文系の雑学・豆知識

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松平清康のプロフィール・略歴

永正 8年(1511)~天文 4年(1535)

 家康公の祖父である松平清康は、永正 8年(1511)、三河安祥城(愛知県安城市)で生まれた。父は松平氏 6代当主の松平信忠で、母は諸説あるが、水野氏出身の女性といわれている。大永 3年(1523)に信忠から家督を相続し(暗愚な当主であったといわれる信忠は、先代で、まだ存命であった 5代長親によって隠居させられたという)、清康は13歳で 7代当主となる。

 翌大永 4年(1524)、西郷信貞の山中城を攻め落とし、さらに信貞を威嚇し、娘の於波留を嫁とすることで、信貞の婿となり、居城を安祥から信貞の居城であった岡崎へと移した。しかし、この菅生川南岸の明大寺にあった旧岡崎城は、狭く、軍事的に不十分であったため、龍頭山の砦を拡張・整備し、新城として移っている。この後、岡崎城を拠点として三河統一に着手していくことになるのだが、清康は、菩提寺として大樹寺の修築をしたり、世良田の姓を名乗る事で、源氏一門として松平氏を初めて主張している。又、清康は、奉行・代官制の確立させ、松平氏の戦国大名への道筋をつけた。

 大永 5年(1525)には加茂郡を北上して足助城(足助町)の鈴木重直を降し、享禄 2年(1529)には東三河に入り、吉田城(豊橋市)の牧野氏、続いて田原城(田原町)の戸田氏を攻略、さらに設楽郡内の山家三方衆などといった国人衆を従え、東三河の諸族はほぼ清康公に帰服し、ここに西三河と併せて殆ど三河一国が清康を当主とする松平氏の勢力下となったのである。

 清康は、この段階で姉妹を足助城主、鈴木重直や東条城(吉良町)の吉良持広に嫁がせるなど、閨閥の形成にも心を砕いている。又、正室であった於波留とは離別し、青木筑後守貞景の娘を継室として迎え、大永 6年(1526)に嫡男・仙千代(のちの広忠)が生まれる(於波留が生母との説もある)が、出産直後に没してしまったといわれている。清康は継室の死後、水野忠政の正室であった於富の方(源応尼・華陽院)と再婚している(於富の方は、家康公の生母、於大の方の生母でもあり、家康公にとっては外祖母でもあり、義理の内祖母にも当たることになる)。

 岡崎から東の憂いを除いた清康は、隣国尾張へと進撃を開始することになり、春日井郡品野城、岩崎城(日進市)などを略取して、橋頭堡を構築し、尾張の織田信秀(信長の父)との対決姿勢を明らかにしていった。天文 4年(1535)、美濃の斎藤氏の重臣、「美濃三人衆」(安藤氏、稲葉氏、氏家氏)と連携し、信秀を邀撃する密約を交わした上で、信秀の本拠に肉薄すべく守山城(名古屋市守山区)の攻撃に出陣した。ところが、この時、陣中に清康が家臣である阿部大蔵定吉(正澄ともいわれる)を手討ちにするという誤報が流れ、12月 5日の早朝、それを真に受けていた定吉の子・弥七郎正豊が、馬が暴れ、逃げ出したことで、家臣たちが騒いでいるのを聞いて、てっきり父・定吉が殺されたと勘違いをし、清康を惨殺してしまったのである。世にいう「守山崩れ」と呼ばれている事件である。清康は25歳であった。この事件は、信秀と好を通じ、清康を亡き者にしたかった桜井松平氏の松平信定による策略であったともいわれている。

 清康の遺骸は、岡崎菅生の丸山で荼毘に付され、門前町に埋葬されたが、この地には、のちに家康公により随念寺が建立された。法名は、善徳院殿年叟道甫。清康の死により、松平氏の勢力は急速に弱体化していくことになる。

 清康の孫である家康公は、この祖父の勇名に心酔し、元信という名を、清康の一字をとって、元康と改めたほどであった。又、清康の墓は、松平家・徳川家の菩提寺である大樹寺(岡崎市鴨田町)などにもある。

大樹寺にある松平清康の墓

大樹寺にある松平清康の墓