本願寺、三好、朝倉、浅井による信長包囲 |
西暦 | 1570年 |
和暦 | 元亀元年9月 |
関連する場所 | 近江国 宇佐山城 |
略図 | |
概要 | ●北近江の情勢 姉川の戦で勝利した 織田信長は、浅井・朝倉勢への追撃を家臣らがしきりに進言したが自重した。 もちろん戦が激烈を極め、兵力が著しく低下していたためだが、 足利義昭の呼びかけに応じた本願寺勢力が、いよいよ信長に対して決起することをすでに知っていた、ということのほうが大きな理由だと思われる。 信長は京都をはじめ畿内をほぼ制圧してはいたが、 摂津国の石山本願寺との敵対には多大な兵力の投入を強いられる。畿内以外の土地土地における信徒の決起も当然予想された。 さらに 姉川の戦で大打撃を受けたとはいえ、まだまだ健在である 越前国朝倉、北 近江国浅井の勢力が京都へ乱入してくれば、腹背に敵を持つことになり破滅は免れない。 信長は 浅井長政の居城 小谷城への押さえとして、横山城に 木下藤吉郎(豊臣秀吉)を城代として置き、京都への入り口にあたる宇佐山城には 森可成を入れるなど、 近江国南部を確保するための手段を講じた。南近江を失うことは、居城のある岐阜と京都の連絡が途絶えることを意味するからである。 ●本願寺蜂起 摂津国の野田城や福島城に籠る三好勢を攻めていた( 野田・福島の戦)信長は、急遽石山本願寺勢の攻撃を受ける一方、近江方面からの連絡が途絶えていることを不審に思い、急遽 明智光秀らを 近江国に派遣した。 ●湖西の大軍 浅井・朝倉連合軍は湖西方面に3万の大軍で進出し、 金ヶ崎の退き口の際信長を助けた 朽木元綱を蹴散らすと琵琶湖西岸を南下、京都への入り口に当たる宇佐山城を包囲した。 宇佐山城に入っていた 森可成は、信長へ危急を知らせる伝令を出したに違いないが、比叡山の僧兵たちが要所要所に詰め、使者を討ち連絡を絶った。 宇佐山城には 森可成が3千の兵とともに籠り、信長の弟の織田信治も2000を率いて援軍に駆けつけたが、3万の敵勢に囲まれてはとてもかなわない。 森可成は500の手勢で城から打って出て玉砕した。 宇佐山城には 森可成の家老、各務元正ら1000余りの兵が籠っていたが、連合軍の猛攻を受けながらも最後まで耐え抜いたといわれる。 連合軍は翌日には京都に入り、各地を放火しながら二条御所を目指した。 ●織田の逆襲 信長は延暦寺に対し、分国にある全ての寺領を戻すことを条件に織田方に味方するよう誘ったが、延暦寺側は朝倉家が大檀家であったこともあり、信長には従わないままにらみ合いが続き、12月13日、朝廷に和睦の綸旨を出させた信長の策略により、お互いが兵を退くこととなった。 浅井・朝倉に味方した比叡山に対する信長の恨みは、のちに 比叡山焼き討ちをもたらすことになる。 |