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●扇谷上杉家 |
1443年 |
1歳 |
関東管領、山内上杉家の分家、扇谷上杉家当主で、相模国糟谷館主の上杉持朝の三男として生まれる |
1447年 |
5歳 |
足利成氏が京都から下向し、鎌倉公方に復帰 |
1449年 |
7歳 |
かつて成氏を攻め滅ぼした父、上杉持朝が隠居し、長兄の上杉顕房が家督を相続 |
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●享徳の乱 |
1454年 |
12歳 |
関東管領で義兄(姉の夫)でもある上杉憲忠が、鎌倉公方の足利成氏に謀殺される |
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これにより、関東管領の山内上杉家と分流の扇谷上杉氏家、鎌倉公方家と敵対関係となり、関東の諸豪を巻き込んでの戦乱状態に(30年に渡る享徳の乱の始まり) |
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●兄の死 |
1455年 |
13歳 |
分倍河原の戦で、兄で当主の上杉顕房が公方方に敗れ戦死 |
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これにより父、上杉持朝(道朝)が再び当主に |
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その後も鎌倉公方方は、両上杉家やそれに味方する勢力を攻め立てる |
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幕府は上杉家支援を決定、後花園天皇から成氏追討の綸旨を取り付ける。これにより鎌倉公方の足利成氏は朝敵となる |
1457年 |
15歳 |
幕府の命を受けた駿河国守護、今川範忠が鎌倉を制圧 |
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鎌倉公方の足利成氏は下総国へ移り古河城を居城とし、これ以降古河公方と呼ばれる |
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●河越城 |
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その後、扇谷上杉家の家宰、太田道真、太田道灌父子が武蔵国北部に河越城を築城、扇谷上杉家の居城に |
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上杉持朝(道朝)、太田道灌に江戸城、岩付城を築城させ、古河公方に対する |
1462年 |
20歳 |
父、上杉持朝(道朝)、幕府が新たな鎌倉公方として派遣した堀越公方足利政知と敵対、幕府から不審を買い、三人の重臣、大森氏頼、三浦時高、千葉実胤が責任を取る形で隠居。これにより、扇谷上杉家の勢力は大幅に縮小 |
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●父の死 |
1467年 |
25歳 |
父、上杉持朝(道朝)が死没、兄、顕房の子上杉政真が家督を相続 |
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次兄の三浦高救とその子三浦義同(道寸)が相模国三浦家の養子に |
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●甥の死と家督 |
1473年 |
31歳 |
甥で当主の上杉政真、古河公方勢に武蔵国の拠点のひとつ、五十子城を攻められ戦死。(五十子の戦) |
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これにより、定正が家督を相続 |
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●長尾景春の乱 |
1476年 |
34歳 |
反乱を起こした山内上杉家の重臣、長尾景春から五十子城を攻撃され大敗し、上野国へ逃亡 |
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家宰の太田道灌が長尾景春勢を駆逐し、危機を逃れる。これにより太田道灌の声望が高まる |
1482年 |
40歳 |
山内上杉家当主の上杉顕定が古河公方と単独で和睦するが、定正はこれに不満を持ち、両上杉家が対立(享徳の乱の終結) |
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●道灌謀殺・長享の乱 |
1486年 |
46歳 |
家宰の太田道灌を相模国糟谷館に招いて謀殺(将来実力による謀反を企てられることを恐れた、という説が有力) |
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これにより、道灌の子、太田資康や有力家臣が離反し、山内上杉家に主家を変える(長享の乱の始まり) |
1488年 |
48歳 |
異母兄で三浦家に入っていた三浦高救が、扇谷上杉家の家督を狙って対立 |
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これらを受けて、旧敵である古河公方や長尾景春を味方につける |
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山内上杉家当主の上杉顕定から、居館、糟谷館を攻められそうになるが、郊外の実蒔原で奇襲を行い勝利(実蒔原の戦) |
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上杉顕定から河越城を攻撃されるが、長尾景春らの加勢を受け須賀谷原で勝利(須賀谷原の戦) |
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上杉顕定の居城、鉢形城攻撃に向かうところ高見原で迎撃されるが勝利(高見原の戦) |
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長享の3戦に勝利はしたが、その後も関東管領である山内上杉家に味方する勢力は多く、扇谷上杉家は次第に劣勢に |
1489年 |
49歳 |
古河公方と不和に |
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●早雲 |
1493年 |
53歳 |
伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方家の家督争い(豆州騒動)に乗じ、当主である足利茶々丸を堀越御所に攻める(伊豆討入り) |
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その後、伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟 |
1494年 |
54歳 |
伊勢宗瑞(北条早雲)とともに武蔵国高見原に出陣、山内上杉顕定との対陣中に落馬し死没 |