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ナポレオン戦争(1813~1815)の経緯について解説

フランス皇帝ナポレオンの名を知らない人はまずいないだろう。そして彼が稀代の戦争指導者であったことも周知の通り。しかしながら彼の戦いで知られているのはイタリア遠征での連勝や、アウステルリッツ会戦の輝かしい大勝など勝ち戦ばかりなのだ。

そこで本稿では、ワーテルロー会戦を除きナポレオン戦争で最も知名度の低い時期であろうロシア遠征後の負け戦にフォーカスして概観してみよう。

 

・1812年ロシア遠征の失敗


ヨーロッパに大帝国を築きあげたナポレオンは、海を隔てたイギリスを経済的に締め上げ屈服させるため、1806年に大陸封鎖令を発布した。

産業革命によって生産力を増大させ、ヨーロッパ大陸の市場を支配するイギリスを封じ込めんと試みた大陸封鎖令は、同時にイギリスの工業製品の大陸流入がストップし、逆に大陸諸国からの輸出も不可能になるということであった。このことはヨーロッパ各国を疲弊させ、それまでフランスに従属的だった各国の離反を招く結果につながった。

スペインでは半島戦争が勃発、ジュノーやスルト、マッセナなどフランスを代表する指揮官が鎮圧に向かったが戦局は泥沼化した。プロイセンではシュタインやハルデンベルクによる改革が進み、ドイツ諸国では民族主義が高まった。

1807年のティルジット和約で大陸封鎖令に加わったロシアは、しかし常にフランスに反感を抱き続け、1810年には逆にフランス製品に課税して対抗姿勢を明確にした。大陸封鎖を徹底させるには、ロシアを屈服させるほかない。1812年5月、ナポレオンはロシア遠征を決行する。ロシア側名称は祖国戦争という。

こうしてグランダルメ(大陸軍)合わせて40万の大軍がニーメ川を越えロシアへと向かった。ロシアは動員に手間取ったこともあって積極的攻勢に出ず、広い縦深を生かして後退する道を選び、フランス軍は奥地へと引きづりこまれていった。途中フランス軍は食料をはじめあらゆる物資不足に悩まされ、餓死と逃亡で兵力は激減した。

両軍はモスクワ近郊のボロジノで決戦を行ったが、フランス軍は決定的な勝利を得るに至らなかった。ロシア軍はモスクワを放棄して市内にはフランス軍が進駐しツァーリの降伏を待ったが、ロシア側の焦土戦術によって食糧事情は悪化、ついにナポレオンは撤退を決める。

撤退するフランス軍にクトゥーゾフのロシア軍、それに飢餓と寒波が襲いかかった。そのためニーメ川にたどり着いたフランス軍は数えるほどになっていた。

 

・1813年諸国民戦争:ライプツィヒの戦い


ロシア遠征の大敗を受けてフランス軍は数十万の兵力を失い壊滅した。明けて1813年、ナポレオンは単騎でパリに舞い戻り15万の兵力を動員して壊滅した軍を再建した。

祖国戦争を勝利に導いたのを見届けるように病没したクトゥーゾフの後を受け総司令官に就任したヴィトゲンシュタインのロシア軍は追撃を続け、相次ぐフランス軍の敗退を受けたプロイセンがフランスに宣戦布告して第六次対仏大同盟が結成された。

退潮を続けるフランス軍だが、一方でリュッツッェン・バウツェン両会戦でロシア=プロイセン同盟軍を撃ち破るなどして、6月ごろにはどうにかエルベ川近辺で踏みとどまった。

6月1日には両軍ともに継戦能力を失い、フランス皇后マリー・ルイーズの実家であるオーストリア帝国の仲裁で2か月間の休戦に入った。この時オーストリアが和平の仲介を受け持ったことから、以後ナポレオンは敗勢にあってオーストリアの仲介を頼みの綱とするようになる。

8月、休戦期間の終了とともにオーストリアが対仏大同盟に参戦、フランス軍は30万の兵力をドイツ中部にかき集めた一方、同盟側は50万の兵力を展開した。

ドレスデン近辺に駐留するナポレオン軍はヴィクトール軍団、ウディノ軍団、ネイ軍団、サンシール軍団、マクドナルド軍団、それにミュラ騎兵隊を擁し、ダヴー軍団をハンブルクに駐屯させていたが、

これに対して同盟軍はボヘミア方面からオーストリア軍総司令官シュヴァルツェンベルクのボヘミア軍、プロイセン軍が主体のシュレジェン軍、それに元フランス元帥ベルナドット指揮するスウェーデン軍とロシア軍の連合軍である北方軍がナポレオンの三方を囲んでいた。

ナポレオンは得意の内線作戦で決しようと考えていたようだが、同盟軍の戦略は「トラッヘンベルク・ライヘンバッハ・プラン」に則っており、それはナポレオンの主力軍との交戦を避け、ナポレオンのいないところで攻勢に出るというもので、同盟軍参謀総長を務めるグナイゼナウ率いるプロイセン参謀本部なくしてはなしえない作戦であった。

休戦が終わると同時に同盟軍はこの作戦を実行に移しナポレオンを翻弄した。まずブリュッヘルのプロイセン軍がフランス軍を攻撃、ついでボヘミア軍がサンシール元帥の守備するドレスデンを攻撃したが、ナポレオンの救援によって撃退された。

しかしベルリンを占領すべく北方に向かっていたウディノ軍団がロシア=スウェーデン軍に敗北すると、ナポレオンはエルベ以東を放棄し西方へと退却することを強いられ、ライプツィヒに向かった。ナポレオンは内線の利を生かし各個撃破することはできず、かえって包囲網を狭める同盟軍に消耗させられてしまったのだった。

またバイエルン王国がライン同盟から脱退して離反、フランス軍の退路を断つべく4万の軍を動員したのである。ナポレオンのドイツ支配は風前の灯となった。

そして10月16日、ナポレオン戦争最大の会戦、ライプツィヒの戦いが始まった。当初ナポレオンはシュレジェン軍とボヘミア軍に対し対等に戦ったが、18日に北方軍が増援として加わり19日に同盟軍が総攻撃を開始すると形成は一変してフランス軍は大敗、ナポレオンは途中バイエルン軍を撃破しつつドイツから撤退しライン同盟は崩壊した。 なおハンブルクのダヴー元帥はドイツ全土が解放されるなか単独で都市を守備し、1年も粘った末に明け渡し、ナポレオンの義弟でありナポリ国王、フランス最良の騎兵指揮官であるミュラはナポレオンから離反した。

 

・1814年フランス国内戦役


フランス国内へと撤退したナポレオンに対し、同盟軍は「自然国境」以外の領土をすべて明け渡す条件で講和を申し入れた。軍隊が壊滅したため根こそぎ動員をかける時間が欲しかったし、それにフランス本国の保持は許されるこの提案はナポレオンにとって悪い条件ではなかった。

この際に根こそぎ動員されたフランス新兵たちは、練度の低さから皇后の名にちなみ「マリー・ルイーズの兵」と陰口をたたかれた。

ナポレオンはこの提案を受諾する旨を同盟側に通告したわけだが、これは同盟側の意図するところではなかった。勝気なナポレオンは当然拒否してくるとばかり思っていた。同盟側はつまり、ナポレオンを攻撃する大義名分が欲しかったのである。

そこでメッテルニヒら同盟側首脳は「フランクフルト宣言」を発布し、戦争の全責任がフランス国民ではなくナポレオン個人にあることを宣言し、ナポレオンの休戦申し入れをはねつけた。

フランス軍はライン川の防衛線を捨てトロワ-アントワープを結ぶ防衛線まで後退、ここにフランス本土での戦いを開始することになる。

1月29日、ナポレオンは若き日を過ごした王立幼年学校の立地、ブリエンヌに駐屯するブリュッヘル将軍のプロイセン軍を攻撃して退却させたが、この地で休息を取っている合間にブリュッヘル軍はシュヴァルツェンベルク軍と合流してしまう。 そして2月1日にはラ・ロティエルで同盟軍の攻撃を受けて敗退した。

連合軍は北方からブリュッヘル軍がパリを、シュヴァルツェンベルク軍がトロワをめざし分散して進軍した。これに対しナポレオンは北に南に東に西へと縦横無尽の機動戦を繰り広げ、特に「六日間戦役」と呼ばれる一連の機動はナポレオン会心の指揮とされる。

しかしナポレオンがいかに見事な作戦を展開しようとも数倍の敵が押し寄せるのをとどめることはできず、3月31日にはパリが陥落し、4月11日にはフォンテーヌブローにてナポレオンが退位、エルバ島の小領主として配流されることになった。

 

・1815年戦役:ワーテルローの戦い


ナポレオンが退位した後、フランスではルイ18世による王政復古がなされたが、旧貴族の地位を復活させ白色テロを行うなど反動政治を行ったためフランス国民には不評であった。

これを見たナポレオンは2月26日、密かにエルバ島を脱出してジュアン湾に上陸し翌月29日にはパリに帰り咲いた。この知らせはウィーン会議参加首脳を驚愕させ、各国はナポレオンを「世界平和の敵」として法の外に置いた。

列国が自を完全に敵視していることを知ったナポレオンは列国に宣戦布告、第七次対仏大同盟が結成されフランスは周辺のすべての国と交戦状態に入った。

ナポレオンに従う将軍たちは多くはなかったが、ダヴー元帥を陸軍大臣に、スルト元帥を参謀総長に任命しネイ元帥を野戦指揮官に任命した。

ナポレオンにとって当面の敵はベルギーに駐留しているウェリントンのイギリス軍とブリュッヘルのプロイセン軍であり、この方面の敵を撃滅したのちにイタリアやスペイン方面の敵軍を各個撃破する方針であった。

3か月弱の間、自由主義者との妥協を図るなどして国内の安定化を行ったナポレオンは6月12日、パリを出発し13日にはシャルルロアでプロイセン軍と交戦して撃退し、リニー、ついでワーブル方面に撤退したプロイセン軍の追撃をグルーシー元帥に命じた。

そして自らとネイ元帥は主力を率いてカトルブラへと前進しそこでイギリス軍と交戦したが、プロイセン軍の退却を知ったウェリントンはワーテルローへと退却した。ナポレオン軍は大雨に悩まされながらも17日午後6時にワーテルロー近郊のモンサンジャンに到着した。

両軍は雨の止んだ翌18日の午前11時半に戦闘を開始した。レイユ第二軍団が攻撃をかけたウーゴモン農園では激闘が繰り広げられたが、イギリス軍はよく守った。午後1時ごろ、東のほうを双眼鏡で眺めていたナポレオンはグルーシーが追撃しているはずのビューローのプロイセン軍を発見した。

ナポレオンはグルーシーに直ちにワーテルローに急行するよう命令したが、これが伝達されたのは午後5時ごろですでに勝機は完全に去っていた。

プロイセン軍の到着前にイギリス軍を破ろうとしたナポレオンはネイ元帥に対しデルロン第一軍団を前進させるよう命じたが、イギリス騎兵の強力な反撃の前に屈した。午後三時、ネイ元帥は1万もの騎兵による突撃を行ったが、イギリス部隊の方陣を崩すことはできなかった。ついにナポレオンは最強を謳われた皇帝近衛兵を投入したが、それでもイギリス軍は持ちこたえた。

午後7時半、ついにプロイセン軍が戦場に現れ、ウェリントンはこれに乗じてイギリス軍にも総攻撃を命じた。フランス軍は潰走し、皇帝近衛隊の最後の方陣が破られナポレオンが戦場を離脱したのは午後11時だった。ワーテルロー会戦は1日で勝敗が決した。

6月21日、パリに帰還したナポレオンは再び退位文書に署名、ここにフランス第一帝政は完全に崩壊したのである。

 

・おわりに

この時期のナポレオンは衰えはしたが、しかし運と才覚をすべて失ったわけではなかったのである。むしろ彼の真価はこの後退の時期にこそ発揮されたとする人もいる。いずれにしろ止むことなき彼の権力への意思はセントヘレナにおいてなお持続していた...と私は信じている。