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スターリングラード攻防戦について解説

スターリングラードの戦いでのドイツ第6軍の壊滅はヒトラーとドイツ軍に大きな衝撃を与えた。 今回は第二世界大戦の分水嶺といわれるスターリングラード攻防戦を概観してみたい。

 1.始まり

 

・計画


1941年6月22日、ドイツ軍は150個師団、総勢300万人の兵力を投入した対ソ攻勢「バルバロッサ作戦」を発動した。

同作戦は冬季以前に大国・ソ連を倒すべく電撃的な攻勢が行われたがソ連軍の頑強な抵抗を前にモスクワを目前としながら停止を余儀なくされ、 ソ連軍の冬季反攻はしのぎ切ったものの、春の泥濘期の訪れとともに両軍戦線は膠着状態となった。

独ソ戦が長期化するに至り1941年度中に決するという当初の戦略が崩壊したため、ヒトラーは翌年の夏季攻勢について考えねばならなかった。

ヒトラーは戦争遂行のためには油田地帯を奪取する必要があると考え、カフカース地方にある油田地帯の奪取を次の目標に定めた。

ドイツは戦争に必要な石油燃料を同盟国ルーマニアのプロイェシュティ油田に頼っていたが、カフカースのバクー油田を占領すれば燃料事情が 劇的に改善するだけでなく、ソ連の戦争遂行能力をも奪うことができる。

そこで陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将は夏季攻勢「ブラウ(青)作戦」の計画を立てた。

第6軍と第4装甲軍をスターリングラード方面に、第1装甲軍と第17軍それにクリミア半島のセバストポリ要塞を陥落させた第11軍を合流させ カフカース方面に当たらせる。

この時点でブラウ作戦の主目標はあくまでカフカースの油田地帯であり、スターリングラードはあくまで軍需都市としての機能を喪失せしめるための占領という位置づけだったが、 スターリングラード占領にはヴォルガ川の水運を遮断して防波堤とし、カフカースの制圧を早期に達成する地盤が形成できるという意味もあった。

だが油田地帯やスターリングラードは1941年冬の東部戦線から500キロ以上も東に位置しており、 バクー油田に到達するにはスターリングラードよりさらに南下してカフカースの山岳地帯を越えねばならない。

当然戦線は長大化してしまうわけだが、手薄になるドン川沿岸の戦線を埋め合わせについては同盟国のルーマニア軍などで補填すればいい、というのがヒトラーの考えだった。


・ブラウ作戦

 

ドイツ軍の夏季攻勢は1942年6月28日に開始された。

直前に第23装甲師団作戦主任参謀ライヘル少佐の搭乗した連絡機がソ連領内に墜落して作戦計画書を紛失し第40装甲軍団長シュトゥンメ将軍や第23装甲師団長が軍法会議にかけられる事件があったが、ともかくブラウ作戦は強行された。

ソ連はモスクワ攻防戦に勝利したものの、西側連合軍による第二戦線の形成はまだ当分先である以上、ドイツ軍の攻撃を一身に引き受け耐え続けねばならなかった。

スターリンは当初1942年の夏季攻勢でもドイツ軍は昨年度と同様にモスクワ方面に攻勢をかけると予想したが7月にヴォロネジが陥落した時点でドイツ軍の矛先がはるか南方に向いていることを悟った。

ドイツ軍南方軍集団は5個軍90万の兵力を持っていたが同方面のソ連軍は未だ65万の兵力で、数的劣勢を憂慮したソ連軍は続々と撤退し、ドン川沿岸の残存していたウクライナ地方を すべてドイツ軍に明け渡しつつ撤退した。

そしてこの撤退が敗走にならぬようスターリンは「国防人民委員命令第227号」を公布し、「一歩も下がるな」の命令を違反した兵は容赦なく銃殺されたのだった。

ヒトラーは南方軍集団を分割し第6軍と第4装甲軍をB軍集団として、第1軍と第17軍をA軍集団としてペアで運用しそれぞれスターリングラード方面、カフカース方面へと割り振ったが、 ヴォロネジ攻略に思いのほか多くの時間を費やしてソ連軍主力の後退を許してしまったためヒトラーはB軍集団フォン・ボック元帥を解任して後任にフォン・ヴァイクス上級大将を任命し ヒトラー自身がA軍集団とB軍集団を直接指導する体制を作ったが、ソ連軍主力を逃したツケは大きくカフカース方面へ進めば進むほどソ連軍の抵抗は激しくなってきた。

9月初頭には年内でのカフカース制圧が不可能であることが明らかとなり、激怒したヒトラーはA軍集団ヴィルヘルム・リスト元帥と陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将を解任した。 主目標であった油田地帯の占領ができないならば、せめて2次的目標だったスターリングラードだけでも完全占領したい、とヒトラーは考え始めた。

一方のソ連赤軍もそれまでのカフカース方面軍、ザカフカース方面軍、南西方面軍に加えて7月12日にスターリングラード方面軍を編成、隷下には第21軍、第62軍、第63軍、第64軍が編入された。

8月、ドン-ヴォルガ川間の地峡を確保しスターリングラードを指呼の間に臨んだパウルス上級大将が指揮する第6軍は、ヒトラーが定めたスターリングラード陥落の期限である8月25日に間に合わせるため同じくB軍集団の第4装甲軍と共同して総攻撃を開始しソ連第62軍と第64軍の撃滅を図ったが 第62軍はスターリングラード市街地近辺に退却し、第64軍もスターリングラード南方へと退却してしまった。

スターリングラードを攻略するには要塞と化した市街地に籠る第62軍と戦わねばならない。ここに史上最大の市街戦、スターリングラードの戦いの御膳立てが揃ったのである。

 

 

2.市街戦



・ヴォルガの背後に国土なし:赤軍大本営の反攻計画


ドン川以西を完全に喪失したソ連にとって最後に残った天然の防波堤はヴォルガ川であった。

ここを越えられてしまうとソ連を支える水上交通が遮断されるばかりでなく、ウラルのかなたに疎開した軍需工場まで危うくなってしまう。

そして何より、国際共産主義運動の指導者であるスターリンの名のついた街で負けるなどということがソビエト連邦にとり、あっていいはずがなかった。

スターリンと赤軍大本営はヴォルガ川を最終防衛線とし、スターリングラードの死守を決定した。

そして参謀総長ワシレフスキーと赤軍最高司令官代理のジューコフは、スターリングラードの市街戦でドイツ軍に多大な出血を強いたうえで 脆弱なルーマニア軍部隊が守備している伸びきった戦線の横腹を突きスターリングラードを攻撃中の第6軍の背後を遮断して包囲殲滅する、という反攻プランをスターリンに提出した。

スターリンはこれに満足し、ワシレフスキーとジューコフにこの反攻計画を最大限秘匿するよう命じた。


・第62軍司令官チュイコフ中将


ドイツ第6軍をスターリングラード市街地に引きずり込むことに成功したソ連軍だったが、将兵たちは後退を続けドン川以西の領土を全て喪失したために多くの将兵が戦況を悲観視するようになっていた。

第62軍司令官ロパチン少将も例外ではなく、ドイツ軍の強さに絶望し部下たちに悲観論を説いて回っていたという。

8月にはスターリングラード方面軍は2分割され、エリョーメンコの南東方面軍とゴルドフのスターリングラード市方面軍に分割され、両軍の政治委員にはスターリン死後ソ連共産党第一書記に就任するフルシチョフが任命された。

それより前の7月には闘志と熱意にあふれるワシリー・チュイコフ中将が第64軍司令官代理として着任しており、9月12日には防衛線を後退させたロパチンが解任され、その代わりに第62軍司令官となった。

チュイコフはこれまでの戦闘で消耗した第62軍を少しでも強化するため、第64軍所属の第10NKVD狙撃兵師団を第62軍に編合するなど強引とも思える指導力を発揮し、自軍部隊には市街地でドイツ部隊と「抱き合い」、「夜間に銃口を突き付け」続ける作戦で望むことを命じた。

しかしそれでも第62軍は寄せ集めの8個師団、急遽徴兵した民兵を含めても総勢6万人程度の戦力しか存在せず、また彼が司令部を置くママエフの丘は市街中央部に位置し格好の砲兵観測所であり、必然的に両軍の争奪戦が行われることが予想されるため、そうなった場合に次の司令部を置く地所も考えねばならなかった。


・空爆


8月23~24日の間、ドイツ空軍の第四航空艦隊のべ2000機がスターリングラード市街にすさまじいばかりの爆撃を行った。

それはひどい有様で、ワシレフスキーは「巨大なかがり火のようだった」、チュイコフは「悲しみと死がスターリングラードの何万という家庭に入り込んだ」と述懐し、あるドイツ軍将校は「スターリングラードはもはや街ではない」と述懐した。

この日以降、ドイツ空軍は容赦ない空爆をスターリングラード市街に加えつづけ、市街地は瓦礫の山と化した。ソ連空軍は完全に制空権を奪われ地上支援を行うこともままならなかった。


・総攻撃


1942年9月13日早朝、第6軍の第51軍団と第4装甲軍の一部がスターリングラード中心部を攻撃し、午後までには前哨陣地を突破した。

市街南部で主攻を行ったドイツ軍は北部でもバリケード工場に迫ったが、南部ではクポロスノエでヴォルガ川を目前に臨む地点まで進出することができたが、第29自動車化歩兵師団は穀物サイロを迅速に陥落させることはできず重砲支援のおかげで10日後に占領した。

9月14日には第62軍も反撃、スターリングラード中央駅を巡って激戦が行われたが失敗してしまう。しかし同日、最初の増援である第13親衛師団が空襲を受けつつもヴォルガ川を渡河して到着した。

ママエフの丘は予想通り激しい戦闘の舞台となり、チュイコフは司令部をツァリーツァ川河口の洞窟に、ついで「赤い10月」工場に移さねばならなかった。

幾度となく取られ奪われを繰り返し、猛烈な砲爆撃が加えられたママエフの丘は1942年度の冬には雪が積もることがなかったという伝説があるほどだ。

パウルスの第6軍は燃料と弾薬が不足して苦しい戦いを強いられ、ソ連軍には第95狙撃兵師団、第193狙撃兵師団、第284狙撃兵師団、第92海軍歩兵旅団といった増援が続々と到着していた。

未だ頑強に抵抗する赤軍に対し、パウルスはドン川沿岸の戦線を守る部隊を引き抜いて市街戦に投入する。こうして、ただでさえ弱体なドン戦線がさらに脆くなった。

超近距離での市街戦が各所で、幾日も行われた。

両軍とも使えるものは何でも使った。銃剣、つるはし、シャベル、果ては自らの手に至るまで。こうした超接近戦では火砲や航空機による支援は使えず、ドイツ軍の兵力の利を失わせた。 一方ソ連も、ドイツ軍の空襲に妨害されながらもヴォルガ川東岸から市街に補充の部隊や物資を補給し続け、また重砲による支援砲撃を昼夜行い、第6軍を常に砲火の下に晒し続けた。

しかし情勢は刻一刻と第62軍の不利に傾いていき、市内で軍はふたつに分断され戦線は縮小を続ける一方だった。

大きな損害を受けつつもドイツ軍は10月末までに市街地の9割を占領し、11月11日にヒューベルタス作戦を発動した第16軍は18日までに第62軍を3つに分断してしまい、 赤軍は「赤い10月」工場、トラクター工場、それにヴォルガ川の岸辺をしがみつくように守り通すだけとなった。

しかしこうしている間にもワシレフスキーとジューコフはモスクワ~スターリングラード間を週に何度も往復し、反攻作戦に備えて第62軍の各部隊との調整を続けていた。

 

 

3.ソ連軍の反攻



ウラヌス作戦発動


1942年11月はドイツ軍にとって運の悪いことが続いた。北アフリカではロンメルがエルアラメインで敗北し、南フランスではヴィシー政権を軍事占領するために東部戦線に送る予備兵力を釘づけにされた。

そしてソ連軍が100万以上の兵力と1万数千の火砲、1000両の戦車、それに1500機の航空機を投入し反撃を開始した。

1942年11月19日午前7時30分、ボロノフ砲兵大将が統括指揮する赤軍火砲が砲撃を開始、ドン川南東部を守るルーマニア第3軍の陣地地帯を80分にわたり砲撃した。

砲撃が終わるとともにヴァトゥーティン上級大将の南西方面軍の歩兵が、さらにT-34/76を装備する戦車部隊がルーマニア軍後方へと回り込むべく前進した。

ルーマニア軍は満足な対戦車火器は存在せずソ連戦車になすすべもなく敗走し、後方のドイツ軍予備戦力も有効な対策を講じることはできなかった。

当日中にソ連戦車部隊は約50キロほど前進し第6軍の背後カラチを目指した。

翌20日、エリョーメンコ上級大将が指揮するスターリングラード方面軍がルーマニア第4軍を攻撃し、午後3時までに戦線を突破し、 第4機械化軍団はソビエツキーで南西方面軍の戦車部隊と合流して包囲を完成させるべく突進し、23日午後4時ごろに合流した。

ふたつの包囲環が形成され、第5戦車軍に包囲されたルーマニア軍5個師団は23日には降伏してしまった。そして残るひとつがスターリングラード包囲環で、

ソ連軍はここに8万名程度を包囲したと考えていたが、実際はそれをはるかに上回る30万名以上にのぼるドイツ軍20個師団とルーマニア軍2個を包囲していた。


死守命令


自らが包囲されたのを知った第6軍司令部は今すぐ包囲を破って脱出するか、それとも市街地を死守するかの激しい議論を行ったが、司令官パウルスは弾薬、燃料、食料が不足していることから、 即刻脱出すべきだとの見解に至り、第6軍の上位部隊であるB軍集団司令官フォン・ヴァイクス元帥に意見を求め、フォン・ヴァイクスもそれに同意してヒトラーに進言した。

しかしながらヒトラーの答えは「スターリングラードの死守」であり、空軍総司令官ゲーリングは輸送機による空輸で包囲下の第6軍を維持できると述べヒトラーに賛同した。

30万人の兵員に必要な分量の物資は1日600tとされそれには常に500機の輸送機を必要とするが、もちろんドイツ空軍にこれだけの規模の空輸作戦を継続する能力はなかった。


冬の嵐作戦


ヒトラーは第6軍に死守命令を出す一方、その救援作戦も準備した。そこで第6軍救出のために新たにドン軍集団を編成、司令官にはセバストポリ要塞攻略を終え今はレニングラードを攻めている フォン・マンシュタイン元帥を任命した。しかし軍集団とは名ばかりで、マンシュタインが着任したとき彼の手元にある部隊はわずかなルーマニア軍だけだった。

そこで12月までにドイツ本国や西部戦線から第6装甲師団、第11装甲師団、第23装甲師団、それに3個歩兵師団など総計13個師団が到着して12日、第6軍救出のための冬の嵐作戦が開始された。

当初ソ連第51軍の抵抗にあいながらも順調に前進を続けていたが第2親衛軍や第7戦車軍団を増援として送り込んだソ連軍により進軍は次第に停滞し始めた。

あとはパウルスが雷鳴作戦を実施して包囲を食い破りマンシュタインと合流してくれるのを待つほかない。しかしパウルスは燃料不足を理由に動こうとはしなかった。


小土星作戦


続いてソ連軍はウラヌス作戦につぐ第二次冬季攻勢、小土星作戦を発動、ドン軍集団の側面に位置するイタリア第8軍を攻撃した。

当初はロストフをめざして第6軍だけでなくA軍集団と第4装甲軍の退路まで絶ってしまう計画を縮小したうえで実施された。

18日にはドイツ軍先鋒はスターリングラードまで35キロの地点に進出したが、もはや限界だった。

マンシュタインは冬の嵐作戦を中止、100キロも後退せざるを得なかった。第6軍救出の機会は永遠に失われた。

 

 

4.終焉

 

狭まる包囲網


12月、冬将軍の到来でヴォルガ川が凍結したことを受け第62軍は孤立状態を脱し、一転してスターリングラード包囲の一翼を担うことになり、再起した第62軍はスターリングラード市街での反撃を開始し、 「赤い10月」工場からドイツ軍を追い出し、ママエフの丘に対する強襲を幾度となく行った。

第62軍が再び活性化したことでスターリングラードを包囲している赤軍は第21軍、第24軍、第57軍、第62軍、第64軍、第65軍、第66軍の計7個軍となった。

年が明けて1943年1月8日、ソ連軍は第6軍に降伏を勧告したが、ヒトラーの死守命令を守るパウルスはこれを拒否した。

ソ連軍は10日午前8時5分にスターリングラードへの総攻撃、鉄環作戦を開始し、25日にはスターリングラード中心部に到達して第6軍は市街で二分されてしまった。

最後の時が迫っていた。ヒトラーはあらためて死守命令を出すとともに第6軍司令官フリードリヒ・パウルス上級大将を1月30日付で元帥に昇進させ、暗にパウルスの自決をうながした。


第6軍降伏


1月31日、パウルスは自決という選択肢を選ばずソ連軍に降伏し、2月2日には市内で抵抗していたすべてのドイツ兵が銃を置いた。

ヒトラーは激怒し、パウルスの家族を強制収容所に送ったうえで不在のパウルスに死刑を言い渡した。

この包囲網の内部では捕虜9万を含む33万の兵員を失ったドイツ軍だが、彼らの犠牲は無駄とはならなかった。

第6軍が百数十万のソ連軍を引き付けたおかげでカフカースにいた多くのドイツ軍部隊がそのまま撤退することができ、多くの兵力を温存できた。

しかしスターリングラード攻防戦で敗北したドイツ軍は東部戦線における主導権を失い、1943年7月のクルスクの戦いを最後に以後は守勢に回ることになった。

 

 

参考文献


バルバロッサ作戦 下巻(パウル・カレル 学研)

スターリングラード(アントニー・ビーヴァー 朝日新聞社)

完全分析 独ソ戦史(山崎雅弘 学研M文庫)

欧州戦史シリーズ スターリングラード攻防戦(学研)

スターリングラード ヒトラー野望に崩る(サンケイ出版)

The Times Atlas of the Second World War(John Keegan)

図版:第二次世界大戦通史(ピーター・ヤング、戦史刊行会)