箱根の坂を超えられなかった新公方
関連する場所 | 伊豆国 堀越御所 |
概要 | ●鎌倉府の敵対 室町幕府は、坂東(箱根以東)の支配のために鎌倉府を設置し、代々足利氏がその長官である鎌倉公方に就いていたが、第四代公方の足利持氏、第五代公方の足利成氏の時代に幕府に対抗し、それが元で関東は戦乱に巻き込まれた。(詳細は 古河公方のページに) 足利成氏は幕府軍に破れ、鎌倉を捨て 下総国の古河に退去し、その後数十年に渡って古河を拠点に君臨する。そのため 古河公方と呼ばれた。 ●足利政知 関東は、小山氏を初めとする関東の有力豪族が担ぐ古河公方方と、幕府、 堀越公方、関東管領の両上杉家(山内・扇谷)とそれに従う豪族とによる対立構造を保つことになった。 公方を称してはいたが、実質的には 伊豆国2郡からの税収が頼りの支配者であり、領民にとってはいい迷惑であったに違いない。 ●茶々丸のクーデター これを不服とした 足利茶々丸は、土牢から抜け出すと潤童子と円満院を殺害するという暴挙にでて、第二代 堀越公方を名乗った。(豆州騒動) しかし従来からの凶暴性などから家臣団の支持を得られず孤立、2年後、 駿河国今川家の客将で 興国寺城主の伊勢新九郎( 北条早雲)によって 堀越御所を急襲され降伏、 堀越公方は滅亡となった。( 伊豆討入り) 早雲は、 伊豆国にも四公六民の税制を敷いたことから領民に歓迎され、一度の戦だけで、念願だった 伊豆国を平定したことになる。 |
考察 | 早雲の伊豆盗りについては、幕府の指示があったと言われているが、それにしても武力で一国を奪取したのはこれがはじめてであり、 北条早雲は戦国時代のフロンティアと呼ばれる所以である。 |