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斎藤茂吉「鴎外の歴史小説」 全文

鷗外の歴史小説 齋藤茂吉



大正元年九月十三日明治天皇大葬の日に當つて、乃木大將夫妻は午後八時靈轜出門の號砲を聞くとともに殉死した。そして夫妻の葬儀は九月十八日であつたが、その間、乃木大將夫妻の自刃について哲學者・倫理學者・敎育學者等の批判が新聞に載り、當時の思想界を支配しつつあつた其等有力學者の言説のうちには、これを舊時代遺殘の行爲と做し、寧ろ非難しようとする傾向が見えた。特に谷本博士の言説の如きはその色彩が鮮明で、それほどでない他の學者の批評でも、乃木大將の行爲を理會し肯定することを以て過去世の古い考としたのであるから、況んや思ひ切つて其を讚美しようといふものなどは一人も無かつた。これは當時の批判を丁寧にしらべてもらへば明らかに分かることである。但し私のこの結論は、かういふ所謂有力學者の言説のあひだに行はれた、四十七士を讚美すると等しい浪花節的感激の通俗言論は勘定に入れないものだといふことを承知せられたい。
然るに鷗外先生は突如として、中央公論の十月號に、「興津彌五右衛門の遺書」といふ小説を發表した。この小説は、興津彌五右衛門といふ老人が、細川三齋公(松向寺殿)の十三回忌に殉死したが、その遺書であるかのやうに爲組んだ小説である。この彌五右衛門は三十一歳の折、三齋公の命で横田といふ相役と長崎に香木(かうぼく)を買ひに行つた。然るに同時に仙臺の伊達家からも買ひに來て、香木の本末(もとすゑ)のことで競爭して代價をせりあげたが、横田は香木ぐらゐに大金を費すのは愚だから末木(うらぎ)でも好いといふ意見だつたのと興津は意見の衝突をした。その時のことを次のやうに書いてゐる(中央公論に載つた文に據る)。
其時相役申候は、假令主命なりとも、香木は無用の翫物に有之、過分
の大金を擲候事は不可然、所詮本木(もとぎ)は伊達家に讓り、末木(う
らぎ)を買求めたき由申候。某申候は、某は左樣には存じ不申、主君の
申附けられ候は、珍らしき品を買ひ求め參れとの事なるに、此度渡來
候品の中にて、第一の珍物は彼伽羅に有之、其木に本末(もとすゑ)あれ
ば、本木の方が、尤物中の尤物たること勿論なり。それを手に入れて
こそ主命を果すに當るべけれ、伊達家の伊達を増長爲致、本木を讓り
候ては、細川家の流を瀆す事と相成可申と[申]候。相役嘲笑ひて、そ
れは力瘤の入れ處が相違せり。一國一城を取るか遣るかと申す場合な
らば、飽く迄伊達家に楯を衝くが宜しかるべし。高が四疊半の爐にく
べらるる木の切れならずや、それに大金を棄てんこと存じも不寄、主
君御自身にてせり合はれ候はば、臣下として諌め止め可申儀なり、假
令主君が強ひて本木を手に入れたく思召されんとも、それを遂げさせ
申す事、阿諛便佞の所爲なるべしと申候。當時未だ三十歳に相成らざ
る某、此詞を聞きて立腹致候へ共、尚忍んで申候は、それは奈何にも
賢人らしき申條なり、乍去某は只主命と申物が大切なるにて、主君あ
の城を落せと被仰候はば、鐵壁なりとも乘取り可申、あの首を取れと
被仰候はば、鬼神なりとも討果たし可申と同じく、珍らしき品を求め
參れと被仰候へば、此上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上
は、人倫の道に悖り候事は格別、其事柄に立入り候批判がましき儀は
無用なりと申候以下略
かういふ口論のすゑ、興津は横田を一打に殺した。さて香の本木を買つて三齋公に復命したが、三齋公は興津に切腹には不及と云はれた。のみならず、『出格の御引立を蒙つた』のだから、三齋公薨去のをりにとうに殉死すべきであつたが、江戸詰留守居の用向もたまつて、他人まかせにもならぬ始末なので空しく年月が立つてしまつたが、いよいよ本望叶ふ時節が來たといつて、正保四年丁亥十二月朔日に遺書を書いてゐるのである。
彌五右衛門の遺書には次の如きことが書いてある。『某儀今年今月今日切腹して相果候事奈何にも唐突の至にて、彌五右衛門奴老耄したるか、亂心したるかと申候者も可有之候へ共、決して左樣の事には無之候。某致仕候てより以來、當國船岡山の西麓に形ばかりなる草庵を營み罷在候へ共、先主人松向寺殿御逝去被遊て後、肥後國八代の城下を引拂ひたる興津の一家は、同國隈本の城下に在住候へば、此遺書御目に觸れ候はば、甚だ慮外の至に候へ共、幸便を以て同家へ御送届被下度、近隣の方々へ頼入候。某年來桑門同樣の渡世致居候へ共、根性は元の武士なれば、死後の名聞の儀尤大切に存じ、此遺書相認置候事に候』。『最早某が心に懸かり候事毫末も無之、只々老病にて相果候が殘念に有之、今年今月今日殊に御恩顧を蒙候松向寺殿の十三回忌を待得候て、遲馳に御跡を奉慕候。殉死は國家の御制禁なる事、篤と承知候へ共壯年の頃相役を討ちし某が死遲れ候迄なれば、御咎も無之歟と存候』。『此遺書蠟燭の下にて認居候處、只今燃盡候。最早新に燭火を點候にも不及、窓の雪明りにて、皺腹搔切候程の事は出來可申候』云々。
右の如き、遺書體の小説であるが、これは德川時代(萬治頃)に於ける『殉死』を取扱つたもので、殉死者の心理、その必然性、社會の暗默裏の約束、その道德的背景等を示してゐることが明瞭である。彌五右衛門の遺書には、『只々老病にて相果候が殘念に有之』と云つてゐる。また、『御跡を奉慕』とも云つてゐる。これが切腹の必然的心理である。また、『彌五右衛門奴老耄したるか、亂心したるかと申候者も可有之候へ共』といひ、『殉死は國家の御制禁なること、篤と承知候へ共』といふのは、外形である、表面である。『篤と承知』といふのはただ表面の理論上の認知である。併し當時の老武士の心中を去來してゐたものは、決してさういふ表面的なものではなかつた、それが三十餘年前の香木事件に本づく三齋公の彌五右衛門に對した態度とその反應心理で、『壯年の頃相役を討ちし某が死遲れ候迄なれば、御咎も無之歟と存候』といふのは、言葉は短いが、彌五右衛門の殉死すべき、必然にして切實なる根據は隈なく此處に出てゐるのである。約めていへば、彌五右衛門にとつては殉死せずに居られぬといふところがあつたので、『彌五右衛門奴の老耄』や『殉死は國家の御制禁』などいふことは、ただ表面だけのもので、實際は何の役にも立たぬものであつた。
乃木大將の生涯はさういふ武士的實生活を以て終始したのであつた。ゆゑに明治天皇の崩御に際して、必然にして切實なる道理に本づいて殉死したのである。澎湃として立つた、『開化』の波の中には、當然として森有禮の如きも出現したけれども、また明治史の根幹には當然として乃木希典の如きも居るべきものだといふことが、この小説の中に暗指せられてゐる。即ち、乃木希典の切腹を、西洋の字引に載るやうになつたハラキリの概念を以て律しては間違ふ、また、基督敎國で長年にわたつて訓育せられた、自殺罪惡説(西紀四五年アルル會議)を以て律すべきものではない、といふことを暗指してゐるのである。
鷗外先生は、乃木大將殉死行爲に對する有力學者等の批判が新聞に載つたのを讀んで、先生の抱懷した信念を、議論の形式に據らずに、過去の事實を外貌としてその中に織り込ませるといふ歴史小説的手段を取つたのであつた。後年、『文章の題材を、種々の周圍の状況のために、過去に求めるやうになつて』(澀江抽齋)と云はれたが、この遺書體の小説がその最初のものであつた。そして、この小説の意圖を約めていへば、乃木大將の殉死行爲について、世の學者等は彼此いつてゐるが、己の考はちがふ、といふことに歸著する。
先生のこの意圖を證明する根據は、この小説の内容のみでなく、この小説は、突嗟の間に書かれたといふことである。大正元年九月十八日、即ち、乃木大將夫妻の葬儀の日に脱稿してゐることである。これは、中央公論に載つたこの小説の附記は十月十八日となつてゐるが、其は誤植で、先生の日記には、九月十八日の條に、この小説を草し畢つて中央公論に渡した旨が明記せられてゐる。それだから、大將殉死の十三日夜から、諸學者の批評を讀んで、それから資料の整理と構想に一日二日を費したとして、せいぜい二晩ぐらゐの間に書き上げられてゐる。その迅速なること實に驚くべきで、「寒山拾得」を一夜にして書き畢はられたのをおもへば敢て不思議ではないやうなものの、いかに先生が自見を示されるのに急がれたかといふことが分かるのである。
もう一つ、この小説を如何に急がれたかといふことは、この小説を、大正二年六月發行の「意地」に收められた時には、非常な改作と増補とをして居るのを見ても分かるのであって、此は當時私の亡友古泉千樫がいち早く注意し、二人がその改作の跡を辿つたことがある。中央公論に載つたこの小説には附言があつて次の如くである。
此擬書は翁草に據つて作つたのであるが、其外は手近にある德川實記
と野史とを參考したに過ぎない。皆活板本で、實記は續國史大系本で
ある。翁草に興津が殉死したのは三齋の三回忌だとしてある。併し同
時にそれを萬治寛文の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でな
くてはならない。三齋の歿年から推せば、三回忌は慶安元年になるか
らである。そこで改めて萬治元年十三回忌とした。興津が長崎に往つ
たのは、いつだか分からない。併し初音の香を二條行幸の時、後水尾
天皇に上つたと云つてあるから、其行幸のあつた寛永三年より前でな
くてはならない。然るに興津は香木を隈本へ持つて歸つたと云つてあ
る。細川忠利が隈本城主になつたのは寛永九年だから、これも年代が
相違してゐる。そこで丁度二條行幸の前寛永元年五月安南國から香木
が渡つた事があるので、それを使つて、隈本を杵築に改めた。最後に
興津は死んだ時何歳であつたか分からない。併し萬治から溯ると、二
條行幸迄に三十年餘立つてゐる。行幸前に役人になつて長崎へ往つた
興津であるから、その長崎行が二十代の事だとしても死ぬる時は六十
歳位にはなつてゐる筈である。こんな作に考證も事々しいが、他日の
遺忘の爲めに只これ丈の事を書き留めて置く。大正元年十[九の誤]月
十八日。
かうあるが、「意地」に載せた分には、かういふ文を除去して、大改作を行つてゐるのである。初稿には、『萬治元戊戌年十二月二日。興津彌五右衛門華押。皆々樣』とあるが、改作の方は、『正保四年丁亥十二月朔日。興津彌五右衛門景吉華押。興津才右衛門殿』となつてゐるのをはじめとして、大きい増補をしてゐるが、初稿に無いので、切腹の場面、系圖を附加したほかに、子孫までその生活を調べてゐる。これは、「安井夫人」、「都甲太兵衛」から、晩年の「澀江抽齋」、「伊澤蘭軒」などで子孫までを討尋した、その傾向が既にここに認めることが出來るのである。
この、「興津彌五右衛門の遺書」は、さういふ思想的意圖を織込ませた小説で、且つ外貌は過去の史的事實として描寫せられた點に於て、『鷗外歴史もの』の、第一番目に屬し、批評家の注目に價するものとおもふが、殘念なことには當時の文壇評では、誰一人その意圖を洞察せずにしまつた如くであつた。一部具眼の人士は先生の意圖に勘付いても、それを文章にあらはすやうなことはなく、自然主義末期の文壇は、中央公論のやうな好い舞臺にのぼつても、ただ、鷗外は妙なものを書いたと云つて、目迎目送をしたに過ぎなかつたのではあるまいか。


ついで大正二年一月の中央公論に、「阿部一族」を書かれた。肥後熊本の城主細川忠利の家臣に阿部彌一右衛門といふ者があつたが、忠利の死んだ時、忠利の許を得て殉死した者が十八人もあり、鷹さへも殉死したと云はれる程であつたのに、阿部は忠利からの許が出なかつたばかりに殉死をすることが出來ずして、つひにその一族が滅亡し行く悲劇の經過を敍した小説である。
この小説は、殉死を取扱つてゐるのだから少しく手抄しよう。『殉死にはいつどうして極(き)まつたともなく、自然に掟(おきて)が出來てゐる。どれ程殿樣を大切に思へばと云つて、誰でも勝手に殉死が出來るものでは無い。泰平の世の江戸の參勤のお供、いざ戰爭と云ふ時の陣中へのお供と同じ事で、死天(しで)の山三途(さんづ)の川のお供をするにも是非殿樣(とのさま)のお許を得なくてはならない。その許もないのに死んでは、それは犬死(いぬじに)である。武士は名聞(みやうもん)が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死をするのは立派ではあるが、軍令に背いて拔駈(ぬけがけ)をして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じ事で、お許の無いに殉死しては、これも犬死である。偶にさう云ふ人で犬死にならないのは、値遇を得た君臣の間に默契があつて、お許はなくてもお許があつたのと變らぬのである。佛涅槃(ぶつねはん)の後に起つた大乘の敎は、佛のお許はなかつたが、過現未(くわげんみ)を通じて知らぬ事の無い佛(ほとけ)は、さういふ敎が出て來るものだと知つて懸許(けんきよ)して置いたものだとしてある。お許の無いのに殉死の出來るのは、金口(こんぐ)で説かれると同じやうに、大乘の敎を説くやうなものであらう』。また、長十郎といふ若者が忠利から殉死の許可を得た時のことを敍して、『細かに此男の心中に立ち入つて見ると、自分の發意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の旁、人が自分を殉死する筈のものだと思つてゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくせられてゐると、人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持が、殆んど同じ強さに存在してゐた。反面から云ふと、若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひないと心配してゐたのである。かう云ふ弱みのある長十郎ではあるが、死を怖れる念は微塵もない』と云つてゐる。此處では、若し殉死せずにゐたら、『恐ろしい屈辱を受けるに違ひない』といふことを云つてゐるのである。また、忠利の心中に立入つて、身を割くやうな思ひで許可を與へるのであるが、『自分の親しく使つてゐた彼等が、命を惜まぬものであるとは、忠利は信じてゐる。隨つて殉死を苦痛とせぬことも知つてゐる。これに反して若し自分が殉死を許さずに置いて、彼等が生きながらへてゐたら、どうであらうか。家中一同は彼等を死ぬべき時に死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者として共に齒(よはひ)せぬであらう』と云つてゐるのである。また、『殉死を許して遣つたのは慈悲であつたかも知れない。かう思つて忠利は多少の慰謝(ゐしや)を得たやうな心持になつた』とも云つてゐる。
當時の殿樣と家隸との關係、その殉死の行はれる必然性はどういふものだつたかといふことを、小説描寫のところどころにこのやうに示してゐるのである。然るに忠利の家隸に阿部彌一右衛門通信(みちのぶ)といふものがあつた。一般も當然殉死するものだと極めてゐた程であつたのに、忠利は殉死の許可を與へなかつた。そして阿部がただ數日生き長らへてゐたために、一族が滅亡の悲劇に終ることを書いたのがこの小説の眼目である。そして、悲劇の序幕として、彌一右衛門も數日たつて追腹を切つたのであるが、『十八人の侍が殉死した時には、彌一右衛門は御側に奉公してゐたのに殉死しないと云つて、家中のものが卑んだ。さて僅かに二三日を隔てて彌一右衛門は立派に切腹したが、事の當否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消え難く、誰も彌一右衛門を褒めるものが無い』といふのである。また、殉死といふ觀念については、阿部一族を討つために阿部の屋敷の表門に向かつた竹内數馬といふものの行爲にも明かにあらはれてゐる。
德川武士と殉死行爲との聯鎖はさういふものである。そこで、興津彌五右衛門の遺書で殉死を取扱つた鷗外先生は、稍々ゆつくりと時間を持たれて、もつと委しくこの小説で殉死問題を取扱つたのである。そして、この小説は、乃木大將の殉死とは無關係にも成立つことは無論であるが、先生の念中には、乃木大將の殉死が強い表現動機として存在してゐたものである。語をかへて云へば、乃木大將殉死の批判としてこの小説を書いてゐるのである。
新渡戸博士の名著「武士道」は、武士道をば西洋人に紹介するために努力した書物であるから、嚙んでくくめるやうに、切腹即ちハラキリの美點を讚美し、辯護してゐる。そして、ハラキリをば單なる自殺として取扱つてはならぬことを強調してゐる。そして博士の該博な西洋史實の引用が、西洋人をして合點せしめるに與つて力があつたことは云ふことを須ゐない。
然るに、乃木大將の行爲を批判したその當時の學者等は、この新渡戸博士等の意圖のことなどは忘却してしまつて、或はそれらの意見を氣の利かぬものと做して、あべこべに西洋倫理學の立場からそれを批判するに至つた。鷗外先生の小説は二たびその批判ともなつた姿になつたものである。そして、新渡戸博士は、カトーウ、ブルタス、ペトロニアス、ソクラテスを例證として西洋人に説いたが、鷗外先生は興津彌五右衛門、阿部彌一右衛門を例證として日本のハイカラア學者に説いたといふことにもなる。


大正三年の二月の新小説に、「堺事件」を公にした。これは、明治元年二月十五日の、土佐の藩の兵とフランスの水兵との葛藤から、土佐藩の兵二十名が妙國寺といふ寺の境内で切腹するところを描寫し、十一人死んで十二人目の橋詰愛平が切腹する番になつたときに、立會中のフランス公使のロツシユはじめその部下が一應の挨拶もなく倉皇として退席することが書いてある。『フランス公使はこれまで不安に堪へぬ樣子で、起つたり居たりしてゐた。この不安は次第に銃を執つて立つてゐる兵卒に波及した。姿勢は悉く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合ふやうになつた。丁度橋詰が切腹の座に著いた時、公使が何か一言云ふと、兵卒一同は公使を中に圍んで臨檢の席を離れ、我皇族竝に諸役人に會釋もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切つて、寺の門を出るや否や、公使を包擁した兵卒は驅歩(かけあし)に移つて港口へ走つた』云々。
前の二つの小説は、同じハラキリでも殉死であり、この方は命令によるハラキリであるが、西洋人の面前で行はれた行爲であつた。その中の箕浦といふものは、切腹の際に、創に手を入れて臓腑を摑んで引き出した男であるが、切腹のときに、雷のやうな大聲で、『フランス人共(ども)聽(き)け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇國(くわうこく)のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け』と云つて居る。これがハラキリの目的でもあり、またこの小説の主眼も其處にあるのである。彼等は、『我々は皇國(くわうこく)の爲に明日一命を棄てる者共ぢや』。『國家の爲に忠死する武士の記念ぢや』と云つてゐる。つまり眼目はそこにある。
併し、全體としては、さういふモラルの概念は毫も目立たず、また、前の二つの小説のやうに、乃木大將の殉死批判などといふ意圖もなく、いかにも落付いて細かに筆を運んでゐる。ただ若し何かの豫感でもありとせば、外國語に飜譯されても差支ないといふぐらゐのものがあつたのかも知れない。
なほ、そのほかに私の注意したのは、十一人死んで、九人は切腹せずに濟んだ。
妙國寺で死んだ十一人の爲には、土佐藩で寶珠院に十一基の石碑を建
てた。箕浦を頭に柳瀬までの碑が一列に竝んでゐる。寶珠院本堂の背
後(うしろ)の縁下には、九つの大瓶が切石の上に伏せてある。これは其
中に入るべくして入らなかつた九人の遺物である。堺では十一基の石
碑を『御殘念樣』(ござんねんさま)と云ひ、九箇の瓶を、『生運樣』(い
きうんさま)と云つて參詣するものが迹を絶たない。
私は、大正三年にこの小説を讀んだときにも、『御殘念樣』(ござんねんさま)。『生運樣』(いきうんさま)にはひどく感動したのであるが、今度讀返してみてもやはり強い感動を受けた。この小説で、御殘念樣、生運樣といふのは、人間の尋常の心情で、西洋も東洋もかはりはない。併し、『明日堺表に於て切腹仰せ付けられる。いづれも皇國の爲を存じ、難有くお受いたせ』といふのは、特殊の約束であつて、普通の西洋人には分からない。その特殊の武士道倫理觀を細敍しつつ、その中に人間の常情を織り込ませたのが、この『生運樣』といふ語であつた。
そして、この『皇國のため』といふ語は、『外國との交際を御一新あらせられる折柄』であるのに聯鎖し、もはや元禄や天保の語調ではなくなつてゐる。かくの如く、同じ歴史小説の名の下に一括せられてゐるが、その動と反動、抑制と開運、善と惡、外象と内界、個と大衆、さういふものが相錯雜流動しつつ、同じく過去のハラキリといふ一行爲と雖、時間的、社会樣相的に幾階段をも考へ得べく、それがまた、この小説の書かれた大正初め頃、それから昭和の現代に聯鎖しつつ、一つの『生(せい)綜合』(Lebenssynthese)を形成するのであつて、歴史小説の面白味は其處に存じてゐる。制作時に既に遠い過去を見とほしてゐるのだから、向をかへれば遠い未來まで見とほすこととなる。その制作時の點に立つて、作者は觀相を恣にすることが出來る。鷗外の歴史小説に、多くの人間的問題を暗指してゐるのはそのためである。
然かも鷗外の歴史ものは、考證は飽くまで微細に確かであるから、讀者は知らず識らずのうちに、意を安んじて讀むといふ習慣に導かれる。またその考證も、ただの文書的・文獻的考證のみでなく、人間的考證、萬有實證法的考證に本づかしめてゐるのが特色であつて、興津彌五右衛門の遺書の如きは、翁草に出て居る素材と、小説としてその發展の爲方がいかに活潑だかといふことに思ひ到るなら、一小考證と雖輕々に看過してはならぬのである。
例へば、「大鹽平八郎」で、大阪から大和へ出るのに信貴峠を越させ、『その後影を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を蹈み消した。そして信貴越(しぎごえ)の方角を志して、格之助と一しよに、又間道を歩き出した』と如何にも事實らしく書いてゐるが、これは鷗外がさう極めたのである。そしてその極めるについて、『試みに、大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の變換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、龜瀬峠は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相鄰してゐる服部川から信貴越をするのが順路だと云ひたくなる。かういふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を敍する前に、信貴越の一段を插入した』(大鹽平八郎附録)といふ理由があるのである。この考證は文獻的考證を補充するに、人類的實證法を以てしたもので、人間は斯く斯く行爲するのが自然であるといふ實證法に本づいたものである。これは、超覺官的(übersinnlich)の場面の考證でも同じであるから、後に一言觸れるつもりである。



大正二年十月の雜誌ホトトギスに、「護持院ヶ原の敵討」を公にした。これは、天保四年十二月二十六日に、姫路の城主酒井雅樂頭の上邸で、大金奉行山本三右衛門といふ老人が、小使の龜藏といふ者に殺されたのを、子の宇平、娘のりよ、叔父の山本九郎右衛門、仲間(ちゆうげん)の文吉、四人で敵討をしようとし、宇平と九郎右衛門が文吉をつれて、敵をさがしに旅に出で、艱難辛苦のすゑに、足掛三年目の天保六年七月十三日、江戸神田門外の護持院原で龜藏を討取る顚末を書いたものである。
この小説は、本草家が植物を記載して行くやうな態度で、靜かに確かに細かに、澹々とした筆致であるが、讀む者はこの小説から非常に強い感動を受ける。先生は自ら云はれたやうに、アポロン的態度で冷靜に書いてゐるのだが、事實から放射して來る、細部に心熱がおのづから籠つてゐるのである。何處までが文獻か、何處までが小説か、それが分かり得ないほど渾然としてゐるが、讀者の一人である私が受けた感動について一言したいと思ふのである。
その一つは、はじめ三人が敵をさがしに旅立つたとき、先づ上州高崎に足を入れることにした。その時のことを次のやうに云つてゐる。『九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに龜藏がゐさうだと云ふ氣にはなつてゐない。どこをさして往かうと云ふ見當が附かぬので、先づ高崎へでも往つて見ようと思ふに過ぎない。龜藏と云ふ、無頼漢とも云へば云はれる、住所不定の男のありかを、日本國中で捜さうとするのは、米倉(こめぐら)の中の米粒(こめつぶ)一つを捜すやうなものである。どの俵に手を著けて好いか分からない。然しそれ程の覺束ない事が、一方から見れば、是非共爲遂(しと)げなくてはならぬ事である。そこで一行は先づ高崎といふ俵(たはら)をほどいて見ることにした』云々。つまり、誠に當(あて)の無い、覺束(おぼつか)ないことを是非爲し遂げなければならぬのである。九郎右衛門がりよを連れて旅へは行けぬと諭したときにも、『敵(かたき)にはどこで出逢(であ)ふか、何年立つて出逢ふか、まるで當(あて)がないのだ。己(おれ)と宇平とは只それを捜しに行くのだ』と云つてゐる。當時の敵討の中には、敵の行方の分からぬのがあるので、本望を遂げるまでに長い年月かかつてゐるのが多い。平出鏗二郎氏の調査による「江戸時代敵討事蹟表」を見ても、十年以上のものが誠に多い。十七年、十八年、二十二年、二十六年、四十一年、長いのは五十三年もかかつて居る。さういふ長い年月を斷念してしまはずに、行動を續けてゐるのである。この護持院原敵討は、足掛三年目に本望を遂げたのだが、それでも、實に艱難の限を盡して居る。なかには、『當所に縁類兄弟とても助太刀後見する者一人もなく、定め無き旅路を幼稚(いとけな)き者の獨り行く、武士の道こそ覺束なけれ』(西鶴)の如き有樣のもあつた。當時の敵討といふ行爲は、先づさういふ特殊な行爲であつたことを示して居る。
また西鶴も書いた如く、『彼の敵の在所何處とも知れざる中は、尋ぬるに路錢(ろせん)貯へずしては成り難し。其内隨分其方も外なる營みしてなりとも、路金溜まる分別、我も勤めの隙は油斷なく心掛くべしと、終夜(よもすがら)野に出で、親の境垣(さかひがき)に輪穴掛けて犬を釣りて是れを賣り、女房は人目を忍び、絞(しぼり)煙草入を縫賃僅かを顧みず、心にこの思ひを含みて、朝夕胸に迫りて忘れず、半年は末を頼みに誰れ知らぬ賤の手業』(播州の浦浪皆歸り討)云々で、難儀してもたうとう皆、『返り討ち』になつてしまふやうなこともあつた。西鶴は、『世には斯かる例(ためし)も有るものか』といふ感慨を漏らしてゐるが、當時の敵討は、さういふ事實を知りつつも、なほ執拗に事を遂行しようとした。天保になつてもそのことに變りはなかつた。
その二つは、この敵討のうちに、宇平といふ靑年が中途で敵討を斷念して行方不明になることが書いてある。それだから本望を遂げた時には宇平は居なかつたのであつて、此は、平出鏗二郎氏の「敵討」にも、宇平の名が見えてゐない。併し願書を出す時には、その主なものは宇平であつたのである。然るに、天保六年の二月に二たび大阪までたどりついて、路銀も盡きたので九郎右衛門は按摩になり、文吉は淡路の神主になつて、木賃宿に起臥し、『もうどこをさして往つて見ようと云ふ所もないので、只已(や)むに勝る位の考で、神佛の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊してゐた』ところが、咳逆が流行して、三人ともそれに傳染し、宇平は咳逆の癒つたあとに、精神に變調を來して來た。そのころに、叔父の九郎右衛門に向つて云ふことが書いてある。
その中に、宇平が、『をぢさん、あなたはいつ敵(かたき)に逢へると思つてゐますか』。『蜘蛛は網(い)を張つて蟲の掛(か)かるのを待つてゐます。あれはどの蟲でも好いのだから、平氣で待つてゐるのです。若し一匹の極まつた蟲を取らうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはかうして僥倖(げうかう)を當にしていつまでも待つのが厭(いや)になりました』。『をぢさん。わたし共は隨分歩くには歩きました。併し歩いたつてこれは見附からないのが當前(あたりまへ)かも知れません。ぢつとして網(あみ)を張つてゐたつて、來て掛かりつこはありませんが、歩いてゐたつて、打つ附からないかも知れません。それを先へ先へと考へて見ますと、どうも妙です。わたしは變な心持がしてなりません』。『をぢさん。あなたは神や佛が本當に助けてくれるものだと思つてゐますか』。『さうでせう。神佛は分からぬものです。實はわたしはもう今までしたやうな事を罷めて、わたしの勝手にしようかと思つてゐます』。
宇平の行方不明になつたのは、かういふ心理に本づいてゐた。一口にいへば、宇平には、もはやかういふ『敵討』などいふ行爲はつまらぬことで、どうでもよくなつてゐた。宇平は靑年で、神經も纎く、謂はば、『近代人』といふものに似通ふ状態になつてゐた。日本の文壇に自然主義が興つたときには、誰でも、この宇平のやうな顔付をすることを誇として、それを、『覺(さ)めた人(ひと)』だと云つた。そして、權威を認めず、神佛にすがらぬことを以て、現實の『眞に觸れた』こととした。併し、さういふ、『覺めた人』の宇平には、敵討の實行の機運に逢ふことが出來ずにしまつた。そして、考の古い、體を鍛へた九郎右衛門の方が長續きがして、行くところまで行けた。『さうか。さう思ふのか。よく聽けよ。それは武運が拙くて、神にも佛にも見放されたら、お前の云ふ通だらう。人間はさうしたものではない。腰が起てば歩いて捜す。病氣になれば寝てゐて待つ。神佛の加護があれば敵にはいつか逢はれる。歩いて行き合ふかも知れぬが、寝てゐる所へ來るかも知れぬ』といふ九郎右衛門の思想は、宇平よりも古くて、覺めてゐないが、實行の『力』が宇平のよりも大きかつた。
その三つは、文吉は宇平の行方を尋ねた序に、玉造稻荷の御託宣を伺つたところが、『初の尋人(たづねにん)は春頃から東國の繁華な土地にゐる。後の尋人の事は御託宣が無い』といふ御託宣であつた。初の尋人といふのは敵(かたき)の龜藏のことで、後の尋人といふのは宇平のことである。九郎右衛門もこの御託宣を疑つて、『さうか。東國の繁華な土地と云へば江戸だが、いかに龜藏が横著でも、うかと江戸には戻つてゐまい。成程我々が敵討に餘所へ出たと云ふことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親類も氣を附けてゐるのだから、どうも江戸に戻つてゐさうにない。お前は神主に一杯食はされたのぢやないか。後の尋人が知れぬと云ふのも、お初穗がもう一度貰ひたいのかも知れん』といつた。すると文吉は、『文吉はひどく物體(もつたい)ながつて、九郎右衛門の詞を遮るやうにして、どうぞさう云はずに御託宣を信ずる氣になつて貰ひたいと頼んだ』。然るに、實際は龜藏はやはり江戸にゐたので、それから間もなく江戸で敵を討てたのであつた。これは唯物論的には、『偶然』的事件であるが、さうでなく、また、『超人間』的力でもある、オイケンの、“übermenshlicheLebensmächte”でもある。武道傳來記を讀むに、『其の長十丈ばかりの百足(むかで)、血亂(ちみどろ)なるが、夜光の玉を耀(かがや)かし、善太郎の枕元に佇み、我は汝が生國棒の津の片山陰に住むものなり。其方が覘ふ敵は攝津の國古曾根と云ふところに在りと御告げ、御形消ゆるが如く見え給はず』といふところがある。つまり、此處の稻荷の御託宣もそれに似てゐる。この場合は、九郎右衛門よりも文吉の方が根強かつた。さういふ點が誠におもしろいので、作者のアポロン的筆致がそれをようくあらはして居る。
附記。第一期の鷗外全集には、三右衛門の殺されたのを、天保五年と
してゐるのは天保四年の誤植であつた。普及版の鷗外全集がまた、そ
れを其儘蹈襲して、天保五年としてゐる。それに本づいた引用は皆、
天保五年の誤を續けた。此は、ホトトギス又は、天保物語を參考しな
いためである。今度の岩波版鷗外全集は、さういふ點に注意する筈で
ある。


それから、「安井夫人」(大正三年四月、太陽)があり、「魚玄機」(大正四年七月、中央公論)があり、「ぢいさんばあさん」(大正四年九月、新小説)がある。安井息軒先生夫人佐代子は、美人で聰明な女であつた。そして一生質素な、醜い息軒に仕へてこの世を去つた。
お佐代さんは夫に仕へて勞苦を辭せなかつた。そしてその報酬には何
物をも要求しなかつた。啻に服飾の粗に甘んじたばかりでは無い。立
派な第宅に居りたいとも云はず、結構な調度を使ひたいとも云はず、
旨い物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかつた。
お佐代さんが奢侈を解せぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが
出來ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹
であつたとは、誰も信ずることが出來ない。お佐代さんには慥かに尋
常で無い望があつて、その前には一切の物が塵芥(ちりあくた)の如く卑
(いや)しくなつてゐたのであらう。
お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫(をつと)の榮達を望んだ
のだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしもそれを否定するこ
とは出來ない。併し若し商人が資本を卸し財利を謀るやうに、お佐代
さんが勞苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなつ
たのだと云ふなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出來
ない。
お佐代さんは必ずや未來に何物かを望んでゐただらう。そして瞑目す
るまで美しい目の視線は、遠い遠い所に注がれてゐて、或は自分の死
を不幸だと感ずる餘裕をも有せなかつたのではあるまいか。その望の
対象をば、或は何物ともしかと辨識(べんしき)してゐなかつたのではあ
るまいか。
これが、作者が小説の中に插入した批判の言葉であつた。古來世の聖賢は、尊むべき女人の特質についていろいろと勘定して、敎を垂れて居るが、さういふ特質を具足した實在の女人として、鷗外はこの、「安井夫人」を世に示した。そしてこの小説の附録として載せた、『事實』は、極めて簡單なもので、また、若山甲藏氏の「安井息軒先生」があつて、それを材料とせられたにせよ、小説になつて見ると、いかに現實界の事柄として活躍して來るかが分かるので、小説、特に歴史小説の難有味が遺憾なく此處にあらはれてゐるのである。例へば、黑木孫右衛門の話は、「日向纂記」には、『飫肥外浦の漁人に黑木孫右衛門と云ふ者あり、言語容貌、愚なるが如くなれども、頗る滑稽にして、能く人の意を邀へ、意表に出る話も多かりき。且つ物産の事に精きを以て、天保の中頃、權要の人に用ひられ、徒士席を賜ふに至れり、其初めて安井息軒翁に見えし時、從容として申しけるは、先生の内君(ごないしつさま)は學問し玉へるか、翁何心なく未だ學びたることなしと答へらる。孫右衛門聞て、さても賢婦人なる哉と稱美す。翁如何なれば左は云ふぞと問はる。孫右衛門申しけるは、今先生の御容貌を窺ひ見るに、長五尺に過ず、殊に痘痕面に滿て甚だ醜し、然るに内君少も厭ふ心なく、先生の德を慕ふて、身を託し玉へるは、中々尋常婦人の能く及ぶ所には候はず。其れ故某は、先生の學(がく)よりは、内君の學(がく)が勝(まさ)れりと思ふなりと、翁も手を拍つて大に笑はれける』とあるのを、小説には次の如く書かれてゐる。
お佐代さんは形振(なりふり)構はず働いてゐる。それでも『岡の小町』
と云はれた昔の俤(おもかげ)はどこやらにある。此頃黑木孫右衛門と云
ふものが仲平に逢ひに來た。もと飫肥外浦の漁師であつたが、物産學
(ぶつさんがく)に精しいため、わざわざ召し出されて徒士(かち)になつ
た男である。お佐代さんが茶を酌んで出して置いて、勝手へ下がつた
のを見て狡猾なやうな、滑稽のやうな顔をして、孫右衛門が仲平に尋
ねた。
『先生。只今のは御新造でござりますか。』
『さやう。妻で。』恬然として仲平は答へた。
『はあ。御新造樣は學問をなさりましたか。』
『いいや。學問と云ふほどの事はしてをりませぬ。』
『して見ますと、御新造樣の方が先生の學問以上の御見識でござります
な。』
『なぜ。』
『でもあれ程の美人でお出でになつて、先生の夫人におなりなされた所
を見ますと。』
仲平は覺えず失笑(しつせう)した。そして孫右衛門の無遠慮なやうな世
辭(せじ)を面白がつて、得意の笊棋(ざるご)の相手をさせて歸した。
かう書いてある。現代は小説の技巧も益々發達して、會話の書き方なども、もつと自然で旨くなつたやうであるが、私などは、日向纂記と、この小説とを較べて感服したものである。佐代子夫人は五十一歳で文久二年正月四日(天野小太郎書簡には三日に作る。)に死んだが、天野小太郎から谷干城にやつた書簡にその時を報じて、『息軒先生御機嫌克候得共、御新造正月三日御遠行、殘念千萬、夫故先生も兼ての氣魂といへども、少々御屈撓に相見候。乍併、管氏纂詁も相調、追付御一板にも相成可申喜申候』とある。息軒の、『少々御屈撓』はおもしろい。この息軒の態度を想像しつつ、『そして瞑目するまで美しい目の視線は、遠い遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる餘裕をも有せなかつたのではあるまいか』といふ文章を讀むと無限の味ひがあるのである。ただ、『個人的因果律』のみの事柄では無くなつてゐる。
「魚玄機」は、唐の代にゐた、美しい女詩人であつたが、嫉妬のため婢の緑翹といふものを殺して斬に處せられる徑路を書いた、暗指に富んだ、誠に愛すべき短篇であるが、「安井夫人」の佐代子が非常な美人で、平部嶠南も、『姣美』と云つたほどであり、この魚玄機も非常に美しかつた。玄機の刑に處せられたのは二十六歳の時だが、『玄機は今年二十六歳になつてゐる。眉目端正な顔が、迫り視るべからざる程の氣高い美しさを具へて、新に浴を出た時には、琥珀色の光を放つてゐる。豐かな肌は瑕の無い玉のやうである』と書いてある。この美しくて、非凡の智慧を有つてゐる女は、『鷗外の念中にある女』であることが分かり、私は前にも少しくそれに觸れたことがある。
そして、「魚玄機」では、女子性欲の發達して行く有樣、接觸衝動、快美感覺の發育、男女間の性欲の違ひ、嫉妬感情發露の状などを取扱つて、それを何人も直接魚玄機に接觸し、實驗し得るやうな具合に敍述してゐる。『この時李は遽に發した願が遽に愜つたやうに思つた。しかしそこに意外の障礙が生じた。それは李が身を以て、近づかうとすれば、玄機は回避して、強ひて逼れば號泣するのである。林亭は李が夕に望を懷いて往き、朝に興を失つて還るの處となつた。李は玄機が不具では無いかと疑つて見た。しかし若しさうなら、初に聘を卻けた筈である。李は玄機に嫌はれてゐるとも思ふことが出來ない。玄機は泣く時に、一旦避けた身を李に靠(もた)せ掛けてさも苦痛に堪へぬらしく泣くのである』といふのは、接觸の衝動に過ぎぬのである。小説中では、これを『併しその形骸が女子であるから、吉士を懷ふの情が無いことは無い。只それは蔓草が木の幹に纏ひ附かうとするやうな心であつて、房帷(ばうゐ)の欲では無い。玄機は彼があつたから、李の聘に應じたのである。これが無かつたから、林亭の夜は索漠であつたのである』と説明してゐる。
ついで、『當時道家には中氣眞術と云ふものを行ふ習があつた。毎月朔望の二度、豫め三日の齋(ものいみ)をして、所謂四目四鼻孔云々の法を修するのである。玄機は逭(のが)るべからざる規律の下にこれを修すること一年餘にして忽然悟入する所があつた。玄機は眞の女子になつて、李の林亭にゐた日に知らなかつた事を知つた。これが咸通二年の春の事である』と書いてある。丁度そのころ、平塚明子さんが、花のやうな處女時代を通過して、忽然として悟入した感覺のことを自分の文章で告白してゐた。性欲學に於て飽和するほどの知識のあつた鷗外が、直ちにその告白に飛びついたのは極めて自然なことである。特に當時の鷗外は、靑鞜社に興味を有ち、『序だが、晶子さんに竝べ稱することが出來るかと思ふのは、平塚明子さんだ。詩の領分の作品は無いらしいが、らいてうの名で靑鞜に書いてある批評を見るに、男の批評家にはあの位明快な筆で哲學上の事を書く人が一人も無い。立脚地の奈何は別として、書いてゐる事は八面玲瓏である。男の批評家は哲學上の問題になると、誰も誰も猫に小判だ』と云つたほどである。歴史小説の面白味はかういふところにも存じてゐる。歴史の、『連續性』は、時にヘテロゲニイをも認容するのである。また、史家の謂ふ、『普遍』、乃至、『宇宙』等の概念は、咸通の魚玄機も、大正の一少女も、これをその素材として、解明し得ることになつてゐる筈である。また、嫉妬の研究も、フロイド等多くの性欲學者、精神病學者、日本なら、綿谷摩耶火、半田孝海氏等の研究があるが、これが「魚玄機」にあらはれたやうな、個人發現の描寫によつて特殊なものとなることは云ふまでもない。
この賢い女については、「ぢいさんばあさん」のるんでも、椙原品でも同樣である。皆、凡庸でない女性である。鷗外好みの、かういふ女性のことは、嘗ても一言を費したから、今はこれ以上いふことをやめる。
ただ、「ぢいさんばあさん」の伊織は七十二歳、妻のるんが七十一歳であるのだが、『この翁媼二人の中の好いことは無類である。近所の者は、若しあれが若い男女であつたら、どうも平氣で見てゐることが出來まいなどと云つた』といふことが書いてある。三十七年目に再會した老夫婦の心理をあらはしたものだが、これなども、人間の戀愛史に一つの暗指を與へるものとして、なかなかおもしろい。


それから、「大鹽平八郎」(大正三年一月、中央公論)があり、「佐橋甚五郎」(大正二年四月、中央公論)があり、「最後の一句」(大正四年十月、中央公論)があり、「高瀬舟」(大正五年一月、中央公論)がある。
大鹽平八郎については、三田文学に載つた、大鹽平八郎附録にもある如く、社會問題を取扱つて、大鹽を目して、いまだ醒覺せざる社會主義者だとし、この醒覺せざる社會主義は獨り平八郎が懷抱してゐたのみでなく、天明から天保の飢饉時に行はれた米屋こはしは、皆さういふ者の所爲であつた、そして、『平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。平八郎は哲學者である。併しその良知の哲學からは、頼もしい社會政策も生れず、恐ろしい社會主義も出なかつたのである』と云つてゐる。鷗外の社會主義研究は、隨分元からであつて、矢野龍溪の新社會の評をはじめ、「あそび」、「沈默の塔」、「食堂」から、晩年の、「古い手帳から」に至るまで、絶えざる興味であつた。そして、此は既に後年、マルクス主義の流行のやうなものの來ることを豫感しつつあつたことは推するに決して難くはない。そして、鷗外のそれに對する結論は、『富むと云ひ貧しと云ふも三毒の上に立てたるけぢめならずや』といふ和歌にも示されて居り、また、『若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。若し平八郎が、國家なり、自治團體なりにたよつて、當時の秩序を維持してゐながら、救濟の方法を講ずることが出來たら、彼は一種の社會政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情には不可能でも、まだ德川氏の手に歸せぬ前から、自治團體として、幾分の發展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮はせる餘地があつたら、暴動は起らなかつただらう。この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は當時の秩序を破壞して望を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覺せざる社會主義である』といふのに示されてゐる。
なほ、「大鹽平八郎」には、『かへり忠』の思想を寓し、「最後の一句」には、『獻身』、『マルチリウム』の思想を寓し、「高瀬舟」では、『富の觀念』、『ユータナジイ』の思想を寓せしめて居る。そして此等の問題は、人生に於て皆重大な役目をなしてゐる問題であるが、其が既に、過去に於て、封建時代の德川の治世に於て行はれてゐたことを目のあたりに示してゐるのである。この事は、鷗外の歴史もの全般を通じての一つの特色と謂ふことも出來る。
この新しい進嚮は、新進の小説家に働きかけた。後年テエマ小説の名のもとにどしどし作られた短篇のことをおもふと、鷗外の歴史ものはその先驅をなし魁をなしたものといふことも出來る。
佐橋甚五郎といふ靑年は、『口に出して言ひ附けられぬうちに、何の用事でも果すやうな、敏捷な若者で、武藝は同じ年頃の同輩に、傍へ寄り附く者も無い程であつた。それに遊藝が巧者で、殊に笛を上手に吹いた』といふやうな靑年であるから、「安井夫人」の佐代子が鷗外流の女なら、佐橋甚五郎は鷗外流の男だと謂つていい。
家康はこの甚五郎を使つて、武田勝頼の重臣甘利四郎三郎を討たせる。其處に、暗に少年とペデラスチイとの關係を暗指して、女流の粉飾を漂はしめてゐない。それから、天正十一年に小田原に二女督姫君が輿入するといふので、大阪の羽柴家へ祝の使が行くことになつた。佐橋甚五郎が次の間で聞いてゐると、石川與七郎敬正といふ者が家康の前に出て、大阪への使のことを聽かうとしてゐる。『誰か心の利いた若い者を連れてまゐれ』と家康は云ふ。『さやうなら佐橋でも』と石川が云ふ。良(やや)久しい間家康の聲が聞(きこ)えない。甚五郎はどうしたことかと思つてゐると、やつと家康の聲がする。『あれは手放しては使ひたう無い。この頃身方(みかた)に附いた甲州方の者に聞けば、甘利はあれを我子のやうに可哀がつてをつたげな。それにむごい奴が寝首(ねくび)を搔き居つた』。甚五郎は此詞を聞いて、ふんと鼻から息を漏らして輕く頷いた。そしてつと起つて退出したが、かねて同居してゐた源太夫の邸へも立ち寄らずに、それ切り行方が知れなくなつた。源太夫が家内の者の話に、甚五郎は不斷小判百兩を入れた胴巻を肌に著けてゐたさうである。ここの一くさりなどはひどく微妙で無限の味ひがある。家康のやうな、細かい、用意周到な、狸爺とも謂ふべき者でも、不用意といふことがある。神明のみが知りたまふやうな場合の詞といふことがある。不用意の内證話といふことがある。そのひよいとした一語の、『嘘』を家康が云つたために、この短篇の資料になつたのでもあらうが、若しこれが秀吉が衝いた、『嘘』なら、甚五郎は行方を暗まさなかつたかも知れないのである。さういふところに無限の味ひが存じてゐる。また、この小説の文章は、簡淨の極で何ともいへない好いところがある。今その一くさりを左に記して見本としようか。
若衆は笛を吹く。いつも不意に所望せられるので、身を放さずに持つ
てゐる笛である。夜は次第に更けて行く。燃え下がつた蠟燭の長く延
びた心(しん)が、上の端は白くなり、その下は朱色(しゆいろ)になつ
て、氷柱(つらら)のやうに垂れた蠟(らふ)が下には堆(うづたか)く盛り
上がつてゐる。澄み切つた月が、暗く濁つた燭(しよく)の火に打ち勝
つて、座敷は一面に靑み掛かつた光を浴びてゐる。どこか近くで鳴く
蟋蟀(こほろぎ)の聲が、笛の音に交つて聞える。甘利(あまり)は瞼が
重くなつた。
鷗外は、「阿部一族」、「興津彌五右衛門の遺書」、「佐橋甚五郎」の三篇を單行本にしたとき、これに、「意地」と名づけた。これも先生の一見識を示すもので、先生の考では、當時の武士階級を支配してゐた一つの道德は、窮屈で通達せぬところがあつても、それは、『意地』で統一せられてゐるところがあるといふのであらう。そしてこれは、西鶴なども、『人には意地と云ふ事ありて、年頃互に武を爭ひける』といひあらはしてゐる程だから、敢て鷗外の新説といふわけでもないが、それを現代に生かしたところに見識が見えてゐる。『彌一右衛門は意地ばかりで奉公して行くやうになつてゐる』(阿部一族)は、普通の現代生活にもあり得ることだが、當代の武士の謂ふ意味の、『意地』では無くなつてゐる。そこを自分がおもしろいと思つたのである。また、「阿部一族」では、人間の合性(あひしやう)のことを取扱つた。此露伴先生なども夙くから取扱つた問題だが、それがまた別樣の色彩を帶びて出て來てゐる。


それから、「山椒大夫」(大正四年一月、中央公論)があり、「寒山拾得」(大正五年一月、新小説)がある。
「山椒大夫」は、陸奥磐城官正氏(まさうぢ)といふものが永保元年に罪を得て筑紫に流された。正氏の妻が二人の子供を連れて岩代の信夫郡にゐたが、二人が少し大きくなるのを待つて、筑紫へ行く途中、越後直江の浦で人買にさらはれ、母は佐渡へ賣られ、二人の子は山椒大夫に賣られて使役せられる、あはれな物語を書いたものであるが、これについて、作者自身、『わたくしはおほよそこの筋を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語體、對話は現代の東京語で、ただ山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代といふものを顧みずに書くことが出來ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名鈔にある名を使つた』。『とにかくわたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りないやうである。これはわたくしの正直な告白である』。
つまりこの小説は、作者のいはゆる、『歴史離れ』のした歴史小説といふことであるから、奴婢の解放、今の言葉でいへば、奴隷解放といふ社會問題に觸れたことは措いて、人間と超人間との交錯、自然と人間との交流、人間老若男女貧富貴賤のおもかげが、蜘蛛が網を吐き出してゐるやうに繰りひろげられて居り、粟の鳥追ひ傳説のところで結末になつてゐるのだが、この小説は、作者はアポロン的に書く書くとことわつてゐながら、『情』が、香のけむりの如くに染み込んだ文體で、永遠のあはれを湛へて居る。此ははじめ一幕物にするつもりのところを、年經てこの小説にした。これは小説にした方が好かつたと私などもおもふが、世間一般はどうおもふか知らん。
「寒山拾得」は、有名な誰でも知つてゐる物語を澹々として記述したやうなもので、『豐干饒舌』をば、『逃げしなに寒山が、豐干がしやべつたな、と云つたのが聞えた』と書いたものである。そしてこの小説には、『盲目の尊敬』といふことを一つの出題として居り、小説の中にそれを入れてある。
全體世の中の人の、道とか宗敎とか云ふものに對する態度に三通りあ
る。自分の職業に氣を取られて、唯營々役々と年月を送つてゐる人
は、道と云ふものを顧みない。これは讀書人でも同じ事である。勿論
書を讀んで深く考へたら、道に到達せずにはゐられまい。しかしさう
まで考へないでも、日々の務だけは辨じて行かれよう。これは全く無
頓著な人である。
次に著意して道を求める人がある。專念に道を求めて、萬事を抛つこ
ともあれば、日々の務は怠らずに、斷えず道に志してゐることもあ
る。儒學に入つても、道敎に入つても、佛法に入つても基督敎に入つ
ても同じ事である。かう云ふ人が深く這入り込むと日々の務が即ち道
そのものになつてしまふ。約めて言へばこれは皆道を求める人であ
る。
この無頓著な人と、道を求める人との中間に、道と云ふものの存在を
客觀的に認めてゐて、それに對して全く無頓著だと云ふわけでもな
く、さればと云つて自ら進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎
遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がゐるやうに思つて、それを尊
敬する人がある。尊敬はどの種類の人にもあるが、單に同じ對象を尊
敬する場合を顧慮して云つて見ると、道を求める人なら遲れてゐるも
のが進んでゐるものを尊敬することになり、ここに言ふ中間人物な
ら、自分のわからぬもの、會得することの出來ぬものを尊敬すること
になる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、偶それをさし
向ける對象が正鵠を得てゐても、なんにもならぬのである。
この『盲目の尊敬』と關聯して、豐干が閭丘胤に咒(まじなひ)をかけて、頭痛を直すところがある。そしてその時のことを、『今乞食坊主に頼む氣になつたのは、なんとなくえらさうに見える坊主の態度に信を起したのと、水一ぱいでする咒なら間違つた處で危險な事もあるまいと思つたのとのためである。丁度東京で高等官連中が紅療治(べにれうぢ)や氣合術(きあひじゆつ)に依頼するのと同じ事である』と批判の言葉を費してゐるが、此處の場合の咒は、原始的精神療法の一つで、精神療法は、支那でも扁鵲・文摯・華佗等に見え、西洋でも、ヒポクラテエス・アレテエウス・ガレエヌス等も行つてゐるが、素問、靈樞を知つた醫の精神療法に頼らないといふのは、現代の高官富豪等が専門醫家に頼らずに、素人の濱口熊嶽等に頼るのを諷したものでもある。これは鷗外は醫家だからであらうか。
なほ、この短篇で心を牽いたのは、この短篇について、作者自身、『私は丁度其時、何か一つ話を書いて貰ひたいと頼まれてゐたので、子供にした話を、殆其儘書いた。いつもと違て、一册の參考書をも見ずに書いたのである』(寒山拾得縁起)と注してゐるが、この黄金をのべたやうな、莊嚴の氣をおこさせるやうな好短篇が、作者のいふやうに、一氣に書けるものかどうかといふ疑もないことがなかつた。然るに昭和十一年四月になつて、計らずも作者の日記を見せてもらふ機縁があつた。そのとき私は先づ第一にそのあたりの日録を檢したところが、大正四年十二月四日の條に、『椙原品を福地に付與す』とあり、十二月五日の條に、『高瀬舟を草し畢る』とあり、十二月六日の條に、『高瀬舟を瀧田哲太郎に付與す』とあり、十二月七日の條に、『寒山拾得を草し畢る』とある。さうして見れば、役所から歸られてから、一晩或は二晩で草し畢られたことが確實である。嗚呼、燕雀は私で、鷗外は鴻鵠であつた。
また、寒山が文殊で、拾得が普賢だといふことも、豐干がさういふことを云つたのは、東洋のナポレオンと稱するたぐひよりも、彼等はもつと單純で、かく信じ、かく云ひ合つてゐただらうといふことが分かる。『實はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拜みに來ないのだよ』は、東洋のナポレオンよりは流石にハイカラに出來てゐる。


鷗外の歴史ものは、考證確實で、それが單に文獻記録のみの上でないといふことを前言したが、その態度について作者自身が物語つてゐる。『わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱つた作品は、小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある。しかし所謂normativな美學を奉じて、小説はかうなくてはならぬと云ふ學者の少くなかつた時代には、この判斷はなかなかむづかしい。わたくし自身も、これまで書いた中で、材料を觀照的に看た程度に、大分の相違のあるのを知つてゐる。中にも「栗山大膳」は、わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆單に筋書をしたのみの物になつてゐる中略。さうした行違のある栗山大膳は除くとしても、わたくしの前に言つた類の作品は、誰の小説とも違ふ。これは小説には、事實を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習であるに、あの類の作品にはそれがないからである。わたくしだつて、これは脚本ではあるが、「日蓮上人辻説法」を書く時などは、ずつと後の立正安國論を、前の鎌倉の辻説法に疊み込んだ。かう云ふ手段を、わたくしは近頃小説を書く時全く斥けてゐるのである。なぜさうしたかと云ふと、その動機は簡單である。わたくしは史料を調べて見て、その中に窺はれる「自然」を尊重する念を發した。そしてそれを猥に變更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ點は、巧拙は別として種々あらうが、その中核は右に陳べた點にあると、わたくしは思ふ』。
さう云ふやうな態度で、「栗山大膳」(大正三年九月、太陽)「津下四郎左衛門」(大正四年四月、中央公論)等を書かれ、「椙原品」(大正五年一月、東京日日新聞)の次に、「澀江抽齋」を一月十三日から東京日日新聞に連載しはじめた。是等は歴史小説から史傳に移行した中間物の如きものであつて、「椙原品」を書いた時、著者自ら、『私は此伊達騷動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて發動する力を全く絶たれて、純客觀的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周圍にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧で氣骨のあるらしい品とをあらせて、此三角關係の間に靜中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此企を抛棄してしまつた』と云つてゐる如く、これを小説中に分類するのはどうかと思ふし、世の人々もこれを小説とは謂はぬであらうが、かういふものにしても普通の傳記といふものとその書方が大にその趣を異にしてゐる。これは、「澀江抽齋」にせよ、「伊澤蘭軒」にせよ、「北條霞亭」にせよ、「小嶋寶素」にせよ、皆さうである。それ故、私はこれをやはり鷗外先生の創始した歴史小説の一體と看做したいと思ふのである。
鷗外先生は是等の史傳體小説を書くに當つて、『事實を傳ふることを專にし努めて敍事の想像に渉ることを避けた。客觀の上に立脚することを欲して、復主觀を縱にすることを欲せなかつた』と云ひ、『抽齋はわたくしの偶邂逅した人物である。この人物は學界の等閑視する所でありながら、わたくしに感動を與ふることが頗る大であつた。蘭軒は抽齋の師である。抽齋よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討ねたのである。わたくしは學界の等閑視する所の人物を以て、幾多價値の判斷に侵蝕せられざる好き對象となした。わたくしは自家の感動を受くること大なる人物を以て、著作上の忍耐を培ふに宜しき好き資料となした』と云はれてゐる。
そして、世の私小説、歴史小説が甚大の興味と價値を以て迎へられるとしたなら、一人の生活のありの儘なる經過を客觀的に確實に敍述して行くといふことにも、甚大の興味があり、價値があると云ふことに氣附かれたのではなからうか。或は小説家が主觀を以ていろいろと按配し、取捨した、所謂小説といふものなどよりも、この傳記體の方が複雜性がある點だけでも却つて興味が多いのであらうと云ふことに氣附かれたものと推測することも出來る。
次に、「澀江抽齋」以下の考證學者の傳記を書かれるに際して、先生の内に蓄積して居つた學殖と智慧の限りを盡して居るといふことに私は氣づく。先生は、『問ふことは易い。しかし答ふることは難い。わたくしは書を讀むこと五十年である。そしてわたくしの知識は無數の答へられざる問題の集團である』と云つて居られるが、私の目などから見れば、書を讀むこと五十年の鷗外の薀蓄を傾倒して、是等の學者の生涯を對象とする學的考證が、奈何の邊まで爲し遂げられ得るかと云ふ小手調べでもあり、試驗でもあり、總勘定でもあつたと思惟することが出來る。
さうして見れば、楸字の考證も、阿部正弘、菅茶山、伊澤蘭軒、北條霞亭等の病志の考證も、頼山陽終焉時の考證も、ばか貝の考證も、池田京水の墓の捜求も、神農本草經、病源候論の考證も、霞亭書簡の順序配列法も、蘭軒近眼、一目小僧逢著場面の考證も、何れも無限の味ひを藏して居る。それから、蘭軒の、『公宴不陪朝不坐』の句を以て鐵血宰相ビスマルクに比し、『人は或はこの言を聞いて、比擬の當らざるを嗤ふであらう。しかし新邦の興隆を謀るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の躄儒に同情するも、固よりわたくしの自由である』と云ふのは正に鷗外の世の學者に對する斷案であり、善本校刻に就て、『設しここに一會社の興るあつて、正學一派のために校刻の業に從事し、毫も好事派を目中に置かなかつたら、崇文盛化の餘澤は方に纔に社會に被及するのであらう』と慨せられたのも、等しく是等の史傳體小説群の中に織り込まれて居るテエマである。
それから、先生の敍法で、新體例と看做すべきことは、『一人の事蹟を敍してその死に至つて足れりとせず、その人の裔孫のいかになりゆくかを追蹤して現今に及ぶことが即ち是である』といふのであるが、此は既に、澀江抽齋、伊澤蘭軒の傳以前、既に、「興津彌五右衛門の遺書」、「安井夫人」その他に實行せられてゐる。
先生は此等の史傳的小説につき、『わたくしの書くものは、如何に小説の概念を押し廣めても、小説だとは云はれまい』とは云はれたが、此は眞の心理であつたか。また、『わたくしは度々云つた如く、此等の傳記を書くことが、有用であるか、無用であるかを論ずることを好まない。ただ書きたくて書いてゐる』。『わたくしは此の如きものを書くために、此の如く世に無用視せらるるものを書くために、殆時間の總てを費してゐる』と云はれた。併し、先生自らは、此等の文を無用だとはおもはれぬ筈である。ただ新聞社に投書するものにさういふのがあつたことは確かであり、一般の讀者は、讀みもせないで罵つたものが多かつたやうである。
昭和六年に、菊池寛氏の鷗外觀が、確か文藝春秋だつたかとおもふが、載つてゐた。菊池氏は、若し鷗外が、ああいふ史傳などを書かずに、小説に專念したら、漱石に匹敵するやうなものを書いただらうといふやうなことを云つた。これは鷗外を褒めたのだから、昭和六年三月、東京堂階上に開かれた、鷗外先生十周年記念展覧會場に菊池氏のその文の原稿も貼られてあつた。一口にいへば、澀江抽齋以下の文は、生前も、歿後も、文壇の一流創作家等によつて、餘り讀まれてゐないといふことも、一つの特色をなして居る。
右、取りいそいで、私に割當てられた、歴史ものに關する愚見の一端を述べた。(十一年五月)

 

 

 補足

(注)1.上記の本文は、『齋藤茂吉全集第24巻』(岩波書店、昭和50年9月27日発行)によりました。

2.初出は、雑誌『文学』昭和11年6月号です。上記全集の後記に、「文末に『十一年
五月』とあり、著者の日記によれば、五月一日に執筆し始めて九日に脱稿してゐる。
単行本に収められてゐない。校訂に当り自筆原稿(佐藤佐太郎氏蔵)を参照した」と
あります。

3.「鷗外の歴史小説」は、上記の全集のほか、『斎藤茂吉選集第11巻』(岩波書店、
1981年11月27日第1刷発行)、岩波文庫『斎藤茂吉随筆集』(1986年10月16日発行)
に収められています。

4.原文中、圏点(〇印)が付いている部分は、太字で代用しました。また、振り仮名は、全集に付いているものだけを、括弧()に入れて示しました。

5.本文の終わり近くにある「抽齋よりして蘭軒に及んだのは、流に溯つて源を討ねた
のである。」の「討」の字は、漢和辞典によれば、「たずねる(たづぬ)」の訓みがあり、「(ア)もとめる。(イ)きわめる(究)。(ウ)さぐる(探)。」と出ていて、「討春=春の景色をさがし求める。=尋春・探春」とあります。

6.上記の『斎藤茂吉選集第11巻』によって、読みにくい漢字に読みをつけておきま
す。(引用者が現代仮名遣いに改めました。)
一靈轜(れいじ)相役(あいやく)阿諛便佞(あゆべんねい)の所爲(しょい)
老耄(ろうもう)隈(くま)なく
二與(あずか)つて力があつた須(もち)ゐない
三箕浦(みのうら)恣(ほしいまま)にする
四「護持院ヶ原の敵討(あだうち)」雅樂頭(うたのかみ)咳逆(がいぎゃく)
神經も纖(ほそ)く其の長(たけ)十丈ばかり其方が覘(ねら)ふ敵(かたき)
五啻(ただ)に恬澹(てんたん)慥(たし)かに日向纂記(ひゅうがさんき)
飫肥外浦(おびそとうら)息軒翁に見(まみ)えし時痘痕面(あばたづら)
某(それがし)御機嫌克候得共(ごきげんよくそうらえども)夫故(それゆえ)
屈撓(くっとう)乍併(しかしながら)管氏纂詁(かんしさんこ)
緑翹(りょくぎょう)姣美(こうび)願が遽(にわか)に愜(かな)つたやうに
卻(しりぞ)けた豫(あらかじ)め序(ついで)だが立脚地の奈何(いかん)
翁媼(おうおう)
六進嚮(しんきょう)輿入(こしいれ)狸爺(たぬきおやじ)
七岩代(いわしろ)の信夫郡(しのぶこおり)諦念(あきら)め
閭丘胤(りょきゅういん・人名)扁鵲(へんじゃく)文摯(ぶんし)華佗(かだ)
八念を發(おこ)した縱(ほしいまま)にする躄儒(へきじゅ)設(も)し
纔(わずか)に裔孫(えいそん)此(かく)の如き