文系の雑学・豆知識

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ブレスト要塞攻防戦の経過について解説

1941年6月22日、ドイツ軍は対ソ攻勢「バルバロッサ作戦」を発動し、150個師団の大軍がソ連領内へと押し寄せ独ソ戦が勃発した。

それまでドイツによる攻撃開始の兆候がありながら、戦争を恐れたスターリンの命により見逃し続けていたソ連側は奇襲を受けた形となり、

多くのソ連部隊が潰走し、また各所でドイツ軍により包囲された。

ドイツ中央軍集団は6月中にブーク川を渡河し、27日には白ロシアの大都市ミンスクを陥落させ、モスクワに向けて進んだ。

しかし東にずれ込んだ戦線の遥か西方では、未だにブレスト要塞に籠ったソ連軍が抵抗を続けていた。

ブレストは第一次大戦時にはレーニンとボルシェビキ革命政権が屈辱的な講和「ブレスト=リトフスク条約」を結んだ地として記憶されている都市で、

要塞は18世紀につくられ19世紀に改装されたものの防戦に不向きな前近代的要塞で、新たにコンクリート要塞も建設されていたものの未完成の状態だった。

ドイツ軍にとってこの古城はたいした戦略的価値がなかったが、要塞に据え付けられていた火砲はドイツ軍の鉄道線や舗装道路を射程圏内に収めており、兵站を確保するうえで何としても陥落させねばならない拠点だった。

 

ブレストに駐留していたソ連軍部隊は6月3日に夏季演習に出かけており、6月22日にドイツ軍襲来の警報が届いたときにはもう手遅れだった。

そのため、たまたま演習に同行しなかった第6オルロフ赤旗師団と第42狙撃兵師団の一部、それに急きょ寄せ集めた兵員のみで ドイツ軍と戦わねばならなかった。

その数およそ四個連隊。砲は数門しかなかった。

しかしブレスト要塞を攻撃するシュリーパー少将が指揮するドイツ第45師団は20000人近い兵力を持っていた。多勢に無勢である。

正午ごろにはドイツ軍は包囲を完成し、古城に対しては過剰とも思える量の砲弾をたたき込んだうえで8度の強襲を行い、当日中に要塞の重要な拠点のいくつか、

具体的にはコブリンスク堡塁、テレスポール堡塁、それにヴォリンスク病院などを占領してしまった。

圧倒的な戦力差と友軍の救援が望めない絶望的な状況のなか、ソ連軍は必死の防戦を繰り広げた。砲員はすべて死んだ。防衛指揮官や政治委員も一人を除き全員が戦死した。

6月29日から30日には第二航空艦隊のシュトゥーカによる急降下爆撃を併用した総攻撃が行われ、一週間にわたり激戦を続けたブレスト要塞は陥落し、将校100を含む7000名が捕虜になった。

もっとも組織的抵抗が終焉しただけで、残存兵はなおも一か月にわたり死ぬまで奮戦した、とされている。

そんな残存兵たちが最後を前に壁に刻み込んだ文章を紹介しよう。

 

 

「われわれ、イワノフ、スチェパンチコフ、シュンチャエフはモスクワの生まれ。この教会を最後まで守り、退かぬことを誓った。1941年7月」


「俺だけだ。スチェパンチコフとシュンチャエフは死に、ドイツ兵は教会に入った。手りゅう弾一発残るのみ。捕虜にはならないぞ。」


「俺は死ぬ。降伏するものか。許せ、祖国よ。 41.7.20 」

 

 

余談。

この短文を書く上では二つの書籍を参考にしたのだが、

どうもソ連側の視点から著述した『燃える東部戦線』(ハリソン・E・ソールズベリー、ハヤカワ文庫)ではドイツ側の強大さが強調されているのに対して、

ドイツ側視点の『バルバロッサ作戦』(パウル・カレル、学研)ではドイツ側の受けた被害を強調している。

また前者ではソ連側の守備兵力は3000名程度という記述があるのだが、後者では捕虜になったソ連兵だけで7000名と倍以上の数字になっている。どういうわけじゃろか。

ぶっちゃけ資料がないのでごまかしてしまった。

当事者間で双方の記録や記憶が食い違うのは当然なのだが、それにしてもこれだけ数字に開きがあるとちょっと混乱してしまう。


ブレスト要塞の奮戦は当初、友軍の第四軍司令部はもちろん敵以外の誰もが忘れ去っていたが、時の流れとともに人々が思い起こすようになり、

のちにはモスクワやスターリングラードと同じく「英雄都市」の称号を冠されることになった。