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●明智城 |
1528年 |
1歳 |
美濃国の斎藤道三家臣で土岐家の一族、明智光綱の子として生まれる |
1535年 |
8歳 |
父綱が死没したため家督を相続 |
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若年だったため、叔父で明智城主の明智光安の後見を受ける |
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●浪人 |
1556年 |
29歳 |
斎藤道三と争い始めた斎藤義龍に明智城を攻められ、一家は離散、浪人となる |
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その後仕官先を探して諸国を放浪、その途上、鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人細川藤孝(幽斎)とも知り合う |
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●朝倉への随身 |
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その後、越前国の朝倉義景に仕える |
1565年 |
38歳 |
松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が13代将軍義輝を暗殺。(永禄の変) |
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義輝の弟覚慶(足利義昭)の身も危ないことから、細川藤孝(幽斎)が覚慶(足利義昭)をかくまい、将軍家復興のため朝倉義景を頼ったことから光秀と再会 |
1568年 |
41歳 |
朝倉義景には上洛の意思がないことから、尾張国の織田信長を頼ることを覚慶(足利義昭)に提案、信長に会い上洛の承諾を得る |
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●信長への随身 |
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光秀も朝倉義景を見限り、織田信長に仕える。有職故事に明るいため信長の頼りとするところとなる |
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信長に担がれて上洛した足利義昭が15代将軍の座に就く。(信長の上洛戦) |
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信長が京都を離れる際は、村井貞勝らとともに京都に残り政諸務を行う |
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本國寺の変では足利義昭を守り切る |
1570年 |
43歳 |
傀儡将軍に過ぎないことを知った足利義昭が、信長打倒を決意 |
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浅井家攻略のための構想を織田信長に提案。(姉川の戦となる) 戦後はこの功により、京都警備を任せられる |
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野田・福島の戦 |
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志賀の陣 |
1571年 |
44歳 |
織田信長に従い比叡山焼き討ちを実行 |
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●出世頭 |
1572年 |
45歳 |
近江国志賀郡5万石を与えらる。織田家家臣の中では新参ながら、一番の出世頭に |
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琵琶湖岸に坂本城を築城し、居城に |
1573年 |
46歳 |
越前国の一乗谷攻めで功をたてる |
1575年 |
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丹波方面の攻略を命じられ侵攻するが、波多野秀治の裏切りにより敗退。(黒井城の戦(第一次)) |
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●丹波方面司令官 |
1577年 |
50歳 |
信貴山城の戦に参陣 |
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再び丹波方面の攻略を開始 |
1578年 |
51歳 |
丹波国に亀山城を築城し、二つ目の居城に |
1579年 |
52歳 |
丹波国、八上城の波多野秀治、秀尚兄弟を攻め落城させる |
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丹後国守護で弓削城主の一色義定を攻め降伏させ、丹後国を織田家の支配下に置く |
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信長に背いた荒木村重や松永久秀らの討伐に貢献 |
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この頃斎藤利三を家老に迎える |
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丹波国一国(29万石)を与えられる |
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丹後国の細川忠興、大和国の筒井順慶らを指揮下に置き、織田家の近畿方面司令官となる |
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福智山城(福知山城)を築城 |
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●謀反 |
1582年 |
55歳 |
織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務める |
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毛利方と対峙していた中国方面司令官の羽柴(豊臣)秀吉から出馬要請を受けた織田信長が、大軍を派遣することを決定し、光秀も出馬命令を受ける |
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居城、亀山城(亀岡城)に戻り、出陣準備 |
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愛宕神社に里村紹巴らを招き、連歌会「愛宕百韻」を開催 |
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軍を京都に転進させ、織田信長のいる本能寺を急襲し自害させる。(本能寺の変) |
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与力である娘婿細川忠興やその父細川幽斎(藤孝)、組下の筒井順慶らから支持を得られず孤立 |
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中国から大返ししてきた羽柴(豊臣)秀吉と、摂津国と山城国の国境山崎で対決し敗戦。(山崎の戦) |
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敗走途上、伏見小栗栖の竹藪で落人狩にあい死没 |