きを背景に発言しようとする大人達への信長の青年らしい反抗でもあっただろうが、伝統的な、権威主義的な形式を破って、実質的な進化を求めようとする終生貫いた信長のイデオロギーでもあっただろう。

 帰途、道三の家臣の猪子兵助が「何と見候ても上総介(信長)はたはけにて候」と評したのに対して、道三は「山城(道三)が子共、たはけが門前に馬を繋ぐべき事案の内にて候」と答えたという。

 

 

 

 

 

織田信長のルーツ(31)

 

 1553(天文22)年7月17日今川義元に通じた鳴海城主山口左馬助が、今川義元から駿府に呼び出され、織田方と内通の疑いありと、抗弁も許されず切腹させられた(但し山口左馬助が殺されたのは1559(永禄2)年という説もある)。信長が噂をばらまき、義元に信じさせたという逸話があるが、こうした信長による謀略、反間の計の話は非常に多い。
 安祥合戦で、信長の兄で安祥城主の信広が今川の捕虜となった時、今川義元に信広助命の仲介をしたと伝えられる戸部新左衛門(政直)も山口左馬介と同様の運命を辿っている。
 新左衛門は初め織田信秀に従っていたのだが、信秀の死後今川方に着いた。そして義元の妹婿に なり、今川方の東尾張経略に重要な役割を果たしたという。この新左衛門を除くために信長は、右筆に新左衛門の筆跡を練習させ、信長に内通しているかのような手紙を偽造 し、それを商人に化けた森可成が駿府城下へ持ち込んで、今川家の家臣の手に渡るようにしたという。手紙を見て裏切りを信じた義元の命 で、新左衛門は駿府に着いて弁明するまでもなく、途中の三河国吉田で処刑されたという。
 まるで「三国志」に出てくるような話で、三国志を知っている後世の人が逸話を創作した疑いもあるが、信長自身が中国の古典、孫子や戦国策、三国志などを沢彦宗恩から学び、謀略のヒントを得ていた可能性もあるだろう。

 しかし、在地の国人領主を調略しておいて、用が無くなれば簡単に殺すという今川義元のやり方が、東尾張の民衆に反感を与え、今川方と戦っている信長方に協力する気持ちを起こさせた可能性は高いのではないか。後の桶狭間の戦いの時に、織田方のための諜報活動や、旗指物などで織田軍を装って、織田軍が駐留しているように見せかける偽装をしたり、更には、戦勝祝いの品を献上すると称し、義元の本陣に献上品を持ち込み、桶狭間で休息するように仕向ける策略など、様々な言い伝えや後世の物語も、実際にあり得たのではなかったか。

 さて、山口教継の調略以後、今川方は東尾張の鳴海城、大高城、沓掛城 などの諸城を支配しており、さらに織田方の山岡伝五郎の居城鴫原城(重原城)を攻略して、知多半島から織田方の勢力を一掃するため、水野信元 の守る緒川城を攻略するため近くの村木に砦を築いた。
 翌1554年1月20日今川勢は緒川城 攻略を開始した。信長にとって水野氏の緒川城を守るということは、知多半島の織田勢力を守るということであり、それはとりもなおさず、伊勢湾の制海権を守るということであった。伊勢湾の海上交通が与える経済的、政治的、軍事的利益ははかり知れない大きさがある。それ故、どうしても勝たねばならない戦いであった。

 この村木の戦いで、去年の斉藤道三との会見、それは実質的には攻守同盟だったのだが、それが大きな助けとなってくる。信長の要請によって、美濃の安藤守就が千の兵を率い、信長が今川との戦いに出兵中、敵対している清洲織田家が攻撃してきても、那古野城を防衛してくれることになったのである。

 


 

 

織田信長のルーツ(32)

 

 1554(天文23)年1月21日、信長 は海路知多半島に渡り水野信元の居城緒川城に向かう計画で熱田に泊まった。しかし翌22日は大風が吹き、海は荒れ、主水(水手-かこ)も楫取も出航は無理だと言うのを、信長は強引に出航を命じた。
 山口左馬介が離反して以後、知多半島の北部は今川方に制圧されており、陸路を進軍すれば、今川方の支配地域を通過しなければなず、緒川城に着く前に合戦になってしまい、緒川城の付城として今川方が築いた村木城を攻撃することは不可能になる。唯一の進軍路は海路知多半島の西海岸に上陸し、東に向かうしかなかったのである。そして1日遅くなれば、それだけ村木城の防備は固まり、村木城攻略は不可能になることが予想された。
 出航は信長の命令で強行され、強風の中をわずか1時間で知多半島に上陸したという。上陸地点はわからないが、今川方の支配地域を避けた最も近距離の海岸ということだろう。そして上陸後、緒川城に入り、水野信元から状況を聞き、軍議を開いた。村木城の北は海で攻めることは不可能で、南は大きな堀をめぐらしており、最も攻めるのが難しい。それを信長が受け持ち、西側搦め手は叔父の信光、東大手口は水野金吾(信元か?)が当たることになった。

 1月24日払暁、織田信長、信光、水野金吾の軍は、城を出て村木城を総攻撃を開始した。どれだけ犠牲を出しても、村木城を陥さねばならなかった。『信長公記』によれば信長は自ら3つの狭間を受け持って、攻城兵の援護の為に鉄砲を撃ったという。攻城兵を援護する時、鉄砲は弓に比べて比較にならないほどの威力を発揮するだろう。
 朝の8時頃始まった攻撃は絶え間なく9時間続き、多くの城兵が戦死したり負傷したりして、今川方は遂に降伏した。信長の側近、小姓らも多数戦死し、信長は涙を流したという。

 翌日、信長は緒川城から西方の伊勢湾岸にある、今川方に着いた寺本城を攻撃し、城下を焼き討ちにした後、海路那古野城に帰陣した。
 那古野城防衛の任務を終えた安藤守就は、美濃に帰って、詳細を斉藤道三に報告したが、道三は「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と言ったと『信長公記』は伝えている。守就は後に信長の家臣になっているから、この逸話は、聖徳寺の会見の後の斉藤道三の話とともに、『信長公記』を書いた太田牛一が、守就から直接聞いた、実際の話かも知れない。

 「すさまじき男」と斉藤道三に言わせた決断力と勇敢さは、一方で緻密に考えられた最良の選択をする知性と理性によって支えられたものだったのではないか。
 弾正忠家の重臣であった林新五郎と弟の林美作が、村木攻めに反対し出兵せず荒子城に留まったが、それを打ち捨てて、村木攻めを実行した。そして船が遭難するかも知れない大風の中を熱田から出航したのである。しかしそれは単なる無謀ではなく、助かるためには、危険な手術を受けるしかない、そうした理性を伴った勇敢さ、決断力だったのではないか。
 


 

 

織田信長のルーツ(33)

 

 村木の戦いに勝利し、信長は知多半島の味方勢力の防衛に成功し、ひとまず伊勢湾の制海権を確保出来たのだったが、それからまもなくの3月に、今川家の参謀太原崇孚は、それまで敵対していた相模の北条氏康との和睦に成功した。そして4月には、それまで同盟関係関係にあった甲斐の武田氏も含め、相模北条氏・甲斐武田氏・駿河今川氏が駿河の善得寺で会盟し、三国同盟が成立した。
 この同盟によって今川義元は、全勢力を尾張に向けることが可能になった。信長にとって重大な脅威が生まれたのである。

 三国同盟成立に対して、清洲織田家はすぐに反応した。萱津の戦いで信長に散々に敗北して、勢力の衰えた清洲織田家の守護代織田彦五郎(信友)と家宰坂井大膳は、今川氏と結んで信長に対抗しようと考えたのである。

 1554(天文23)年7月12日、若武衛様と呼ばれている尾張守護斯波義統の嫡男岩竜丸(義銀)は川狩りに出た。家中の屈強の若侍 は悉く供をしたので、清洲城内の守護館には、わずかな年寄りの家臣たちだけしか残っていなかった。
 守護代織田彦五郎の家宰坂井大膳は重臣の川尻左馬丞、織田三位らと談合し、守護家の兵が出払っている機会を捉え、兵を率いて守護館を取り囲 んだ。そして守護の斯波義統に、織田信長と内応して、信長勢を清洲に引き入れようとしていると難詰し、自害を迫った。
 守護方は同朋衆や森刑部丞兄弟ら残っている家臣が防戦したが、多勢に無勢で、ついに館に火をかけて斯波義統以下一族数十人が自害した。上臈らは堀に飛び降 み逃げようとして溺れて死ぬものもあり、それは哀れな有様であった。岩竜丸はこの変事を知り、湯帷子のままの姿で信長の居城那古野城に逃げ込んだ。
 信長は岩竜丸(義銀)に二百人扶持をあたえ、信長が少年の頃勉学した天王坊(那古野神社:名古屋市中区)に住まわせ保護したが、この機の逃さず、清洲織田家討伐に動いた。

 事変から6日後の7月18日、柴田勝家が清洲城攻略に出陣した。清洲勢は山王口から東に向かい、信長方の軍勢と安食村で戦ったが、たちまち崩され、退却した成願寺でも支えられず、ついに清洲の町 口の大堀の内に退却した。 清洲勢の河尻左馬丞、織田三位、原殿、雑賀殿らは踏みとどまって敵勢に反撃し、2、3間で槍で叩きあったが、織田方の槍は長く、清洲方の槍は短く、突き立てられて30騎ばかりが討ち死にしてしまった。守護家の臣で由宇喜一という 17、8歳の若者は湯帷子のままで討ち入り、守護代織田彦五郎の重臣織田三位を討ち取った。信長はその話を聞いて激賞したという。
 『信長公記』の著者太田牛一は、当時勝家の家臣で、この戦いに足軽衆として参加している。牛一は、1528(享禄1)年、安食村で生まれ、成願寺に入ったが、成人して還俗し柴田勝家に仕えていた。信長より6歳年上で、この時数え年で27歳であった。

 


 

 

織田信長のルーツ(34)

 

 『信長公記』の書き方を見ていると、安食の戦いは、清洲織田家の軍が、全く一方的に負けて清洲城内に逃げ込んだように書かれているのだが、守護家を弑逆したということで、尾張国内で支持を得られず、孤立してしまったということもあるだろうが、それ以上に戦闘力の優劣が大きかったのではないか。『信長公記』は信長方の長槍に清洲方の槍が突き崩されたと、特に書いていることに注目したい。

 少年時代、信長は町の悪童を集め、褒美を用意して印地打ち(石合戦)をやったと書かれているが、少し大きくなると、近習を集め、竹槍を使って実戦訓練をしている。そしてその経験から、一騎打ちは別として、密集して敵と戦う場合は、一般に使われている2間半の長さの槍よりも、それより長い槍の方が、はるかに有利であることを、実験的に証明したのだった。そして一人で扱える長さ、3間半の槍を採用することになる。また密集戦では、槍は突いて敵を傷つけるよりも、叩いて敵に打撃を与える方が、はるかに効果が大きいことも、実験的に証明している。

 そして『信長公記』には書かれていないが、村木の戦いと同様、鉄砲は当然使われただろう。敵も鉄砲を持っていたにせよ、それを有効に使うという点で、格段の差があったのではないか。安食村での戦いの後、砦にしようとした成願寺でも支えきれず、清洲城の大堀の内まで逃げ込んだという壊走は、鉄砲による攻撃を想像させる。
 この戦いで窮地に追い詰められた清洲方は信長の叔父信光に働きかけ、守護代清洲織田家が名目的に支配している尾張下四郡の半分を信光に与え、守護代を二人にすることを条件に味方に引き入れようとした。
 守護斯波義統を弑逆しておきながら、守護代という形骸化した地位がまだ利用できると思っていたのだろう。

 信光は、信長と相談し、清洲方の誘い応じた振りをして、信光が清洲城に入って、隙を見て守護代の織田彦五郎と小守護代の坂井大膳を殺すことを計画する。この時、信長は清洲城を得て、那古野城を信光に譲り、それぞれが下四郡を二郡ずつ領有するという約束をした。それほど信光の力は大きかったということだろう。この謀略は信長ではなく、清洲方の誘いを受けた信光の主導でなされたものだったのかも知れない。信光にとっては信長と結ぶことの方が利益が大きいと考えたのではないか。

 信光の妻は、松平家の家督を争った松平信定の娘だったが、信長と同盟して村木の戦いで今川方と戦った水野信元の妻も松平信定の娘だった。つまり信光と水野信元は妻どうしが姉妹という関係にあった。しかも信光の居城守山は、緒川城の水野信元と同様、今川の勢力に直接さらされているから、両者の盟友関係は動かしがたいもので、その繋がりを無視して清洲織田家と結ぶことは有り得なかっただろう。
 信長は村木の戦いで水野氏の危機を救ってくれたという実績があったから、水野信元や信長の叔父信光が信長を選ぶのは当然のことだったと思われる。しかし信光の実力からすれば、信長は対等な存在で、信長を織田一族の惣領としては認めても家臣になるという感覚はなかっただろう。そこには織田一族を家臣団として統合してゆこうとする信長の方向性とは同床異夢なるものがあったのではないか。

 1555(弘治1)年4月19日、信光は清洲城 に入った。そして翌日信光の居る郭に、礼に訪れた坂井大膳は、物陰から自分を襲撃しようしている異様な雰囲気を感じた。とっさに大膳はその場から逃げ出し、清洲城を出て今川義元を頼って駿河に 逐電したと『信長公記』には書かれているが、その後の消息はわからない。守護代の織田彦五郎は切腹させられ、約束通り清洲城は信長に渡され、信光は那古野城に入った。

 


 

 

 

織田信長のルーツ(35)

 

 信長が清洲城に入り、信光が那古野城に移った後、守山城には信長の叔父の信次が入った。1555(弘治1)年6月26日、信次 は若侍共と龍泉寺 (名古屋市守山区)の下の松川渡しで川狩りをしていたところ、信勝(信行)の弟にあたる喜六郎(秀孝)が一騎で通りかかった。 信次の家臣洲賀才蔵は、喜六郎だとは知らず、「馬鹿者乗打を仕候」と言って、矢を射かけた所、それが当たって喜六郎は馬から落ちた。信次らが川から上がってこれを見ると、喜六郎だということがわかり、信次は、これは只では済まないと思って、守山城には戻らず、何処とも知れず逐電した。
 信勝(信行)は話を聞いて末森城より守山に駆けつけ、城下を焼き討ちにした。信長も清洲を一騎で出て三里を走って守山の入口の矢田川まで来て馬の口を洗わせていた所、犬飼内蔵という者がやって来て、信次は逐電し、信勝が城下を焼き討ちにして城には誰も居ないと言上した。
 信長は「我々の弟などという物が、人もめしつれ候はで、一僕のもののごとく馬一騎にて駆けまはり候事、沙汰の限り、比興なる仕立なり(興ざめがする)。」と言い、たとえ生きていても許容しないと言ったと『信長公記』は伝えている。
 守山城は、信次の家臣が城に立て籠もったため信勝の家臣柴田勝家、津々木蔵人、そして信長の家臣飯尾近江守兄弟らの兵が城を包囲したが、佐久間信盛が信長に建策し、 信長の異母兄の信時を守山城主とし、城中の角田新五と坂井喜左衛門に内応させて、信時を城内に引き入れた。こうして一まず落ち着いて、信時が守山城主となるが、その信時も又、翌年6月に角田新五の謀反に 遭って自害し、その後放浪していた信次が罪を許されて守山城主に復帰したという。信次を殺した角田新五はこの後信勝に従うが、結局稲生の戦いで戦死している。

 この事件での信勝(信行)の行動を見ていると、全く信長と対等で、独立した行動をしていることに気がつく。林佐渡らの重臣が信勝を支持していたからである。大名の有力な家臣団が一定の勢力を持って家督の継承資格者の一人を支持すると、主君の意思に反しても後継者として公的に認知されるということが、室町時代と通じて支配した慣習であった。それは「守護」「守護代」「大名領主」という地位が「私」ではなく「公」であるという認識があったからで、それ故、武士の棟梁である「将軍」「幕府」もまた、後継者の決定に関与することが出来たし、家臣団も介入することが出来たのである。
 美濃の「船田合戦」や土岐頼芸と頼武・頼純との後継者争いも、越前の享禄合戦も、みなこの論理によって起こされた内乱であった。

 しかも、この当時弾正忠家の惣領が称していた「弾正忠」の官途名を継いだのは信勝で、信長は「上総介」を称している。それは信勝を支持する重臣らが、信勝こそ信秀の家督を継ぐ者と考えていたことを意味するだろう。弾正忠家は、信秀が死去した時すでに分裂していたのである。

 そうした混乱の中、8月3日、今川方の松平親乗が蟹江城を攻撃した。そして後に「蟹江七本槍」と呼ばれる大久保忠勝らの活躍 によって攻略は成功した。信長は国内の混乱のために、この今川方の進出に対処できなかった。そして蟹江城は、服部氏の長島城とともに、桶狭間の戦いの後まで、尾張西端の今川方の拠点として残されることになる。


 

 

織田信長のルーツ(36)

 

 4月に清洲の守護代織田彦五郎を滅ぼし、6月の末に守山城の騒動があり、8月には今川方に蟹江城を攻略された年、1555(弘治1)年の11月26日、那古野城主となった織田信光が家臣の坂井孫八郎に殺されるという事件が起こった。 信長は佐々孫介ら5人の討手を送り孫八郎を成敗した。この弑逆について、孫八郎が信光の室に懸想していたという話も伝えられているが、駿河に逃げ込んだ坂井大膳が、一城を与える約束で暗殺させたという説もある。

 後から考えれば、信光が殺されたことは、信長の尾張統一の為に好都合だったから、信長の謀略ではないかという想像をしたくなるが、那古野城はこの後、信長と敵対し、信勝を推戴している林美作が城主になっている ことを考えると、信長の謀略だとすることと矛盾するのではないか。むしろ信長と信光が尾張を共同統治することになれば、一番不利益を受けるのは信勝派だったことは間違いないだろう。

 この頃、美濃では家督を継いだ斎藤義龍が叔父の長井道利と共謀し、病気を装って、の弟の孫四郎と喜平次らに見舞いに来させ、登城した所を家臣の日根野弘就に殺害させるという変事が起こった。 11月26日のことである。そして義龍は父道三と義絶する。
 道三は前年家督を義龍に譲り鷺山城に隠居していたが、義龍は道三のこれまでの政策を変えようとしたらしい。それに不満を持った道三が義龍の弟の孫四郎、喜平次を立てて、復権しようと考えたが、義龍に機先を制されたということらしい。道三はこの後義龍に鷺山 城に拠って兵を集めるが、有力家臣は殆ど義龍側に着き、道三は追い詰められてゆく。
 ただし、この義龍の弟殺害の事件は、翌年の4月1日、長良川の戦いの直前と書かれている本も多く、その説を採ると、ストーリーが少し変わってくるのだが、いずれにせよこの時点で、濃尾同盟は崩壊していたことには変わりない。

 この美濃の情勢は、道三と攻守同盟を結んでいる信長にとって重大な危機になる。美濃との同盟が崩壊すれば、駿河と美濃の両面に敵を受けることになるからだ。しかし信長としては、義父である道三と敵対する義龍と同盟することは出来なかった。

 信長にとっては、この後も内外ともに危機が続くが、一つ明るい話題と言えば、この年の閏10月に駿河の太原崇孚が死んだことである。第2次小豆坂の戦いで敗北して以来、安祥城を攻略され、信秀が死んでからは、山口教継の離反に始まる東尾張への今川氏の進出や蟹江城の攻略、それに加え、甲駿 相三国同盟を締結し、尾張侵攻の下地を固めるなど、じりじりと織田氏が圧迫されて来たのは、まさに太原崇孚雪斎の戦略に基づくものだったからだ。その雪斎が死んだということは、しばらく今川の動きは鈍くなるだろうし、今川の戦略も甘くなることが期待出来るからだ。

 


 

 

織田信長のルーツ(37)

 

 斉藤義龍が弟の孫四郎、喜平次を殺害したのは、1555(弘治元)年11月26日と、年が明けて1556(弘治2)年 4月1日の二説があると書いたが、ここでは、11月に殺害されたが、義龍はそれを秘密にし、翌年4月1日に意図的に道三に伝えて、道三に兵を挙げさせるようにしむけたと解釈しておきたい。義龍はその4ヶ月の間に、十分に戦いの準備をしておいて、4月に道三の方から兵を挙げざるを得ないようにし、国内の豪族が道三方に着く時間を与えず、一気に滅ぼそうとしたという解釈である。

 斉藤道三は4月1日に義龍から弟二人を殺したと伝えられ、もはや戦う他に道はないと思い、大桑城(後に鷺山城に移ったともいう)に拠り、美濃国内の諸豪族に呼びかけて兵を集めたが、 結局味方についたのは2700に過ぎなかった。それに対し、義龍は17500の兵を集めたという。敗戦濃厚な戦いを前に、道三は信長に援軍を要請するとともに、美濃の国を信長に譲るという遺言を 書いたという。
 道三は稲葉山城下を焼き払い一戦したが、6倍の兵力を持つ義龍方は、城外に多数の後詰の軍を配置していたから、脆くも敗れ、城田寺城に退き立て籠もった。

 4月18日、道三は城田寺城を出て、稲葉山城の西北の鶴山に本陣を置いた。これに対し義龍は20日、稲葉山城を出て長良川に布陣した。
 道三方は篭城しても、後詰が無い限り勝利は在り得ず、野戦でも、6倍の数の義龍方の兵に包囲されてしまったら、勝ち目はない。2千7百の道三方の兵が団塊となって敵の本陣に切り込む他はなかった。もし、戦いを持ちこたえて、その間に、信長の援軍が到着すれば、戦況は変わるかも知れない。しかし、義龍方はその時間を与えまいとする。

 緒戦は義龍方の竹腰道塵の兵6百が長良川を渡り道三の陣を攻撃してきたのを、道三方が壊滅させたが、義龍方の大軍 は次々と道三の陣へ押し寄せた。そしてついに床机に座って指揮をしている道三を捉え、長井忠左衛門が道三に組み着き、小牧源太が道三の頸を取ったという。
 道三が戦死した後も、鷺山城の城代を務めていた石谷対馬守は降伏勧告にも応じず、徹底抗戦して城と運命をともにしたという。

 織田信長は道三の要請を受けて、救援のために出陣したが、美濃大浦に陣を張った時は、 すでに長良川の戦いは終わっていた。そして長良川の戦いに勝利した美濃勢が、勢いに乗って信長の陣を攻撃して来た。
 信長方が防戦している最中、逃げて来た道三の二人の息子から、「美濃国譲り状」とともに道三討ち死にの報が伝えられ、一時混乱に陥ったが、信長は自ら殿軍を引き受けて、鉄砲で美濃勢を蹴散らしながら、福富平左衛門ら生き残った道三の 将兵を引き連れて尾張に帰還した。その後信長は生き残った道三の息子の斉藤新五郎や家臣の福富平左衛門らを召抱えている。

 


 

 

織田信長のルーツ(38)

 

 斉藤道三の敗死は、尾張国内の織田一族や諸豪族に大きな動揺を与えた。道三と同盟を結んでいた織田信長が、道三を滅ぼした斉藤義龍と和睦することは考えられないとすれば、尾張は美濃と三河の両方に敵を持つことになる。つまり信長の父信秀の挫折を繰り返すことになる。そればかりか、今川氏の勢力は信秀の時代よりも遥かに強大になっており、しかも今川は武田氏、北条氏と三国同盟を結んでおり、全軍を尾張に向けることが可能になっている。
 織田一族や有力豪族の多くは、美濃と同盟を結び、駿河に対抗する他に道はなく、斉藤義龍と和睦、同盟するには、道三と同盟を結んでいた信長を廃して、信勝(信行)が織田家の惣領を継ぐ他はないと考えていただろう。弾正忠家で最も大きな力を持っている林佐渡は、これまでも信勝を支持してきており、村木の戦いには、信長に従わず、荒子城に入り、兵を出さなかった。
 その後の経過を考えると、すでに道三救援の出兵の時点で、林佐渡は信長排除の意図を持って、信勝を弾正忠家の惣領として戴いていただろう。柴田勝家も信勝の付家老という立場から、林佐渡に従い、道三救援の出兵はしなかったのではないか。
 那古野城主の織田信光が家臣の坂井孫八郎に殺された事件も、その後、那古野城主に収まっていることを考えると、主犯は林佐渡だったのではないかと思う。

 ところが、長良川の戦いから一月後の5月26日、信長は弟の守山城主織田阿波守(信時)と二人だけで、那古野城に行った。『信長公記』は「何と思食(おぼしめし)たる事哉覧(ことやらん)と、信長の行動を不可解と捉え、佐渡の弟の美作が「能仕合(よきしあはせ-良い機会)にて、御腹召させ候はん(切腹させよう)と言ったが、佐渡が止めたという。堂々と戦場で勝てば良いと思っていたのだろう。
 信長は美濃と駿河と二つの敵を持つことになっても、道三の「美濃国譲り状」の遺言を実現すること、斉藤義龍と和睦することはないことを伝え、美濃は近江の六角氏と同盟して牽制するというような話をしに行ったのだろう。そして信長、安房守(信時)と信勝、林兄弟との話は決裂したのだろうと思う。

 それから2日後、信勝、林佐渡兄弟は信長への反旗を公然と掲げ、佐渡の与力である荒子城主の前田与十郎氏や米野城、大脇城を味方に付け、信長の支配地である清洲と熱田を分断した。そしてその翌月、守山城主の織田安房守(信時)が家臣の角田新五に殺された。角田新五は、主君を弑逆しておきながら、8月の稲生の戦いには信勝方で戦い、戦死しているから、安房守殺しは、信勝や林佐渡が信長の味方になっている信時を抹殺して、その後の戦いを有利にすすめようとしたのだろう。

 信勝方は、信長の直轄地である篠木三郷(春日井市内津)を横領し、川際に砦を構え、さらに川東の信長の知行地を押さえようとした。こうして稲生と戦いが始まる。
 


 

 

織田信長のルーツ(39)

 

 1556年(弘治2)8月22日、信長は、庄内川の東岸の名塚(名古屋市西区)に砦を構え、佐久間大学に守らせていた。翌日は雨が降り、庄内川は増水し、信長方の砦は完成していないと予想した信勝方は、砦の完成前に信長方を排除しようとし出陣した。その勢柴田勝家の率いる千、林佐渡、美作の率いる7百である。
 信長も翌24日、名塚砦の後詰に7百の兵を率い出陣した。庄内川を渡ると、名塚砦近くの稲生で両軍が遭遇する。柴田勢は稲生の村外れの街道を東から、林美作は南から信長勢に向かって来た。

 昼頃、信長方はまず、南東に向かって柴田勝家に討ちかかり、散々に槍で叩き合う戦闘になったが、信長方の山田治部左衛門が討ち死、佐々孫介その他の屈強の者も討たれて、残った者は信長の旗本まで逃げ帰って来た。
 信長の傍には織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門と40人ほどの槍持仲間(ちゅうげん-小者)がいるばかりだったが、押し寄せて来た柴田勢に信長が大声で怒ると、もともと身内だったから、信長の威光を恐れて立ちすくみ、逃げ崩れてしまった。
 この柴田勝家の屈服は、勝家が信勝の付家老であった為に信勝方で出兵したものの、そもそも信長に敵対することが本心では無かったことを示している。勝家の撤退によって形勢は逆転し、信長方は勢いに乗って林美作勢を 切り崩し、信長方の黒田半平が美作と切り合った、半平は左手を切り落とされたが、息をつている美作に信長自信が切りかかり合い、美作を討ち取ったという。

 信勝方の戦死者は450人に及び、反撃する力を失って那古野、末森城(末盛城)に篭城したが、信長、信勝の母の土田御前が村井貞勝と嶋田所之助を遣わし、助命を嘆願したのを受け入れ、信勝を許した。 信勝と末森城の重臣津々木蔵人、柴田勝家らは墨衣を着て土田御前とともに、清洲に行き礼に出向いた。また林佐渡は謀反を企てた張本人ではあったが、信長と信時が二人だけで那古野城に行った時、信長を殺せる機会 があったのに、手を出さなかったことを考慮し許したという。

 信長は尾張国内の抗争で、尾張の兵力が失われることを最も危惧していた。尾張の将兵は、敵対した者でも、出来るだけ帰服させて、信長の兵力に加えたいと考えていたと思う。それが次の変事、弟信勝の謀殺となったのだろう。

 しかし、この戦いは柴田勝家が退却しなければ、負けていただろう。来るべきもっと大きな敵、今川や斉藤との戦いを考えればもっと緻密で合理的な兵力や兵器の増強、戦略、戦術を持たなければならないと感じたのではないか。

 


 

 

織田信長のルーツ(40)

 

 稲生の戦いの前後に、もう一つ信長に謀反の未遂事件が起こっている。信長の庶兄三郎五郎(信広)が美濃の斎藤義龍と結んで信長を挟撃しようと策謀を企てた。道三の敗死以後、信長は美濃から出勢があれば、自ら懸け向かっていたが、その時、信広が出陣すると、清洲の町通りを行くが、その時、留守居役の佐脇藤右衛門が応対に出てくるのがいつもの例になっているので、その時、佐脇を捕らえて切腹させ、城を乗っ取り、狼煙を上げるので、それを合図に美濃勢が信長勢に攻めかかれば成功は間違いないという作戦だった。
 ところが、美濃衆が普段より、そわそわして川を渡り、辺りへ人数を詰めているという注進があった。これを聞いた信長は、さては家中に謀反があると判断し、佐脇に一切城を出ないように命じ、清洲の町民にも、惣構えよく城戸を堅めて、信長が帰陣するまで人を入れてはならぬと下知した。こうして信長は出陣した。

 信広も出陣したが、城下に着いても誰も居らず、入ることが出来ない。さては謀反が発覚したのかと、引き返し、美濃衆も退却し、信長も帰城した。
 この後、信広は敵対の姿勢を示し、争奪すること相方半ばであったが、苦境の時に信長に味方する者はなく、孤立無援の状態だったが、ただ信長には7、8百人の直属の信頼出来る屈強の家臣団があり、合戦で不覚を取ることは一度もなかった。

 この動きは、信勝と呼応して謀反を起こしたもののように思われるが、『信長公記』には、斉藤義龍と通じて、と書かれているだけで、真相はわからない。

 もう一つ、1556(弘治2)年には、信長に心を寄せる吉良義昭を調略するため、信長が庇護している斯波義銀が三河の上野原で義昭と参会したのだが、その後、三河の守護家吉良義昭は変心し、尾張国端に住む今川家の一族の石橋氏、そして河内の服部左京介らと、今川義元と通じ、今川勢を尾張に引き入れようと画策し、信長は斯波義銀を追放している。 義銀を追放したのは1561(永禄4)年という説もある。

 


 

 

織田信長のルーツ(41)

 

信勝は信長に謝罪し、自分の官途名も、これまで用いてきた弾正忠家の惣領を意味する「弾正忠」を「武蔵守」に改めた。しかしそれは表面的なものに過ぎず、稲生の戦いの敗北 が、柴田勝家の敗退にあると、勝家を疎んじ遠ざけ、津々木蔵人を重用 するようになった。そして信勝は岩倉織田家と結んで再び信長に反旗を翻した。1557(弘治3)年の初めには、信勝は再び官途名を「弾正忠」に戻している。そして3月18日 、竜泉寺を城砦化する工事を始めたという記録が『定光寺年代記』にあり、それには弾正忠と記載されているという。
 信勝は、再び篠木三郷を横領しようとしたが、今度は柴田勝家は、もはや信勝には着かなかった。信勝が津々木蔵人を重用し、勝家を疎んじるようになったこともあ ったし、信長に助命されながら、再び謀反を企てる信勝の態度が、勝家の素朴な誠実さとは相容れなかったのだろう。

 勝家は、密かに信勝が謀反を企てていることを信長に伝えた。信長は勝家に今まで通り、知らぬ顔で信勝に仕えるように言い、自身は重病を装い、一切執務の場にも出なくなった。 信長は信勝を除かねばならないと考えた。しかしその家臣は殺したくない。信長の命令で動く将兵の数は、岩倉織田家が動員する兵力よりもはるかに少ないのだ。信勝の指揮下にある将兵を自分の指揮下に加えなければならない。その為には信勝以外は殺してはならなかった。信勝だけを殺す。病気を装って、見舞いに来させて、その場で殺す。

 母の土田御前も信長の病気を信じ、柴田勝家も見舞いに行くように勧めたが、信勝は、美濃の斉藤義龍が病気を装い、見舞いに訪れた弟二人を殺した例もあり、すぐには信用せず、勝家に真偽を確めさせたが、結局母の土田御前も同行して、清洲城に行 くことになった。11月2日のことである。そして清洲城北櫓天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆らによって切られ、母の土田御前の居る所へ逃げようとしたが、逃げ切れず絶命した。

 岩倉の織田信安が兵を挙げる前に、信勝の謀反は挫折したが、なお岩倉織田家の勢力はあなどれない力を持っていた。しかもその背後には斉藤義龍がいる。いずれにせよ岩倉との衝突は不可避だったが、その一方で1558(弘治4・永禄1)年3月、信長は今川方が抑えている品野城に付城を築き、攻撃した。しかし松平家次に急襲され敗退している。

 尾張を今川には渡さない。そして義父斉藤道三の仇、親殺しなどと妥協することは有り得ない。大国美濃と更に巨大な今川を敵にまわしても妥協しないと信長は考えていたのだろうか。

 


 

 

織田信長のルーツ(42)

 

 1558(永禄元)年、岩倉織田家の信安が長男の信賢に追放されるという事変が起こった。信安が家督を長男ではなく次男の信家に家督を譲ろうとしたため、信賢がクーデターを起こしたのである。

 信賢の生年は不明だが母は織田信定の娘で、信長の従兄弟になる。そういうこともあって信長は少年時代にはよく岩倉城に遊びに行っていたという。岩倉織田家は織田氏の本家で、本家の守護代家が上四郡守護代伊勢守家と下四郡守護代大和守家に分かれた後も、岩倉の伊勢守家は北尾張に勢力を保ち続けて来た。
 叔父の信安は領国の経営よりも文化的なことに関心が強く、信長はここで猿楽を楽しんだという。しかし、後に所領の問題で対立するようになり、信長とは疎遠になり、更に長良川の戦いで信長が援軍を送った時には岩倉織田家は斉藤義龍に味方して、信長の所領を攻撃し、さらに信勝と信長が対立すると信勝に味方するという風で、それ以来、信長にとっては、いずれ決戦せざるを得ない敵対関係になっていた。
 しかし兵力も信長の動かせる兵力を上回っており、岩倉織田家の背後には美濃の斉藤義龍がいたから、周到な戦略が必要だった。
 信長は父方の従兄弟で、姉が嫁いでいる犬山城主の織田信清の調略を行い、同盟して岩倉城を攻撃することになった。信清と同盟すれば、斉藤方が動いても対処出来る筈である。

 その頃、岩倉方が清洲から30町(3.3キロ)隔てた下津の正眼寺を砦にするという噂が立った。信長は正眼寺を砦として利用できないようにするため、清洲の町民を動員して、廻りの藪を切り払おうとしたが、警備の兵が83人しか居ないのを見た町民は不安を訴えた。
 それを聞いた信長は、町民に竹槍を持たせ、足軽のように偽装し、見える所だけ本物の足軽を配して岩倉方を牽制したという。こういう機知は桶狭間の戦いでも使われたのではなかったか。

 7月12日、信長は岩倉攻撃に出陣した。清洲から岩倉までは30町(3.3キロ)ほどの距離だが、直進せず、3里(12キロ)上の岩倉城の背後に迂回し、足場の良い浮野という所に布陣した。これに対し岩倉方は3千の兵で応戦に出てきた。
 真昼頃、信長方は南東の方角に攻撃を開始し、数刻戦い、岩倉勢を追い崩した。その岩倉勢の中に、浅野村の林弥七郎という隠れない弓達者の者がいた。敗戦で岩倉勢が退却している時、信長の鉄砲の師の橋本一巴が、弥七郎を見つけた。弥七郎は一巴の知人であった。一巴は弥七郎に「たすけまじき」と言うと、弥七郎は「心得候」と答え、藍香という種類の4寸(12センチ)の鏃の付いた矢をはめて、立ちかえって放った。矢は一巴の脇の下へ深々と命中した。
 もとより一巴も二発玉を込み入れた銃を発射したが、見事に命中し、弥七郎は討たれて転倒した。そこへ信長の小姓の佐脇藤八が走り懸かり、弥七郎の頸を取ろうとすると、弥七郎は倒れたままで太刀を抜き持ち、相手の左肱の小手の上を打ち落とした。その後、結局弥七郎は頸を取られたが、弓も太刀も、弥七郎の働きは比類のないものだったと、皆感じ入った。

 清洲へ帰城した翌日頸実検が行われたが、岩倉方の究竟の侍頸1250余という。信長方の一方的な勝利だが、この戦いでも、橋本一巴の個人技ではなく、鉄砲が集団的、組織的に利用され、それが大きな戦力の差になったのではなかったか。下津の正眼寺の防衛に町民を使った時の様子を見ると、兵農分離を感じさせる。 それだけ兵士の戦闘能力は高く、しかも3間半の長槍を使った、合理的な集団戦法の実践訓練を積み重ねている。それが圧倒的な勝利をもたらしたのではないか。それは、来るべき桶狭間の戦いでも同じことが言えたのではないか。
 


 

 

織田信長のルーツ(43)

 

  『信長公記』には、信広謀反の記事に続いて、津島の盆踊の張行について書かれている。日付は7月18日と書かれているが、年はわからない。桶狭間の戦いで戦死した飯尾近江守の名が出ているので、それ以前であることは間違いない。1558(永禄元)年なら、浮野の戦いが7月12日だから、その6日後になる。尾張の統一がほぼ見えた時期だから、戦勝を祝う雰囲気は満ちていただろうし、何か新しい伝統行事が始まるには、相応しいように思う。

 津島の盆踊り張行は津島の堀田道空の屋敷で行われた。元斉藤道三の家臣で、5年前、信長が道三と聖徳寺で会見した折、接待役を務めた人物だが、もともと津島神社の社家で、津島に屋敷があったが、道三の死後は津島に住んでいたのだろう。

 『信長公記』にはその時、信長の家臣が様々な扮装をして登場したことが記されている。
 赤鬼 平手内膳衆
 黒鬼 浅井備中衆
 餓鬼 瀧川左近衆
 地蔵 織田太郎左衛門衆
    弁慶になり候衆勝て器量なる仁躰なり
 前野但馬守   弁慶
 伊東夫兵衛   弁慶
 市橋伝左衛門 弁慶
 飯尾近江守   弁慶
 祝弥三郎    鷺になられ候。 一段似相ひすとなり。
 上総介殿は天人の御仕立に御成り候て、小鼓を遊ばし、女おどりをなされ候。

 津島5ヶ村の年寄は、清洲で踊りの返しをしたが、「これは滑稽だ。これはよく似ている」などと和気藹々として一々声をかけて、信長みずから、踊りの役をしている津島の人々を団扇で扇いだり、お茶を出されたりしたので、津島の人々は感激して涙をながして村へ帰ったという。信長の人柄を示す逸話だが、信長の同時代の家臣である太田牛一の書いたものだから、後世の単なる伝説ではない。

 この時、すでに瀧川一益が衆を率いた家臣として登場している。一益は秀吉と同じように出自不明の存在だが、甲賀の出身で、鉄砲の名人だったから、衆というのは鉄砲足軽だろうか。一益は信長よりも9歳年長である。また前野但馬守の名が上がっており「器量なる仁躰」と評されているが、前野家は岩倉織田家の被官だったが、浮野の戦いの前には信長の家臣になり、岩倉織田家との戦いに貢献している。


 

 

織田信長のルーツ(44)

 

 信長が踊りの張行をする話は、『武功夜話』にも出ており、側室吉乃の住む生駒八右衛門の屋敷で無礼講で踊り明かす話が書かれている。『武功夜話』は偽書という専門家もあるが、捏造されたものであったとしても、信長の時代の歴史の空白を埋める内容を持っているように感じる。

 『武功夜話』によると蜂須賀小六は土豪蜂須賀家に生まれたが、家出をして川並衆と呼ばれる河川運送に関わる無頼者の手下を千人以上持つ侠客になった。そこへ駿河の松下家から暇を出された木下藤吉郎が寄寓することになる。
 前野将右衛門は信長の側室吉乃の実家の生駒家と古くからの繋りがある土豪だったが、小六の弟分で、小六とともに、肥料に使う灰や照明に使う油などを扱う豪商だった生駒家に出入りしており、木下藤吉郎も生駒家に出入りするようになる。そして生駒家で暮らしている吉乃の口利きもあって信長に仕えるようになったという話だが、この『武功夜話』の話は、秀吉が「がんまくと一若という幼馴染が信長の小者をしており、その口利きで仕えた」とか、果ては、「信長が鷹狩に出た時に直訴した」などという、一般に流布している伝説より真実味があり、『武功夜話』がかりに偽書であったとしても、採用する価値のある仮説だと思う。
 また、仕官した後の秀吉の活躍は、蜂須賀小六の率いる川並衆との繋がりがなければ説明出来ないのではないかと思う。

 『武功夜話』によれば、生駒家には、諸国の武芸者などが多数寄寓しており、諸国の情報が常に入って来たという。そのことも灰と油を商う豪商ということを考えれば容易に理解できることである。信長が、ここを基地にして、これらの人脈を利用して情報を集め、調略を行い、軍事的な計略を行ったとすれば、信長の勢力が他の勢力を圧倒して行った理由も理解しやすい。

 津島の堀田家、熱田の加藤家、千秋家、そして生駒家、信長の支えた背景は武家領主よりも豪商の方にあるように思える。そしてそれが信長を飛躍させる原動力になったのだろう。

 


 

 

織田信長のルーツ(45)

 

 尾張天永久寺の天沢という天台宗の高僧がいた。七千巻以上あるという一切経を二度読破したという人物である。天沢が関東へ下行した時、甲斐で奉行から、武田信玄に「一礼申候て罷通り候へ」と言われたので、信玄を訪問した。
 その時、信玄は、信長について「ありのまま残らず物語候へ」と言うので、毎朝の乗馬のことや鉄砲・弓・剣術の稽古のこと、鷹狩のことを話したが、武田信玄がさらに「数奇(風流の趣味)は何かある」と聞くので、清洲の町人で友閑という者を再々召して幸若舞を舞わせるが、信長自身は「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」という『敦盛』ただ一番だけしか舞わないこと、「死のうは一定、しのび草には何しよぞ、一定かたりをこすよの」という小唄を好むことなどを話した。

 その後鷹狩のことを聞かれたので、廿人鳥見の衆、側近の六人衆、また向待ちという事を定め、農夫の変装をして田を耕すふりをしながら、鷹を放って獲物に組み付いたら、それを向待ちの者が押さえることなどを話しすると、信玄は、信長は武者を知っているというのは道理だと感心したという。

 『信長公記』のエピソードは、後世の伝説ではなく、同時代の見聞を伝えているだけに真実味がある。信長の死生観が単なる趣味や教養や観念的なものではなく、自己実現の行動原理に直結していることを示しているように思う。
 「誰でも一度は死ぬ生命だから、その生命を賭けて、後世に名を残す。それが永遠の生命だ。」ということだろうが、それは口先だけのものではなく、信長は本気でそう考えていたのだろう。それは「虚無」とは正反対の精神である。
 殆どの人は「どうせ死ぬのだから、現世利益、栄耀栄華、安全安心、目先の快楽を求めて」生きる。こちらの方が「虚無」である。

 このエピソードは『信長公記』の桶狭間の戦いの前、津島の盆踊りの後に書かれているので、桶狭間の戦いの前に、すでに信長の名は諸国の大名に注目されていたということだろうか。


 

 

織田信長のルーツ(46)

 

 1559(永禄2)年2月2日、織田信長 は、家臣80名と従者を含め500人を引き連れ上洛した。『信長公記』によれば、「俄かに仰せ出だされ」と書かれているが、前年に将軍義輝 は三好長慶と和睦し入洛したが、その権力基盤は不安定だったために、将軍家を擁護するために上洛する大名を求めていた。 いまだ尾張国内を掌握していなかったが、信長にも要請があったということか。
 信長は、この機を捉え、尾張の支配権を公認させ、今川氏の東尾張侵攻を牽制しようとしたのではないか。

 信長が出発した後、清洲の那古野弥五郎の家中で丹羽兵蔵という者が、用があって上洛の途路、近江の志那(草津市)という渡しで、風格のある5、6人の者に率いられた30人ほど の一行と同船した。船中でその中の一人が、兵蔵に何所の者だと聞くので、三河の国の者で、尾張を通って来たが、ひっそりしているので、気遣いしながらやって来たと話すと、「上総は不甲斐ない奴だ」と言った。彼らは人目を忍ぶ風で、不審に思った兵蔵は気をつけて、彼らが宿泊する所の近くに泊まり、宿の使用人を手なずけて、彼ら が信長の討手だということを 探り出した。
 兵蔵は、夜になって一行の供の中に紛れ込んで聴き耳を立てていると、「公方の御覚悟さへまいり候て、その宿の者に仰付けられ候はゞ、鉄砲にて打ち候はんには何の仔細有間敷」と言うのが聞こえた。将軍の承認を得て信長を鉄砲で襲撃しようと言うのだ。

 その後兵蔵が一行をつけて行くと、彼らは日中急いで京に向い、夜に入って京に着いた。そして二条蛸薬師のあたりに宿を取った。夜中なので、平蔵はその家の左右の門柱に削って印を付け、 それから信長の宿を探した。そして上京室町の裏辻の宿に居ることがわかり、さっそく訪ねて、金森長近と蜂屋頼隆に仔細を告げた。信長は報告を聞くのに丹羽兵蔵も一緒に呼んで、宿を突き止めたかと聞いたので、兵蔵は間違いなく突き止めたと報告した。 その後、どう処置するか相談をし、金森長近が美濃の出身で討手の者達と面識があったので、信長は長近に、早朝に彼らの泊まっている宿に行くように命じた。
 夜が明けて、金森長近は兵蔵を伴って討手の居る宿に行き、宿の裏屋に入り、討手の面々と会った。そして「夕べ貴方供上洛の事、上総介殿も存知候の間、さて参り候。信長へ御礼(拝謁)申し候へ。」と言うと、一行は顔色を変えて驚いたという。

 翌日、美濃衆は小川表の管領細川晴元の屋敷に参上したが、信長も小川表見物として出て来た。ここで彼らと対面し、「汝らは上総介の討手に上りたるとな。若輩(未熟者)の奴ばらが進退(振る舞い)にて信長を狙う事、蟷螂(かまきり)の斧とやらん。実(まこと)しからず(本当かどうか)。さりながら、爰にて仕るべく候哉(しかし、ここでやってみるか)」と言葉を懸けた。それに対して美濃衆の討手らは立場に窮してしまったという。

 


 

 

 

織田信長のルーツ(47)

 

 織田信長の京都滞在は、わずか5日で終わった。醍醐寺の理性院厳助の日記『厳助往年記』に「尾州織田弾正忠上洛。雑説ありて、俄かに罷り下ると云々」と書かれているという。都では信長は「上総介」ではなく、「弾正忠」という官途名で認識されていたらしい。

 岩倉織田氏は大敗したというものの、まだ滅んではいない。美濃と結んで蠢動したのかも知れない。或いは今川の大規模な軍事行動の情報が入ったのか。西尾張の服部左京介や門徒勢力は今川と結んでいる。またこの月、知多郡緒川城の水野信元が松平信康に攻撃され、石瀬で戦っており、 また山口教継の調略で大高城が今川方の手に渡ったのはこの年だとも言う。しかし山口教継は駿府に呼び出され、信長と内通していると疑われ殺され、大高城は今川直臣の朝比奈輝勝が入城した。今川氏は村木の戦いに敗北して以後も、知多半島の掌握と伊勢湾の制海権の獲得に執着し続けていた のだ。

 信長が尾張を留守にして、それに代わる統括者はまだ育っていなかっただろう。老臣の筆頭、林佐渡は信長に謀反を起こした中心人物だったし、未だに独立した指揮権を持った被官領主という感覚を持ち続けているだろう。いつ何時斉藤や今川と結びつかないとも限らない。柴田勝家も優秀な戦闘指揮官の域を出ない。
 つまり、信長が尾張を留守にする余裕などはなかったのである。そして尾張の支配権の公認という目的、私称ではなく、正式な任官として「尾張守護」か「尾張守」の肩書きを得たかったのだろうが、それを得た形跡はない。任官に失敗して、在京を早々に取りやめたのかも知れない。
 それにしても信長は近江守山から八風峠を越えて、一気に清洲に帰ったというから、何か急報があったのかも知れない。

 ところで、この上洛時の美濃の刺客の話の主人公、丹羽兵蔵の行動は、プロの忍者の行動である。そもそも用があって上洛というのも、通常の任務ではなく、今川、斉藤の動きを調べて京に滞在している信長に報告するのが目的だったのかも知れない。

 信長の軍事的な強さというのは、

  ①直属家臣団の優秀さと忠誠心、
  ②身分に捕われない人材の登用と活用、
  ③最新兵器を含めた兵器の有効な活用、
  ④戦闘時の地形や天候、その他の状況把握とその臨機応変な利用、
  ⑤敵の予想を超える戦術、戦略、
  ⑥諜報活動の優秀さ

 などが挙げられると思うが、この丹羽兵蔵も、そうした諜報部員の一人だったのだろうか。この兵蔵の主君那古野弥五郎というのは、信長に内通し、清洲織田家の分裂を策動した人物である。
 もちろん、信長家臣団の優秀さは、信長を支持する武士や民衆が育っているから出来ることだから、信長の指導者としての優秀さ、社会や経済の未来を見通す政治家としての優秀さ、さらに言えば実践的思想家としての革命的な理念があるだろう。

 信長が急ぎ帰国した後、斉藤義龍と上杉謙信が上洛している。そして斉藤義龍は幕府の相伴衆に列している。まだまだ斉藤義龍の方が格が上だったということだろう。

 


 

 

織田信長のルーツ(48)

 

 織田信長は清洲に帰るとすぐに、岩倉城を包囲し、城下に放火をして生城(裸城)にした。そして城の周囲を2重、3重の丈夫な垣で囲み、廻番を堅めて、2、3ヶ月に渡って火矢や鉄砲を打ち込み、様々攻めさせた。
 この経緯を見ると、京に着いて間もない信長が急遽帰国したのは、岩倉織田家が美濃の斉藤氏と結んで清洲を攻撃しようという動きがあったのだろうか。
 結局城方は支えきれず開城し、城主織田信賢は美濃に落ちていった。こうして信長は東尾張の今川方の支配地域と河内の服部左京介を除いて、ほぼ尾張を統一した。

 しかし三河国境は風雲急を告げる。今川方の手に落ちた大高城は、黒末川(天白川)の河口で、そこから鳴海城まで入海になっており、伊勢湾の海路の拠点となる 湊である。今川義元が知多半島の制圧に躍起になるのは伊勢湾の海路を確保し、桑名・伊勢大湊への経済流通を掌握しようという狙いがあるからだという。先年蟹江城を攻略したのも、その目的を達成するためだった。

 この今川の動きに対して、織田信長は大高城と鳴海城の周りを付城で取り囲んだ。大高城の北側、鳴海城の間には鷲津砦を築き、東には丸根砦を築いて、大高城と鳴海城の間を分断し、大高城の南側には向山砦、氷上山砦、正光寺砦、そして鳴海城の東に丹下砦、善照寺砦、中島砦を築いた。中島砦は東海道と鎌倉街道の分岐点にあり鳴海城からの往来を扼する位置にあった。
 今川方にとって、大高城と鳴海城の重要性というのは、そこを確保することによって、物資や兵力を自由に海から搬送する出来 、知多半島の在地領主を威圧し、熱田や津島など、織田方の主要な湊にも脅威を与えることが出来るからである。織田方にとっては、まさに風穴を開けられることになる。

 織田方は大高城の周囲には5つ、鳴海城の周囲には3つの砦で包囲したのだが、このことは城を取っても、今川方はその地域を支配出来ていないことを示すものだろう。つまり、キューバにある米軍基地のようなものだ。だからこそ、桶狭間の戦いまで、再々、今川方が大高城に兵糧を入れなければならなかったのだ。そしてそれ故にこそ海上輸送の湊として使える大高城の周囲を制圧する必要があったのだ。

 山口教継は今川方に寝返っったが、在地領主としては機能しなかった。また『信長公記』には出て来ないが鳴海城の北、笠寺城の北西にある戸部城の戸部正直も今川方に着いたというが、2人とも織田方への内通を疑われ、今川義元によって殺されている。教継は駿府に呼びつけられ切腹させられ、正直は駿府への途中で殺されたという。領民を掌握出来ず、年貢を取ることも出来ない在地領主などは必要がない。織田方に内通しようとしまいと要らないのである。

 


 

 

織田信長のルーツ(49)

 

 東尾張の緊張が高まる中、つまらぬ事件が起こった。1549年6月、近習の、信長が特に目をかけていた赤母衣衆筆頭にも選ばれた前田又左衛門(利家)が同朋衆の拾阿弥と争いを起こし、切り捨ててしまったのである。
 拾阿弥も信長に気に入られていたらしいのだが、以前から又左衛門に度を過ぎたからかいをすることがあり、この頃又左衛門は結婚して間もない時だったのだが、妻の松から贈られた笄を拾阿弥に盗まれ、返しはしたものの、追い討ちをかけるような侮辱的なことを言ったという。怒った又左衛門は拾阿弥を切り捨てると公言したのが信長の耳に入り、怒るのはわかるが、許してやれと信長に言われ、一度は思いとどまったものの、再び又左衛門を笑いものにするような陰口が耳に入り、遂に切り捨ててしまったのだという。
 信長は彼我の罪状よりも、自分の命に背いたことが許せず、又左衛門を手打ちにしようとしたのだが、柴田勝家や森三左衛門らが信長を押しとどめたため、手打ちは思い止まったものの、 長の暇を取らせるということになった。
 又左衛門は熱田社家の松岡家にしばらく寄寓した後、三河に行ったという。そして翌年、信長の勘気の解けないまま、又左衛門は桶狭間の戦いに再び現れる。

 今川氏の尾張国境を目指す大規模な軍事行動の準備はすでに始まっていた。大井掃部丞という者に来年納入する予定の、軍用に使用する滑皮、薫皮を至急納品せよという、この年、1559(永禄2)年の8月8日付け文書が残されているという。またこの年今川義元が発布した7ヶ条の軍令が残っているという。

 今川義元の計画は、まず知多半島と東尾張を制圧して領国化することだっただろう。そして伊勢湾の制海権を握り伊勢を制圧する。その後は将軍義輝を補佐するために上京するという構想があったのかも知れない。
 逆に信長にとっては大高、鳴海などの東尾張の今川方諸城を攻略し、知多半島の水野氏を孤立させないことである。そして北伊勢まで進出してきている近江の六角氏や斉藤氏に属していない、織田家と縁戚関係にある東美濃の遠山氏などと提携し、斉藤氏うや今川氏を封じ込めることである。

 今川方の河内二の江城主服部左京助は今川勢とともに水軍で知多を攻撃して来るだろうから、緒川城他の水野氏の勢力は動かせない。犬山城の織田信清は千ほどの兵力を持っているが、美濃を牽制するために動かせない。動かせる兵力は信長旗下の四千に満たない兵力だけである。そしてその内、本城清洲城他の城や大高城、鳴海城の付城の守備隊を除けば、ニ千ほどの将兵で今川の大軍に立ち向かわなければならない。

 


 

 

織田信長のルーツ(50)

 

 1560(永禄3)年1月、信長は東尾張の今川方の品野城を、過去2度失敗している攻城戦で、攻略に成功する。今川方が東尾張に向けた大規模な軍事行動の準備に追われて、身動きが出来ない時期を狙って奪取したということだろう。
 品野城攻略によって、信長の支配地域と、信長の妹が嫁いでいる東美濃の遠山氏の所領は接することになり、同盟関係を固めることが出来るようになった。そして今川氏との戦場は沓掛から大高、鳴海に限定出来ることになる。

 今川義元は前年までに、東尾張の鳴海城主山口教継や戸部城主戸部正直を殺し、鳴海城には岡部元信を在番とし、大高城には鵜殿長照を入れた。この布陣は結局、三河と同じように、東尾張の国人領主を今川氏の被官にし領国化するという政策に失敗したということだろう。東尾張の領民を支配することが出来なかったのである。

 もはや大高城と鳴海城は、占領地の進駐軍基地というに過ぎない。糧道を確保出来なければ、忽ち維持出来なくなる。だからこそ、大高城への兵糧入れの話が徳川家康の手柄話として残るのである。
 また小説などでは、大抵山口教継や戸部正直が織田方へ内通しているという疑いで今川義元に殺されたのは、信長の策謀によるということになっている。とりわけ有名なのは、戸部正直が織田方に内通していると義元に信じ込ませるために、戸部正直の筆跡を信長の祐筆に練習させ、偽手紙を商人に化けた森可成に持たせて、義元の目に触れるように、今川の家臣に渡すという話だが、この話は、同じような話が中国の「三国志」にあるので、作り話のように思える。しかしともかく信長はあらゆる手段で、今川義元の支配や影響が尾張の武士や領民に及ばないように工作したことは確かだろう。

 信長は今川義元が出陣する直前の5月5日に三河に侵入し、吉良の実相寺など処々に放火している。これは刈谷の水野氏に対する今川方の攻撃力を弱めておこうということだろうか。ともかく、信長にとっては水野氏の存在は、勝敗の要だっただろうから、刈谷付近に梃子入れしておこうとしたのだろう。

 この頃、岩倉城攻め以来信長の家臣となった前野将右衛門(長康)や義兄弟の契りを結んでいる蜂須賀小六(政勝)ら川並衆は再三今川方の情報を得るため三河に入ったという。三河に入ったという前田又左衛門も又勘当されたまま、桶狭間の戦いに参加して、信長の前に現れているから、家臣の誰かと連絡を取っていただろう。蜂須賀小六に寄寓していたという木下藤吉郎はすでに信長の家臣となっていたが、この後又左衛門と家族同様の付き合いをするようになる。或いは藤吉郎は、勘当された後、又左衛門に情報を与えた人物の候補に挙げられるかも知れない。


 

 

 

織田信長のルーツ(51)

 

 鳴海城は黒末川(天白川)の河口が入海になっており、そこから東に分流する扇川の北岸にある。潮の満ち引きは城下まで達 し、城から伊勢湾に漕ぎ出すことだ出来た。
 城は10メートルほどの高さの丘に建てられ、東へは谷間があり、山か続いている。西は深田で黒末川畔に続く。そこに岡部元信が三千の兵で守備している。

 これに対して織田方は鳴海城の北20町というから2キロほどの所にあった丹下という古屋敷を砦にして、水野帯刀(忠光)、山口海老丞(広憲)、、柘植玄 蕃頭(友顕)、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉ら340騎が守備した。水野帯刀は黒母衣衆の一人である。
 また鳴海城のある台地の東端には善照寺という古跡があり、ここに砦を築いて佐久間右衛門(信盛)、左京助(盛辰) 兄弟が450騎の手勢が守った。鳴海城の3千の兵力に対して、丹下、善照寺二つの砦の守備兵の数を合わせて8百騎だが、「騎」と書かれているように武士身分だけの数だから、互角の兵力を配置していたということだろうか。 この兵力は『改正後三河風土記』に書かれているものだそうで、どの程度事実を反映したものかはわからないが。

 また鳴海城から扇川を渡った所、鎌倉街道と東海道が出会う所には中島という集落があり、ここにも織田方は砦を築き、梶川平左衛門(重実)と津田右近亮(長繁)が250騎で守った。この砦は南の大高城の付城、鷲津砦、丸根砦との連絡を取るために作ったようである。

 大高城は入海になっている黒末河口の南側に築かれた南北朝から存在する城で、古絵図を見ると、本丸、二の丸を持ち、二重の堀で守られた本格的な城である。入海の北側の鳴海城とこの大高城を制圧することによって、この入海に大規模な海軍基地を建設することが出来る。それが今川義元の狙いだったのだろう。もともと水野氏の居城だったが、鳴海城主の山口教継の調略によって今川方の手に落ちたという。松平元康(徳川家康)が1558(永禄元)年に兵糧入れをしたという記録があるから、今川方が手に入れた後も、桶狭間の戦いまで、織田方の攻勢に晒され、争奪が繰り返されていたのだろう。桶狭間の戦い、1560(永禄3)年頃の守将は鵜殿長照で、2千の兵力で守っていた。長照の母は今川義元の妹で義元の甥である。

 織田方は、この大高城の北を流れる大高川の対岸の丘、丸根山と、鷲津山に、二つの付城を築いた。丸根砦は佐久間大学(季盛)と山田藤九郎(秀親)が150騎で、鷲津砦は飯尾近江守(定宗)と弟の隠岐守(信宗)、織田玄蕃允(信平)が520騎で守った。大高城の南の丘陵地にも氷上山、向山、証光寺の三砦を築いていたが、桶狭間の戦いが始まると将兵は引き上げたらしく、その兵力は他の砦に移動したと思われる。ともかく、織田方の動員できる半数の兵力を鳴海、大方両城を包囲するために配置し、今川の糧道を絶つ作戦を継続していたのである。このことは、敢えて信長の方から、今川方が後詰の大軍を尾張に送るように仕向けたということだろう。
 この年1月の品野城攻略も、桶狭間の戦い直前の三河吉良への進軍も、戦を仕掛けているのは、むしろ信長の方だったようだ。
そしていまや、この大高城の攻防こそが、20年に渡る織田、今川の争いの焦点となっていた。それは、今川義元がどこに向かうかも規定する筈である。信長の対今川戦略はその上に立って練られていただろう。

 


 

 

 

織田信長のルーツ(52)

 

 5月10日、今川方の先鋒井伊直盛、松平元康らが駿府を出発する。この時、まだ13歳の本多忠勝が 初陣で加わっていたという。そしてその2日後の5月12日今川義元が駿府を出陣する。

 降りしくや 千里をかけて 富士の雪

という戦勝祈願の句が残されているという。駿河が千里を駆けて、天下に武威を「降り敷く(布り敷く)」という意味で、今回の出兵の目的が大高城の後詰と、東尾張の制圧ということだったとしても、野望はもっと先にあったことは確かなようだ。その兵力は2万5千 、織田信長の兵力の5倍である。
 義元は馬には乗らず、輿に乗って進んだという。一説には沓掛城で落馬し、それ以後輿に乗ったとも伝えられているが、いずれにせよ桶狭間の戦いの時には、輿に乗って行軍したらしい。

 この日、義元は藤枝に泊まり、翌5月13日、今川家の宿老朝比奈泰朝の掛川城 まで進む。5月14日 には天竜川畔の遠州池田原で軍揃えを行い、この日は飯尾乗連の曳馬(浜松)城に泊まり、翌5月15日 には 小原肥前守が城代を務める吉田城で泊 まる。この小原肥前守は今川義元が戦死して、今川方の諸豪族が次々に離反した後も、最後まで今川家に忠節を尽くしたという。

 翌日、5月16日義元は、岡崎城に着陣する。岡崎城は松平元康の本城だが、元康が駿府在住を強制されて以来、今川家の家臣が在番している。この日、 松平元康、井伊直盛らの先鋒は池鯉鮒に達している。本軍は翌5月17日に池鯉鮒に到着、松平元康はこの日、尾張阿久居城主の久松俊勝の館に訪ね、生母の於大の方と再会している。於大の方は松平広忠の正室だったが、兄の水野信元が織田信秀と同盟したため、離別され久松俊勝に再嫁したのだった。

 5月18日、今川義元が浅井政俊の守備する尾張沓掛城に入り軍議を開く。鵜殿長照が守る大高城へ松平元康 が兵粮を運び入れた後、朝比奈泰朝は2千5百の兵で鷲津砦攻撃、松平元康 は2千の兵で丸根砦を攻撃することが決められた。元康は酒井正親・石川數正 らを率いて兵粮を運び込むが、大高川を挟んだ鷲津砦、丸根砦の織田方は動かない。 結局、松平元康は無血で大高城に兵糧を運び入れている。
 織田方が動かないというのは、初めからの信長の命令があったということだろう。丸根、鷲津の両砦は守備に徹して動くなということである。今川方2万5千の兵力を分断しなければ織田方に勝ち目はない。そのために大高城に向かう勢力を鷲津、丸根の織田軍が引き付けておき、今川方の本陣を狙うという作戦である。
 大高城に兵糧が運び込まれるのを阻止した所で、その兵糧が使われる時には、尾張は今川の大軍に蹂躙されている筈だから、何の意味もない。今川軍の本隊が来るまで時間稼ぎをしなければならない。そして先発隊と本軍を合流させてはならないということである。


 

 

織田信長のルーツ(53)

 

 5月18日、 丸根砦の佐久間大学、鷲津砦の織田玄蕃より、清洲城へ伝令が到着し、今川勢が現れ、松平元康勢が大高城へ兵糧が運び入れ終えた。この様子では、明日、織田方の援軍が、満潮で海岸の近道を使えない未明の内に、両砦への攻撃が開始されるのは確実だとの報告が入った。
 重臣ら、軍議に参加出来る身分の者は、当然軍議が行われるものだと思い、次々に登城した。しかし信長は、世間の雑談をするばかりで、戦の手立ては何も言わない。そして、もう夜も更けたから帰宅せよと言う。家老たちは「運の末には智恵の鏡も曇るとは此節なり」と嘲笑して帰宅したという。有名な場面である。信長は家臣でも、特に林佐渡らの重臣を信用していない。作戦を漏らせば、敵に通報する者がいるかも知れないと思っている。というより、今川方の動きも、織田方に通報する者があり、事前に届いているのである。そうした諜報活動は、どちらもやっていることだった。
 しかし、家老や譜代の家臣達と信長の近習や信長が取り立てた新参、足軽から抜擢された者、外様の家臣達との違和感というのも感じられる。つまり近習や信長が取り立てた者は純然たる家臣だが、譜代の有力な家臣というのは独立した指揮権を持った一時代前の被官の意識を持った者が多く、年も信長より上の者であれば、尚更異論を差し挟むことが多かっただろう。「運の末には智恵の鏡も曇るとは此節なり」という嘲笑を含んだ言葉は、そうした林佐渡のような譜代の重臣の言葉だったのではないか。

 翌日の未明、予想通り丸根、鷲津砦より、今川方の攻撃が開始されたという飛報が入った。報告を聞いた信長は「敦盛」を舞う。

 人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。

 そして「螺(かい)吹け、具足よこせ」と命じ、鎧を着ると、立ったままで食事を取り、兜をを着けて出陣した。その時、信長に従ったのは岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎ら赤母衣衆の5騎だけだった。熱田迄三里(12キロ)を一気に走り、午前8時頃、熱田神宮の摂社源太夫殿宮の前から東を見ると、鷲津、丸根の方に煙が見え、すでに砦は落とされたようだった。その時はまだ信長とともに出発した六騎と200名ほどの雑兵がいるばかりだった。浜手を行けば近いが、満ち潮の為に進めず、信長は熱田の上の道をひた走りに走って丹下砦に入る。そこから佐久間信盛の守る善照寺砦に入り軍勢を終結させた。

 この未明からの丸根、鷲津砦の戦いは「朝合戦」と呼ばれている。『信長公記』の記録では、信長が両砦の方から煙が立ち昇るのが見え、すでに砦は落ちたと考えたと書かれているだけだが、徳川時代に書かれた『武徳編年集成』などによると、織田方は砦を捨てて討って出てきたと書かれている。もともと丸根、鷲津の両砦は篭城に耐える城郭ではないから、討って出て戦えるだけ戦い、生き残ったものは信長の本体に合流するという方針を立てたのだろう。煙が昇るのを見た朝8時頃というのは、まだ戦いの最中だったのかも知れない。丸根砦を攻めた松平方も松平善四郎、高力新九郎、筧又蔵などが多数の戦死者を出したという。
 ともかく両砦の織田方が戦っている時間こそが、信長が得ようとしているものだったのだろう。その間に信長はただ6騎兵で出発した。そして『信長公記』によれば「もみにもんで駆けた」のである。
 


 

 

織田信長のルーツ(54)

 

 善照寺砦で、信長は情勢の報告を受ける。松平元康は大高城に入ったという。18日に兵糧を入れ、19日未明から丸根砦攻略を指揮した後なので、兵を休めるためらしい。今川方の本軍は、すでに沓掛を発し大高道 から桶狭間に入り、 今川義元は、一説では中島砦の南、丸根砦の東北の漆山に本陣を置いたとも言い、別の説では桶狭間山(桶狭間の北64.7メートルの高さの高地)に本陣を置き、そこから西方一帯に 数段に布陣していたとも言う。どちらにしても昼頃には大高道の北の見晴らしのよい丘(桶狭間山)に本陣を置いた。
 前にも書いたが、僕は学研の「アーカイブ信長戦記」の、織田方の別動部隊が沓掛方面で戦い、その後大高道の入口付近の上ノ山から今川の本陣の背後を急襲したという説が気に入っているので、それに従えば 今では64.7高地と呼ばれるようになった丘に本陣があったことになる。しかし、漆山に本陣があったとしても、背後から別働隊が急襲するというシナリオは出来るのではないか。
 義元は、そこで鷲津、丸根の陥落の報告を受け、謡を三番歌ったという。

 信長が善照寺砦に着いた時、それを待っていたように、中島砦に居た佐々隼人正と千秋四郎が3百の兵で今川方に突撃した。しかし忽ちの内に二人は敵の大軍の中に呑み込まれてしまった。この戦闘で討ち死したのは30騎とも50騎とも言われるが、1騎が5,6人の兵卒を率いていたとすると、ほぼ全滅したということになる。
 何のための突撃だったのか、昔から諸説紛々で、佐々隼人正と千秋四郎は大高城の南の付城を守っていたが、丸根、鷲津が全滅しても戦ったのに、佐々と千秋は砦を捨てて中島砦に逃げたので、それを信長に叱責されると思い、突撃したのだという専門家もいるし、陽動作戦だという説もある。

 僕も一応、自分の考えを書いておくと、佐々隼人正、千秋四郎らは大高城の南の付城を守っていたが、松平元康らの軍が近づいた時、大高城の南の付城から撤収して中島砦に合流するように命令されいたのではないかと思う。つまり大高城の兵糧入れを完全に阻止するという作戦は、今川方の後詰の大軍が迫っている状況では、敵の術中に落ちるだけで、今川軍を大高城に引き付けるのが目的なら、鷲津、丸根の二つの砦があれば十分だと信長は判断した。そして、信長が到着するまで中島砦から動くなと命令していた。
 それに対して佐々、千秋らは、信長が善照寺砦に到着したのを見届けるやいなや、鷲津、丸根の敗残兵の救出に行動を起こしたのではないかと思う。或いはそういう命令を受けていたかも知れない。まだ今川方の全軍が結集していない時であれば、意味のある突撃だったと言えるかも知れない。 陽動作戦だったとすれば、鷲津・丸根の敗残兵の脱出を助ける為の陽動作戦だったのではないか。
 大高城の封鎖は、つまりは織田方の伊勢湾の航路の防衛だが、或いはそのことに自家の命運がかかるような立場に、佐々や千秋は立っていたのかとも想像する。

 忽ち織田方が揉み潰されるのを見て、義元は「心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すゑ)られ候」と『信長公記』は 伝えている。

 


 

 

織田信長のルーツ(55)

 

 善照寺砦 から織田方の別働隊が出発したことは、『松平記』にも「善照寺の城より二手になり」と書かれているというから、確かなのだろう。
 それは今川方にわからないように、作戦は密かに行われたのではないか。鎌倉街道を沓掛に向かい、再び桶狭間に向かって、今川方の側面を狙う。 沓掛城には今川方に付いた近藤景春の千5百の兵力があったが、景春は刈谷の水野氏を攻めたという話が伝えられているから、沓掛城自身は手薄だっただろう。
 この別働隊の指揮官の一人に、桶狭間の戦いで功第一とされた簗田政綱が居たのではないか。政綱は桶狭間の戦いの勲功によって沓掛城を与えられるが、沓掛城や付近の情報を知り得る立場だったのかも知れない。又政綱は篭城せず、出撃した信長の作戦を最初から支持していたが、作戦に関わった少数の家臣の一人だったのかも知れない。

 佐々隼人正、千秋四郎らが今川方に突撃し、敵中に消滅した時、戦見物に来ている群集が帰えるように命じられ、散ってゆく様が『信長公記』の天理本には書かれているそうだが、戦見がスポーツ観戦のように、庶民はもとより京都などでは貴族たちも出かけた様子が『言継卿記』などに出ている。しかし散っていったこの善照寺砦の戦見の群集は、或いは民衆に扮した別働隊かも知れない。
 別働隊が敵に悟られず背後に回ろうとしたら、そうしたカモフラージュも有りえるだろう。更には、まだ信長とは主従関係にない蜂須賀小六などの土豪が、すでに信長の扶持を受けるようになった義兄弟の前野将右衛門の斡旋で参加しているかも知れない。 さらに言えば、『武功夜話』の逸話のように、木下藤吉郎が動いて、蜂須賀党を味方に付けたということも想像される。蜂須賀党は鉄砲隊を持っている。今川本体の側面から奇襲すれば、最高の効果を発揮するだろう。 

 善照寺砦から出発した別働隊の動きを隠しながら、信長自身は善照寺砦から中島砦に向おうとする。しかし、家老らが必死に引き止めた。中島砦は今川方の大軍の真正面にあり、背後には今川方の鳴海城がある。つまり砦は敵中にあるのだ。しかも中島砦までの道は一騎行くのが精一杯という細道で、両側が深田になっており、進退の自由がきかない上、その道を行く姿は敵方から丸見えだったから、織田方の兵力をさらけ出すことになり、危険この上ないということらしい。

 しかし信長は家老らが引き止めるのを振り切って中島砦に向かった。佐々、千秋らに続く構えを示したのである。そして信長は中島砦から、更に、まさに敵中に進もうとした。今度は、家老たちは、信長の馬の轡を取って、身を挺して止める。そこで信長は大音声で将兵に檄を飛ばした。

 

 

 

織田信長のルーツ(56)

 

 信長は大音声で、
 「各々(おのおの)よくよく承り候へ。あの武者(今川方)宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなた(織田方)は新手なり。其上少軍ニシテ大軍ヲ恐ルルコト莫レ。運ハ天ニ在リ。此語は知らざる哉。懸らばひけ。しりぞかば引き付くべし。是非に稠(ねり)倒し、追崩すべき事案の内なり。分捕りをなすべからず。打捨たるべし。軍(いくさ)に勝ちぬれば此場へ乗ったる者は家の面目、末代の高名たるべし。只励むべし。」と言ったと『信長公記』は伝える。

 信長の檄に若い武者たちは熱狂し、家老らは、それ以上引き止められなくなった。その時、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人、そして勘当されている前田又左右衛門(利家)らが、手に手に手柄頸を携えてやって来た。利家と同じ赤母呂衆などの近習、馬廻りが多いから、信長直属の部隊で別働隊を構成し、どこかで合戦し、勝って帰って来たということだろう。
 しかし前田利家への信長の勘気はまだ解けない。利家は再度敵中に突撃し、さらに手柄頸を持ってきたが、それでも許されず、更に危険な突撃をしようとしたのを信長は止めさせたという話が伝わっている。気持ちの上ではもう許していたのだろう。

 前田利家が属していたのは佐々、千秋の部隊だったというのが、これまで一般に言われて来た説だが、関係があるにせよ、僕は別部隊だと思っている。しかし一連の織田方の動きは、鷲津、丸根両砦の陥落と繋がっていると思う。鷲津、丸根の陥落は、一見玉砕のように伝えられることが多いが、鷲津砦の守将の一人飯尾隠岐守は生き残って、その後も活躍しており、織田玄蕃も 通説では戦死したと言われるが、落ちのびたという話も伝わる。丸根砦の佐久間大学も、『三河物語』や『三岡記』では落ちのびたと伝えられているというから、砦は陥落したものの、玉砕ではなかったのだろう。
 佐々、千秋の部隊も、前田利家らの部隊も、鷲津、丸根方面の今川の部隊に一当てして、そこここに潜んでいる織田方の敗残兵が退却する隙を作りつつ、今川方の戦略・戦術を見るための情報を得ようとしたということだろうか。

 この桶狭間の戦いの頃には、赤母衣(母呂)衆・黒母衣(母呂)衆がすでに出来ていたようだが、この信長の近習、馬廻りから選ばれた母衣衆は信長の軍団の性格を特徴付けていると思う。つまり「同志的結合」で出来上がった集団なのである。守護大名から戦国大名の時代になり、所領に住む被官が城下町に住む家臣団に変化してもなお、所領を持つ有力家臣は独立した指揮権を持つ兵力を持っており、主君との結合関係は、やはり自分の所領を維持存続させようとする「功利的結合関係」であることには変わりなかった。だからこそ山口教継父子も、近藤景春も離反したのだったし、直属の家臣であった林秀貞も信長の弟の信勝に組みし、信長に敵対したのだった。

 それに比べ信長の直属軍というのは、少年時代に一緒に「印地打ち」をやり、元服してからは槍合戦などの軍事訓練や、鷹狩、川狩をやり、赤塚の戦い以後は、ともに戦い、ともに上洛した「君臣」という以前に「同志」だった。赤塚の戦いでも、稲生の戦いでも、孤立無援の尾張統一戦の中でも、少数の兵力で、打ち勝って来たのは、この「同志的結合」の強さによってだろう。
 前田利家が勘当された身で、勝ち目が見えない桶狭間の戦いに参加し、それでも許されず、森部の戦いにも参戦し、功を立てて、ようやく帰参を許されたのだが、そこまでしても戻りたい信長の軍団だったのである。

 


 

 

織田信長のルーツ(57)

 

 信長は 今川方の本陣に向かって進もうとしているが、「鷲津・丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる武者」と言っているから、信長が当面考えていたのは鷲津砦を攻めた朝比奈勢との衝突だったのだろう。 しかしかりに今川方の大兵力と遭遇しても手越川の北側の山際を進めば、川と山に遮られた狭隘な地形だから包囲されることはない筈だ。そのうち沓掛方面からの別働隊が 今川方の背後を襲うことになっているから、その時今川方の本陣目指して突進すれば勝機は生まれる筈だ。それが信長の作戦だったのだろう。

 ところが中島砦から手越川の北側の山際を進みはじめると激しい雨が降り始めた。その豪雨の中、今川方の本陣のある桶狭間山の麓までの1キロ強の距離を、敵軍を突き崩しながら進むことになったのだが、激しい風雨は西から東へ吹きつけ、織田軍の背中を押すように、そして今川方の顔に雨しぶきがぶつかるように吹きつけた。この敵は鷲津攻めに疲れた朝比奈勢だったのかも知れない。 織田方はこの敵を突き崩しながら、今川方の予想を超える速さで桶狭間山の足元に接近したのである。
 出来る限り深く本陣に近づくことは、それだけ兵力の少ない織田方に有利になる。身体は小さくとも、狼のように敵の喉元に咬みつく。それが信長の戦い方である。

 この頃、沓掛方面に進んだ別働隊は、沓掛の峠の松の本という所で、二抱え以上の大きな楠が大雨の為に東に倒れる光景を見た。この豪雨は、当然兵力の少ない織田方にとっては大きな味方になると判ったから、 これは熱田大明神の神軍だと思ったという。そしてこの別働隊も、豪雨に助けられて、敵の斥候に発見されることなく、今川本陣の背後の上ノ山に到着した。織田本隊が今川本陣の攻撃を開始すれば、上ノ山の別働隊も攻撃を開始する。この豪雨の中でも、雨が止めばすぐに鉄砲を使えるように雨避けの箱に入れて運び込んでいる。雨には鉄砲は使えない。だから 今川方は雨が止んでもすぐに鉄砲による攻撃があるとは想定していない。織田方は雨が止めばすぐに使える準備をしている。その差が決定的な意味を持った。

 雨が止んだ。「空晴るるをご覧じ、信長鑓をおっ取りて大音声を上げて、すわかかれ、すわかかれ。と仰せられ、黒煙たてて懸るを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。弓・鑓・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨てくずれ迯(のが)れけり。」と『信長公記』は書いている。

 義元の本陣は桶狭間山の上に有ったが、雨の中、織田方の将兵は、その下方に、見つからないように伏せていたのだろう。そして義元の本陣は、その時まで雨を避けて方々に散らばっていただろう。しかも豪雨の少し前に、土地の僧侶や神官らが、今川義元に寺領、社領での狼藉、横領の禁止を命じる「禁制」を求めて、挨拶の品物を持って訪れて来ていたから、今川方は、もう勝ったような気分に満ちていた。気持ちの上でも臨戦態勢になかったのである。

 信長の突入に呼応して別働隊も上ノ山から攻め上ってきた。数は少なかったとしても鉄砲の攻撃だったとしたら、今川方への威嚇には十分で、義元を守って沓掛城に逃げようとする3百の旗本は退路を塞 がれる形になっただろう。

 この沓掛方面からの別働隊の奇襲というという想像上のシナリオは、橋場日月氏の説によるものだが、確かに『信長公記』に 書かれた沓掛の峠の松の本の大楠が倒れたという記事は、そこに織田方の兵がいなければ書かれる筈はないから、ともかく沓掛に織田兵はいたということになる。かつては織田方本軍が迂回奇襲したという説が定説だったから、本軍が沓掛に迂回して桶狭間に向かったというシナリオも可能だが、その場合は敵と交戦しながら進んでいるのに、それを伝える今川方の伝令が本陣に到達する前に、織田方の本軍が桶狭間山に到達したということになり、いかにも不自然な話になる。 織田方が進んだ鎌倉街道から桶狭間に向かう大高道の入口まで、今川方は部隊も、斥候も伝令も、すべて殲滅されたのなら可能性はあるが。 また信長方の攻撃部隊は本体2千の将兵だけで、中島砦から迂回せずに桶狭間山を奇襲攻撃したという説も多い。しかし、その場合沓掛の峠の楠の話は不自然になる。
 やはり沓掛にいた織田兵は別働隊で、織田本軍は中島砦から手越川の北の山際を桶狭間に向かったと考える方が自然だと思う。

 


 

 

織田信長のルーツ(58)

 

 午後2時頃、信長は 今川義元の旗本を捕捉し、自らも馬を下りて若武者と一緒になって敵と戦った。 最初義元は3百騎の旗本に周囲を守られ撤退しようとしたが、最後は50騎ほどになり、織田方も相当の犠牲を出したが、遂に服部小平太が義元を見つけ義元に切りかかった。小平太は膝を切られて倒れるが、すぐに毛利新介が義元に組み付いた。義元は 新介の手に噛み付き、その指を噛みちぎったが、新介は指をちぎられながらも、遂に義元に止めをさし、その頸を取ったという。
 桶狭間一帯は、地形が入り組み深田が多く、深田の中に逃げ込んだ今川勢は、泥田の中を這いずりまわって逃げたが、織田方の若武者が追いつめ、次々と敵の頸を取ったという。

 『信長公記』の桶狭間の戦いのシーンは、何度か「若武者」という言葉が出てくる。そして「信長も下(おり)立って、若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒ほし、・・・」と書いている。やはり信長の軍団が 若者を中心にした「同志的結合」であることを示している。
 今川方が本隊だけで戦わなければならなかったとしても5千の兵力があったという。織田方本軍は2千だから、今川方の方が有利であった筈なのだが、 兵力が反対であるような壊滅的な敗北をした。
 織田方は信長が近習6騎だけで清洲城を出陣した時から、その動きは今川方の視界からは消えてしまったのだろう。勝因は信長の行動の迅速さと別働隊の奇襲の成功 、そして若武者の「同志的結合」の強さということだろうか。

 それにしても信長は常に先頭に立って一介の葉武者のような行動を取る。村木の戦いでは鉄砲で敵の砦の狭間を攻撃し、攻城兵を援護した。萱津の戦いでは自ら敵将と戦い討ち取った。長良川の戦いでは、自ら殿(しんがり)を受け持って、この時も鉄砲で斉藤勢を追い払っ ている。それが「同志的結合」のリーダーの姿ということなのだろう。

 翌日清洲城で頸実検が行われたが、『武徳編年集成』によると、今川方の戦死者は井伊直盛や飯尾乗連などの武将が45人、驍士583人、雑兵2500人という。これだけの戦死者というのは、1万を超える軍同士の激突なら話は別だが、織田方の本軍は2千に足らない数だったというから凄まじい。今川義元は近くで騒ぎ声が聞こえた時、最初織田方の攻撃だとは思いもよらなかったらしく、「しずまれ、しずまれ」と言ったという。これだけ鮮やかに今川の大軍を相手に勝利するというのは、もしかすると、今川方に内応した勢力があったのかも知れない。離間策や内応によって勝利するというのは尾張統一戦でも、桶狭間の戦い以後の美濃平定戦でも信長の常套手段だったが。

 大高城や沓掛城の今川方は撤収し、鳴海城の岡部元信は交渉によって今川義元の頸を受け取ることを条件に開城した。しかし、岡部元信は駿河へ帰還する途中、織田方の刈谷城を攻め水野信近を敗死させている。大高城を守っていた松平元康は、すぐには開城しなかったが、叔父の水野信元の説得で開城した。しかし駿府には戻らず、松平氏の本城岡崎城へ入った。今川義元の敗北によって自立への道が開けたのである。

 


 

 

織田信長のルーツ(59)

 

 桶狭間の戦いの戦功第一に挙げられたのは簗田政綱だった。政綱にはその功により沓掛3千貫が与えられた。これは石高になおせば5千石以上にはなるだろう。家老、重臣の待遇ということである。戦功の理由は、作戦の段階から大高城近くでの戦闘を予想し、その為の周辺の地形、今川方の進路の予想、天候や潮の干満の影響、海からの今川方上陸の可能性など の正確な情報をもたらし、諜報、調略、味方勢力との連携などを行い、また今川義元が沓掛城を出発した前後からは、松平、朝比奈など先発軍の動き、本陣の位置、又義元が輿に乗っていることなどの情報を伝え、今川本陣攻撃の成功に大きな貢献をしたということだろう。

 沓掛城は千五百の兵で守備する今川方の尾張侵攻の拠点だった城で、代々この地方を支配してきた近藤景春の居城だった。桶狭間の戦いの前、ここで今川方の軍議が開かれたという。近藤景春は桶狭間の戦いの時、織田方水野氏の刈谷城を攻めたが、帰城した後の5月21日、織田方に攻撃され沓掛城は落城し景春は戦死した。
 敵の支配地の攻略に最も功績のあった者に、その地を与えるというのが、その後も信長の論功行賞のやり方だから、やはり政綱は沓掛地域の情報や、或いは調略に深く関わっていたのだろう。

 記録に見える戦いは桶狭間で行われたが、見えない戦いが知多半島の刈谷・緒川の水野信元、沓掛の近藤景春、東美濃の信長の縁戚になる遠山氏との同盟、さらには北伊勢に進出してきた近江六角氏の援軍の存在、そして大高城の沖合いに現れた今川方のニノ江城主服部左京介の千(二十の誤りという)を超える戦船など、そうした力関係の中で行われていたのだろう。
 さまざまな情報の結果、信長は今川義元が大高城周辺を征圧した後、大高城に入って伊勢湾の支配と尾張攻略を始めると予想し、大軍が展開しにくい節所(足場の悪い難所)続きの桶狭間周辺を通過する時、本陣を襲撃するという方針を採ったのだろう。 

 橋場日月氏の指摘する沓掛の大楠倒壊の話から、鎌倉街道廻りの別働隊の存在説をベースにして書いて来たが、そもそも今川本陣が大高道をまっすぐに進めば、桶狭間から大高城までは2キロほどで、入城してしまえば、織田方は手の打ちようが無かっただろう。入城する前に、小戦闘を引き起こし今川本陣が一旦停止するようにする必要があった。その仕掛けが鷲津、丸根砦の抵抗であり、千秋、佐々勢の突撃だったのだろう。

 もし今川本陣が桶狭間山で休憩せず、まっすぐに大高城に入ろうとすれば、桶狭間山ではなく、桶狭間で今川本陣を急襲するなどの次の作戦が用意されていたのかも知れない。その場合も沓掛から今川本軍を追尾する織田方の別働隊が襲撃して今川本軍の退路を塞ぐということでは同じである。どうしても織田方の別働隊の存在 、しかも鉄砲を有効に使える別働隊が必要だったと思える。


 

 

織田信長のルーツ(60)

 

 信長は、桶狭間の戦いに勝利した後、わずか10日後に、今度は岳父斉藤道三敗死後、信長に敵対してきた美濃の斉藤義龍を攻めている。この後犬山の織田信清が美濃と結んで信長に敵対することになるが、その動き がすでにあって、犬山を牽制したのだろうか。

 かつて、信長の弟喜六郎が射殺される事件があった時、守山城まで早駆する信長に従って馬を走らせていた家臣の馬が信長について来れず、信長が、日頃馬に乗らず、放っておくからだと叱責する話があるが、将兵も休ませたら弱くなってしまうという考えが信長にあったのかも知れない。事実、信長は馬の体力を維持するために毎日必ず走らせていたという。

 尾張東部は今川義元の戦死によって、もはや今川と結んで敵対する勢力もなく、安定に向かっていた。昨日まで敵対していた松平元康との関係も、元康の叔父である水野信元が織田方だったから、その仲介で和解に向かいつつあった。 元康は5月23日、水野信元の勧めで岡崎城に入っている。

 信長は舅斉藤道三から美濃国の「譲り状」を受けている。道三は長良川の戦いの前に大桑城で「譲り状」を書き、道三の末子の利治に託し信長に渡した。また道三の子で京都妙覚寺19世となっている日鐃上人にも送り、証人としている。現在京都市上京区の妙覚寺に その「譲り状」が現存している。
 この「譲り状」が偽書だという人もいるようだが、これがなければ、信長の美濃攻略が実現しなかったということはないだろうし、「譲り状」を信長に渡したという斉藤道三の末子の利治は 、その後信長の家臣となり本能寺の変で戦死するまで活躍している。同じく道三の子である日鐃上人の妙覚寺は信長の京都での宿舎として使われていることを考えれば、道三の遺子は信長 に庇護されていたのだから、道三の意志が信長に伝えられたことは間違いないだろう。譲り状が本物であろうとなかろうと、内実は、信長は確かに「譲り状」を受けているということであり、かりに偽書であったとしても、歴史は寸分も変わらないということである。

 8月、信長は再び美濃に攻め入り、丸毛長昭らと戦っている。 この後7年間美濃との戦いが続く。その過程で信長は尾張の信長ではなく、天下の信長へと変貌し、さまざまなルーツを体内に加えて行くことになる。

 この年の末に美濃崇福寺の快川紹喜が、斉藤義龍の寺社統制に反発して、尾張に移った。快川紹喜は信長の師沢彦宗恩の無二の親友だったという。この後甲斐の恵林寺に行き、武田信玄の師となるが、後に信長は僧俗男女問わず恵林寺の住人を寺に押し込め焼き払うことになる のだが。