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浮城として名高い備後国「三原城」を紹介

三原城の歴史

小早川隆景像

小早川隆景像

 ■三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島、小島をつないで築いた城で、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。

 ■城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

 ■小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物、樹木などが競売に付された。その後、鉄道(現在のJR)が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には三原駅が開業した。

 ■今では、市街化がすすみ天守台とそれをめぐる濠、船入櫓跡、船入り跡及び本丸中門跡を残すのみである

※小早川隆景(こばやかわたかかげ)
戦国の武将・毛利元就の三男で、12歳で小早川家の養子になり沼田(ぬた)小早川家を継いだ。兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させた。吉川とともに「毛利両川(りょうせん)」を形成して宗家を支えた。

 

備後国三原城絵図

備後国三原城絵図

■JR山陽本線三原駅1階に設置されている備後国三原城絵図。
 
■三原城は三原湾の大島と小島を石垣でつないだ海城で、天守台は大島の中心にあった。また、小早川水軍の母港の役割も果たす海賊城でもあった。

■地形種類は平城。

 

当時の三原城

■JR三原駅正面に飾られた三原城レリーフ

■JR三原駅正面に飾られた三原城レリーフ

 このレリーフは、享和2年(1802)に旧広島藩士で画家として著名な岡眠山(おかみんざん)が描いた「絹本著色登覧画図(けんほんちゃくしょくとうらんがず)」の一部分の複製である。原画は、三原城、佐木島をはじめ瀬戸内の島々を遠望したものである。三原浅野家の菩提寺である妙正寺の所蔵で、三原市重要文化財に指定される。

三原城の新旧対照図

三原城の新旧対照図

白い部分が城跡。かつては瀬戸内の波が三原城の真下を洗った。

現在では本丸、ニノ丸、三の丸、旧水域は、駅前南の繁華街になっている。

 

本丸を貫くJR三原駅

        駅南側の様子

        駅南側の様子

        駅の後方(北側)に天守台とそれをめぐる濠が残る

        駅の後方(北側)に天守台とそれをめぐる濠が残る

三原城の遺構

 

■天守台と3方の濠
JR三原駅北側

■船入櫓跡
駅南側のジャスコ三原店西側、三原市福祉会館の東側に位置する港町公園となっているところ。

■本丸中門跡・臨海一番櫓跡の石垣、濠
再開発ビル「ペアシティ西館」の西側

■近隣の和久原川付近に石垣の遺構が残存

天守台跡へは、駅構内(2階)から入る

天守台跡

天守台跡から見た三原駅新幹線ホーム

天守台跡から見た三原駅新幹線ホーム

天守台と濠

天守台と濠

右後方の市街地は現在の館町(やかたまち)で、武家屋敷が配置されていた曲輪。

■天守台

城地は都市化と鉄道の駅構築のため転用され、三原駅北側に天守台、濠が残る。

   「天主台石垣」

 日本一の規模を持つこの天主台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。三原城が造られた1567年より約10年後に信長によって安土城が造られ、初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行しました。然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
 
 この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、古式の石積形式を400年経た今日まで立派に伝えております。
 
 1707年の大地震では、城内を役夫2万5千人を動員して修理した。しかし破損箇所は・・・「元のごとく成りがたかりしを、伝右衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、遂に築きおさめければ・・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。

天守台を取り囲む濠

天守台を取り囲む濠は、幅約30m。石垣の高さは東西とも約13mあり、天守台四隅に櫓とそれをつなぐ多聞櫓があった。

■東大手門跡

右方向に行くと和久原川に架かる神明大橋に至る。

広島大学附属三原小・中学校の東南隅の東大手門跡に建つ碑

 ■和久原川水刎

■和久原川に架かる東町神明大橋のたもとに残る鋸刃(のこば)状の「刎(はね)」と呼ばれる石組。

川岸から川中へ向けて三角形に石垣を築き出し、川の流れを弱める役と、流れの方向を変えて、三原城の「東築出」の用地を確保する為に造られた石積みと考えられます。

■船入櫓跡

城南東の小島に手を加えた海上の櫓で、瀬戸内海に面していた。

船入櫓の石垣

船入櫓跡と潮入り

船入櫓跡上部

■本丸中門跡  臨海一番櫓址

■本丸中門跡  臨海一番櫓址

JR三原駅南側のペアシティ三原西館(三原国際ホテルなどが入居しているビル)西側に残る本丸中門跡および一番櫓址。

濠はJRによって分断された北側の濠に通じ、海水を引き入れていた。

臨海一番櫓址前方は、当時は海であった。

本丸中門跡

臨海一番櫓址

■三原城の移築門

 三原市重要文化財   順勝寺山門

三原市重要文化財 順勝寺山門 <三原市西町>

三原城内にあった御作事奉行所門を、明治10年(1877)に順勝寺(じゅんしょうじ)に移したものである。永禄から天正年間(1558~92)の作と推定される。
構造形式は、四脚門、切妻造り、本瓦葺き。

■三原城周辺図

■三原城周辺図