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『老子』を分かりやすく意訳してみた

『老子』は道徳経という2500年前に老子が残した万物万法の究極奥義書。難しいのかと思えばこれまた簡単な言い回しで、しかもたったの5千字である。諸子百家のいずれもがタオの一端を担うような主張をしており、他の教義や学問とは一線を画する。その主張はあらゆる教義や自然現象と和合し、矛盾することがない。

その真理(タオ)は仏教にいう真理(ダルマ)と比較しても矛盾がなく、老子とブッダの二者が最も根元的な唯一無二の同一の真理について語っていることが伺える。老子の思想は、あらゆる思想や哲学の頂点とするに足るし、底辺とするにも足る。

そんな『老子』を、本文書き下し→意訳→解説の順で紹介します。タイトルの右に◎じるしがついているものは、内容からして老子が書いたにちがいないだろうと感じた章です。何も印がなければ、第三者が加筆したかもしれないなぁということです。その理由は<真贋>の節で説明しています。なお、それぞれ<訳><意訳><解説>の定義が曖昧であることを断っておきます。承知の上でご理解ください。

 

それにしても老子の意訳本は多々ありますが、どれもかなり抽象的でわかりにくいですね。本当にタオを理解している人なら、あんな難しいままに意訳したりしないはずです。とはいえ難解になってしまうのも無理もないことで、老子の表現方法は矛盾的な言い回しが多いですね。たとえば「これが道だと言ったってそれは本当の道じゃない」などです。とすれば、この老子の表現もまた言い得ていないというふうに、矛盾してしまいます。またたとえば「言う者は知らず、知る者は言わず」。とすれば、これを自ら言った老子は知らない者になってしまいます。これらの矛盾は「道徳経を読むときは論理的に読んではいけない」ということを示唆しています。矛盾を超えて、老子の意図している世界を体感する他ないのです。当然、そんな世界は言葉にはできませんね。このように考えれば、先の二つの例句が実は言い得ていたことがわかります。そこで私は、老子を右脳で読む、という方法を、例を挙げながら紹介していきます。月を指さす時のように感覚でとらえます。悩んでも始まりませんし、矛盾を指摘して笑ってみても始まらないでしょう。

また、老子は、俗世間を超越した考え方を説きます。したがって、壮年期の方、これからがんばって儲けてやろうと考えている方は、読んではいけません。読んでしまった時は、うまく消化するように努めてください。そうすればあなたは立派なタオ使いになるでしょう。

以下本文。

 

老子 上篇 -道経-

 

第一章 タオの体感、入門 ◎

 

<本文書き下し>

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無は万物の始り。有は万物の母。故に常に欲無きなれば、以てその妙を観る。常に欲有るならば、以てその徼を観る。両者は同出にして名を異にする。同じく謂えば、玄のそのまた玄は、衆妙の門。

 

<本文意訳>

タオというものがどういうものかを言葉で説明することはできない。なぜなら言葉というものは姿を伝えて心をぼかすからだ。

だから誰かに伝えるときは、間接的に感じとってもらうしかないので、こんな言い回しになるんだが、「言葉が無い」という漠然としたよくわからない状態をそのまま想像してみたまえ。もし何か感じても、誰にも伝えなくていいし、何も言わなくていいから。君がまだ子宮にいた頃の世界。・・・そんなあるかないかわからないような奇妙な感覚が、タオの入り口なのだ。

 

<解説>

さて、はじめてタオという言葉を造作して使ってみたが、とにかく老子自身も伝えにくそうである。「有る」のを証明するときは、それを見せれば済むのだから簡単だ。だが、「無い」のを証明するのは難しい。無いものは無いのだから、明確に証明してみせることが出来ない。それと同じわけで、タオを証明するのは難しいのだ。

 

<真贋>

全章通して比しても無矛盾的であるし、内容としてもタオの性格を包括的に暗喩しているため、真作にまちがいない。

第二章 矛盾を超えること ◎

 

<本文書き下し>

天下みな美の美たるを知るも、しかしこれ悪なり。みな善の善たるを知るも、しかしこれ不善なり。有無は相生ずるものなり。難易は相成るものなり。長短は相かたち作るものなり。高下は相傾くもの。言う聞くは相和すもの。先と後は従い合うもの。これ以て、聖人は無為のうちに為し、不言の教えを行う。万物を作れども驕らず。生ずれども有さず。為せども頼まず。功成れども座さず。それ唯か忘れん、これ以って失われることなし。

 

<本文訳>

誰でも美醜の区別はつくが、みながみな美を求めすぎる。誰も醜いものの効用を顧みない。もし醜いものが全部なくなったら、どれが美しいのか分からなくなるのに、だ。これでは美醜の区別など悪い知識という他ない。誰でも善悪の区別はつくが、善をなすには悪を駆逐しなければならない。もし全ての悪が滅んだら、何が善なのか分からなくなってしまう。そんな善は本当の善じゃない。遠すぎるものは見えないが、本当は近すぎるもの(目蓋)も見えないのだ。>61章

このように、美醜・善悪・有無・難易・長短・高低・聴言・前後といった矛盾するものはは、お互い片方だけじゃ存在できないのだ。なぜなら、もともと同じ源から別れ出た双子だからだ。しかも並べれば無限に境界を生む。タオに繋がる人はこれを理解しているから、自然にしているだけで不言の教えを為してしまう。すごいことをしても、それは本質はくだらないことと同じだと知っているから、驕ることはない。何かを作っても、それは移ろいゆくものだと知っているから、執着しない。成功するほど失敗しやすくなっていくことも知ってるから、自分が成功したんだと言ったりしない。

そんなだから、かえって誰からも忘れられないし、かえって誰も襲おうとしない。もちろん、あのタオからでさえも。まぁ、タオはそんな人には与えようとするがね。)

 

<本文意訳>

本当に重大な何かを成し遂げたいと思ったら、その準備のためにした小さな善行を、自分がやったのだと言ったりしない。そんなことをしても重大な目的は近づかないからだ。誰かが手柄を横取りしても、ぐっとこらえて、顔ではニコニコ、我慢する。なぜなら、政治においてはそれこそが「根回し」の最たるものだからだ。注意すべきは、手柄をくれてやったのだからと恩を着せるようなことをしては台無しだ。そうではなく、「なるほど君の立場では今成功がほしいのはよく解る。よし、これも君の手柄にしたまえ。」というような気配りの繊細さと思いやりでもって接するのだ。こんなふうに遇されると、どんな悪人でも「ああ、この人には自分より幸せになってもらいたいなぁ」と思うようになる。小さな成功を手放して、大きな味方を手に入れる。大きな味方を手に入れて、本当の重大な目的を成し遂げる。これが老子の意図する、タオに沿った自身の養い方であり、これは政治にも処世にも遍く通用する。なるほど、恩を簡単に忘れる者がいるはずがないし、恩人からさらに奪おうとする者がいるわけがない。)

 

<解説>

矛盾を超える方法をいくつか紹介しよう。矛盾というと「間違っていること」とか「相反していてどうしようもないこと」といったイメージがあるのではないだろうか。実は、そういった思いこみこそが、矛盾にとらわれてしまう原因である。美醜を石ころと宝石に例えると、石ころが醜で、宝石が美だ。ここまでは誰でもわかるのだが、では夜空の星々の輝きはどうだ。スケールも美しさも、まるで宝石の非ではない。地球さえ及ばない。このとき、宝石はとたんに醜となる。①そこで、石と宝石はともに醜となり、矛盾はなくなった。貫かぬものはない矛と、防がぬものはない盾とを売る者がいた話しで例えよう。矛と盾が衝突したときの事を考えてしまうと、とらわれてしまう。②ここは単純に、武具商人の本質を見抜く材料とするに止めるのが正解だ。商人はどうしても売って金に換えねばならぬ職人であり、そのためにはあることないこと述べ立てねばならぬ職業であり、あることないこと述べ立てるから言に窮しやすいのだが、それが分からない人に支えられている商売であるということ。かくして、矛盾もまた超えられた。③「この文章は嘘である」は、なんのことか分からなければそれでよい。「今から嘘を言うよ」といって説かれた話が真実なら彼は嘘を言ったことになり虚偽なら彼は真実を語った事になる。⑤アキレスとカメの話しは、距離や速度が短くなっているのではなくて、単純に筆者と読者の思考に時間がかかって、物語の時間の進行速度がどんどん遅くなっているだけなのに、「追いつけない」と錯覚するところにある。接近したところで何も考えずに一秒先送りすれば、あっというまに解決する。

①は、その二元対立関係の外側に、さらに巨大な自然界の現象を引き合いに出すことで矛盾を超えた。②は、論理にとらわれずに、本質である商人の心理を察知して、矛盾をまたぎ超えてしまう方法だ。③は、文章が意図を伝える道具であるという前提に立てば、この文章の作成意図が単に自己矛盾自体を示唆したいだけであることがわかり、以て矛盾を超えた。④は、聞き手の心中の優柔不断を煽る手口である。どんな人でも信じる人なら、ちゃんと逆に解釈して信じればいいし、明らかに嘘でない話しなら、彼は嘘を言ったのではなく、嘘を言えなかったと解せばよい。かくして単純化によって矛盾は超えられた。⑤は、敢えて距離と速度を考えないことによって、矛盾を超た。このように、すべてのパラドクスは、偽の大前提を暗黙の内に信とすることで、小前提と結論の偽を信に見せかけるものでしかない。大前提が誤りなのだから、誤りの結論が導かれたのが正常当然なのに、いつのまにか「結論が誤りではいけない」と思いこまされているから、パラドクスだと感じるのである。だから、偽の大前提を矯正すれば、矛盾は自ずと解消する。

 

<真贋>

二元対立、理論矛盾、数的矛盾を超える方法を説いている。これらはタオの本質的な性格だから、老子でなければ書けない。真作であろう。ただし、本来なら徳経に入るべき内容である。

第三章 まず第一に本当に大切な心身をこしらえる ◎

 

<本文書き下し>

賢を尊ばざれば、民は争わずに使う。得難きの貨を貴ばざれば、民は盗まずに使う。欲すべきを見さざれば、心をして乱れざらしむ。これ以て聖人の治とせんや。その心を虚しくし、その腹はみちて、その志を弱くし、その骨は強い。常に民をして無知無欲ならしめ、その知者をして敢えて為さざらしむるなり。無為を為せば、則ち治まらざるは無し。

 

<本文訳>

上が賢さを褒めたりしなければ、人々は賢さ競争に追い回されたりせずに、自然に知恵を使うようになる。行き詰まったらどうしよう。そんな余計な不安事を考えさえしなければ、みんな盗むようなマネまでして硬貨紙幣金銀財宝なんかを集めずにすむ。よく考えてもみたまえ。食べる物さえあれば、死なないじゃないか。他の物はべつに無くたっていいものだ。他に何が必要かなんてことを考えなければ、みんなの心は乱れずにうまくいく。だからタオに繋がる人は、世間からハッパをかけられて駆り立てられそうになる欲を治める。その人の心には野心がないが、その腹は満腹で、その志は弱いが、その骨は強い。もし皆が頑固に無知無欲を通せば、そんな人にはどんな商売上手もつけ入るスキがない。こんなふうに図太く生きれば、心も体も絶対に乱れない。心体さえ治まっていれば、どんなに行き詰まってもなんとかなる。なぜなら、その都度タオのほうから助けに来てくれるからだ。最も大切なものは心身だと言ったが、心身をこしらえる時も、無為に為すことが重要だ。)

 

<本文意訳>

君がなにかしら成功したときに、君に擦り寄ってくる人の多さを見たまえ。彼らはみんな自分の私利私欲のために、君に取り入ろうとしているのだ。そんなところで、自分は多くの人に慕われている、なんて思ってはいけない。もし君がなにか失敗をすれば、彼らはすぐさま手のひらを返して、君から遠ざかっていくだろう。こんなのはとても「治」とはいえない。だから聖人は、共通の利害について人を集める。だからもし君が何か失敗しても根強く助けてくれるし、だれかに罵倒されても一緒になって悔やしがってくれるし、力強く励ましてもくれるのだ。そのためには、我を通してはいけない。無知無欲なように振る舞って、利己心から擦り寄ってくる人々を退けるのだ。自分の集団をこのように統治すれば、治まらないはずがない。

 

<真贋>

人々の心理的因果関係を、元来のタオに近い小国寡民の状態と比した上で明らかにしており、老子でなければ書けないだろう。ただし、本来なら徳経に入るべき内容である。

第四章 タオの神秘さ

 

<本文書き下し>

道は沖、しかもこれを用いても満たざるなり。深淵にして万物の根源に似たり。鋭を挫き、粉を解き、光を和し、それは塵に同ず。広く湛えて存するに似たり。吾それを誰の子か知らざるなり。天帝の先ににたり。

 

<本文訳>

タオは何千年もかけて湧き水が湧き出た後のように行き渡っているかのようだが、飲んでみてもなぜか渇きを潤すほどには使えない。その深さは万物の根源に通じているかのようだ。水中の銃弾のように勢いを挫き、水に粉を溶くように落ち着かせ、湖底の波影のように光をまろやかにするし、塵や埃のように静かに積もるのと同じような働き方をする。私はタオがどこから生まれたのかわからない。万物の根本が発生する以前からあったかのようだ。

 

<本文意訳>

ともかくタオを説明しようにも、もともと捕らえ所がないものだから、漠然とつかんでおいてもらいたい。あとからもなんどもこういった神秘的な表現をするから、全体を通してなにか共通感を感じてもらえれば、それがタオの輪郭のようなものだ。

 

<真贋>

タオの沖は、45章により詳しく述べられており、しかも老子はタオが虚無であることをしっているから、後述するためのさわりとして触れたとしても、虚無であるものを「誰かの子」であるとか「創造神よりも以前」と表現できなくはないが、やはり不自然である。

第五章 天地に愛はない ◎

 

<本文書き下し>

天地は不仁、万物を以て芻狗(用が無くなれば捨てる)と為す。聖人は不仁、百性を以て芻狗と為す。天地の間は、其れ鞴のごときか。虚にして屈きず、動きていよいよ出ず。多言なれば理は窮す。空虚を守るに如かず。

 

<本文訳>

天地に愛などないことは、生物だろうとなかろうと淡々と生じもするし滅しもすることからも知れよう。タオの人にも愛などなく、人々をワライヌのように扱う。天地と大気は巨大なふいごのようだ。中身は何もない空間(五感で感じられないもの)のようだが、それ自体を使って風(五感で感じられるもの)を生じさせてしまう。風の一部はまた戻ってきて、吸うにしても吐くにしても、この働きが尽きることはない。多くを喋れば論理に矛盾を生じたり誤解を招くことが多くなるという経験はないだろうか。口うるさく語るのは、何もしないことよりタオに反することだ。

 

<本文意訳>

相手に納得させようとするから捲し立てるのであり、相手に尊敬されたいから知識をひけらかすのであり、相手を従わせようとするから怒るのであり、相手に取り入りたいから擦り寄るのであり、相手を立腹させたいから侮るのだ。しかし、わら人形を相手に、怒ったり誉めたりする人が居るはずがない。それと同じように、誰に対してもわら人形に話しかけるかのように接すれば、自然とタオの働きに近づくことができる。タオが人々を含め全てに対してわら人形のように接するからだ。こういう天地のような広大な心持ちで将来を見据えるから、自分の望みが通りやすくなる(妨害しようとする人がいなくなる)。わら人形はわら人形でしかないのだから、利用用途を考えはしても、別に見下すとかはしないだろう。人をわら人形だと思うと、見下したがるような半端者がいるから言っておく。人間を焼き殺しておいて、わら人形だから燃やしたってかまわないと言う者がたまに出るが、そいつはまだタオを知る器が無いなのだろう。せっかくわら人形があるのだから、たとえ畑に置いてカラスよけにしないとしても、せめて売って金に換えるぐらいは使い道を考えるものだ。燃やしたってマキほどにも使えないし、鍋の水はぬるくもならないじゃないか。自分もワラ人形のうちの一つだということを忘れて、相手の効用を見いだそうともせずに、相手を邪魔だとしか感じないならば、そんな人に教えることは一つだけだ。二十七章を熟読したまえ。

 

<真贋>

タオの本質的な性格を的確に比喩している。真作にまちがいない。

第六章 タオをよく体現している谷について

 

<本文書き下し>

谷神は死せず。これを玄牝(げんびん)という。玄牝の門、これを天地の根(こん)という。綿々として存するがごとく、これを用いてもつかれず。

 

<本文訳>

例えば谷から湧き出る湧き水が何千年も続いて湧き出るさまは、不死の神秘のようだ。何千年も湧き出た湧き水が神秘的な色の湖畔を作るさまは、天地に根をおろしているかのようだ。連綿と続くかのようで、人間ごときがいくら藻掻いても変えられない。

 

<本文意訳>

星がどれもこれもみんな球状のなのは、まるで四角や三角ではいけないかのようだ。人間がどんなに足掻いても、星が六角形になるように自然法則を変えようとしたって、変えられない。人間がどんなに足掻いても、水が燃えるように自然法則を変えることはできない。これらはみんな、タオに従った在り方だからだ。タオを知らない愚かな人間は、しばしばタオに反発するようなことを考えるが、そんなことしたって一瞬しか続かないのだ。いつか四角い星を宇宙に浮かべたとしても、すぐにつかれて崩れてしまうだろう。それよりも、何千年も続く湧き水の在り方をみたまえ。タオに沿うということは、自然な美しさを獲得できるうえに、いつまでも長続きできるのだ。

 

<真贋>

老子が神の概念を引用するとは考えがたい。タオと若干ばかり競合するからであるが、それなら始めから「谷のタオ」と表現したであろう。玄牝・根・門と、命名が多い割に谷神のことしか説いておらず、斬新さに欠けることからも、真作とはいいがたい。

第七章 無為の為は天地から見習うことができる ◎

 

<本文書き下し>

天は長えに地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、その自ずから生ぜざるを以てなり。故によく長生す。ここを以て聖人は、その身を後にしてしかも身を先んじ、その身を外にしてしかも身存す。その私(わたくし)無きを以てに非ずや。故に能くその私を成す。 

 

<本文訳>

天の雲の流れは目で追えるが、いつまでも途絶えないから、何か長いもののようだ。大地はいつまでも動かないかのようだし、どこまでも続いているかのようだから、久しく遠く続くもののようだ。天地が長く久しく続くことができる理由は、自分から望んで何かを産んだりしないからだ。ただ生物が勝手に使ったりいじったりするだけでね。聖人は(先の章で述べたように、変えることはできないから)この天地の働きに倣って、自ら望んで後から行くことも先に行くこともなく、自ら望んで逃げるでもなく居るでもない。こんなだからこそ無為の私でいられるのだ。ただし、死んでいるとか眠っているとか思考停止しているとかいう意味ではない。

 

<本文意訳>

タオに従うコツは、我欲を意識しないことだ。何かしたいこと、欲しい物があっても、そのことをさっさと忘れてしまうということだ。簡単にできることなら、すればいい。難しいことなら、準備を重ねればいい。だが、忘れられれば、なにもしなくていい。はじめから目標を達成していたようなものだ。これが、いちばんの長続きさせるコツであり、いちばんのタオに沿うことだ。だけどどうしてもこれをできない人もいるだろうから、次善策として、簡単なことと難しいことの達成のしかたを、最後の方で書くことにしよう。

 

<真贋>

「天地は自ら為さぬ」という下りについて、「当時の人は地割れや地震、台風や雷雨を知らなかったのだろうか」と考える必要はなかろう。為さぬからこそよく自己を自己として、没個性に陥ることなく在り続けられると結んでいるから、雷雨にしても地震にしてもタオとの矛盾点にはならない。さらに次章との流れもよく、よって真作であおる。

第八章 水もまたタオをよく体現している ◎

 

<本文書き下し>

上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪むところに処る。故に道に幾(ちか)し。居(おる)は善く地。心は善く淵。与うるは善く仁。言は善く信。正は善く知。事は善く能。動くは善く時。それ唯だ争わず。故に尤め無し。

 

<本文訳>

物事を超えた善というのは、まるで水のようだ。水は万物に利益を与えて争わず、俗世間の嫌うところにたまる。だから水とタオとの違いは数えるほどしかない。水は地下にあっても地上に出ても、大地との相性は抜群にいい。水は奥ゆかしくて、その心を簡単に明かしたりしない。水が恵みを与えるとなれば、そこに愛を感じないものはいない。水から何かを学んだなら、それは十分信用に値する。水の正しさは、物事をよく知っているかのようだ。水は物事をうまくはこびもする。水が目立った動きをする時は、いつでも時勢に合っている。これらの水の特徴をまとめて一言で言ってしまえば、争わない、ということだ。争わないのは人間相手のときだけじゃなく、自然や物に対しても同じだ。水が人や自然や物を区別しないのと同じだ。だから何者も水を咎めたりしないんだよ。

 

<本文意訳>

水はやわらかくて弱い。なのに沸騰すれば、その水蒸気爆発によって山さえも消し飛ぶ。水はどんなものも害さない。なのに溺死者は焼死者より多い。水は味がない。なのに水がなければ味も臭いもわからなくなる。水は色がない。なのにどんな景色も瞬時に写し取る。水は形がない。なのにどんな形にも即応する。水は自ら動かない。なのに的確に時勢を読み取って氷ったり気化したりする。水は氷って固くもなるし、気化して目に見えなくもなる。こんなに複雑なのに、身の処し方を間違うことがない。水にこんなすごい事が出来るのは、水がタオと争わないからだ。水はタオにいつでも従っていて、仲良しなんだ。だから水の振る舞いを観察すれば、タオの意向がわかるというものだ。

 

<真贋>

水はタオに近く、そのために様々な特徴を読み取れる。タオに気付いた人間なら必ず発見する近似点であるが、列挙された例示の着眼点の鋭さから、老子の執筆であろう。

第九章 中途半端はよくないが、やりすぎもよくない

 

<本文書き下し>

持してこれを盈たすは、その已むに如かず。揣えてこれを鋭くするは、長く保つべからず。金玉堂に満つるは、これを能く守ること莫し。富貴にして驕るは、自らその咎めを遺す。功遂げて身退くは、天の道なり。

 

<本文訳>

自分の獲得した徳を維持して、そのうえさらに蓄積しようとするのは、徳のない状態に戻るにも及ばないことだ。刃物を鍛えて鋭くすれば、刃は長く保たないし、刃が保ったとすれば人々に欲しがられて、やはり近く手放すことになるだろう。倉に金銀財宝が満ちていれば、(盗まれるのか徴収されるのか強請られるのか相続させられるのかはしらないが、)それだけ失う可能性にも満ちているということだ。物質に困っていない者が驕りたかぶれば、やはり人から妬まれる。だから、志の成功を遂げたならば、それを手放せとまでは言わないから、それ以上望むのはよくない。そうすることがバランスを取るということであり、天のタオに沿った生き方だ。

 

<本文意訳>

起業家や世間の人は、必要に迫られてからいきなり何とかしようとするから、最初から時勢にもともと無理があって、簡単には思い通りにいかない。そこで努力だとか決意だとか炎の意志だとか乾坤一擲だとか言ってハッパをかけて煽り立てなければならなくなるわけだ。たしかに効果的だが、タオの時勢に反したがばかりに、相当な苦難と苦痛をながいあいだ伴うことになる。そして、苦労をして得た物だから、よけいに手放したくないと思うようになる。そうなるととことんまで行って、引き際の徴候があらわれても無視するようになる。そうなると危険だ。こんどはあっというまに転落することになる。転落しないためには、タオの柔軟さを身につけなければならい。だが、本当にタオに繋がる人は、引き際を見極めて、ぐっと踏みとどまる。そして残った利益を大切にして、事業をやめてしまう。他の人は勇気がないとか器量不足なのだと言って笑うだろうがね。すくなくとも自分の窮地を認識している人は、人の悪口など言う暇がないものだ。そんな人は、自分が窮地にいるのにも気付かないのに、人の悪口ばかり言っているのだ。だから引き際を知れば、たとえそれが水の泡でも、はじけたりしない。時勢に合った事業展開をするから、苦労も少ない。苦労が少ないから、引き際を見逃したりしない。失敗しても致命傷にならないように、根回ししておく。これが気まぐれな天のタオの時勢に沿うということだ。)

 

<真贋>

タオは善人の寄る辺であり、不善人の保険ではあるから、やりすぎたってかまわない。ただタオに奪われるだけである。67章の主旨からして、そもそも人の先に立たず、功を求めないのが大前提であるから、本章は若干あやしいが、徳経の68章あたりに入るのならば真作であろう。

第十章 無為から生まれるタオの徳 ◎

 

<本文書き下し>

営魄に載りて一を抱き、能く離るること無からんか。気に専せ柔を極めて、能く嬰児たらんか。滌除して玄覧になり、能く疵無からんか。民を愛し国を治むるに、能く知無からんか。天門開闔するに、能く雌為らんか。明白四達するに、能く為すこと無からんか。これを生じ、これを畜う。生ずるも有せず。為すも恃まず。長ずるも宰せず。是れを玄徳と謂う。

 

<本文訳>

マイホームに住んでいるのに、タオを実践して止めないでいられるものだろうか。気の向くままに生活しているのに、柔を極めて赤子のようにいられるものだろうか。洗い去ってきれいに見えるのに、瑕疵がない状態でいられるものだろうか(完全な状態などありえないから)。民を愛して国を治める立場なのに、無知でいられるものだろうか(普通は勉強して知恵を仕入れようとするだろう)。女性が強烈に誘惑するのに、同性であるかのように振る舞えるものだろうか。十字路から遠くまで未来を推察できるのに、何もしないでいられるものだろうか。したいのにしないとしたら、それは無為じゃない。

タオというのは、予期せず何かいいものが生まれたら、その恵みをうける。予期せず何かいいものを生んだとしても占有しない。予期せず何かいいことをするにしても結果を恃まない。予期せず何かに熟練していたとしても主宰したり教えたりしない。こういうありかたを深いタオの徳、とでもいっておこうか。

 

<解説>

何を求める場合でも、目的物が自然と転がり込んでくるように、全体的に大きく動かして待つ。どういうことかというと、例えば、マンゴープリンを食べたいとする。とすれば、マンゴープリンを取り扱っている店を探し出して、そこへお金を持って行って買うことになる。これならたしかに今すぐマンゴープリンを食べられる。だが、これではお金も減るし、店を探す苦労もいるし、また食べたいと思ったら再び買いに出向かなければならない。これはタオに反しているまではいかないが、タオに沿ったものでもない。では、タオの人はどうするかというと、まずマンゴープリンを探していることを人々のあいだで周知のとおりにして、あとは何もせず放っておく。すると、甘味に詳しい人が、マンゴージュースを持ってきてくれたりする。果物屋に通じている人が、マンゴープリンを置いている近くて安くて旨い店を教えてくれたりする。マンゴープリン同好者が、特殊なマンゴープリンをプレゼントしてくれたりするし、上手な食べ方を教えてくれたりする。そろそろまた食べたいなぁと思っていたら、ちょうど誰かがまた持ってきてくれたりする。これはみんな、予期せず起こったことだ。こうしてタオの人は、金も払わず、店を探しもせず、わざわざ出向きもせずに、様々なマンゴープリンを何十個と手に入れる。だから、マンゴープリンの種類や味を、よく知ることもできる。家から一歩も出ずに、だ。ただし注意せねばならないのは、予期していれば、催促してしまうということだ。催促すると、それ以降は誰も持ってきてくれなくなる。だから、予期せず、いずれ食べられればいいやぁ程度の気持ちで構えていれば、マンゴープリンは向こうからやってくるのだ。これこそ、徳を得たタオの人のタオに沿った手口であり、タオのなかから獲得するという技なのだ。万物は(マンゴープリン含め)はタオの流れに浮かんでぐるぐる流れているから、ちょうどたまたま流れてきたときに、手を伸ばす、という方法が、手軽でうまい方法だ。この例のようにタオの流れを加速させて、流れて来やすくするのも巧妙でうまい方法だ。そのためには、くれぐれも、急いだり焦ったりしてはいけないし、あらかじめ徳を養っておかねばならない。

 

<真贋>

真作。基礎をなすタオに沿った在り方である。ただしこれも徳経であろう。

第十一章 目の付けどころを変えればタオが見つかる ◎

 

<本文書き下し>

三十輻一轂を共にす。その無に当たりて車の用あり。埴を土延ねて以て器を為る。その無に当たりて器の用あり。戸ユウを鑿ちて以て室を為つ。その無に当たりて室の用あり。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

 

<本文意訳>

大八車や自転車の車輪のスポークは、一番下にきているやつがその重さを支えて一番上にきているやつがその重さを吊っていて、それが連続的に回転して機能するわけだが、そんな複雑な構造を支えている中心は、一つの輪っかだ。そんな何もない空間が支えているから自転車は自転車として機能する。土をこねて器を作るわけだが、中が詰まっていたり、中が空洞でも口がなければ使えない。うまい具合に何もない空間があるから器は器として機能する。部屋にしても衣服にしても人体にしても同じことだ。だから有形物が利をもたらすのは、そこに無がうまい具合に機能しているからこそなのだ。

 

<解説>

鉄棒は、中が詰まっているものと、中が空洞になってパイプになっているものとでは、同じ太さでも、パイプのほうが強くて折れにくい。しかもそのぶん軽いし、内部に何かを流すこともできるようになる。これも空洞(なにもないもの)の効用を利用したものだ、と言えるだろう。集中するにしても、適度に休憩を入れた方が効率が良くなる。ただしむやみやたらに空洞にすればいいわけでもない。その加減も重要だが、言葉では伝えがたい。)

 

<真贋>

本来ならタオの説明に当たって虚無の効用を説く流れの後の方に来る章であるはずだが、内容自体は老子の執筆であろう。

第十二章 食べ物は見た目や味よりも、健康のためだ ◎

 

<本文書き下し>

五色は人の目をして盲ならしめ、五音は人の耳をして聾ならしめ、五味は人の口をして爽わしむ。馳騁畋猟は、人の心をして狂を発せしめ、得難きの貨は、人の行いをして妨げしむ。是をもって聖人は、腹を為りて目を為らず。ゆえに彼を去りて此を取る。

 

<本文訳>

きらびやかな色彩は人の目を(金銭的価値にせよ眩しさにせよ)眩ましてしまい、激しい音楽は人の耳を(思想的意味にせよ金銭的価値にせよ)聾にしてしまい、五味は人の口を(お世辞にせよ立場にせよ刺激物にせよ)狂わせる。馬を走らせ狩りをすれば人は(対象を殺すことに)心を発狂させ、金銀財宝は人の行いを(何をするにも金をとって)妨害する。ここを理解して聖人は、目や舌ではなく腹で判断する。見た目が美しいから食べるのではなく、味がいいから食べるのでもなく、食べた後に気持ちがよくなるかどうか、良い感覚が得られるかどうかで判断する。だから豪華な見た目のものを棄てて、地味なほうを取る、ということが自然に多くなるのだ。実際、豪華な物ほど食うと気持ちが悪くなって、地味なものほど食えば気持ちが良くなる、ということが多いのだ。肉を食えば脂でもたれて肥満になり、砂糖を食えば胸が焼けて虫歯になり、色の綺麗なものを食えば着色料たっぷりで身体を壊し、美味で安価なものには化学調味料たっぷりで頭痛がするし、美女を抱けば精力を搾り取られて怠くなるうえに責任まで取らされる。米はよくかめば美味のうえに食後も満足感善く腹持ちよく心地よく、野菜は食後の胃腸に清らかな感じを与えるうえに栄養量を調節してくれるし、新鮮魚介はなにもせずに刺身にするだけでどんな調味調法より美味で、どんな盛りつけより健康的だ。

 

<本文意訳>

本当は、自分が食べたいと思った時に食べたい物を食べるのが、一番おいしいと感じる食べ方なのだ。つまり、おいしい食べ物を食べるからおいしいのではなくて、食べたい時に食べるからおいしい食べ物だったというだけの話なのだ。なのに、これがうまいあれがうまいと騒ぎ立てられて、言われるままに試食していると、いま自分が本当に食べたい味を忘れてしまう。装飾にしても音楽にしても同じことだ。だから、旨いかどうかを人に聞いたりしない。自分の腹が一番よく知っているから、自分の腹に聞く。”これが旨い”と言われたって、浮つかない。”おいしそう”に見えても、ダマされない。”いいにおい”がしても従わない。いつでも”いま自分に一番合ったもの”を選ぶ。それは、その時々の自分にしかわからないことなのだ。だからタオの人はどうしても、傍目には「人々の欲しがる物を除去して、人々の欲しがらない物を取るかのように見える」のだ。)

 

<真贋>

飲食は身体を養うためにあるのだから、味を求めて栄養を失っては本末転倒。この内容を嘲笑的に客観視ししているところから、著者の性格は老子の性格に近い。

第十三章 得を残念がって損を喜べば、どんな変化も楽しめる ◎

 

<本文書き下し>

寵辱には驚くがごとくし、大患を貴ぶこと身のごとくす。何をか寵辱には驚くがごとくす、と謂う。寵を下と為す。これを得ては驚くがごとくし、これを失いては驚くがごとくす。是れを寵辱には驚くがごとくすと謂う。何をか大患を貴ぶこと身のごとくす、と言う。吾に大患有る所以のものは、吾身を有とするが為なり。吾身を無にするに及びては、吾何の患いか有らん。ゆえに貴びて身を以て天下を為めば、すなわち天下を寄すべく、愛して身を以て天下を為めば、すなわち天下を托すべし。

 

<本文訳>

栄辱には驚いたかのように振る舞い、大病を貴ぶには自分のことのように振る舞う。どういうことを栄辱には驚いたように振る舞うというのか。まず(一般認識とは逆だが)栄誉のほうを下卑と定義する。栄誉を得ては(うわ困ったどうしよう、と)驚いたように振る舞い、栄誉を失っては(お、回復したぞ、と)驚いたように振る舞う。これなら栄が来ようが辱が来ようが重心を失わないから、バランスを保ち続けられる。これを栄辱には驚いたかのように振る舞うという、タオを維持するための技術としよう。どういうことを大病を貴ぶには自分のことのように振る舞うというのか。自身に大病があると思うのは、身体を有形物だと思うからだ。まず身体を無と(例えば、自分は元々生まれて来なかったのだと)定義するに至っては、自分に何の病気が有ろう。病気は身体につくもので、心にはつかないからだ。だから大病を褒め称えて為政すれば、(大病、すなわち反体制派を抱き込むから)かえって天下を統一に向かわせ、大病を愛して為政すれば、(大病、すなわち反体制派からさえ支持をうけるのだから)かえって天下から施与を受ける。自分の身体を無に戻す、というところで躓く人が多いが、それなら、「自分はたったいま死んだ」、と想像して考えてみればいい。しばらくは嘆き悲しむ親族が思い浮かぶかもしれないが、その後には、もはや衣食住にも生老病死にも心配する必要が無くなった自分がいただろう?

 

<真贋>

バランスを保つ智恵や、タオという見地に立った価値観のコペルニクス的転回など、この文章構成の巧みさは老子に間違いあるまい。

第十四章 タオは五感で実感できないが、たしかにそこに在る

 

<本文書き下し>

これを視れども見えず、名付けて夷と曰う。これを聴けども聞こえず。名づけて希と曰う。これを搏らえども得ず。名づけて微と曰う。この三つの者は、致詰すべからず。ゆえに混じて一と為す。その上は皦らかならず。その下は昧からず。縄縄として名づくべからず。無物に復帰す。是れを無状の状、無物の象と謂う。是れを惚恍と謂う。これを迎うれども、その首を見ず。これに随えどもその後を見ず。いにしえの道を執りて、以て今の有を御す。能く古始を知る。是れを道紀と謂う。

 

<本文訳>

(四章つづき)見ようと思っても見えないので、”たいら”と表現してみた。聴こうと思っても聞こえないので、”かすか”と表現してみた。捕まえようにも得られないので、”うすい”と表現してみた。この三つの表現は、徹底的に分離・究明してはいけない。だから混じった一元のままだ。それより向こう側は明るくない。それよりこっち側はほの暗い。果てしなく続いて名づけられない。物でない状態に帰る。これを無の状態の状態、物でない状態のかたちという。これを惚恍という。これを迎えてみても、頭が見えない。これを追ってみても後ろが見えない。太古の太古からずっと同じタオの働きを執って、同じく今の有形物を御す。タオの始まりを知ることができたなら、それは道紀(タオの歴史)といおうか。

 

<真贋>

文の9割が、ただ「わからない」ということを表現を変えて繰り返しているだけであるし、「道紀」というものの内容について具体的に触れもしないのは、老子らしくない。しかも本章以外の章では「道紀」について触れられてもいない。「恍惚」は21章にも登場するが、21章では物に具現したタオの不可解さを意味し、本章とは意を異にする。贋作であろう。

第十五章 タオをよく体得した人の有り様は

 

<本文書き下し>

古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識るべからず。それ唯だ識るべからず。ゆえに強いてこれを容に為せば、予として冬川を渉るが若く、猶として四隣を畏るるが若く、儼としてそれ客の若く、渙として氷の将に釈けんとするが若く、敦としてそれ樸の若く、曠としてそれ谷の若く、混としてそれ濁れるが若し。孰か能く濁りて以てこれを静かにして徐に清ません。孰か能く安らかにして以て(久しく)これを動かし徐に生ぜん。この道を保つ者は、盈つるを欲せず。それ唯だ盈たさず。故に能く敝いてしかも新たに成らず。

 

<本文訳>

昔のタオの人のありさまは、薄くて人知を越えたようで、見えそうで見えないものに通じているようであり、深くてわからない。それはただ解らないというほかない。強いて言葉とか芸術作品とかに例えろと言われれば、察するに冬の川を渡るかのように、はたまたためらって隣の国を畏れるかのように、はたまた緊張して客であるかのように、はたまた雪解け水の流れ始めのように、気持ちは大きいけども素朴で、空しく広々として谷のようで、混沌として濁っているかのようだ。泥水を澄ますように、濁ったものを執して静かにさせて、徐々に綺麗にする。沈殿物を混ぜるように、ゆ~っくりと執して動かして、徐々に有形物を生みもする。このような昔ながらのタオの人というのは、めいっぱいになることを望みはしない。ただタオがそういうあり方だから、タオに反してまでめいっぱいにしようとしないだけだ。だから普段からしっかり覆い隠していて、新たに創ろうとして執心したりしないのだ。

 

<真贋>

一見すると老子の著作であるように思われるが、タオを説くのでもなければ徳を説くわけでもなく、タオの人に対する単なる観察記録のようになっている。文中の表現も他章にもみられる表現であるし、真作である信憑性は低い。タオの人なら複雑玄妙というよりは、客観的には単に愚者か知的障害者にしか見えないだろうからである。

第十六章 タオに繋がることの利点の大きさ

 

<本文書き下し>

虚を極に致し、静を篤きに守れば、万物並び作るも、吾は以てその復るを観る。それ物の芸芸たるも、各おのその根に復帰す。根に帰るを静と曰う。是れを復命と謂う。復命を常と曰う。常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄作して凶なり。常を知れば容るるなり。容るれば乃ち公なり、公なれば乃ち王なり、王なれば及ち天なり、天なれば及ち道なり、道なれば及ち久し。身を没し殆うからず。

 

<本文訳>

 虚を(隆盛させるにせよ衰退させるにせよ)極限まで致して、そのまま静けさを守れば、いかなる有形物が如何にどれだけ作用しようが、私はそれが元に戻るのを観るだろう。その状態がいかに複雑膨大であろうとも、各々が自らタオの根に復帰しようとするからだ。タオの根に帰るのを皆は静というようだが、私はこれを復命と呼ぶ。復命のことを皆は常という。常を知ることを皆は明という。常を知らなければ妄想に走って凶事に至ってしまうだろう。常を知れば包括的にタオに応じることができる。タオに応じられればそれはあらゆるものに通じるということだ。

 あらゆるものに通じるということは万物の王様だということだ。万物の王様だということは人間を超えた存在だということだ。人間を超えた存在ということはタオだということだ。タオだということは、つまりいつまでも続くということだ。こうなれば身が滅んだとしてもなんら心配することはない。すでにいつまでも続くものと一体化してしまったのだから。

 

<真贋>

「復命」「常」「明」とその解説は明らかに老子の作であろう。だが、「万物の王」あたりから雲行きが妖しくなっている。人は人として産まれた以上、人を超えることはできない。それはタオがそのように人を産んだからだ。ましてやタオと同化して不死を得られるように書かれているのも妙だ。タオは人を産みもするし殺しもする。それだけの存在だからだ。タオにユダヤのような選民思想などない。本章は第三者による加筆があったのかもしれない。

第十七章 純度100%のタオの人は、いつ誰がどう見ても自然体 ◎

 

<本文書き下し>

大上は下これ有ることを知る。その次は親しみてこれを誉む。その次はこれを畏る。その次はこれを侮る。信が足らざれば、信ぜざること有り。悠としてそれ玄を貴くすれば、功成り事遂ぐるも、百姓は皆我が自然なりと謂う。

 

<本文訳>

人が居る。もしその人が最も上の地位にいれば、その一つ下の人はその最上の地位の人のことをよく知っている。その次に下の人は最上の地位の人に親しもうとして誉める。その次に下の人は最上の地位の人を畏れる。その次に下の人は最上の地位の人を侮って嘲笑する。最上の地位の人に誠を尽くさないとしたら、疑われるなどといったことが発生する。だから、どんなヒエラルキーもタオに反しているということだ。気ままに自然にまかせて、そんな(解ったようで解らないような)態度を貫けば、成功して志を遂げても、あらゆる人が「あの成功は私が一役買ったんだ」というだろう(一切ヒエラルキーに属していないのに、である)。自分で作為したにもかかわらず、いかなる客観からも(例え最上の人から見ても)分けて使われてかつ自然であり続けること。これこそタオに繋がっていなければできぬ偉業だ。

 

<真贋>

これもタオの人に対する客観視であるが、非常に体系的に説明されている。老子が書いたとすれば、老子の自信のない心境を読み取れるが、それこそはタオの人の特徴でもある。前半では見解が不一致なのに、後半の一致と対比させて、前後合わせて一つの徳の人に対するという構成の巧みさからしても、ほぼ老子本人の作であろう。

第十八章 ゴメンで済めば警察はいらないが、ゴメンで済む社会であるに超したことはない ◎

 

<本文書き下し>

大道廃れて仁義有り。智慧出でて大偽有り。六親和せず孝慈有り。国家昏乱して忠臣あり。

 

<本文訳>

人々に仁義が持てはやされるようになったということは、反対解釈すれば、大きなタオが人々の心から廃れたということだ。孝行者が多くなったということは、親類に喧嘩が増えたということだ。忠臣が増えたということは、国家が混乱しているということに他ならない。

 

<本文意訳>

タオが為されていれば仁義を重んじる必要などない。人間関係がうまくいっていれば、仁義の出る幕がない。親類がみな仲良くしていれば、孝行の出る幕がない。そこでは孝行が当たり前なのだから、孝行者が特別視される訳がないからだ。国家が安定していれば、誰が忠臣かはわからない。裏切る者と裏切らない者が出ない時代(つまり治世)ならば、忠臣かどうかは誰にも解らないからだ。

 

<真贋>

こういった逆説的な含みを持たせた説き方も、老子の特徴の一つであろう。

第十九章 タオに根ざした国はどんな国か

 

<本文書き下し>

聖を絶ち智を棄つれば、民の利百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に復す。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有る無し。この三者は以て文と為すに足らず、故に属する所有らしむ。素を見し樸を抱き、私を少なくし欲を寡なくす。

 

<本文訳>

神などの聖なる物に触れないようにして、知恵を働かせないようにすれば、民衆の利益は百倍にもなるだろう。なぜなら、邪とか無知とかいう概念が人々の心から無くなるから、邪に触れても残念がらずに済むし、智恵が必要ないから、無知を自覚してあわてることもないからだ。愛に触れないようにして義理を働かせないようにすれば、民衆は孝行者に環る。なぜなら、憎悪とか不義とかいう概念が人々の心に無い状態に戻るから、それで反抗したりしなくなるからだ。成功に触れないようにして利益を得ないようにすれば、盗賊が居るといったことが無くなる。なぜなら、人々の心には勝敗とか目的とかいう概念が消えているからだ。取られるほうも取られてしまったと思うようなことはないし、取るほうも取ろうとおもったりしない。このタオに根ざした三つの国の中では、おそらく識字率も無いだろう。だから何かに依存するようなことがない。ありのままをいつわろうともせずに見せてありのままの自分を抱き、自我を少なくして我欲を薄くする。

 

<本文意訳>

ようするに、昔の日本の農村を思い浮かべてもらえばいい。みんな明るく素朴でバカ正直に何でも話し、最低限必要な物はなんでも足りていて、泥棒が何か盗んでいっても「いいさ。よっぽどの理由があるんだろう。もっともってけ!」と言える豊かさを持っているのだ。

 

<真贋>

仁義を捨て、功利を捨て、信仰と智恵を捨てることなど、俗人にできるはずがない。タオの徳さえあれば、他には何もいらない。真言は反するが如し。まさに老子の著作であろう。

第二十章 タオの大きなバランスのシステム ◎

 

<本文書き下し>

学を絶てば憂い無し。唯(い)(丁寧な返事)と阿(あ)(いい加減な返事)と相ひ去ること幾何ぞ。善と悪と相ひ去ること何若(いかん)。人の畏るる所は畏れざるべからざるも、荒兮として其れ未だ央きざるかな。衆人煕煕として大牢を享くるがごとく、春に台に登るがごとし。我は独り泊兮として其れ未だ兆さず、嬰児の未だ孩せざるがごとし。るいるいとして帰する所無きがごとし。衆人は皆余り有り、而して我は独り遺えるがごとし。我は愚人の心なるかな。沌沌(分別がない)たり。俗人は昭昭(賢い)たり、我は独り昏昏(暗い)たり。俗人は察察(細部まで明るい)たり、我は独り悶悶(優柔不断)たり。澹兮(たん-静かで安らか)として其れ海のごとく、びょう兮(高いところを風が吹き抜ける様子から、空しいさま)として止まる無きがごとし。衆人は皆以てする有りて、我独り頑にして鄙(ひ-愚者)に似たり。我独り人に異なり、而して食母を貴ぶ。

 

<本文訳>

学ぶ事を止めれば、自分の学識不足について憂いたりしなくていいじゃないか。「はい」と「うん」とが分離してから、もうどれぐらい経つか。善と悪とがどんどん区別されて離れて行くことをどう思うか。人々が畏れる事なら、畏れないといけない。(タオの働きによっていつかは元に戻るのは解っているが)広漠と荒れていて、いまだに尽きて元に戻る気配がない。衆人は喜び勇んで投獄されるかのように、自ら進んでタオから離れて行く。彼らにとっては牢獄が春台であるかのようだ。私は一人孤独に立ち止まって落ち着いていて、いまだに牢獄が兆すようなことはない。赤ん坊がまだいとけないかのようだ。志しを失って帰るところがないかのようだ。

衆人はだれもが必要以上に裕福だ。ということはつまり(私はその逆の道を行っているのだから)私は独り使い果たすかのようだ。私は愚人の心境でいるかのようだ。おろかで分別なく、もやもやしている。俗世間の人々は活発明朗でプラス思考で軽く志と希望に燃えている。私は独り孤独に愚鈍鬱屈でマイナス思考で重く暗く深い。俗世間の人々は隅々まで明らかにして、ビジネスチャンスを見いだしたりする。私はそういう道理に暗く、何も解らないままでいる。揺蕩うさまは海のように動揺し、流離うさまは風のように止まる所がない。衆人は誰もがみな技術を活用して生活している。ということはつまり(私はその逆の道を行っているのだから)私は独り頑固に原始人のようだ。(俗世間の人々は周囲と協調して打ち解けようとする。)私は独り他人と異なろうと望んでいる。

そうして、母(タオ)に養われることを貴んでからだ。(このようなことをするのは(まるで世間の逆を望んでいるかのような在り方をするのは)、すべてタオからの恵みを受けようと望むからなのだ。

 

<本文意訳>

タオの働きは揺れるヤジロベエのように、元に戻ろうとする。右に傾けようとするのが世間の文化的生活(左に向き易くなる)ならば、左に傾けることで自然に右に戻ろうとさせるのが、私の言うタオ(母)に養われる生き方だ

 

<解説>

老子はここで、世間と逆を行くことでタオに触れるのだと言っているのではない。タオの胎内に飛び込むことが結果的に世間と逆だったと言っているにすぎない。老子はここで、今すぐこの行いを実行せよと説いているのではない。無理をせずともこのように気楽にいられるような世の中を、先に作れと暗に言っているのだ。

 

<真贋>

内容的に一点も老子の教理に反しないし、むしろこうあれという具体的な例え、奥深い含みに、根元的な教え。真作に間違いなかろう。

第二十一章 タオを顕微鏡で拡大して見た時の、精子の中の遺伝子のようなもの ◎

 

<本文書き下し>

孔徳の容は是れ惟だ道に従う。道の物たる、惟れ恍たり惟れ惚たり。恍たり惚たり、その中に物有り。惚たり恍たり、その中に象有り。窈たり冥たり、その中に精有り。その精は甚だ真なり。その中に信有り。古(いにしえ)より今に及ぶまで、その名去らず。以て衆甫を閲す。吾何を以て衆甫の状を知るや。此を以てなり。

 

<本文訳>

いかなる甚だしい徳も、ただタオに従っているにすぎない。タオが物として具現化していれば、それは取っ掛かりが無いので捕らえがたい。(逆に言えば)取っ掛かりがなくて捕らえ所がないということは、その中にタオの形がある、ということになる。取っ掛かりが無くて捕らえ所がないということは、その中にタオの象徴がある。奥深く計り知れず、人知の及ばぬ定めであるかのように厳然として見聞きできない(領域である)が、その中にタオの精液(本性)がある。その精液は言語道断に真理である。そのなかにタオの証し(正体)がある。太古から現代に至るまで、消えることなく残っている。私はこの四次元的な時空の奥底にあるタオを以てして、ありとあらゆる万物の終始を検閲しているのだ。だから私が何を以て万物のすべての状況を知るのかと聞かれれば、此を以てだ、と答えるのだ。

 

<解説>

この章は、老子が持てる表現力の全てを以てタオの中核について説明した章である。この老子渾身の説明以上に、タオの解説もあり得まい。また、タオ的に解釈すれば、この渾身の解説行為は最高の解説である変わりに、わかりやすさという意味合いからは最低のものとなっているともいえよう。そこでさらなる解説を加えることにした。

まず、老子のタオは想像か空想を通して始めてイメージできるものであるということ。そのイメージを通して、取っ掛かりだとか形であるとか象徴だとか言っているということを理解していただきたい。ヘレンケラーと水の話しを思い出していただきたいが、このとき彼女の脳内で起きたような変化をイメージすれば、老子がどのようにタオに触れているのかがわかる。老子は水や天地の動向を通して、そのなかにタオの働きを想像するのです。そして次に、老子が観たものは、タオの奥底にあるものだったという。顕微鏡を除くようにタオを拡大したときに、老子が観たもの。それがタオの精液であり、遺伝子である。いわばタオの中心のコアを垣間見た、と言っているのだ。遺伝子を知ったのだから、それが生まれた時にどのような形に成長してどのように働いていくかの検討がつく。たまたま人間に例えているだけで、意図するところはタオの遺伝子であるから、ありとあらゆる概念の発生源を知った、ということだ。タオは数学上のゼロの概念に近い。ゼロから推測できる数字はありとあらゆる程度の数量にとどまらず、マイナスの世界をも示唆するからだ。タオのコアにはゼロすらもない。数字かどうかという概念の拘束もないから、あらゆるものへと変化できる可能性に満ちている。これではもはや人間の語彙を以てすれば表現の手だてが尽きてしまう(だからうまく説明できないので、皆に理解されずに笑われる)。もし老子が誰かから「なんでそんなことがわかるんだい?」と聴かれれば、「この虚無をもって、あらゆるものを推り知っているのだ。と答えるのだ」、と言っている。物理学的には、全ての物質や現象が力で説明できるように、人間の存在はじめ欲や感情の動向さえも、タオが生んだ力であるという、一種の大きな唯物論ともいえよう。

 

<真贋>

老子以外の何者にこれほどの教えを為せよう。疑うまでもなく真作。仮に他作であっても、彼は老子並みのタオの人であろう。

第二十二章 曲がるといっても道が曲がっているのだから、道なりに曲がることが直進することになってるじゃないか ◎

 

<本文書き下し>

曲なれば則ち全し。枉(ま)がれば則ち直し。窪めば則ち盈つ。敝(やぶ)るれば則ち新たなり。少なれば則ち得、多れば則ち惑う。ここを以て聖人は、一を抱きて天下の式と為る。自ら見(あらわ)さず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に彰(あらわ)る。自ら伐(ほこ)らず、故に功有り。自ら矜らず、故に長し。夫れ惟だ争わず、故に天下能くこれと争うことなし。古のいわゆる「曲なれば則ち全し」とは、豈に虚言ならんや。誠に全くしてこれに帰す。

 

<本文訳>

曲がった時点で失敗だとか不浄だとか思うのは早計だ。曲がらなければ折れてしまわないまでも、そこで完全にストップしてしまっていたかもしれないじゃないか。最後まで完全を目指そうと思ったら、曲がったり直ったりしながら進むものだ。この動きから、柔らかさを連想しないかい?まるでみずみずしい感じがするだろう。つまりタオに近いと言っているのだ。出っ張れば風雨にさらされて荒れて乾燥し削られてしまうだけだが、窪めば自然と水が満ちてコケが生え、植物が生えて花が咲いて蝶がやってくる。つまり窪めば(低くあれば)タオのほうから与えてくれると言っているのだ。真っ直ぐな木は役立つとしてすぐに切られてしまうが、曲がりくねった役立たずの木は誰も切らないので、身を全うできる。才能を誇示すれば敵も増えるし仕事も多くなって、短命に終わる。もし大事なものが荒れてボロボロなら、人々は自然に掃除しようとしたり、新しいものと取り替えようとする。だがいつまでも長持ちすれば、誰もそれを新しくしようとしないから、かえって古くなって黄ばんでもほったらかしだ。これらをまとめれば、少ないところにはそのぶん(水のような)他のもので補われて、多いところには(多いに超したことはないと思って多く持ってるんだろうから余計に)自然に削られるので、なんでこうなるんだと愚痴る結果になる、ということだ。聖人はこのタオの働きを理解しているからこそ、玄同(一元)を考えながら天下にタオを示す模範となる。とはいっても、自ら観てくれと言って見せびらかすわけじゃない。まぁ、だからこそ(前述のとおり)逆に明らかに目立ってしまうんだがね。同じように、自ら判断しないから、(前述のとおりタオの働きに従って)かえって結果的に英断をすることになってしまう。自尊しないから、かえって意に反して成功を誇張されてしまう。自ら自慢したりしないから、かえって意に反していつまでも語り継がれることになってしまう。(とはいっても、これぞタオの働きだと実感して密かに喜んで楽しんでいるんだが)。まぁ、簡単にいえば単に争わないということだろう。だから天下もこのタオの法則に逆らわないようにしなければならない。(でなければ、折れたり削られたり愚痴ったりするハメになるだろうね)。昔からよくいう「曲がれば則ち全し」は、単なる矛盾した虚言じゃないんだなぁ。本当にうまい表現だし、しかも私のいうタオにも帰着しているよ。

 

<解説>

この章の解釈パターンは、全章をとおして非常に重要である。今後も一見矛盾した表現がとかく多く出てくるが、言葉通り真に受けないで、想像力を働かせて矛盾を止揚することが重要である。止揚できれば、この章のようにすばらしい理解が湧き出るからだ。しかもそういった過程を経た理解は、タオに準じてもいるというおまけ付きだ。

 

<真贋>

もしこの章が老子の作でなければ、かなり精巧に改竄されたことになり、かなりの章を削った結果、全10章だったということにもなりかねない。そこまで深く疑う必要はなかろうから、真作とする。

第二十三章 タオとの信頼関係 ◎

 

<本文書き下し>

希言は自然なり。故に飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰(たれ)かこれを為す者ぞ。天地なり。天地すらなお久しくする能わず、而るを況んや人に於いてをや。故に道に従事する者は、道に同じくし、徳は徳に同じくし、失は失に同じくす。道に同ずる者は道もまたこれを得るを楽しみ、徳に同ずる者は徳もまたこれを得るを楽しみ、失に同ずる者は失もまたこれを得るを楽しむ。信足らざれば、信ぜられざること有り。

 

<本文訳>

自然はダイナミックに変化活動しているのに、そこに言葉を探しても見つからない。だがそういうのがタオというものだ。タオに繋がってるので私には理解できるから、私が自然を人の言葉に訳して説明してあげよう(このせりふは前章の内容に反するので、意図的に削除されたかもしれない)。竜巻は朝まではもたないし、大雨も明日までは続かない。誰がこんなことをやってると思う? それは天地だ。天地すらこういう激しい働きを長く続けられないのに、まして人がやるとなればちょっとももたないのは言うまでもない。ということを、自然は語っているのだ。(希言を聞く技を、無為のうちに教えている)

だからタオに従事する者は、タオがタオであるように行動して、徳が徳であるように行動して、失うことが失うことであるように行動する。タオであるように行動する者には、反対にタオのほうからもその人に合わせてくれるし、徳であるように行動する者には、反対に徳のほうからもその人に合わせてくれるし、失うことであるように行動する者は、反対に失うことのほうからもその人に合わせてくれる。これを実践するには一種の信頼関係が重要だ。向こうがこっちに合わせてくれないかもしれないと疑ってかかっては、向こうもこっちを疑ってそっぽを向くだろうよ。

 

<真贋>

人間がタオを疑うことはあっても、タオが人間を見放すことはなかろう。タオはいつでも人間を待っているのだが、人間が一方的にタオを嫌うのだ。そういう意味では半分間違った章となっているが、改竄の可能性も含めて、真作とした。

第二十四章 後からも説明するが、タオの特に顕著な法則

 

(この章は内容からして二十三章前後にもってくるのが自然だ。)

 

<本文書き下し>

企つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見(あらわ)す者は明かならず、自ら是(ぜ)とする者は彰れず。自ら伐る者は功無く、自ら矜る者は長からず。其の道に在るや、余食贅行と曰う。物あるいはこれを悪む。故に有道者は処らず。

 

<本文訳>

つま先立ちのままでずっと生活できるかい?できないのは、それが自然なことじゃないからだ。どんどん大股に跳ばしていくのは危ない。そんな歩き方じゃあちょっとバランスを崩したら立ち直れないだろうし、そんな難所で踏み外しでもしたら危険きわまりない。自分から目立とうと思う者は、呆れられて返って目立たない。自分から正しいと言う者は、反論を買って返って表彰されない。自分から自尊する者は功績なく、自分から自慢するものは語り継がれることはない。こんなのはタオから言わせれば、贅沢なうえに食い過ぎだと言うだろう。タオは物的余裕とかこういったことを善しとしない。だから、人がたくさんいても、こんな人々の中にはタオの人は居ない。

 

<真贋>

これまでの贋作と同様に、これまでの章を反復したような内容でしかないし、具体例もなく、何ら新しい暗示もないし、老子特有のひねりもない。贋作とした。

第二十五章 そもそも、宇宙の始まる仕組みとタオの始まりの関係は ◎

 

<本文書き下し>

物有り混ざり成し、天地に先んじて生ず。寂たり寥たり。独立して改めず、周行して殆うからず、以て天下の母と為すべし。吾れその名を知らず。これに字(あざな)して道と曰い、強(し)いてこれの名を為して大と曰う。大を逝(せい)と曰い、逝を遠と曰い、遠を反と曰う。故に道は大なり、天も大なり、地も大なり、王もまた大なり。域中に四大有り、而(しこう)して王はその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。

 

<本文訳>

二つ(もしくは多数)の物が混じり合う、ということが天地に先立って起きた。混じり合っているのにひっそりとしていて、物寂しい感じで、今では一つになってしまって元には戻らない。次の瞬間には遍く行き渡って安定しだした。この現象を天下の母とするべきだ。だが私はその名を知らない。そこで仮にあざなをつけるとして道(タオ)と呼ぼうか。無理にでも固有名詞を付けるとすれば、大(タイ)(もとはda(通じる・詳しく理解する)ではないか)と呼ぼう。タイを逝(シイ・流れ去る)と呼び、シイを遠(時空的に遠い)(もとはyuanか)と呼び、遠を反(元に戻る)(もとはfanか)と呼ぼう。だから道は(通達している)、天は(通達している)、地は(通達している)、王もまた(通達している)。天下の母の生じた地域中どこでもこの四つの(通達)がある。それから王はその一元(中心)に居る。人は地に従い、地は天に従い、天はタオに従い、タオは自然(といってもタオそのもの)に従う。

 

<解説>

(この章は漢字解釈に想像をふくらませている。天下の母の名に続く四つの名詞だが、老子の遊び心を察して、本来はすべて之繞偏だったのではないかと思い、天下の母の名を之繞偏にしたところ、の字の意味(通じる・詳しく理解する)がピンと来たので、これを用いた。他の表現も之繞偏に統一してかつ意味に変化がなかったので、これでよしとした。)

(またこの章は宇宙物理学的見地からも宇宙発生論にヒントを与えている。それは、半物質ブラックホールと物質ブラックホールとの衝突である。しばらくは単純にプラスされたブラックホールの重力なかで対消滅が起き、次に質量が急激に消滅してブラックホールはポテンシャルを失い、それに押し出されるようにして膨大なエネルギーや光や重力波と共に物質が飛散することになる。この章に照らせば、強いて名づければこういった対消滅宇宙モデルが見えてくる。宇宙の中枢(特異点)は王であるとさえ明言している。しかも老子は宇宙の外側の世界を示唆しており、さらにはタオの自然法則が宇宙の外側までには及んでいないことを暗示している(域中に...)。おそらくこの宇宙の外側の状態というものが、タオの精液であり遺伝子というのであろう。半物質ブラックホールと物質ブラックホールがそれぞれタオの卵子とタオの精子という見方も可能だろう。そうすれば卵子と精子(ビッグバンが天下の母であるから)から生まれたこの宇宙は赤ん坊となるのだから、つまるところ柔らかでタオを貴ぶ(貴ぼうが蔑もうがそれがもともとの有り様である)、という根拠ともなる。前章で唯物論を唱えたかにみえて、この章では唯生論ともいうべき発想である。宇宙を赤ん坊という生命と見なせば地球の存在は赤ん坊の一個の細胞であるし、宇宙を唯物的に観ずれば地球の存在もただ大海の泡沫というわけである。このようにどちらの立場に立ってもうまく応じてくる在り方に、わたしは千変万化のタオを感じるのである。)

 

(老子の説くところは本当に大きく広い。なにを言わんとしているのかと考えるとき、想像力が乏しいと、うまく訳せない。身近にあるものに当てはめてみてもどうもうまくいかない。ところが、宇宙とのつながりを想像するとたちまち一言一句がピタッと一致する。)

 

<真贋>

こういった太極を観ずる視野の広さも、老子の特徴の一つであろう。小さな事には拘らず、いつも大きく大雑把に扱い理解する性格が顕著であることから、真作とする。

第二十六章 タオを知る順序も大切

 

<本文書き下し>

重きは軽きの根。静かなるは躁がしきの君。是(ここ)を以て君子は終日行くも輜重を離れず、栄観有りと雖(いえど)も燕処して超然たり。奈何(いかん)ぞ万乗の主にして身を以て天下より軽しとせんや。軽ければ則ち本を失い、躁がしければ則ち君を失う。

 

<本文訳>

本当に重い物を持ったことがなければ、軽いかどうかが解らないように、軽さを理解するにはまず重さを知らねばならない。だから重さは軽さの「根本」だと言うのだ。本当の静けさを知らなければ、今の自分の環境が騒がしいのかどうかさえわからない。だから静けさは騒がしさの「君主」だと言うのだ。聖人はこの事をよく理解しているから、朝から晩までぶっ続けで歩く(長距離を旅する)ときも、荷車から離れない(荷車があれば速度を出せない)。立派な金色の台座だろうが腐った切り株だろうが、関心もなく腰掛けてくつろいでいて、悟った人のように満足している。そりゃあ荷車を棄てて軽装で馬に乗れば早く行けるかもしれないがね。それじゃあ本当の重さと遅さを理解しているとは言えない。もし自分が軍神ならば、どうして自分から天下に謙るだろうか。自分を賢いとか早いとか強いとか思ったら、この軍神や斥候のように、静けさや軽さを忘れてしまう。静けさ軽さを忘れるということは、「根本」や「君主」を忘れてしまうということだ。

 

<解説>

(つまり「根本」「君主」は低くあることで自らを安定させるための、一種のタオの働きだといっているのだろう。老子が国盗り合戦を嘆いたかどうかはわからないが、少なくとも軍事関係者にもタオが行き渡ればいいなぁと感じていることは見て取れる。)

 

<真贋>

もしかしたら老子の作かも知れないが、これまでの老子の内容と比較すると、視野が狭い。老子が嫌うはずの「万乗の主」を尊ぶような文脈も妙だし、贋作の可能性が高い。

第二十七章 反抗期の人へ。壮年期の人へ。その1 ◎

 

<本文書き下し>

善行に轍迹(てっせき-足跡)なく、善言に瑕謫(かたく-欠点)なし。善数は籌策(ちゅうさく-計算)せず、善閉は関鍵なきも開かれず、善結は縄約なきも解かれず。是を以て聖人は常に善く人を救う。故に人を棄つる無し。常に善く物を救う。故に物を棄つる無し。是を襲明と謂う。故に善人は不善人の師なり。不善人は善人を資(と)るなり。それ師を貴ばずそれ資って愛せざれば、智ありと雖も大いに迷う。これを要妙と謂う。

 

<本文訳>

善い行いは跡が残らないものだ。善い言葉は突っ込みどころがない。善いタイミングとは自然な瞬発性にまかせられているもので、計算では得られない。善い用心とは鍵をかけたりしなくても、誰も踏み込まない状況にもっていくことをいう。善い約束とは、法律がなくても誰も破ったりしない状況そのものをいう。聖人はこのことをよく理解しているから、いつも自然体のままで善をして人を救う。だから偶然漏れた人が不幸になることがない。いつも自然体のままで善をして物を救う。だから偶然ゴミが出て処分されるようなことがない。こういう在り方を明るさ(タオ)の受け継ぎという。だから善人は俗人や悪人を感化する。俗人や悪人は、善人をいつの間にか受け入れる。善人を貴ばず受け入れなければ、どんな切れ者でも最後には人生に迷うことになる。この戒めを、不善人に必要な不思議な働き、といっておこう。

 

<本文意訳>

(見てくれと言われて善行を見せられても、偽善だと言わざるを得ないが、人知れず善行を積む姿は見る人に感激を与える。偽善でない善行というのは、跡が残らないものだ。誰かに反論されたのは、君の言葉がその人を傷つけたからだ。偶然と必然が入り混じっているのが自然な状態だ。機械のように必然だけなのは自然じゃない。自転車に鍵を掛けるよりも、誰も欲しがらないようなボロ自転車に敢えて乗るほうが善い用心だ。鍵を掛けなくても誰も盗らないし、無くなったって気にならない。契約の法律を六法に規定するよりも、お互いに契約を解除してもなんの利益にもならないような約束をするほうがいいということだ。

どんなに知恵があっても、その知恵を悪行に活かしたのでは、すぐに破滅がくるから、結局その人自身のためにもならないわ、悪行をされた人からは怨みを買うわ、いつまでも噂されるわで、これほど非建設的なこともなかろう。だから善人に感じて改心すれば、タオに沿って安全に生きることができる。君の人生の道程に、これを持って行きなさい。これは要妙という知恵だ。)

 

<真贋>

無矛盾且つ老子の特徴が現れている。真作。

第二十八章 反抗期の人へ。壮年期の人へ。その2 ◎

 

<本文書き下し>

その雄を知れば、その雌を守りて、天下の谿と為る。天下の谿となれば、常徳は離れず、嬰児に復帰す。その白を知れば、その黒を守りて、天下の式と為る。天下の式となれば、常徳はわず。無極に復帰す。その栄を知れば、その辱を守りて、天下の谷となる。天下の谷と為れば、常徳は乃ち足りて、樸に復帰す。樸は散じて、則ち器と為る。聖人はこれを用いて、則ち官長と為す。故に大制は割かず。

 

<本文訳>

(おそらく前章の続きになっていると思われる。

不善人に必要な不思議な働きのことを要妙と言ったが、ひとたび要妙の逞しさに気付けば、それでもって要妙のしなやかさをカバーできるから、君は自然に天下の窪地のように生命力に富んだ存在になっているだろう。ひとたび窪地のように豊かな心を持てば、もはやタオは抜け出たりしない。君はいついかなる時も常にタオの徳を備えた人になって、嬰児のようにどんなことがあっても怒ったりしないだろう。要妙の潔白さを知れば、それで要妙の腹黒さをカバーできるから、天下の人々が手本にしたがるような人になるだろう。人々が君を手本にするようになれば、君のタオは間違っていないということだ。そのとき君の心は宇宙の外側の世界と繋がっているだろう。要妙が与えてくれる栄がわかれば、それで辱の部分をカバーできるから、しまいには天下の谷となる。天下の谷のように深くゆったりと許容する存在になることができれば、常のタオは満ちあふれて、君は本当の自分を発見する。本当の自分を見つけることができれば、それを材料にして様々なやる気が生まれる。やる気は器のように、内容を問わない。聖人はそんなやる気に満ちた人に長官の地位を与える。やる気を部分的に利用したりしないで、どーんと丸ごと任せてその人に全力を発揮させるのだ。

 

<本文意訳>

(この前の章で不善人がそこから脱却するための心構えを説いて、この章では腐敗した心をタオにつなげて、建設的なやる気のパワーを発生させる方法を説いている。やがて人々に尊敬されるようになったら本物だ。本物になったら、聖人に会いに行けばいい。聖人は君を立派な役職に登用してくれることだろう。)

 

<真贋>

前章に同じ。真作。

第二十九章 この世はタオの入れ物のようなものだ ◎

 

<本文書き下し>

天下を取りてこれを為(おさ)めんと欲するは、吾その已むことを得ざるを見る。天下は神器なり。為むべからざるなり、執るべからざるなり。為す者はこれを敗(やぶ)り、執る者はこれを失う。凡そ物は、或いは行い或いは随い、或いは歔(は)き或いは吹き。或いは強く或いは弱く。或いは挫き或いはこぼつ。是を以って聖人は甚を去り、奢を去り、泰を去る。

 

<本文訳>

世界を支配して意のままに操りたがる者は、私にはその者の欲望がしまいに暴走することが目に見える。なぜならこの世界は人間界も含めてタオと繋がっているから、タオの器なのだ。タオの器をいじくろうというのにタオを知らないのだから、ろくな事が起きない。タオを知らぬ者はこの世に作為をしかけたり、私物化したりしてはいけない。もしそんな人間がタオの器に作為をしかければ器を壊してしまうだろうし、私物化すれば器そのものが消え失せてしまうだろう。物事(タオの器)は自然にうまく順応し変化し循環していて、それ以上いじくる余地がない。ほうっておいても、時には創造もするし時には養いもするし、時には実力行使だし時にはうまく流すし、時には強引に時には柔軟に、時には奪うし時には与える。こんなものを扱おうというのだから、意のままに支配など出来るはずがない。聖人はこのことをよく知っているから、自分が行き過ぎていないかどうか注意して、自分が贅沢になっていないかどうか注意して、自分が傲慢になっていないかどうかに注意する。聖人はタオの器がとても神妙なのを知っているから、タオの器をどうこうしようなんて思わずに、むしろ自分の存在をタオの器の中に溶け込ませようとするのだ。その上でタオがそう望むなら天下を執ることもあるかもしれないが、決して執着したりしない。

 

<真贋>

桃源郷を目指す老子が書きそうな内容だし、前、前々章から続く不善人を諫める内容の流れからも、真作であろう。

第三十章 タオに歯向かうと老いる

 

<本文書き下し>

道を以て人主を佐くる者は、兵を以て天下を強くせず。それ事の還るを好む。師のおる所には荊棘(けいきょく)生じ焉、大軍の後には必ず凶年あり。善くする者は果(すく)うのみ。あえて以て強を取らず、果いて而も矜ることなく、果いて而も伐ることなく、果いて而も驕ることなく、果いて而も已を得ず、果いて而も強くすることなし。物は壮んなれば則ち老ゆ。是れ不道と謂う。不道は早く已む。

 

<本文訳>

君主を補佐する者がタオの人ならば、富国強兵策などは執らない。タオの人は物事が自然に自分の居場所に還っていくのを好む。戦争のあとには食べることも触れることもできないイバラばかり生えるし、大軍のあとには必ず食糧不足になって飢饉が起こる。善く君主を補佐する者は、物事の自然治癒力を助けることしかしない。善い芽を育てはするが、悪い芽を摘んだりはしない。悪い芽が自ずと善い芽に変われるように働きかけることならする。悪い芽の利用価値を見つけて、善い芽とすることならする。だから強制力など必要ないから、あえて強さを求めないのだ。こうして物事を救ってゆくのだが、誇ったりしないし、自慢したりしないし、威張ったりしないし、自分のために財産をこしらえたりしないし、そのすばらしい仕事を盤石のものにしようともしない。なんでそんなことができるか。それはタオの人が次の事を知って実践しているからだ。「物事は盛んになるほど早く老いる」。これはタオに歯向かうことという知識だ。タオに歯向かえば、かえって何もしないより早く寿命を迎えるだろう。

 

<真贋>

既に説かれた内容だし、追加された教理もあたら名含みもない。贋作。

第三十一章 人に勝つことは、人を殺すこと ◎

 

<本文書き下し>

それ佳兵は不祥の器なり。物或いはこれを悪む。故に有道者は処らず。君子居れば則ち左を貴び、兵を用うれば右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器に非らず。已むを得ずしてこれを用うれば、恬淡を上と為す。勝つも美とせず。而るに之を美とする者は、是れ人を殺すを楽しむなり。それ人を殺すを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得べからず。吉事は左を尚び、凶事は右を尚ぶ。偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。言ふこころは喪礼を以て之に処るなり。人を殺すこと衆(おお)けれは、悲哀を以てこれに泣き、戦勝すれば、喪礼を以てこれに処る。

 

<本文訳>

優れた兵士や優れた兵器は、不吉な道具だ。なぜ不吉なのか。だれもが武器を使われることを嫌うくせに、だれもが武器を手に入れたがるから、始末が悪いのだ。だからタオの人はこんなものに関わらない。立派な君子は、着席するときは下座を探すし、兵を使う時は上座を与える。兵は不吉な道具だから、君子の道具ではないのだ。もしやむを得ず兵を使わねばならない状況に陥ってしまったなら、君子はしっかり心を落ち着けて、出来る限り使わずに済むように慎重に行動して、勝っても美談にしないものだ。なぜなら人の命が損なわれたこと、相手の勝利が奪われたことに気を配らずにはおれないからだ。ともすれば、勝ちを誇って自慢する者は、人を殺すことを楽しんでいるようなものだ。人を負かして喜んでいるようなものだ。そんなふとどき者は、天下に志を遂げるべきではないし、遂げることもできまい。

いいまつりごとは華やかに着飾って行い、わるいまつりごとは黒く地味な服装で行うものだ。その相手を負かした時のこころは、葬儀に参列した時に、喪主の気持ちに配慮して頭を下げるのと同じ理由だ。

殺してしまった人が多ければ、悲哀をもってこの惨事に泣き、戦いに勝てば、葬礼をもってこれにあたるのが、タオに沿った君子の在り方だ。

 

<解説>

(世界的に日本は治安がいいだとか平和だとはいえ、精神を病んだ人が増えている。精神を病むことの最大の害は、自覚症状がないということである。金銭のために他人を不幸にし、親が子を殺し、子が親を撲殺し、夫が妻に、妻が夫を手に掛ける。挙げ句の果てに、「どうして人を殺してはいけないのか」さえ分からない子供が増え続け、その問いかけに答えられない大人が集まって相談しては喧嘩をする。子供たちはそんな大人の背中をみて、喧嘩をして相手を負かすことを覚える。そんな子供たちに大人が注意したところで、だれが聞くだろうか。子供にそんな悪い手本しか見せられない大人は救いようがないから、私は子供たちにだけ教えよう。一人でも人を殺すということが、どういうことかを。

 

どうして人を殺しちゃいけないか

 

10人がそれぞれ1人ずつ人を殺せば、死者が10人でるのは分かるかい。じゃあ、63億人の人が1人ずつ人を殺すだけで、63億人の人が死ぬことは分かるかい。63億人というのは、地球の全人口のことだよ。一人がたった一人殺すだけで、絶滅に繋がるんだ。だれにでも殺したい人が一人や二人いるということの恐ろしさ、殺された人の家族の気持ちに、想像がつくかい。人を殺してしまった後に、いつまでも消えずに残り続ける後悔と自責の念に、想像がつくかい。他にこれほど不幸なことはないんだよ。)

 

<真贋>

もし前章が贋作ならば、不善人を諫めるという内容でさらに本章へと遅滞中断なく続くことになり、自然である。人が求めて止まないパワー(有利な状況を構築して相手の選択肢を奪うこと)の危険性について諫めており、内容も秀逸。真作。

第三十二章 タオは海と天との間の空間のように、すごく広いのに名前が無い

 

<本文書き下し>

道は常に無名なり。樸は小なりと雖も、天下に能く臣とすること莫きなり。侯王もし能くこれを守れば、万物は将に自ら賓(したが)わんとす。天地相合して、以て甘露を降す。民はこれに令すること莫くして自ら均(おさま)る。始めて制すれば名有り。名も亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まるを知らんとす。止まるを知るは、殆うからざる所以なり。道の天下に在るを譬うれば、猶お川谷の江海に於けるがごとし。

 

<本文訳>

タオと名づけないと説明できないから仮にタオと言って話しているけど、本当はいつでもどこでも誰にも私にも名づけようのないものだ。切り出したばかりの木材が、イスなのか机なのか家の屋根なのかわからないように、名づけようがない。切り出したばかりの木材は、例え小さくたって、天下が従わせることはできない。坐ろうにも坐れないし、物を置こうにも置けないし、雨を防ごうにも防げないからだ。人の上に立つ者がこういう在り方を守ることができれば、万物は自然と味方になってくれる。なぜならその態度だけで、どんなものも害さずに、どんなものにも利益を与えるから、どんなものでも仲間になろうと寄ってくる。そうなれば国境はなくなって思想の違いも和して、天下太平の前兆として空から降ると云われる甘い露がふってくるだろう。そうなれば民衆は法律で縛ったり行政が手を焼いたりしなくても、勝手にうまく治まってくれる。この状態が最初に言った切り出したばかりの木の状態だ。国境も国の名前も無くて、無名だ。もしここで法律を作って制定すれば、たちまち人々は分裂していろんな国が生まれるから、国名がたくさん出来ることになる。たくさんの国が既に出来てしまえば、戦争の教訓から、また行き過ぎを知るようになる。何事も行き過ぎを知れば、危険に踏み入ることはない。無名のタオが世界に満ちている様子を例えれば、谷の広大な空間が、元は海の空間であったかのようだ。

 

<解説>

(老子は谷を構成している山々を見ているのではなく、山の間に広がる空間の広さを言っているのだ。老子は海を構成している水を見ているのではなく、その上に広がる空間の広さを言っているのだ。山々の上の空間には「谷」という名前がついているが、海の上の空間には名前が付いていない。当然谷よりも海の上の空間のほうが広いのだから、海の上の空間は谷の元となる無名のタオだと言っている。山が海から空間を切り出して谷を造った、と言っている。また、人間の政治の移り変わりも無名と有名の状態を繰り返すと説いているが、これは数千年というタイムスケールで観た歴史観である。人類は戦争の行き過ぎを知ることで集団安全保障という知恵を生み出したが、これは西暦でも1950年も経ってからのことである。そして現代、核抑止という一触即発の理論によって平和は維持されている。これが行き過ぎであると気付く時、果たして人類は生き残っているだろうか。核戦争で人口が絶滅寸前まで減って、おかげで国も国境も無くなって無名の平和な原始的統治状態に戻った、などという結末は避けたいところである。)

 

<真贋>

老子は海を見たか。海が語られるのは本章のみである(47章との関連からも妙である)。老子は仏を見たか。甘露は仏教的表現である。浮屠の作である気がする。

第三十三章 たとえばこんな人はタオに根ざしている

 

<本文書き下し>

人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は有力、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強(つと)めて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して而も亡びざる者は寿し。

 

<本文訳>

人の主義主張を聞いて理解を示せる者は智があるし、自らを鑑みて省みられる者はさらに明がある。人に勝つ者は力があると言えるし、自らの弱さに勝つ者はさらに強い。満足を知った者は幸福を手に入れて心が富むし、自らを奮い立たせて行う者には志がある。このなかのいずれか一つでも維持できる者は、久しく続いて簡単には潰えない。肉体が死んで火葬されたといっても、書籍や思想が人々の記憶に残る者は長寿だ。簡単に潰えず、長寿であるということは、すなわちタオに根ざしているということだ。

 

<解説>

(これは、長く残すことが目的なのではない。タオに則しているかどうかわからないときに、その目安として時の長短で判断ができるよ、と説いているに過ぎない。器に池の水を汲もうとするとき、タオを知らない人は池の方を持ち上げて、池を底土ごと傾けて水を器に流し込もうとする。大工事になるし、そんなエネルギーはそういつまでも続かないから、すぐにそんな仕組みは廃止されることになる。逆にタオを知っている人は、たとえ池を傾けることが主流の世にあっても、敢えて器の方を低く下げる。器が池の水面より低くなったとき、水は自然と(自ずと)器に流れ込む。このほうがタオに沿っているから、エネルギーも極小で済むし、この方法は長く続く事になる。老子は当然の事を言っているだけなのだが、タオがあまりにも広大で時間的にも遠大なために、なかなか想像がつきにくくて、人々は解釈に苦しむのである。

とはいえ、独裁者ヒトラーはどうか。彼も歴史に残ってはいるが、それは戦争をふっかけてユダヤ虐殺をした悪人としてである。彼もまたタオに根ざしていたのだろうか。状況は複雑である。彼は当時のドイツや日本にはこの上なく支持されていたし、期待の的であった。彼自身も智があったし、明があったし、力があったし、強さがあったし、志があった。だからあれほどまでに隆盛した。しかし彼はもっと根本的なタオを知らなかった。盛える者は早く老いる。足るを知らざる者は暴走する。彼は周辺諸国の反撃を受け、苦悩の内に自殺するという報いをうけた。だが、歴史には残った。ただし、独裁者としてであった。なにやら、タオが裁判官となって、妥当な判決を下したかのような名の残り様である。老子の教えるタオは、一様な結果を生むのではなく、複雑に絡み合っていて、ヒトラーのように半分はタオに沿い、半分はタオに反するような生き方をすれば、死後歴史に残っても汚名が付いたり、隆盛しても苦悩のうちに自殺したり、非常に均衡のとれた結末となるのだ。だが全体として観れば、あっというまの出来事であって政治体制も崩壊して残らなかったのだから、おおもとではタオに反していたと観るのが妥当であろう。なぜなら、真のタオの人は世に名を遂げることすら厭うからである。タオはいくつもの層になっていて、深層部や表層部がそれぞれ個別に影響していると考えることもできよう。)

 

<真贋>

老子にしてはあまりにも荘である。知・力・勝・富・強を尊んでいるし、喪失・死を危ぶんでいる。100歩譲ってこれがまったく逆であったとすれば真作にみえるが、それでもこれまでの内容を踏襲した内容でしかない。贋作である。

第三十四章 ぼくらが生まれる前の世界と、死んだあとの世界は、同じくタオの胎内だ

 

<本文書き下し>

大道は汎として、それ左右すべし。万物これを恃みて生ずるも辞せず。功成るも名は有らず。万物を衣養するも主とならず。常に欲無きなり(一章参照)。小に名付くべし。万物帰するも主とならず。名付けて大と為すべし。その終に自らを大と為さざるを以て 、故によくその大を成す

 

<本文訳>

大きなタオはあふれ広がるように存在していて、深層部のタオと表層部のタオの間を取り持つように作用している。万物はここから生じているが、生じた時には忘れてしまっていて、この大きなタオの存在について語ることがない。語られる事がないから名前がない。万物を包み養っているのに自己主張しない。常に欲がないかのようだ。だから小さいもののようにもみえる。万物が死ぬ時はみんなこの大きなタオに帰るのに、やっぱり自己主張しない。とすれば大きなもののようにもみえる。だけどやっぱり自己主張しないから、かえってよく主張が通っているともいえる。

 

<本文意訳>

本当に影響力の大きなものは、影響力がないかにみえる。ほんとうに自己主張の強いものは、主張がないかにみえる。欲の無いものは妙を知っており、主とならぬもののところには万物が帰す。欲深と無欲はもともと同源なのだから、大道は無欲でもあるし欲深でもある、とも言える。大道には、これらタオの特徴がすべて当てはまる。

 

<真贋>

内容的には間違いではないのだが、やはり1章に準ずる内容でしかない。老子ほどの賢者が、くどくどと同じようなことを、しかもとぎれとぎれに書くとは思えない。贋作。

第三十五章 無のエネルギーは、無尽蔵で尽きない。 ◎

 

<本文書き下し>

大象を執りて天下に往けば、往きてしかも害せず、安平は大きく、楽と餌とは、過ぎたるの客をも止める。道の口より出でて、曰わく、淡として兮れ味無しなり。これを視れども見るに足らざるなり。これを聴けども聞くに足らざるなり。これを用うれば既すべからず。

 

<本文訳>

タオの人が都会で暮らすとしよう。俗世間の欲渦の中心にいるにもかかわらず、誰かに害されたりすることはなく、誰かを害することもなくて、心は安らかに落ち着いている。娯楽と美食は急ぎ足の人々の足も止めるが、これらはすぐに尽きてしまうものだ。

一方、タオを口頭で説明すると、人々はこう言う。話がまるで面白くないじゃないか。そのタオを見て確かめようにも見えないじゃないか。そのタオを聞いて確かめようにも聞こえないじゃないか。タオなんてものは始めから無いんじゃないか。・・・。

・・・そう思うのはもっともだ。タオはこのように虚だからこそ、いざ用いはじめたならば永遠に尽きない。

 

<本文意訳>

万物はタオから生じてタオに養われているのだが、タオは利用することもできる。しかもタオは無でもなく有でもないのだから、使っても減らない。そもそも減るということがなければ増えるということもない。だから永遠に尽きないほどたっぷり豊富なのに、つかみ所がないから人々は気付かない。この崇高な孤独感と、滑稽な残念さはなんだろうね。

 

<真贋>

老子が自分自身に言っているように見れば真作だし、人に言い聞かせているように見れば贋作だ。老子の暗いような性格に鑑みれば、真作であろう。

第三十六章 秘技・タオの政治利用手法。名づけて微明。 ◎

 

<本文書き下し>

これを歙(おさ・ちぢ(ゆる、ではないか))めんと将欲(ほっ((将は、俗欲と区別しているのではないか))すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。これを弱めんと将欲すれば、必ず固くこれを強くす。これを廃せんと将欲すれば、必ず固くこれを興す。これを奪わんと将欲すれば、必ず固くこれを与う。これを微明と謂う。柔弱は剛強に勝つ。魚は淵を脱すべからず。国の利器は、以て人に示すべからず。

 

<本文訳>

(これをゆるめようとおもったら、めいっぱい張ればいい。そうすればこんどは伸びきって弾性を失ってたるむ。無理に弛ませたものではないから、もう勝手に張ることはない。

同じように、これを弱めようと思ったら、めいっぱい強くすればいい。そうすればいずれ自身を傷つけて弱くなる。無理に弱体化させたわけではないから、怨恨を身に受けることもなければ、抑え続けておく力も必要ない。

同じように、これを廃止しようとおもったら、思う存分興せばいい。みんなすぐに飽きがきて、見るのも嫌になる。そこで廃止するから、反対する者はだれもいない。

同じように、これを奪おうと思ったら、めいっぱい与えればいい。余りすぎて邪魔になって価値がなくなり、人が盗っても誰も気にしなくなる。こうなってから徴収するから、物惜しみする者はだれもいない。

こういった働きを知ることを微明という。

柔弱が剛強に勝つことは説明したように、タオの働きは見た順どおりではないのだ。

だからといって、これを知ったかぶって言いふらすのはよくない。言いふらすほどに、それだけ廃れるからだ。この微明は国の利器たりえるが、人に教えるべきではない。それは魚が、捕まらないためには淵から出るべきでない、と思っているのと同じ気持ちだ。

微明のタオは政治利用できるが、公にすると廃れる。)

 

<真贋>

タオの利用方法の奥義のような内容である。老子の性格も良く出ている。真作。

第三十七章 無為の為はタオに繋がるものの基本 ◎

 

<本文書き下し>

道は常に無為にして、しかも為さざるは無し。侯王もしよくこれを守れば、万物まさに自(おのずか)ら化せんとす。化して作らんと欲すれば、吾まさにこれを鎮むるに無名の樸を以てせんとす。無名の樸は夫れまたまさに無欲ならんとす。欲あらずして以て静かならば、天下はまさに自ら定まらんとす。

 

<本文訳>

タオはいつでも大変な苦労をする思いで何かをしているんじゃなくて、まったく何も考えずにそこに居るだけなのだが、こういう現象を引き起こす。人間で言えば鼓動や脈拍、呼吸や胃腸の活動のようなものだ。呼吸を止めることが人間にとって苦しいことで不自然なことであるように、タオにとっても無為の為が自然で楽な在り方なのだ。行政の主がこの在り方をそのまま執政に取り入れたらどうなるか。その方向性があまりにも自然なので、反対派とぶつかったりしないから、万物は自分から変化に応じて変わろうとする。ただし、行政の主が私利私欲を捨てることが要件だ。万物のほうが勝手に変化に応じて変わるのだが、もしタオに反する方向に変わろうとしたなら、これを鎮めなければいけない。私なら、無名の素朴な素材をつかって鎮める。無名の素朴な素材とはなにか、それは無欲さに触れた時に出る人々の感情だ。強欲な人間に会うと身構えたくなるが、無欲な人間に会えば安心するだろう。それを利用して相手を落ち着かせなさい、というわけだ。まぁ完全に無欲な振る舞いを自然体でできるのがいちばんだけど、大抵無理だろうから、はじめは無欲なようにうまく演技をすることだね。無欲な人は静かで無邪気で素朴で木訥でユニークなものだ。演技が成功すれば、タオに反して浮き足立ってる相手を安心させられるから、安心した相手は自分から改まるだろう。この方法なら、力で鎮圧したわけじゃないから、再発する危険が皆無になる。この自然な治まりかたの利点を、私は言っているんだよ。

 

<本文意訳>

自虐ネタで人気を博したお笑い芸人のヒロシなどがこれにあたる。自虐ネタは自分の弱みを見せることだが、弱みを見せるにはそれだけ無欲でなければできない。人々はその無欲さに触れて、各々が安心するのだ。自らを大きく見せようとはせず、かえって世俗的なくだらないことを木訥にふるまってネタにするから、人々にわかりやすいし、反対派を鎮圧するに至る。演技でもいいのだが、ウソはいけない。もし皆が、ヒロシのネタは作り話で出世するためのウソだ、と思い始めたら、ヒロシは危うい。無欲は強欲に変わり、自虐は権謀に変わるからだ。

 

<真贋>

まず真作。

 

老子 下篇 -徳経-

 

第三十八章 無為の為から生まれる徳とはどういうものか ◎

 

<本文書き下し>

上徳は徳とせず、是を以て徳有り。下徳は徳を失わず、是を以て徳無し。上徳は為す無くして以て為す無し。上仁は之を為して以て為す無し。上義は之を為して以て為す有り。上礼は之を為してこれに応ずる莫ければ、則ち臂(ひじ)を攘(はら)いてこれをひく。故に道を失いて後に徳あり、徳を失いて後に仁あり、仁を失いて後に義あり、義を失いて後に礼あり。それ礼は忠信の薄きにして乱の首、前識は道の華にして愚の始め。是を以て大丈夫は其の厚きに処りて其の薄きに居らず、其の実に処りて其の華に居らず。故に彼を去りて此を取る。

 

<本文訳>

本当に徳のある人というのは、行いもせず考えもしない。徳が有るとか無いとかに拘ったりしないものだ。気にしてさえいないということは、人の目を気にして演じた作り物じゃないと分かるから、これこそ本当の徳なのだ。徳のない人というのは、行いもすれば考えもする。いつも「私には徳があるだろうか無いだろうか」と気にしているし、徳を失わないためにはどう振る舞えばいいかいつも考えている。こんなのは偽物だから、徳がないということだ。さて、本当に徳のある人は徳について考えたりさえしないから無為だといえる。徳のない人は徳についていつも弁じているから有為だといえる。有為は偽物に繋がって、無為は本物に繋がっていることがわかるかい。無為の為はタオに繋がっている事だと前に言ったね。本当の徳の人というのは、同時にタオの人でもあることがこれでわかる。

仁・義・礼なんて言葉があるけど、あれだって同じだ。本当に仁(愛)のある人というのは、行いはするが考えはしない。愛がどうこうなんて考えたりせずに博愛行為を実践しているものだ。母親とかマザーテレサみたいな人だろう。考えるより先に身体が動いてる。本当に義(正義感)のある人というのは、行いもするし考えもする。相手を屈服させたりしない。自分自身の横暴な性格こそ屈服させるから、本物の義の人なのだ。暴力団の幹部のような狡猾な連中だろう。本当の礼というのは、行いと考えを強制させる。こっちが頭を下げたのに相手が頭を下げなければ、腕まくりして相手の頭を押し下げることだ。さしずめ児童教育の教諭といったところだ。

さて、先に有為は偽物に繋がってると言ったけど、仁・義・礼にはどれにも有為が入ってることに気が付いたかい。無為の無為たる本物の徳には、足下にも及ばない。

だから、仁・義・礼なんてのは本当はない方がいいんだ。警察があるということは犯罪があるということだ。犯罪がなければ警察は無いだろう。裁判所があるということはケンカがあるということだ。ケンカが起きないようにタオで治めていれば、裁判所なんて初めから必要ないのだ。だから、タオが失われてしまったから裁判所なんかが出来たんだ。タオが失われてしまったから警察なんかが出来たんだ。タオが失われてしまったから仁・義・礼・智・信なんかができたんだ。裏切る人が出ないようにタオで心が豊かに治まっていれば、仁・義・礼・智・信なんて教えはいらない。逆に言えば、礼が重んじられる時代だということは、人々の心から忠信の気持ちが薄れている時代だということだ。人々の忠信の気持ちが薄れているのだから、礼に穴が開いただけで一触即発、いつ乱が起きてもおかしくない。残念なことに私は、たまたま礼を失しただけで、なんだこいつはとすぐに腹を立てて嫌がらせをして、相手もまた腹を立ててケンカになる、ということを何度も見てきた。人を出し抜くということは、タオの形骸にすぎず、愚の始まりだ。なにか抜きん出たものを獲得したら、他人にも与えてやるがよい。

立派な男子はこのことをよく知っているから、タオの厚い無為の中に居て、タオの薄い有為の中には居ないように心がけている。本物の徳を実践していて、偽物の徳は行わない。だから、他人の目なんか気にせずに無為のほうを重要視するのだ。

 

<真贋>

徳のなんたるかを体系的に、消去的に説いている。無いものを説くには消去法しかないからだ。それほどまわりくどい方法をきっちり行っているのだから、真作と思いたい。老子の時代に仁義礼といった言葉が確立していたのかどうかは不明であるが。

第三十九章 矛盾を止揚すれば無為を獲得できる

 

<本文書き下し>

昔の一を得た者。天、一を得て以て清し。地、一を得て以て寧(やす)し。神、一を得て以て霊。谷、一を得て以て盈つ。万物、一を得て以て生ず。侯王、一を得て以て天下の貞と為る。其れこれを致すは一なればなり。天、以て清きこと無くんば将(は)た恐らくは裂けん。地、以て寧きこと無くんば将た恐らくは発れん。神、以て霊なる無くんば将た恐らくは歇まん。谷、以て盈つる無くんば将た恐らくは竭きん。万物、以て生ずる無くんば将た恐らくは滅びん。侯王、以て貞なる無くんば将た恐らくは蹶れん。故に貴きは賤しきを以て本と為し、高きは下きを以て基と為す。是を以て侯王は自ら孤・寡・不穀と謂う。此れ賤しきを以て本と為すに非らずや。非ずか。故に数々(しばしば)誉れを致せば、誉れ無し。ろくろくとして玉のごとく、珞珞として石のごときを欲せず。

 

<本文訳>

一とは、二元対立から生ずる矛盾を超えた考え方のことだ(二章参照)。昔から一を得ている者は、天・地・神・谷・万物・為政者だ。天が清いのは、一を得ているからだ。地が安らかなのは、一を得ているからだ。神が霊妙なのは、一を得ているからだ。谷が充ちているのは、一を得ているからだ。万物が生まれるのは、一を得ているおかげだ。為政者が天下の長となれたのも、一を得たおかげだ。

もし天から一を取り去れば、天は汚れて裂けてしまうだろう。もし地から一を取り去れば、地は荒れ果てて崩れ去るだろう。もし神から一を取り去れば、神は俗句となって言うも憚られるだろう。もし谷から一を取り去れば、谷は渇いて涸れるだろう。もし万物から一を取り去れば、万物は産むことを止めて死滅するだろう。もし為政者から一を取り去れば、為政者はたちまち卑賤になって倒れるだろう。

だから、貴いものは卑しいことを基本にし、高いものは低いものを基本にしなければならない。「貴い」「卑しい」という相反する二元があれば、「卑しい」方を基本にすえて、そのなかで貴くある、というタオの順序に基づいて一元化すれば、一を得るということだ。「高い」と「低い」という二元の状態を、「低い」ほうを基本に据えて高く望めば、二元は一元化され、それはそのまま一を得るということだ。偉い人はこのことをよく知っているから、自分のことを不肖とか愚輩とか浅学とかとへりくだって自称するのだ。これは賤しいことを物事の基本にしようとするからじゃないだろうか。ちがうだろうか。

だから、たびたび自分を誉めているようでは、誉れは得られないだろう。玉のようにありたくても美しく見せようとはしないし、岩のようにありたくてもごつごつに見せたりはしない。本当に玉なら美しかろうが透明だろうが玉なんだし、本当に岩ならゴツかろうが丸かろうが岩じゃないか。岩が取り繕おうとしている姿を見ると、本当に岩なのか疑わしく見えるだろう。

そういうわけで、一はタオに沿うことで、天地や神さえも一なしではいられないということだ。一を得るには、まず矛盾を溶け合わせて、つまらない評判のために振り回されないことだ。

 

<真贋>

次章でも述べているように、人間が悪しとすること「汚れる・破れる・崩れる・死滅」などは、タオにとっては単に帰還であり、悪いことではない。さらに、矛盾については2章ですでに述べられた。この章はタオを知る者が書いたとは思いにくい。

第四十章 変化そのものの中に定住するのが、無敵のタオの心構え ◎

 

<本文書き下し>

反は道の動。弱は道の用。天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。

 

<本文訳>

逆流だとか逆行だとか天地返しとか切り返しとか逆転とか反対とか倒錯とかいうことが自然に起きるのは、タオが活発に動いているからだ。弱いかわりに柔軟で、ころころ移り変わるかわりにどこにでも存在するのは、タオの有り様だ。固くこわばると新しい物事に対処できなくなるし、強く強化すればそこを動けなくなってしまう。筋を通すにはそれでもいいかもしれないが、いったん足場がぐらつくと全てが崩れてしまう。タオはぐらつきそのものだから、そもそもぐらつくということがない。一時的に強張るかもしれないが、それもいつかは崩れて柔らかい物に戻るのだ。「何もないところからは生まれるはずがないから、初めから有が有った」だって? じゃあその考え自体は、どこから生まれたんだろうね。はじめはやはり無だよ。

 

<真贋>

不安定の状態を常として安定と化してこそ、有無、生死の妙がわかる。真作。

第四十一章 タオはすごいものなのに、人々は聞くと笑う ◎

 

<本文書き下し>

上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。中士は道を聞けば、存するがごとく亡きがごとし。下士は道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。故に建言してこれ有り。明道は昧(くら)きが若く、進退は退くが若く、夷道纇の若く、上徳は谷の若く、太白(たいはく)は辱(くろ)きが若く、広徳は足らざるが若く、建徳は偸(卑しい)しきが若く、質真(ありのままの質)は渝(かわ)(変わる)るが若し。大方(たいほう)(おおきな四角)は隅なし。大器は晩成す。大音は希声(聞こえない音)なり。大象(かたち)は形なし。道は隠れて名無し。それただ道は善く貸し且つ成す。

 

<本文訳>

(世の全ての人はこのタオの法則のなかで生きているから、人々はもともと多かれ少なかれタオに気づいてもいるものだ。もし人々を三分すれば、上士はタオを聞いたときにすぐさま悟って実践に努める。中士はタオを聞いても、理解していないのか、疑っているのか、怠けているのか、よくわからない。下士はタオを聞いて、なんだそれはと大笑いする。このように馬鹿にする人もいなければ、タオとは言い難い。タオは大きすぎて、日頃小さな物事しか見ない人々には逆さにみえるからだ。だから立言のなかにもこれが載っている。物事は想像通りでないのみならず、その多くは真逆である、と。

タオを正しく解りやすく説くほどに曖昧に聞こえる様子は、明るい道なのに暗い道のようだ。どこまでも真っ直ぐ進めば地球を一週して戻ってきてしまう様子は、進むも退くも戻るかのようだ。平らな道も目をこらせばジャリジャリしている様子は、糸に捻れ目があるかのようだ。自虐的なまでに献身な者が尊まわれる様子は、徳の上なるものが谷のように深く低いところにあるかのようだ。太陽を見て目が眩んで影で何も見えなくなる様子は、白いのに黒いかのようだ。大恩を施す者が敢えて小恵を施さない様子は、広く行き渡る徳なのに不足しているかのようだ。聖人の暮らしぶりが質素で衣食住がまともでない様子は、確固たる徳なのに卑しい人間のようだ。永遠不変の真理は変化し続けることだと言ってしまうのは、不変なのに変化するかのようだ。四角い紙でも目に近づけて水平に見れば角が無くなってしまう様子は、大きな四角は隅が無いかのようだ。何十億年間も進化を続けて今ここに私たちがいる様子は、永遠に未完成なものでも時間をかければ完成するかのようだ。宇宙から様々な電波や光線が届いていても夜空が暗く静かな様子は、大きな音が聞こえない声であるかのようだ。宇宙のほとんどの空間が真空と虚無で構成されている様子は、大きな形というものが形を持たないものであるかのようだ。

だから言うのだ。

タオは隠れていて目では見えないし名前も無い。それなのに善く貸し与えて善く成すかのようだ。)

(本当に重いものは小さい(ブラックホール)、など、現代物理学と組み合わせて理解するといくらでもかんがえられる。それは地上の現象よりも宇宙の現象ほうが「天地の始め」に舞台が近いから、という説明もできるだろうが、私にはむしろ宇宙や物理学など知るよしもない老子が、現代物理学者も学ぶほどの知恵を持っていたということが不思議でならない。老子のタオは宇宙の存在よりもさらに根源的であるようだ。)

 

<真贋>

老子がかように笑われたかはしらないが(きっと笑われたのだろうが)、35章を真作とした関係で、真作とする。老子の性格の一つと見るがゆえである。

第四十二章 数字でいえば、タオを0とすれば、我々は4以降の雑物の集合体 ◎

 

<本文書き下し>

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を(むなしい気/中和する気)もって和と為す。人の悪(にく)む所は、ただ孤(孤児)・寡(少ない)・不穀(不善)にして、王公は以て称と為す。ゆえに物は或いはこれを損して益し、或いはこれを益して損す。人の教うる所は、我も亦たこれを教う。強梁(きょうりょう)(強く盛ん)はその死を得ず。吾は将(まさ)に以て教えの父と為さんとす。

 

<本文訳>

例えばタオから一が生まれ、その一から二が生まれ、その二から三をが生まれ、その三から万物が生まれた、と仮定しよう。三から生まれた万物が陰と陽との二相を持つわけは、元々は二の時があったからだ。つまり、陰陽の二極を中和させて一として観れば、すなわちタオを垣間見ることができる。人の汚点は、孤児、寡学、不善だが、王侯はこれを自称する。このように謙って傲らないから、王侯の地位はかえって貴くみえるようになる(ふんぞり返っていたら、卑しい人間が高い地位にいるだけのようにみえてしまう)。だから物事は、ある時には損させたようにみせて益し、ある時には益させたようにみせて損する。昔の人が教えた格言を、私も受け売りをして教えよう。「乱暴者は、畳の上では死ねない」。格言はたくさんあるが、私はこれを格言の父にしたい。

 

<真贋>

老子にしては理学的であるが、二元対立の間にバランスを保つとか、死を与えれば自らも死を受けるなど、贋作であってもよくできている。真作。

第四十三章 天地や水は、無為のうちに人間に不言の教えを為す。 ◎

 

<本文書き下し>

天下の至柔は、天下の至固を馳騁(ちてい)(馬を思うままに御する)す。無有(形のないもの)は無間(隙間のないもの)に入る。吾ここを以て無為の益あることを知る。不言の教え、無為の益は、天下これに及ぶこと希なり。

 

<本文訳>

天下の柔らかいものは、天下の固いものを思うままに変えてしまう。形のないものは隙間のないものに入る(それ水のことか)。私はこれの働きをみて無為の益の存在を知った。言わなくても教えるということ、しなくても益するという境地は、人の世がここまで至ることは希だ。

 

<真贋>

道経にはいるべき章。真作。

第四十四章 満足して立ち止まった人には、生老病死といえども足下をすくえない

 

<本文書き下し>

名と身とは孰(いず)れか親しき。身と貨とは孰れか多き。得ると亡(うしな)うとは孰れか病(へい)なる。このゆえに、甚だ愛するは必ず大いに費やし、多く蔵するは必ず厚く亡う。足ることを知れば辱(はずかし)められず。止まることを知れば殆うからず。もって長久なるべし。

 

<本文訳>

名声と健康とどちらがいいかと聞かれれば、人々は命より名を惜しむと答える。健康と財宝とどちらがいいかと聞かれれば、人々は財宝だと答える。得ると失うとはどちらが悩ましいことかと聞かれれば、人々は失うほうだと答える。だがね、私の答えはまったく逆だ。愛するものが有ればそのために多くを費やしてしまうし、たくさん貯め込めばそれだけ失いやすくなる(税にしろ盗にしろ死にしろ)ことを知っているからだ。このような弊害を知って、満足を知って、満足心をおこせば、どんな物事からであっても侵害されることはない。引き際を低く設定すれば危なくない。そうすれば長くつづくことだろう。失いっぱなしということもなければ、得しっぱなしということもありえないのがタオだからだ。一瞬だけでもいいというなら、かまわないがね。そんなのは、辛い思い出だけしか残らないのさ。

 

<真贋>

真作にみえるが、実は内容の反復でしかない。贋作だろうか。

第四十五章 もしそれがタオに適っていれば、見た目には寂れているように見えるはずだ ◎

 

<本文書き下し>

大成は欠くるが若(ごと)く、その用は弊(つ)きず。大盈(たいえい)は沖しいが若く、その用は窮まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なるが若く、大弁は訥なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。

 

<本文訳>

大きな完全なものは欠けているようにみえるもので、その利便性は尽ることがない。大きな充ち満ちたものは何もないようにみえるもので、その利便性は乱れない。大きな真っ直ぐなものは折れ曲がっているようにみえ、大きな巧妙さは稚拙にみえ、大きな弁論は訥なようにみえる。運動すれば寒くなくなるし、鎮座すれば暑くなくなる。清く鎮座していることが、人の世のあるべき姿であろう。活気があるからといって長く続くわけではないし、活気がないからといっても乱れているわけではないからだ。人の世がタオに適い大きな活発なものであるとすれば、きっと寂れているようにみえるだろうね。

 

<真贋>

真作。

第四十六章 戦争も、人々が満足を忘れることから起こる。 ◎

 

<本文書き下し>

天下に道あれば、走馬(斥候)を却(しりぞ)けて以て糞(たづくり)(有機栽培)す。天下に道なければ、戎馬(じゅうば)(軍馬)郊(こう)(郊外)に生ず。禍は足ることを知らざるより大なるは莫く、咎めは得ることを欲するより大なるは莫し。ゆえに足ることを知るの足るは、常に足る。

 

<本文訳>

人の世にタオ((タオと道路を掛けているのではないか))が活かされていれば、道を耕して田畑にしても誰も文句を言わないし、軍馬も畑にも入ることなく、その馬糞は肥料になる。人の世にタオが活かされていなければ、軍馬は田畑をめちゃくちゃにしながら進軍して、田畑から離れた国境に並んで糞をする。これというのも国が満足せずに、無限に領土を広げようとするからだ。禍は満足しないことほど大きいものはなく、咎めは物欲に対してなされるほどのものはない。ひとたび心が満足すれば、いくら物が少なくても不足することはない。だからこの満足の働きを知った上で満足心をおこせば、常に飽きあきするほど満ちたりていられるという富をもたらす。

 

<真贋>

足ることを知れという教えは、何度も繰り返したかも知れない。タオは知らずとも、足を知ればすなわちタオだからだ。真作であれかし。

第四十七章 地図を見れば行かなくてもわかるが、タオを知れば地図を見なくてもわかる ◎

 

<本文書き下し>

戸を出でずして天下を知り、(ゆう)(窓)を窺(うかが)わずして天道を見る。その出こと弥(いよ)いよ遠ければ、その知ること弥(いよ)いよ少なし。ここをもって聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為さずして成らしむ。

 

<本文訳>

タオという名の、人の存在も含めた大自然の根源法則を知っているから、戸から出なくても天下の移り変わりに想像がつくし、窓をのぞかなくても天の動きに予想がつく。タオには、大は小を兼ねるに似た性質がある、ということだ。最大をタオとすれば、以下の大中小の存在やはたらきには想像がつく、ということだ。根本の根本を知ってしまっているから、たとえ遠くへ探しに出かけたとしても、新たな発見は少ないだろう、と、まさにこんなふうに予想がつくのだ。だからタオの人は、行かなくても知っていて、見なくても名付けることができて、しようとおもわなくても完成(最頁末参照)する。私がこんなことを書くのは自慢なんかのためじゃなくて、読者の君たちもタオに気づけばいいなぁと思うからなんだ。

 

<真贋>

小魚を煮るようなもので、一つ一つの小さな事象を見て回らなくても、火加減と時間を知っているのだから、中の事象には察しがつく。真作。

第四十八章 損を極めれば、無為に行き着く。 ◎

 

<本文書き下し>

学を為せば日に日に益(ま)し、道を為せば日に日に損す。これを損して又た損せば、以て無為に至る。無為にして為さざること無し。天下を取るは、常に無事を以てす。その事有るに及びては、以て天下を取るに足らず。

 

<本文訳>

(勉強をすればするほど得るものは多くなる。これに反比例するように、道を実践すればするほど失うものは多くなる。失えば失うほどに何が得られるかというと、無為を得られる。無為とは、文字通り何も動作しないことじゃあない。これがしたいとかこれはしたくないといった欲から解放されることだ。天下を取るには、常にこのように物事にとらわれないでいればいいのだ。天下を取ろうとして実際に人々を先導するのは、万一天下を取ったとしても、まだ物事にとらわれっぱなしだ。天下をとるよりも、物事から離れるほうが難しいのだ。)

(世界征服をする方法は、大きく分けて二つある。一つは、実際に軍をおこして自分以外の全ての物事を自分好みに変えてしまう方法。もう一つは、自分自身の全の精神を世界好みに変えてしまう方法だ。前者は礙竄性があるが、後者にはない!ここまでいえば、だれでも後者の方法の方が優れていることがわかるんだが、いざ実践する人の数となると、ゼロに等しい。)

 

<真贋>

そもそも天下に先立つことを嫌うのに、無為だからと言って天下を執れというだろうか。そういういみで贋作に見えるが、「獲得した地位」ではなく「与えられた地位」という無為を協調しているとすれば真作といえよう。

第四十九章 聖人の心は優秀なプログラムのように単純だが厳正 ◎

 

<本文書き下し>

聖人は常の心((妄執))無く、百姓の心を((に応じて))以て心と為す。善なる者は吾これを善とし、不善なる者も吾亦たこれを善とす。徳は善なればなり。信なる者は吾これを信とし、不信なる者も吾亦たこれを信とす。徳は信なればなり。聖人の天下に在るは、歙歙(きゅうきゅう)として天下の為にその心を渾(渾沌一体/ぼやける)にす。百姓は皆その耳目を注ぐも、聖人は皆これを孩(がい)(子供)にす。

 

<本文訳>

タオの人というものは自分の信念といった固執妄執を持たず、千変万化するあらゆる人々の心に応じて我が心とする。人々が善人だというなら私もそれを善人というし、善人でないという者であっても善人とする。タオの徳は善であるほうがよりよく顕現するからだ(君が何か悪いことをしたのに、善人だと言われたときの気持ちの変化を想像してごらん)。人々が正直者というならば私も彼を正直者とするし、人々が嘘つきだと言っても正直者だとする(単に日和見的に民心に流されているわけではないという意も含まれている)。タオの徳は正直なほうがよりよく顕現するからだ。

タオの人が天下に在る様子は、緩やかに弛んで天下の為にその心をぼやかし、しかも一つにする。そんな不思議な人に対して、人々は誰もが探りをいれようとするが、タオの人は誰に対しても警戒心なく、愛をもって、嘘偽りなく、笑顔でそれに応える。まるで子供に接するように。

 

<真作

タオは不善を善に化すが、単に善悪を区別はしない。真作。

第五十章 死に囚われて強張る人は、生に根ざして柔軟な人の2倍いる。 ◎

 

<本文書き下し>

生を出でて死に入る。生の徒は十に三あり、死の徒は十に三あり。人の生じて動きて死地に之(ゆ)く(自ら死地に行く者)も、亦(死地の次に補う)十に三あり。それ何の故ぞ。その生生(せいせい)の厚きを以てなり。蓋し聞く、善く生を摂する者は、陸行してもジ((中国の伝説上の水牛のような一角獣ということだが、インドサイのことではないか。))虎に遇わず。軍に入りても甲兵を被らず。ジもその角を投ずる所無く、虎もその爪を措(お)く所無く、兵もその刃を容(い)るる所無し。それ何の故ぞ。その死地無きを以てなり。

 

<本文訳>

我々は死の世界で死ぬことで生の世界に生まれ出たのだが、こんどは生の世界で死んで死の世界に生まれ出ることになる。生の仲間は10あれば3ほどだ。死の仲間も10のうち3ほどだ。死の仲間でないのに、わざわざ危険な場所へ行って死の仲間になる者も、また10のうち3ある。なんでこんな計算になるか。生きようとする力が強いために、死に引っ張られやすくなるのだ。たいてい次のように聞く。善く命を大切にする者は、旅をするにしても虎やサイに出逢わないように注意する。軍隊に入れられても前線に出ないように注意するし、前線に出されても直接武器を手に取る役には回らない。そうすればどんなに強い虎や熟練の兵士が殺そうとしても、その場所に居ないのだから、虎も爪を突き出すところがないし、サイもツノを突き立てるところがないし、兵士もその腕をふるう場所がない。それはなんでこんなことができるか。死地を避けることに全力を尽くすからだ。

 

<本文意訳>

(敵と対峙してから、さてどうやって生き延びようかと考えたとき、逃げることができなければ、たしかに相手を倒さなければならない。そうなると熟練と力と数の勝るほうが生き残りやすくなる。だから人々は熟練と力と数を得たがる。しかし、ちょっとまて。そもそも敵と対峙しなければ、絶対に負けるなどということは起きないし、絶対に殺されるなどということも起きないではないか。しかも、戦場で敵を倒すより、戦場を避けることのほうが簡単じゃないか。どうしてこのことに気付かないんだろうね。だから10あれば死の仲間は6も居るのに、生の仲間は3しかいない、というのだ。)

 

<真贋>

たとえ国の賊と呼ばれようとも、良心的兵役拒否がタオの道だ。真作。

第五十一章 タオの濃い人 ◎

 

<本文書き下し>

道これを生じ、徳これを畜(やしな)い、物これを形づくり、勢いこれを成す。ここをもって万物は、道を尊びて徳を尊ばざること莫し。道の尊く、徳の貴きは、それこれに命ずること莫くして、常に自然なればなり。ゆえに道これを生じ、徳これを畜えば、これを長じこれを育て、これを亭(定める)しこれを毒(成長)し、これを養いこれを覆う。生ずるも有せず。為すも恃まず。長ずるも宰(主宰)せず。これを玄徳(人に備わったタオ)という。

 

<本文訳>

タオが人間を生み、徳が人間を立派に成長させ、食べ物が肉体を形作り、欲の動向の勢いが歴史を作り出す。人間に限らず、万物が同じだ。万物はこの因果関係をよく分かっているから、タオを尊んで徳をおろそかにしたりしない。タオを尊び徳を貴ぶのは、だれかに命じられたわけではなくて、常に自然にそうしているのだ。自分を生じてくれたタオを尊んで、自分を育ててくれた徳を貴んでいれば、タオと徳はますます自分を健康に成長させてくれるし、その状態を固定して維持してくれもするうえに、外悪から覆い護って養ってもくれる。その人の在り方と言ったら、タオにそっくりで、生産活動をしても占有しない。なにかをするにも自分の能力に余ることをしない。その方法に精通していても取り仕切ったりしない。これこそ、本当に濃いタオの中に居る人、と言えるだろう。こんな人がどこにいるか。物心のついていない子供たちはみんなそうさ。彼らはいちばん柔軟で無知で無名で無為で、生の濃いところにいるのだ。だが、タオのことをよく理解したうえで、そのように振る舞っている人間となると、さてどれほどいるだろうか。

 

<真贋>

老子の性格が出ているし、タオと徳の両立を説いている。真作。

第五十二章 私たちはタオの子なのだから、タオに親孝行すれば一生安泰だ。

 

<本文書き下し>

天下に始め(タオ)有り。以て天下の母(タオの子)と為す。既にその母を得て、以てその子を知り、既にその子を知りて、またその母を守れば、没するまでそれ殆(あや)うからず。その兌(あな)(物欲の生じるところ)を塞ぎ、その門を閉ずれば、終身勤(つかれる)れず。その兌を開き、その事(欲望)を済せば、終身救われず。小を見るを明(細部まで見抜く)と曰い、柔を守るを強(柔を守る)と曰う。その光を用いて、その明(人間本来的な英知)に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺すこと無し。これを習常(常に習う。タオ)という。

 

<本文訳>

宇宙には始まりがあった。この大イベントを私たちを産んだ母としよう。とすれば、私たちは子供ということになる。これで親子関係にあることが分かったのだから、親孝行して母を守れば、母(宇宙)が子供(私たち)に危害を加えるはずがない。貪欲の源を塞いで、貪欲のために行動しないようにすれば、死ぬまで疲れない。欲望に正直になって貪欲に駆られれば、一生救われない。こういう感覚的な事に気付く能力を細部まで見抜く力といい、自分を欲から守る能力を頼もしい力という。欲を退けたうえで感覚的なことを見抜いたならば、不幸のタネを残すことはない。この継続的習慣的なタオの実践方法を、「習常」と名づけよう。

 

<真贋>

老子は既にタオとの信頼関係を説いているから、この章も誤りでないように見える。が、老子はタオとの信頼関係を説く一方で、タオが万物をワラ犬のように扱うことも説いている。こちらもタオのように振る舞うのが無為の徳なのだから、一歩引いてタオを信頼はしても、愛の無いものに一生仕えるようなことも不要であるはずだ。貪欲な人間は一生救われないというのも、どうも老子らしくない。善人も悪人も、ただワラ犬のように扱われるにすぎないからだ。

第五十三章 人の上に立つ者が私欲のために人を使えば、強盗と同じだ。 ◎

 

<本文書き下し>

我をして介然(すくない)たる知ありて、大道を行わしめば、ただ施(邪or布施)すことこれ畏れん。大道(タオ)ははなはだ夷(たいら)かなり。しかるに民は径(こみち)(近道横道)を好む。朝(朝廷)はなはだ除(清める)すれば、田ははなはだ蕪(あ)(荒れる)れ、倉ははなはだ虚し。文綵(美しい模様)を服し、利剣(鋭い剣)を帯び、飯食に厭き、財貨余りあり。これを盗夸(とうこ)(ぜいたく/おごり)という。道に非ず。

 

<本文訳>

私に少しの知識があって大きなタオを行わせれば、淡々として施し与えることを恐れない。大きなタオは明らかに広大でなだらかだ。ところが人々は起伏の激しい路地を好む。為政者が贅沢を望むと、農家の田畑は荒れて商家の倉は空っぽになる。豪華な衣服を着て、権威を振りかざし、飽食になっているのに、財産は余りがあって人のために使いもしないとすれば、これは強盗が傲り高ぶっているようなものだ。タオではない。

第五十四章 タオを生業にするなら手堅い商売 ◎

 

<本文書き下し>

善く建つる者は(根を固めて後に末だけ営むので)抜けず。善く抱く者は(貪欲せずにできることだけするので)脱せず。子孫は以て祭祀してやめず。これを身におさむれば、その徳は乃ち真なり。これを家におさむれば、その徳はすなわち余りあり。これを郷におさむれば、その徳はすなわち長し。これを国におさむれば、その徳はすなわち豊かなり。これを天下におさむれば、その徳はすなわち普(あまね)し。ゆえに身を以て身を観、家をもって家を観、郷をもって郷を観、国を以て国を観、天下を以て天下を観る。われ何を以て天下のしかるを知るや。此(善く建つ者は~)を以てなり。

 

<本文訳>

建てるのが上手い者は、まず根を固めてから枝葉を振るから抜けない。根を固めてもいないのに幹を振れば、たちまち抜けるだろう。継続するのが上手い者は、手に余ることをせずにできそうなことだけをするから失敗しない。貪欲になって手に余る大仕事を抱えたら、継続するエネルギーが保つはずがない。こういう手ガタい商売を家業にすれば、自分の死後に家業を継ぐ子孫も、感謝をして止まない。このタオを身につければ、その徳は本物だ。このタオを家のために使えば、その徳は十分すぎて余りが出る。このタオを町会に活かせば、その徳は長続きする。このタオを国政に活かせば、その徳は国民の支持を受けて豊かになる。このタオを世界の政治のために活かせば、その徳は薄く広く行き渡る。だから身体を観るときは身体を引き合いにだすし、町を観るときは町を引き合いにだすし、国を観るときは国を引き合いにだすし、世界を観るときは世界を引き合いにだす。なぜ世界がこういう仕組みになっていると分かるのか。建てるのが上手く継続するのが上手い者の徳を観たからだ。

第五十五章 タオから生まれ出て来たばかりの赤ん坊のすごさ。 ◎

 

<本文書き下し>

含徳の厚きは、赤子に比す。毒蜂、毒蠍、毒蜥蜴、毒蛇も螫(さ)猛獣も拠(つめか)けず、 攫鳥(かくちょう)も搏(う)たず。 骨弱く筋柔らかくして、握ること固し。未だ牝牡の合を知らずして、全作するは、精の至りなり。終日号(さけ)びて嗄れざるは、和の至りなり。和を知るを常(とこしえ)と曰い、常を知るを明と曰う。生を益すを祥(わざわい)(不吉)と曰い、こころ気を使うを強(強がり)と曰う。物壮(武力蜂起)んなればすなわち老ゆ。これを不道という。不道は早く已む。

 

<本文訳>

まえに、タオの厚い人なら子供たちがみんなそうだと言ったが、赤子はもっとすごい。毒バチ、毒サソリ、毒ドカゲ、毒ヘビも刺さないし、猛獣も噛み付かないし、タカやワシもさらわない。赤子の骨は弱くて筋肉もぶよぶよなのに、握力の強さはどうだ。まだセックスを知らないのに完全に勃起するのは、精力が満ちているからだ。何時間も大声で泣き叫んでいるのにノドがかれないのは、全体と調和した声の出し方だからだ。調和することを知っているのを永久といい、永久を知るのを聡明という。欲望を増すのを災いといい、余計な地位にしがみつくのを強がりという。物事は盛んになればなるほど早く老いる。これをタオでないものということは、前にも言ったね。タオでないものは、それがなんであれ、すぐに終焉を迎える。

第五十六章 口で言っても伝わらないよ。奥義は感覚だから。 ◎

 

<本文書き下し>

知る者は言わず。言う者は知らず。その穴を塞ぎ、その門を閉じ、その鋭を挫き、その分(粉の音通)を解き、その光を和らげ、その塵に同じくす。これを玄同(タオ)という。ゆえに得て親しむべからざれば、得て疎んずべからず。得て利すべからざれば、得て害すべからず。得て貴ぶべからざれば、得て賤しむべからず。ゆえに天下の貴(タオ)と為る。

 

<本文訳>

知っている者は教えたりしない。だから、教えている者は知らないのだ。なぜなら、感覚的な経験は言葉では教えられないからだ。耳を塞ぎ、口を閉ざし、意気を挫き、迷いを統一して、ぎらつく欲望を和らげて、塵芥のようにひっそりしている。これはタオの深いところに同化するという技であり、この体験の感覚は、言葉では説明できない。だから感覚を得てそれに親しむのでなければ、疎んじてはいけない。感覚を得て利用するのでなければ、害してはいけない。感覚を得て貴ばないなら、賤しんではいけない。つまり、すばらしい体験でも、それに惚れ込むなということだ。惚れ込めばそれを人に教えたくなってしまうし、反論されれば弁護するために余計な苦労をすることになる。かといって、めんどくさがったり蔑んでもいけない。蔑めば貶してしまうし、それ自体は不幸なことだからだ。厭いはしないが惚れもしない。こういうふうな在り方だから、世界のタオの手本となる。教えるときは口で教えるのではなく、背中で教えるものなのだ。

第五十七章 無欲な人に出逢うと、人々はそれだけで安心する。 ◎

 

<本文書き下し>

正を以て国を治むれば、奇(奇襲)を以て兵を用い、無事(無為)を以てすれば、天下を取る。われ何を以てそのしかるを知らんや。これを以てなり。天下に忌諱(禁令)多くして、民いよいよ貧しく、民に利器(文明の利器)多くして、国家ますます昏(くら)く、人に技巧多くして、奇物ますます起こり、法令ますます彰(あらわ)れて、盗賊多く有り。ゆえに聖人は云う。われ無為にして民おのずから化し、われ静を好みて民おのずから正しく、われ無事にして民おのずから富み、われ無欲にして民おのずから樸なり。

 

<本文訳>

王道で国を治めるなら、奇計で戦争を行い、事前に問題を解決しておけば、天下を取れるだろう。なぜ私にそんなことが分かるのか。次の事柄を観たからだ。天下に禁令が多く出れば民衆は心も財産も貧しくなり、民衆の生活レベルが高くなれば国家は借金だらけになり、産業が飽和状態になれば奇妙な商品がますます増えて、奇妙な商品を規制するために法律がますます重要になって、そうなると商品が手に入らなくなるから、しまいには盗賊がたくさん出てくることになる。だから聖人は云うのだ。私は無為の徳を振りまいて民衆を感化させ、私は落ち着きを好むから民もそれを見習って冷静に正しくなり、私は事前に問題の芽を摘み取るから民衆は自然に富み、私が無欲でいるから民衆も木訥で素直になるのだ。と。

 

<真贋>

(「私はどうしてこれを知ったのか」という下りは、教えてくれといわれた相手に大してする反応として争いのないものである)

第五十八章 自分からわざと反面教師になって、不言のうちに相手を教え諭す ◎

 

<本文書き下し>

その政(まつりごと)悶々(もんもん)(暗くてはっきりしない)たれば、その民は諄々(ありのままでかざりけがない)たり。その政察察(細かに調べ明かす)たれば、その民は欠欠(こざかしい)たり。禍は福の倚(よ)る所、福は禍の伏す所、孰(たれ)かその極を知らんや。それ正すこと無きのみ。正は復(ま)た奇と為り、善は復た妖(妖怪)と為る。人の迷うこと、それ日々固(もと)より久し。ここをもって聖人は、方(四角)なるも割かず。廉(清廉)なるもやぶらず。直(まっすぐ)なるも肆(ほしいまま)ならず。光あれども燿かず。

 

<本文訳>

政府がぐずぐずもたもたしていれば、民衆はそれを反面教師にして正々堂々と明るく活動するようになる。政府がきっちりちゃっかりしていれば、民衆は反抗して抜け穴を探して小賢しくなる。これはみんな、福のあるところには必ず災いが寄り添っていて、災いのあるところには必ず福が潜んでいるという教えを顕している。だが、一体何人の人がこの極みを理解できているだろう。それは簡単なことで、正すことをしないだけでいい。正しいことは時代とともにおかしなことになり、善も同様に時代とともに妖しげなことに変わっていく。人が迷い悩むことは、もともと昔から日常的に行われてきたことだ。なにも特別なことじゃない。聖人はこのことをよく理解しているから、容易く対処できることでも行わない。対処すればまたそれを悪用する者が出るからだ。白紙の図面があっても、線を引かない。線を引けば今度はその線に迷う者が出るからだ。率直でも怒らない。怒れば人々が恐れて率直な会話が出来なくなるからだ。光があっても輝かさない。輝けば人々に荒らされてたちまち汚れてしまうからだ。一見して「いいなぁ」と思うことの裏には、実は悪い結果が潜んでいる。一見して「ダメだな」と思うことの裏には、実は善い結果が潜んでいる、ということを聖人たちは見越しているのだ。

 

<本文意訳>

(もともと民というのは、放っておいてもしていいことといけないこととはよくわかっているもので、下手に教育するから変な欲がでて悪事が起こるという基本理念に反しない。)

第五十九章 農業にタオあり ◎

 

<本文書き下し>

人を治め天に事うるは、嗇(しょく)(農夫)(物惜しみ)に若(し)くは莫(な)し。それ唯だ嗇。これを早服(早くタオにつながる)という。早服これを重積徳(じゅうせきとく)(徳を積み重ねる)という。重積徳は則ち克(よ)くせざること無し。克くせざること無ければすなわちその極まるを知ること莫し。その極まるを知ること莫しは、以て国を有(たも)つべし。国を有つの母は、以て長久なるべし。これを根を深くし柢(てい)(基礎)を固くするという。長生久視(長寿)の道なり。

 

<本文訳>

人を治めるコツ、天の働きを知るコツを得るには、質素に農業を営むことより善い方法はない。ただ農業をするのみだ。ただし大型農業機械を導入したり、農薬を使った大規模プランテーション農法などでは意味がない。小さくても質素ならば、農作物たちが教えてくれるのだ。土が善くなければ育たないし、光が届かなければ実らないし、放っておけば虫が付くし、根が腐ることもあれば、病気になることもあるし、台風で一夜にして全滅することもある。試行錯誤でもうまく育ててやれば、大きな実りをもたらして答えてくれもする。これはみな人を治めるコツに通じるものだ。天候との関わりも大きいから、熟練の農夫には明日の天気を予想できる者も少なくない。このように農業には、タオの徴候があちこちに現れるから、学び取る機会が多いのだ。だから農業は早くタオに繋がるコツだというのだ。早くタオに繋がれば、それだけ人より多くの徳を積み重ねることができるだろう。人より徳が大きい人が、物事を好転させなかったためしはない。かならず物事を好転させるから、困難知らずだ。困難知らずなのだから、国政さえサポートできる。国政をサポートする知識の元になっている農業は、このために廃止されることなく長く続くことが出来るのだ。これこそが、根を深く伸ばして土を固める、ということだ。これは長寿の道だ。長寿であることは、タオに沿っている証拠であることは前にも述べた通りだ。

 

<解説>

(老子の言っている農業とは無肥料農法のことである。無肥料能法とは、自然の山の状態をいう。自然の山は、誰も肥料など与えないのに植物は樹勢盛んで、誰も農薬など撒かないのに虫がつかず、誰かが除菌したわけでもないのに病気にならないし、耕さないのに健康で、同じ種類が生え続けるのに連作障害にならないし、誰も水をやらないのに土は乾かないし、誰かが種をまいたわけでもないのに芽が出るし、切り立った崖や土のない岩場に生えているのにグングン育つし、台風が来たとしても支柱でくくったわけでもないのに倒れないし、連日雨が降ったというのに根が腐らなければ、海浜に生えているというのに塩害にもならない。なのに人間の畑とくれば、施肥をするほど貧弱になって、虫がついて病気になり、ちょっと水をやらないと萎れ、水をやりすぎれば根腐れして枯れるし、台風が来ればたちまちなぎ倒されて全滅し、耕さないと下層が粘土になってしまうし、塩害なら二度と使えない畑になってしまう。なんで自然の山と、人間の畑はこれほど違うのか。タオは土に与え、土は植物に与え、植物は動物に与える。畑作は、植物に土を与えることだ。これでは順序が逆だから、うまくいかないのである。人間が土を選ぶのではなく、土に植物を選ばせるのだ。こういった素朴なままの働きをそのまま利用すれば、肥料もなにもなしに無限に連作できる。これをタオから取って使うという。無肥料農法の関係者が、窒素リンカリでも根菌窒素菌でもない、この謎の要素を例えて「自然力エックス」と表現するが、まさに捕らえ所のない要素なのである。しかもこの智恵は、そのまま人を治めることにも応用できるというのだ。)

第六十章 いちいち細かく計算しなくても、タオが勝手にうまく働いてくれる。 ◎

 

<本文書き下し>

大国を治むるは、小鮮を烹(に)るがごとし。道を以て天下にのぞめば、その鬼、神ならず。その鬼、神ならざるのみに非ず。その神、人を傷つけず。その神人を傷つけざるのみに非ず。聖人も亦た人を傷つけず。それ両つながら相傷つけず。ゆえに徳こもごも帰す。

 

<本文訳>

大国を治める様子は、小魚を煮るかのようだ。小魚を煮るときは、全ての魚に串を刺して、火が通っているか調べたりしない。全ての魚の身をほぐして、味が染みているかどうか調べたりしない。ただ数匹だけ味見して、それで全体の出来具合を判断する。

タオに乗っ取って世界に志を掲げれば、鬼も悪さをしない。鬼が自分に悪さをしないだけではない。他人も傷つけない。他人を傷つけないだけではない。聖人(鬼にとっては目の敵)を傷つけることもしなくなる。鬼が悪さをしないのだから、聖人が鬼を退治する必要もなくなる。だから鬼からも聖人からも感謝されることになって、つぎつぎに徳を身に受けることになる。

これは、聖人を助けようとしたわけでもなければ、鬼を助けようとしたわけでもない。ただタオが行き渡っているかどうかを観ていただけだ。小魚を煮る時のように。

 

<本文意訳>

(私たちは生まれる前にあらかじめ教えられて生まれて来たわけじゃない。お前はどこそこ宇宙の45億年目にどこそこ銀河のなになに系のなんたら惑星のかしこ国の都の一丁目の7番地に人間として生まれなさい、と教えられて生まれたわけではない。タオはとても放任主義で、勝手にすればいいと思っている。ただ大きく枠組みや方針を作るだけで、あとは働きに任せっぱなしにする。この仕組みが壊れたってほったらかしだ。必要なら、また勝手に再生することを知っているからだ。)

第六十一章 世界平和・世界統一への道 ◎

 

<本文書き下し>

大国は下流なり。天下の交(帰り会うところ)にて、天下の牝(ひん)なり。牝は常に静をもって牡(ぼ)に勝つ。静にして下るを為すを以てなり。ゆえに大国の以て小国に下れば、則ち小国を取り、小国の以て大国に下れば、則ち大国に取らる。ゆえに或いは下りて以て取り、或いは下りて取らる。大国は人を兼畜(併合して養う)せんと欲するに過ぎず。小国は入りて人に事(つか)えんと欲するに過ぎず。それ両者の各々その欲する所を得んとすれば、大なる者は宜しく下るを為すべし。

 

<本文訳>

大国は懐の広さが重要だ。世界会議の場では、天下の女になる。女は常に冷静に観察していて、いつも男をコントロールする。これができるのは、まず冷静に譲歩をするからだ。譲歩を示してから自分の希望を述べるから、受け入れられやすくなるのだ。だから大国が小国に譲歩をすれば、つまりは小国を取ることになるし、小国が大国に譲歩すれば、大国に乗っ取られることになる。とはいえ小国の民衆からしてみれば、突然自分の国が大きくなったようなものだ。だから、時には譲歩して受け入れさせ、時には譲歩して取らせるのだ。大国は小国を迎え入れて養いたがっているだけだ。小国は大国に取り入って従いたがっているだけだ。両者の利害は一致しているのだから、まずは大国のほうから、ぜひとも譲歩する姿勢を見せられたい。これは大小のどんなものにも当てはまることだ。

 

<解説>

(この教えは実に巧みで、老子の世界平和へ夢の手段を提案している。大国が小国に譲る形で小国の活動を利用すれば、それは小国を合併したも同然だ。小国が大国に取り入ったならば、小国が大国を味方に得たも同然だ。この認識がグローバル化して、同盟以上の友好関係が世界中に広がっていけば、いつしか国境がなくなって、一つの無名の世界ができるではないか。一つの無名の世界になれば、もはや戦争はなくなるし、理想郷そのものではないか。おそらく老子の本意はここにあるのだろう。)

 

(大を下に据え、小を上に据えるにあたり、基本理念に順当である。)

第六十二章 大きく輪を描いて巡ってくるから時間はかかるが必ず望みが叶う。 ◎

 

<本文書き下し>

道は、万物の奥(根源)なり。善人の宝、不善人の保んぜらるる所なり。美言すれば以て市(買)うべく、尊行すれば以て人に加う(応じて来る)べし。人の不善なるも、なんぞ棄つることこれ有らん。ゆえに天子を立てて、三公(三大役所)を置くに、拱壁(一抱えもある玉器)の以て駟馬(四頭だての馬車)に先だつこと有りと雖も(中国の小つぎ大と二度に分けて贈り物を贈る習慣から)、坐してこの道を進むるに如かず。いにしえのこの道を貴ぶ所以の者は何ぞ。以て求むれば得、罪有るも以て免るると曰わずや。ゆえに天下の貴と為る。

 

<本文訳>

これまでの説明でもわかるように、タオは精神の動向も含めた万物の根源だ。善人の心の支えであり、俗人悪人にとっては暴走しないように見守る保護者だ。美しい言葉は買うべきだし、尊敬できる行いには参加するべきだ。俗人悪人だからって、どうして捨て去るようなことがあろう。タオが面倒を見てくれているのだから、捨てることはないじゃないか。そこで天皇を立てて、三権分立を制定するのに、膨大な政治資金と立派な建造物を用意したといっても、坐して私のいうタオを行うには及ばない。そこまで言って昔の古いこのタオを尊ぶのはなんでか。タオをもって求めれば例えそれが何であっても与えられ、罪があるとしてもタオが免れさせてくれるからに他ならない。だからタオは天下の根源で貴いのだ。

 

<本文意訳>

(タオは何も空理空論ではない。今現実にここにすでに活きて働いている。タオに沿った上で何かを望めば、それが例えどんなモノであっても(例え精神的なモノでも)与えられる。ただし、時間はかかるだろう。タオは大きく巡っているからだ。忘れた頃に巡ってくるから、そのときに喜んで受け取ればよい。罪人にとって自責の念は、燃えた炭のようにいつまでも悩みの種になる。だがそれもタオに沿っていれば、免れさせてくれるのだ。どうしてそんなことができるのか。それは万物の根源であり、私たち人間の根源(つまり生みの親)でもあるからだ。ただしこの親は、タオに逆らうドラ息子には厳しいから、覚悟しておくことだ。もし改心すれば、すぐに迎え入れてくれるがね。)

 

<真贋>

(「悪人」という表現を避けて「不善人」といったり、平和な国家を築くことよりも、一人一人のもっと本質的な利益について述べているあたり、老子らしい。)

第六十三章 小さな事からコツコツと、簡単な事から順序よく。 ◎

 

<本文書き下し>

無為を為し、無事を事とし、無味を味とす。大小多少、怨みに報ゆるに徳を以てす。難きをその易きに図り、大をその細に為す。天下の難事は、必ず易きより作り、天下の大事は、必ず細より作(おこ)る。ここをもって聖人は、終(つい)に大を為さず。ゆえによくその大を成す。それ軽諾(安請け合い)は必ず信が寡(すく)なく、易しとすること多ければ必ず難きこと多し。ここをもって聖人は、猶おこれを難しとす。ゆえに終に難きこと無し。

 

<本文訳>

無為の為を実践し、事が起こる前に処理することを仕事にして、快楽でもなく苦痛でもない状態を通常の状態にすることに決める。多かれ少なかれ、怨みに報いるときは、このタオの徳を使って報いる。この世の難しいことは必ず簡略化してから組み立て、大きなことは必ず小さなことを積み重ねて作り上げる。聖人はこのことをよく理解しているから、小さなことを積み重ねるが上限を決めない。だから知らないうちにとんでもなく大きなものが仕上がる。安請け合いをすれば必ずそのうち守れなくなり、物事を甘く見てばかりいれば必ず困難にばかり出逢う。この二面性を知っているから、タオの達人の聖人でも、やはり敢えてこれを難しいことだとする。だから、やはり結局は難しいことは無くなる。

 

<本文意訳>

(これは難しいぞという自覚があれば、まず簡略化しようという対策を講じることができる。これは大仕事だぞという自覚があれば、徐々に積み上げようという対策を講じることができる。だが、自覚がなければ、どんどん深みにはまりこんで、気付いた時には壁にぶつかってしまう。だから、つまりどんなものでも、初めから「よく分からないがこれは難しそうだぞ」と思って取りかかって事前に準備しておけば、楽なのだ。)

 

<真贋>

(老子特有の処世の巧みさ、対句表現、矛盾表現がすべて現れていて、徳の理念にも反しない。)

第六十四章 将来のことは、仕込んで待つ。それが無為の徳。 ◎

 

<本文書き下し>

それ安ければ持ちやすく、それ未だ兆さざれば謀りやすく、それ脆きはとけやすく、それ微なるは散じやすし。これを未だ有らざるに為し、これを未だ乱れざるに治む。合抱(一抱え)の木は、毫末(毛先)より生じ、九層の台は、累土より起こり、千里の行は、足下より始まる。為す者はこれに敗り、執る者はこれに失う。ここをもって聖人は、為すこと無し。ゆえに敗るること無し。執ること無し。ゆえに失うこと無し。民の事に従うことは、常にほとんど成るに於いてこれを敗る。終わりを慎むこと始めの如くすれば、すなわち敗事無し。ここをもって聖人は、欲せざるを欲して、得難きの貨を貴ばず。学ばざるを学びて、衆人の過つ所を復し、もって万物の自然をたすけて、あえて為さず。

 

<本文訳>

それに取っ手があれば持ち上げやすいし、それがまだ発症する前なら対策をする手段がたくさんあるし、まだ氷になっていない雪なら溶かしやすいし、まだ結合していないツブツブなら団扇で吹き飛ばせる。まだだれも気付かないうちに手を打って、まだ悪さをしないうちに治めてしまうのだ。縄文杉ほど巨大な老木も、初めは毛先ほどの細い芽から育ったのだ。9階建てのビルは地下の基礎から建てるのだ。4千キロの道程も、足下の一歩から始まるのだ。だが、目を光らせて徴候を掴もうとすれば、あまりにありきたりなので見逃してしまう。しかも運良く見つけても、利用しようとすれば、まだ十分でないために枯らして失ってしまう。

聖人はこのことをよく理解しているから、目を光らせて作為しない。だから見失うことがない。利用しようとしない。だから失うこともない。のんびり民衆の意見を参考にしていると、お呼びがかかった時にはもうすでに完成する直前の難しいときだから、失敗することになる。だが、終わの行事を始めの行事のように大切に扱えば、失敗することはない。聖人はこのことをよく知っているから、なにも望まないでいられることを望んでいて、金銭を貴んだりしないのだ。学ばないことを学んで、人々の間違いが失敗に繋がらないように根回ししておいて、そのうえで万物の自然を助けて、あえて為さずに放っておく。その時が来るまで。

 

<本文意訳>

(それは間違っているから、するべきではない。他人の間違いに気付いた人は、だれでもそういうだろう。しかし、聞き入れられないのは明白だ。おまえになにが分かる。と言われるだろう。だから、黙って、失敗した時にどうすればうまくいくかを考えて、こっそりとその準備をしておく。水が無くなりそうなら水を溜めておくし、食料がなくなりそうなら食料を蓄えておくのだ。そのまま放っておいて、万が一うまくいったならそれで善し。だが案の定失敗したなら、そこで初めて困っている人々の所へ出て行って、「ここに蓄えがありますから、大丈夫ですよ」と言う。これが聖人の、準備していないようで準備している(無為の為)、人徳の稼ぎ方なのだ。)

 

<真贋>

人心を得る方法だが、巧みである。できるのにしない玄徳の教えも、固持するわけではなく、だれもできずに困っていればしてやって助ける。慈にもかない、真作。

第六十五章 成功しなくても大丈夫な国こそ、末永く続いて滅びない国だ。

 

<本文書き下し>

いにしえの善く道を為す者は、以て民を明らかにする(偽りを暴く)に非ず。将に以てこれを愚(ありのままをまもる)にせんとす。民の治め難きは、その智の多きを以てなり。ゆえに智を以て国を治むるは国の賊なり。智を以て国を治めざるは、国の福なり。この両つの者を知るは、亦た稽式(法則)なり。常に稽式を知る。これを玄徳という。玄徳(タオ)は深し、遠し。物と与に反り、しかる後にすなわち大順に至る。

 

<本文訳>

昔のタオの人は、タオを利用して民の偽りを暴くようなことをするわけじゃない。タオはタオのありのまま、愚かに見えるままにしておく。なぜかというと、民を治めにくいとしたら、その知恵が多いからだ。だから知恵で国を治めようとする者は国に害をなす者だ。知恵を働かさなくても自然に治まるように国政をもっていくのが、国の福だ。この二つの教えを知るのは法則を知るということだ。常にこの法則を心にとどめておきなさい。こういう心境を玄徳(一章、十章、五十一章参照)という。玄徳は深くて、遠い(見えそうで見えないし、自然に表にでてこないかぎり顕わにならない)。こういうありかたでいれば遅かれ早かれ国が民衆ごとタオに還って、そのあとタオの流れと一致する。

 

<解説>

(国民の代表者が決めるようなエリート中のエリートでも政治は難しいのに、知恵を働かせるなだって、とんでもない! と、普通の人はいう。では問いますが、とてつもなく賢い人が知恵を駆使して国を治めたあと、その人が死ぬとどうなるか。国は間違いなく分裂し、諸侯が相争う時代が訪れます。この乱世を統一するのはまたもや賢人だから、またもやその人が死ねば国は乱れます。これは悪循環なのです。現代風の、首相や大統領に任期を設けた民主主義でも、ひとたび失敗を犯すだけで取り返しがつかない事態となります。完全などあり得ないから、これも時間の問題です。小渕首相のように任期中に病気で死ぬならまだいいが、心を病んだり心変わりでもしたらどうなったことか。だから知恵が常に必要な政治は、いつ間違いを犯しても不思議はないのです。一方知恵なく自然に治めてさえいれば、いつ誰が死のうと、何も変わらず、いつまでも治世となります。なにも手出しをしないのだから、失敗のしようもありません。では、向こうが一方的に攻めてきたらどうするのか。それは六十九章をごらんください。)

 

<真贋>

玄徳は前にもでてきたが、出来るのにしないという意味だったはずだ。ここでは智で国を治めないことになっている。老子は智で修めるなとは言っていない(三十六章参照)。どうもあやしい。無政府国家がいいというのだが、老子は一言もそんなことを言っていない。無為の聖人が国を治めて、民を感化させるのを善しとしている。贋作とした。

第六十六章 我欲よりもタオを重視してへりくだるから、返って人に任される。 ◎

 

<本文書き下し>

江海(大河や大海)のよく百谷の王となる所以の者は、その善くこれにくだるを以て、ゆえによく百谷の王と為る。ここをもって民に上たらんと欲すれば、必ず言を以てこれに下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以てこれに後る。ここをもって聖人は、上に処りても民は重んぜず。前に処りても民は害せず。ここをもって天下は推すことを楽しみて厭わず、その争わざるを以て、故に天下よくこれと争うことなし。

 

<本文訳>

大河や大海がよく百谷の王(生命の母)のように表現される理由は、大河や大海がしっかりタオに沿って謙るように在るから、だから百谷の王(生命の母)となるのだ。このことを理解しているならば、民衆の上に立ちたいと思ったら、必ず言葉でもって民衆に頭を下げて、民衆の先頭に立ちたいと思ったら、必ず身体でもって民衆の下座に居ることだ。聖人はこのことをよく理解しているから、上にいても民衆は嫌がったり心配したりしない。前にいても民衆は阻んだり退けたりしない。このことわりをもって、天下の人々は選挙に推薦することを楽しんで厭わない。ほかの候補者と争わないから、天下の民衆とも争いを起こすようなことはない。

(民主主義は民意反映のために選挙を行うのが普通だが、その候補者たるや、いずれも吾こそはと豪語して、挙げ句の果てに本来の同士を敵とみなして批判する。こんな人は口でどんなに立派なことを言っていても本当のタオとは言えない。なぜって、現に早くも争ってるし、なんで争うかといえば明白で、それこそ利己と我欲のためだ。こんな人がいざという時に民衆のためを考えるわけがない。本当のタオの為政者だったら、何もいわなくても民衆や対立候補のほうからやってくれと頼まれるだろうね。)

 

<真贋>

(老子が海を語るのはこの章だけだろうか。老子は洛陽より西の産まれらしいから、下手をすると一度も海を見たことがないことから大河のことだろうが、47章が他作ならば、老子も旅をして海をみたかもしれない。)

第六十七章 慈しむこと。慎ましく倹約すること。敢えて天下に先立たないこと。 ◎

 

<本文書き下し>

天下は皆わが道は大なるも、不肖(愚か者)に似たりという。それ唯だ大なり。故に不肖に似たり。もし肖なれば、久しいかな、それ細なるかな。我に三宝あり。持してこれを保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先とならず。慈なり。故によく勇なり。倹なり。ゆえによく広し。敢えて天下の先とならず。ゆえによく器の長と成る。今、慈を舎(す)てて勇を 且(と)り、倹をすてて広をとり、後るるをすてて先んずるをとれば、死せん。それ慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将(まさ)にこれを救わんとす。慈を以てこれを衛ればなり。

 

<本文訳>

天下の人々はみんな、私のいうタオはとんでもなく大きいようだけどまるで愚か者のようだ、という。なんでもなにもその通りで、まるで大きいから逆に愚かに見えるのだ。もしこれに似たものがあれば、それはたぶん悠久で繊細なものだろう。私が大事に持っている宝は三つある。一つめは慈しみ、二つめは慎み、三つめは敢えて天下に先立たないこと。慈、誰かを守りたいと思った人は、保身だけを考える人よりもすごい勇気を発揮する。倹、よく慎むことができる人は、そのうち小さな価値観を超えるから、広大な価値観を得られる。実力があっても敢えて天下に先立たない人は、自分を最後まで成長させられる。なぜ天下に先立てば成長できないかというと、今もし君が慈しみを捨てて勇気ばかり鼓舞し、慎みを捨てて物質ばかり求め、後手を捨てて先手を取るようなことばかりやっていれば、死ぬよ。慈しみを以て攻めれば勝ち、慈しみを持って守れば固い。このように、天はまさに三宝を守る人を助けようとする。しかも、これまた慈しみを以て三宝を守るから、手堅く天の助けを得られるというわけだ。

 

<解説>

(成長と言っているからには、この場合の「死ぬ」というのは、権力闘争に巻き込まれて誅殺されたり過労で病死する以外にも、人格を破壊されたり、体制の奴隷として封殺されたり、社会的に抹殺されるといった場合も含むだろう。また最後の締めくくりで、本章の内容そのものを根拠に慈の重要性へ帰結させている。じつに巧い構文である。)

 

<真贋>

(29章と同一の内容のようにみえるが、老子の特徴が顕著だし、徳経としても無矛盾的である。最後を「わかるかな?わからんだろうなぁ」といった悪戯っぽいニュアンスで締めくくってているのも、老子の独特の茶目っ気が伺える。)

第六十八章 天上に軍を置けば、どんなにヘマをしても悲劇は起きない

 

<本文書き下し>

善く士(兵士の師)為(た)る者は武ならず。善く戦う者はいからず。善く敵に勝つ者は与(とも)にせず(共に戦わない)。善く人をもちうる者はこれが下となる。これを不争の徳という。これを人の力を用うという。これを天に配すという。いにしえの極(無為自然)なり。

 

<本文訳>

男子たるもの拳を振り上げてはならぬ。本当によく戦う者は怒ったり浮ついたりしない。本当によく敵に勝つ者は前線に出ない。本当によく人を使う者は自分が下になる。これを争わないための徳という。これが他人の力を使うということだ。これを天に配置するという。いにしえからの戦いの秘訣だ。

 

<解説>

(なぜ老子はこの章を書いたのだろう。後ろで指揮する者がいれば、必ず前線にかり出される者が出て、結局戦いを激化させるじゃないか。その疑問は「士」を「全ての男」と解することで解けた。例外なく全ての男子が後ろで指揮したがれば、誰も前線に出たがる者はいなくなる。これをもって萎縮効果として、すなわち戦争を回避しようという、老子の大きな企てではないか。勝ちたい、死にたくない、だから前線に出たくない、となって、志願兵が一人も出ない、という状態に誘導しようとしているのだろう。たしかにこれ以上巨大な争わない方法が他にあるだろうか。老子がこの章でしてみせたように、このように人心を誘導するのを、人の力を用いる、という。このように一人も戦う男子が居ないのを、天に軍配するという。軍が天にいるのだから、地上で戦争がおきるわけがない。これが拳を振り上げずに戦うタオ的戦争の秘訣だ。つまり男子の力を天空に惹きつけて空回りさせるのである。逆に解せば、女性は戦争を起こす心配がない、とも読める。)

 

<真贋>

本章の私の解釈にはかなり無理がある。もしまっとうに、「司令官は武ではなく・・・」と解するのが正解ならば、本章は老子の作ではない。おそらく本章の解説のほうが誤りだろうから、贋作とした。

第六十九章 戦争の終わらせ方と正しい心構え

 

<本文書き下し>

兵を用うに言有り。曰く、われ敢えて主と為らざりてしかも客となり、敢えて寸を進まざりてしかも尺を退くという。これ、行くに行く無し、はらうに腕なし、執るに兵なし、着くに敵なしという。禍は敵を軽んずるより大なるはなし。敵を軽んずれば、わが宝を喪うにちかし。故に兵を抗(あ)げて相くわうるに、哀しむ者は勝つ。

 

<訳1>

兵を指揮するときの、古くからの言葉がある。それによれば、私は敢えて指揮者とならず兵となり敢えて半歩も進まず十歩後退する、というらしい。たしかにこれなら、攻めるにも攻めようがないし、攻撃しようにも(現地に)振り上げる腕がないし、指揮官が指揮しようにも従う兵がいないし、着いても(後退したのだから)敵はいないだろう。うまいこと言ったものだ。単に臆病なだけじゃないかと言ってはいけない。禍を招くのは、敵をあなどることほど大きな原因はない。敵をあなどれば、我が宝を失うようなものだ。だから挙兵して交戦状態に入れば、自分の不利な立場を哀しんでいた方が勝つ。自ずと対策を練ろうとするからだ。

 

<訳2>

軍事力を使う時に言えることがある。私は敢えて戦争の主役にならず脇役になるだろう。私は敢えて一歩も進まず十歩後退する立場を選ぶ。行こうにも方法がなく、障害を除こうにも方法がなく、指揮しようにも兵がおらず、攻めてもそこには敵がいなかった、そのように振る舞うということだ。敵をあなどることほど禍を招くものはない。敵をあなどれば、自分の宝をなくしてしまうのと同じような結果になる。だから双方ともに挙兵して交戦状態になれば、これを惨事として哀しむ方が勝つ。

(理想主義者のように、ただ単に戦争がいけないと言っているわけではない。残念なことに小さな怨みを避けることができなくて大きな怨みに発展し、不幸にも大きな怨みになっても和解することができなくて論争に発展し、惜しいことに論争になっても理解しあえなくて紛争に発展し、無念にも紛争になっても鎮められなくて戦争に発展し、哀しいことに戦争になってしまったのだから、人間同士の哀れな失敗なのだ。だからどんな戦争にも正義などないのだ。この惨事をみて楽しんで戦争に参加して指揮を執るような者は、なにもわかっちゃいない。勝てば官軍だなんて言っている者は、なにもわかっちゃいない。この哀しみを早く終わらせようと懸命になる者こそ、勝者にふさわしいのだ。終わらせるためには戦争もしなくてはならなくなるかもしれないが、楽しむような出来事ではないのだよ。まずは剣を取る立場に立たないことだ。むしろ慎んで指揮する立場に立ちなさい。そうして、万策尽くして、戦わずに勝つ方法を模索しなさい。それが無理なら、固く守って攻め入る隙を与えないこと。その体制を維持できれば、相手が先に疲弊するから負けない。無理なら早く相手に降るがいい。どんなに妥協してもだめなら、戦争の被害が最小限になるように、相手の急所を一発で射止めなさい。それも無理そうなら、交戦する前に他国へ逃れなさい。そうすれば泥沼の惨劇を見ずに済む。)

(孫子も、戦争の惨劇については何度も述べている。孫子が戦争の勝利を戦うことなく得るを最上とし、交戦しても双方の被害が最小となるように時間をかけない方法に苦心するのも、戦争の哀しみをよく理解していたからこそである。そして、それが結果として勝利に近づいているのは、哀しみという慈しみに根ざすことでやる気のパワー(タオの後押し)が湧き出ているからなのだ。このパワーに満ちた優秀な外交指揮官がいれば、そうそう負けることはない。タオの時勢に合わずに負けたとしても、被害は最小限だ。)

 

<真贋>

老子は武器を嫌い兵を厭い勝利を下とするのに、この文では明らかに勝利を目指している。老子ならば戦う前に喜んで敵にくだるのではなかろうか。そうすればだれも死なないからだ。そのうえで敵国に登用されて、第二位に上り詰め、魏晋の司馬氏のように一位の危篤に乗じて国を乗っ取れ、というならまだ分かるが、泥沼の権謀を嫌う老子のこと、この解釈も不自然だ。贋作とした。

第七十章 宝石には希少だから価値があるというのなら、タオの教えの希少さは宝石以上だろう。

 

<本文書き下し>

我が言は甚だ知りやすく、甚だ行い易きに、天下はよく知ることなく、よく行うことなし。言に宗(万物の根本)あり、事に君(万物の主)あり。それただしることなし。ここをもって我を知らず。我を知る者希なれば、則ち我は貴し。ここをもって聖人は、褐(粗い毛織りの衣服)を被(き)て玉を懐く。

 

<本文訳>

私の言葉はとても解りやすくて、とても実践しやすい。これをタオを介して解釈し直せば、天下の人々はよく知ることがなく、よく実践することもない、ということになる。私の言葉には万物の根本があるし、実践には万物の主がある。だがそれを意識し続けるわけじゃない。ここをもって私は私を知らない、と表現しよう。自分自身を知る人は希だから、私は珍しい人間なんだろうね。聖人はこのことをよく理解しているから、敢えてボロ着を着ている。なぜなら外にではなく内面にとても貴重な玉を懐いていることを知っていて、そっちのほうを大事にしているからだ。この玉はだれでも生まれながらに自分の中に持っている、ということを忘れちゃいけないよ。ただ気付いているかいないか、磨き方を知っているかいないかの違いだけなんだ。

 

<真贋>

ここまで自己を暗いだとか訥々だとか言ってきた老子が、なぜここにきて自己を誇張するのか。タオが尊いことは自明であり、それに習うことは人の目には暗く映るが、なぜそれを反故にするのか。人に知られることなきを最上となし、敢えて天下の先に立たぬことを三宝の一つにしておきながら、希少であるだけをもって世に出ぬことを自己憐憫的に語る本章は、いささか奇妙である。

第七十一章 知ったかぶりは病気。正直は健康。病気は一瞬で治せる。 ◎

 

<本文書き下し>

知りて知らざるは上なり。知らずして知るは病なり。それただ病を病とす。ここをもって病あらず。聖人は病あらず。その病を病とするを以て、ここをもって病あらず。

 

<本文訳>

もし知っているかと聞かれたら、本当は知っていても「知らないよ」と答えるのが最上だ。そうすればその人が、自分の知らなかったような詳しいことまで教えてくれるかもしれないだろう? そこを言ってるんだよ。自分を低くしたときに得られる思いがけない報酬、これこそタオの恩恵を得る最たる技法なのだ。逆に、本当は知らないのに「知ってるよ」と言うのは、もはや病気だね。だってタオを知らないうえに、たいてい、相手に知ったかぶりだとバレてるじゃないか。知ったかぶりを病的な執着行為だと知れば、それだけでこの病気は治癒するよ。聖人には病がない。さっき言ったように、これは病気だと知っているから、この行動原理そのものによって病気知らずだ。

 

<解説>

(老子は嘘をつくことを善しとするわけではない。自分を低くするような、タオに近づくような嘘ならば、どんどんつきなさい、と教える。他人から奪おうとするような嘘、自分を高く見せようとする嘘はいけない。善い嘘はタオの方言だが、悪い嘘は病気だ、ということだ。たとえばビートたけし。彼が番組に出れば、嘘や冗談を言ったり、おどけてみせたりする。だけどみんなそれを嫌わないのは、それが善い嘘だからだ。時にはまじめに鋭く意見したりする。そうして笑いを求めている人と、事実を求めている人の両方を満足させている。そういう利己を抑えて広く行き渡すような在り方だから、かえってみんなから上に立ってくれと言われる。これもタオに沿っている好例だ。だから処世という表現も的を射ている。最上の処世術だ。)

 

<真贋>

西洋ではやはり同時代になるが、ソクラテスの無知の知に該当するだろう。ただ老子が彼より秀逸なのは、ソクラテスが一生かかっても理解されなかった教理を、たったの二文字「知病」で表現してしまったところにあるだろう。実に見事である。ソクラテス自身、無知の知そのものによって知病であったのかもしれない。「無知の知なんて知らないよ」と言えなかったからである。

第七十二章 畏敬の念をタオに向ければ、万事うまくいく。 

 

<本文書き下し>

民、威(タオの威力)を畏れざれば、則ち大威(天罰)至る。その居る所(清浄無為)をかろんずることなく、その活くる所を厭うこと無かれ。それただ厭わざるのみ(タオを厭がるな)。ここをもって厭わず。ここをもって聖人は、みずから知るもみずからあらわさず。みずから愛するもみずから貴しとせず。故に彼を去りて此を取る。

 

<本文訳>

民がこの厳然として存在するタオを畏れなければ、民は意のままに発展しつづけて、いずれ天罰を受けるに至るだろう。自分の居場所を軽視することなく、自分の生活空間を厭わないように。ただただタオを厭わないでいるだけだ。これをすればタオのほうも民を厭わない。聖人はこのことをよく理解しているから、誰に教わることもなしに自ら悟っているにもかかわらず誰にも教えない。自愛するが自尊しない(いざとなれば潔い)。だから天罰を除いてタオの恩恵を取る。

 

<真贋>

どうもくさい。下士はタオを聞いて笑うが、老子は下士だからといって忠告しようとしないし、助け船をだそうともしない。ほったらかしが老子の特徴だ。こんな脅しを仕掛けてまで、民をタオの前に跪かせるような小さな器ではない。贋作。

第七十三章 タオの行き渡っている様子を網に例えれば、この天の網は何も逃がさない。 ◎

 

<本文書き下し>

敢に勇なれば則ち殺され、不敢に勇なれば則ち活く。この両(ふたつ)の者は、或いは利、或いは害。天の悪(にく)むところは、執(たれ)かその故を知らん。ここを以て聖人は、猶おこれを難しとす。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召かずして自ずからきたり、糸單然(たんぜん/ゆったりしているさま)として善く謀る。天網(天が張る網)恢々、疎にして失わず。

 

<本文訳>

進んで勇ましければ敵の前に連れ出されるので殺されることになり、慎んで勇ましくしなければ敵とは無縁なので長生きできる。この両者は、場合によっては利だし場合によっては害ともなる。天の意は名誉の戦死か、はたまた卑小な生か。天が何を悪とみなすか、どうしてそのつど人間が知ることができるだろう。聖人はこの難しさをよく理解しているから、難しいぞ念入りにいう。天のタオは争わずに自然に勝ち、言わずに自然に応じ、招かないのに自ずと来たかとおもえば、ゆったり大きな尺度で謀りもする。これが行き渡っている様子は、天を投網に例えれば、編み目は大きく見えるが何も見逃さない。つまり宇宙の外側へでも逃れない限り例外はないということだ。だから我々は天の気まぐれに十分注意しながら付き合っていかねばならない。

(聖人でさえも難しいのだから、天網に捕らえられているのは悪人だけではない。悪人も聖人も善人も俗人も同様に天網の内である。善は栄え悪は滅びるとは言っていない。もし天が悪をよしとすれば悪が栄えることもあるだろう。そういう意味である。とはいえ、栄えすぎればタオに従ってまた元に戻って、今度は善の栄える世がくるのだから心配はない。もっとも、その次はまた悪の世がくるかもしれないが。)

 

<真贋>

(もし善悪不問で見逃さない意であれば老子の作だろうが、悪は滅びるという意味ならば他作であろう。)

第七十四章 変な趣味のために恐怖政策を敷く大バカ者の独裁者は、私がひっつかまえて成敗してやる!

 

<本文書き下し>

民、死を畏れざれば、奈何(いかん)ぞ死を以てこれを懼れしめん。もし民をして常に死を畏れしめて奇(怪奇)を為す者は、吾これをとらえて殺すことを得んも、たれか敢えてせん。常に殺を司る者(天)ありて殺す。それ殺を司る者に代わりて殺すは、これを大匠に代わりて斬るという。それ大匠(すぐれた職人)に代わりて斬る者は、その手を傷つけざること有ること希なり。

 

<本文訳>

民が、法を犯せば刑殺されて法を守っていても餓え死ぬといった状況に立たされれば、どうして極刑(死刑)で犯罪を抑止できるだろう。もし民にいつも死を畏れさせるようにしてから死刑で脅して怪奇な政治を行うようなバカ者(独裁者)がいたとすれば、私にこのバカ者を捕らえて殺すよう指示することができたとしても、だれが敢えて殺すだろう。常に殺すことを司る者はただ天のみである。天に代わって殺すのは、優秀な職人に代わって斬るということだ。優秀な職人に代わって斬るならば、たとえ人殺しといえどもタオからしっぺ返しを食わないなどといったことは希だ。

 

<解説>

(老子にしては珍しく感情的で過激な表現が混入しているが、それは当時、老子が西へ旅立った直接の原因でもあったからだろう。つまり人々に死を覚悟させて肉弾行に走らせるような独裁者を糾弾し、たとえそんな独裁者でも殺すことを正当化できないことをタオに照らして述べている。本末転倒政策のための禁令の刑罰が重すぎたのだ。そこには、こんな愚政は二度と執られぬようにという祈りが感じられる。お上が民を窮地に追い込んだり妖しい政治をせず、民のだれもが死を畏れていれば、万事太平なのである。だがどうしても死刑に処す必要性が出てきたならばそうすることもできるだろう。ただしあくまでも殺を司るのは天のみだから、理由はどうあっても人が人を殺せば天からの罪を免れることはできない。完全に天の意に即していれば免れるだろうが、非常に希な例だ。それほど死刑は慎重に選ぶべきだといっている。天に代わって斬るならば大丈夫といった内容ならば老子を批判せねばならぬところであり、老子以外の人間による加筆かとも疑わねばならぬところであったので、意訳し終えて安心した次第である。

この章からは老子が決して理想主義者でないことが見て取れる。むしろ内政の手腕を推測させるような現実的思考が伺えよう。理想とタオと現実との折り合いを見事につけているうえに、法学的見地からも立法趣旨・定義・目的・手段と綿密に語っており、並みの政治手腕の持ち主ではないこともわかる。

ともかく、老子がヒトラーや金正日を見たかのように語っているのが、大変印象的である。 )

 

<真贋>

本章を贋作としたのは、国を見限って国を去った老子の行動に基づくものである。もしこの章が本心であれば、老子は革命を指揮して国を倒す行動に出ていただろうからである。しかも内容の意図もはっきりせず、徳にもからまなければ処世にもからまない。武器を嫌い殺生沙汰を嫌う主旨にも反するし、善人も悪人もひっくるめる主旨にも反する。タオの動きに目を向けていないことからも、老子の作とするには理由がない。

第七十五章 一揆に参加すれば死刑なのに、それでも民が一揆を起こすほど餓えるのは、上の人間が我欲に走るからだ

 

<本文書き下し>

民の餓うる(飢より激しい)は、その上の税を食むの多きを以て、ここを以て餓う。民のおさめ難きは、その上の為すこと有る(なそうとする欲)を以て、ここ以て治め難し。民の死を軽んずるは、その生を求むるの厚き(生存欲が強いこと)を以て、ここを以て死を軽んず。それ唯だ生を以て為すこと無き者は、これ生を貴ぶより賢(まさ)れし。

 

<本文訳>

民が飢餓で苦しみ死者も出るありさまになるのは、お上の人間が税で私腹を肥やしすぎるから、これが原因で餓死者が出るに至るのだ。民を治めにくいと感じるとすればそれは、お上の人間がなにかしら私利私欲を達成しようとするから、これが原因で治めにくく感じるのだ。お上の人間が民の死を軽んずるとすればそれは、お上の人間自身の生存欲が強いから、それが原因で自分以外の死には無関心になったのだ。ということは単純に結論づけると、自分が生きることを勘定にいれない者は、他人の生をもてはやすより者より賢い、ということだ。(しかもそういう人はタオから膨大な援助を与えられるよ)

 

<本文意訳>

(人災が為政者の欲から生じるという大原因について述べ、これを諫めて、利己あらんがために利他を唱えるのではなく、利他あらんがために利己を無為にせよ、と言っている。それではバカのように自分が死んでしまうではないかという心配は必要ない。タオはあなたのような賢者についている。)

 

<真贋>

本章の内容は一見まっとうそうであるが、老子の作かといえば疑わしい。同様の内容はすでに同徳経内の53章で語られたし、ここでことさら追加したとしても、新たな内容も見られないからである。それに本章は自己犠牲を説いているが、タオに従う老子の姿勢は保身第一。自己犠牲は正反対であるし、賢さを尊ぶあたりも、やはり妖しい。しかも内容は管仲に似ており、老子独特の幽玄さがない。

第七十六章 生は柔らかく、死は固い。

 

<本文書き下し>

人の生まるるや柔弱なり。その死するや堅強なり。万物草木の生ずるや柔脆なり。その死するや枯槁(ともに枯れる)す。故に堅強なる者は死の徒なり。柔弱なる者は生の徒なり。ここをもって、兵つよければすなわち勝たず。木つよければ則ち折る。強大なるは下におり、柔弱なるは上に処(お)る。

 

<本文訳>

人が生まれる時は赤ん坊だ。赤ん坊は柔らかくて、ちょっとした温度差でもショック死してしまうほど弱々しい。人が死ぬときは老人だ。老人は心身ともに頑固で、しかも弱さを退けて強さを貴ぶ。草木も、無生物でさえも、まさに生まれるときは柔軟脆弱だ。草木も、無生物でさえも、まさに死ぬときは固くカラカラだ。だから堅強なのは死と同類だ。柔弱なのは生と同類だ。このことを前提にして、軍隊も強ければすなわち勝たず。木も堅ければすなわち折れる。強大なのは下の立場にいるのがいいし、柔弱なのは上の立場にいるのがいい(これなら始めからバランスがとれた形なので、タオから影響を受けないので、長続きしやすい)、というのだ。(まさに正言は逆に聞こえるの好例だ)。

 

<真贋>

本章も他作の線が濃い。生死と柔剛の対比はすでに述べられている。だからといって新たな教えもないし、「ここをもって聖人は」とつなげずに、いきなり不吉な道具たる「兵」につなげるのも不自然だし、そもそも暗に勝ちを目指す内容であるし、強大は下・・・のくだりも、すでに述べられた内容そのままでしかない。)

第七十七章 天のタオは、大きなバランス調整機

 

<本文書き下し>

天の道は、それ猶お弓を張るがごときか。高き者はこれを抑え、ひくきものはこれをあげ、余りある者はこれを損し、足らざる者はこれを補う。天の道は、余りあるを損して足らざるを補う。人の道は則ちしからず。足らざるを損して以て余りあるに奉ず。たれかよくあまりありて、もっててんかにほうぜん。唯だ有道者(タオの人)のみなり。ここを以て聖人は、為すもたのまず。功成るもおらず。それ賢を示すことを欲せず。

 

<本文訳>

天の道はまるで弓に糸を張るときの調節作業のようだ。長い弓は上から押さえてたるませて、短い弓は下から引き上げてたるませて、糸が張りすぎていれば緩めて、糸が緩ければ締める。天の道は、余るところからは減らして足りないところへは補う。人の道は違う。足りないところから減らして余るところへ集める。聖人はこのことをよく理解していて、なにかを為すにしても他力を頼りにしない。それで成功してもその成功に居座ったりしない。つまり賢さを誇示することを望まないということだ。

 

<真贋>

仏典にも、全く同じような弓を直す弓師の話が出てくる。それに内容も斬新さはない。贋作。

第七十八章 タオに根ざした真実の言葉は、一見矛盾しているように聞こえる。 ◎

 

<本文書き下し>

天下に水より柔弱なるはなし。しこうして堅強を攻むる者は、これに能く勝ること莫(な)し。それをもちうれば、以てこれに易(か)うることなし。弱の強きに勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざることなきも、よく行うことなし。ここを以て聖人は云う。国の垢を受くる、これを社稷(土地穀物神)の主といい、国の不祥を受ける、これを天下の王という、と。

正言は反するがごとし。

 

<本文訳>

天下に水ほど柔らかくて弱々しいものはない。そして固く強いものは、水に勝つことはない。水を使ってみれば、すぐに他のものでは代替が利かないことがわかる。弱が強に勝ち柔が剛に勝つことわりは子供でも知っているが、行うとなれば老練した人でも難しい。だからこそ聖人は云う。国の災難を受けるのは国家であり、国の厄難を受けるのは国王である、と。これまさに正しい言葉が反対に聞こえる好例である。

(国は水のようであらねばならない。水のようである以外に代替策はない。水はどんな汚れも自身に受けて、洗い流す。水が汚れをなすりつけ(国が民に責任を負わせ)たりすれば、それこそ水の働きに反することである。だから国は民に強く出てはいけないのだ。どうだ、まるで常識と逆に聞こえるだろう。)

第七十九章 聖人は、災いの大元の元栓を締める。◎

 

<本文書き下し>

大怨を和するも、必ず余怨あり。いずくんぞ以て善と為すべけんや。ここを以て聖人は、左契(割り符の左)を執りて、而(しこう)して人に責めず。有徳は契を司り、無徳は徹(税)を司る。天道は親(偏愛)なし。常に善人にくみす。

 

<本文訳>

大きな怨みにまで発展してしまうと、どんなに良い方法で和解させても、必ず火種があちこちに散ってしまうものだ。大きな怨みを和したといっても、どうしてこれを善といえるであろうか。火種は散ってしまった。聖人はこのことをよく理解しているから、割り符の左側を執行して、そして人のせいにしない。どちらか一方に徳が有れば簡単な約束で済むが、どちらにも徳が無ければ強制的に没収する方法になってしまう。天のタオはどちらか一方だけをえこひいきするようなことはない。いつも善人に味方する。どちらも善人なら、どんな問題も蟠りも起きようがないように、これこそタオの影響というものだ。

 

<本文意訳>

(タオは万人の所に深く広く薄く広がっているけれども、平均以上のところからは高いほど多く削り、平均以下のところへは低いほど多く与える。怨み合っている者は、関係者全体として欲が平均を超えているから、そのぶん皆が何かを削られることとなる。紛争になるのか疑心暗鬼を何世紀も続けるのかはしらないが、善いことは一つもないだろう。逆に言えば、タオは平均以下のところへは気前よく与えてくれるのだから、自らを平均以下にして(手を差し出してかまえて)待っていればいいのだ。どっちが楽かは言うまでもなかろう。)

 

<真贋>

タオは不善人にとってもよりどころである。善人にだけ味方する、ということなことはない。後半のこの部分のみ贋作であろう。

第八十章 満足を知った理想郷のすがた ◎

 

<本文書き下し>

国は小さくして民は少ない。十百の器あれども用いざらしめ、民をして死を重んじて遠くへ移らざらしむ。船車ありと雖も、これに乗るところ無く、甲兵有りと雖も、これをつらぬるところなし。人をしてまた縄を結びてこれを用いしめ、その食を甘しとし、その服を美とし、その虚に安んじて、その俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相きこえ、民は老死に至るまで、相往来せず。

 

<本文訳>

国は小さくて人口は少ない。様々な種類の道具機械もないことはないが使う用がなく、人々は死を重んじて遠くへ移りながら暮らす。船や車もないことはないが乗る用事がなく、武装警察もいるが外交に用いられることがない。人々は縄を結んで便利に使い、食は甘く贅沢なもので、服は質素で美しく、タオの内に安んじて、そんな怠惰を楽しむ。隣国は近く、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほどだが、民は天寿を全うするまで行き来する用事もない。

 

<本文意訳>

(為してできないのではなく出来て為さないの境地である、とよくいわれる。だがそれよりもむしろ人々は、めんどくさがりやで、他のことに興味がなくて、現状に満足しきっているから向上心もなくて、どんな競争も上下関係も集会もないからみんな木訥だ、という雰囲気であろう。どうしてもっと文明開化を目指さないのかと問われれば、人々はタオのことだけはしっかり理解していて、この下の上あたりの技術レベルに止まることが人間にとって一番楽な存在の仕方だと知っている。いつか世界の滅ぶまでそのように在って、それに従い自らも滅ぶ日まで。我々文明人にはこういった桃源郷を構築するのは不可能に思えるが、それはタオを知らない人間集団の場合である。老子は単に理想を語ったのではなく、人々にタオの理解と実践が行き渡っていれば決して不可能ではない、と言っているのだ。タオの教育だけは行き届いている。そんな愚者のような賢者、愚者のような聖人たちの住む世界である。おそらくそれは、第三次世界大戦で滅んだ人々の生き残りが教訓としてタオに根ざして、敢えて技術レベルを低く押さえながら生活している、といったシナリオが考えられる。)

第八一章 楽をしたいなら、ただ素直で居ればいいだけなのに

 

<本文書き下し>

信言は美ならず。美言は信ならず。善なる者は弁ぜず。弁ずる者は善ならず。知る者は博からず。博き者は知らず。聖人は積まず。ことごとく以て人のためにして、おのれはいよいよ有り。ことごとく以て人に与えて、おのれはいよいよ多し。天の道は、利して害せず。聖人の道は、為して争わず。

 

<本文訳>

信用に値する言葉は美しくはない。逆に言えば綺麗事は信用するに値しない。善の人は、こちらを立てればあちらが立たぬことを知っているので、始めから弁じたりしない。逆に言えば弁じる人は善の人ではないということだ。一方を蹴倒してでものし上がろうと言っているに等しいんだからね。識者はひけらかさない。知れば知るほど自分の知らない事の多さに気付いて謙虚になるからだ。逆に言えば、ひけらかす者は無知だということだ。自分の知識の狭さに気付かないんだからね。聖人は功績を重ねようとしない。ことごとく他人のためにして、自分はそれだけで満足している。ことごとく他人に与えて、自分はそれで善しとする。天のタオは、(破壊にせよ創造にせよ)利益を与える結果にはなっても害するだけということはない。聖人のタオは、何をするにしても結果的に争うということがない。

 

<真贋>

(残念ながらこの最後の章は贋作らしく、最終章は80章である可能性が高い。80章で最後に老子の理想を書いて締め、としたほうがきりが良く、執筆に遊び心の多い老子らしいだけでなく、本章の内容は49章に反する。「知る者は博からず」も56章の単純反復であるし、「タオは利して害せず」ではなく「タオは利しもすれば害しもする(5章)」のだから、どうやら後から他者が追加したもののようである)

 

(この章は老子自身の言動と深く関わっているし、老子自身も白居易のような批判のあることを予想していたと考えられる。老子はこういった矛盾を止揚して新たな高みに至れと示唆しているのである。なぜなら止揚の先にあるものこそ言葉にはできない感覚であり、それがタオであり衆妙の門だからだ。

最終章は付録として、桃源郷での白居易と老子との会話を想像して書いてみた。)

 

白居易

言う者は知らず、知る者は黙す。この語を吾は老君に聞き尋ねん。もし老君これ知者といわば、なにゆえ自ら五千文を著す。

 

老子

宜なるかな、吾は愚者なり。

 

白居易

何ぞ曰わんや。五千文を記すは愚者には為せず。

 

老子

それ五千文とは何ぞや。

 

白居易

隔つことすでに二千五百年なりといえども、真に要道を忘れられたるか。五千文は乃ち君が著したる道徳の経なり。

 

老子

はてな。とんと解らず。

 

白居易

吾は人を違えたるか。愚者にありては雑仕も為せず。他を尋ねん。

 

老子

・・・。

 

童僕

老翁、彼は誰や。

 

老子

彼は都の人なり。

 

童僕

彼曰うところの要道とは何ぞや。

 

老子

衆妙の門なり。

 

道徳経は、その意を伝える構文として、大変よくできている。とても一晩では考えられないほどに内容が洗練されている。訥であったとすればなおさらだ。おそらくは若年の頃から数年かけて徐々に執筆し、誰にも見せること無く保持して、発見があったときに修正を加えていたのだろう。その内容の正しさは、天網恢々、年老いてそれを持ち去るところを、関令尹喜に求められたことで証明され、完成した。とすれば、求められたこと自体を老子は喜んだであろうが、私にはその執着のなさが天晴れであり、以て自ら至尊たりえぬ衆知の君子となったことにタオと老子の神秘を観るのである。

 

(タオの芽生えた感覚というものは、発芽した樹木の双葉そのものである。そこは九寨溝のごとく屋久島のごとく、緑と水と生命力に満ち、あらゆるものが一元となっている。そこには言葉もなければ、判断もない。涅槃のような花束や財宝の装飾また香り高くもないが、ここは表現しようにも欲の付きどころがない。雑菌や粉塵で汚れ濁っているようだが、同時にこの上なく清く、毒がない。)

 

(私の近くにタオを知っている人がいないから、教わることができない、と思って嘆いているひとに朗報です。タオは、幼稚園ぐらいの子供ならだれでも知っている常識なのです。ただ子供たちには大人に解るような表現をできないだけで、しっかりタオを実践している。なぜなら、生まれる前の状態は未知の状態であり、それこそタオの状態だからです。タオから生まれ出て間もない子供たちだから、まだしっかり無為の内にあるということです。子供たちは表現力が皆無です。タオについても知らず、無為についても知りません。しかしそれこそ本質的にタオそのものです。愚鈍な子供ほどタオの濃いところにいます。タオを知りたければ、彼ら子供たちの持っている心を調べればいいだけです。自覚のない悪行ほど悪いものはないように、自覚のないタオの実践ほど、上等なタオはないのです。とうのは、事実わたしもそうだったからです。今になってタオという概念に触れたから「ああ、あの頃の虚無感がタオだったんだな」とこそ反省しているものの、タオの概念に触れてもいない本物の子供たちは、だれでも、真のタオのなかにいるといえるのです。「賢い」「しっかりした」子供とは、タオから早くも離れてしまった子供たちのことであります。私は偶然にも幼少期の虚無感を、20歳を超えても忘れずに持ち続けていられたために、こうして大人の言葉にして紹介することができるのです。幼少期の疑問を連発する対象こそ、タオに対しての疑問であり、私はそれを諦めずに保ち続けられたというだけのことなのです。そのかわり、大人社会に参加するのが遅れましたが、それもまたタオのバランスを取ろうとする働きそのものなのです。もし疑うならば、老子と子供たちの言動を比較検討してみてください。子供たちはみな、タオの達人です。)

(なぜ、道徳経の内容は飛び飛びバラバラなのか。その答えは簡単です。この内容はあきらかに老子が思いつき次第に書き足して書かれています。老子は作為的に書こうとして書いたのではなく、何も考えない時を過ごすなかで、フッと面白い表現を思いつき次第書き足していったのです。だから一生一生の内容は面白いのに、てんでばらばらになっています。つまり道徳経は一日二日で書かれたものではありません。数ヶ月、数年かけて書かれたものであると考えるのが自然でありましょう。)

(道徳経が内容的にバラバラなのは、おそらく筆写を繰り返される段階で断片的になり、そのうえ元通り整理しようにも訳者によって内容が千変万化するので整理しようがなかったのでしょう。本当のタオの訳者は、そもそも元に戻そうなどとはしないでしょうから。そこで私が並べ替えました。一つの提案という形ですが、老子ならどんな順番で書くだろうか。)

(よく比較される仏陀と老子について。自分を低くすることで自然に高まる作用を利用している点ではどちらも同じなのだが、内面的なのか外面的なのかといった点ではこの両者は真逆である。老子は作用自体に気付いていて、タオと名づけまでして愛しているのだが、自己の内面についてはあくまでも自然のタオに従ってバランスをとる、という立場である。仏陀は自己の内面を低く低くを突き詰めていき、ついには消滅してしまうことを善しとするのだが、こういった自然の作用については全く気付いていない。内面と外面とは相関関係にあり相補作用をなす、ということを知っていた点では老子が上手だし、低くしてタオから受け取る方法に長けていたのは仏陀が上手だということになる。つまるところ、タオは精神に対しても同様に作用する、ということである。この両者は等しく優れていて比べる類のものではない。そんなことをするよりも、両者の教えを融合させて新たな発見に至るほうが建設的であろう。)

(このページは人工的意図的に書かれたものでしょうか。それとも自然になるべくして成ったのでしょうか。いずれにしても、間違っていて合っています。人間としての私、自然と対峙する存在としての私が書いたと思えば、あくまでも人工的に為されたもので、欲が働いています。ところで、人間という存在を生み出したのは36億年の進化の歴史に他ならず、それは自然の働きそのものです。無機物からアミノ酸を合成したのも自然の活動であり、アミノ酸から遺伝子を生み出したのも自然の活動です。ですから、私を自然の一部としてみれば、この文章は自然と生成されたわけで、生物の欲といえども自然が有する力の一種となります。人工的に書かれたとすれば自然の歴史を知らぬこととなり、成る可くして成ったとすれば私という人格が自然の中に呑まれてしまいます。この正解と誤りの狭間に、本当の回答があるのです。それはもはや言葉にはできません。感覚にしかならないのです。こういった漠然としたものの中には、必ずタオが濃く存在しています。ぜひ体感してみてください。)