高天神城の歴史
高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。元亀2年(1571)には、武田信玄が徳川方となった高天神城を攻めており、このときは大規模な戦闘は行なわれませんでした。
天正2年(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原与八郎長忠(氏助)は1ヶ月程の籠城と激しい戦闘の末、開城し武田方に降っています。その後、武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることとなります。
天正3年(1575)5月の長篠の戦い以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城しました。高天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っています。 (文は現地説明板より)
高天神城の特徴【一城別郭】
一城別郭とは、中心となる曲輪が二つあり、それぞれが曲輪群を従えて独立した構造の城のことで、二つの城が連結して一つの城となっている。
高天神城は、東峰と西峰が独立し、尾根(井戸曲輪)でつながった構造である。
高天神城は複雑に張り出した尾根を巧みに利用して築かれた城で、東峰(本曲輪)と西峰(丹波曲輪)というほぼ同じ標高の頂点を二つ持つ。
東峰は周囲をほぼ断崖に守られ、曲輪を雛壇状に配置した構造。西峰は東峰ほど険峻な地形ではないため、築城技術的にはより新しい防御法が見られる。北に突出した堂の尾曲輪では堀切・横堀・竪堀などが駆使され、現在でもその遺構がよく残っている。
高天神城跡<東峰~西峰を歩く>
高天神城跡は、ハイキングコースとして整備されている。
古風な縄張を持つ東峰
▲追手門入口から入るとすぐ左にある渡辺金太夫屋敷跡(左)と後方は高天神城跡
▲南口駐車場(追手側登城口の駐車場)
看板のある場所から少し登った所が追手門跡となる。
▲追手門へ至る登城道。左手は断崖絶壁となっている。
▲写真の中央部分が追手門跡
追手門跡の説明板より「元亀2年3月武田信玄二万五千騎を率いて来攻、城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。天正2年5月武田勝頼二万騎を以って来攻包囲猛攻、6月18日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、城兵必死の防戦、大石久未、川田眞勝以下城兵死傷75名武田勢死傷253名に及んだ。天正8年10月徳川家康一万騎を以って当城包囲猛撃、23日本多忠勝城門に追ったが部下袴田源左ヱ門城兵と戦い討死した。天正9年3月22日夜半城兵総突出に際し、徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手櫓門を焼き落とした」
▲着到櫓跡
▲左へ行くと西峰の二の丸・高天神社・馬場平、右上に登って行くと三の丸・本丸へ至る。
▲三の丸の土塁跡
▲三の丸跡から見た城下の町並み
▲元天神社
▲城下を望む
本丸跡の説明板より「元亀2年3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。天正2年5月武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦7月2日休戦9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。天正9年3月徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢えに瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激闘全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。城郭焼滅廃城となる」
▲本丸に残る土塁跡
▲松幹化石
大規模な横堀と土塁を配置した西峰
▲東峰と西峰を連結する細長い尾根上の井戸曲輪跡
▲井戸曲輪跡の「かな井戸」
石段を上がると高天神社へ至る。
▲かな井戸を覗く
▲ニの丸跡
▲西の丸・堂の尾曲輪跡
▲本間・丸尾兄弟 戦死の址
天正2年6月、堂の尾曲輪を守備していた本間・丸尾兄弟は、武田軍の銃弾に当たり討死にした。
▲空堀跡
丸尾兄弟の墓(写真中央)のすぐそばに残る空堀跡。
▲空堀跡
▲三日月井戸
ここを下ると搦手門に至る。
▲搦手側登城口
アクセス
東名掛川I・Cより車20分。国道38号を南下、途中に高天神城跡への標示板あり。
下記写真は搦手側の入口。後方の山が高天神城跡。道路を直進すると北口駐車場がある。