文系の雑学・豆知識

歴史、美術、文学、言葉、文化についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています

歴史

乃木希典の殉死に関する資料

乃木希典略歴、(一八四九~一九一二)。 明治期の陸軍大将。長州藩士の家に生まれ、吉田松陰の師である伯父玉木文之進に薫陶を受ける。明治元年、戊辰戦争で幕軍と戦い、四年、陸軍少佐任官。十年、西南戦争で苦戦、軍旗を奪われ、これが終生の恨事となる。…

最後の斬首刑囚「高橋お伝」に関する資料集

高橋でんの最後 先ず、斬首執行人・山田一族について。 江戸の元禄の頃から明治十四年の廃刑まで、死罪における斬首の刑を執行した山田浅右衛門一族は、七代この仕事をつづけた。しかし斬首はこの一族の正式の仕事ではなく、二世吉時の代に≪徳川家御佩刀御試…

三島由紀夫「檄文」全文

三島由紀夫が、昭和45年11月25日に市ヶ谷駐屯地にて割腹自決した際、自衛隊員に向けて撒いた「檄文(全文)」です。 ------------------------ われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義…

三島由紀夫の割腹自殺に関する余話

昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、作家・三島由紀夫(四五)が東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃した。その際、三島と行動をともにした楯の会会員四人のうち、森田必勝(二五)も、最後には古賀浩靖の手…

特攻隊員と戦艦「ミズーリ」逸話(高知新聞・平成十七年十一月二十二日付より)

高知新聞・平成十七年十一月二十二日付より 太平洋戦争末期の昭和二十年(一九四五年)四月十一日午後二時四十三分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、一機の零式戦闘機が米国戦艦「ミズーリ」の右舷艦尾に体当たりした。 この勇敢な攻撃に心を打たれたウィリア…

三島由紀夫の最後の演説 全文

注1、 ………は、聞き取り不能注2、 青字は、野次に対する三島の叱咤注3、 茶色は、野次 私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本…

吉原と浄閑寺(投げ込み寺)の歴史

投げ込み寺 荒川区南千住2-1 都電荒川線の終点三ノ輪橋から日光街道へ出て信号を渡るとすぐに大きな森が見える。駅から歩いて5分ほどの所に『浄閑寺』がある。 吉原から程近いためしばしば遊女の屍体が門の中に投げ込まれた。 吉原大門のそばに残る『見返り…

恋に生きた樋口一葉の生涯とは:本郷菊坂での生活と半井桃水への恋慕の情

一葉略歴 樋口一葉 本名「奈津」は、明治五年三月二十五日東京府内幸町に生まれた。父はもと奉行所同心のちに警視庁勤務。二男三女の次女で四番目。 明治十六年十二月、私立青海小学校を主席で卒業、母の反対でその後上級への進学をやめるが、勉学好きの奈津…

悪臭の都・パリのトイレの歴史を解説

パリのトイレの歴史 「花の都」と言われるパリ。美しい建築物と自然の多い公園、そしてフローラル系の香水が漂うパリの街は、たしかにその名にふさわしいかもしれません。しかしそんなパリにも旅行者なら誰もが体験したことのある悩みがあります。それはトイ…

聖徳太子『十七条の憲法』 全文(原文、読み下し、現代語訳)

第一条 原文 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。 読み下し 一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あ…

【満州写真館】チチハル(斉斉哈爾)の満州時代を地図・画像とともに紹介

北満州の平原の都市、斉斉哈爾(チチハル)を紹介いたします。 この地域はハルピンから斉斉哈爾(チチハル)を経由して北へ行く路線、そして満州里へつながる路線も整備され、交通の便は改善しました。 チチハルへはハルピンから鉄道にて半日程度で到着しま…

横浜大空襲を平沼駅跡で検証する【画像あり】

神奈川県にあります京急本線を神奈川駅から下りへ出発(戸部、横須賀方面)、高架に差し掛かってすぐ、左右に古い駅のホームの跡があります。 これは1945年5月29日の米軍による横浜大空襲で焼けた平沼駅の跡です。 米軍横浜空襲は大規模なもので、B29爆撃機…

纏足や満州服など、満州女性の風俗・風習を写真で紹介【満州写真館】

風俗風習としまして、女性の姿を満州国設立より前から、そして設立後を追ってみます。 満洲の上流婦人の纏足 ではまず満州での奇妙な風習でもある纏足について挙げてまいります。 『満洲の上流婦人 満洲の封行くな家庭の婦人である。満洲婦人として典型的な…

【満州写真館】特急あじあの歴史と画像集

「東より光は来る、光をのせて東亜の地に使いす我等、我等が使命見よ北斗の星のしるきが如く輝くを曠野、曠野、万里続ける曠野に」 満鉄社歌 (曠野:荒野) 「あじあ」大連駅にて 満鉄の旅客の象徴でもある特急あじあ号。これは昭和9年11月に営業運転を開…

【満州写真館】満州国皇帝と御召艦の画像集

昭和10年に満州皇帝溥儀は来日をしました(1935年) 昭和天皇の招待による日本公式訪問です。 昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行ったとも言われます(恐らく、この訪問の際の出来事)。そのこともあってか東京駅前は大きな奉祝門もつくられました。 …

学びつづけることの大切さ:佐藤一斎と『言志四録(げんししろく)』

佐藤一斎といっても知っている人は少ないでしょう。では、吉田松陰はどうでしょうか。少し歴史が好きなひとであれば、幕末に松下村塾を開き、伊藤博文など後年活躍する人たちを育てた人として知っているでしょう。そしてこの吉田松陰の先生に当たる人が、佐…

1493年から1600年の戦国武将の勢力地図を年次時系列でまとめてみた

これから『戦国武将勢力地図』に従って、各武将の栄枯盛衰の有様を年次時系列にご案内します。これは戦国時代百年の領土支配圏の推移を地図上に表したものです。その領土争奪戦・国取りの歴史をご覧ください。 戦国時代の区分定義について 本稿では戦国時代…

織田信長のルーツについて長文で考察

(1) 織田信長を生んだ尾張織田家の先祖は越前の国の二宮、織田剣神社(福井県丹生郡織田町)の神官であった。剣神社は古く奈良時代以前にさかのぼる神社で、須佐之男尊(素盞嗚尊)と 気比大神、そして仲哀天皇の皇子忍熊王を祀る。その神体の剣は垂仁天…

応仁の乱の西軍大将・山名宗全(山名持豊)の生涯を詳説

山名宗全は応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った人物である。幼名は小次郎といい、名前は持豊という。後に出家して宗全と号した。「赤入道」といわれたように、直情的で親分肌で、勇猛果敢な武将であった。人に助けをもとめられると親…

『老子』を分かりやすく意訳してみた

『老子』は道徳経という2500年前に老子が残した万物万法の究極奥義書。難しいのかと思えばこれまた簡単な言い回しで、しかもたったの5千字である。諸子百家のいずれもがタオの一端を担うような主張をしており、他の教義や学問とは一線を画する。その主張は…

『管子』を分かりやすく意訳してみた

『管子』は管仲という昔の中国の人が書いた政治本。春秋五覇の一人で斉国の宰相。空理空論を避け、徹底した実学で書かれた現実的な内政書。その人心の逆説的な看過手法は大いに学びとるべき能力である。 2000年代になって提唱される数々の最新の政治理論も、…

『韓非子』を分かりやすく意訳してみた

『韓非子』は韓非という昔の中国の人が書いた権謀術数の本。徹底した人間不信の実学思想なので、現代日本においてもいつでもどこでも役に立つ。 孫子兵法は軍事的な本であるが、韓非子は内政的処世的で文官向け。徳治政治は古き良き時代のもので甘いと言い切…

『孫子兵法』の和訳と感想

『孫子の兵法』は権謀術数の書であるが、韓非子とちがって直接的な軍事力行使の方法である。その着眼点は常に鋭く的を射てキモを押さえており、また非情なまでに現実的である。西洋にも兵法書はあるが、これのほうが数枚上手であることはよく知られている。 …

大分県指定遺跡「臼杵城」を紹介

大友宗麟が臼杵湾に突出た丹生島に築いた平山城 古橋口(大手門側)から見た臼杵城跡(うすきじょうあと) 左より時鐘櫓跡石垣、大門櫓(中央・復元櫓)、畳櫓(右端・現存櫓) 臼杵城の歴史 臼杵城が中世城郭として利用され始めた年代は明瞭ではありません…

最後の日本式近世城郭「松前城」を紹介

■北海道唯一の藩である松前藩松前氏の居城。松前は、日本最北の城下町であり、また北海道唯一の城下町。 ■アイヌ民族との幾多の抗争のすえ統一国家の一員として誕生した松前藩は、独自の歴史を繰り広げてきた。 ■米のとれない「無高の藩」ながら漁業権益で繁…

一城別郭の城「高天神城」を紹介

▲標高132mの鶴翁山(かくおうざん)の地形を巧みに生かした戦国時代の山城・高天神(たかてんじん)城跡を望む 高天神城の歴史 高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激…

錦帯橋と岩国城を紹介

■岩国城(山口県岩国市)は、山麓の「御土居(おどい)」と称される居館部分に加え、背後の山頂には詰の城が設けられ、3層4階・物見付の天守が建てられた。 ■錦川を天然の堀とし、岩国市街を見渡す横山(標高216m)にある山城。別名「横山城」 復興天…

浮城として名高い備後国「三原城」を紹介

三原城の歴史 小早川隆景像 ■三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島、小島をつないで築いた城で、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。…

伏見桃山城と桃山御陵の見どころを紹介

伏見城は、天正20年(1592)豊臣秀吉が隠居所として築城し、徳川家康が再興した城。しかし、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和9年(1623)廃城となり、天守や櫓などは全国の城へ分与された。 伏見城の基本情報 別 名 指月(…

浅井氏三代の居城「小谷城」を紹介

小谷城の歴史 小谷城本丸に残る石垣 戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。このため多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」と言われるほ…