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中世と近世の城郭が混在する「鳥取城」

国指定史跡 史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 鳥取城跡
【所在地】鳥取市東町 【訪城日】2018年12月(再訪門)

久松山きゅうしょうざんの山麓(山下ノ丸)と山頂(山上ノ丸・標高263m)に城跡がある。(鳥取県庁から望む)

久松山きゅうしょうざんの山麓(山下ノ丸)と山頂(山上ノ丸・標高263m)に城跡がある。(鳥取県庁から望む)

◆城の歴史◆

戦国時代の鳥取城

 城は、16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、1573年(天正1)、山名豊国は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(のちの豊臣)秀吉との間で壮絶な籠城戦が繰り広げられました。

 この頃の城の姿は、戦闘時は山城を利用し、通常の居住空間は山麓にありました。敵が登りやすい尾根には、尾根を切り盛りして平らな敷地を造り、その周囲に切岸と呼ぶ急な斜面を造り防御としました。まさに城の字のごとく、“土から成る”城であり、城と言えばイメージされる石垣や天守はなかったと考えられています。

 

■吉川経家(きっかわつねいえ)の鳥取城籠城と自刃のこと

 天正9年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必死となりました。この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の3月、部下4百余人を率いて鳥取城に入城しました。

 羽柴秀吉はこの年の7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釋山(太閤ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約20キロメートルに及ぶ大包囲陣を敷いて、徹底した兵糧攻めをしました。

 鳥取城に籠った2千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、8月以降、次第に飢えて来ました。そして、9月、10月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。世に言う「鳥取城の渇殺(かつえごろし)」であります。

 経家は遂に意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。この時秀吉は、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめましたが、経家は、「すべての責は城将たる自分にある」として、兵と民の生命を救って10月25日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。時に年35歳。その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています 。
(文は現地説明板より一部掲載)

安土桃山時代の鳥取城

 兵糧攻めの後、新たに城主となったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤でした。彼は鳥取城に石垣や天守を築き(近世城郭)、城の姿を一新したとされます。息子の長房は、1600年(慶長5)の関ケ原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井茲矩や竹田城(兵庫県朝来市)主、赤松広秀(斎村政広)などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開城しました。

江戸時代の鳥取城

 関ケ原合戦後には、池田長吉が入ります。長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟で、鳥取城は姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。しかし、1615年(元和1)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。1617年(元和3)、姫路城主池田光政は所領減封の上、因幡伯耆32万石の領主として鳥取へ転封となり、現在の鳥取県域とほぼ同じ鳥取藩が誕生しました。

 鳥取城は宮部時代から5,6万石規模の大名の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓を32万石の政庁として整備しました。1632年(寛永9)、岡山城主池田忠雄の死去に伴い、3歳の光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟・光政との国替を命じました。以後、鳥取城は光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続しました。

近代の鳥取城

 明治維新の後、1873年(明治6)の廃城令では、鳥取城は軍事的な必要性が認められ建物の多くも陸軍の施設として再利用されました。しかし、国内の政治が安定すると、陸軍の撤退が決定し、1879年(明治12)に不要となった建物のほぼ全てが撤去されました。

 城跡はその後、三ノ丸や籾蔵跡が学校用地として転用されたほか、扇御殿跡に宮廷建築の第一人者である片山東熊の設計による仁風閣(国重要文化財)が建てられました。大正時代になると、市民から要望を受けた旧藩主鳥取池田家によって久松(きゅうしょう)公園が整備されました。設計は、明治神宮外苑(東京都新宿区)の設計者でもある折下吉延でした。

現在そして未来の鳥取城

 大正期以降、久松公園として親しまれた鳥取城跡ですが、1943年(昭和18)の鳥取大地震(震度6、死者1210名)によって城跡も大きな被害を受けました。翌年、旧藩主鳥取池田家は、震災の復興に立ち向かう市民を勇気づけるため、鳥取城跡を鳥取市に寄贈します。城跡の保存の意志を引き継いだ市は、国史跡指定を契機として、石垣の修理を中心に城跡の保全と活用に取り組んでいます。2006年(平成18)には、建物復元を含めた長期的な整備計画を策定し、現在、城の正面玄関にあたる大手登城路の復元整備に取り組んでいます。

(文は、観光案内所(鳥取駅構内)配布の「鳥取城跡(鳥取市教育委員会事務局文化財課)」小冊子より)

 

■鳥取城跡大手登城路復元整備工事について

 鳥取城跡は、織田信長が「堅固な名城」と称した戦国時代の山城を起源とし、江戸時代には国内12番目の規模を誇った鳥取藩32万石の居城となった城跡です。鳥取市では、町の宝である鳥取城跡のうち、特に江戸時代の城の姿をわかりやすく伝えるため、2006年~2035年の30年間にわたる復元計画を立てました。その第1段階として、城の正面玄関であった大手登城路の復元整備工事を行っています。この復元は、将来的に城の中心的建物であったニノ丸三階櫓の復元を視野に入れたものです。国指定史跡の中心的な建物復元は、多くの研究を踏まえることが定められているため、鳥取市では、大手登城路の復元にむけた研究の蓄積を踏まえてニノ丸三階櫓の復元について検討を進める予定です。      


大手登城路の復元整備範囲(白枠内。現地説明板の写真より)

 

ニノ丸の麓に建つ、フレンチ・ルネサンス様式の白亜の洋館は仁風閣。三ノ丸の建物は鳥取西高校。

擬宝珠橋(ぎぼしばし)

 

幅約6m、全長約36m、国史跡における復元橋としては、国内最長となる木造橋。橋を渡った左側の茶色のシートに覆われている所が中ノ御門跡。
 2018年10月、渡り初めが実施され、平成31年2月28日までは、橋を渡ることができる時間帯は8:00~17:00となっています。

 

大手登城路復元整備イメージ図(現地説明板の写真より)

 

 中ノ御門~橋に面した表門(幅約9m、高さ約5m)と二階建ての櫓門(幅約10m、高さ約9m)からなる城の大手門です。

 下乗橋~切石で区画された広場で、登城の際に馬や駕籠から下りる場所。ここには、藩主専用の水を汲んだ井戸もありました。

 太鼓御門~幅約24m、高さ9.5m、藩主の住まいがあったニノ丸や三ノ丸の門で、城内最大の門。

《鳥取城山下ノ丸を歩く》

鳥取城山下ノ丸全体図

鳥取城山下ノ丸全体図

2018年12月現在の擬宝珠橋、中ノ御門、太鼓御門一帯の大手登城路復元整備工事の状況

ニノ丸跡から見た大手登城路の復元整備工事の全景

太鼓御門

 関ケ原の戦い後に入城した池田長吉は、慶長7年(1602)から城内の大改造に着手しました。特に久松山麓の「山下ノ丸」と呼ぶニノ丸、三ノ丸などを整備し、現在の鳥取城の基礎をつくりました。この時、大手口を県立博物館の入口になっている北ノ御門から、現在の中ノ御門に改めました。城下からニノ丸、三ノ丸へは、堀の擬宝珠橋を渡り、中ノ御門の櫓門をくぐり、太鼓御門を通ってから入ることになります。

 太鼓御門は、左右の石垣に懸け渡した桁行12間(約22m)、梁行2間半(約4.5m)の櫓門です。御門の渡櫓に時刻を知らせる太鼓が据えられていたことから、この名がつけられました。

 太鼓御門石垣の下(太鼓御門と中ノ御門の間)は、家臣などが登城する際、駕籠や馬から降りる場所で、下乗場(げじょうば)と呼ばれていました。ここからは徒歩で上がることになっており、槍の所持も禁じられていました。

太鼓御門石垣

 

太鼓御門の石垣は、城内に入ってまず相対する高石垣で、正面の高さは約7m、石垣の傾斜もきつく築かれ、威圧感のある石垣となっている。
 以上が復元整備についての概略となります。この後は、各曲輪を巡ります。

北ノ御門跡

 

先ずは北ノ御門跡からニノ丸を目指します。 北ノ御門を通り抜けると、現在、左側は鳥取県立博物館、右側は仁風閣となり、山側に進んだ所に西坂下御門が復元されている。

西坂下御門(復元)

 1867年(慶応3)に創建されたが、1975年(昭和50)の大風で倒壊破損し、現在の門が復元された。
 この門をくぐり、石段を上がって行くとニノ丸の石垣群が展開する。ニノ丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれており、昭和32年(1957)に国の史跡に指定された後、最初に石垣の修復工事が行われた。

江戸時代末期のニノ丸の主な施設(現地説明板の写真に追記)

 ①三階櫓②走櫓③菱櫓④隅(角)櫓⑤鉄御門⑥ニノ丸御殿(表向)⑦ニノ丸御殿(中奥)⑧ニノ丸御殿(奥向)⑨裏御門

 ニノ丸には、江戸時代の前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。鳥取池田家三代・吉泰の時代に御殿が三ノ丸に移され、享保5年(1720)の石黒大火で全体が焼失しました。三階櫓などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化3年(1846)になるまで再建されませんでした。

水堀越しに望むニノ丸跡の石垣群

 ニノ丸下の扇御殿跡には仁風閣が建ち、さらに水堀に接した曲輪(丸ノ内)には米蔵が建ち並んでいた。現在見られる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備されたものです。特に元和3年(1617)に入城した池田光政は、それまで5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新します。中ノ御門から続く大手登城路や、天球丸・ニノ丸も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しました。

 城内には、幕府の規制で三階以上の建物はありませんが、ニノ丸には創建時、最新の建築様式だった層塔型(正方形の櫓台に築かれ、上階を下層より規則的に小さくして積み上げた櫓。初期のものは装飾がないデザインが特長)の三階櫓が、山陰地方で初めて建てられました。
 
 その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていきます。江戸時代の終わりには、ニノ丸や三ノ丸が大きく拡張されたほか、三ノ丸の南側には凶作に備えて籾を保管する倉庫群が造られました。
 城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れました。城の建物は残っていませんが、宝扇庵(旧化粧の間)や倒壊後復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えています。

 

裏御門跡

 ニノ丸の裏門。江戸時代後期までは粗略な門だったが、江戸末に渡櫓門に改築された。右側の石垣は三階櫓台。
 石段を上がって左に向かうと登石垣が築かれている。

登石垣

 1849年(嘉永2)に拡張されたニノ丸の北端には、幕末のものとしては国内唯一の登石垣が築かれた。

三階櫓台

 この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失したのちは、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた。

ニノ丸御殿跡から見た三階櫓台

 昭和18年(1943)9月10日、鳥取地方を震度6の大地震が襲い、鳥取城の石垣も各所で崩れました。昭和34年(1959)、崩れた石垣のうち最初に始まったのが、ニノ丸三階櫓の石垣の修復でした。崩れた部分を復元するため、その周辺も一度解体して再び積み上げるという大規模な工事でしたが、江戸時代と同様の技術で全工程が人力で行われ、工期は7年間に及びました。

石切場

 ニノ丸背後にある露出岩盤は、1619年(元和5)頃からはじまった城の大改修の際に石垣の石材を調達した石切場跡。

走櫓跡と櫓台

 家老などが政務を司るための場所。

菱櫓跡と櫓台

 菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。櫓台には二層の櫓が建ち一階は四間四方であった。
 ニノ丸の西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現わしており、明治維新までその偉容を誇っていた。

走櫓跡(左)と菱櫓跡(右)の櫓台

 三ノ丸から見たニノ丸東南隅の石垣群。後方の山頂部が山上ノ丸。

表御門跡

 藩主の住むニノ丸の正門。

表御門跡(天球丸から望む)

天球丸跡

楯蔵跡から望むニノ丸と天球丸の石垣群

楯蔵跡から望むニノ丸と天球丸の石垣群

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに寄寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。
 天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた3層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。3層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられたことが記録に残されている。

天球丸を囲む石垣

 天球丸は、山下ノ丸の最高所(標高51m)に位置し、東側を巨大な竪堀で守った軍事的に最も重要な場所であった。
 この辺りの石垣は、劣化が進んでいたため、史跡の保存と安全確保のため修復工事が行われた。

天球丸の巻石垣(復元)

 亀の甲羅状の石垣は、設置された箇所の石垣が、文化4(1807)年頃に崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれました。角を持たない形から、巻石垣とも言われ、川の護岸や港の突堤に関わりのある職人が築いたとされます。
 こうした石垣が、城に用いられる事例は、鳥取城以外に無く、貴重であることから、絵図などをもとに復元された。

時代の異なる建物跡(復元)

 石垣修理(2003年~2008年)に伴う発掘調査の際に、重なりあうように見つかった三階櫓跡(左)と武具蔵跡(右)の出土状況を、石材を用いて表示した建物跡。三階櫓は、江戸時代中頃の火災で焼失し、以降再建されなかった。その後は空き地のままであったが、天保10年(1839)に武具蔵が建てられた。ここからは、武具蔵に保管していたと思われる鉛製の鉄砲弾が出土している。

 

《次は急坂の中坂道を登り「山上ノ丸」を目指します。約40分(距離約1.5km)かかります》

山上ノ丸案内図

 鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことに始まる。以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも類例の少ない城跡である。このことから、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定された。

 鳥取城の築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは武田高信の時期であり、後に山名豊国がここに移った。この頃の鳥取城の中心は、山上ノ丸とそこから西方に延びる非常に急な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を平らに削った平坦な遺構が数多く残っている。

 山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っている。本丸には、天守櫓・車井戸・多聞櫓・着見(月見)櫓等を設けていた。天守櫓は元禄5年(1692)に落雷のため焼失してしまい、再建されることはなかったが、その他の建物は明治時代の初めまで残っていた。山上ノ丸には、本丸の他にも東側にニノ丸、三ノ丸とよばれる曲輪があり、一段低いところに出丸が設けられている。西の尾根を下ると鐘ヶ平、太鼓ヶ平、松ノ丸などの曲輪が残されている。

 なお、鳥取城は戦国時代の末に、織田氏と毛利氏の対立から二度にわたって、羽柴秀吉の攻撃を受けている。特に天正9年(1581)の秀吉と鳥取城将・吉川経家との戦いは「鳥取の渇(かつ)え殺し」として知られ、そのときに秀吉が築いた陣跡が本陣山に残っており、太閤ヶ平として鳥取城跡とあわせて指定されている。(文は現地説明板より)

山上ノ丸下からニノ丸跡と本丸跡を望む

 山上ノ丸案内図「現在地」からの眺め。中央の石段右側がニノ丸、左側が本丸となる。なお、石段を登らずに木柵を右に進むと東坂の上城門、さらに太閤ヶ平へと至る。

ニノ丸跡

 建物は、休憩所で、休憩所後方の一段下が三ノ丸となる。

本丸を囲む石垣

 鳥取城の山上ノ丸は、山頂部を数段に切り開いて構築し、その中央部の一段高い場所にあたるこの地が本丸である。本丸には、天守櫓の他、着見櫓・多聞櫓、それをつなぐ走櫓などの建物があり、御天守奉行がこれを守っていた。

本丸入口

 石段を上がった左手は月見(着見)櫓跡。左下に見える曲輪は出丸。

車井戸と後方は天守台

 本丸中央部の車井戸は、池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時に掘った井戸と伝えられている。

天守台

 1辺が約10間(約20m)と城内最大の櫓台。

天守櫓跡

 中央には、穴蔵という貯蔵庫があった。

出城

 本丸より一段低いところに設けられている。訪問時は立入禁止区域になっていました。
 この後は、本丸から太閤ヶ平に向かいます。本丸の石段を下って、ニノ丸下から三ノ丸下に回り込み太閤ヶ平方向へ少し歩くと上城門、登石垣が残っています。

東坂の上城門

 本丸の三ノ丸下に築かれており、右上、切岸状の上が三ノ丸となる。斜面を遮る登石垣が付属しており、倭城(わじょう。文禄・慶長の役に際して日本軍が朝鮮半島の南部各地に築いた日本式の城)との関連性が指摘されている。

本丸から東1.5km先に見える本陣山

 無線中継所が建っているところが太閤ヶ平。

本陣山(標高252m)

 天正9年(1581)、羽柴(後の豊臣)秀吉が、鳥取城を兵糧攻めした際に、この山の頂きに本陣を構えました。本陣部分は、太閤ヶ平とも呼ばれていますが、巨大な土塁や空堀が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた臨時的な土の城としては、日本最大級と評価されています。

次は太閤ヶ平です、山上まで登り体力はかなり消耗していますが、たまたま出会った地元の方に道案内や城の説明を聞きながら歩いたのでなんとか辿り着くことができました。山上ノ丸から太閤ヶ平までは、約1時間(徒歩距離約2.3km)です。

<太閤ヶ平を歩く>

史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 秀吉本陣跡(太閤ヶ平たいこうがなる)

国指定史跡 「太閤ヶ平」 昭和32年12月18日指定

秀吉本陣跡は、後に太閤となった秀吉にちなんで「太閤ヶ平」と呼ばれている。

 天正9年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものである。

 信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正9年7月12日鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左右に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方にははるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所であった。これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備しており、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆400と因幡国方衆1.000余であった。

 毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に35歳であった。死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。

 この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空堀を廻らした曲輪の跡が厳然として残されている。また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれている。(現地説明板より)

太閤ヶ平(秀吉本陣)および大防衛線

 全国統一を目指す織田信長は、中国地方に勢力を持つ毛利氏と対立を深めて行き、天正8・9年(1580・81)の2度、羽柴(後の豊臣)秀吉を総大将として鳥取に侵攻し、毛利方の拠点であった鳥取城(久松山頂)を攻めました。

 この地に築かれた秀吉本陣は、高低差4m以上の土塁(土の堤防)と空堀に囲まれ、内寸58m、櫓台も設置した、大型かつ強固な防御性を備えた構造をしています。また、周囲のあらゆる尾根に陣城を配置し、鳥取城に対する強大な包囲網を敷いています。本陣および陣城群は、一城を攻めるにはあまりに大規模であることから、毛利氏との本格的な戦闘に備えた陣城であるとともに、信長を迎え入れるための本陣でもあった可能性が指摘されています。
      
■標高263mの久松山の東側、標高251m本陣山山頂に築かれた本陣は、他の陣城と比べ圧倒的に大きなものでした。
■正面にあたる大手口は南側にあり、郭内は西隅が一段高い構造となっています。
■埋まっていますが、堀の深さや長さも今以上と推定されます。
■本陣の西側(鳥取城側)の前線部分には、各陣城間の谷地形を二重・三重の堀でつないだ大防衛線が築かれています。(現地説明板より)

大防衛線の二重竪堀

 鳥取城天守跡から太閤ヶ平に向かうルート上の(伝)羽柴秀長陣跡の下に残る竪堀です。案内板は無く、地元の方に教えてもらい分かりました。

鳥取城跡&太閤ヶ平ルートマップ

<各コース所要時間>
兵糧攻め対陣コース(鳥取城天守跡~太閤ヶ平)・・・1時間(約2.3km)
太閤ヶ平コース(太閤ヶ平~鳥取東照宮鳥居前・市立歴史博物館)・・・1時間30分(約3.5km)

※下山時は、地元の方のお勧めで展望もよく歩きやすいとのことで太閤ヶ平コース(アスファルト道)を歩きました。(ルートマップは現地案内板に追記)

一辺50mにもなる方形状を呈し、周囲の土塁の高さは最大で5mもある大型な造りである。
周囲には空堀を持ち、櫓台なども備えていた。(太閤ヶ平遺構図は現地説明板に追記)

太閤ヶ平遺構図ⒶからⒷ方向の眺め

 アスファルト道の右側は、太閤ヶ平を囲む土塁。鳥取城天守跡からのルートでは、最初に出会う太閤ヶ平は、この場所になります。

太閤ヶ平遺構図ⒶからⒷにかけての土塁

 土塁とアスファルト道の間には空堀が残る。突き当りがⒷ地点で、奥の建物は、無線中継所です。

太閤ヶ平遺構図Ⓑ地点の様子

 

 ここが太閤ヶ平への入口です。縄張図が記載されている説明板の左奥に、搦手虎口が築かれており、ここが内部への入口になります。

太閤ヶ平遺構図Ⓐから見た櫓台

 下山時は、このアスファルト道に沿って右奥の方向へと麓に向かいました。他の道よりも少し距離は長いですが、歩きやすく、地元の方のハイキングコースとして利用され、途中には展望所、休憩棟もあります。

上写真の「土塁」上から見た右折れの土塁

太閤ヶ平遺構図ⒶからⒷ方向を見た写真で、搦手虎口の後方は、無線中継所が立つ馬場跡

窪地状突出部

 船の先端を思わせるような構造で、狭い入口に窪地があり、半地下室の施設があったと考えられている。

大手虎口側の曲輪跡

 左側の土盛り部分は土塁で、土塁下は空堀となり、その右側が曲輪跡。

大手虎口(内部側)

 虎口の右側は、櫓台(右写真)。

曲輪側から見た櫓台