文系の雑学・豆知識

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瀬名姫(築山御前)のプロフィール・略歴

天文11年(1542)?~天正 7年(1579)

 瀬名姫は、駿河庵原(いはら)郡瀬名郷で生まれた。生年は不明だが、家康公と同じ天文11年(1542)とも、それより前(8~9歳年上)であったともいわれている。父親は瀬名郷主の関口刑部少輔親永(義広)、母は今川義元の妹(養妹ともいわれている)で、瀬名姫は義元の姪にあたる今川一門である。天文17年(1548)、親永が養父の遺領を嗣いで、持舟城主となり、母とともに駿府へとやって来た。そこで瀬名郷からやってきたので、瀬名姫と呼ばれるようになったという。家康公が人質として駿府にやって来るのは翌天文18年(1549)年12月のことである。

 弘治 3年(1557)正月15日に瀬名姫は、元服して松平元信と名乗っていた家康公(16歳)に嫁ぐ。結婚当初は仲睦まじい夫婦であったようで、永禄 2年(1559) 3月に嫡男・竹千代(のちの岡崎三郎信康)を、翌 3年(1560)には長女・亀姫を生んでいる。

 しかし、永禄 3年(1560) 5月19日の桶狭間合戦で、瀬名姫の伯父である今川義元が、尾張の織田信長に討たれたのを境に夫婦の仲は一変することになる。家康公が義元の跡を継いだ氏真の撤退命令を無視するのみならず、勝手に織田軍と戦い、やがて和睦し、同盟を結ぶに至ったことで、氏真は家康公の裏切りに怒り、瀬名姫母子を軟禁状態に置き、さらに瀬名姫の実父である関口親永を切腹させてしまったという。以後、家康公と瀬名姫の間は不仲になり始めたといわれる。

 永禄 5年(1562) 2月中旬、人質に交換により、母子ともども家康公の待つ岡崎へと移った瀬名姫であったが、家康公は織田信長をはばかり、正室であるにもかかわらず瀬名姫を城外の屋敷に住まわせたという。屋敷のある地が總持尼寺の築山領であったことから、この頃から瀬名姫は築山御前(築山殿)と称されるようになった。しかし家康公がこの屋敷に渡ってくることはなかったという。瀬名姫が岡崎城内に移ったのは、元亀元年(1570) 4月下旬になってからのことであったという。又、この頃に家康公が浜松城に移った際にも瀬名姫を同伴せずに、嫡男・信康とともに岡崎に置いている。

 天正 7年(1579) 8月29日、瀬名姫は、甲斐の武田勝頼に内通した疑いで、弁明のために岡崎から浜松へと向う途中、家康公の命を受けた家臣の野中三五郎重政と岡本平右衛門時仲によって、遠江小藪村(浜松市富塚町)の佐鳴湖畔で殺害された。同じく疑いをかけられた信康が、遠江の二俣城で自刃する半月前の事であった。この件に際しては瀬名姫、信康親子に非があったためといわれることが多いが、不審点、疑問点も多くあるといわれ、真実は闇の中に葬り去られた可能性も十分に考えられるという。

 瀬名姫の遺骸は浜松の西来院に葬られた。法名は、西光院(のち清池院)。なお、瀬名姫の首級は織田信長の首実検の後に岡崎に返され、天正 8年(1580)、首級を埋めた築山神明宮が建立されている。正保 3年(1646)、その地に足軽屋敷を造るため、欠町にある八柱神社に合祀し、霊を祀ったと伝えられ、首塚がある。又、両町の祐伝寺にも瀬名姫(築山御前)の墓がある。

西来院にある瀬名姫(築山御前)の墓

西来院にある瀬名姫(築山御前)の墓