誕生 | 1566年(永禄9年) |
生誕地 | 豊後国 岡城 |
父 | 志賀親度 |
母 | 大友宗麟(義鎮)の娘 |
幼名 | 太郎 |
名 | 志賀親善、ドン・パウロ(洗礼名) |
通称 | 鬼武蔵、少左衛門尉、湖左衛門尉 |
近親など | 子:志賀勝親など |
ゆかりの地 | 豊後国 岡城 |
略歴 | ●大友三大氏族 1566年 (1歳) 豊後国大友家の重臣で北志賀家当主(岡城主)、志賀親度の子として生まれる。 1578年頃 (13歳) 耳川の戦の敗戦により、主家の大友家が弱体化。 ●武勇と受洗 1584年 (19歳) 1585年 (20歳) ●楠木正成の再来 1587年 (22歳) 戸次川の戦。 その後、所領を日田まで広げる。 その後、大友家の中で発言力が高まったことから、主君、大友義統から疎まれるように。 大友宗麟(義鎮)が死没。 主君の嫡子、大友義乗の上洛に随行、聚楽第にて豊臣秀吉に謁見した際は、岡城での武勇を称えられる。 豊臣秀吉がキリシタン禁教令を発す。 ●大友家の改易 文禄の役に大友義統に従い参陣。 碧蹄館の戦の直前、明軍に追われた小西隊からの援軍要請を受けるが、戦局を見誤り義統に撤退を進言。 戦後、敵前逃亡の罪により大友家が改易。これに伴い所領を失う。 その後、豊臣秀吉に仕える。 その後、福島正則に仕える。 その後、小早川秀秋に仕える。 その後、細川忠興に仕える。 その後の消息は不詳だが、子孫は熊本藩士に。 |
死没 | ????年(????年)??月 (享年??歳) |
レクイエム | 聚楽第での謁見の際、秀吉は親次の武勇の話題に終始したという。 また、筆頭家老の田原紹忍を差し置いて淀城での茶会に招かれている。 |