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三国志の夷陵の戦いを解説

 皇帝に就任した劉備が最初に行ったことは呉への侵攻でした。関羽を殺されたことに対する報復だといわれていますが、一国を治める人物が個人の心情で戦争をするでしょうか。劉備はなぜ呉を攻めたのでしょうか。そして、その劉備もついに人生に幕を降ろすことになるのです。

 

夷陵の戦い概要図 →蜀軍 →呉軍

劉備は谷を利用して沢山の陣を築いたが、陸遜の火計で一気に白帝城まで退却させられた。

 

・白帝城     劉備→→       黄権

―――――――――――――→→→→→

→趙雲   ↓馬良    ―――――↓

                  |↑朱然、潘璋

                   |×夷陵 ←陸遜

――――――→長江

・夷道(孫桓)

 

<登場人物>


・劉禅(りゅうぜん)207-271

 字は公嗣。劉備の子、蜀の二代皇帝。趙雲が長坂橋で救った阿斗は後の劉禅。妃は張飛の娘敬哀皇后と張皇后。皇帝に昇ると丞相諸葛亮に支えられた。諸葛亮の死後は蒋エン、費イ、董允らの有能な人物の支えを受けたが、宦官の黄皓の台頭を許して蜀を衰退に傾けた。特に何をしたということもなく、皇帝なのによくわからない人物。

 『演義』では蜀を滅亡に追い込んだ馬鹿で暗愚で無能な君主として描かれ、中国での嫌われ様もものすごい。「阿斗」は馬鹿の代名詞のように使われ、像を建てても壊されてしまうほどである。しかし、陳寿は「周囲が有能なら優れており、悪ければ悪くなる」と評価している。英雄とはいえないが、きわめて普通の人間であったようだ。

 

・李厳(りげん)?-234

 字は正方。晩年は李平といった。劉備が蜀にしたときに従った。諸葛亮や法正らとともに法律「蜀科」を制定し、軍事面では白帝城で対呉戦線を任されていた他、南蛮征伐でも活躍した。政治面でも軍事面でも優れ、呉の陸遜と同等の人物であると評価されている。劉備よって諸葛亮とともに後事を任されたほどである。諸葛亮が北伐に失敗し続け、李厳が北伐を代行することになり、このとき、李厳は戦況が思わしくないことを隠蔽して免職された。

 『演義』では仕事をさぼって孔明に免職されるだけの無能官僚としてしか描かれていない。「正史」でも兵糧輸送遅延の責任を諸葛亮に押し付けようとしたが、逆に弾劾されて免職されている。近年の研究では北伐の戦果どうこうではなく、両者の間に政治的対立があったことが指摘されているらしい。

 

・鄧芝(とうし)?-251

 字は伯苗。蜀の家臣。夷陵の戦いで劉備が敗北すると、諸葛亮に命じられて呉との国交回復を成し遂げた。以降、孫権との関係は非常に良好になった。孫権からも「蜀呉の友好は鄧芝のおかげだ」といわれている。北伐では趙雲とともに曹真と戦ったが敗れた。鄧芝は清廉な人物で、自ら私腹を肥やすようなことをしなかったという。

 『演義』でも孫権との和睦交渉のときに登場し、孫権の脅しにまったく動じない豪快な人物として描かれている。

 

・廖化(りょうか)189-264

 字は元倹。元の名を淳といった。関羽の部下で、関羽が殺されたときに呉に降った。廖化は蜀に戻りたいと願い、自分が死んだという噂を流して呉から脱出した。このときに夷陵の戦いに出兵中の劉備と出会い、帰参することができ、名を化と改めたとされる。果敢な人物として知られ、蜀滅亡まで仕えた。蜀で非常に長い期間活躍し、降服して洛陽に送られる途中で死去した。

 『演義』でも勇猛果敢な人物として描かれ、黄巾の乱の頃から生きていたことになっている。しかし、北伐で司馬懿の冠を奪う手柄を立てたときは「関羽なら満足しなかったはずだ」と引き合いに出されるだけの凡将に描かれている。

 

・関興(かんこう)?-234

 字は不明。関羽の次男。諸葛亮に期待されていた武将らしいが、詳細はまったく不明。「正史」では存在があったことしかわからず、『演義』によって創作された武将といってもいい。特に三男関索にいたっては完全な創作。夷陵の戦いで張飛の息子張苞と義兄弟の契りを結び、関羽を殺した武将を次々に倒す活躍が描かれている。

 

・張苞(ちょうほう)?-?

 字は不明。張飛の長男。まったく詳細不明。「正史」では存在があったことしかわからなく、ほとんど創作された人物。弟に張紹がいて、こちらは文官として活躍している。『演義』では関興とともに登場し、夷陵の戦いや北伐で活躍している。

 

<実際の夷陵の戦い>


 劉備は建国すると劉禅を皇太子に定め、丞相に諸葛亮を任命して国内の人事を行いました。そして最初の国家事業として、呉への侵攻を行うことを決めました。これが夷陵の戦いです。この決定は諸葛亮や趙雲らの反対を押し切ってのものでした。蜀は呉と争うことは避けるべきであったからです。諸葛亮らが最も危惧していたことは、蜀呉で争っている最中に魏が力をつけることでしょう。たださえ国力の低い蜀呉で争っている場合ではなかったのです。

 

 劉備はなぜあえて出兵したのでしょうか。筆者は本気で呉を倒すつもりはなかったと考えます。ほとんど成算がなく、勝利しても利潤が少ないからです。出兵前に法正、黄忠が死去し、出兵準備中に張飛が謀反で殺されました。また、蜀東部の防衛線もがたがたになっており、仮に呉を破ったとしても、国力を消耗させに出兵しにいくようなものです。そこを魏に突かれれば、呉との戦いはまったく無駄なものとなるのは明らかです。

劉備は呉に対する牽制行動を取り、「敵討ち」という名目で民衆からの人気取りを行いたかったのだと思います。劉備は漢朝の正統な後継者という、一種の象徴によって指示を得ていたので、それを崩すことは避けなければなりません。人々を熱狂させ、その勢いで呉を破ることができれば、関羽の奪われた地域を返還させ、再び和睦する考えであったのだと思います。

 

 『演義』ではこの部分が劉備、関羽、張飛の固い絆で描かれ、このときの戦いで読者をうまく引き付けることに成功しています。しかし、『演義』によって作られた夷陵の戦いはあまりにも装飾されすぎています。作者羅貫中は常軌を逸したような描き方をしており、『演義』で最悪に入る部類です。

『演義』では黄忠が生きていたり、関羽と張飛の息子たちが活躍するのはいいとして、呉の朱然や潘璋といったこれからも活躍する武将を次々に殺しています。神様関羽を殺したとされる呂蒙、朱然、潘璋、馬忠、糜芳、士仁はこの戦いの前後に全員殺されています。陸遜も超スーパー天才軍師孔明があらかじめ用意しておいた八掛陣の迷路に迷い込んで、ダメ軍師振りを散々に発揮して逃げ戻ります。ここまでやられると逆に冷めてしまい、面白味がなくなります。

 

 実際の夷陵の戦いでは、諸葛亮は成都に残り、趙雲は後方を固めていました。軍は劉備自らが指揮を取り、参謀として考えられるのは文官の馬良です。明らかな人材不足です。しかし、劉備は馬良に異民族を平定させ、黄権に魏を抑えさせ、たくさんの陣地を築き上げて怒涛の勢いで呉を押していきます。劉備の勝利は目前のように思われました。

 ところが、陸遜が大きく巻き返しを図ってきたのです。陸遜は蜀軍呉班の陽動作戦に「劉備は負けてばかりだから心配ない。あんな長い陣で防げるわけがない」とまったく動きませんでした。さらに「劉備は経験豊かであるから、最初は様々に仕掛けてくるだろう」とひたすら守りを固めました。そして、最後に火計をもって蜀軍に壊滅的な打撃を与えたのです。

 

さらに夷道で蜀軍に包囲されていた孫桓が巻き返し、劉備は前半とは一転してひたすらに敗北を繰り返し、白帝城まで退却させられます。趙雲が救援に赴いたときは手遅れでした。陸遜は魏の動きを警戒し、劉備が白帝城まで退却すると、すぐに北方を固めました。孫権はひとまず魏に臣従の意思を示し、「呉王」と認められます。

このときに黄権が敵中に取り残されて魏に降服し、馬良は戦死してしまいます。蜀は捕虜になっていた関羽の武将廖化を奪い返しますが、受けた被害はそれ以上、あまりにも大きすぎました。

 

<劉備の死>


 劉備の策は完全な失敗に終わりました。劉備は陸遜の策になすすべもなく、白帝城まで大きな退却を行います。しかし、陸遜は劉備を捕らえるための追撃を仕掛けませんでした。北方の魏が怪しい動きを示したためです。ここから三国の外交駆け引きが始まります。

 

まず、呉は劉備を破ったことで、その恩を魏に売りつけました。関羽から奪った捕虜于禁も魏に送り届け、魏に臣従する構えを見せたのです。魏は呉が味方になれば、この上ない収穫を得ることになります。魏は孫権を呉王に命じ、破格の待遇を与えました。

 しかし、孫権は簡単に魏に臣従するつもりはありませんでした。陸遜はそのことを理解した上で、劉備に追撃をかけなかったのだと思われます。ここで劉備を捕らえても孫権が魏に降らなければ、呉一国で強大な魏を相手に戦わなければなりません。また、皇帝劉備を逃しておけば、いつでも鞍替えが可能です。孫権のたくみな外交策です。

 孫権はすぐに蜀と和解する姿勢を示します。蜀は呉にすがるしか選択の余地はなく、丞相諸葛亮は国交回復の方向に話をまとめていきます。蜀は最悪の結果だけは免れたといえますが、この後は呉に利用されるだけの存在となってしまいます。

 

その劉備はどうしたのかというと、この敗戦を嘆いて病に倒れてしまいます。劉備は死ぬ間際に諸葛亮と李厳に後を託し、ついに息を引き取ります。劉備の死で三国志第一世代がこれでほぼ世を去ったことになります。『演義』でもこの場面は涙を誘うシーンとして描かれています。

 

劉備:孔明、オイラはもうダメだ!後はすべてをお前に託そう!

孔明:必ず劉禅様のために尽くします!

劉備:孔明よ、もしも劉禅が皇帝に相応しくないと思ったら、君が国を奪ってもかまわない!

孔明:何をおっしゃるのですか!私は劉禅様に終生お仕えいたします!

劉備:孔明!そういってもらえるとオイラは安心して死ねるよ!

孔明:当然ではありませんか!世界一天才の僕がついていれば、劉禅様がいかに馬鹿でも何の心配もございません!

劉備:それと孔明よ!お前は馬謖を重用しているが、あいつは口だけだから気をつけろよ!

孔明:ご安心を!世界一天才の僕が育てた馬謖に間違いはないのです!

 

 というふうに遺言を残し、劉備は死去します。六十三歳、諡号を昭烈帝と送られました。「正史」では劉備の伝は「先主伝」(劉禅が後主)とされているので、わかりにくいと思います。ちなみに曹操は「武帝本紀」なので、わかりやすいですね。これによって蜀は皇帝が劉禅に移行、丞相諸葛亮が政治の中心に大きく登場し、「魏を倒す」という劉備の遺志を引き継ぐことになるのです。