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旅順攻囲戦の経過について解説

旅順を巡る戦いは日露戦争で行われた陸戦のなかで最もよく知られている。 その知名度は、満州軍司令部が決戦と位置付けた奉天会戦を上回るほどで、 映画『二百三高地』など、創作物の世界でもさまざまに取り上げられてきた。 今回はそんな旅順要塞の激闘を概観してみたい。

 

 

1.旅順攻略作戦開始までの経緯


・日露開戦まで

日露戦争の開戦以前より、旅順攻略についての研究は行われていた。 しかし、具体的な作戦計画は手つかずの状態で、実施の必要性にも疑問がもたれていた。 満州軍総参謀長・児玉源太郎大将は当初、旅順攻略の必要性を全く考慮せず、 半ば冗談めかしてではあるが 「遼東半島の一番狭い地域に竹やぶを植えておけばいい」と豪語していた。 竹やぶに阻まれ、ロシア軍が打って出ることは無いというのである。 このように、開戦直後まで旅順への対処は包囲にとどめるとの意見が大勢を占めた。


・日本海軍が旅順要塞攻略を要請

事態が変化したのは日本海軍による早期のロシア第一太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃滅が成功せず、また旅順港閉塞作戦の失敗によりロシア艦隊の封じ込めに失敗したからであった。 満州に派遣する陸軍の兵員・武器・弾薬の輸送路は海路である。 輸送路を脅かされては、遼陽へと北進する陸軍も危うくなってしまう。 ここに大本営は乃木希典予備役中将を司令官とする第三軍を編成、 第二軍が遼東半島の付け根に位置する金州・南山のロシア軍陣地を攻略して 旅順への回路を開いた。 当初、旅順方面へは2個師団程度の戦力で対処するとされ、 第三軍は第一師団と第十一師団を中核として編成された。


・前哨戦

旅順には本要塞の他、多くの外周陣地が存在しており、 剣山の陣地もその一つであったが、1日の戦闘で陥落した。 この剣山を攻略したのち、海軍側も交えて 旅順攻略についての具体的な討議が行われ、 海軍側は

①砲兵火力の不備のため、海軍より大口径砲を提供すること ②攻撃重点に203高地を設定すること

をそれぞれ提案した。 第三軍側は海軍の介入を拒否、海軍重砲の提供のみ受け入れ、 黒井悌次郎中佐が指揮し、永野修身中尉補佐の海軍重砲隊が編成され、 旅順港内および旅順市外への砲撃を行った。 外周陣地を巡る前哨戦だけでも戦力の6%を喪失する被害を受け、 旅順攻略への楽観視は消えた。

 

 

2.旅順攻囲戦開始


・要塞内ロシア軍の状況

当時、旅順要塞内の指揮系統は二分されている状況であった。 関東地区軍司令官ステッセル中将は、南方方面ロシア軍を統括し、 当然ながら旅順守備隊も彼の指揮下にあるはずであった。 しかし旅順要塞司令官のスミルノフ中将は要塞防衛の先任として ステッセルの指揮下に入ることを拒み続け、 隷下のシベリア第七師団・コンドラチェンコ少将には前進陣地の強化に当たらせ、 旅順要塞の中核部強化を主張するステッセルとは完全に指揮権の競合状態にあった。 またコンドラチェンコ少将は要塞建設の実質的な責任者で、 陣頭で建設指揮をとりながら兵士の信頼を一身に受け、 高度な築城技術と膨大な量のコンクリートを惜しげもなく用いた強固なべトン要塞を構築した。 また、ステッセル中将とシベリア第四師団・フォーク少将は、 極力戦力を温存しながら時間を稼ぐべきとの考えであったのに対し、 スミルノフ中将とコンドラチェンコ少将は積極攻勢案を採用した。 兵力の補充が絶望的な状況下での積極攻勢案は、 旅順要塞の防衛兵力を確実に消耗させていき、 旅順陥落は時間の問題となった。


・第一次総攻撃

後続の第九師団、後備第一旅団、後備第四旅団が到着し第三軍に編入され、 3個師団で総攻撃に臨むことになった。 明治37年8月19日午前6時、第三軍の保有する全砲兵火力380門が一斉に火を噴いた。 攻撃正面は要塞の東北方面、二龍山堡塁と東鶏冠山堡塁の中間地点であった。 ロシア軍の主力が要塞内東方に集中していることは第三軍司令部の知るところ ではあったが、それを承知で、あえて東方に攻勢重点を置いた。 理由は 1、東鶏冠山堡塁が要塞中核部に最も近い突破地点であること 2、西方の守備が不徹底であることはロシア軍自身が知っており、何らかの対策が 想定されること などであった。 2日にわたる砲撃の末、二十一日早朝を以て総攻撃が実施された。 第一師団は3個大隊全滅の被害を受けつつも、大頂子山を確保したが、目標であった 水師衛南方堡塁の占領は失敗した。 第九師団は1個旅団が壊滅する被害を受け、攻撃開始地点まで後退。 24日午後4時、乃木大将は総攻撃の中止を命令、第一次総攻撃は 三個師団の戦力のうち31%を喪失し、12万発の砲弾を撃ち尽くして失敗したのである。 以後2か月間、第三軍は弾薬と兵員の補充に努めるほかなくなり、 要塞に対しては散発的な砲撃を行うしかなかった。


・第二次総攻撃

第一次総攻撃からちょうど一か月後の9月19日、 第三軍は旅順要塞への攻撃を再開した。 この間、本国より28センチ榴弾砲12門が到着し、準備砲撃に加わった。 28センチ砲はもともとイタリア製の重砲で、これを日本がコピー生産したものが 要塞砲として日本各地の砲台に据え置かれていたものだ。 10月26日、第三軍は第二次総攻撃の準備砲撃を開始した。 新たに到着した重砲を投入し、前回に勝る427門の火砲による準備射撃で 要塞の弱体化に拍車がかかると思われたが、結果は予想を裏切るものだった。 目標となった二龍山、東鶏冠山などの主要堡塁は一切占領できず、 わずかに第9師団所属の歩兵第6旅団がP堡塁(別名:一戸堡塁) と呼ばれる小規模な堡塁を占領したにとどまり、 第二次総攻撃は中止された。

 

 

・3.203高地


・旅順陥落せず

度重なる総攻撃の失敗で焦ったのは陸軍だけではない。 8月10日の黄海海戦で旅順艦隊主力を取り逃がしていた海軍も同じだった。 遅くとも来年春の来航が予想されている ロシア第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)の東洋到着前に 旅順艦隊を撃滅しようと考えていた日本海軍にとって、 攻略の遅延は死活問題であった。 万一旅順艦隊主力とバルチック艦隊が合流した場合、 単純比較で日本海軍の戦艦4、装甲巡8に対し、 ロシア海軍は戦艦13隻以上に達するのである (すでに触雷沈没しているペトロパヴロフスク、八島、初瀬、 黄海会戦で脱落しているツェザレヴィッチを除く)。 その前に何としても旅順を陥落させ、旅順艦隊を壊滅させなければならない。 実際はすでに旅順艦隊の各艦は、要塞兵員の補充のために陸兵と化しており 残る艦船も黄海海戦の損傷から使い物にならず、 彼らの恐れは杞憂に過ぎなかったのであるが。 第三軍には一刻の猶予も許されなかった。


・観測地点の確保のために

ここで俄然価値が出てきたのが、203高地である。 203高地はその名の通り標高203m、頂上からは 旅順港内が一望でき、ここに観測所を設置して港内を 重砲で砲撃すれば、旅順艦隊を壊滅させることができる。 この時点で、要塞内ロシア軍の戦力は限界に達していた。 多くの犠牲を払った第一次・第二次総攻撃だが、 ロシア軍もまた相当数の戦力を喪失していたのである。 乃木大将と第三軍は、ここに総力を挙げて203高地攻略を開始した。


・死闘

11月27日、第三軍は攻勢重点を要塞正面より203高地に転換、 半日の準備砲撃で108発もの28センチ榴弾砲弾が撃ち込まれ、 当日夕刻、第一師団が突撃を開始、第七、第九、第十一師団はその予備戦力として兵力を提供した。 翌28日にかけ、両軍が互いに203高地山頂を奪い合う死闘が繰り広げられた。 第一師団は松村務本師団長が自ら陣頭指揮に立ち突撃を繰り返したが、 ロシア軍も前日から続々と到着する増援を投入し続ける。 日本軍はここで第七師団を203高地攻略に投入、 一日で師団の75%の戦力を喪失し、師団は壊滅状態に陥る有様だった。 12月1日、満州軍総参謀長・児玉源太郎大将が視察に訪れたが、 戦局に関与することはなかった。 同日、203高地頂上の一部を占領。 12月5日、203高地全域を占領。そのわずか1時間後には港内に向けての観測射撃が開始された。

 

 

4.旅順陥落とその後


・陥落

旅順要塞西方正面を担う203高地の喪失を受け、ロシア軍は前進堡塁の放棄と 戦域縮小を余儀なくされた。 すでに予備戦力が払底していたロシア軍に、もはや要塞を守り通すだけの力は残っていなかった。 戦線の縮小とともに、第三軍は各堡塁を攻略しつつ順調に前進。 明治38(1905)年1月2日、ついに旅順要塞は降伏した。 203高地陥落後、旅順要塞がわりあい早期に降伏した直接の理由としては

①度重なる攻防戦の結果、守備兵の数がすでに払底してしまっていた ②糧食の偏りから、守備兵に壊血症が蔓延した

ことが挙げられる。 また12月15日、それまで最前線で要塞防衛の指揮にあたり、将兵から 絶大な信頼を受けていたコンドラチェンコ少将が戦死した。 旅順要塞の建設から防衛戦まで常に兵士とともに 陣頭にあった少将の死は守備兵の士気低下を大いに加速させた。

・その後の第三軍

水師営の寂れた民屋にて行われた第三軍・乃木希典大将とステッセル中将の会見は 『水師営の会見』として唱歌に残った。 旅順陥落後、第三軍は直ちに北上、第一軍、第二軍、第四軍と合流して 奉天会戦では左翼を担い、ロシア軍を猛攻した。 ロシア満州軍司令官・クロパトキン大将が、旅順を落とした第三軍の戦力・能力を 過大評価していたことが、奉天会戦の日本側勝利につながったといわれる。


旅順攻防戦は、当初の予想をはるかに上回る激戦となり、 両軍ともに多大な犠牲を払うことになった。 戦後、第三軍司令官・乃木希典大将は203高地を 「爾霊山」と詠んだ。解けば、汝の霊の山、である。

 

 

 


・付録 旅順攻囲戦における日露両軍戦闘序列

 

 

第三軍 司令官:乃木希典大将 参謀長:伊地知幸介少将 ・第一師団 師団長:松村務本中将 ・第七師団 師団長:大迫尚敏中将 ・第九師団 師団長:大島久直中将 ・第十一師団 師団長:土屋光春中将 ・後備歩兵第一旅団 ・後備歩兵第四旅団 ・野砲第二旅団 ・攻城砲部隊

 

 

旅順要塞守備隊 南方ロシア軍司令官:ステッセル中将 要塞守備隊司令官:スミルノフ中将


・シベリア第四師団 師団長:フォーク少将 ・シベリア第7師団 師団長:コンドラチェンコ少将 ・要塞砲兵隊 ・シベリア第5連隊(一部欠) ・シベリア補充大隊