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石田三成の「過ぎたる」城<佐和山城>

佐和山城

【所在地】 滋賀県彦根市

■鎌倉時代、近江守護となった佐々木定綱の六男、佐保時綱が築く
■標高232mの佐和山一帯に築かれた山城

佐和山城の歴史

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歴史概要

 佐和山のある湖東地方は、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝であり、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となった。中世に入り、近江を治めた佐々木氏が、近江南部の六角氏と近江北部の京極氏に分かれると、両雄の勢力の境に佐和山にも要害の地として城が築かれ、攻防戦が繰り返された。

 そして戦国時代、京極氏の被官から勢力を伸ばした浅井氏と、尾張から天下統一をめざした織田信長との間で、佐和山城争奪戦が展開された。

    佐和山山頂の城址碑

    佐和山山頂の城址碑

 

■元亀1年(1570)姉川の合戦で浅井氏は織田軍に敗れ、浅井氏属将の磯野員昌は、急いで佐和山城に戻り、八か月間ほど籠城するも、織田軍に包囲され開城する。

その後、信長と豊臣秀吉の下でしばしの小康状態を迎え、石田三成が城主(1595~1600)となって城の規模も拡大される。 

 天正10年(1582)信長が本能寺で横死後、後継者の羽柴秀吉は、佐和山城に、堀秀政、堀尾吉晴、その後に、石田三成を入城させた。三成は、従来の砦規模の城を、本格的な城郭として建て替え、東麓の鳥居本方面を大手とし、本丸を中心に西の丸・二の丸・三の丸・太鼓丸、5層の天守などを構える一大山城を完成させた。

 「治部少に過ぎたるものが二つある。島の左近(三成の重臣)と佐和山の城」と落首されるほど、当時の佐和山城は名高い名城であった。
※治部少~石田三成の官名、治部少輔(じぶしょうゆう)

 

■慶長5年(1600)、天下分け目の関ケ原合戦で三成は敗れ、佐和山城にも徳川方の軍勢が押し寄せ、激戦ののち落城し、一族は滅亡する。

 翌年佐和山城には、徳川四天王のひとり、井伊直政が封じられた。佐和山城は山城で、城下の建設には不向きであったため彦根山に新しい城の築城を計画するが、その最中に死去。嫡子の直継が相続して、彦根城の築城工事は継続される。この時、佐和山城の建物は取り払われ、彦根城の資材として運ばれた。石垣の石まで掘り起こし、移されて、佐和山城は跡形もなくなり、彦根城ができあがった。

 現在、佐和山に城の遺構はほとんど残らず、わずかに曲輪跡・堀切・土塁・井戸などがわかる程度である。 

佐和山城をゆく

■佐和山城へは、JR東海道本線(琵琶湖線)彦根駅から、徒歩約15分の龍潭寺(佐和山城址ハイキングコース入口)から登城(谷も登城口あり)。ここから本丸まで40分前後かかります。
なお、訪城は、本丸とその周辺だけです。大手門跡や他の曲輪跡などは未訪問です。

石田三成屋敷跡

 佐和山山麓に築かれている屋敷跡。

石田三成像

 佐和山城への登城口である龍潭寺に立つ。

登城道

 尾根筋に延びる細い険しい道。

登城道の途中で佐和山城址を望む

 戦国時代には、北近江の戦国大名浅井氏と、南近江の戦国大名六角氏のまさに“境目の城”で、両者の間でたびたび激しい攻防戦が繰り広げられた。

本丸跡

 三成時代はここに5層の天守があったという。「三成に過ぎたるもの」と称されるほどの威容を誇る堅城へと改修した。

 彦根城の前身ともいうべき佐和山城は、彦根城が築城されるまで、近江の要衝を守る城と位置づけられていた。

女郎ヶ谷

 

 本丸の東側の谷には「女郎ヶ谷」の名があり、関ヶ原合戦後、三成が敗れ、佐和山城落城のとき、城内の女性たちが集団で身投げし、悲鳴やうめき声が三日三晩続いたという悲話が残っている。

千貫井

 佐和山の南斜面にある、城中の飲料水として用いられた井戸。

 お金の千貫目にかえがたい貴重な井戸というので命名された。

巨石

巨石が二個重なっているが、これは佐和山城天守の石垣とされている。

 佐和山城は、歴史に残る名城ながら、発掘調査などはされていない。石垣も彦根城築城に際して徹底的に持ち去られ、佐和山に往時の遺構はほとんど残されていない。