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大分県指定遺跡「臼杵城」を紹介

        大友宗麟が臼杵湾に突出た丹生島に築いた平山城

▲古橋口(大手門側)から見た臼杵城跡(うすきじょうあと) 左より時鐘櫓跡石垣、大門櫓(中央・復元櫓)、畳櫓(右端・現存櫓)

古橋口(大手門側)から見た臼杵城跡(うすきじょうあと) 左より時鐘櫓跡石垣、大門櫓(中央・復元櫓)、畳櫓(右端・現存櫓)

臼杵城の歴史

 臼杵城が中世城郭として利用され始めた年代は明瞭ではありません。これまでは記録類などから、大友宗麟(おおともそうりん)によって永禄5・6年(1562・1563年)に築城されたとする説が有力でした。しかし、近年では弘治年間(1555~1558年)以前にはすでに利用され始めていたのではないかとの説が有力になってきました。

 中世城郭は、漆喰を多用し、塀や櫓、天守などを持つ近世城郭と違い、もっと実戦的な城郭でした。臼杵城は元々は「丹生島(にうじま)」と呼ばれ、現在同様切り立った崖に囲まれた臼杵湾に浮かぶ島(現在は陸続き)でしたが、その防御性の高さから、城郭を築く土地として選択されたのではないでしょうか。

 大友氏改易後は、福原直高を経て太田一吉が臼杵城主となります。太田氏は慶長2年(1597年)の入部以後、「祇園洲」に石垣や櫓を設け、三之丸を作りました(「稲葉家譜)」

 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後は、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)、畳櫓(たたみやぐら)以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。

卯寅口門脇櫓(現存櫓)

卯寅口門脇櫓(現存櫓)

畳櫓(現存櫓)

畳櫓(現存櫓)

臼杵城絵図

臼杵城絵図

本丸、二之丸の周囲は海で、三之曲輪とは今橋と古橋の二つの橋で繋がっていた。本丸は島の突端に造られ、本丸の右下(西北隅)には3層4重の天守櫓があった。

卯寅口門脇櫓から見た崖上の本丸(建物はトイレ)
 崖の右上は亀首(かめのくび)櫓跡、その下は卯寅口。

かつて3層4重の天守が建っていた天守櫓跡

幕末の臼杵城下絵図

幕末の臼杵城下絵図  

幕末の臼杵城下絵図  

 「三之丸」右上には、万治3年(1660年)に州崎馬場がつくられました。臼杵城周辺の海は遠浅で、末広川、臼杵川、海添川などからの土砂が堆積し、そのことが問題ともなっていましたが、そうした土砂を利用して、江戸時代の間を通じ、埋め立て地(「築地(ついじ)」)が拡張されていったのです。「築地」は延宝4年(1676年)に造成許可が幕府から出されました。臼杵藩はこの「築地」区域を藩士の屋敷地にしようともくろんだようですが、実際に利用された面積は少なかったようです。

 臼杵藩は天保2年(1831年)から財政危機を乗り切るため、藩政改革に着手します。その拠点として設けられたのが「惣役所(総役所)」と呼ばれた役所でした(現在の臼杵小学校、地図上では三之丸の右上辺り)。この役所は臼杵藩のすべてのお金の出入りを管理するところとされ、その門も「量入門」「制出門」と名付けられました。

 この改革のリーダーとして「勝手方総元締」に任命されたのが、家老・村瀬庄兵衛でした。

現在の臼杵城周辺図  

現在の臼杵城周辺図  

現在の臼杵城周辺図  

  現在は埋め立てが進み、かつての海面には人家や公共施設、学校などが建ちならんでいる。

本丸から望む臼杵湾

本丸から望む臼杵湾

 かつては、この辺りは海であった。臼杵湾に浮かぶおにぎり形の島は津久見島。

市街地後方は寺院と武家屋敷が続く二王座(におうざ)付近

臼杵城の見どころ(大手口から臼杵城跡)

大手口から臼杵城跡を見ていきます。 

 

鐙坂(あぶみざか)  古橋口から二之丸へと続く折れ曲がった登城道。

鐙坂(あぶみざか)  古橋口から二之丸へと続く折れ曲がった登城道。

鐙坂の途中から望む畳櫓(現存櫓)

鐙坂の途中から望む畳櫓(現存櫓)

畳櫓

 鐙坂を登ったところの中門櫓跡脇に位置する。畳櫓前の石段を上がり左に折れると大門櫓へと続く。

井楼(せいろう)櫓跡から見た畳櫓

平成13年に復元された大門(だいもん)櫓

平成13年に復元された大門(だいもん)櫓

二之丸跡から見た大門櫓(城内側)  左方には井楼櫓跡が残る。

大門櫓(左)と畳櫓(右)

大門櫓(左)と畳櫓(右)

 その間にある石垣上(柵に囲まれた部分)は井楼櫓跡。

時鐘(ときかね)櫓跡

時鐘(ときかね)櫓跡

会所(かいしょ)櫓跡

会所(かいしょ)櫓跡

宗麟候レリーフと国崩(くにくずし)の大砲(復元品)

宗麟候レリーフと国崩(くにくずし)の大砲(復元品)

 天正4年(1576年)ポルトガル人より宗麟候に佛狼機(フランキ)砲が贈られたが、これが日本初の大砲と云われている。宗麟候は、これを「国崩」と命名し、臼杵城の備砲として備えつけた。

勤皇臼杵隊之碑

勤皇臼杵隊之碑

 この碑は、明治10年(1877)に起きた西南戦役において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落した臼杵隊隊士43名の功績を永く伝えるために建てられたものです。

本丸跡から鉄門櫓跡(左側の石垣)後方の二之丸跡を望む。

 

二之丸と本丸は土橋で結ばれており、土橋の両サイドは空濠となっている。

江戸時代、空濠から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。

 臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557年)、天正16年(1588年)の火災で焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。

 また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器(せいかじき)や赤絵金襴手碗(あかえきんらんてわん)など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。

 大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城します。これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられます。

 その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡(現在の岐阜県)から転封してきた稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備されました。 その後、延宝4年(1676年)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してからは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。

二之丸跡(手前側)から土橋と、その後方の本丸を望む

 土橋を渡るとすぐのところに本丸の出入口となる鉄門を設けていた。土橋の両側は、本丸を守るため空濠が整備されている。

臼杵城の見どころ(卯寅口から本丸)

臼杵城跡案内図

卯寅口(うとのぐち)

 いわゆる「搦手口からめてぐち」と呼ばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから「井戸丸」とも呼ばれていました。

 本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島にうじま」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。

 卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられていました。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。

現在の卯寅口

現在の卯寅口

 右方の崖上が本丸跡。門からの道は、明治以降に新たに開削された現在の卯寅口明神への参道。

 「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではありません。

卯寅口門脇櫓と右後方は卯寅稲荷神社

卯寅口門脇櫓と右後方は卯寅稲荷神社

 参道(明治以降開削された道)は、手前から卯寅口門脇櫓の方向へと左折れとなって神社へと続く。

 井戸は、神社の下、卯寅口門脇櫓の右下に残る。

卯寅口門脇櫓

卯寅口門脇櫓

 外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見板張り、屋根は切妻屋根の櫓。

 現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854年)に建てられたことがわかりましたが、17世紀前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。

 延宝4年(1676年)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。

本丸

 江戸時代、二之丸と本丸の間の空濠から東側(右側)の一帯を「本丸」と呼んでいました。この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていません。

 江戸時代の二之丸よりも標高が低いところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。

井戸

 この井戸は、寛永年間に掘られた井戸で、深さが10m以上あり、昭和25年頃までは大きな木製の滑車をつけて水を汲んでいたが、今は使われていません。

 またこの井戸は、水量も豊富で海が近いにもかかわらず真水がでていました。

本丸跡

 本丸東側から二之丸方向を見た本丸跡。

本丸東南隅の亀首櫓跡  後方は臼杵湾。

天守櫓跡

 この場所にはかつて、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。

 最近の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高が臼杵城主であった文禄3年~慶長2年(1594~1597)ごろである可能性が高くなっています。

 その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の北西隅部の付櫓(天守櫓に付属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように改築されたことが江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明しました。

 天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平面が6間四方(約11.7m.)、土台部分から最上階(4層)までの高さが6間1尺(約12.0m.)であったことが記録されています。

天守台石垣

天守台石垣

 天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、ほぼ石山で割った状態のまま積み上げる、野面積と呼ばれる工法をとっています。

 一見、乱雑な積み方にも見えますが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしっかりとかみ合っているため、非常に頑丈な造りとなっています。

 これに対して臼杵城内に現在も残る石垣の大半は、天守台が造られたあとの江戸時代に積まれたものですが、これらのほとんどが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合わせる積み方になっています。見た目は整っていますが、天守台石垣ほど強度がないと考えられています。

空濠と土橋  

 空濠の左側が二之丸、右側が本丸となり、土橋後方に天守台が位置し、二之丸から土橋を渡ったすぐの右側石垣は鉄門櫓跡石垣。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通と典通(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空濠を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けました。土橋を渡るとすぐのところに鉄門くろがねもんという櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。

 空濠は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。

鉄門跡

 本丸の出入口を固めていた櫓門。

空濠跡

 土橋から南方向を見た空濠跡。中央の石垣上には武具櫓が建っていた。

土橋から見た空濠と天守台

 天守櫓から見おろす位置に空濠が造られている。

臼杵城絵図 本丸部分拡大(1636~1660)

臼杵城絵図 本丸部分拡大(1636~1660)

 江戸時代に入り、平和が続くと、藩主が政務を執行する空間「表おもて」と、藩主の生活空間「奥おく」としての機能を持つ「本丸御殿」が中心的な役割を担った。

 本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4年(1676年)、主な機能を二之丸(西の丸)御殿に移した。

臼杵城跡周辺のみどころ

臼杵城跡周辺図

臼杵城跡周辺図

 JR日豊本線臼杵駅から臼杵城跡まで徒歩6分(約430m)

JR臼杵駅前の臼杵石仏のレプリカ

JR臼杵駅前の臼杵石仏のレプリカ

 臼杵は臼杵石仏(国宝)が有名。

辻ロータリーにある「辻の大井戸」

辻ロータリーにある「辻の大井戸」

二王座歴史の道

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 寺院と武家屋敷が続く二王座付近は、城下町臼杵を代表する歴史の道。国の都市景観100選にも選ばれている。

八町大路(中央通り商店街)

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 安土桃山時代から現代まで続く歴史のある商店街。

県指定有形文化財 旧平井家住宅

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 江戸時代後期の建築様式をとどめている200石取りの上級武家屋敷。

旧臼杵藩主 稲葉家下屋敷(登録文化財)

旧臼杵藩主 稲葉家下屋敷(登録文化財)

 当屋敷は15代旧臼杵藩主稲葉久通ひさみちの長男順通まさみち氏が廃藩置県後帰郷した折の屋敷とするため明治35年(1902)に建てられた。