武田信玄に降り高遠城主となった
誕生 | 1511年(大永7年) |
生誕地 | 信濃国 |
父 | 保科正則 |
母 | |
幼名 | |
名 | 甚四郎 |
官名 | 筑前守、弾正忠 |
近親など | 子:保科正直、内藤昌月 孫:保科正光など |
ゆかりの地 | 信濃国 高遠城 |
略歴 | ●高遠 1511年 (1歳) 信濃国伊那の高遠城主で、高遠頼継の家老、保科正則の子として生まれる。 その後、家督を相続に。 ●信玄の侵攻 ●高遠城 以後は武田家の先方衆として、各地に転戦し活躍、「槍弾正」と呼ばれるように。 1572年 (62歳) ●信玄の死 跡を継いだ武田勝頼に仕える。 1575年 (65歳) 三男の千次郎(内藤昌月)が、長篠の戦で戦死した武田家の重臣、内藤昌豊の養子に。(異説あり) ●武田氏滅亡 天目山の戦で武田家が滅亡。 その後、北条氏直に属す。 ●再び高遠に 1585年 (75歳) 1593年 (83歳) |
死没 | 1593年9月1日(文禄2年8月6日) (享年83歳) |
レクイエム | 鉾持除の戦の際、嫡男の保科正直や孫の保科正光は出陣中で、城には敵の10分の1以下の4百しか残っていなかったが、農民3百を集めて旗印を持たせ、戻ってきた本軍に見せかけるなどの準備をした上で奇襲をかけ、味方を大勝に導いた。 |