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秀吉が初めて築いた城「長浜城」

市指定史跡 秀吉出世城 長浜城跡

所在地

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■滋賀県長浜市公園町

●琵琶湖のほとりに位置する平城
一帯は豊(ほう)公園として整備。長浜は、羽柴(豊臣)秀吉が江北12万石の領主として、天正2年(1574)から翌年にかけて、はじめて自らの城を築き城下町を形成した地である。

●交通
JRびわこ線(北陸本線)長浜駅より徒歩5分。

●訪問日 2010年5月1日(再訪問)

歴史

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 ■長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。

 ■姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃、小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城したことがある。

 ■江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。

 ■建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。

 ■城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。
(城内説明板より)

構造(縄張)

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▼長浜城再現図(現地説明板に加筆・転載)

■長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。その後、山内一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(縄張)は現状から推定することはできません。

■古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・東西約0.7キロの大きさであったと考えられます。

遺構

長浜城の天守閣跡

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 ここは長浜城の天守閣があったといわれる所です。その天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間とあります。

長浜城と「おかね」さん

 天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。

 
 天正2年(1574)ごろ、長浜城が築かれることになりました。強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かってこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。
(城内説明板より)

■太閤井戸碑

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天守の西の湖岸にある。長浜城築城時に秀吉が掘らせたといわれている。

■太閤井戸跡

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琵琶湖の水量が多い時期は水面下に沈み、碑だけが見える。かつては城内にあった井戸で、城郭が現在よりも琵琶湖に張り出していたことがわかる。

■本丸跡と復興天守

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■内堀跡に復元された本丸橋

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この地一帯は、秀吉築城時に内堀があった場所。明治42年(1909)より城跡が豊公園として整備された時に架橋され、本丸橋として親しまれてきた。

■長浜城石垣根石

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復興天守入口近くに、右の境界碑とともに展示されている。

■旧長浜領境界碑

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長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた。この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに建てられていたといわれる。なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南 長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。

■大通寺台所門

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山内一豊時代の長浜城大手門といわれる。

■知善院山門

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内藤信成時代の長浜城の搦手門を移築したと伝わる。

再建造物

■長浜城復興天守

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 昭和58年(1983)に城郭様式の博物館として再興され、市立長浜城歴史博物館として開館。建物は鉄筋コンクリート造で、2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式である。平成18年2月、館名が長浜市長浜城歴史博物館と改まった。

■天守からの眺め

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豊公園とJR長浜駅方面を望む。長浜駅は中央のマンション右下になる。

■天守からの眺め

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琵琶湖と湖岸道路。

長浜城下を歩く

長浜城周辺地図

長浜城周辺地図

秀吉と三成の出会いの像

長浜城主の羽柴秀吉校は、鷹狩の途中に観音寺(米原市旭町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にゆるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先程よりも少し熱いお茶を茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公はさらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗にに熱いお湯を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方一つにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年がのちの石田三成で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。

三成公は、ここから5キロメートル東の長浜市石田町の士豪の子として生まれ、今も出生地あたりでは三成の官名にちなんだ治部という小字が残っています。

また、観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。

長浜城家臣団屋敷跡

ここに、竹中半兵衛の歌碑が建つ。

長濱の地名起源歌碑

「君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで」竹中半兵衛の歌碑を刻む。この歌が長浜の地名の起源になったとされる。

豊国神社

1600年(慶長5)、長浜の町衆が秀吉の遺徳を偲んで建立。

長浜城大手門跡

大手門通り(縦の道)を、東から西に見た様子。マンション後方には長浜城復興天守が位置する。

外堀くすのき通り

外堀くすのき通りは、長浜城のもっとも外を囲う外外堀跡。この堀から西(道路左側)が城内であった。

長浜城外堀跡碑

外堀くすのき通りに建つ。長浜城は内堀と、内外堀・外外堀によって3重に囲まれていた。

北国街道

中山道鳥居本宿を起点とし、近江と北陸を結ぶ街道。

安藤家

北国街道沿いにあり、秀吉から49町の自治をまかされた長浜十人衆の一人だった安藤家。長浜を代表する町家建築。

舟板塀の町並み

米川河口の長浜港は、江戸時代の彦根藩3湊のひとつ。舟板塀は、土蔵の腰板に舟の廃材が張られた土塀。

札の辻

北国街道(左右の道)と大手門通り(縦の道)が直角に交わる交差点の所が高札の掲示場であった「札の辻」。高札は、江戸時代における情報発信のメディアであった。左角の黒い建物は黒壁ガラス館。

黒壁ガラス館

黒壁ガラス館は、以前は明治33年(1900)に開店した第百三十銀行長浜支店の建物であったが、解体の危機に瀕し、その後、改修して黒壁ガラス館としてオープンした。