文系の雑学・豆知識

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大久保長安のプロフィール・略歴

天文14年(1545)~慶長18年(1613)

 十兵衛と称し、のちに石見守を称した。能役者の金春(こんぱる)七郎喜然の子で、はじめ父と同様に猿楽衆として、甲斐の武田信玄に仕えたが、土屋直村より姓を授かり、兄・新之丞とともに士分に取り立てられたという。のちに年貢の課徴・金掘りを司る蔵前衆に抜擢された。

 武田氏滅亡後、天正10年(1582)、駿河に至り、大久保忠隣の庇護を受け、この時に大久保の姓を与えられ、忠隣の推挙で家康公に出仕した。天正18年(1590)、家康公の関東入国後、地方巧者としての手腕を買われて代官頭の地位を与えられ、武蔵国多摩郡柚井領横山村(小門宿)に陣屋を構え、関東十八代官を統率し、武州を中心とする関東周辺の幕領支配にあたった。

 関ヶ原合戦後、慶長 6年(1601)、東海・東山・北陸各道に一里塚をつくり、ついで伊奈忠次・彦坂元正らと幕府直轄領の検地を取り仕切り、徳川政権初期の農政を指導した。同 8年(1603)、石見銀山奉行となり、この経営を認められ、翌年には佐渡金山奉行を兼務した。上杉領時代には砂金にとどまっていたものが、任務初年に 1万貫の産出量に達し、これも成功させた。さらに同11年(1606)には代官頭であった彦坂元正の改易に伴い、伊豆代官を兼任し、伊豆の鉱山を家康公が自慢するほどの有望な鉱山に仕立てた。こうした成果から「銀山検断」の特令を受けて、奉行の任務を交代した後も、佐渡をはじめ、相模の土井山鉱山他、各所の鉱山を点検している。このように長安は、幕府直轄鉱山の開発に功績を挙げ、いずれも空前の増産に成功し、幕府の財政基盤を確立させたといわれている。

 長安の経営成功の秘訣は、従来の竪穴堀にかわる横穴堀にあり、この工法は側(脇)坑道によって存分に排水できるので、従来の廃坑を生き返らせる事が出来、その上、“水銀流し”という技術によって、精錬の効率も高めた。関ヶ原合戦後、幕領が関東以外の地域に拡大されると、甲斐・石見・美濃・信濃・越後などの諸国に支配所を有し、一説には「諸国総代官」を命ぜられて、120万石を支配したともいわれ、長安の財力・権勢には並ぶものがなかったといわれている。

 しかし、慶長18年(1613) 4月15日に長安が69歳で没すると、生前の不正を咎められ、遺子 7人は切腹、下代らも諸大名に預けられ、長安の所領、及び、5000貫以上にのぼる多額の金銀もすべて没収され、大久保家は改易となった。この時の仕置きは縁座法が適用され、奉書加判に列していた青山成重、信濃国松本城主石川康長(数正の子)も閉門・配流され、さらに長安の推挙者である大久保忠隣も改易に処された。この事件の背景には本多正信と忠隣の対立があったためといわれている。長安の墓は甲府市の尊躰寺にある。

尊躰寺にある大久保長安の墓

尊躰寺にある大久保長安の墓