文系の雑学・豆知識

歴史、美術、文学、言葉、文化についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています

ドイツ海軍の発展:カイザーからヒトラーへ

本記事はカイザー(皇帝)、ヴァイマル国、そして総統ヒトラーと変わりゆく所有者と海軍との関係を軸に、 ドイツ海軍の歴史をつづってみるつもりである。
それでは、頭上にイギリス駆逐艦が回遊しているときのUボート乗組員のような気持ちになって肩の力を抜きのんびり読んでください。

 


1.ドイツ帝国海軍


・ドイツ帝国海軍の誕生

ドイツは元来が陸軍国家だ。統一以前のドイツの各領邦で海洋に面していたのはバルト海に接するプロイセン王国やハノーヴァー王国くらいのもので、殆どの国は内陸国だった。
過去にはリューベックなど海上交易で栄えた都市もあったが、例外と言ってよいだろう。

さて、そんなドイツ諸邦がプロイセン主導で統一され、北ドイツ連邦を経て普仏戦争を経験し、新たに皇帝ヴィルヘルム1世を戴くドイツ帝国として誕生したのが1871年。

北ドイツ連邦にも海軍は存在したが陸軍省の所属であり、独立海軍としての体裁すらなかったが、

このドイツ帝国の誕生とともに海軍局は陸軍省より独立し、帝国海軍本部となった。

本格的に海軍が整備されるのはもう少し先のヴィルヘルム2世時代となるが、ともかくここに皇帝の海軍・カイザーリッヒマリーネ(Kaiserliche Marine)は誕生した。
1873年、普仏戦争でフランスに屈辱的敗北を与えたドイツ首脳部にとって気がかりなのはフランスによる報復戦争であり、それとともに連鎖的に起こる列強各国との紛争でもあった。

とうぜん列強国との関係改善に務めたし、また一方で戦争に備えて軍備の増強も行った。

しかしながら国防予算の割り振りは陸軍が最優先で、ドイツ海軍は北海沿岸部、特にヴィルヘルムスハーフェン軍港周辺の防御に特化した装甲艦5隻を主力として保有するにとどまった。その装甲艦5隻の建造費でさえ予算獲得には8年の年月を要したという有様である。

ドイツ海軍の建軍成ったとはいえ、今しばらく不遇の時代を過ごさねばならなかった。

 

 

 

・世界政策 ―ドイツの未来は海上にあり―

ドイツ海軍が世界第二位の海軍へと躍り出る転機は、新皇帝の誕生であった。

1888年に即位したカイザー・ヴィルヘルム二世は海軍の増強に並々ならぬ関心を払っており、このカイザーの意思はすでに1886年に建設が始まっていたキール運河として知られるカイザー・ヴィルヘルム運河の建設計画に付随する形でのヘルゴラント=ザンジバル協定の締結(1890年)といった具体的政策を伴って現れた。

カイザー・ヴィルヘルム運河の建設によって、北海方面とバルト海方面のドイツ艦船が自由に行き来できるようになる。またザンジバル諸島の島々をイギリスに割譲することでヘルゴラント島を獲得、北海における海軍根拠地とすることが可能になり、同時にイギリスとの友好関係を深化させることができる。

この時点で、カイザーは海軍の増強にこそ関心を払っていたが、世界一の海軍国・イギリスとの関係悪化は決して望ましい事態とは考えていなかった。

またカイザーは既存の海軍本部を海軍省、海軍総司令部、海軍内局の三つの機関に分割し、皇帝直属の海軍内局を通じて統帥権を行使、海軍政策に関与できる体制を作り本格的な海軍増強に備えた。

ドイツ帝国の誕生以降、ドイツは工業の充実に力を注ぎ続け、今や世界でも有数の工業国家となった。

農業国から工業国へと脱皮すれば、工業製品の市場とその原料供給地を求め植民地を獲得しようとする。

ドイツ帝国も例外ではなく、世界政策と呼ばれる帝国主義政策を採り、ドイツ領東アフリカ、カメルーン、ナミビアなどを次々と植民地化、

膠州湾を99年間の租借地するなどし、世界最大の植民地帝国であるイギリスとの関係も1896年のクリューガー電報事件を直接の契機として悪化していった。

カイザーもここに至り英独友好の維持から、徐々にではあるが対英強硬政策へと転換し、

海外膨張政策から発生する列強各国、特にイギリスとの摩擦を避けたい宰相ビスマルクは解任された。

また海軍大国イギリスが仮想敵国として浮上するようになると、いよいよドイツは本格的な海軍建設を推進する。

ドイツ海軍にとって最初の戦艦は1890年起工、1893年に就役したブランデンブルクとその同型艦3隻である。

起工の時点では今だフランスがドイツにとって最有力の仮想敵国であり、したがって設計もフランス戦艦に類似したものとなったが、

ここにドイツ海軍は沿岸防御に特化した艦隊から外洋艦隊への一歩を踏み出した。

 

 

 

・海軍大臣ティルピッツ

1896年1月、カイザーは「ドイツ帝国が世界帝国へと発展した」との宣言を行い、世界政策のさらなる拡大を促した。

その一環として海軍を増強するうえで、ドイツ海軍内部ではふたつの論争が存在した。

1890年に海軍大臣に就任したホルマン提督は、通商破壊を主戦略として巡洋艦を多数建造する案を提示、

96~97年度予算で高速巡洋艦4隻を建造する法案を帝国議会で通したが、

カイザー・ヴィルヘルム2世はこの案を不服とし、東洋艦隊司令長官だったティルピッツ提督の戦闘艦隊戦略を採用して

ホルマンを解任、新たにティルピッツを海相として抜擢した。1897年のことだ。

戦闘艦隊戦略とは、すなわち戦艦中心の大艦隊を建設すべきとの計画であり、

ティルピッツは外交カードとしての戦艦戦力を大いに評価していた。

つまりドイツの仮想敵国艦隊が大ダメージを受け得るリスクを抱えるだけの規模の艦隊をドイツが保有すべきだと主張した。

このころ、ドイツ最大の仮想敵国はすでにフランスからイギリスへと移っており、この戦闘艦隊戦略はイギリス海軍に対する抑止力の効果を狙ったものだった。世界一の海軍力を持つイギリスがその戦力の過半を喪失するリスクを負ってまでドイツと交戦しようとは思わないだろう、こう考えたわけだ。

これを「危険艦隊」思想と呼ぶ。

しかし歴史をたどれば分かるとおり、イギリスは構わずドイツと開戦したし、その戦争は人類史上初の世界大戦にまで発展したのだった。

また時を同じくして外務大臣にも海軍推進論者のビューローが着任し、カイザー・ティルピッツ・ビューローの三人がドイツの世界戦略を牽引することになった。

ティルピッツの海相就任とともに1898年度には第一次艦隊法が可決され戦艦の定数は19隻、耐用年数を25年と定められ、1900年度の第二次艦隊法では戦艦の定数が38隻と倍増、装甲巡洋艦の定数が14隻、巡洋艦の定数は38隻とされるなど未曽有の建艦ラッシュとなった。

これほど急速に拡大を遂げたドイツ海軍にとって不足しているのは何よりも人員、特に士官だったが、新興のドイツ海軍は陸軍のように

士官をユンカー階級が独占するような事態はなく、中産階級が出世の機会を求めて入隊するなど充実していた。

またクルップをはじめとする重工業業界も多くの受注を受けて盛況となり、海軍を統一ドイツの国民統合の象徴とすべく海軍省主導の大規模なキャンペーンが行われた。

戦艦52隻を保有するイギリス海軍にとって38隻のドイツ戦艦は脅威以外の何物でもなく、かくして英独間に建艦競争が勃発した。

1906年、イギリス海軍は戦艦ドレッドノートを竣工させ、それ以前に建造された戦艦は前弩級戦艦となりすべて旧式化したが、

それは単に両国間の建艦競争が一層加熱するという結果を残しただけであった。

第一次世界大戦の敗戦までにドイツ海軍が建造した弩級戦艦は

・ヴェストファーレン級(ナッソー、ヴェストファーレン、ラインラント、ポーゼン)

・ヘルゴラント級(ヘルゴラント、オストフリースラント、チューリンゲン、オルデンブルク)

・カイザー級(カイザー、フリードリヒ・デア・グローセ、カイゼリン、プリンツレゲント・ルイトポルト、ケーニヒ・アルベルト)

・ケーニヒ級(ケーニヒ、グローサー・クルスフュルト、マルクグラーフ、クローンプリンツ・ヴィルヘルム)

・バイエルン級(バイエルン、バーデン)

の計19隻。

戦艦の建造費が1隻あたり国家予算の0.5%~1%を占めると言われた時代である。

帝政ドイツにとってはあまりに大きな経済的負担であった。

 

 

 

・第一次世界大戦の勃発

1914年、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺に端を発したオーストリアの対セルビア宣戦布告は

まるでドミノ倒しのように列強各国を戦争へと引きずり出し、ここに第一次世界大戦が勃発した。

開戦時、ドイツ海軍は弩級戦艦14隻、前弩級戦艦22隻、巡洋戦艦4隻、装甲巡洋艦9隻、軽巡洋艦22隻、駆逐艦149隻、潜水艦28隻を保有し、

堂々たる世界第二位の海軍大国となっていた。

開戦直後、地中海ではゾーヒョン提督に率いられた巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウが孤立していたが、中途仏領アルジェリア沿岸を砲撃するなどしつつ、なんとかイギリス地中海艦隊の追撃を逃れ中立国オスマン帝国に逃れることができた。

ドイツ海軍はこの2隻の艦船をオスマン帝国に売却することを条件にトルコの中央同盟側(ドイツ・オーストリア=ハンガリー同盟)に立っての参戦を促し、オスマン帝国は10月に参戦した。

また開戦時、ドイツ東洋艦隊主力は青島の海軍基地に停泊していたが、開戦によって本国への帰還は実質不可能となってしまった。

これらは南米・コロネル沖海戦における勝利などの戦果を挙げるも、時を経ずしてイギリス海軍に各個撃破された。

ただ2か月余りの間に30隻以上の連合軍商船・艦船を撃沈し、インド洋の海上交通を麻痺させた防護巡洋艦エムデンの活躍は現在も語り草になっている。

第一次世界大戦は、その規模の大きさに比べて海戦が少ない。

これはドイツ海軍が現存艦隊主義を採り、終戦の際に少しでも有利な条件で講和するための外交カードとして艦隊の保全を優先したのが大きな理由のひとつとなっている。

それでもヘルゴラント・バイト海戦、ドッカーバンク海戦などの中規模程度の海戦は散発的に発生していた。

しかし真の意味で英独両海軍が総力を挙げて戦った大海戦は1916年5月31日から2日間にわたるユトランド沖海戦(ドイツ側呼称はスカゲラック海戦だが、イギリス側呼称が世界的に知られているので以後こちらで通します)であり、史上最大の艦隊決戦と言われている。

イギリス川149隻、ドイツ側99隻に上る艦船を投入したこの大海戦には紙面を割いておく必要があるだろう。

 

 

 

・ユトランド沖海戦

イギリス海軍は、自らの主力艦隊を大艦隊(Grand Fleet)と呼称した。対するドイツ海軍もやはり主力艦隊を大海艦隊(Hochseeflotte)と呼んだ。

それぞれの艦隊は大まかに中核の戦艦部隊と、露払いとしての前衛打撃部隊である巡洋戦艦部隊に分かれており、

ドイツ戦艦部隊の司令官はラインハルト・シェーア提督、ドイツ巡洋戦艦部隊の司令官はフランツ・フォン・ヒッパー提督だった。

イギリス戦艦部隊の司令官はジョン・ジェリコー提督、イギリス巡洋戦艦部隊の司令官はデイビット・ビーティー提督。

ドイツ大海艦隊はそれまで艦隊現存主義者のため、軍港を出撃して積極的に制海権を奪おうとはしなかったが、

今回は違っていた。イギリス海軍から制海権を奪取しようとドイツ海軍の主力艦艇をすべて投入した。

対するイギリス海軍も暗号を解読しドイツ海軍主力の出撃を察知しており、こちらもまた主力艦隊を投入した。

第一次海戦はやはり前衛の巡洋戦艦部隊同士の激突となり、15時40分ごろに火ぶたが切られた。

1時間程度の砲戦でイギリス海軍は巡洋戦艦インディファティカブル、クイーン・メリーを喪失した。

第二次海戦では、先の第一次海戦で大戦果を挙げたドイツ巡洋戦艦部隊に対しイギリス戦艦部隊が襲いかかり、

ドイツ側はフォン・デア・タンやデアフリンガーなど4隻の巡洋戦艦が戦闘不能となり、フォン・ヒッパー提督は巡洋戦艦部隊を退避させた。

第三次、第四次海戦は死闘となり、イギリス側は巡洋戦艦1隻などを喪失、ドイツ側も前弩級戦艦1隻、巡洋戦艦1隻、巡洋艦3隻などを喪失した。

この海戦ではイギリス側が巡洋戦艦3隻を喪失した一方、ドイツ海軍は旧式戦艦と巡洋戦艦を各1隻ずつ失うに留まり、

戦術的にはドイツ海軍の勝利といえるが、目標としたイギリス海軍からの制海権奪取は失敗したため、戦略的敗北であると言える。

この海戦以後、ドイツ大海艦隊は艦艇の喪失を極端に恐れ、軍港内に閉じこもったまま終戦まで過ごすことになる。

 

 

 

・無制限潜水艦作戦


開戦時にドイツ帝国海軍が保有していた潜水艦はわずかに28隻で、大戦初期の戦果としてはたった1艦で英装甲巡洋艦3隻を撃沈したU-9などがあるが、海軍上層部もその戦力には懐疑的で海軍内部でも日陰の部署とみられていた。

しかし当時の水上艦艇は対潜戦闘能力が低く、一度潜航してしまえば潜水艦の独壇場となり、一方的に魚雷で撃沈することができる。

また潜水艦の非力な火砲では軍艦を撃沈するのは困難だが、非武装の商船ならば武装解除ののち撃沈してしまうこともできる。

しかし戦時法規では、商船を撃沈する際には必ず浮上したうえで警告を与えねばならないとされている。

これでは潜水艦の特性を生かせない。そこで1915年2月、無制限潜水艦作戦が宣言された。

無制限潜水艦作戦とは、商船を撃沈する際に浮上もせず、もちろん警告も与えず発見次第撃沈するというもので、完全な国際法違反である。

5月にはU-ボートによる月間の戦果が10万tを超え、イギリス経済は大打撃を受けたが

潜水艦に対する有効な攻撃手段を持たないイギリス艦艇にはどうすることもできない。イギリスは死滅の危機に瀕した。

同じく5月7日、アメリカ人乗客128名を乗せたイギリス客船ルシタニア号がU-20の攻撃により撃沈されたが、

この事件がアメリカ世論を激昂させてしまい、2年後のアメリカ参戦に繋がったといわれる。

もっともこの時の無制限潜水艦作戦は国際世論の非難が巻き起こったことからいったん中止され、無制限潜水艦作戦を推進した海相ティルピッツは解任された。

第一期の無制限潜水艦作戦は半年間だったが、もしこのまま継続して行われていたならイギリス本土は干上がってしまい、大英帝国は世界大戦の敗者となっていたかもしれない。

再び無制限潜水艦作戦が行われるのは1917年に入ってからで、1917年4月には月間86万tを撃沈するなど、その戦果は大きかった。

しかし数か月後には戦果が下降し始め、英国側が船団護衛を開始、水上艦艇がアスディックや爆雷を装備し始めると今度はU-ボート側の損害が増大するようになったが、無制限潜水艦作戦は終戦まで継続された。

 

 

 

・スカパフロー自沈


4年半に及ぶ大戦争はドイツを苦境に追い込んでいた。

依然として制海権を握るイギリス海軍は常にドイツ近海を封鎖、ドイツの国内産業は機能不全に陥っており、

陸軍も最後の大攻勢であるカイザーシュラハトが失敗し、配色が濃厚となった。

1918年10月3日、ついにドイツは連合国に休戦を打診。

敗戦を前にしてドイツ首脳部は海軍に最後の決戦を命令、自殺的な艦隊決戦へと駆り立てた。

ユトランド沖海戦以降出撃を許されず軍港内に留まっていたドイツ大海艦隊将兵には共産主義と厭戦気分が広がっておりこの命令を拒否。

ヴィルヘルムスハーフェン軍港にてストライキを開始、これがキール軍港にも飛び火して10月29日、ついにドイツ革命が勃発しカイザー・ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命、帝政が倒れた。

新生ドイツ共和国は11月3日、休戦協定に調印。第一次世界大戦はドイツの敗北に終わった。

残存したドイツ艦艇は英国スカパフロー軍港に集められ抑留された。

1919年に入りヴェルサイユ条約が発効、抑留中のドイツ艦艇は戦勝国各国に分配されることになった。

抑留ドイツ艦隊司令官ロイター提督以下将兵は、自らの艦艇たちがかつての敵国に引き渡される屈辱を良しとせず、密かにキングストン弁を開けた。

ここに世界第二位の海軍力を持った、誇り高きドイツ帝国海軍は消滅した。

これからのドイツ海軍はヴェルサイユ条約の重荷を背負い続けなければならない。再起するその日まで。

 

 

 

2.ナチスドイツ海軍


・ヴェルサイユ条約とヴァイマル共和国海軍

ヴェルサイユ条約は世界第二位の海軍だったドイツ海軍を一気に弱小海軍へ陥れた。

艦船は戦艦6隻(および予備2隻)、軽巡洋艦6隻(同2隻)、駆逐艦12隻(同4隻)、水雷艇12隻(同4隻)の保有のみ許されたが、いずれも旧式艦だった。

また大戦中に猛威を振るった潜水艦と海軍航空隊の保有は禁止された。

代艦の建造は戦艦1万t以下、軽巡洋艦6000t以下、駆逐艦800t以下、水雷艇200t以下に制限された。

戦艦はいずれも前弩級戦艦で、軽巡洋艦はすべて15年近く前に建造された旧式艦ばかり。

また海軍の兵員数は1万5000名以下、そのうち士官は1500名以下に制限された。また軍人の兵役期間も短縮され、予備役軍人の保有も禁止された。

1919年に発足したヴァイマル・ドイツ共和国海軍はライヒスマリーネ(Reichsmarine)と命名され、正式に帝政ドイツ海軍とは決別した。

新生ドイツ海軍は再び沿岸防御に特化した小海軍としての出発を余儀なくされたが、それでも再建に向けて続々と旧式艦の代艦が建造された。

1921年には軽巡洋艦エムデンが建造され、以降は巡洋艦・駆逐艦・水雷艇の新造艦建造が相次ぎ、1928年計画では旧式戦艦の代替艦として装甲艦3隻が計画された。

装甲艦はポケット戦艦とも呼称され、1万t以内という制限内で戦艦の代替となる性能を持つ艦を建造する必要性から海軍当局は数年の研究を行ったが、

満足できる成果は得られなかった。

そこで「戦艦の追撃を振り切ることのできる速度と巡洋艦より優勢な火力および装甲を配した艦」をコンセプトに建造されたのがドイッチュラント級3隻だった。

また船体重量を増大させるリベット留めに代わり電気溶接法が発達したことから船体の軽量化が実現され大型ディーゼル機関の搭載が可能となり、結果として長大な航続距離が得られた。これがのちの第二次世界大戦でドイッチュラント級が通商破壊戦に投入される背景となる。

 

 

 

・ヒトラー政権の誕生

1933年1月、アドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に就任し、ナチス政権が誕生した。

それとともにポケット戦艦の4番艦、5番艦の建造計画がスタートしたが、これらはフランス巡洋戦艦ダンケルク級に対抗するため

前世代のドイッチュラント級よりも戦力が増しており、基準排水量も2万6000tにまで増大した。

これがのちのシャルンホルスト級巡洋戦艦の原型であるが、翌年の1934年ではさらなる設計変更が行われ32000tとなった。

当然ながらヴェルサイユ条約の制限を大きく上回る数字なわけで、これを正当化するにはヴェルサイユ条約を破棄することが求められる。

1935年3月、ヒトラーはドイツ再軍備を宣言、ついて6月にはヴェルサイユ条約が破棄された。

同時にヒトラーは、かつて英国との間に熾烈な建艦競争が発生したことを鑑みて英独海軍協定を締結し、あえて海軍力を対英4割程度に制限することで

イギリスとの摩擦を回避した。ここにドイツを苦しめたヴェルサイユ体制は名実ともに崩壊し、ドイツは新たな戦争への道を進み続ける。

再軍備宣言と同時にドイツ最大の戦艦であるビスマルク級2隻の設計が開始され、1936年には1番艦ビスマルクの建造が始まるなど、

ドイツ海軍の拡大は日に日に増大し、後述のZ計画さえ完成すれば堂々たる海軍大国へと復活を遂げるのだ。

潜水艦部隊も復活を遂げた。潜水艦の建造・保有は禁止したが開発・設計までは禁止していなかったヴェルサイユ条約の盲点を突き、前大戦中に培った潜水艦建造のノウハウは1922年に設立された海軍技術会社(IvS)に蓄えられていたため直ちに建造が開始できたからだ。

1939年の第二次大戦開戦時にはⅠ型2隻、Ⅱ型30隻、Ⅶ型18隻、Ⅸ型7隻の合計57隻のU-ボートが配備されていた。

しかしこれでも大規模な通商破壊戦を行うには規模が小さすぎ、潜水艦隊司令デーニッツ提督は苦慮するのだが詳細は後述することにしよう。

 

 

 

・Z計画

オーストリア併合、次いでズデーテンラント問題などで英国をはじめとした周辺諸国との軋轢が生じた1938年9月、

ヒトラーは将来の対英戦に備えた艦隊建造計画の策定を海軍に指示し、1928年以来のドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督は

ふたつの案をヒトラーに提示した。

ひとつは比較的容易に建造できる装甲艦、U-ボート、仮装巡洋艦を多数建造し、通商破壊を志向する艦隊計画であり、

いまひとつはZ計画と呼称される制海権を奪取しうる大艦隊で、1947年に完成するプランだった。

ヒトラーもかつての大艦隊を再現したい気持ちもあったのだろう、1939年1月にはZ計画を承認した。

Z計画が完成した場合の偉容は以下のとおりになるはずであった。

 

・H級戦艦(6万2600t)6隻

・ビスマルク級戦艦2隻

・シャルンホルスト級戦艦2隻

・ポケット戦艦3隻

・P型装甲艦

・グラーフ・ツェッペリン級空母2隻

・アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦5隻

・軽巡17隻

・駆逐艦50隻

・水雷艇64隻

・潜水艦229隻

 

これだけ揃えばドイツ海軍は十分にイギリス海軍と対峙できる陣容となるはずだった。

実際には1939年9月に第二次世界大戦が勃発しH級戦艦、P型装甲艦、空母、重巡2隻、軽巡の大部分は建造中止になってしまったが

陸軍と空軍も同時に拡大しなければならないドイツにとって、これだけの造船ラインを割り振る国力は存在せず、

仮に戦争が勃発しなかったとしても完成したかどうかは不明である。

また潜水艦隊の充実を優先すべきとしたデーニッツの考えに立てば、

これほどの水上艦艇を建造する分の生産ラインを潜水艦に割り振れば開戦時にさらに多くの潜水艦を竣工させられたはずであり、

通商破壊作戦に支障をきたす原因となったともいえる。

ともかくドイツ海軍は完全に準備不足のまま、予想外の早期開戦を迎えてしまった。

「勇敢に死ぬことを知っていることを示す以外に何ひとつすることができない。」

開戦を迎えた海軍総司令官レーダー提督の言葉である。

 

 

 

・第二次世界大戦 水上艦艇の戦い①

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発した。

最初の火ぶたを切ったのは、ダンツィヒ沿岸に停泊していた

ドイツ旧式戦艦シュレースヴィヒ・ホルシュタインのポーランド側に対する艦砲射撃だった。

開戦直前にはドイッチュラント級装甲艦のうちドイッチュラント、アドミラル・グラーフ・シューペーが各所に配置され、戦争の始まりとともに通商破壊に従事した。

特にラングスドルフ艦長に率いられたアドミラル・グラーフ・シュペーの活躍は目覚ましく、開戦から英海軍に捕捉され自沈する3か月間、南大西洋を荒らしまわり5万tの連合国船を撃沈または拿捕した。

ドイツが戦争を遂行するうえで重要な鉄鉱石のうち、スウェーデンで産出されノルウェーを経由して輸入されるものは300万tに達した。

ノルウェーは当初中立を保っていたが、イギリスがノルウェーに介入する動きを見せた。

鉄鉱石の輸入を遮断されては戦争は行えない。また北欧にイギリス軍の基地が建設されては目の上のタンコブだ。

1940年4月、ドイツはイギリスに先んじてノルウェーを制圧することにした。

しかしノルウェーを侵略するには海を渡らねばならないが、当然イギリス海軍の介入が予想される。

ドイツ海軍は開戦時に保有していた水上艦艇の大半をこの作戦に投入し、陸軍の上陸作戦を援護した。

しかし4月9日ベルゲン上陸作戦を支援していた軽巡ケーニヒスベルクが沈没、同日オスロ上陸作戦を支援していた重巡ブッリュヘルがノルウェー沿岸要塞の砲撃により沈没するなど、手痛い被害を受けてしまった。

そして第一次~第二次のナルヴィク沖海戦では、イギリス海軍と交戦したボンテ提督指揮の駆逐艦10隻が全滅した。

もっとも巡洋戦艦シャルンホルスト・グナイゼナウがイギリス空母グローリーアスを撃沈するなど、戦果がなかったわけではない。

上陸作戦自体は大成功でノルウェーはドイツ軍の占領下におかれたが、ドイツ海軍の被害は大きく作戦終了時の6月時点で使用可能な無傷の艦艇は軽巡2隻、駆逐艦4隻にまで落ち込み、こののちドイツ水上艦艇は減少の一途をたどる。

 

 

 

・第二次世界大戦 水上艦艇の戦い②

1940年5月、ドイツ軍の発動した西方攻勢「黄色の場合」は大成功をおさめ、大国フランスと低地諸国がドイツの軍門に下った。

フランスと目と鼻の先、ドーバー海峡の向こうはイギリスである。

ヒトラーは空軍に英本土に対する爆撃を命令、ここにバトル・オブ・ブリテンが勃発したが、海軍も陸軍を英本土に上陸させるための準備を進めた。

しかし揚陸艇を保有せず、大規模な上陸作戦を行う余力のないドイツ海軍にとっては無理な要求であった。

案の定、ゲーリングの空軍は英国を屈服させることはできず、海軍の英本土上陸作戦もお流れとなった。

その後のドイツ水上艦艇はおもに通商破壊戦に投入され、

クランケ艦長指揮のポケット戦艦アドミラル・シェーアや、シャルンホルスト級巡洋戦艦などが活躍した。

特に巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウは白昼の英仏海峡突破など数々の武勇伝が残っている。

しかし何といってもドイツ海軍最大の戦艦・ビスマルクとティルピッツの姉妹を欠かすことはできない。

1941年春に就役したビスマルクは基準排水量4万tを超える巨艦で、主砲の38㎝砲は発射速度の速さ(3.3発/分)で知られた。

1941年5月、ギュンター・リュッチェンス提督に率いられたビスマルクと重巡プリンツ・オイゲン、そして駆逐艦数隻は北大西洋へと出港した。

かしイギリス海軍もビスマルクの出港を知ると強力な主力艦隊を差し向けた。

5月24日早朝には英海軍ホーランド提督に指揮された巡洋戦艦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと遭遇したが、

ビスマルクの放った38㎝砲弾はホーランド提督もろともフッドを撃沈し、竣工したばかりのプリンス・オブ・ウェールズを大破させた。

ただ一隻の戦艦に蹴散らされたイギリス海軍は、空母をはじめとした全力を投じてこのドイツ戦艦を撃沈しようとした。

翌25日、英軍のカタリナ飛行艇がビスマルクを捕捉、空母アーク・ロイヤルの艦載機であるソードフィッシュ雷撃機がビスマルクを襲った。

雷撃を受け舵を損傷したビスマルクは漂流し、さらに翌朝かけつけたイギリス戦艦部隊の集中砲火を浴びて破壊された。

この巨艦はイギリス巡洋艦ドーセットシャーの発射した魚雷が命中し、大西洋の海底深くに身を横たえた。

1941年2月に竣工したティルピッツは生まれてすぐ姉を亡くした妹だった。

竣工まもなくノルウェーはフィヨルド軍港に進出、ここを基地として活動し米英による北極海経由の対ソ支援船団を脅かし続けたが、1944年10月、連合軍機の空襲を受け沈没した。

ビスマルク沈没以後、ドイツ水上艦艇が積極的に出撃することは少なくなり、1943年1月、ヒトラーは潜水艦以外の艦艇の廃棄を命じ、水上艦隊の解体を宣言するに至り、この命令に抗した海軍総司令官レーダーは辞任するに至った。

(解体宣言そのものはデーニッツが撤回させている。しかし以後もドイツ水上艦艇は半ば浮き砲台のようになっていた。)

 

 

 

・第二次世界大戦 潜水艦の戦い①

前述のとおり、初期のU-ボート艦隊はデーニッツの主張した300隻体制とは程遠い57隻しかなく、しかもそのうちの半数は小型U-ボートで、

中型U-ボートは22隻のみだったが、ともかくそのうち39隻を戦時配備に移して開戦を迎えた。

前大戦で行われた無制限潜水艦作戦は第二次大戦でも行われたが、その実施は国際世論の悪化を恐れたヒトラーとデーニッツによって1940年8月まで見送られた。

また、いまだフランスが降伏していない段階だったためフランス沿岸に潜水艦基地を建設できず、その作戦範囲はイギリス近海にとどまるなど、大規模な潜水艦戦を行うには制約が多すぎた。

それでも開戦から1940年6月までの間に85万tの連合軍船舶を撃沈しており、

また英海軍の本拠地であるスカパフロー軍港に侵入したギュンター・プリーン艦長のU-47が戦艦ロイヤル・オークを撃沈、U-27が空母カレイジャスを撃沈するなど英軍艦艇にも大きな被害を与えた。

しかしU-ボートによる通商破壊戦が絶頂期を迎えるのは西方電撃戦終了後、フランス沿岸部の海軍基地が使用できるようになってからだった。

危険な英仏海峡を通過せずに大西洋へと打って出ることが可能になったU-ボートの作戦行動範囲は大きく広がった。

加えて「ヴォルフ・パック(群狼作戦)」と呼ばれる新戦術が実施された。

これは複数の潜水艦で編成したチーム(群狼)を各所に配し、偵察機が発見した敵船団の位置情報などをもとに進路を測定、敵船団の到達予定地点に集合し、敵船団を発見しだい一斉に襲い掛かるというもので、群狼戦術の確立により戦果は大きく上がり1940年10月だけでも36万tの船舶を撃沈した。

ただ、戦術を革新したのはいいが大西洋に出撃できるU-ボートの数が絶対的に不足していた。デーニッツは常時100隻のU-ボートを出撃させるべきとしたが、実数はわずかに20隻たらずだったからだ。

また連合軍側も船団護衛の強化などの対策を行いはじめ、またドイツ側の暗号「エニグマ」の解読に成功してドイツ側の群狼作戦を幾度となく封じ込めた。

1941年度にU-ボートは連合軍船舶1299隻を撃沈し、イギリスの対外輸出は戦前の3分の1にまで落ち込んだが、他方それまでの歴戦U-ボート艦長が次々と撃沈され、損害が増大した。

 

 

 

・第二次世界大戦 潜水艦の戦い②

1941年12月8日の真珠湾攻撃によってアメリカが連合国として参戦した3日後、ヒトラーはアメリカに宣戦を布告し、

ドイツ海軍も米国との交戦状態に入り、開戦当初の護衛不足なアメリカ船舶を一方的に狩った。

1942年4月までに連合国は260万tの船舶を喪失し、連合国は危機的な状況を迎えた。

ドイツ側も暗号「エニグマ」を改訂、連合国側がU-ボート部隊の位置情報を探知することが難しくなり、かえってドイツ側がイギリス側の暗号を解読して連合軍船団の詳細な位置情報を得られるようになった。

1942年7月までにU-ボートの数はデーニッツの理想とする300隻体制には及ばないまでも151隻にまで膨れ上がり、ドイツ海軍の通商破壊戦は全盛期を迎え、

1942年11月には月間75万tを撃沈する成果を上げた。

だが連合軍側の対潜戦闘技術も開戦時に比べて大きく進歩していた。

アメリカの参戦により、航空ソナーを搭載した米軍の飛行艇が大西洋の広範囲を索敵し、U-ボートの活動範囲は狭まった。

船団護衛も強化され、多数の護衛艦が建造された。護衛艦には新型対潜兵器「ヘッジホッグ」が搭載され、水中のドイツ潜水艦を容赦なく襲った。

そして護衛空母が登場すると、船団は常に航空機による対潜哨戒を受けられるようになり、U-ボートは発見しだい攻撃された。

ここに連合国側の対U-ボート戦術は確立されたのである。

1943年1月、辞任したレーダー提督の後を受け、潜水艦隊司令カール・デーニッツが海軍総司令官に就任した。

ドイツ海軍はもはや水上艦を捨て、すべてをU-ボートに賭けた。

1943年10月、デーニッツは犠牲の多すぎる群狼作戦の停止を命じ、U-ボート各艦による独航船舶を標的とした単独攻撃に切り替わった。

1944年6月、米英を中心とする連合軍がノルマンディー海岸に上陸、数か月の激戦の末、一部の港湾を除くフランス全土が解放され、

フランスにおけるドイツ海軍基地はほぼすべてが占領され、組織的なU-ボート戦は事実上終焉した。

1945年4月30日、総統アドルフ・ヒトラー自決。

海軍総司令官デーニッツはその後継者として総統職を代行。1945年5月8日にナチスドイツは降伏し、ナチスドイツ海軍も消滅した。

1945年5月の終戦までにドイツ潜水艦部隊が建造したU-ボートは1114隻、うち821隻は乗組員2万8000名とともに海底深く沈んでいった。

そのなかにはデーニッツの息子も含まれている。

 

 

 

ナチスドイツ海軍は、ドイツ国防軍三軍のなかでも最も予算が少ない部署であり、少ない戦力で圧倒的な連合軍海軍に立ち向かったことは特筆に値する。 しかしながら結局はその終焉に至るまで通商破壊戦に終始し続けるしかなかったのは、 やはり海軍に陸軍の補助的役割しか見出さなかったヒトラーと上層部、そして陸軍国家ドイツの国力の限界であった。

 

 

 

・終わりに

 

 

さて、数日にわたって書き溜めたドイツ海軍通史だが、残念ながら紙面と書き手の知識量の関係で東ドイツ海軍や西ドイツ海軍にまでは言及できなかった。

しかしWW1~WW2にかけての通史という意味でなら割と成功したのではないかと思っている。

本記事を読んでドイツ海軍の栄光と悲惨を存分に味わっていただけたなら幸いです。

 

 

・参考文献

 

・世界の艦船1989年3月増刊号 ドイツ戦艦史(海人社)

・死闘の海 第一次世界大戦海戦史(新紀元社)

・カイザーの世界政策と第一次世界大戦 (清水新書)

・丸2013年9月号

・地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国(河出書房)

・西方電撃戦(学研)

・大西洋戦争(学研)

・ドイツ海軍全史(学研)

・追跡 戦艦ビスマルクの撃沈(ハヤカワ書房)

・戦艦ティルピッツを撃沈せよ(ハヤカワ書房)

・欧州海戦史①②(光人社)