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伊達政宗(だてまさむね )のプロフィール・略歴

天下を夢みた東北の雄、独眼竜

 

誕生 1567年9月5日(永禄10年8月3日)
生誕地 出羽国羽前 米沢
伊達輝宗
義姫( 最上義光の妹)
梵天丸、藤次郎、政宗、独眼竜、大崎侍従、武振彦命(神号)
官名 美作守、従五位下、左京大夫、侍従、越前守、従四位下、右近衛権少将、陸奥守、正四位下、参議、従三位、権中納言、贈従二位
近親など 正室: 愛姫(田村御前・ 田村清顕の娘)
弟:伊達小次郎(政道)など
子: 伊達秀宗、伊達忠宗、伊達宗綱など
娘: 五郎八姫(いろはひめ・ 松平忠輝の正室)など
ゆかりの地  出羽国羽前 米沢城
 陸奥国岩代 黒川城(会津若松城)
 陸奥国陸前 岩出山城(岩手沢城)
 陸奥国陸前 仙台城
略歴
    ●伊達家
1567年 1歳 出羽国羽前、 米沢城主、 伊達輝宗の長男として生まれる
    ●右目失明
1571年 5歳 疱瘡にかかり右目を失明。これを機に母、 義姫から疎まれるように
1572年 6歳 虎哉禅師を師に学び始める
1575年 9歳 片倉小十郎が傅役に
1579年 13歳 陸奥国磐城三春城主、 田村清顕の娘、愛姫と結婚
1581年 15歳 相馬家攻めで初陣
    ●家督相続
1584年 18歳 父、 伊達輝宗の隠居により、家督を相続
1585年 19歳 小浜城主、大内定綱の離反を受け、定綱の支城、小手森城を攻め撫で斬りを行う
    畠山義継に捕らえられた父 伊達輝宗を、止む無く見殺しにする。(粟之巣の変・高田原の変)
    陸奥国岩代の 人取橋の戦で、佐竹、蘆名連合軍に勝利
1586年 20歳 正宗を毒殺しようとした 愛姫の乳母や侍女全員を誅殺
1588年 22歳 北方の 大崎義隆を攻めるが、 最上義光が大崎家の援軍に駆けつけたため大敗
    母、 義姫の取り成しで 最上義光と和睦。(大崎合戦)
    ●奥州南部平定
1589年 23歳 陸奥国岩代の 摺上原の戦で 蘆名義広を破り、奥州南部を制圧
    周辺の諸族を支配下に置き、 出羽国羽前南部、 陸奥国岩代、 陸奥国陸前南部など合計114万石の太守に
    陸奥国岩代の 黒川城(会津若松城)に本城を移す
    ●毒殺未遂
1590年 24歳 実母、 義姫に毒殺されそうになるが回避。この事件を発端に、家督を狙っていた弟の伊達政道(小次郎)を成敗。(異説あり)
    ●秀吉への臣従
    小田原城攻めを行っていた 豊臣秀吉に伺候し、臣下につく
1591年 25歳 惣無事令違反、領内での一揆(葛西大崎一揆)を煽動した疑いなどから、米沢など約150万石から 陸奥国陸前玉造郡など58万石に減封となり、 岩出山城(岩手沢城)に入る
    岩手沢城を 岩出山城に改名
1592年 26歳 文禄の役(朝鮮出兵)に参戦。
出陣の際の装束が派手で、「伊達者」の語源となった
1594年 28歳 母、 義姫が出奔し実家 山形城へ戻る
1595年 29歳 親しかった前関白の 豊臣秀次の切腹( 秀次事件)に伴い、謀反にの連座したという嫌疑をかけられるが、弁明が通り許される
1600年 34歳 関ヶ原の戦で 徳川家康の東軍に属し、最上家の 山形城を攻めた上杉家家老、 直江兼続を攻めるために、家臣で叔父の 留守政景を援軍に派遣( 長谷堂城の戦)するなど、 上杉景勝のけん制役を果たすが、どさくさに紛れて一揆を煽動したことが発覚し、評価が下がる
    ●青葉城
1601年 35歳 仙台城(青葉城)を築城し居城とし、初代仙台藩主に。(60万石)
1605年 39歳 娘の五郎八娘が、 徳川家康六男 松平忠輝と結婚
1613年 47歳 支倉常長を慶長遣欧使節とし欧州へ派遣
    大久保長安の死去により、幕府への謀反(未遂)の関係者として嫌疑をかけられるが、切り抜ける。(大久保長安事件)
1614年 48歳 大坂冬の陣に参陣
1615年 49歳 大坂夏の陣で、豊臣方の 後藤又兵衛を討つ
    戦功として 伊予国宇和島10万石を拝領、長子の 伊達秀宗を城主に(初代宇和島藩主)
    戦後は領国経営に注力
1636年 70歳 死没
死没 1636年6月27日(寛永13年5月24日) (享年70歳)
レクイエム 辞世は「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く」

奥州制覇はもちろん、天下取りの野心もその素質も持っていた戦国の風雲児。

しかし、中央ではすでに信長、秀吉が天下統一へ向けて活躍し初めていたため、生まれた時代がやや遅すぎた感がある。

一揆の煽動や謀反未遂など、数々の嫌疑をかけられた「問題児」でもあったが、そのたびに巧みな弁舌やあらかじめ用意した逃げ道を使って切り抜けた。

支倉常長を欧州に派遣したのも、表向きは通商が目的であったが、イスパニア国王の支援を受けて倒幕を決行するつもりであったという説が有力。

油断も隙もあったものではない、という言葉は、まさに政宗にピッタリの言葉である。