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石田三成(いしだみつなり)のプロフィール・略歴

傲慢な性格が仇になった、秀吉が最も信頼した男

誕生 1560年(永禄3年)
生誕地 近江国 石田
石田正継
瑞岳院(岩田氏)
佐吉(幼名)、石田三成、治部少
官名 従五位下、治部少輔
近親など 正妻:うた(皎月院)(宇多頼忠の娘)
兄:石田正澄(木工頭)
子:石田重家、石田重成
ゆかりの地  近江国 石田
 近江国 水口城
 近江国 佐和山城
 美濃国 関ヶ原
略歴
    ●近江
1560年 1歳 近江国坂田郡の土豪、石田正継の子として生まれる
    ●秀吉
1574年 15歳 近江国長浜城主だった羽柴(豊臣)秀吉に、兄、石田正澄とともに仕える
1577年 18歳 秀吉の中国毛利攻めに従軍
1583年 24歳 賤ヶ岳の戦に参加し一番槍をつけたことなどから、近江水口城主に。(4万石)
    その際、父の石田正継も近江国に3万石を拝領し大名に
1584年 25歳 兄、石田正澄が高島郡の代官に
    小牧・長久手の戦に従軍
1585年 26歳 豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される
    ●名奉行
1586年 27歳 秀吉の命により上洛した越後国の上杉景勝と秀吉の間を斡旋
    堺町奉行に
1587年 28歳 九州攻めの後、博多町奉行となり、町の再興に貢献
1588年 29歳 薩摩国の島津義久と秀吉の間を斡旋
    筒井家を出奔した島左近を家臣に迎える。(時期については1596年説もあり)
1590年 31歳 秀吉の小田原城攻めの際、武蔵国忍城の水攻めを行うが失敗
    常陸国の佐竹義宣と秀吉の間を斡旋
    奥州仕置で、検地奉行を務める
    ●佐和山城主
    近江国佐和山城主に。(19万4千石)
1592年 33歳 文禄の役(朝鮮出兵)では朝鮮総奉行に
    ●五奉行
1593年 34歳 五奉行制が敷かれると、そのひとりに
    兄の石田正澄が堺奉行に
1594年 35歳 島津家の領土を検地
    佐竹家の領土を検地
1595年 36歳 関白豊臣秀次を糾問。(秀次事件)
1596年 37歳 京都奉行に
    この頃、領内に十三箇条掟書、九箇条掟書を発布
    豊臣秀吉の命で、キリシタンを弾圧
    ●秀吉の死と家康との対立
1598年 39歳 豊臣秀吉死没
    博多に赴き、朝鮮からの帰還者を迎える
1599年 40歳 徳川家康が無断で他家と婚姻関係を結んでいることなどを、前田利家らとともに糾弾
    前田利家の死没後、恨みを買っていた加藤清正や福島正則ら七将から襲撃されるようになるが、佐竹義宣に救出される
    徳川家康の薦めで、結城秀康に守られて佐和山城へ向かい蟄居
    ●旗上げ
1600年 41歳 家康の専横に我慢できず、会津の上杉景勝(長尾顕景)や直江兼続と連絡を取り合い、親友大谷吉継を説き伏せて味方につけ、家康打倒に立ち上がる。(西軍の総大将として担がれたのは毛利輝元であったが、首謀者は明らかに三成であった)
    関ヶ原の戦では西軍有利とされていたたが、小早川秀秋の裏切りなどで壊滅状態となり大敗
    伊吹山中に逃れたが田中吉政に捕縛され、小西行長,、安国寺恵瓊らとともに六条河原で斬首
レクイエム 官吏としての才能に長けていたが、真面目すぎる性格が災いして人情に欠けるところがあり、怜悧な言動なども手伝って敵を作り易かった。

豊臣恩顧の武断派の加藤清正や福島正則を東軍に回してしまったのも、元はといえば彼らが根強く持っていた三成憎しの気持ちであった。

豊臣政権を脅かす存在である家康憎しの三成だったが、自分の性格やこれまでの行動が、結局家康を天下人にしてしまったことは、皮肉この上ない。
死没 1600年11月6日(慶長5年10月1日) (享年41歳)