蜀漢帝国の二世皇帝であり昭烈帝・劉備の皇太子である劉禅は、 三国志演義における評価をはじめとして後世では中国史上でも有数のバカ君主として人々に記憶されている。
しかし言われるほど暗愚な君主だったのだろうか?というようなことを考えてみようというのが、本稿の意図するところである。
【論点】
劉禅=バカ説の論点は以下のとおりである。
①.先帝死後、国政・軍事をすべて諸葛亮に委任し自らは関与しなかった
②.宦官の黄皓を重用し国力を減退させるとともに権力の腐敗を招いた
③.父の没後40年足らずで蜀を滅亡させた
④.未だ姜維らが奮戦しているにもかかわらず早期に降伏
⑤.『漢晋春秋』に収録されている洛陽移住後に司馬昭との宴会での逸話
と、だいたいこんなもんだろう。
【点検】
①.先帝死後、国政・軍事をすべて諸葛亮に委任し自らは関与しなかった
劉備の死後、劉禅が国事をすべて諸葛亮孔明に一任したのは、 劉備が今わの際に劉禅らの面前で孔明に後事を託したからだとされている。
実際このような簡単な儀式だけで全権を握るに至ったとは思えず、孔明の属する荊州閥の内部で 何らかの政治的な働きかけがあったと想像されるが、詳細は不明である。
ともかく孔明が政治の全権を握るに至ったわけだが、確かに政治家として孔明は極めて優秀であり、 だからこそ丞相として蜀の実権を握ったのだろう。
孔明の生前に劉禅が国事に関与しなかった理由は、単に優秀な宰相を得たために自らが直接政治を行わなくても済んだからである。
そうはいっても、父の遺言で据え付けられた宰相を鬱陶しく思って解任したりせず存分に手腕をふるわせ、 その死後も孔明の指名した蒋エンやその後継者であるヒイを宰相に採用したのは
やはり劉禅という人物が皇帝として才ある人物の言を傾聴できる器を備えていた証拠にはならないだろうか。
②.宦官の黄皓を重用し国力を減退させるとともに権力の腐敗を招いた
黄皓の台頭を許してしまったのは、ひとえに蜀の人材不足にある。
蒋エンや董允といった荊州以来の有能な政治家が相次いで死亡し政治的空白が生まれた虚を突いて宦官が権力を握ってしまった。
蜀という王朝の持つ脆弱性が露呈してしまった形であり、これを劉禅一人の責任に帰すのは酷だろう。
③.父の没後40年足らずで蜀を滅亡させた
蜀の領土は益州に限られており、その国力は完全に一地方政権並みだった。
しかし先帝・劉備が自らの野望を実現し帝位に就ける安全な地はこのような辺境にしかなかったのであり、
その意味では蜀という王朝は最初から弱小政権であることを運命づけられていたといえよう。
またヒイの死後、軍を掌握した姜維の度重なる北伐が蜀の国力を低下させた事実がある。
とはいえ、毎年のように魏を攻撃して少しでも敵の勢力を減殺しなければ一挙に蜀が滅亡する恐れもあり、完全に貧すれば鈍す状態だった。
むしろ先帝以後40年にわたり王朝を保った点を評価すべき。
④.未だ姜維らが奮戦しているにもかかわらず早期に降伏
各地で蜀軍は頑強な抵抗を見せたとはいえ多勢に無勢であり、蜀の敗北は明らかだった。
この時、劉禅が何を脳裏に描いていたのかは定かでないが、帝王として戦を終わらせ民草を救おうと考えたのかもしれない。
たとえその選択が国是に反していようとも。
⑤.『漢晋春秋』に収録されている洛陽移住後に司馬昭との宴会での逸話
完全に憶測でしかないが、劉禅とて帝王である。復位の野望がなかったわけではあるまいが、その思いを秘め、
あえて安住を選びあんな芝居を打ったのだと思う。なんと悲しき帝王であることよ。
【まとめ】
結論として、劉禅は優秀な人材を生かす度量を持った皇帝だったといえる。
個人としての力量は定かでないが、ひとつの帝国の君主としてなら十分立派だ。
参考史料:三国志正史・蜀書