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バルジの戦いの経過を解説

「バルジ大作戦」で有名なバルジの戦い概説。

アルデンヌ攻勢(連合軍側呼称で「バルジの戦い」、ドイツ側呼称で「ラインの守り作戦」)は、ヒトラーが西部戦線における戦局を一挙に挽回すべく1944年12月に発動された大作戦である。では、どのような作戦であったのかを見ていこう。

 

1.背景

 

・第二戦線

 

1941年6月22日の独ソ開戦以降、ドイツ軍は東部戦線のみを主戦場としていた。この状況が一変したのは1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦によってである。これによってヨーロッパ大陸には東部戦線に続く「第二戦線」である西部戦線が構築され、ドイツは東からソ連、西と南(注:1943年には連合軍がイタリアに上陸していた)から米英と三方面から侵攻される形となった。

1943年にはスターリングラード戦、ついでクルスク戦に敗北しソ連軍にドニエプル川を渡河されるなど敗勢が明らかとなっていたドイツ軍にとって、これは「詰み」に等しい一撃だった。それでも連合軍の上陸から2か月ほどは頑強な抵抗を見せて食い止めたが、8月にファレーズ・ポケットと呼ばれる包囲環でドイツB軍集団の大部隊が殲滅されると西部戦線のドイツ軍は潮の引くように後退を始め、8月末にはパリが解放されるとドイツ軍は東に向けて一斉に退却していき、連合軍は予想だにしなかったほどのスピードで港湾を除くフランス全土とベルギーを解放することに成功した。

あまりに急速な進軍速度に輸送が追い付かず連合軍の兵站が悲鳴をあげたが、連合軍は未だフランス国内の主要な港湾を占領できておらず、またフランス国内の輸送網は上陸前に連合軍が行った爆撃でズタズタである。そのためノルマンディー海岸からベルギーまでの長大な補給路に頼らざるを得なくなったわけだが、それは必然的に物資輸送の遅延を招き、いつしか連合軍はしばらくの間、進軍を停止することを余儀なくされてしまったのだ。

ドイツ軍は「西方の壁」と呼ばれる要塞地帯を盾に踏みとどまっており、そのような状況を打破するため英軍のモントゴメリー元帥が発案した「マーケットガーデン作戦」が実施されたが、米101空挺師団が壊滅するなど大きな被害を受け失敗、米第1軍はアーヘン近郊で「ヒュルトゲン森の戦い」と呼ばれる消耗戦に巻き込まれるなど、連合軍側にも楽観視できないムードが漂い始めていた。

 

 

・ヒトラー最後の賭け

 

ドイツ軍の戦況は絶望的であった。東部戦線ではソ連軍が大挙して押し寄せており枢軸国として参戦していた東欧諸国が占領され、「バグラチオン作戦」によってウクライナやベラルーシの旧ソ連領がほぼすべて解放された。

しかし1944年末は東西の戦線ともに小康状態といってよかった。バグラチオン作戦の後のソ連軍も、ノルマンディー作戦後の連合軍もともに戦力回復と兵站の確立のため進撃を一時的に停止していたからである。ヒトラーにとって、戦局を巻き返すのはこの時期しかなかった。

1944年9月、ヒトラーは西部戦線の戦況を一挙に挽回すべく、乾坤一擲の大攻勢の計画を命じた。作戦名は、「ラインの守り」である。なぜ西部における攻勢を選んだかの理由は簡単で、数百個師団を擁するソ連軍に対する攻勢よりも、60個師団程度の連合軍に対する攻撃の方が効果的だったからだ。

いくつかのプランが立案された。マーケットガーデン作戦で生じたナイメーヘン突出部を除去する案、アルザスやルクセンブルクで米軍の一部を包囲する案、アーヘン付近で米第1軍を包囲する案...。だがヒトラーの目から見ればどれも小粒で、戦争の趨勢を覆すことのできる作戦ではなかった。そして最後のひとつが「ラインの守り」作戦(当初は「クリストローゼ」作戦という名称だった)である。

それは、攻勢開始地点には1940年に大勝利をつかみ取ったアルデンヌ森林地帯を選び、先だって連合軍が占領し補給港として使用している欧州有数の大規模港湾であるアントワープに向かって装甲部隊が突進、これを占領して連合軍の輸送を麻痺させるとともにカナダ第1軍、米第1軍、米第9軍、それに英第2軍の4個軍を包囲殲滅する、というきわめて野心的な作戦だった。ヒトラーはこれを採用した。 しかし西方総軍司令官であるルントシュテット元帥、B軍集団司令官であるモーデル元帥、それに参謀総長グデーリアン上級大将などはこの攻勢に大反対であった。ルントシュテットやモーデルは、壮大な作戦計画の割に使用可能な兵力が少ない点を危惧し、グデーリアンは西部よりも東部のほうが切迫した戦況であることから、貴重な装甲部隊をソ連軍に対する防御に投じるべきと指摘した。

だがヒトラーの考えは変わらなかった。この作戦が成功すれば、1940年の西方攻勢を再現し、連合軍を再びドーバー海峡に追い落とせるという希望を追い求めていた。 攻勢のための兵力が各地からかき集められ、グデーリアンの意見に反して東部戦線から多くの装甲部隊が引き抜かれ、国内では新兵の根こそぎ動員が行われ、5個の装甲師団と25個の国民擲弾兵師団が誕生した。余談だが、この時期のドイツ歩兵の平均年齢は40歳だとされている。

 

 

・攻勢前の両軍の状況

 

連合軍は、ヒトラーが西部戦線で反撃を実施しようと考えているなどとは思いもよらなかった、とまでは言えないが、少なくとも大規模な攻勢は不可と見ていたようである。第一、ノルマンディー以来戦争の主導権は常に連合軍が保持していたし、これまでの戦闘で消耗しきっているであろうドイツ軍に効果的な反撃が可能だとは思えなかった。

米第1軍がアーヘン地区で消耗戦を続け、米第3軍がザール方面に向かっている状況で、ただアルデンヌ地区だけが静寂を保っていた。この地区は連合軍が「保養地」と呼ぶほど戦線が安定していた地域だったから、ここにドイツ軍が大攻勢をかけてくるとは考えにくく、100キロ近い戦線には定数を満たさない新兵ばかりの6個師団があるのみだった。 ドイツ軍はアルデンヌ地区にSS第6装甲軍と第5装甲軍、それに第7軍の30個師団あまりを配置し、うち7個の装甲師団でアルデンヌ地区を越えることになっていた。

ゼップ・ディートリヒSS大将のSS第6装甲軍は主攻を担当し、モンシャウ~マンディフェルト間の陣地を突破しムーズ川を渡河してリエージュを確保したのちアントワープまで突進する。

フォン・マントイフェル大将の第5装甲軍は助攻を担当し、バストーニュ~ナミュール間からルクセンブルク北方を突破、アメイ~ナミュール間でムーズ川を渡河しアントワープに向かう。

ブランデンベルガー大将の第7軍は攻勢の南方を担当し、攻勢軸の南側を防護しつつ前進する。

さらに攻勢には第15軍が加わり、アーヘン付近に展開することとなっていた。

 

 

2.攻勢

 

・ドイツ軍攻勢開始

 

1944年12月16日、ドイツ軍は連合軍空軍が活動を停止する悪天候のこの日を狙って攻勢を開始した。

午前五時三十分、アルデンヌのすべての戦線で2000門の砲とロケット砲による準備砲撃が1時間にわたり行われ、これが終わると同時に歩兵を先頭にして戦車が突進した。4年前とは違う。4年前は戦車を先頭に突進したのだ。今のドイツ軍にはもう、電撃戦は不可能なのだ。いや、すでにドイツ軍は電撃戦を捨て、より堅実な戦いを選んだというべきなのかもしれない。

アルデンヌに展開していたミドルトン少将の米第8軍団は不意打ちを食らってしまった。特に第106師団はひどいありさまだった。この師団はバルジの戦いが初の実戦であったにも関わらず12月22までに1万6千の定数のうち9千の捕虜と4千の死者を出して全滅した。だが増援の第7機甲師団とともに交通の要衝であるサン・ヴィトを5日間にわたって守り抜き貴重な時間を稼ぎ出したことは特筆される。

第28師団は歴戦の部隊だけあって頑強に抵抗した。この師団の正面には装甲3個師団を含むドイツ軍部隊が展開していたが防戦をつづけながら後退し、残兵はきわどいタイミングでバストーニュに逃げ込むことができた。

当初アイゼンハワーの連合軍司令部は、この攻勢は限定的なものであり大規模な反撃ではないと考えていたが、どうも様子がおかしいと考え始め、翌17日にはドイツ軍の大攻勢であると確信した。 そこで第101空挺師団を含む2個空挺師団に加え第1軍・第3軍の予備部隊をアルデンヌ地方に増派することが決定された。

連合軍はわずか1日で立ち直ってしまった。奇襲でアルデンヌ森林地帯を突破しようとしたドイツ軍の意図はここで挫かれてしまったといってよい。

ドイツ軍は緒戦から計画通りに進まなかった。まず主攻を担当するSS第6装甲軍のエルゼンボルン丘陵遅滞への攻撃がうまくいかなかったし、マルメディ北方の道路分岐点を制圧すべく行われたハイテ降下漁兵連隊によるシュテッサー作戦も失敗してしまった。かろうじて、SS第1装甲師団を中核として編成されたパイパー戦闘団が進撃をつづけているのが頼みの綱であった。

第5装甲軍は、SS第6装甲軍に比べればスムーズに進撃していたが、増援の第101空挺師団や第28師団が逃げ込んだバストーニュが一向に陥落せず、そのため包囲下に置きながら前進することを強いられてしまった。

 

 

・グライフ作戦

 

グライフ作戦は、ミューズ川にかかる橋を連合軍が爆破する前に占領してしまうべく、英語に堪能な兵士を募り米軍の服装や兵器を装備して連合軍の後方に回り込むというもので、ヒトラーは攻勢計画の初期段階からこの作戦に力を入れていた。

この作戦の指揮官には、1943年にグラン・サッソで監禁されていたムッソリーニを救出し、またつい先ほどハンガリーの寝返りを阻止すべく摂政ホルティの嫡子を誘拐する作戦を成功裏に導いたばかりの、特殊作戦のベテランであるオットー・スコルツェニーSS中佐が選ばれた。

ヒトラーはラステンブルクの総統大本営にスコルツェニーを呼び出し、多くの米軍装備の提供を約束したが、実際には前線部隊が鹵獲装備の出し惜しみをしたためにわずかな数の装備しか手に入らなかったため、5号戦車パンターの改造車両などで間に合わせるほかなかった。

それら特別行動部隊の一人が連合軍の捕虜となり拘束された際、自らの任務をアイゼンハワー殺害であるとうそぶいたため、連合軍は心理的に動揺し疑心暗鬼にかられた。なんと、当のアイゼンハワーが憲兵によって一時的に拘束される事態まで起きたのである。

橋の占領には「トロイの木馬」と呼ばれた第150戦車旅団が投入される予定であったが、装備不足などから結局通常の戦闘に投入された。

 

 

・パイパー戦闘団の進撃

 

パイパー戦闘団はSS第6装甲軍の破城鎚として、全軍の先鋒を担ってミューズ川、そしてアントワープに突進する役目を受け持っており、弱冠29歳の指揮官ヨアヒム・パイパーSS中佐のもと、数十両の中戦車に20両のケーニヒスティーガーを装備した強力な打撃部隊であった。しかしSS第6装甲軍の担当する地域は道路状況が悪く(それは連合軍の空襲のせいであり、またかつてドイツ軍が撤退する際に自ら橋や道路を破壊していったからでもあった)重量があり速度も遅いケーニヒスティーガーを擁する部隊では迅速な進撃は難しく、また燃料の補給が望めない状況では3日のうちにミューズ川まで到達する必要があり、先行きは不透明だった。

ともかく12月16日、パイパー戦闘団は出撃した。17日には米第2師団の背後に回っていたが、この時点での敵部隊への攻撃は許されず、側面・背後の敵に構わず遮二無二前進し続けた。また有名なマルメディ虐殺事件はこの際に発生したものである。18日未明、アンヴレーヴという小さな村とそこにかかる橋を確保したが、そこにあった燃料集積所の燃料は確保できなかった。正午にはトロワ・ボンに向かったが、アンヴレーヴ川にかかる橋を目の前でふたつとも爆破されてしまい、やむなく進路を北方にとった。

そのころ、パイパー戦闘団がすでに通過したスタヴローにアメリカ軍が進出したとの知らせが入った。これで背後を米軍に遮断された形となり、退路を絶たれてしまった。 本来ミューズ川に到達する予定だった3日目には米部隊と交戦しつつその場に待機することを強いられ、その後数日間にわたり孤立した状態で交戦を続けた。24日、ついにパイパーは重装備をすべて放棄して兵員のみ後退することを決意、戦闘団の残兵800は小火器のみ携行してドイツ軍戦線へと後退していった。SS第6装甲軍の進撃はパイパー戦闘団の壊滅によって停止した。

 

 

・バストーニュ攻防戦

 

バストーニュは人口3500余りだが、合わせて7本の主要道路が交差する交通の重要地点であった。連合軍側はこの村の重要性を知っており、早くも17日には第10機甲師団、第82空挺師団、第101空挺師団の3個師団を同方面への出動に備え待機させていた。しかし第101空挺師団は前述のマーケットガーデン作戦で大きな被害を受け休養と再編成の中途であり、バルジ戦の直前には師団長が米本国に呼び戻していたため師団長の代理はA・C・マコーリフ准将が務めていた。

そこへ突然、アルデンヌ地区のウェルボモンへの急行命令を受けた。マコーリフはウェルボモンへ向かう途中、バストーニュに立ち寄って第8軍団長ミドルトンから詳細な情報を得ることにした。ミドルトンはマコーリフの到着に喜び、すぐに彼の隷下の師団をバストーニュ地区に増派してくれるよう頼んだ。こうして第101空挺師団はバストーニュ防衛の任に就いた。さらに第10機甲師団の一部が到着した。

ヒトラーとドイツ軍も攻勢の計画当初からこの村の重要性に目を付けていた。そのため装甲部隊を拠点攻略に投じてはならない、とするヒトラーもバストーニュに関してだけは例外的に装甲師団を投入して攻略してもよいと決定していた。ドイツ軍は知将フリッツ・バイエルライン中将が指揮する装甲教導師団、バルジ戦での戦いぶりからパットンが「ドイツ軍一やっかいなクソッタレ師団」と呼んだ第2装甲師団で市街地を包囲し、バストーニュはアントワープへ向かう第5装甲軍の真ん中に取り残された。

この包囲戦で装甲師団は3日も足止めを食らっていた計算になるという。貴重な装甲師団をバストーニュ包囲に投入しなかったら、第5装甲軍はもっと前進していたかもしれない。その後第26装甲擲弾兵師団が到着し、これら装甲師団は包囲戦を擲弾兵に任せて西進していった。

22日、ドイツ軍の派遣した使者が白旗を掲げながらバストーニュに入った。頑強に抵抗するマコーリフに降伏を勧告するためである。返答を考えていたマコーリフは、使者が来訪したとき自分が最初に発した言葉を思い出し、ドイツ軍使者に渡す文書をタイプさせた。それはこんな文書である。

「ドイツ軍司令官へ Nuts!(ばかめ!くそったれ!等の意)」

同日、包囲下の第101空挺師団に少し希望が出てきた。パットン第3軍がバストーニュ解囲のために第4機甲師団を急行させているとの報が入ったからだ。

23日~25日にかけてドイツ軍はバストーニュに攻撃をかけたが、米軍は持ちこたえ、26日、第4機甲師団の先鋒がバストーニュ市街地に突入し、ついに包囲は破られたのである。

北方のSS第6装甲軍に比べればアントワープに近づいた第5装甲軍も、最も西進した第2装甲師団がディナンで進軍を停止しこれ以上の攻勢は継続できなかった。12月24日、西方総軍指揮官フォン・ルントシュテット元帥はアルデンヌ攻勢「ラインの守り」作戦の失敗を認め、26日ヒトラーも戦線の拡大を停止し防御に移ることを認めた。

 

 

3.連合軍反撃

 

・ドイツ軍後退

 

米軍はドイツ軍を防ぎ切った。しかしドイツ軍をもとの戦線に押し戻し、ルール工業地帯を占領してソ連軍と手をつなぐにはまだ遠い道のりを経ねばならなかった。モントゴメリーの指揮下にある北方の米第1軍は大きな被害を受けており、モンティは第1軍の戦力が回復するまでは反攻は行わないと決めていた。その間にも米第3軍はバストーニュへの補給路を押し広げ橋頭堡にする準備をしていた。

ヒトラーはまだアントワープを諦めていなかった。一時的に攻勢は停止したが再びバストーニュから伸びる街道を伝ってアントワープを目指す気でいた。そこでアルデンヌ地区のドイツ軍に対する連合軍の圧力を低下させるために発動されたのが、次項で述べるボーデンプラッテ(大鉄槌)作戦であったり、アルザス方面に対する小規模な攻勢「北風」作戦だったりした。しかしドイツ軍の足掻きを連合軍は確実に排除して東に向かって進み続け、2か月を費やし2月7日にほぼドイツ軍攻勢発起地点に達し、ライン川を挟んでドイツ本国を望んだ。

 

 

・ボーデンプラッテ作戦

 

すでにドイツ空軍力は衰退著しく、制空権は完全に連合軍が握っていた。連合軍の空軍力は圧倒的であり、ヤーボ(戦闘爆撃機)が連日のようにドイツ部隊にダメージを与えていた。このように圧倒的な戦力を有する連合軍空軍力を一挙に撃滅し、西部戦線における航空優勢を再び勝ち得ようとすべく発動されたのが「ボーデンプラッテ(大鉄槌)作戦」である。

残存していたドイツ空軍力をかき集めた第2戦闘航空団の15個航空団の航空兵力のなかには、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262シュヴァルベも含まれており、総勢1000機にも上る戦闘機がオランダ・ベルギーの連合軍飛行場を空爆した。連合軍が200機程度の航空機を喪失したのに対してドイツ側は300機の戦闘機と貴重な搭乗員を失い、以後ドイツ空軍は航空攻撃を行う余力を残さなかった。

 

 

・終幕

 

2月にはモントゴメリーの指揮下にあった米第9軍が「グレネード作戦」を、米第1軍と第3軍が「ランバージャック作戦」を発動し、3月初旬にライン河畔に到達した。ドイツ軍はライン川にかかる主要な橋を爆破してしまったが、ただ一つだけ爆破に失敗したレマーゲン鉄橋から連合軍がライン川を渡河し、西部戦線はいよいよ大詰めのドイツ国内戦へと向かっていく。

 

 

4.総括

 

バルジの戦いはヒトラーの壮大な計画に比べれば小規模な戦役であったといえる。その実態はヒトラーが最後に放った大博打というべき作戦で、計画を遂行するのに必要なすべてが不足したまま行われた。従ってどう上手く転んでもアントワープを奪取し連合軍部隊の兵站破壊することなど不可能だったのである。 対して連合軍はドイツ軍の攻勢正面たる北方を担う英軍のモントゴメリーの指揮下に米軍部隊の多くを編入するなど柔軟な部隊運用と迅速な対処を実現し、早期にドイツ軍の攻撃を阻止することに成功している。

この戦いでは両軍合わせて15万もの人命が失われている。

 

 

・参考文献

 

ライフ第二次世界大戦史 バルジの戦い

バルジ大作戦(ジョン・トーランド)

アルデンヌ攻勢(欧州戦史シリーズ)

アメリカ陸軍全史(欧州戦史シリーズ)